食べる - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 上
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1. 凪の光景 上

謙一はいった。 「母さん、ぼくもメロン、食べたいな」 「あら」 信子はあっさりいった。 「もうないわ。これでおしまいなの : : : 」 浩介が帰って行くと信子はメロンの皿を持って母家へ行ってしまった。謙一は一人にな おっくう った。のどが渇いて何か飲みたかったが、立って冷蔵庫を捜すのが億劫で、テラスに足を 出して、ぼんやり敷居際に腰をかけていた。 母がメロンを向かいの浩介に食べさせたことへのこだわりを徴かに感じていた。あのメ ロンはずいぶん大きく切ってあった、と思った。昔、謙一が子供の頃はあの半分、いや三 分の一の大きさのものしか食べられなかった。弟の康二や妹の珠子の分と、寸分違わぬ大 きさに切るのに母が苦労していたことを憶えている。 それを宝モノのように一口一口、大切に味わって食べた。早く食べ終えてしまうと、妹 妻 や弟の分がほしくなるので、わざとゆっくり食べたものだ。 あ「早く食えよ」 「そっちこそ」 と弟といい合ったりした。少しずつスプーンで削っていき、これ以上削れないというと 181

2. 凪の光景 上

216 連れてきては、あるたけの食物を食べさせたものだった。菜つばが浮いているだけのふす ま人りスイトン。玉子も砂糖も人らない塩味だけのホットケーキ。炒り大豆。いも飯、か いもくきめし ぼちゃ飯、さつま芋の茎飯。 「どんどん食え、遠慮するなよ」 くじら 心からそういえた。子供たちの胃の腑が鍋のスイトンを鯨のように吸い込むのが、快く うれ 嬉しかったものだ。 「がんばれよ、大きくなって日本を再建するんだぞ ! 」 そういうと、自分の空腹を忘れることが出来た。 しかし今はああ、何という時代だろう。照夫が食べるのを見ながら、丈太郎は少しも嬉 しくない。今はあり余るほど食物がある。それなのに、いやそのために、照夫は空腹と戦 わねばならない。その照夫のためにしてやれることは何か。それは、ただ空腹を満たして やればいいという単純なことではないのである。 照夫は仰のいて、ゴクゴクと。ハックのミルクを飲んでいる。飲み終えて丈太郎を見た。 「うまいか ? もっとほしいか ? 」 「うん : : : いいや : : : 」 照夫の顔は曇った。 「ほしいけど、いい。また太るから」 だいず

3. 凪の光景 上

「ダメよ、少しでも食べなくちゃ」 美保が階段を上がってきて、べッドの謙一を見下ろした。 「じゃあここへ運んであげましようか。病人さん : : : 」 「いいよ、食べたくないんだ」 みそしる そういいながら、ふと味噌汁が飲みたいと思った。 「味噌汁あるかい ? 」 「おみおつけ飲みたいの ? 」 「うん、飯に味噌汁かけて食べよう」 謙一は子供の頃から汁をかけた飯が好きだった。 「まっ、ダメ。お行儀が悪い。汁かけ飯って下品なのよ」 「下品だか何だか知らないけど、それが食べたいんだよ。子供の頃、わけのわからない熱 が出て何も食べられなくなった時、大根の味噌汁を飯にかけて食ったら治っちまったん だ」 「いやアねえ。お父さま、よくお許しになったわね」 おやじ 「親父がそうしろといったんだ : : : 」 あき 「呆れた : : : でもおあいにくさま、おみおつけは作ってないの。キャベツのスープにした

4. 凪の光景 上

234 と向こう向きになった。 「ケチでいうんじゃありません ! お父さんは照夫ちゃんがこれ以上太らないようにと、 毎朝、一所懸命ジョギングさせてるんでしよう ? 照夫ちゃんも痩せたい一心で、辛いの を頑張ってるんでしよう ? それなのにあんなに食べさせるなんて : : : 食べさせる方も食 べさせる方なら、食べる方も食べる方だわ。いったい二人とも何を考えてるのか、それを 知りたいわ。教えて下さい。説明して : : : 」 丈太郎は目を閉じて何もいわない。 「わたし、いったでしよう ? 運動させたらよけいお腹が空いて食べるようになるって。 その通りになってるじゃありませんか。今にあの子はもっと太ってしまうから」 信子は反応を待つように言葉を切ったが、丈太郎はまるで死んだようにビクともしない。 「いやねえ。プが悪くなると死んだふり : : : 」 いらだ 信子の声は苛立って、だんだん高くなる。 「痛いんだよ」 消え人るような声だった。 「大声を出さんでくれ、腰に響く」 「なんですよ、声が腰に響くなんて、聞いたことないわ。頭痛ならともかく」 信子は邪慳に足元の扇風機を消した。 じやけん

5. 凪の光景 上

「でも、ぼくは相撲とりじゃないから : : : 」 照夫は片頬の涙を手のひらで拭いた。 「柔道の山下を見なさい。太っているが世界一の柔道家だ : : : 」 「でも、ぼくは : : : 」 「いちいち、『でもでも』というのはやめなさい。『でも』なんてのは女の子がいうことだ。 男は『でも』といってはいかん。『よしつ』、というんだ。『よしつ、それならオレは横綱 になってやる : : : 』そう思えばいいんだ」 「でも : いや、けど : : : ぼくは」 「要するにだな、そういう心構えになればいいということをいっているんだ。なにも本当 に横綱になれというんじゃない。人間はみなそれぞれ、独自の道を生きればいい、という ことだ。わかるか ? 太る体質の人間が無理に人並みになろうとする必要はない。自分は 何に向いてるかを考えればいいんだ。ものを食べるのにクョクョ太ることを心配しながら 食べるなんて、そんな食べかたをしてもちっとも身にならん」 しか の 「身になっては困るの : : : 今夜、体重が増えてたらぼく、叱られる : : : 」 い「叱られたら大庭先生が食べさせたといえばいい。お母さんが怒ったら先生が会ってやる 老 : さあ、どんどん食べろ」 あの時代ーー戦争に負けて、子供たちが皆空腹を抱えていた時代。丈太郎は生徒を家へ

6. 凪の光景 上

214 いい捨てて信子は台所を出て行った。丈太郎は食。ハンを小脇に挟み、牛乳とハムの皿を 持って座敷へ戻った。照夫はかぼちゃのどんぶりを抱え込んで、一心に食べている。 「どうだ、うまいか」 「うん : : : あ、ハイ」 「遠慮せずに食べなさい。腹が減っては何も出来ん」 「ぼくもそう思う」 「うんと食って、うんと運動して、よく眠り、そして勉強するんだ」 「けど、お母さんは食べるからダメなんだっていうんだ。お姉ちゃんもそういうの。姉ち ゃんはちっとも食べないんです。だから、ぼくが食べるといやらしいっていう。この頃は お父さんまで賛成して、ご飯の時なんか、みんなで監視してる : : : 」 「おじいさんもかい」 「おじいさんはぼくの味方してくれてたけど、母さんや姉ちゃんにやつつけられるもんだ から、何もいわなくなってしまったんです。ご飯の時なんか、雰囲気くらーいの」 はち切れそうな照夫の片頬を涙が伝った。 「太るのが何だ : : : 何が悪い ! 」 丈太郎は照夫を励ますようにいった。 すもう 「太るのが悪いのなら相撲とりはどうなる」 こわき

7. 凪の光景 上

「とにかく風呂に人るよ」 「お食事は ? 」 「まだだけど、食欲がないからいいよ」 「いいよって、いけないわ。お昼は何を上がったの ? 」 「十時ごろにカッサンドを食った」 「それだけ」 「うん」 「いけないわ、何か食べないと。食べたくなくても食べないと : : : 食事は戦力のもとよ」 謙一は浴槽に身体を沈めた。 「ねえ、お肉、ソースであがる ? それとも生姜焼きにします ? 」 はつらっ 美保の声はどんな時でも撥剌としている。 風呂から出ると謙一は真っ直ぐに二階の寝室へ行った。肉を焼く匂いが寝室にも漂って きているが、このまま寝てしまうつもりだった。 妻 せ あ階下から美保が呼んだ。 「支度出来てるわ」 「ぼくは今日はもう寝るよ。飯はいい」 しようが

8. 凪の光景 上

212 「腹が減ってる ? 昼飯は食べてこなかったのか ? 」 「食。ハン一キレと、レタスとイリ玉子」 「それだけか ? 」 「うん : : : いや、ハイ」 「それじゃあ腹がヘるよ。どうしてもっと食べないんだ。腹でもこわしたのかね ? 」 「食べちゃいけないっていうんだよ」 「誰が ? 」 「みんなが・ これ以上太るのをやめないと、アタマがもっと悪くなるって」 「よし、待ってなさい」 丈太郎は立ち上がって台所へ行った。冷蔵庫を開けると、かぼちゃの煮たのが人ってい 「おい、かぼちや食うかい ? 」 いつの間に来たのか、照夫の返事が背中でした。こうして立っと丈太郎は照夫を見上げ る格好になるのである。 「よし、とりあえず、向こうでかぼちやを食ってろ」 もら 丈太郎は更に冷蔵庫の奥を探った。どこからかの貰い物か、紐をかけた手つかずのハム ひも

9. 凪の光景 上

満腹した照夫が元気になって帰って行くのを見送ると、丈太郎は座敷に戻って腕を拱い 「いいんですか ? 」 信子が片づけに人って来ていった。 「こんなに食べさせて : : : 」 さっきの喧嘩の余波が、信子のふくらんだ頬のあたりに残っている。 「小松原さんのところじゃ、それなりの考えがあって食事を制限してるんでしよう。それ を勝手に破ったりしていいんですか ? 」 「育ち盛りが腹をへらして目を廻したんだ。可哀そうだと思わないのか」 「可哀そうかもしれないけれど、あれ以上太ったら、もっと可哀そうでしよう」 だいぶきん 信子はミルクの空箱やかぼちゃのどんぶりを盆に乗せ、台布巾で机を拭いた。 きん 「まあこんなに食べて : : : 食。ハンは一斤近くあったのよ。しかも冷凍したまま : : : なんて 胃袋でしよう ! 」 の 「あの身体じゃ胃袋だって大きいさ」 い「むやみに食べるから大きくなったんじゃないんですか。胃袋も身体も」 老 「あれは運動不足だからいかんのだ。夏休みに人ったらオレがっき合って運動させてやろ う。運動さえすればいくら食っても大丈夫だ」 からだ こまぬ

10. 凪の光景 上

「いいぞいいぞ」 「待ってましたア・ 気力を奮い起こして謙一は歌った。 「飲めといわれて素直に飲んだ 肩を抱かれてその気になった : : : 」 その目に手拍子を打っ樋口所長の上機嫌の顔が見えた。 蓼科高原の六月の朝は寒い。霧の中を謙一は茅野発の一番に間に合うように宿を出た。 かっこう 郭公が鳴いている。 昨日の夜は一時過ぎまで総務部長のものまねカラオケにつき合い、温泉にも人らずに寝 て今朝は五時に起きた。朝食は食べずに寝鎮まった旅館の廊下を、まるで悪事でも働いた ようにこっそり歩いて、下足番もまだ来ていない玄関を出てきたのである。 夜中過ぎの金森の電話では、何の新しい展開も望めそうになかった。新小岩にいるとい 妻 う大田の姉からは何の手掛かりも得られず、埼玉県の狭山市に住んでいる大田の両親は、 せ あ二人一緒に乗っていた車の衝突で人院しているという。金森は今日は朝から狭山市にある し という病院へ行っている筈である。 新宿駅に着くと、謙一は駅ビルで遅い朝食のカッサンドを食べた。食べたくなくても無 ちの