誌が置いてある。 「花模様のタイルで・ハスルームをロマンチックに」 なにが・ハスルームだ。日本人なら風呂場は風呂場といったらどうなんだ。 「グルメの旅ーー。料理はハーモニイである」 「熟女のエステティック。気になるボディを自宅でケア」 グルメとは何だ。エステティックとは何だ。日本語を忘れていく日本人。日本人の自然 に逆らって何が面白いんだ。老人は老人らしく、男は男らしく、女は女らしく、父は父ら しく、母は母らしく、なぜ生きようとしないんだ。老人らしく生きることにどんな不都合 があるのか。日を追うて愚か者を増やしている日本。その張本人はどこにいるんだ ! あんたん 丈太郎は自分の妻がその愚か者の一人になっていることに暗澹とした。 つらつら世の中を見渡すに、今の日本は狂っている、と丈太郎は思う。人間として、日 本人としてのあるべき姿は何かを考えず、ただ損得勘定に明け暮れ、欲望を満たすことに きよう椴ん 狂奔しているのが今の日本人だ。信念を持てば流れの外に弾き出されるから、生きるため に男は信念を捨てた。政治家が税金をごま化して、それが発覚しても平気で地位を動かず とが にいる。恥の概念は今や日本から消失したから、誰もそれを咎めない。 「図太いものだなア」 うらや と碁会所で三、四人が感心していた。感心するばかりか、羨ましがる者さえいた。恥を
197 探春 えば、生徒は素直に死にに行った。背筋を伸ばして、涙も見せずに挙手をして出て行った。 それを思うと今でも身体を引き裂かれるような慙愧の念に襲われる。それを誰が知ってい るか 今の男どもに、死んだ方がましだと思うほどの自責と混乱に耐えた時があるのか ! いや応なく国是に巻き込まれた人生だった。なぜ抵抗しなかったのかと若い教師がいっ たことがある。抵抗 ? といって丈太郎は絶句した。あの時代の日本人の大多数がそうだ ったように、丈太郎もまた国を信じていたのだ。 オレたちは東亜のため、日本を守るために命を捨てるのが日本の男の使命だと信じ て戦った。歴史の激流に流されながら、敗戦の苦しみと引き換えに漸く平和を得た。少な くとも六十代以上の日本人が、涙と血を流し耐え難きを耐えて得た平和だ。その平和を受 け継いだ謙一は何をしているか。ぬくぬくと肥え太り、女と浮気をしながら自分たちには ものを考える自由もないなどといっている。豊かさと引き換えに日本人は自由を失った、 などとまるで他人ごとのように分析しているところを見ると、本当に耐え難いと思ってい るわけではないのだ。勝手な時だけ、耐え難いふりをしているだけだ。いったいお前は、 男として大義のために何と戦っているというのだ。お前のしていることは妥協だけだ。そ れを自慢げにいい立てて、お父さんのいうことは空論だなどといいおった : 思えば思うほど気持ちは鎮まらずに沸き立つのである。 ひと ざんき ようや
181 探春 うんぬん 云々する者はいなかった。政治家の必要悪だと認める者もいた。 「オレなら切腹する」 丈太郎がいうと皆が笑った。何がおかしい。日本全体が腐っているのだ。日本人は誇り を失った。生きる目標も見失った。ただ豊かに結構に暮らすことが人生の目標になってい る。何という情けない目標だろう。その目標のために愛も正義も滅びつつある。 この欲望の奴隷どもを覚醒させるためにはどうすればいいのか。 そこまで考えると丈太郎はいつものように、教育者としての自分の罪と非力に突き当た るのである。 「お父さん、良平さんが見えましたよ」 廊下から信子の声が聞こえた。「どうぞ、お座敷へ」といっている。今までは案内して きたのに、今日は声だけで姿を見せない。 「寒いねえ」 といいながら良平が人ってきた。相変わらず毛糸の帽子を頭に載せ、鼻の頭を赤くして いる。 「よく寒くないな、こんなところで」 「寒いと思えば寒い。寒くないと思えば寒くない。考えごとをするには寒いのが一番い かくせい
182 「何の考えごとだ」 と良平は向かい側に腰をおろす。 「今の日本について考えてたんだ。戦後民主主義教育は日本人をフヌケにした。その責任 はわしにもある。そのことを考えてたんだ」 「フヌケね、なるほど。しかし今になってその責任を考えてもしようがなかろう」 良平はジャン。ハーのポケットからタ。ハコを取り出した。 「この間はあれから、ちょっとしたことがあってね」 今日の良平は顔色がいい。目が笑うように細まった。 「あんたと別れてから、お茶のみ友達相談会へいってみたんだ」 「何だそれは ? 」 「女五十以上、男は六十以上なら誰でも人会出来るんだ。あんたも顔出してみないか ? 怒ってばかりいないで。きのうは丁度、三周年を迎えて記念講演があったんだ。丸見峯朗 という福祉評論家が話をしたんだが、なかなか得るところがあったよ」 良平は機嫌がいい。手のひらで鼻をこすりながら鼻水をすすり上げるいつもの癖も、今 日は勢いがある。 「諸君、性はポケのペニシリンですと、のつけからこうだよ」 良平はお茶を持って出てきた信子を見て、
あこが 老人が若さに憧れ、若い恋人を持ちたいと思うことを決して恥じてはならない。そ れは老いた人間の極めて自然な、健康な欲求であり、正当な権利である・ そら 信子はいっか丸見峯朗の講演メモの、今はすっかり諳んじてしまった箇所を思い出して いた。 日本では老い枯れて行くのを美徳のように思っているが、それは大きな間違いです お父さんは勝手にしゃべっていればいい。わたしはわたしで考えるわ : 「今は何かというと思いやり、気くばりだ。念仏みたいに、優しさだ思いやりだといって いるうちに、日本人はまことの優しさを失った。いいか、ここが大事なところなんだぞ。 優しさがなくなったから、思いやりや気配りをうるさくいうようになったんじゃない。思 いやり気配りをあまり煩くいうものだから、本当の優しさが出てこなくなった。観念が、 自然な心を抑えつけてる。それがお前にわかるか」 信子はお義理に「さあ ? 」と答えて横を向く。この人に優しさについていう資格がある のか、と思っている。 「女を女といってはいかん、女性といわなきゃいかんといった女教師がいたが、ろくな奴 じゃなかったな。どうでもいいことにこだわっていると、大事なことは何かが見えなくな もちろん るんだ。女と呼ぶのは蔑視だという。では男といういい方はどうなんだ、そういうと勿論、 うるさ べっし
んだわ : こうすけ そう思うと浩介への想いが胸の押し人れの中から、陽の光の中へ引き出されてくるので ある。 いんべい それを隠蔽しようとするのは、過去の観念に毒されているからだ、と丸見峯朗はいった。 「年をとると積極的に若い恋人を持とうと努力した方がいいんです。しかしそんなことを いうと今の日本ではまだ、色情狂などといわれる。困ったことです。日本人はまるで老い 枯れて行くのを美徳のように思っているが、それは大きな間違いです : : : 」 丸見の著書にはまた、こんなことも書いてある。 「ある時、私は九十五歳の老人から『性は生で聖である』と教えられ、深い感銘を受けた。 性の法楽が仏教の法楽よりも聖であり救いであるということだった。九十五歳の老人には 八十九歳の妻がいた。彼女は腰痛のため性行為は営めない。しかし夫は夜毎、優しい情感 しようしよう を籠めて妻の下腹部を撫でるという。蕭々として老い行く肉体に抵抗するかのように、性 を通して生のエネルギーを燃やそうとする姿は、生きているものすべての悲しみであり、 しゆくぜんえり その姿は思うだに粛然と襟を正さしめるのである」 しようたろう 信子はそこで本を伏せ、改めて丈太郎を眺めずにはいられない。 腰痛で動けなくなった時に、この人に下腹部を撫でられるなんて : : : おお、いや 0 な おも
そばなんか、わたし通れません。まだ使える布団なんか平気で捨ててある。それを見たら ハラワタがちぎられるような気持ちになるので、横を向いて通るんです : : : 」 スミのおしゃべりはいつも丈太郎を慰めてくれる。それは丈太郎には快い子守歌だ。 「日本人はすっかり変わりました。感謝も知らなきや譲り合いもない。権利意識と損得勘 定のおばけです。人間てこんなに簡単に変わるもんなんでしようか。こういっちゃなんで あき すが、先生の奥さまだって、突然すっかりお変わりになったんでしよう。お話聞いて呆れ てしまいましたけど、でも珍しくないんですよ、この手の話。この間も一フジオを聞いてた ら、身の上相談に出てるんですよ。還暦を迎えたって奥さんが七十のご主人と離婚したい だなんて。回答する方が別れて何をする気ですかって訊いたら、それがわからないから相 談してるんです、だって。何が気に人らないかっていうと、主人の何もかも : : : 朝、ウガ がちょう イする時に鵞鳥が絞め殺されるような声を出す、そもそもはそのことからイヤになり出し たんですって。まったく悪い病気がはやってきたものですわ。ええ、これは病気です。伝 染性の : : : 」 「まったく簡単に流されるもんなんですな。日本人という奴はー 「たまに流されないのがいると奇人変人あっかい。わたしたちがいい例ですわ」 スミはお茶をいれ、リンゴを剥く間黙って考えていたが、いきなり、 「よござんす」 ふとん
だってなにも永久に赤ンポしよってるわけじゃなし、この子の母親のツワリが治るまでの ことじゃないですか。今はもう人情なんか毛ほどもありません。昔は見かねて先生お手伝 いしましようという母親がいたものだけど、今は人が困ってるのはその人の勝手。自分が 困ると大騒ぎする。それを権利だというんです。民主主義ってのはわたしはキライですよ。 昔は長幼の序というものがあったでしよう。少なくとも先生と呼んでいる人間に対しては、 三歩とまではいわぬにしても一歩退く、という気持ちがありました。ところが民主主義は 先生もへチマもないんですから。年上の人間に対する敬意というものがないのね。相手か まわず文句要求、いいたい放題です。戦争に負けて日本人の頭が混乱して、アホウになっ た時期があります。そこをアメリカにつけ込まれた。アメリカは日本人に享楽を教えてフ ヌケにしようとした。その占領政策はまんまと成功したんじゃありませんか」 このあたりで良平なら逃げ出すところだと思いながら、丈太郎はスミの演説が快かった。 「いかがですか、お茶でも」といわれて、丈太郎はスミの居室に上がりこんだ。居室は三 十畳ばかりの遊戯室の裏手に、コプのようにくつついている台所つきの六畳である。 「やあ、きれいに片づけておられますなあ」 ちゃだんすちゃぶだい 丈太郎は感心した。古びてはいるが茶簟笥も卓袱台もよく拭き込まれて清潔だ。小さな 探 炬燵に赤ン坊の布団が敷いてある。 「可哀そうに泣き寝入りに寝ましたよ」
「碁会所か小松原さんか : : : 昼過ぎに出てったままなの」 「じゃあお帰りまで待ちますわ」 「いいから人っちゃいなさい」 一番風呂は丈太郎のものと決まっている。機嫌を悪くすることはわかっているが、かま やしない、と信子は八ッ当たりの気持ちである。 「でも美保さん、気を利かせたって、どういうこと ? 」 怺えきれずにいった。 「え ? ああ、編集長のことですか。だってそうなんですのよ。この前いいましたでしょ う ? 編集長は若いハンサムが好きだって。コースケコースケって、向こうでもたいへん だったんですよ」 「コースケって、呼び捨てにするの ? まあ : : : 」 「つまり親愛の現れですわ。彼女は日本人離れしてるっていうか、女離れしてるっていう か、とにかく率直な人なんですよ。他人がどう思うかなんてことはないんですの。こうと 嵐田 5 ったらまっしぐら。それが彼女の才能のひとつなんですけどね : : : 」 の 「才能 ? そんなことが才能なの ? 」 冬 「あたくしはそう思ってます。今朝、浩ちゃんの部屋へ打ち合わせにいったらいないんで すよ」
「アメリカの女の子ってサ・ハサ・ハしてていいのね。セックスはスポーツなの。全く対等に セックス出来るってのはいいなあ 「まあ・ : ・ : 」 信子はつくづく浩介を眺め、 「何だか浩ちゃん、別の人になったみたい。アメリカ人になっちゃったみたい : 「アメリカ人 ? うれしいな。ぼく、日本人てダサイからいやなの」 あーあ、と浩介は長椅子の上で大きくノビをした。 「おばさん」 「なんなの ? 」 「ああ、この部屋いいなあ : : : ここでちょっと寝ていい ? 」 「眠いの ? なら眠りなさい」 目をつむって少し黙っていた後で浩介はいった。 さび 「おばさん、ここへきて : : : 何だか急に寂しくなっちゃった : : : 」 「寂しいって、贅沢いってる。散々、遊んできて」 信子は浩介の長椅子のそばに膝をついた。 「どうしたっていうの ? 何が寂しいの ? 」 自然に手が伸びて、浩介のむき出した長い脛をさすっていた。 ぜいたく すね