210 「わたしに対するいやがらせとしか思えないわ」 「お母さま、いやがらせって何ですの」 何も知らない美保は、おかしそうに笑っている。 「お父さまみたいに、思ったことがすぐにロに出る方は、いやがらせなんてする暇がない んじゃありません ? 」 「そうじゃないの。あれでなかなか陰険なのよ」 「そうでしようかしら ? でもあたくし、お父さま好きですわ」 美保は座敷に顔を出した。 「お父さま、お加減いかが ? お父さまがお臥せりになるなんてお珍しい・ かくらん 「鬼の霍乱だよ」 お父さま好きですわ、といってくれた美保が、今日の丈太郎は妙に懐かしい。 「お父さま、おリンゴでもすってきましようか。熱があるとおのどが渇きません ? 」 「ばあさんは何をしていた ? 」 「べつに何も。テレビを見ていらっしゃいましたわ」 そう聞くだけで腹が立つ。 「忙しいのにすまんなあ、美保さん。それじゃ、リンゴを絞ってきてくれるかい」 「お安いご用ですわ、お父さま」 ふ
「ま、そこへ坐れ」 謙一が炬燵に人った。灰皿を引き寄せ、タバコの箱を取り出す。いきなり丈太郎はいっ - 「謙一、あの女は何だ」 タバコをつまみ出そうとしていた謙一は、手を止めて父を見た。 「あの女って : : : 」 父に知られていることを悟ったが、とりあえず、時間を稼ぐためにいった。 「あの小娘だよ。赤いオー ーを着てた : : : 」 謙一は黙ってタ・ハコに火をつける。見られたんだ、と思った。しかしなぜ父がこの問題 に口を挟むのか。オレはもう子供じゃない、といいたかった。謙一は父と対等の位置まで 上がろうとして、ゆっくりタ・ハコを吸い、煙を吐いた。 「あれは素人の娘だろう ? どうする気だ」 謙一は何も答えられない。正直にいうとしたら、はじまったばかりでこれからどうなっ ていくのか、自分でも五里霧中である。しかし正直にそういえば父は怒り出すに決まって いる。 「どうした。なぜ答えない。大の男が訊かれても答えられないようなことでどうするん だ」
212 「情けない奴だな。四十でそんなことをいってちゃしようがないじゃないか」 「ほんとですわ。女性だったら、子育ても終わって、さあこれから自分自身のための人生 よ、ってはり切る時ですものねえ」 丈太郎の返事は聞こえない。 やがて「夫婦仲よくやってくれよ」という声が辛うじて聞きとれた。 「オレももう年だからな。残る者が幸せにやっていくと思えば安心して死ねるが : : : 」 「何をおっしやってますの、お父さま。お父さまがそんなことをおっしやるなんて、似合 いませんわ。親父はオレより長く生きるよって、。ハ。ノ 、はいつもいってます」 「冗談じゃない。そんなに生きてたまるか」 「そういってる人に限って長生きするんですってよ : : : お父さまには吉見の結婚式にもお 出になっていただかなければ」 「あと二十年か : : : そんなに生きたくないよ」 「九十一一じゃありませんか。お父さまは百までお元気よ」 「そんなに生かされちやたまらん」 美保は笑いながら、丈太郎が飲み乾したリンゴジュースのグラスを持って立ち上がった。 「ではお父さま、お大事に。またまいります」 美保は台所でジュースのグラスを洗うと、茶の間へ来た。 かろ
216 謙一は今になって、自分がどうにもならぬ泥沼に足を踏み人れたことに気がついた。そ おのれもろ れが泥沼であることを謙一に悟らせたのは父である。己の脆さ、いい加減さ、無思慮を謙 一は父によって思い知らされた。 だが、だからといって、今、千加と別れる気持ちにはなれないのである。別れなければ ならない、と思わなければいけないのだろうが、思えない。 今の女はお父さんが思っているような女とは違うんだ : そういいたかった。だがそれを父にわからせることは不可能だった。父は女というもの を、常に受け身で弱いものだと思い決めている。女は弱い。だから男は女を守ってやらね ばならんのだ、と謙一は中学生の頃によくいわれた。「女を虐める奴は男のクズだ」と。 しかし今は女はもう、弱くはないのである。受け身でもない。男に守ってもらいたいな どとは思っていない。男に庇護されなくても生きていけるようになりたいと思っている女 が増えているのだ。千加もその一人だ。 ひど やっ
人々の自己再生の過程で行なわれるのが、自分たちの属する世代の意味の確認である。例 えば、大庭家三代の男たち、丈太郎、謙一、吉見の三人が秋晴れの日曜日、柿の実取り に興じる箇所はどうであろうか。少年の日を思い、父と二人で夢中で柿の実を取っていて も、おそらくは、この小説の前半で開陳される「あの頃、謙一は父をとても尊敬していた。 略ーー父の好きな言葉は正義と勇気だった。生徒の家庭から届けられる贈り物をいち いち送り返すのも父の『正義』だった。 / 遠い日のことだ。二度と戻らない日々だ。今更 のように謙一は、父と自分の上を流れた日々を思うのである」という感慨を抱いている謙 一、そして、木に登って柿の実を取れという丈太郎のことばに「べつに、木に登れなくて も困らないでしよ」と答える吉見、更には、男というものは高い所に登って下を見下ろす こと。ーーあたかも、世界を踏まえて偉くなった様な、わくわくする気持ちを経験しながら 成長するものだ、と信じて疑わない丈太郎と、三者三様の描き分けがなされている。 そして、ここで重要なのは、おそらく、謙一の抱いている、 " 二度と戻らない日々〃と いう甘美で切ない認識であろう。二度と戻らないということは、換言すれば、二人が生き ている時代を、共有出来ない、ということである。作中、丈太郎が度々いう様に、父は息 子に何らかの人生の指針を与えることしか出来ない。人それぞれに自分だけの人生を歩む 中、これは至極、当然のことでありつつ誰もが認めたがらないシビアな認識でもある。 そして、その中で、丈太郎のみが、何故、あれほどまでに強靭なのか。丈太郎自身のロ を借りれば、それは、「オレは過去にしがみついたりはしておらん ! 」という言葉に端的
そんな丈太郎を妻や子供は頑固者だといいながらも、誇りに思ってくれていると彼は思 いこんでいた。子供に残してやるものは財産なんぞよりも、人としての生き方を示すこと だと思っていた。丈太郎自身父から、父は祖父から、それを受け取ってきた。だが謙一は 何も受け取ってはいなかったのだ。 どこへ行こうとしているのかわからぬままに、丈太郎は寒空の下を歩いた。わけもなく 急ぎ足になっていた。急ぎ足になると上体が前に傾く。顎がっき出る。何を急いでいるの か、まるで何かから逃げようとしているかのようだ。 そうこう 謙一ばかりではない。糟糠の妻である信子も丈太郎の影響を何も受けていなかったのだ。 夫唱婦随は形ばかりで、従順の顔の下に怨みと不満を積もらせて今日に到ったという。 オレは真面目にやってきた。たとえ欠点があろうとも、妻や子供の期待を裏切らな い夫であり父であり教師であらねばならぬという信念に生きた自分を誇ってきた。なのに 今、ここへきて、それを否定しなければならないのか ! わたしの人生はいったい何だったのか、と信子がいった声が遠くから聞こえてきた。 オレの人生だって同じようなものだ、と丈太郎は思わずにはいられない。妻にも子供に も理解されずに、平穏であってもしようがないのだ。 の前の歩道で若い男 気がつくといっか歳末大売り出しの商店街を歩いていた。デ。ハート が歌を歌い、三、四人が踊っている。チンドン屋の一種なのか、好きでやっているのかわ あご
127 冬の嵐 「あたくし、ほんとうに幸せですわ。こんなによくしていただいて」 箸を取りながら美保は神妙にいった。 「娘時代よりも幸せですわ。里の母なんて、文句いうばっかりで、何もしてくれませんで した」 「仕事とは何なんだ」 丈太郎が口を挟んだ。 「どこへ行ってきたんだ」 「あらお父さま。ご存じありませんでしたの。鳥取へ行ってきましたのよ。来年の春、新 しい男性向けファッション誌が創刊されますの。その写真撮影にお向かいの浩介くんを連 れて行ってきましたのよ」 「向かいの ? あの浪人がなんだって行ったんだ」 「ですから、モデルとしてですわ」 「モデル ? あの男がか : : : 」 丈太郎は呆れたような声を出した。 「あんな奴の写真なんかのつけたってしようがないだろう」 「お父さま、もう美女の時代は過ぎつつありますのよ。これからはカッコいい男の子がも てはやされる時代になっていくと思いますの。この雑誌は佐久間って女性の編集長が企画
「それで、呼びにきたのかい」 「ああ」 「行って食ったのか ? 何もいわずに」 「忘れられたからって怒るのは惨めだろう」 「怒らないで黙って食う方が惨めじゃないか」 「とにかく黙って食ったんだ : : : 」 何という哀れな会話だろう、と丈太郎は思った。いったい、これが男のいうことだろう 痛くても痛いといってはならぬのが男の人生だ、泣きたくても泣いてはならん : 丈太郎は父からそう教えられて育った。 ごとうしようじろういがん 維新の功臣後藤象一一郎は胃癌の激痛に襲われた時、どうしたか ? うな ちょうごんか 唸る代わりに大声で「長恨歌」を吟じた・ ふくざわゆきち それが男の生き方だ。男が女と違うところだ、と父はいった。福沢諭吉は痩せ我慢の勧 めを説いたが、同じ我慢でも良平のは痩せ我慢ではない。メソメソの我慢だ。忍従の我慢 だ。それが男のすることか ! そういいたかったが、良平の顔を見ていうのをやめた。 「とにかく良平さん、考えてもしようがないことを考えるのはやめた方がいい。そうだ、
194 なけりゃならんのだ。人生に大志を持たんからそういうことになる。改めてお前に訊くが、 お前の人生の目標は何なんだ、いってみろ」 父に気どられぬように謙一は溜め息をついた。 「お父さん。ぼくが生きてる世界とお父さんが生きてきた世界は違うんだ。ぼくらは自分 の人生について考える権利を奪われているんですよ。ぼくらには大志なんかないですよ。 イデーを持っことが出来ない時代を生きてるんだ。組織の中ではなまじい、そんなものを 持っていたら邪魔になるだけなんだ : : : 」 「何だそれは ? 何がいいたいんだ ? 」 丈太郎は長い眉毛の下から息子を注視した。 「ぼくの当面の目標は会社に利益をもたらすことですよ。それによってぼくらの生活の安 穏が保証される。その目標に向かって毎日がある。考えることはそれだけでいい。それ以 外はなるべく何も考えない方がいいんだ。考えるとろくなことがない。そりゃあ、ぼくだ って車一台売って、ぼくにとってそれが何なんだと思うよ。しかしそれを考えてはいけな いんだ : : : 」 「大いに考えるべきじゃないか。人間にとって考えることは最も大事なことだ」 憐れむように謙一は父を見た。 「家族に安穏を与えるために、ぼくはこれでも一所懸命やってきたつもりです。だけどぼ あわ
255 混迷 欠かしたことがなかった朝の散歩を、この数日怠ったのは、暮れにひいた風邪が治った 後、体力が容易に戻らないためである。信子が別れ話を持ち出してハワイへ行ってしまっ たと思ったら、謙一から離婚の決定を知らされた。それがこたえている。体力が戻らない のは気力の衰えのためだ。 謙一から離婚に到る経緯を聞いた時、反対をするつもりで意気込んでいた丈太郎の腰は 砕けた。 「その娘に責任をとらなければ」といわれるとその通りだった。謙一の浮気を知った時は、 息子を捨てても嫁と孫を守るつもりだったが、その決意は空転した。美保は自分から家を 出る道を選んだのである。 「あたくしはそれほど弱くないつもりですわ、お父さま。あとは自分のカで幸福になって みせます」 夕飯を運んできた美保はそういった。美保が ( 女が ) 、そういう返事をするとは想像も つかぬことだった。美保は笑い顔を見せていた。強い女だ、とっくづく思った。 「女の自立を目ざした以上、こうするべきだと考えたんですの。強く生きるということは、 こういう時に、 : こうすることなんですわ、お父さま」 顔は笑っているが、声が震えていた。丈太郎は思わず「すまん」と頭を下げていた。 「わしからもお詫びをする。許して下さい」 ふる