216 謙一は今になって、自分がどうにもならぬ泥沼に足を踏み人れたことに気がついた。そ おのれもろ れが泥沼であることを謙一に悟らせたのは父である。己の脆さ、いい加減さ、無思慮を謙 一は父によって思い知らされた。 だが、だからといって、今、千加と別れる気持ちにはなれないのである。別れなければ ならない、と思わなければいけないのだろうが、思えない。 今の女はお父さんが思っているような女とは違うんだ : そういいたかった。だがそれを父にわからせることは不可能だった。父は女というもの を、常に受け身で弱いものだと思い決めている。女は弱い。だから男は女を守ってやらね ばならんのだ、と謙一は中学生の頃によくいわれた。「女を虐める奴は男のクズだ」と。 しかし今は女はもう、弱くはないのである。受け身でもない。男に守ってもらいたいな どとは思っていない。男に庇護されなくても生きていけるようになりたいと思っている女 が増えているのだ。千加もその一人だ。 ひど やっ
その日から一週間経った。 浩介はあれきり姿を見せない。 なぜ浩介は来ないのか。信子はそればかりを考えている。 浩介はあの時の信子が思わず見せてしまった不機嫌に腹を立てたのだろうか ? 信子を怒らせてしまったと思って、敷居が高くなったのだろうか ? それとも鳥取へ行った分を取り戻そうと勉強をしているのか ? 札幌から母親が帰ってきたために、羽を伸ばせなくなったのか ? それとも女編集長のトリコになったのか ? 年増女の性のテクニックが男をトリコにした、という話をいっか、何かで読んだような 気がする。美人は男からサービスされることに馴れているから、サービス精神がない。だ が不美人はサービスしなければ男が相手にしてくれないから、必然的にサービスがいい、 女は不美人に限る、というようなこともどこかで聞いたような気がする。 それに女編集長はマスコミなどで「独身貴族」と囃している人種だろう。フランス料理 嵐 ならどこそこ、京料理ならあすこと、贅沢な料亭やレスト一フンに出人りしている人にちが いしよう の いない。馬子にも衣裳というから、ファッションも目がくらむような最先端。女の身で編 冬 集長にまでなる人だから、頭もいいに決まっている・ 目が醒めてから眠りにつくまで、そんな思いのあれこれが交錯して、信子は気力を失った。 ぜいたく はや
「やあ、奥さん」 といった。 「奥さんはだんだん若返るなあ。だんだん色つぼくなっていく。何かいいことでもあるん ですかな、アハハ」 「なにをおっしやるかと思ったら : : : 」 信子は取り合わずにお茶だけ置くと、さっさと引っ込んで行った。 みやたみち 「女というのは気持ちがすぐ肉体に出るんだってね。ほら、宮田美知っているだろう。女 の評論家で美人が。あの人は六十くらいだと思ってたら、もう七十八にもなってるんだと さ。その宮田美知は自分のまわりに、お若いですね、きれいですね、という男しか置かな いといってるんだそうだ」 「いう方はさぞかしたいへんだろうな」 丈太郎は投げやりにいって、お茶を飲んだ。 がいこっ 「なにもそんなにまでして美人でいる必要はないだろう。何のかのいってもやがては骸骨 春だ」 「そういってしまえば身も蓋もないさ」 探 良平は丈太郎の不機嫌を気に止めず、 「その会で結ばれた男と女が五組、花束を貰ったんだが、最高齢は八十三だよ。女は七十 ふた もら
「今はね、大庭さん。健康でありさえすれば、女にできるちょっとした仕事はいくらでも あるんだ。ところが男にはない。共働きの若夫婦のマンションで、赤ん坊の面倒をみなが ら留守番している、なんて仕事は男には出来んだろ ? するといっても雇い手はいない さ」 「だが、家庭を捨てて他人の赤ん坊の面倒みたってしようがなかろう」 「そう思うだろう ? ところが、そうじゃないんだよ。少なくともその方には自由がある、 ってわけさ」 「なに、自由 ? くだらんな」 「そうさ。我々はくだらん自由だと思うが、女はそう思わないんだ。時間から時間まで働 けば、あとは自分一人の自由な時間なんだな」 「家庭にいれば全部、自分の時間だろうよ」 「ところが女はそうは思わないんだよ。飯の支度、掃除、洗濯。自分一人で暮らしたって やらなくちゃならんことなんだが、長年の間に夫にやらされている、義務を押しつけられ のろ ていると感じるようになっているんだな。だから結婚生活を呪っている」 「だから女という奴は度し難いんだ」 「つまりね、わしがいうのは、あんたはそういっていられるだけ幸福だというんだよ。わ しは老人会へ行って、いやというほどそれをわからされた。昔の後家さんが再婚したのは、 がた
191 探春 謙一にわかっていることは、千加が謙一を必要とする限り、千加に惹き寄せられていく 自分をどうすることも出来ないということだった。 千加を愛しているのかと訊かれると、即座にはいえないにしても、やはり愛していると 答えずにはいられない。千加はいつも謙一を見つめ、求めている。千加の頭の中は謙一で いつばいである。年末の多忙さの合間にそんな視線や言葉に出合うと、温かな幸福感が身 体に湧きひろがる。自分の存在がそれほどまでに一人の女に力を持っているのかと思うと、 今までになかった新しい力が湧いてくるようだ。 「あたし達は対等よね ? 」 と若い美保がいったことを謙一は憶えている。 「あたしはケンイチが好きだけど、だからといって隷属はしないわよ」 ほくもそういう女は好みじゃない、と。 当然だよ、と謙一も答えたものだった。・ あの時は本当にそう思っていたのだ。美保は合理主義者で頭がよく、恋人として極めて 快適な女だった。 「お互い、のめり込まないタチだからうまくいってるのね、あたしたち」 といったことがあった。結婚して二年目か三年目の頃だ。 そうめい 「あなたを選んだことは、あたしが聡明な女だっていう証拠ですってよ」 と笑っていったこともあった。
あこが 老人が若さに憧れ、若い恋人を持ちたいと思うことを決して恥じてはならない。そ れは老いた人間の極めて自然な、健康な欲求であり、正当な権利である・ そら 信子はいっか丸見峯朗の講演メモの、今はすっかり諳んじてしまった箇所を思い出して いた。 日本では老い枯れて行くのを美徳のように思っているが、それは大きな間違いです お父さんは勝手にしゃべっていればいい。わたしはわたしで考えるわ : 「今は何かというと思いやり、気くばりだ。念仏みたいに、優しさだ思いやりだといって いるうちに、日本人はまことの優しさを失った。いいか、ここが大事なところなんだぞ。 優しさがなくなったから、思いやりや気配りをうるさくいうようになったんじゃない。思 いやり気配りをあまり煩くいうものだから、本当の優しさが出てこなくなった。観念が、 自然な心を抑えつけてる。それがお前にわかるか」 信子はお義理に「さあ ? 」と答えて横を向く。この人に優しさについていう資格がある のか、と思っている。 「女を女といってはいかん、女性といわなきゃいかんといった女教師がいたが、ろくな奴 じゃなかったな。どうでもいいことにこだわっていると、大事なことは何かが見えなくな もちろん るんだ。女と呼ぶのは蔑視だという。では男といういい方はどうなんだ、そういうと勿論、 うるさ べっし
103 冬の嵐 「なかなか一家言ある女じゃないか」 丈太郎は黙りこんでいる良平の気持ちを引き立てるようにいった。 「しかし、いってることは一理あるな。真剣に生きてる人だよ」 「あんたと気が合うんじゃないか」 良平は気のない声でいい、 「ああ真剣勝負で迫られたらかなわないな」 「しかし生活に活気が出るぞ」 「活気か : : : しかしこの年になって、活気がありすぎるのもなあ : : : 」 「あれくらいの活気がないと、あんたんところの家族と太刀うち出来ないだろう」 「それはいえるな。しかし、も少し何とかなあ : : : あれじゃあ女のような気がしないもの なア : しばら 良平は暫く考え込んでいてから呟いた。 「あの女は男とやったことあるのかね」 丈太郎は思わず良平を見た。 「処女なのかな」 「そんなこと、どうだっていいじゃないか。処女ならどうだというんだね」 「いやね、ただどうなんだろうと思ってね。あの顔見て、興味を感じないか ? 」
「どうしたんだね、やたら忙しそうじゃないか」 「それより、あんたこそどうしたんだ。陽の高いうちからもう飲んでるのか」 「ああ、飲んでる : : : 飲んでるよ。いけないか ? 」 「いけなかないが」 いいながら腰高障子に「せんだ」とあるのを見て気がついた。 「ここかね、花屋の女がよく来るという店は」 「そうだ」 良平は二、三歩よろよろと歩き、 「あの女はダメだったよ : : : 」 ひとごとのようにいったが、目は泣くように笑っている。 「ところであんたがこんなところを歩いてるなんて珍しいじゃないか」 「うん、いや、ちょっとね」 丈太郎はごま化した。 「今、花屋の女を見てきたが、ありやよくない。ダメでよかったよ、良平さん」 「ああ」 うなず 良平はカなく肯き、 おやじ 「焼きとり屋の親爺にそれとなく聞いたんだがね、三年前にタ・ハコ屋の後妻に人ったんだ
150 そんなことを聞くと、「こいつは家庭向きではないな」と丈太郎は思うが、とりあえず どんな女か、様子を見に来たのである。 まゆげ 花屋の女は色白で太っている。化粧した唇がぼってりと赤い。眉毛を黒々と描いてどう すそ いうわけか眉を長く上へ向けて伸ばしている。 オレならごめんこうむるな : そう思いながらクリスマスツリーの素描の横に、裾の開いた緑色のスカートに包まれた 女の太い胴まわりから尻へかけての線を描いていると、その横に小柄な娘が立っているの が目に人った。娘は襟に申しわけほどの白い毛皮のついた赤いコートを着て、視線を花に 落としている。どこかで見たことのある娘だと思っているうちに、突然、思い出した。謙 一の、あの娘だった。 こんな所でなにをしているんだ ? にら 丈太郎の目は娘を睨む。娘は肩に掛けた黒い小さな・ハッグから財布を取り出した。花を 買うつもりだが迷っているらしい。赤い花を指さし、花屋の女に何かいって考えている。 値段が高過ぎるのかもしれない。少し動いてまだ考えている。それから腕時計を見て、花 は買わずにデ。ハート の中へ人って行った。人ったところの赤電話を使っているのが、ガラ ス越しに見える。 謙一を電話で呼び出しているのか ? しり
163 探春 「二人でどこへ行ったんでしよう ? 」 「そんなこと、オレが知るか。だから謙一が帰ってるかどうか見てこいといってるんだ」 信子は柱時計を見上げた。時計は九時近い。立って庭へ出て行ったが、すぐに戻ってき こ 0 「いないようだわ。美保さんが一人でアクビしてたわ」 お 信子は緊張して頬を引きつらせている。 「どんな女ですか、その女の人って」 はたち 「つまらん小娘だ。二十くらいの」 「どこで知り合ったのかしら : : : 」 「会社の事務員かなんかじゃないのか」 「毎日、会社で会ってるのに日曜日にも会いにくるんですか。ここまで : : : 」 いき 信子は溜め息をついていった。 「燃え上がってるのね : : : ただの浮気じゃないのね : : : 」 十一時前に謙一は家へ帰ってきた。 我が家から一キロも離れていないところのホテルに、女と人った自分の大胆さに自分で 驚いていた。千加にのめり込んでいくのは千加の肉体の珍しさなのか、千加の性格の他愛