立ち上がっ - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 下
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1. 凪の光景 下

195 探春 きペんろう くも人間なんだ。わかる ? お父さん」 「家族のために己を殺してきた。それが耐え難いからといって女と浮気をするというのか。 詭弁を弄するな ! 」 こぶし 丈太郎は拳を固めて立ち上がった。 丈太郎が立ち上がったので、謙一も立った。 「お父さん、いっとくけどお父さんのいってることはすべて空論だよ。今は通用しない 「なにツ ! 」 懊が開いて信子が走り込んできた。 「お父さん、やめて下さい、お父さんー 二人の間に割り込んで、立ちはだかった。 「謙一だって人間ですよ。人間だから間違いもするわ。お父さんみたいに人間離れしてる 人にはわからないのよ。人間の弱さが」 「なにツ、なにが人間離れだ。女に何がわかる ! 」 「いいから謙一、行って寝なさい」 「そうします。おやすみ : : : 」 そむ 謙一は丈太郎から顔を背けて茶の間を出て行った。信子は炬燵に人り、廊下で立ち聞き ふすま

2. 凪の光景 下

出かけて行った。丈太郎は炬燵が嫌いである。 たいえい 「炬燵は退嬰的だ。進取の気象に欠ける」 がてん とわけのわからない独り合点をいう。さっきも信子が炬燵から立ち上がる時に、「どっ こいしよ」と掛け声をかけて立ち上がったといって文句をつけた。 「やめろ、どっこいしょは」 「いいじゃありませんか。どっこいしよくらいいっても」 「どっこいしよといいながら化粧ばかりしたってはじまらん」 「それとこれとは問題が別でしよう」 そんないい争いがあって、丈太郎は出かけて行ったのだ。 「時雨てきましたよ。傘、お持ちになった方がいいんじゃないの」 「かまわん」 と傘も持たなかった。 抗そうして丈太郎が出て行ってしまうと、信子はほっとして炬燵に人った。炬燵を出した ののは、急に寒くなったためもあるが、そこでゆっくり浩介のことを思いたいためだった。 四「おばさんに抱かれて寝たいな」といったあの声は、あの夜からずーっと信子の身体の中 ひそ みごも に密かに身籠った胎児のようにうずくまっていて、日に日に重く大きくなってきている。 もた その言葉から滲み出てくる幸福感を噛みしめるには独りがいい。甘ったれて凭れかかっ しぐれ か

3. 凪の光景 下

社会にうって出るくらいの気概を持てばいいんだ」 「そんなもの持てる世の中じゃないでしよう。明治大正時代とはちがうでしよう」 「今の奴は二言目には時代のせいにして、自分を正当化する。世の中のせいじゃない ! がけぶち 崖っ縁を歩く勇気がないからだ」 「誰だってそんなこといやですよ」 こぎれい 「貧乏がいやなんだ。苦しいことがいやなんだ。楽しく安全に小綺麗に暮らしたいんだ」 「当たり前ですよ」 「そんなことは昔は女の考えることだった。ところが今は男が女並みになった。みんなタ マなしになった。戦争に負けた時、今にアメリカ軍がやってきて男は皆、キンタマを抜か れるといって騒いだが、アメリカは何もしなかった。日本の男がひとりでにタマヌキにな った。あるのはサオだけだ ! 」 丈太郎は立ち上がると、座敷の広縁の方へ行きながら叫んだ。 抗「勇気がない奴は男とはいえんのだ ! 」 おやじ の 思わず信子も立ち上がった。この頑固親爺をへこませる言葉を捜して暫くの間口をモグ 四モグさせていたが、やっと思いついて後を追った。 「お、お父さんだって、師範学校へ行ったじゃないの、教師という就職ロのためでしょ しばら

4. 凪の光景 下

119 冬の嵐 丈太郎はジロリと謙一を見た。 だが今朝のあの女、ありや何だ ? 謙一は黙りこんだ信子から、目を吉見に向けた。 「吉見はママがお仕事してることいやかい ? ママがいないために我慢してることいつば いあるかい ? ママが家にいる方がいいか ? 」 「うん ? ぼく ? 」 吉見はつまらなそうにいった。 「ぼく、どっちでもいい」 「我慢してることがあるんなら、してるっていっていいんだよ」 「ほんとだよ、どっちでもいいんだ、ぼく」 「お母さん、聞いた ? そういうものなんだよ。お母さんが思うほど吉見は辛いわけじゃ ないんだよ。はじめつからこうだから、こういうものだと思ってるんだ」 謙一は立ち上がった。 「じゃ、ぼく、寝るよ。吉見どうする ? 」 「もう一晩おばあちゃんと一緒に寝ようね」 信子の猫なで声に吉見はいった。 「ぼく、あっちで寝る。おばあちゃんのイビキうるさいんだもん」

5. 凪の光景 下

「おうちの近くまで行っちゃいけない ? 」 返事に詰まった謙一を見ていった。 まゆみ 「だって昨日は真弓さんと軽井沢へ行って、今日はスケートするっていってあるの。早く かえ 帰ると却ってヘンなんだもん」 千加はいった。 「あたし、課長さんの住んでるところ、どんなところなのか、見たいのよう : : : 」 こうなるともう、謙一は拒むことが出来ない。黙って立ち上がる。 「ごめんね、怒った ? 」 いいながら千加は弾んだ足どりでついてくる。 ハスを降りると千加は、もの珍しそうにあたりを見廻しながらいった。 「なーんて静かなの。車は少ないし、人はちらほらなのね。なんだか上等な人種が住んで るところってかんじ : : : 」 「上等じゃないよ。ただの住宅地だよ」 謙一は緊張し、気が急くままに千加の背を押し、 「さあ、・ハス停は向こう側だよ」 うかが 本能的にあたりを窺う目になった。 「わかってるわ。そんなに押さないで」

6. 凪の光景 下

「そんなことカンケイないの。だってぼく、ここんとこ、ずっとやってなくて、溜まって たんです」 「誰でもよかったってわけ ? 」 「相手がそれを望んでいればね。ぼく、無理強いってしたことないの。出来ないの。相手 がどうしてもイヤっていった時は、ひとりでやった方がいいの」 信子は黙りこんだ。浩介は九官鳥の籠の戸を閉めて立ち上がり、じっと濡れ縁に坐って いる信子を覗き込んだ。 「おばさん、怒ってるの ? 」 「怒ってるわ」 「どうして ? 佐久間さんとやったから ? 」 浩介の甘ったるい声は、信子の首筋を撫でるあの ( 九官鳥を愛撫していた ) 人さし指の ようだ。 「でもおばさんは、エミのことやなんか知っても怒ったことなかったでしよう ? 」 しつよう 信子は執拗に口を噤んでいた。何と答えればいいのか、わからなかった。 浩ちゃん、あなたはわたしをどう思ってるの ? 本当にいいたいことはそれだった。女編集長と信子は、浩介の中では同じ線上にいるの か、それとも違うのか。

7. 凪の光景 下

% 「バカな。何をいってるの、こんな所で」 「ごめんなさい。ただいってみたかったの」 向こうから・ハスがやって来た。 「さあ、来たよ、バスが」 千加がのろのろと立ち上がるのを見て、謙一は元気づけるようにいった。 「明日、また会社で会えるじゃないの」 「そうね。あたしってヘンね。でも、なんだか、これつきりになってしまうような気がし てならないの。不安なの」 「・ハ力だなあ。昨夜もよく話したろう ? 」 「わかってる。あたし、奥さんと別れて結婚してほしいなんていわないから : : : だから、 あたしのこと、いやになったりなんかしないで : : : 」 こら 思わず千加を引き寄せたくなったのを謙一は怺えた。バスが止まって扉が開いた。千加 はステップを上がり、謙一を見て悲しそうに徴笑した。「サヨナラ」と口が動いた。 ハスが行ってしまうと、思わず深い吐息が洩れた。 うが ああ、なんて娘だろう、と思った。千加の、金森によって穿たれた傷口が、謙一を惹き 寄せる。千加自身も知らないその力を謙一は思った。

8. 凪の光景 下

「いませんよ。何十年もさんざんご亭主にコキ使われて、看病させられて、やっと死んで くれてホッとしてるんです。何が嬉しくてもう一度同じことをするの」 「お前の友達にいるじゃないか」 「お妙さんのこと ? あれは恋愛ですよ ! 」 丈太郎の耳には「恋愛」という言葉が異様に誇らかに響く。 その時、門のチャイムが鳴った。信子は時計を見、こんな時間に誰かしら、といいなが ら立ち上がった。 信子が玄関の格子戸を開けると、門の外で声がした。 「おばさん、ぼくです」 「まあ浩ちゃん ! 」 信子は大急ぎで門の戸を開ける。 「すみません、おばさん。ぼく、困っちゃって」 抗「どうしたの、何かあったの ? 」 の と訊く声が思わず弾んだ。 四「ばあさんがいなくなっちゃったんです。そのへん捜したんだけど、見つからなくて」 「まあ : : : いっから ? 」 「それがわかんないんです。ぼく、昼から出かけてて六時頃帰ってきたんだけど、その時

9. 凪の光景 下

時人間じゃないやっといるみたいな気がすることあるんです : : : 」 「そんなこといってはいけないわ、浩ちゃん。一所懸命にやってる人のこと : : : 」 浩介は時計を見た。 「あ、ぼく、そろそろ行かなくちゃいけない」 「どこへ ? 」 「予備校。でも行きたくないなあ。ぼく、ここでおばさんと話していたい : 「でも勉強はしなくちゃね。行っていらっしゃい。また今度、ね ? 」 「はい」 ちそう 浩介はしぶしぶ立ち上がり、「ご馳走さまでした」といって帰って行った。 「はい」と答えた時の素直な、子供っぽいいい方を、信子はしみじみいとしいと思うので ある。 おもや ぢやわん 信子は小皿と湯呑み茶碗を片づけて、母家へ帰ってきた。気がつくともう十二時を廻っ 抗ている。茶の間に丈太郎が渋い顔で坐っていた。 の「すみません : : : すぐ食事にします」 四「どこへ行ってたんだ」 「美保さんのところへ」 いいながら台所へ人った。

10. 凪の光景 下

「美保さん : : : おはよう : : : 」 赤いジャン。ハーの後ろ姿がふり返る こう 「あらッ : : : 浩ちゃん ! 」 としん 一瞬、妬心が頭を擡げた。 「こんにちは」 立ち上がった人さし指に、手乗り文鳥のように九官鳥が止まっている。 「おばさん、ほら ! こんなに馴れちゃった」 信子はそれにちょっと目をくれただけで、 「美保さんは ? 」 思わず強い調子が出た。 よっ 「出かけてます。吉ちゃんの学校のことで」 信子はおからの鉢をテープルに置いた。いっからこんなになったのか ? 今の浩介のい 抗い方は、まるでここの家族の一員みたいじゃないか。 の「美保さんは遅くなるかもしれないっていってました。今日は吉ちゃんの担任をやつつけ 四る下相談なんだって」 「美保さん」という呼び方が、信子の胸を突いた。 少しの間信子は、ここへ来た目的を忘れて黙って立っていた。 もた と、浩介だった。