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検索対象: 凪の光景 下
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1. 凪の光景 下

飛行機で出発する。浩介はそれを知っている筈だ。ホテルの名も電話番号も教えてある。 浩介に会ったら、離婚して家を出る決心をつけたことを話そうと思う。浩介がどんな反応 を示すか、それが楽しみだ。 電話が鳴った。浩ちゃんだわ、と直感した。思った通り、電話ロの声は若々しくはりき っていて、 「おばさん ? ぼく : : : 」 と歌うように響いた。 「あ、浩ちゃん : : : 待ってたのよう。どこへも行かずに」 「これから行ってもいーい ? 」 この間から胸底でもやもやしていたものがスーツと消えていった。 たく わず 浩介は眩しいほどの若さをふり撒いて人ってきた。僅か三日で逞ましく陽に灼け、黒い ショート。ハンツに真っ黒なサングラスがよく似合っている。 「あーあ、忙しかった : : : おばさん : : : 会いたかったよウ」 そういって信子に向かって両腕を広げた。近づいてきて腕に抱え込む。 「あらいや、浩ちゃん、やめて」 もが 腕いて離れた。浩介は長椅子に身体を投げ出し、 「今日は朝からサーフィンしてたの。昨日はマウイ島へ行ってサトウキビ列車で撮影して、

2. 凪の光景 下

「けどお正月でお母さんは忙しいの。姉ちゃんは受験だし、冬休みの間、ぼくがついてる ことになってるんだけど、でも、あすこにいるの、ぼく怖くって」 「怖い ? 何が怖いんだ」 「おじいちゃん、人間じゃないみたいなんだもの : : : 」 「人間じゃない ? なら何だ」 「よくわかんないけど、何だか大きな魚が人間に化けかけて寝てるみたい : 魚か : あんたん 丈太郎は暗澹とした。今、もしオレがああなったら、と思った。それでも信子はオレを 見捨てて出て行くだろうか ? 家へ帰ってくると、新しい旅行鞄が玄関に出してあった。まるで丈太郎に決意を迫るよ けっぺっ うに。訣別を宣言するように。信子がハワイへ行くのは翌日の夜だったことを丈太郎は思 い出した。 迷信子はこともなげにハワイへ出発して行った。九官鳥と丈太郎はとり残された。いつも 信子が留守になると必ず顔を出す美保は、どうしたのか姿を見せない。 「おい」 と丈太郎は九官鳥にいった。 かばん

3. 凪の光景 下

ですけどっていったら、えらい叱られちゃった」 「困ったわねえ : : : じゃあお掃除とか洗濯とかはどうなってるの ? 」 「ばあさんが時々正気に返った時にやってるけど、これがまたすごいの。掃除とかやりか けたら、一日中やってるんだから。夜中にぼく、女の子と寝てたら、いきなり掃除機持っ て部屋に人ってくるんだもんね」 のんき しゆらば それでは家の中は修羅場ではないか。なのに浩介はこんなきれいな、暢気そうな、何の 苦労もないという顔をしている。他人の家の九官鳥どころではない筈なのに、こうしてや ってきては面倒を見ている。 「浩ちゃんはえらいわねえ : : : 。暢気そうに見えてたけど、そんな苦労を背負ってるのね え。おばさん、見直したわ」 「いや、テキトウですよ、テキトウ : : : 」 浩介はてれて、おからをかき込む。 抗「ぼく、大学受験するの、やめようかと考えてるんです。このこと、兄貴にも誰にもいっ のてないんだけど、ぼくみたいな勉強が嫌いな奴がなんで大学へ人ろうとしてるんだろうつ 四て、ふと思ったのね、ばあさんが汚したトイレの掃除してる時。そしてよく考えたら、皆 が行くから行くものと決まっちゃったみたいなのね。それと、じゃあ大学へ行かないとし % たら何をするのか、と考えて、何も思いっかないってこともあったしね。親も友達も、世 しか やっ

4. 凪の光景 下

丈太郎は鼻に皺を寄せた。 「聞きたいもんだな、ノラクラの絶望を」 「そんないい方ってないでしよう。浩ちゃんはいいましたよ。なぜぼくは大学へ行かなく ちゃならないんだろうって」 「そう思うのなら行かなければいいんだ。これほど簡単な答えはないよ。大学は義務教育 じゃない」 「そんなことはわかってます。でも大学を出なければ、就職出来ないじゃありませんか」 もどかしさと口惜しさがこみあげ、我知らず涙声になっていた。 「就職 ! 」 丈太郎は吐き出すようにいった。 「就職ロのために大学へ行くのか ! 」 「そうでしよう。決まってるじゃないの。今は大学を出てないと就職出来ないのよ」 「サラリーマンになるばかりが人生じゃない」 「そんなこといったって、サラリーマンにならなかったらどうして生きていけばいい の ? 」 「苦闘を嫌う奴がそういうことをいうんだ。寄らば大樹の蔭か。大樹に守ってもらうため としゆくうけん に大樹のために身を粉にして働く。同じ身を粉にするのなら、徒手空拳、自分一人のカで

5. 凪の光景 下

編集長の機嫌をとり結ばなければ、と思ったのかもしれない、と考えてみる。だとしたら、 浩介なりの処世術だと思って許せるような気がしないでもない。しかし、食事の後片づけ を手伝いながら美保がいった一一「ロ葉もまた、信子は忘れることができないのである。 でも、そこが魅力なの 「浩ちゃんってほんとにつかみどころのない人なんですねえ・ かも」 美保は面白い小説の話でもしているようにいったのだ。 「佐久間さんに浩ちゃんはこんなこといったんですよ。ぼくは甘えんぼうだから、佐久間 さんみたいに力強い女性に憧れるんです、だなんて : : : それで佐久間さん、すっかりその 気になっちゃったんですわ。ノンシャ一フンとして、よくいうわ、って感じなんだけど、ヘ んに憎めないんですね。あれは天性のコケットリーね」 信子は耳を塞ぎたかった。浩介のせりふは信子にいったあの言葉と、何と似ていること だろう。 「あのサービス精神は彼のエネルギーなんですね。とにかくマメなんだから : : : 」 信子は沈黙して茶碗を洗うのに熱中しているふりをするしかなかったのである。 翌日の昼過ぎ、浩介は庭先から茶の間へ廻ってきて、おばさん、こんにちは、と濡れ縁 のガ一フス障子を叩いた。丁度、昼食を終え、丈太郎が座敷の縁側へ引き揚げて行った後で ある。 あこが

6. 凪の光景 下

「やつばり、金森さんのことで、怒ってるのね ? 」 といったこともある。 「怒る ? どうして ? 金森とのことはぼくの知らない頃のことじゃないの」 とぼけて答えた。それらの千加の質問は「あのこと」の催促であることはわかっている。 だがそれが却って謙一を踏み止まらせるのだ。 「千加、自分というものをよく見ようとしなければいけないよ。何をするにも、自分を十 分知った上でしなくちゃね」 分別くさくいった。 「自分のしたことに自分で責任を負えるかどうか」 「負えます : : : 負える : : : 」 そのことがどういうことか、千加はよく考えもせずに答える。すると突然そんな千加に 謙一は惹き寄せられる。美保のように賢い頭から小理窟を引き出してこないところに。 いずれはこのままで終わりはしないだろうと思っていたことが、今夜くるのかもしれな 嵐い の謙一はメニューに向かって額を寄せてくる千加の、髪の毛から漂う甘ずつばい匂いを嗅 冬 ぎながら思った。 おもや 美保は鳥取へ行っている。帰ってくるのは明日の夜だ。吉見は母家に泊まることになっ かえ とど こりくっ

7. 凪の光景 下

時人間じゃないやっといるみたいな気がすることあるんです : : : 」 「そんなこといってはいけないわ、浩ちゃん。一所懸命にやってる人のこと : : : 」 浩介は時計を見た。 「あ、ぼく、そろそろ行かなくちゃいけない」 「どこへ ? 」 「予備校。でも行きたくないなあ。ぼく、ここでおばさんと話していたい : 「でも勉強はしなくちゃね。行っていらっしゃい。また今度、ね ? 」 「はい」 ちそう 浩介はしぶしぶ立ち上がり、「ご馳走さまでした」といって帰って行った。 「はい」と答えた時の素直な、子供っぽいいい方を、信子はしみじみいとしいと思うので ある。 おもや ぢやわん 信子は小皿と湯呑み茶碗を片づけて、母家へ帰ってきた。気がつくともう十二時を廻っ 抗ている。茶の間に丈太郎が渋い顔で坐っていた。 の「すみません : : : すぐ食事にします」 四「どこへ行ってたんだ」 「美保さんのところへ」 いいながら台所へ人った。

8. 凪の光景 下

「しかし池田くんはここんとこ、妙に色つぼくなりましたね。大川みたいな若僧でもそう いってましたからね。今日はひとっ飲ませて白状させようということになってるんです よ」 「そうかね ? よく気がつくもんだねえ : : : 」 謙一は笑ってみせた。煙幕を張るような気持ちでタ・ハコの煙を吐き出した。 「さて、行こうか」 「志乃」は社から歩いて十二、三分の横丁にある。二階へ上がるともう酒宴は始まってい かわぐち て、千加が川口課長にお酌をしているところだった。千加は謙一を見て、さも嬉しそうに につこりした。人の目にどう映ろうとかまわないというふうだった。 うなず 謙一は無表情に頷いただけで席につく。千加はかまわず寄ってきて、 「お酒ですか ? おビール ? 」 甘えるように小首をかしげた。 千加はときどき、「あたし、会社の中でいきなり、大声でいいたくなるの。『皆さん、聞 いてちょうだい。わたしは代理課長を愛しているのよ ! 』って」といって謙一をギョッと させる。 「いやだわ、こんなの。まるで何かの犯人みたいに、人目を気にしてコソコソしてるの。 もうイヤ ! 」

9. 凪の光景 下

こともなげにいった。 「ひどい下痢して、廊下でおもらしするの。お前は浪人だから掃除しろって兄貴はいうし、 あのときはひどかったなア : 信子は浩介にお茶をいれ、自分もゆっくり飲んだ。いっか胸の痞えはきれいに消えてい る。 「知らなかったけれど、おばあさま、そんなになってらしたの」 「ここんとこ、急になったんです。寝たきりになってくれてればいいんだけど、動き廻る し、食いたがるし、それで浩介浩介って、へんにぼくのこと気に人っちゃって、とてもや ってらんないから、出て歩いてるの。兄貴はオレは勤めがある、お前は浪人だからばあさ んの面倒くらい見ろ、っていうし」 「札幌のご両親はご存じなの ? 」 「ええ。それで近々、おふくろが帰ってくることになってるんだけど、おふくろには姑で うら すからね。昔、虐められた怨みもあるし、命に別条ないからそれほど差し迫って考えてな いのね。なにしろおふくろは親父の浮気のことでアタマいつばいで : : : 」 「まあ : : : 」 信子はしみじみ浩介がいとしい。 「ぼく、この先の古田医院へ行って頼んだんです。何とか薬で一日中眠らせておきたいん いじ おやじ

10. 凪の光景 下

と古い友達も皆いってくれた。 「それはやつばり信子さんがえらいからよ」 「そんなことないわ、嫁が賢いのよ。やつばり社会に出て男並みに働いてる人は違うわ いい人ぶりたくていったのではない。正直な感想だった。 だがそんな幸せがこの頃、崩れてきたのである。今までうまくいっていたことが、なぜ 今頃になって : 数日前、美保は燃えるような赤いコートを着て茶の間へ顔を出した。 「お母さま、もし浩介くんが来たら、ほかを廻って先に行くからっておっしやって下さい 美保はどこへ行くともいわなかった : : : 。美保はとてもきれいだった : その時に覚えた灼けつくような感情が、今も信子の胸に巣喰っている。 抗美保は浩介とどこへ、いったい何の用で出かけたのだろう ? の信子はそれが知りたくてたまらない。それを知らないうちは、胸に靄がかかったようで、 四何を食べてもおいしくない。しかし、まさかそれを質問しに、用もないのに美保のところ へ行くわけにはいかないのである。 信子はおからを煮て持っていくことを思いついた。謙一はおからが好物であるが、美保 な」 もや