思わず声に出た。今頃、誰が、こんな : : : と思った。この光景は幻ではないのか ? 酒 の酔いか ? 信子はまじまじとその人影を見つめた。いくら深夜とはいえ、タクシーが止まったばか りの道端で男と女が抱擁し合ったままでいるなんて、それは映画の中だけの光景だと思っ ていた。しかし今、紛れもない現実としてそれは目の前にある。幻覚ではない。 ささや 二つの顔が少し動き、「ほーっ」と吐息が流れ、何やら囁き合ったと思うと、また顔は 一つになった。 信子の心臓は高鳴っている。暗がりに目が馴れてきた。男は長身で女は小柄である。男 たわ の首は仰のいた女の顔に向かってしなやかに撓んでいる。横顔は樹木の影に融けこんで暗 い。なんてふしだらな、という思いと、なんて美しい、という思いが交錯した。くぐり戸 の取っ手に手をかけたまま、信子はその動かぬ影から目を逸らすことが出来ないのである。 影法師は漸く離れた。信子の凝視を感じたように男の顔がこちらを向いた。 「あ、おばさん」 こともなげな声がいった。 「こんばんは」 浩介だった。ふり返った女の子もどこかで見かけたことのある顔だ。 「こんばんは」 あお
279 不惑 金森と謙一は上と下で顔を見合わせた。「金森君 ! 」と謙一がいうのと、「あ、代理課 長 ! 」と金森がいうのが同時だった。一瞬、金森の顔に動揺が表れたが、すぐに諦め顔に 降りてきた。謙一が口を開くより早く、 「すみませんー と頭を下げた。 「どうしたの、金森君 : : : 風邪じゃなかったの、君 : : : 」 金森はいった。 「これから出ようと思って、行くところでした」 すっと鼻筋の通った、もっともらしい真顔だった。 「旅行鞄を持ってかい ? 」 謙一はいった。そんなつもりはないのに、穏やかな、親しげないい方になっていた。 「この間から一度、ゆっくり話をしたいと思ってたんだけどね」 金森が案内した喫茶店のポックスで、謙一はロを切った。 「ひとっ率直に、隠さずに打ち明けてくれないか」 金森は薄手のツィードの、仕立てのいい合服を着ている。靴もピカピカに光っている。 旅行鞄はイタリアのプランドものだ。すべてが謙一のよりも上等である。 それはみな女に買ってもらったものかね ? あきら
その時突然、信子の脳裏に何の脈絡もなく丈太郎の顔が浮かんだ。 今頃、丈太郎は何をしているだろう ? いつものあの「クソ面白くもない」という顔でテレビの前に坐っているか、いくら描い てもうまくならない ( と信子は思っている ) 絵を描いているか、それとも習字を教えてい る子供たちの宿題の手直しをしているか・ そう思うと可哀そうなような、小気味のいいような思いが湧いてくる。 「女房は空気のようなのがいい。いるかいないかわからないが、必要欠くべからざるもの として存在している。いなくては困るんだ。これがないと生きていけないんだが、しかし 普段は忘れているーーそれが理想の妻だよ」 忘れもしない丈太郎の、古稀の祝いの席での言葉だ。 「その点、わたしは理想の妻に恵まれて幸せだったと思ってるよ、アハ お父さんには理想の妻かもしれないけど、わたしの人生は理想の人生じゃなかった 件信子はそういいたかったが、しかしいわなかったことを今、改めて思い出した。 のなぜあの時、そういってやらなかったのだろう ? 幸 その時信子の顔は自分でもそうしようと思わずに笑顔になっていた。いいたいことがロ もとまできているようなのに、さてとなると一一一口葉がなかった。 かわい
「タ飯に間に合わないかもしれませんから、美保さんに頼んでおきましたよ」 それを聞いてはじめて丈太郎は目を妻に向けた。そして思わずいった。 「どうしたんだ、それは : : : 」 「それ」というのは信子の顔、「厚化粧した六十四歳の女の顔」を指している。妻の顔は かって見たこともなかったくらい白く塗られている。唇にはオレンジ色の口紅。その上に 垂れた瞼の下、いつも眠そうな細い目の上に青い色がついている。 あっけ 丈太郎は呆気にとられてしげしげと妻を眺めた。 「どうかしら」 妻はいった。 「なにがだね」 「この服よ、どう ? 」 ちょうちょう 妻の厚化粧に気を取られていたが、服装もいつもと違っている。白地に紫色の蝶々が 飛んでいて、胸もとに妙なヒラヒ一フのついたプ一フウスを着ている。その下のスカートは裾 件の広がった薄紫だ。胸のヒラヒ一フの上に何の材質か、白い玉を連ねたネックレスを垂らし、 一の耳にも同じ白い玉をつけている。 幸「なんだ、それは : : : 」 彼はいった。ほかにいうべき言葉が見つからなかったのである。
だがそのことを美保は知らない。毎日の夫婦生活の中に真実は跡かたもなく吸収されて しまった。だからそれでいい。すべてうまくいっている。兼一は美保との結婚を後悔して いない。 「あたしのどこがいけないのか、教えてくれれば改めるつもりなんです。けど訊いても何 もいってくれない。ただいやアな顔するだけで。ゅうべ、もう遅かったんだけど、電話し たんです。そしたらいわれちゃって : 。『うるさいな。風邪ひいて寝てるんだからいい 加減にしてよ』って : : : 」 千加は湧き上がってきた涙を隠すように俯いた。 「でも、あの人、ここんとこ仕事がうまくいってないし、熱が出て気分が悪いんだろうと 思って : : : 今朝、怒られると思ったけど、心配だったからまたかけたんです。そしたらそ れほど機嫌は悪くなくて、今日はどんなに遅くなっても社に顔を出すっていったのに 千加は顔を上げ、強い目で謙一を見つめた。 惑「課長さん、教えて下さい。男の人って、愛していなくても、セックスするものなんでし 不 思わず謙一は千加の目から目を逸らした。答えはわかっている。だが謙一にはいえない。 期女は、男が自分を抱いたことを、愛の証左だと信じこむ。必ずしもそうではないことを、 うつむ
たというあの女の夫に魂あらば、六十四にもなって愛してるのヘチマのと得意げに吹聴し ている妻を見て、無念の涙を流すにちがいない。それをひとりよがりにも、「よかったよ かった、っていってくれてるみたい」とは何だ。 いったい日本はどうなるんだ ! 丈太郎は又してもそう思わずにはいられない。 「こんなことでいいのか ! 」 声に出していった。何もかも腐りかけている。テレビをつけると聞くに耐えぬ娘っ子の キイキイ声が聞こえてくる。男も女もどの顔を見ても若い奴らは皆、ものを考えたことの ない顔だ。その顔で男のくせに舌っ足らずなもののいい方をする奴がいる。それを・ハカ女 どもが「カッワイイ」などといって囃し立てる。それをまたいい年した連中が笑って見て いる。笑って見ているばかりか、一緒になって・ハ力をいって喜んでいる。かと思うと白粉 。ハ・ハアが出て来て、年なんか忘れて大いに楽しもう、若々しく華やかな老後を過ごすには どうすればいいか、などとやっている。 の 今、階下に来ているあの女も、だからしなびた小茄子みたいな面を顧みずして白粉を塗 いり、「アッチが合う」などとロ走っている : 。みんな狂いかけている。向かいの浪人し かり、照夫の姉の生意気女しかり、美保は観念のおばけだ、信子は足が地から舞い上がっ ている。謙一は資本主義の奴隷に甘んじ、吉見はそんな親の子だ。現代社会の繁栄の中に はや おしろい
うの川端家の一一階の窓が開き、上半身裸の若者が両手を上げて大アクビをした。 真向かいの川端家には二人の息子がいる。長男は去年大学を出て、証券会社に勤め、弟 の方は目下浪人中だ。窓を開けて大アクビしたのは弟の方で、濃紺のカーテンが閉ざされ ていたところをみると今まで寝ていたらしい。二浪中だと聞いていたから、昨夜は徹夜で 勉強をしたのかもしれないと丈太郎は思った。 丈太郎は川端家の二人の息子が幼稚園へ行っていた時から知っている。殊に弟の方は人 かわい なっこい性質で、その頃まだ結婚していなかった娘の珠子が可愛がってよく家へ連れてき ていた。行儀のいい、雛人形のような美少年だった。しかし今の彼を美少年といえるかど うか、丈太郎にはわからない。一口にいって彼は「なま白い男」である。色が白いせいも あるが、顔が瓜ざね顔であることが、なま白い印象を強めているといえる。 こうすけ 信子はよく、「お向かいの坊ちゃん、浩介さんの方、役者にしたらいいような男前ねえ」 といっているが、丈太郎は彼が「男前」であるとはどうしても思えないのである。 び「こんにちは」 の丈太郎と目が合うと、朗らかに彼はいった。 熟「やあ」 丈太郎が答えた時、彼の背後に人の気配がして、化粧気のない小さな顔が裸の肩の上か かわばた ひな にが こと
「でなかったらなにもそんなお金、信子さんが心配することないじゃないの。そんなに悩 むのはおかしいわ」 「可哀そうな子なのよう」 「あなたがそう思うだけ。結構楽しくやってるじゃないの、その子」 「楽しそうに見えてるだけ。寂しいのよう」 「ほらほら、それそれ。可哀そうだは惚れたってことよ、ってね」 顔が赧くなっていった自分を思い出すとまた頬が火照ってくる。 「恋じゃないのなら、なにもお節介やくことないわ」 マンションの石段を降りながら春江はいった。 「でも恋なら別よ、十万でも二十万でも出しておやりなさい : 「年を考えてものいってよ、年を」 いい返すのに、春江は笑って手を振っただけだった : 「おばさんーーー」 突然、声が聞こえた。信子はうろたえ、真っ赤になった。斜め向こうの座席に浩介の笑 顔が見えた。 「代わりましよう。こっちへ来て下さい」 「いいのよ、大丈夫 : : : 」 あか
。あの年で信じられな 「とっても気が若いのよ、カレ。気ばかりでなく身体も若いわ・ いくらいよ、アッチのことだって。ウフフ」 以前はこういう話をする人ではなかったのに、と思いながら「そうなの」とくり返す。 「お宅のご主人、おいくっ ? 」 「七十二だけど」 「アッチの方、どう ? 」 「どうって : : : そんなこと : : : 忘れてるわ」 「忘れてる ? どういう意味 ? 」 「いやアねえ、お妙さん」 妙は真面目な顔を崩そうとせず、 「だってこれは大切なことなのよ。信子さん」 改まった声を出した。 「わたし、世間のこと何も知らない女だったでしよう。カレに教えてもらったことは沢山 の あるけど、性の問題についてはほんとうに目を開かされたって感じ」 い信子は返事が出ない。 老 「今まで日本じゃ、老人の性はまるでいやらしいことみたいに隠されてきてたでしよう。 老人になったらもうそんなことは卒業したみたいな顔をしなければいけなかったでしよう。
子は最初の一枚の前に立って目を凝らした。そして二人同時に、 「あらっ ! 」 「まあー 声を上げた。画面にはからみ合う江戸の男女の姿態が描かれているのである。 「いやだ : : : まあ : : : 」 「なんてことなの : : : いやらしい : 慌てて先へ進んだが、そこにも同じような絵が照明を受けている。館内には何人かの人 影が止まったり動いたりしていて、忍び笑いが聞こえる。進んでも進んでも、もつれ合う 椴ううてい 男女の絵ばかりだ。信子は這々の体で外へ出て、一息ついた。 「あんなものを公開するなんて : : : 」 「世の中、狂ってるわ ! 」 信子は顔の汗を拭いた。 「温泉場へ来て、あんなもの見て喜んでるのね、男って」 「でも若い女の子もいたわよ。三人連れが : : : 」 妙も汗を拭く。その二人の後ろから、笑いを顔に残した娘が三人、声高にしゃべりなが ら近づいてきた。 「あのデフォルメが何ともいえないわね」