お父さん - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 下
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1. 凪の光景 下

生きてる。でもぼくだけじゃないんだよ。兄貴はエリートだけど、やつばし・ハカみたいだ。 何が面白くて休暇もとらずに働いてるんだろ。おばさん、おばさんは何が楽しい ? 」 「今までは楽しいことって何もなかったわ。だからこれからうんと楽しくしようと思って るのよ」 「楽しくするって、どうするの ? 」 「まず、家を出るのよ。離婚する : : : 」 浩介は大きく目を開けて信子を見た。 「おばさんも思いきったジョーダンいうねえ」 「冗談じゃないわ。本当よ。一人になってこれからしたいことをするのよ。したいこと何 もしてこなかったから、これからいつばいするの」 「ほんとなの、ヘーええ」 浩介はあっさりいった。 「でもほんとだとしたら、可哀そうだな。おじさん : : : 」 「おじさん ? 主人のこと ? どうして ? 」 「どうしてって : : : あの人、何となく可哀そうなんだもの。ひとりで頑張って何かいって かたき るんだけど、誰も耳を傾けないのね。ぼくのこと目の仇にしてるみたいだけど、ぼく、イ

2. 凪の光景 下

「羈鳥ハ旧林ヲ恋イ 池魚ハ故淵プ思ウ 荒ヲ南野ノ際ニ開カントシ 拙ヲ守リテ園田ニ帰ル : : : 」 とうえんめい 陶淵明の詩が自然に唇にのぼってきた。 しかしオレには帰るべき故郷、耕す土地はどこにもない。仕方なく都会の一隅にしがみ ついて、いったい何に向かって生きているのかと自問すれば、死に向かっているという答 えが返ってくるだけである。 「お父さん、いいですか」 声に気がついた。いつの間にか謙一が目の前に立っていた。 「何だ、まあ坐れ」 謙一は炬燵のスイッチを人れ、寒そうにまわりを見廻した。 「お母さんはいっ帰るんです ? 」 迷「知らんよ。そのうち帰るだろう」 「お父さん : : : 」 謙一は正座した膝に両腕を立てて頭を垂れた。 「申しわけありません。美保と離婚することになりました : : : 」 キチョウ こたっ ひざ

3. 凪の光景 下

ている。朝まで謙一が帰らなかったことについて、それらしいいいわけを考える面倒もな く、誰に気兼ねすることもない。こんなチャンスは滅多にないのである。 ふと気がつくと、メニューから目を上げた千加が、上目遣いのまま近々と謙一を見つめ ていた。 「今夜の課長さん、すてき」 と千加はいった。 食事を終えた後はいつも、六本木の繁華街から麻布へかけての人気のない高級住宅地を わきばら 歩くことにしている。千加は謙一にしがみつくように腕を廻し、脇腹に頭をもたせかけて 歩く。歩きながら父のこと、母のこと、祖母のこと、弟のこと、大のこと、とめどもなく たわい 他愛ない話をする。うちのお父さんは頑固を売りものにしているの。手作りのお菓子だけ げんか を売るものだから、儲けが少ないといってお母さんが怒るの。夫婦喧嘩のもとはいつもそ のこと、などという話を聞くのが謙一は楽しい。 「金森さん、どうしているかしら ? 」 歩きながらふと思い出したように千加はいった。 「あたしのことなんかもう忘れて、金持ちの奥さんと楽しくやってるのかな ? 」 自分を捨てた男のことを、こんな時になぜ話すのか、謙一には千加がわからない。 「あたしが課長さんとこんなになってるってこと、知らせてやりたいわ : : : でも、金森さ

4. 凪の光景 下

同時に大粒の涙がポロポロと転げ落ちた。「奥さんと離婚してほしいなんていわないか ら」といっていたのは、千加の精一杯のツツ。ハリだったのだ。 「うれしい ! じゃあ、もしかしたら、結婚出来る ? 」 「うん、でもまだ先のことだよ。結婚たって、ぼくと千加と二人だけの問題じゃないんだ から。ぼくの家族の中に人ってくるんだからね。おふくろもいるし子供もいる。それでも 千加は大丈夫かな」 「うん、大丈夫。あたしって子供好きなの。特に男の子が好き。おばあちゃん子だったか 。あーあ、よかった。これでお父さんもお母さんも安 ら、お年寄りとも気が合うのよ : 心するわ。会社の連中、びつくりするでしようねえ。あーあ、うれしい。金森さんの子供 だったなんて思われてるの、シャクだもん : : : 」 千加は美保との離婚に至るいきさつを訊こうとしない。「奥さんに悪いわね」と一言い っただけだった。その他愛なさが、やがては負担になる時がくるだろう。しかし千加のそ の他愛なさを思うことによって、今の謙一は美保から受けた敗北感に耐えるのである。 いつもの散歩道は今、夜が明けたばかりである。薄墨色に凍てついていた住宅街の屋根 や樹木が少しずつ光りはじめて、重たげに漂っていた靄が消えていく。刺すような冷たさ をかき分けるようにして丈太郎は歩いていた。 もや

5. 凪の光景 下

195 探春 きペんろう くも人間なんだ。わかる ? お父さん」 「家族のために己を殺してきた。それが耐え難いからといって女と浮気をするというのか。 詭弁を弄するな ! 」 こぶし 丈太郎は拳を固めて立ち上がった。 丈太郎が立ち上がったので、謙一も立った。 「お父さん、いっとくけどお父さんのいってることはすべて空論だよ。今は通用しない 「なにツ ! 」 懊が開いて信子が走り込んできた。 「お父さん、やめて下さい、お父さんー 二人の間に割り込んで、立ちはだかった。 「謙一だって人間ですよ。人間だから間違いもするわ。お父さんみたいに人間離れしてる 人にはわからないのよ。人間の弱さが」 「なにツ、なにが人間離れだ。女に何がわかる ! 」 「いいから謙一、行って寝なさい」 「そうします。おやすみ : : : 」 そむ 謙一は丈太郎から顔を背けて茶の間を出て行った。信子は炬燵に人り、廊下で立ち聞き ふすま

6. 凪の光景 下

をしていたために冷えた足を温めた。 「お父さん」 改めて呼びかけた。 「お父さんも気の毒な人ですねえ。あんまり頑固だとだんだん、皆が離れていきますよ。 謙一はいい息子よ。申し分ない息子だわ。それがわからないんだから、お父さんは」 「オレはいい息子かどうかをいっているんじゃない、人間としての生き方をいってるだけ だ。女にはわからん」 「わたし、今、向こうで聞いてて、つくづく思ったわ。お父さんは意識改革をしなければ どうにもならなくなって孤立するだけよ」 つぐ 丈太郎は横を向いて口を噤んだ。 お前たちに何がわかる、と思った。何かというと息子は、お父さんの時代と現代と は違うという。それは激動の時代だったかもしれないけれど、その分、自分の力を恃んで 生きる自由、社会的なゆとりがあった、などという。 しゆっけ 日本が戦いに敗れた時、丈太郎が本気で出家を考えたことを信子は知らない。それまで 丈太郎が子供たちに教えてきた国家精神、日本の国体、歴史の誇り、それらはみな間違っ ていたのだといってすませることは死ぬよりも辛かった。七十二年の人生の中には、死ん だ方がましだと思ったことがゴロゴロしている。大日本帝国を守るために死んでこいとい たの

7. 凪の光景 下

167 探春 「そんなこといったって、それが謙一の仕事なんだもの。祭日も日曜もなく一所懸命に働 いて、そこそこの暮らしが出来るようになっても美保さんは仕事をやめない。謙一がヘト へトになって帰ってきても、家庭は息ぬきの場じゃないんですよ。インスタントのハン・ハ ーグやカレーを食べさせられて、お茶は自分でいれる。美保さんの友達や仕事の打ち合わ せで人が来ると、謙一は寝室で寝転がってるよりしようがない : 「それが不服ならやめさせればいいんだ」 「ですからね、それが謙一の優しさなんですよ。お父さんと違うところなのよ。お父さん は何でも簡単なの。男が『やめろ』といえばそれですむ世の中を生きてきたんですよ。で も謙一はちがうわ」 「意志薄弱だから出来ないんだ」 「そうじゃないですよ。男と女は平等だという基本精神をきちんと身につけてるからです よ。お父さんみたいに男は女よりも偉いんだなんて思ってないんだから。お父さんとちが ってきちんと妻の権利を認めてるんです」 「権利を認めてコソコソ浮気してれば世話はない」 「謙一だって人間ですよ。息ぬきがほしくなるのは当然でしよう ? 外へ出て我慢、家へ 帰って我慢じやたまらないわ」 「お前は謙一の浮気を容認するのか」

8. 凪の光景 下

「それはねえ、わたしにいわせると美保さんの責任ですよ」 「夫に浮気をされる苦しみを味わったことがないから、お前はそういうことがいえるん だ」 「お父さんは、何でもいいなりになってきたわたしという奥さんがいたから、謙一の気持 ちがわからないんですよ。お父さんはいったい、どんな我慢をしてきました ? 遠慮はい りません、いって下さい」 信子は正面から丈太郎の顔に目を据えている。丈太郎はロ籠もった。 「我慢 ? 我慢はオレだってしてきたよ」 「どんな我慢です ? 」 「そんなことを、今になっていうことはない。昔の我慢をあれこれいうのは女のすること だ」 「お父さんはすぐ、そういういい方でごま化すんだから : : : 」 くや 信子は口惜しさで胸が慄える。 「ごま化しはせんよ。人間が生きる上に我慢はっきものだ。我慢のない人生なんて薬味な しでそばを食うようなものだ。人間だから我慢しなくてはいけない。猿だから我慢しなく ても許される」 「謙一は我慢しましたよ。でも謙一の我慢にも限度があったんだわ。それこそ人間だから くちご

9. 凪の光景 下

用意していたわけではないのに、気がつくとそういっていた。丈太郎は耳を疑うという ように信子を見つめている。信子はそ知らぬ顔でテレビのスイッチに手を伸ばした。 「何だ、その返事は ! 」 丈太郎の声に怒気が籠もった。 「何が気に人らないんだ、いったい : 信子はテレビを見つめたまま、ロを結んでいる。やがて改まっていった。 「教えて下さい。お父さんの用事をなぜ、いつもいつもわたしがしなければならないのか、 教えて下さい。手を伸ばせばお茶盆もポットもあるのに、お父さんはわたしを呼んで『お 茶』っていうでしよう ? あれはなぜなんですか ? 」 丈太郎はロをもぐもぐさせて信子を見つめるばかりである。 「ここんとこ、ずーっと考えてきたんです。今もリンゴを剥きながら思ってたの。なぜわ たしはリンゴを剥くのかしら、って。お父さんがわたしのためにリンゴを剥いてくれたこ とはいっぺんもなかったんですから」 春「そんなことをグダグダいってる場合じゃないんだ ! 」 丈太郎は真っ赤になって怒鳴った。 探 「謙一が何をしてると思う ! 女がいるんだぞ ! 」 信子には何のことやら、さつばりわからない。謙一に女がいる ? 女って何なの ? そ

10. 凪の光景 下

に示されているということになろうか。一見、丈太郎の言動は、己れの過去を讃美し、価 値観の転倒してしまった現在を否定している様に見受けられるが、それは違う。丈太郎の 認識は、昔は良かった等というたわごとは、これから素晴らしい末来がありますよ、とい うのと同じくらい嘘つばちであるということ、つまりは、彼の過去の一つ一つが、今とい う時の流れに対する真摯な対決であったことを主張することに由来しており、それが、い かなる現状にも怯まぬ不動のカ ( 本書でいえば、結末近くの、過疎の村の寺に部屋を借りて 寺子屋を開くことへの決意 ) を生み出しているのである。そして、丈太郎の信念のあり方 は、しばしば、「時代がねえ : : : ちがいますよ、戦争に負けたばかりのあの時と今と比較 するなんて : : : 」「お父さんのいうことはよくわかりますよ。しかしお父さんが生きてき た時代と違うんだ、今は」「だってお父さんを見ていると、なんかこう、一人浮き上って るっていうのかしら、とり残されてるっていうのかしら、時代に順応出来なくて一人で怒 ってるでしよ」 等という、信子の、謙一の、そして美保の言葉と対置される。だが、一方で丈太郎は、 己れの言動を時代のせいにしたり、時代の違いを隠れ蓑に使ったりすることは一度たりと 説もなかったのではないのか。むしろ、その違いを堂々と主張することによって人生を歩ん で来たのだ。反面、大庭家のこの一年にわたる様々な出来事は、そうした違いや溝をお為 解 ごかしの日常によって糊塗して来たことによって生じているのである。 丈太郎の属する世代の今一つの鏡である妻信子、千加の若さが重荷になると知りつつも しんし