ああ思いこう思いして、信子は金曜日の前日になってやっと気持ちを決めた。 「お父さん、わたし、明日の夜、出かけますから」 夕食の後で信子は丈太郎にいった。 「春江さんたちと食事することになって」 「またクラス会か ? 」 「いいえ、この前熱海へ行ったメン・ハーで」 丈太郎はよく聞こうとせずにいった。 「行けばいいだろうーー」 ふり払うようないい方だった。そういうなりテレビをつけた。画面を見て、 「何だ、こいつは」 といった。画面では房のついた帽子をかぶった男が洋式便器に腰をかけて震えている。 「イタイのコワイ : : : イタイのコワイ : : : 」 「何だ、こいつは ? 」 方 翔丈太郎はまたいった。 女「痔のお薬のですよ」 「イタイのコワイ ? クソをする時に痔が痛むのを怖がっているのか ? 」 「そうなんでしよ、多分」 ふる
327 不惑 蜂蜜の蜜になっていたんですって」 「先生の秘密って何かあるのかい ? 」 「鼻を整形してるらしいのね。加納君が気がついたの。なんでもね、鼻の肉づきっていう のかしら : : : とにかく鼻の高さに較べて鼻の穴が小さいの。そういわれれば内田先生の鼻、 びこう そんなんだけど : : : 。鼻孔ってものは鼻の高さに比例してるものだっていうことを加納君 は発見したっていうのよ。テレビで女優やタレントを見てるうちにそのことに気がついた んですって」 「ふーん、そういうものかねえ」 「当たってるかどうかわからないんだけど、とにかく加納君はそう思ったのね : : : あなた、 聞いてるの ? ウッ口にならないでよ」 「聞いてるよ : : : それで吉見もその仲間に人ってるのかい ? 」 「そうなの、活字を見つけて切り抜く役をやったらしいの。うんと叱ってやったわ。今、 泣きながら寝ちゃったけど。だって秘密の密を間違えたのは吉見なのよう ! それで明日、 朝の九時に加納さんの家に集まって協議することになったのよ。まったくこの忙しいのに たまんないわ」 しゃべるに従って興奮していくのはいつもの美保の癖である。 「加納さんはこの際、先生に謝るよりも、反省をしてもらおうっていう意見なの。だいた はちみつ
152 一はそれをやめるわけにはいかないのである。 謙一は松本行きの特急列車に飛び乗った。空席に向かって通路を歩いて行くと、 「やあ」 と声をかけられた。ヒカリ製菓総務部の部長である。 「このたびはご招待有り難う」 「どういたしまして。お忙しい中をおいでいただいて恐縮です」 そういうと部長の前の空席に坐った。 「いやあ、楽しみにしていたんだが、出がけに客がきて遅れちまってね。実をいうと、ぼ くはゴルフよりも今夜の酒盛りを楽しみにしてたんだよ。カラオケ大会もやるんだろう ? しかしその後考えたんだが、カラオケってのは自分が歌うときは楽しいが、人が歌うとき は一向に楽しくないやね。あれは一種の拷問だよ、酒席の残酷物語だよ。ぼくはこの間、 ひぐち 君のところの樋口所長と飲んだ時にそれを痛感したんだ : : : 」 「ははあ : : : 」 努力して謙一は笑った。 「それからぼくは考えたんだ。自分も楽しく人にも面白く聞かせるにはどうすればいいか、 まね それはもの真似カラオケがいいと気がついたんだよ」 「はあ、なるほど、歌手の真似ですか」
: イチニイ、イチニイ・ : ・ : 」 「ではシュッ。、 信子は寝床の中でうつらうつらしながら、その声を聞く。 無邪気というか、熱血型というか、幾つになってもあの人は衰えない、長生きする わ、と思う。それから考えることは、浩介が困っていた十万円の金についてである。 そうは 八月に人ったら、掻爬ではすまなくなるから、十万円では足りなくなると浩介はいって いた。 , 彼のために十万円の金を用意出来ないことはない。定期預金を解約するか、割引債 もちろん 券を売ればよいのである。勿論、丈太郎には内緒である。家計は一切信子に委せ、いった たくわ いどれくらいの蓄えがあるのかも知ろうとしない夫である。内緒にしておくのはむつかし いことではない。 しかしながらこの金は、「貸す」のではなく「与える」ことになってしまうだろう。そ のことも信子はよく考えるべきだと思う。現実に浩介は信子に借金を申し込んできたわけ ではない。困っていると訴えただけだ。貸してほしいといわないということは、返す当て がないからだろう。 そういうところはきちんとしているのよ、浩ちゃんは : 信子はしみじみ浩介をいとしいと思う。誰にも浩介のよさはわからない。浩介が我慢し ているものが信子にはわかるつもりだ。気らくとんぼのようだけれど、本当は寂しがりや。 デリケートな感受性。
「あの連中は人間には心というものがあることを忘れておる。体重と心とどっちが大事な んだ。ふン、肥満が心理に及ぼす悪影響だと ? 肥満が悪影響を及ぼすんじゃなくて、肥 満肥満と騒ぐから本人は気が滅人って元気がなくなるんだ。肥満をまるで罪悪かなんぞの ようにいいおって。なにがロマンチックな正論だ ! 可哀そうなものは可哀そうなんだ。 成人病だと ? そんなものは医者のタワ言だ。肝機能異常か糖尿病か知らんが、なりもせ んうちからそんな心配して何になるんだ。心配だからといって、その心配を照夫に押しつ いしゆく けて、どれだけ萎縮させてるか考えてみろというんだ : : : 」 「あの女の子にそういってやればよかったのに」 信子は皮肉つぼくいった。 「あんな奴に正しい言葉が通じるか」 「ほんとによくしゃべる子ねえ。油紙に火がついたみたいに : : : 。薄い唇で。ヘラ。ヘラと」 「ああいう臆面もない女が増えてるんだ」 「礼儀知らずで。人ってきた時のあの顔、見ました ? 」 「オレはまた男が人っきたのかと思ったよ」 「自信たつぶりで。もう我々には太刀うち出来ないわね」 二人は久しぶりに意気投合して会話が弾む。 「あの女だろう、向かいの浪人が妊娠させたというのは」 おくめん
いつだったか、浩介が信子にいっているのを丈太郎は聞いたことがある。 「カノジョは心配でたまらないの、カレのこと。つまり浮気。カレはもてるしね、決して 嫌いな方じゃないし。それに、あ、ホレ、好きだから上手なれ、っていうでしよ」 「好きこそものの上手なれ ? 」 「あ、そう。それ。だからカノジョは心配でたまんないのね。ぼくや兄貴やばあさんより も、夫の浮気が心配なの」 いやしくも自分の父母である。カノジョとは何だ、カレとは何だ、親のことをまるで小 説の筋書きのように話すとは それをまた信子がたしなめもせず、調子にのって聞いている。 「浩ちゃんも気らくとんぼに見えるけど、ほんとは寂しいのねえ : : : 」 などと深刻ぶっていっている。 今朝も信子は丈太郎にこういった。 「浩ちゃんが毎日、ルーチャンの世話をしにくるのは寂しいからなんだわ : : : 」 「ルーチャン」とは浩介が九官鳥につけた名前である。吉見のク一フスで飼っていた時は 「九チャン」と、素朴に呼んでいたのだ。それを浩介は勝手に「ルーチャン」に替えた。 なにがルーチャンだ : と丈太郎は思う。いったいルーチャンなる名前の根拠は何なのだ ? さび
信子は浩介と別れて家の中に人った。 「ただいま」といったが返事がない。茶の間にも座敷にも丈太郎の姿はない。あるいは二 の 階かと上がってみると、普段は使っていない北側の六畳に、座布団を並べて丈太郎が寝て いいた。 老 「どうしたの ! お父さん ! 」 驚いてそばへ行った。 浩介は元気よくいった。 「あれ、何とかなりそうです」 「都合がついたの ? 」 かす ほっとする筈なのに、徴かに失望のようなものが胸を掠めた。 「こういうことにしたんです。エミのセックスフレンドって、ぼくだけじゃないんだよね。 こやま もう一人、予備校のヤツで、こいつは一浪なんだけど、小山っていうャツがいるの。結局 エミとそいっと三人で話し合って、十万円のうち、ぼくと小山とで三万五千円ずつ、残り はエミがもっことに決めたんです。三万五千円なら何とか。ハイトで稼げるからいいんだけ ど、ただエミがねえ : : : 。辛い思いをするのは自分一人なんだから、三万はキツィってい ざぶとん
110 切り口上に信子は受けた。 「妻とはそういうものかと思って耐えていたんです。でも今になってそれに気がついたっ てことです。気がついたからやり直そうとしてるんです : : : この口惜しさがわかります か ? 」 「やり直す ? どうやり直すんだ ? 」 「主体性をもって生きるんです」 「主体性 ? どういう主体性だ : : : 」 くちご 信子はロ籠もった。それは美保がよくいう言葉だ。この間は春江も盛んにそういってい た。だから今、問いつめられてとっさにいったのだが、更に追及されるとどういえばいい のか、言葉が見つからないのである。 「つまりお前のいう主体性ってやつは、自分のしたいようにするという意味なんだな ? しかしいっておくが、主体的に生きるということは、その前にまず自分の価値観を確立す ることが必要なんだ。お前にそれがあるのかね ? 」 「ですから、これからそれを作るんですよツ」 追い詰められた鶏のように叫んだ時、庭に人影が射した。
「タ飯に間に合わないかもしれませんから、美保さんに頼んでおきましたよ」 それを聞いてはじめて丈太郎は目を妻に向けた。そして思わずいった。 「どうしたんだ、それは : : : 」 「それ」というのは信子の顔、「厚化粧した六十四歳の女の顔」を指している。妻の顔は かって見たこともなかったくらい白く塗られている。唇にはオレンジ色の口紅。その上に 垂れた瞼の下、いつも眠そうな細い目の上に青い色がついている。 あっけ 丈太郎は呆気にとられてしげしげと妻を眺めた。 「どうかしら」 妻はいった。 「なにがだね」 「この服よ、どう ? 」 ちょうちょう 妻の厚化粧に気を取られていたが、服装もいつもと違っている。白地に紫色の蝶々が 飛んでいて、胸もとに妙なヒラヒ一フのついたプ一フウスを着ている。その下のスカートは裾 件の広がった薄紫だ。胸のヒラヒ一フの上に何の材質か、白い玉を連ねたネックレスを垂らし、 一の耳にも同じ白い玉をつけている。 幸「なんだ、それは : : : 」 彼はいった。ほかにいうべき言葉が見つからなかったのである。
「うん、何だ ? 「さっき教えたろ。書けても読めなきやしようがないんだよ」 「晨ナリ難シ、だ。晨はあしたと読む。若い時代は二度とこない。それは一日のうちに朝 がもう一度戻ってこないのと同じである : : : そういう意味だ。わかったね ? 」 「うん」 照夫の頼りない返事にかまわず、丈太郎は大声でテラスのおしゃべりに対抗した。 「時ニ及ンデ当ニ勉励スペシ。歳月ハ人ヲ待タズ : : : わかるかね ? 」 「わかんねえ : : : 」 「わかんねえって君、この前教えただろう ? 」 照夫は首を縮めて頭をかいた。 「むつかしくて : : : なにいってるんだか、何べん聞いても、アタマこんがらがって : : : 」 方 電話が鳴っている。 女しかしテラスにはまた高い楽しそうな笑い声が上がっていて、信子が電話に出る気配が 熟 ない。 丈太郎は電話を黙殺していった。 アシタ マサ