をしていたために冷えた足を温めた。 「お父さん」 改めて呼びかけた。 「お父さんも気の毒な人ですねえ。あんまり頑固だとだんだん、皆が離れていきますよ。 謙一はいい息子よ。申し分ない息子だわ。それがわからないんだから、お父さんは」 「オレはいい息子かどうかをいっているんじゃない、人間としての生き方をいってるだけ だ。女にはわからん」 「わたし、今、向こうで聞いてて、つくづく思ったわ。お父さんは意識改革をしなければ どうにもならなくなって孤立するだけよ」 つぐ 丈太郎は横を向いて口を噤んだ。 お前たちに何がわかる、と思った。何かというと息子は、お父さんの時代と現代と は違うという。それは激動の時代だったかもしれないけれど、その分、自分の力を恃んで 生きる自由、社会的なゆとりがあった、などという。 しゆっけ 日本が戦いに敗れた時、丈太郎が本気で出家を考えたことを信子は知らない。それまで 丈太郎が子供たちに教えてきた国家精神、日本の国体、歴史の誇り、それらはみな間違っ ていたのだといってすませることは死ぬよりも辛かった。七十二年の人生の中には、死ん だ方がましだと思ったことがゴロゴロしている。大日本帝国を守るために死んでこいとい たの
十二月に人ったばかりなのに、商店街はもう歳末の売り出しを始めている。信子がどこ ちょう かへ出かけて行ったので ( この頃信子は行き先をいわずに出て行く ) 丈太郎は写生帖を抱 えて歳末のスケッチに出かけた。商店街の中ほどに五階建ての小デ。ハートがある。その向 かい側のコーヒー店の前に立って、クリスマスの飾りつけをしたデ。ハートをスケッチしな がら、人り口に店を出している花屋を観察していた。 花屋の女はこの秋、還暦を迎えた独り者である。二十年ばかり前に夫と別れて女手で娘 と息子を育ててきた。今は息子も娘も結婚して孫も何人かいる。しかし彼女は一緒に住も うという誘いを断って、この近くのア。ハートで一人暮らしをしている。気さくで陽気なた 春ちだし、年よりも五つ六つは若く見えるから小松原さんの気に人るだろうと、カメラ屋の しら 石塚が報せてきた。時々、石塚が行く焼き鳥屋の「せんだ」で酒を飲んでいて、話しかけ 探 れば気軽に答えるので、結婚をする気はないかといってみると、いい人がいたらね、と笑 ったという。 探春
老人を、何といって励ませばいいのか丈太郎にはわからない。仕方なく丈太郎は叫んだ。 「とにかく後妻を捜そう、後妻だ ! おい、ばあさん、お前の友達で後家さんがいるだろ う ? 」 丈太郎は景気をつけるための大声を出した。 「どうだ、良平さんにいい人いないか ? 」 「さあ ? 」 信子は台所から出てきて敷居際に坐った。 なにいってるの、この人、と思っている。 「女は男よりも長命だから、後家さんはいつばいいる筈なんだ」 「いるかもしれないけれど、でも再婚する人っているかしら。みんな結構、楽しくやって ますからねえ : : : 」 「そういっても中には寂しい人がいるだろう。息子や娘がいても、昔のようなわけにはい 抗かないんだから」 の「この頃は年寄りも賢くなりましたのよ。息子や孫に頼ろうと思うから失望したり怒った 四りしなくちゃならない。はじめから頼ろうなんて思わなければいいんだってことがわかっ 六たんですのよ。家族ってものに対する考え方を変えればいいんだ、って、クラス会 ( 行っ てもみんなそういってます。子供にお金を遺すことなんか考えないで、自分のために使っ のこ
159 探春 日曜日の団欒のために夫の帰りを待っている妻の姿だ。可哀そうに。何も知らずに平和 を信じている妻と子供。 どんなことがあっても、息子とあの娘との関係はオレが阻止するぞ、と丈太郎は思った。 謙一がいうことを聞かなければ殴ってやる。それでも聞かなければ勘当だ。謙一をこの家 から追い出してでも、美保と吉見はオレと信子で守らなくてはいけない。気に人っている いないは別として、この家に嫁として迎えた美保への、舅としての責任だ。 丈太郎はふり返って信子を見た。 「どうしたんだ。気分でも悪いのか ? 」 「いいえ : : : べつに : : : 」 「元気がないじゃないか。え ? 」 どうしてこんな時に限って、優しいことをいうのだろう、この人は。 信子はさっきから、「お父さん、わたし達、別れましようか」という一一一〕葉を口の中で転 がしていたのである。 言葉の少ないタ食だった。信子は丈太郎との別れ話を思い、丈太郎は謙一のことを考え ている。 「うまいな、このカマスは」 だんらん しゅうと
ない。その深いわけの第一は、妻に落ち度がある場合、次がその男が特別に自堕落な人間 であるためだと思い決めていた。だから信子はひたすら丈太郎に従い尽くしたのである。 こた 当然、丈太郎もそんな信子の努力に応えた。二人は固い信頼で結ばれてきたのだ。 だんな 「もしもし、美保さん。あなたの旦那さんは昨夜はマージャンに負けて帰ってこなかった のよ : : : 」 謙一と電話を代わった信子が、はしゃいだ調子でいっている。 「美保さんがいないとうちへ帰る気がしないらしいわ、謙一は」 謙一は無表情に、信子に代わって鍋に肉を人れている。 「吉見、肉をおあがり。煮えてるよ」 「ぼく、肉はいらないよ。シラタキがいい」 「さっきからシ一フタキばっかり食べてるじゃないか。肉も食べなさい」 父親らしく肉を取ってやる。そのもっともらしい横顔を見ていると、丈太郎は「あの女 は何なんだ」といいたくなる。 この男は : : : と丈太郎は息子を他人のように見ながら思った。あんな小娘を手にか けていったいどうするつもりなんだろう。見たところあどけない純真そうな娘だった。商 売女ならいざ知らず、四十にもなった男が素人の娘さんをキズモノにするとはどういう気 なんだ : ゅうべ
「信子さん、孫にかまけてもとの木阿弥にならないでね」 と春江にいわれて信子はギクリとした。 「大丈夫よ。主人がいなくなるだけでも鼻先が開けたわ。謙一が再婚するまでの辛抱よ。 孫は捨てられないもの」 「告ちゃんどうしてる ? あれから : : : 」 「知らないわ、あんな子のことなんか」 春江はからかうようにいった。 「あなたはやつばり古いわ。若い男にいい寄られて怒るなんて。向こうは面喰らってるで しようよ」 そんなことはもう、どうでもよかった。それよりも日一日と深まる頼りなさに信子は耐 えかねている。 二、三日降りつづいていた春雨がやみ、濡れた樹々にオレンジ色の朝陽が漂っている美 わず しい朝だ。この道を散歩するのもあと僅かだと思いながら、丈太郎は歩いていた。 良平はスミにつき添われて、病院から静岡県のリハビリ専門の温泉病院へ移った。もう これで気にかかることは何もない。いや、本当をいえば何もないわけではなく、妻のこと、 孫のこと、やがて来る謙一の新しい妻のこと、出て行った美保のこと、照夫のこと、それ うそ から向かいのノラクラ息子のことも気にかからないといったら嘘になる。そればかりでな はるさめ もくあみ
113 冬の嵐 「ああ、疲れたなあ : : : 」 と握り拳を作って左の肩を打っている。 オレは抑制した。しかし今は抑制は美徳ではなくなった。今は欲望に身を任せるこ とを人間らしさだといって容認する。「人間だから、人間だから」といって乱倫の徒がは きようし びこってきた。不貞や無節操が人間だからといって許容されている。今のやつらには矜持 というものがない : 丈太郎は彼に背を見せて部屋を出て行こうとしている息子を見上げた。憤怒が湧き上が ってきた。 なにが疲れたなあだ : そう叫び出したいのを丈太郎は抑えた。 なんきっ 謙一を難詰したいが、信子に悟られてはならない。信子に知れると美保に伝わるだろう。 まったく、女という奴は厄介なシロモノだからな、と丈太郎は思った。こういう問題を女 が知ると、事態は必ず紛糾する。十分で話がすむことがあちこちに飛び火して、一か月も かかってしまう。 今、信子は吉見を引き据えて、残したご飯を無理やり食べさせようと目を怒らせて頑張 はまぐり っている。ご飯にお茶をかけてしぐれ蛤を入れ、「さらさらっとかきこみなさい」とい っている。
あんた、独り身がよくないよ。後妻を捜そう」 我ながら何という情けないことをいっているんだろう、と思いながらいっていた。 「そうすれば元気が出るよ。家内に捜させよう。なに、いくらでもいるさ。醜妻悪妻も空 房にまさると蘇東坡もいってるしな」 丈太郎は無理に大声で笑ったが、良平は笑わない。 その夜、丈太郎は信子にいった。 「小松原に後妻を捜してやりたいんだけどな。お前の友達にいないかね」 信子はつけていた家計簿から顔を上げ、老眼鏡をずらした。 「小松原さん ? 奥さんがほしくなったの ? 」 「あの男は趣味人だし、穏やかな男だし、資産もあるし、健康だし、条件は揃ってると思 うよ」 抗「そうねえ : : : でも無理ね」 の簡単にいってのけた。 四「今はねえ、資産があるなんていっても、好条件の中に人らないんですよ。この前も春江 さんがいってたけど、資産家ってのはみんなドケチですって。それに息子やおョメさんが いる、孫もいる、じゃ、たいへんでしよう。資産はあっても、使えないお金じゃしようが そとうば はるえ
なお 1 ノ、 、黒子でいることに満足もせずに死んでどうなるというのですか。私の老いて尚、性を 楽しもうという勧めは、堂々と人生を生きようという提言なのであります。・ : ・ : 老人よ、 見栄を捨て恥をかけ ! そして性の汗でもかいてみてはどうでしよう ! 」 講演は終わった。大拍手の中で丸見峯朗は演壇を下って行った。信子はほーっと吐息を 洩らし、妙と顔を見合わせた。 「よかったわねえ」 「わたし、なんだか自信が湧いてきたみたい」 と妙がいった。妙のノートには、 ・うとく 「老人の権利ーー若者が老人の性を批判することは僭越であり冒漬である」 と書かれている。 会場を出ると、そこで丸見峯朗の著書が売られていた。『悔いなく生きる』『老婚のすす 「ねえ、一冊買っていかない ? わたし、息子に読ませたいわ」 妙がいって本を手に取った。 「信子さんもご主人に買っていったら ? 」 「主人は読まないわ。怒るだけよ。でもわたし、自分のために買うわ」 妙は『老婚のすすめ』を、信子は『悔いなく生きる』を買っていると、会場から丸見峯 め』『性は生で聖である』の三冊が並んでいる。 せんえっ
から」 漫画を読んでいた吉見が庭へ出て行く。台所から信子がほほえましげにいった。 「やつばり美保さんがいないと、うちへ帰ってもつまらないのねえ : : : 」 吉見と謙一が茶の間へ人ってくると、信子はいそいそとスキヤキ鍋に肉を人れはじめた。 「さあさあ、謙一。そこへお坐り。今日はおこたでスキヤキよ」 「炬燵か : : : 懐かしいな」 謙一は炬燵へ人り、 「昨夜はすみませんでした : : : 」 丈太郎に軽く頭を下げた。「どこへ行っていた」とは丈太郎はいわない。息子が嘘をつ くのを聞くのはいやだ。だからただ、「うん」とだけいった。 こうじ 「謙一はスキヤキが大好きだったわねえ。あんたと康二がいた頃は、わたしはお葱とお豆 腐ばっかり食べてたわ。お肉なんてさあ食べようとするともうないんだもの」 「あの頃はスキヤキが最高のご馳走だったからなあ : : : 」 嵐 謙一は何くわぬ顔でいっている。 よっ の 「吉ちゃん、たんとおあがり。あんたのところじゃ、スキヤキなんかしないんでしよ。あ、 冬 そうだ、謙一、ビール飲む ? あるのよ」 「そうだな、じゃあ : : : 一本でいい」 ゅうべ ちそう