編集長 - みる会図書館


検索対象: 凪の光景 下
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1. 凪の光景 下

「これからのこと ? 大学へ行かないでモデルになるつもりなの ? 」 「この仕事、ぼくに向いてるみたいなの」 突然、こみあげてくるものを信子は抑えられなくなった。 「浩ちゃん、あなた、鳥取で編集長となにをしたの ? 」 そんないい方をするつもりはなかったのに、ズ・ハリといってしまった。 「なにしたかって : : : どういうこと ? 」 浩介は九官鳥の咽喉から胸に向かって、人さし指でゆっくり、優しく撫でる。その長い 指の優しい動きから信子は思わず目を逸らした。 「あなた、編集長の部屋に泊まったっていうじゃないの」 「あ、美保さんに聞いたんですね。おしゃべりだなあ : : : 」 「浩ちゃんを見損なってたわ。会って二度目の人とすぐ、そんなことをするなんて : : : 」 声が震えた。浩介は意外そうに信子を見ていった。 「いけないですか ? そうかなあ : : : でもどうして ? 」 「どうしてって : : : 決まってるじゃないの : : : 」 気落ちを隠すために強い口調になった。 「いけないですか ? 」という浩介の返事は、女編集長との間に行われたことをはっきり肯 定している。女編集長の部屋で泊まったけれども、本当は何もなかった : : : 酔いつぶれて のど

2. 凪の光景 下

「編集長って人、年はいくっ ? 」 いよいよ 「丁度五十ですわ。五十になって愈々、性根を据えたって感じになってきて、そりゃあ強 いんですの。鉄面皮だなんて悪くいう人もいますけど、あすこまでいくといっそ爽快なん ですね。男にいい寄って断られても平気だし : 。ふられたからって恨んだりしないとこ かがみ ろは立派ですわ。あれこそ男と肩を並べて生きる女性、男女平等の鑑、という感じがしま すわ」 美保は自分の言葉が気にいったというように笑い声を立てる。だが信子は美保のいうこ となど聞いていない。 「浩ちゃんはいつだったか、ぼくはマザコンだっていったことがあるのよ。その編集長に 対してもそんな気持ちがあるのかしらね」 「マザコン ? 編集長はどう考えてもマザーじゃありませんわ。ファーザーですよ。いや キング : : : タイ一フント : : : 」 美保は笑いながらいった。 嵐「でも浩ちゃんはマゾかもね。そうしたらイガイとウマが合うかも : : : 」 の 玄関が開く音がして、丈太郎が帰って来た。美保はす早く立ち上がって出迎える。 「お帰りなさいませ。お父さま、留守中はすっかりご迷惑をおかけしました : : : 」 「ああ、仕事は無事に終わったのかね」 そうかい

3. 凪の光景 下

「さあ ? むつかしいわねえ : : : 」 信子の惑乱はつづいている。この若々しい笑顔の魅力に惹き寄せられた女編集長の気持 ちが、手にとるようにわかるのである。しかし女編集長は、信子の知らない、もっと別の 浩介の顔も知っている もっと別の : 信子の知らない顔・ そう思うと火の玉のようなものが信子の身体を突き抜けていった。エミや他の女の子に は覚えたことのなかった、狂おしい嫉妬が湧き起こってきた。この日本人離れした形の、 男らしい唇が、どんな一一一口葉を囁き、どんなことをしたのか。 浩介は九官鳥の籠を庭に出して、話しかけながら籠の掃除をしている。 「ムカシムカシ、オジーサントオ・ハーサンガ」 のんき と暢気にいっている。九官鳥は久しぶりの浩介の声に上機嫌で、「ドンプラコッコス ッコッコ」とくり返す。 嵐信子は濡れ縁に坐った。じっと浩介の横顔を見ているうちに、ひとりでに言葉が出てきた。 の 「浩ちゃん、昨夜はどうしたの ? 折角、食事の支度をしていたのに : : : 」 冬 「あ、ごめんなさい。ぼく、気になってたんだけど、編集長が折角誘ってくれてるのに、 断ったりしたら悪いでしよ。これからのこともあるし : : : 」 ゅうべ ささや

4. 凪の光景 下

122 「ゴーダッ ? 」 美保は屈託なく笑った。 「いってましたでしよう ? 編集長がぞっこんだって : : : 」 「それじゃあ、なんなの、浩ちゃんは夕飯に来ないの ? 」 思わず知らず強い目になっていた。 「来ないと思いますわ。編集長が慰労のご馳走をするっていって連れて行ったんですから。 一応あたくしも誘われたんですけど、気を利かせて失礼しましたの」 気を利かせて ? それはどういう意味 ? きつもん と詰問したいのを怺えた。 「それならそうと空港からでも電話をくれればよかったのに : : : 」 愚痴つぼくいった。 「そうでしたわね、すみませんでした : : : 」 美保はあっさりいってお茶を飲む。 「あ、おいしい : : : お母さまのお茶はなんておいしいんでしよう」 お茶の味なんか褒めてもらわなくてもいい、「気を利かせて」とはいったいどういうこ となのだ ? : : : 信子は急に無口になった。 「じゃあお一一一口葉に甘えて、お風呂いただこうかしら。でもお父さまは ? 」 こら

5. 凪の光景 下

「碁会所か小松原さんか : : : 昼過ぎに出てったままなの」 「じゃあお帰りまで待ちますわ」 「いいから人っちゃいなさい」 一番風呂は丈太郎のものと決まっている。機嫌を悪くすることはわかっているが、かま やしない、と信子は八ッ当たりの気持ちである。 「でも美保さん、気を利かせたって、どういうこと ? 」 怺えきれずにいった。 「え ? ああ、編集長のことですか。だってそうなんですのよ。この前いいましたでしょ う ? 編集長は若いハンサムが好きだって。コースケコースケって、向こうでもたいへん だったんですよ」 「コースケって、呼び捨てにするの ? まあ : : : 」 「つまり親愛の現れですわ。彼女は日本人離れしてるっていうか、女離れしてるっていう か、とにかく率直な人なんですよ。他人がどう思うかなんてことはないんですの。こうと 嵐田 5 ったらまっしぐら。それが彼女の才能のひとつなんですけどね : : : 」 の 「才能 ? そんなことが才能なの ? 」 冬 「あたくしはそう思ってます。今朝、浩ちゃんの部屋へ打ち合わせにいったらいないんで すよ」

6. 凪の光景 下

「どこへ行ってたの ? 」 「別の部屋で寝たんですよ」 「別の部屋 ? : : : 編集長の部屋ってこと ? 証拠はあるの ? 」 「だって編集長の部屋へ行ったらいたんですもの」 「早く起きて用事で行ってたんじゃないの ? 」 「一緒に寝たか寝ないかくらい、あたくしにもわかりますわよう : : : 」 美保は笑った。 「浩ちゃんって、ああいうキャ一フクターでしよ。チャランボランていうか、サービス精神 ・こんげ の権化っていうか、とりとめなくてその場その場で相手に合わせることが出来る子なんで すね。それは役者ですわよ」 よく透る美保の声は容赦なく信子の耳になだれ込んでくる。 「浩ちゃんって、本当に人を愛するってことがないんですね。でも愛さないけど、嫌うつ てこともないんだわ。あの子が愛してるのは、もしかしたら自分だけかもしれませんわ。 あの子のサービス精神は自己愛から出てるんじゃないのかしら。とにかくすべての人に愛 されたいんですね。だから精いつばいサービスするんだわ」 太い丸太ン棒で背中を殴られているようだった。声が出ない。暫く黙っていた後、漸く 声が出た。 とお ようや

7. 凪の光景 下

「それにお母さま、もうひとっ : 「わかってるわ、謙一のことでしよう ? 」 「ええ、夕食は外で食べてくるっていってくれてますけど、出来たら朝だけお願いしたい んですの」 「いいわ。謙一は。ハン食 ? ご飯 ? 」 「どっちでもいいんです。お母さまの方のご都合で」 「わかりました。安心して行ってらっしゃい」 普通にいうつもりが切り口上になっていた。美保は敏感にそれを察した目の色になって、 「申しわけありません。なるべくご迷惑かけないようにと思ってるんですけれど、浩介く んもはじめてのことなんで、リラックスするためにもあたくしが一緒に行った方がいいっ て編集長にいわれて : : : それに浩介くんも一緒に来てほしいって頼むものですから : : : 」 「いいのよ、留守中のことは大丈夫よ。でも美保さん、浩ちゃんはこれから受験勉強の追 抗い込みにかかるって時でしよう。そんなことさせて、もしまずいことになったら川端さん ののご両親にも申しわけが立たないしねえ : : : 」 四妬心を悟られないように、静かな声を心掛けた。 。でも鳥取砂丘と聞いて 「ええ、あたくしもそのこと、浩介くんにいったんですけど : すっかり乗り気になっちゃったんですの。それに編集長がとても気に人っちゃって、場合

8. 凪の光景 下

によっては専属にしたいなんていってるんですよ、もうゾッコンなんです。だいたいが若 い男の子大好き人間なんだけど、彼女」 「彼女 ? 」 黙って箒を動かしていた信子は、思わず反問した。 「女の人なの ? 編集長って人」 「そうなんですのよう : 。今年、大台に乗ったんですけど、ずっと独身で、若い男の子 を可愛がるのが趣味で : : : 」 美保は面白そうに笑い声を上げる。 「でも、ほんとはあまりモテないんですの。醜女の深情けっていいますでしょ ? 悪いけ どあれなんですわ。編集者としては抜群。衣食住にわたってすごい知識の持ち主ですし、 文章も書けるし。とにかくすべてにエネルギッシュで情熱的なの : : : 」 「じゃあ、その人、浩ちゃんのこと、好きになったんじゃないの ? 」 「可能性はありますわ。だって、浩介くんって、ただのハンサムじゃないでしよう ? 花 がありますでしょ ? 明るくて子供つぼくて、それでいて色気があって、優しくて、適当 に軽薄で、適当にメランコリックで。魅力ありますもの」 こたっ その日の午後、信子は炬燵を出した。 もう炬燵を出したのか、まだ十一月じゃないかと丈太郎は苦々しげにいって、碁会所へ かわい しこめ

9. 凪の光景 下

その日から一週間経った。 浩介はあれきり姿を見せない。 なぜ浩介は来ないのか。信子はそればかりを考えている。 浩介はあの時の信子が思わず見せてしまった不機嫌に腹を立てたのだろうか ? 信子を怒らせてしまったと思って、敷居が高くなったのだろうか ? それとも鳥取へ行った分を取り戻そうと勉強をしているのか ? 札幌から母親が帰ってきたために、羽を伸ばせなくなったのか ? それとも女編集長のトリコになったのか ? 年増女の性のテクニックが男をトリコにした、という話をいっか、何かで読んだような 気がする。美人は男からサービスされることに馴れているから、サービス精神がない。だ が不美人はサービスしなければ男が相手にしてくれないから、必然的にサービスがいい、 女は不美人に限る、というようなこともどこかで聞いたような気がする。 それに女編集長はマスコミなどで「独身貴族」と囃している人種だろう。フランス料理 嵐 ならどこそこ、京料理ならあすこと、贅沢な料亭やレスト一フンに出人りしている人にちが いしよう の いない。馬子にも衣裳というから、ファッションも目がくらむような最先端。女の身で編 冬 集長にまでなる人だから、頭もいいに決まっている・ 目が醒めてから眠りにつくまで、そんな思いのあれこれが交錯して、信子は気力を失った。 ぜいたく はや

10. 凪の光景 下

214 るんですよね。多分、その人だと思うんですの。なかなかしゃれた人でしたわ。浩ちゃん あだな も最先端のヘアースタイルでした。お父さまがごらんになったら、またなにか渾名でもっ けそうな」 美保は笑った。 「で ? 話をしたの ? 」 いうまいと思いながら信子は訊いてしまう。 「こんにちはっていっただけですわ。チャオ ! なんてキザなんですよ、あの子。わかっ ててキザをやるんですよ。ほんとにニクイの」 「ほら、なんていったかしら、オールドミスの女編集長、プスの : : : 」 わざと「プス」とつけ加えずにはいられない。 「ああ、佐久間さんですか」 「その佐久間さんのトリコになって、ルーチャンのこと忘れちゃったのかと思ってたんだ けど」 「さあ、どうでしよう ? : : : 」 美保は笑顔を傾け、 「でも浩ちゃんはそう簡単にトリコになる子じゃありません。いつだって風の中の羽のよ うに、ですわ。浩ちゃんは : : : 」