カフカズ 1 5 2 クスを背景とする彼の作品は , 悪夢 代わって台頭したのが少年たちによ アラフ・ , ーくノレシア , モンコ・ノレ , トノレ る「若衆かぶき」であったが 52 年 に似た唐突な幻想をきわめてリアル コ , スラブなどの諸族の通過地方と 幕府はこれも禁止した。次いで , 少 に描き , 現代人の破局の意識をだれ なり , つぎつぎに定着が行なわれた 年たちが前髪をおとして成年姿とな よりもさきんして独創的に探りあて ので , 一定の民族形成や文化が育っ ること , 歌舞伎でなく「物真似齠狂 ている。カフカの文学の意味づけや ことはなかったと説明されている。 言尽し」を内容とすることを条件に 影響はなお今後に課題として残され 南カフカズ地方では , 古代にグノレジ 許可されたのが「野郎歌舞伎」であ ている。 〔生野〕 ャ , アルメニア人の国がっくられ , カフカ . ズ、 Kavkaz 英語ではコ る。歌舞伎が演劇として飛躍をとげ 旧約聖書のノアの箱船の漂着とその ーカサス Caucasuso ソ連南西部 , るのはこの時期からで , やがて 1 - 世 子孫がこの地の原住民であるとの伝 黒海とカスピ海にはさまれた地域で , 説をもっている。帝政ロシア時代に 紀をへて , 江戸元禄期 ( 1688 ~ 1704 ) には「元禄歌舞伎」といわれる黄金 歴史的には欧州とアジアの境と考え は , つぎつぎにロシアの本直民地とさ られてきた。面積約 45 万 km2 。冐ヒ西か れ ( 19 世紀 ) , 原住民ははげしい圧迫 時代を現出した。戯曲も初めて専門 ら南東にけわしいカフカズ山脈が走 をうけた。 1917 年 , 十月革命以降 , 家の手で書かれるようになり , 富永 り , 全長約 1500km , 最大幅 180km , 平兵衛や / 近松門左衛門たちの活躍 カフカズはロシアから : 分宮隹したか、 主峰ェルプルース火山 ( 5633m ) をは をみ , 劇的内容の飛躍的な進展につ 22 年にアノレメニア , グノレジャ , アセ・ しめカズベク ( 5047m ) などの高峰が れて , 俳優の役がらも分化発達して , ルノヾイジャンカゞサ・カフカズ共和国 そびえ , 長さ IO をこえる氷河も数 名優が輩出 , 劇評としての「役者評 連邦としてソ連にカロわり , 36 年には 条みられる。大カフカズ山脈を境と 判記」も確立した。劇場も 3 階建て いまのような 3 共和国となった の桟敷をきをもつにいたり , 一時は絵 して北側をプリ・カフカズ ( 英語でシ 〔渡辺〕 ( 江 ) 島生島 % 事件 ( 1714 ) による山 かぶき歌舞伎日本独特の古典 ス・コーカサス ) とよび , 南側をサ・ カフカズ ( 英語でトランス・コーカ 演劇。歌舞伎はのちのあて字で , 本 村座廃絶などで停滞したが , やがて / 江戸三座 ( 中村座 , 市村座 , 森田 サス ) とよぶ。南北間の交通は主と 来の語義は , 並みはすれた行動や奇 してグルジャ道路 , オセチア道路に 矯な行動をさす「傾く」の意味であ 座 ) 制が固定した。次いで享保期 ( 17 16 ~ 36 ) にはいると , 歌舞伎は人形 よって行なわれ , 標高 250()m に近い る。歌舞伎はそのような異様なもの 浄瑠璃うの隆盛に圧倒されて , 戯 峠を越していく。山腹は本直物相の垂 として当時の人々に映した「かぶき 直変化がよく観察される。ブドウ , 曲や演出もその影響を強く受けるよ 踊り」から , 江戸初期に発生したも オリープ , イチジクなどは標高 150() うになり , 著しく様式化した のである。歌舞伎が江戸時代の民衆 m , . 小麦 , トウモロコシは 2000 m に及は、した影響は大きい。人気俳優 に中村富十郎 , 瀬川菊之丞によって 森林限界は 2500 ~ 30()Om , 雪線は西 女方芸としての「所作事豎さ」が確立 の衣装や髪形はときどきの流行風俗 音にで 2800m , 東音にで 3500m である。 の源泉となり , 役者絵は遊女ととも され , またく道成寺 E > く石橋新 > 山ろくや高地の平らな部分は放牧地 などの名曲が生み出された。カ日えて に浮世絵の王座を占め , 小間物や 舞台機構が著しく進み , 華麗な様式 となり , 急流は水力電源として利用 食品の商標にまで用いられた。歌舞 的視覚性も完成した。一方 , 上方 伎の見物は初期には各階級がかなり される。鉱産資源に富み , とくに石 ( 関西 ) に発生した / 豊後節煢ごが劇 油の埋蔵が多く ノヾクー油田をはし 自由に観覧したが , 身分制度がやか 場音楽として江戸へ下り , その旋律 めとして , ソ連有数の油田地帯と ましくいわれるにおよび , 武士や上 はたちまち社会全般にひろがったが 流階級は公然と見物することができ なっている。 扇情的なために劇場出勤を禁止され 古くから東西または南北の交通路 なくなり , もつばら町人を中心、とす た ( 1739 ) 。しかし , これから生まれた にあたり , いくつもの民族 , 言語 , る庶民階級によって支持された。見 / 常磐津 , / 富本 , / 清元の豊 物のうちには「ひいき」「連中」とい 文イ匕がましりあった。はなはだしい 後三流が栄え , 天明期 ( 1781 ~ 89 ) ときは , 谷をひとっ越えると , った特殊の団体があって , 舞台と見 の所作事全盛時代が出現した。く双 ばも風俗もちがうというありさまで , 物との交流は「口上」「襲名」「はめ 民族 , 言語集団は大小 230 を数える。 面会をて > く関の扉と > く戻り駕会、 > など , ことば」「手打ち式」などの様式を 中村仲蔵を中心とする「立役」の舞 アノレメニア , オセチア , クノレド言吾 , 生んだ 踊家による名品がこれら / 浄瑠璃に アゼノレノヾイジャン語 , クムイク語 〔歴史〕室町時代の末期から江戸時 よって生み出された。さらに上方の シリア語などのほか , カフカズ諸語 代の初期にかけて庶民の興隆ととも 作者並木五瓶 ( 1747 ~ 1808 ) が江戸に といわれる古くからの多数の言語集 に「風流」といわれる民俗舞踊が 下り , 上方の合理的な劇作法を江戸 団があり , グルジャ語はもっともひ 盛んに行なわれ , 当時 , 諸国からそ に注入するとともにく五大カ > のよ ろく用いられている。古代以降 , 北 れらの芸能団体が京都に集まってき うな傑作を残した。また , 3 世中村 たが , それらのなかに女性中心の団 カフカズ地方はギリシア , ローマ , 歌右衛門は上方 ~ 江戸間を往復して , 体も数多くあり , 出雲ド大社の勧進 東西の演出 , 演技を結び , 「変化 を名目にした / 出雲の阿国れもその 物」舞踊の全盛期を出現させた。以 ひとりであった。彼女は「ややこ踊 後 , 歌舞伎の大勢は江戸に移り , り」や「かか踊り」あるいは「念仏 とに化政期 (. 1804 ~ 3 のの文化爛え熟 踊り」で知られたが「かぶき踊り」 期には , 時代の代表作家 / 鶴屋南北 を創始するにいたってその人気は決 が「生世話ゼ物」のジャンルを確立 定的なものとなった ( かぶき踊りの した。しかし天保の改革 ( 1841 ~ 43 ) 己録は 1603 初見 ) 。この新しい風俗描 写をした「かぶき者」の踊りが , 今 は歌舞伎界にも大きな影響を与え , 劇場の取りくすしは免れたが , 浅草 日の歌舞伎の発祥であった。阿国の の猿若町へ所替えとなり , 以後明 男装した倒錯趣味も , 茶屋女やふろ 治維新まで江戸最後の劇場街となっ 屋の風俗を写すかぶき踊りも当時の た。江戸末期の歌舞伎は作者河竹黙 新興風俗で , すぐこれを模倣する「女 阿弥と名優市川小団次によって代 かぶき」の団体がいくつもでき , 全 表される。明治維新はまた歌舞伎を これら女かぶき 国的にひろまった。 も一変させた。ます江戸三座制の崩 の連中は , 遊女をも兼ねたので , 幕 壊とともに , 守田勘弥は新富町へ進 府は風俗上 1629 年にこれを禁止した。 カフカて大カフカズ 山脈はアジアとヨーロ ッノヾとの境界をなす天 然の要害であったが , 今は自動車道路も完成 している。写真は同山 脈中のグニプ村付近 一三ロ
ゲンシリヨ 6 7 5 国連原子放射線影響科学委員会 ( U 調されている。 だっためには , その研究につぎの 3 N S C E A R ) カ { , アルゼンチン , 日本 , 〔フランス〕フランスは早くから天 条件が必要であると宣言した ソ連 , 米国など 15 カ国で結成され , 然ウラン , 黒鉛 , 炭酸ガス冷却炉の っさいの情報の完全公開 , 2 ) 民主的 放射線の人体への影響などの諸問題 開発を行ない , 原子力による発電に な運営と研究の自由 , 3 ) 日本国民の が取リ組まれている。 力を入れていたが , サハラの石油 , 自主性ある運営。 〔ソ連〕水爆の製造に成功したソ連 天然ガスなどのエネルギーー事情の変 〔原子力基本法〕学術会議によって は , 1954 年はしめて 5000kW の発電所 化によりその政策は緩和されたが , 提出されたこの 3 条件は , 55 年 12 月 を完成 , 引き続き意欲的な原子力発 一方での原爆製造は着々と進行し , に成立した原子力基本法にもりこま 電計画をたて , オプニンスク原子力 60 年 2 月 , ついにその実験に成功し , れた この法律は日本の原子力政策 センターや , ドゥブナの合同原子核 第 4 の原爆保有国となった を推進するための憲法ともいうべき 研究所などを中心に研究を進め , 64 〔ューラトム〕ューラトム ( 欧州原 ものであり , 原子力の利用を平和目 年にはポロネージ原子力発電所で 21 子力共同体 ) は欧州石炭鉄鋼共同体 的にかぎり , 民主 , 自主 , 公開の原 万 kW の送電を開始 , 70 ~ 80 年を目 および欧州共同市場の構成国である 則を基礎としている。その内容には , 標に大容量の開発を計画している。 ベルキ、一 , フランス , イタリア , 西 1 ) 原子力委員会の設置 , 2 ) 原子力研 また , 高速増殖炉による海水の脱塩 ドイツ , オランダ , ルクセンプルク 究所 , 原子燃料公社の設立 , 3 ) 核原 も実施に向かいつつあるが , 64 年 , の 6 カ国よりなっている。ューラト 料物質の開発を促進する鉱業法の制 カナダと原子力関係の研究 , 情報の ムの大きな目的の一つは原子力発電 定 , 4 ) 核原料燃料物質の規制 , 5 ) 原 交流の協定を結び , 米国と脱塩に関 の開発であって , 1980 年までに 4220 子炉の建設 , 譲渡の規制 , 6 ) 放射線 する技術交換の協定を結んで , 注目 万 kW の発電が計画されている。ま による障害の防止 , などが規定して をひいている。 たユーラトムは米国 , 英国 , カナダ ある。 〔英国〕英国は産業用エネルギーの などの諸国と協定を結んでその開発 〔原子力委員会〕原子力基本法の施 不足から , プルトニウム生産炉を発 を進めているが , 共同研究センター 行と同時に原子力委員会も発足した。 を設け , 委託研究や海外との共同研 電炉として使う計画を進め , 56 年コ これは原子力の研究 , 開発および利 究なども進めている。 ールダーホールに 4 万 kW の原子炉 用に関する国の施策を計画的に遂行 〔中国〕中華人民共和国の核実験成 を運転した。これに力をえて 57 年に し , 原子力行政の民主的運営を図る は 65 年までに 500 ~ 600 万 kW の発電 功は世界諸国に大きな影響を与えた。 ことを目的としている。しかし , 米 計画をたてたが , 石炭事情の好転 , しかし中国は実験成功に当たって , 国の原子力委員会 , 英国の原子力公 進行状況の遅れから , この計画は 68 平和使用宣言を行ない , 社会主義国 社のような行政機能はもたす , 原子 年に延長されている。 64 年 , 第 2 次 としての核保有の意義を明確にした。 カ政策の企画 , 審議 , 決定にあたり , 原子力発電計画が採択されたが , 66 年 5 月 , 熱核材料を含む原爆実験 首相はその決定を尊重することを義 れは 70 ~ 75 年 , イングランドおよび に成功 , 米ソの核保有のバランスを 務づけられているというにすぎない。 ウェールズ地方で 500 万 kW の発電を くすしたが , その核兵器の全面禁止と 所属は総理府で , 委員長は科学技術 目標としたものである。英国の炉は 完全廃棄の呼びかけは , 新しい核保 庁長官が兼任し , 国務相として閣議 従来はほとんどコールダーホール改 有の意義を生もうとしている。 に出席することができる。また行政の 日本の原子力 良型が使用されている。 実施機関として総理府のもとに原子 〔米国〕原爆独占で優位を誇ってい 世界最初の原子爆弾の洗礼を受け カ局がつくられたが , のちに科学技 左は米国のセダン計画 た日本にとって , 原子力の平和利用 た米国は , 英国 , ソ連の原爆成功に 術庁が設立され , その内局となった。 の地下核実験によリ生 の名もその裏面の軍事的利用が見と あせり , その量産に力を入れたもの した穴。これにより 57 ( ) 〔原子力研究所と原子燃料公社〕原 万 rn 3 の土カ { とばされ おされて , つねに批判的視線を向け の , 平和利用への切替えの情勢に大 子力研究所ははじめ財団法人として 放射性降下物を相当範 ざるをえなかった このため各方面 きく影響され , シッヒ。ングボートに 発足したが , 原子力基本法の実施と 囲に落下させた。米国 で技術的レベルの向上した日本も , 原子力発電所を建設した。エネルギ ともに特殊法人となった。 このため は 1964 年中に地下実験 原子力に関してははるかに諸外国に ー資源の豊富なこの国では , もとよ 民間の出資と研究参加が認められ , を 29 回行なっているが , 立ち遅れている。日米講和条約の発 り必要に迫られてのものではなく 国家公務員法に束されない優遇に 垂直な穴の下に 750m3 効によってはしめてスタートの許さ より人材が集められた。研究者の共 その炉も艦船用動力炉に近いもので , もの空洞を掘り , 300 キロトンの実験も可能 れた原子核 , 原子力の研究は , 政府 同利用機関 , 技術者の教育機関とし コールダーホール型に比べて発電原 という。これにより迎 価はひしように高かった。しかし 63 による統制 , 軍事化という逆コース て研究施設が充実され , はしめ 127 撃ミサイル , 対潜水艦 年 12 月 , ジャージーセントラル社は を心配されて , 研究者や世論の反対 名の職員も 66 年には 1800 名に増加し 用核兵器などの実験も その発電価格に , 火力発電より低い をうけた。しかし政府 , 財界各方面 ている。主力は茨城県東海村の松林 行なえ , 推定を加えれ 数字を算出し , 実用化への道を促進 よりの要望のため 1954 年度予算に原 を開いて設備され , 米国から購入し ば数メガトンもの兵器 し , 64 年には核燃料の民有化がふみ 子力予算が計上され , 国会を通過し た湯沸し型実験炉 JRR ー 1 , 濃縮ウラ の開発もできるという。 右はソ連で発表された 切られた。また高速増殖炉がウラン た。日本学術会議はこの事態を遺憾 ン重水使用の非均質炉 J RR-2 のは 原子力飛行機の想像図 資源の有効利用を推進することが強 として , 原子力が平和目的だけに役 か , 天然ウラン重水型国産炉 J R R ー で , 下はその内部構造 自動車 貨物室 原子力工ンジン しやヘい 客室 乗員室 引込脚
2 7 0 造の話があるように , 大地がどのよ うにしてできたかということは , 古 くから多くの人々に論ぜられ , また 岩石の性状 , 分類 , 命名なども研究 されていた。しかし , これか・一つの 専門の学問として形をととのえたの は 19 世紀後半で , おもに顕徹鏡観察 による岩石学である。 20 世紀になっ 化学的方法で研究され , 1907 年ワシ ントンに設立されたカーネギー研究 所に属する地球物理学実験所を中心 に岩石の生成は岩圏での物理化学的 現象として論ぜられるようになった。 こうした岩石の成因を調べ , さらに 地球の内部構造を知ろうとする学問 が岩石学である。研究の方法は , 1 ) 野外調査岩石が地表にでている場 所で , どんな形状で , また互いにど 岩雨水や川の作用で山からくすさ のエネルギーで鉱物をつくる原子の んな関係で地盤を構成しているかを れ , 流されてきた大小の砂レキや泥 , 配列が変わり , べつの鉱物となる。 調べる。観察結果のスケッチ , ク あるいは海岸の岩が波の作用でこわ おもに圧力の影響によってできた変 リノメータによる地層の走向と傾斜 成岩を動力変成岩 , 熱の影響ででき されてできた砂レキなどがそれぞれ の測定 , 岩石の大きさを測る , など 平野 , 湖底 , 海底などに堆積し固ま た変成岩を熱変成岩または接触変成 を総合し , 岩石の産出状態を示す地 学ぐとし、う。 ってできたもの。また , 火山弾 , 火 質図をつくる。 2 ) 標本採集岩石を 〔節理〕岩石の露出しているところ 山レキ , 岩滓 , 火山灰などが陸上や たがねやハンマで適当な大きさに割 水底に降り積もり , 固まってできた砕 を見ると , 大小さまざまの割れめや り , 番号を書いて新聞紙などで包み , セッ岩もある。これをとくに火山砕 ひびがある。これらの中には風化に 袋に入れる。同時にノートに場所や セッ岩といい , 集塊岩 ( 火山弾と火山 よってできたものもあるが , 大部分 必要な事項を記入する。 3 ) 研究室で の仕事採集した岩石の化学分析 , 灰を主として固まったもの ) , 凝灰 はなんらかの応力が働いてできたも 顕微鏡観察 , 光や X 線による結品構 岩 ( 軽石や火山灰が固まったもの ) な のである。この岩石の規則正しい割 れめを節理といい , 板状 , 方状 , 柱 造の調査 , 化石があればなんの化石 どがある。 2 ) 化学的沈殿岩湖水や でどの時代のものか , などを調べる。 状などの節理がある。溶岩中に発達 海水に溶けていたさまざまな成分が , 〔岩石の利用〕そのまま石材とし する柱状節理 ( / 玄武洞気東尋坊 水底に沈殿し , 固結してできたも の。 3 ) 有機質堆積岩陸上の植物や などが有名 ) はとくに顕著で , 溶岩 て土木 , 建築に用いる。また鉱石と して鉱業 , 窯業に用いられ , 特別な が冷却するとき体積が収縮するため 海にすんでいた膨大な数の生物の遺 にできる。深成岩中の節理は固結す 体が長い間に水底に堆積し , 固結し 岩石として石炭や石油はエネルキ、一 るときの体積収縮 , 岩しようの運動 てできたもの。堆積岩のもっとも著 源として用いられる。 / 火成岩 / 堆 積岩 / 変成岩 / 鉱物 / ( 別刷 ) 岩石 しい特徴は , 地層を形づくることで にともなってすでに固結していた部 分がひすんだり , 固結後に地殼変動 〔岩生〕 ある。 かんせつ関節動物のからだの があったために発達する。堆積岩や 〔変成岩〕火成岩や堆積岩が , 地放 変成岩の節理はほとんど全部が地殼 骨組みを成す骨格は , たくさんの骨 の深所で圧力や熱の影響を受け , そ 変動にともなってできたものである。 や軟骨が互いに規則正しく連絡し組 の本来の形や岩石を造っていた鉱物 〔岩石の分布〕元来 , 深成岩と変成 み合わされてできているが一 の種類が変わってできた岩石。ひしょ , ク ) 月 岩は地殼の深所で生成され , 火山岩 と骨の間の連絡様式にはおおまかに うに強度の大きいようにみえる岩石 は地表または地表近く , 堆積岩は多 も , 長時間にわたって働く地殼の中 分けて 2 種類あり , 連絡する 2 個の く水底で生成されるが , 長期間にわ 骨か、互いに固定されてほとんど動か の強大な圧力に対しては , ちょうど たってくりかえされた地殼の変動に ないものを不動連結といい , 互いに 押されたアスファルトのように自由 よって , 地表や水底でできたものの よく動きうる状態のものを可動連結 に形を変えることができる。岩石が 一部は地下に沈み , 地殼の深所でで へん平になってはがれやすくなるこ または関節という。 きたものの一部も地表にあらわれて 関節によって連絡されている二つ ともある。千枚岩や結品片岩の片理 いる。しかし地殼を構成している岩 の骨の端は , 一方が関節頭という凸 はこのようにしてできたものである。 石の割合はけっして等しくない。 だ 面 , 他方が関節窩かという凹面を成 圧力も熱もエネルギーの一種で , すものが多く , いすれもその表面は いたい堆積岩は現在でも地殼全体か らみると浅いところに限られており , 関節軟骨という軟骨で保護されてい 火成岩や変成岩は深い部分に多い。 また火成岩のうちでは花コウ岩と玄 関節嚢の 滑膜層 武岩がひしように多く , 地殼を構成 骨膜 する岩石中 95 % は火成岩であるとい 関節腔 われる。地殼のうち , 地表から 16km までの部分の平均総化学組成を調べ ると , 火成岩の平均総化学組成とは とんど同しで , このことからも火成 岩が地殼の中でもっとも大きな役割 を演していることを示す。 〔岩石の研究〕多くの神話に天地創 カンセッ 岩石の節理右は石英 ハン岩の板状節理 ( 北 アルプス薬師岳 ) 。左 は岐阜県白川郷の貫入 岩にあるみごとな節理 谷を・骨こ三 関節球面の関節面を もった股関節で , どの 方向へも自由に動く , と ( 回転運動 ) ができる 関節嚢の 繊維層 関節軟骨
合に違法性が欠ける ( 違法性阻却事 由 ) かという消極的な面から論じら れる。日本の刑法では違法性阻却事 由として , 正当防衛 , 緊急避難のほ かに一般的規定として「法令または 正当の業務によりなしたる行為」 ( 刑 35 ) を定めている。正当防衛とは , 日 本刀を抜いて切りかかってきた強盗 に対して , これに反撃を加えて殺す 場合。緊急避難とは , 隣家の大きな 水がめに幼児が落ちこんださい , 助 ける暇がないので , そのかめをこわ して幼児の生命を救う場合。法令に よる行為とは , たとえば死刑執行人 が , 死刑を執行する場合。正当業務 行為とは , 医者が治療行為として足 を切断する場合である。これらの行 為は , それぞれ殺人とか傷害とか器 物毀棄 : とかいった構成要件に該当 するが , 法律上許されない違法な行 このように違法性 為とはいえない。 を欠く場合にはその行為を犯罪とし て , その行為者に刑罰を加えること はできない。 3 ) 構成要件にあたる違 法な行為があっても , それについて の非難をその行為者に帰することが できる場合でなければ , 犯罪は成立 しない。責任が犯罪成立の第 3 の要 件である。たとえば精神病者が放火 をした場合 , この放火行為について 行為者を責めるわけにゆかないから である。ところで , 行為者に対して ある行為をなしたことにつき非難を 加える ( 責任を負わす ) には , 行為者 がそのような違法な行為をなさない で , 適法な行為をなしうることを期 待しうる場合でなければならない。 そこで責任を認めるための要件とし て , 行為者が良悪を弁別でき , その 弁別にしたがって行動しうること ( 責任能力 ) とその行為のさい , 犯罪 事実を認識していたか認識すること ができたこと ( 故意 , 過失 ) が必要で あるとされる。刑法は責任無能力者 として , 14 歳未満の者 , 心神喪失者 , 唖者 ( おし ) を規定している。な お , 飲酒により心神喪失した場合の 行為については問題があろう。さら , たとえば精神病者でもその程度 のひどくない者 ( 心神耗弱 ( 者 ) は , 非難は免れないが刑が減軽されるこ とになっている ( 限定責任能力者と いわれる ) 。故意について , 犯罪構成 事実を認識していることのはかに その行為が違法であることを認識し ていることが必要であるかどうかに ついては説カ { 分かれているカ { , 日本 の裁判所は , 違法の認識は故意の成 立には必要でないとする見解をとっ ている。また , 故意と過失の限界も 困難な問題である。 〔刑罰と保安処分〕古典派の立場に おいては , 刑罰は犯罪に対して応報 として科せられるものであり , 保安 処分は社会的に危険な者を社会から 隔離し , できればさらにこれを矯正 6 0 9 するために科されるものである。 れに反して , 近代派では , 刑罰は受 刑者の矯正を目的とするもので過去 の犯罪に対するものではない。した がってこの立場では刑罰と保安処分 との本質的な区別は否定されること になる。日本の刑法は , さしあたり 刑罰だけをみとめている。日本にお ける刑罰は / 死刑 / 懲役 / 禁錮 / 罰 金 / 拘留 / 科料および没収の 7 種類 である。刑は一定の要件のもとに執 行を猶予される。これは , 言い渡し た刑をただちに執行しないで , 情状 によってその執行を一定期間猶予し , もし猶予の言渡しを取り消されるこ となしに , 無事にその猶予期間を経 過したときは刑の言渡しが効力を失 うこととする制度である。これは短 期間刑務所に入れても , その者の人 格を改善するだけの時間がないばか りでなく , かえって悪影響を与える 場合が多いことを考え , かつ一定期 間内に悪いことをすれば刑の執行が されるかもしれないという心理的強 制によって自制心を強めようとする 目的をももつ。 〔日本の刑法思想〕上代は宗教と法 が分離せす , 神の忌みきらう穢にが 罪とされ祓 , 禊会そ力研リ罰と考えら れた。 701 年 ( 大宝 1 ) には中国の刑法 を模倣した律令う制が成立したが 律令は儒教的社会の実現を理想とし ていたから , 刑法である律はとりわ け儒教的色彩が強く , 五倫 ( 君臣 , 父 子 , 師弟 , 長幼 , 夫婦 ) の関係がとく に重視された。それに反する罪は八 虐く ( 謀反 , 謀大逆 , 謀叛ん , 悪 虐 , 不道 , 大不敬 , 不孝 , 不義 ) と 称された。行刑も儒教的道徳の実現 にあるものとされていた。 9 世紀こ ろには仏教の影響もあって , 死刑の 廃止などがとりあげられた。 12 世紀 末鎌倉幕府の成立以後 , 封建制に移 行し , いわゆる武家法が主流をしめ た。この時代の刑法は封建制度ない し封建道徳の維持が主眼であり , 懲 悪ということもこの意味で考えられ , 連座や , 親族の縁によって罰せられ る縁座の制度もこの目的に役だった したがって , 武断 , 威嚇が指導理 念であった。 15 世紀半ば戦国時代に なると , 各地にその地方を独自に支 配するために大名が公布した分国法 が成立し , 刑法は一般予防主義を基 調とした厳刑主義であった。注目す べきは喧嘩両成敗黔ま法が一般化 したことである。江戸時代にはいる と 1742 年に / 公事方御定書が 制定され , 刑法は体系化された。御 定書制定前は一般予防主義が基調で あったが , 制定後は特別予防主義も とりいれた。私的刑罰権を認めたこ とのあったことも注目していい ( か たき討ちなど ) 。縁座 , 連座の制も認 めたが範囲はせばめられた。幕藩体 制を維持するために階級的色彩も強 く , 犯罪 , 刑罰の規定はしつに詳細 であった。犯罰の成立についての故 意 , 過失について類型をわけている ことも特徴的である。明治になると 1870 年新律綱領が制定されたが , こ れは , 養老律などの中国法系の刑法 典をもととしたもので , 理論 , 体系 とも整い , 刑罰はゆるくなった。同 これまで秘密文書扱いだった 時に 刑法を , はしめて印刷販売した。 80 年には , フランス系の旧刑法が施行 , 罪刑法定主義をもりこんだ。 1907 年 現行法カ { 公布され , これは 47 年の日 本国憲法の制定にともなって不敬罪 , 姦通罪の規定を削除した。なお 19 61 年 , 現行刑法を全面的に改正すべ く , 改正刑法準備草案が発表され改 正事業がすすめられている。 〔遠藤〕 けいむしよ刑務所主として既 決囚を収容するところで , 監獄とい う名称をさけるために 1922 年以来使 用されている行政上の便宜的呼称。 未決囚を収容するものは拘置所とい う。現在日本に刑務所 57 ( 支所 14 ) , 少 年刑務所 9 , 拘置所 7 ( 支所 99 ) があ る。近代的な意味での最初の刑務所 は , アムステルダムに 1595 年に設立 された懲治場の制度であるといわれ る。その女子収容所の門に刻まれて いる「なんし恐れるなかれ。われは , なんしの悪に対して報復するもので はなく , なんしを善へ導かんとする ものである。わが手はきびしいが , わカ { 心、は愛に満ちている」という とばは , 刑務所運営の最終の目的で ある。 こうすることで社会は犯罪か ら防衛されることになる。このよう な目的のもとに刑の執行されること を行刑といい , 監獄法その他で規定 されている。刑務所に収容するには 適法な文書によらなければならない。 検察官が執行の開始を指揮し , 収容 されると分類の手続が行なわれる。 これは犯罪歴や不良な性格から , 他 の受刑者に悪影響を与える : しれのあ る者を分離すること , 矯正および更 生保護の観点から本人の処遇を容易 にすることにある。分類手続の第 1 は受刑者の人格調査で , これが終わ ると処遇に適当な刑務所に送る。分 類の基準として , 1 )A 級改善容易 と思われるもの , 2 )B 級改困難 なもの , 3 ) C 級刑期のとくに長い もの , 4 )D 級少年。その他精神薄 弱 , 年齢 , 女子 , などの分類が N 級 まである。新入時の分類が終わると 原則として収容者に累進制が適用さ れる。これは , 改善の度合いに応し て階級をたかめ , 処遇を緩和すると ともに責任を加重してゆく制度であ る。この制度は仮釈放と密接に結び ついている。仮釈放とは , 自由刑の 執行を受けている者が改心の情があ るとき , まだその刑期が満了してい なくとも , 刑の執行を停止して出獄 刑務所 ( 補 ) 日本の刑 務所を刑の種類によっ て分類すると , 懲役監 ( 懲役囚 ) , 禁固監 ( 禁固 囚 ) , 拘留場 ( 拘留囚 ) , 拘置監 ( 刑事被告人 , 拘 禁人 , 留置人 , 死刑囚 ) と 18 歳未満で 2 カ月以 上の懲役囚を収容する 少年監獄 ( 少年刑務所 ) がある。 ケイムショ
カンサス 上からネーゲレ鉗子 , ーくアン鉗子 , コツへノレ 鉗子。下の二つの鉗子 は , 先端がちがうだけ や材料に華美なくふうが凝らされ , 幾度かぜいたく品として禁止の対象 となった。おもな種類をあげると , 玉付や平打ちはおもに後ろざしとさ れ , 花かんざしはつまみ細工や , び らびらをつけた華美なもので娘の髪 の前ざしとされた。また根掛けはま げに赫トけて飾りとした。なお現在は 洋髪がはとんどなので , 従来のかん ざしを用いるのはまれであるが , 形 状はひろく洋髪の髪飾りにとりいれ られている。 / 髪形〔高見沢〕 カンザス〔州〕 Kansas 米国中 央部の州。北はネプラスカ , 東はミ ズーリ , 南はオクラホマ , 西はコロ ラド各屮 I•I に囲まれる。面積 213070km2 , 人口 2180553 ( 1964 ) 。主都はトピー 力。東西約 660 km , 南北約 330 km の 長方形の州で西は標高約 130() rn , 東 へいくはど低く 250 m くらいとなる ので , カンザス川 , アーカンソー川 をはじめ , 川は東ないし南東流する。 平均降水量は 660mm で夏は暑く乾燥 する。冬小麦の主産地で全国の 20 % を産する。西に小麦と牛の放牧地 , 東にトウモロコシと牧場が多く , 牛 は人口の 2 倍以上 ( 543 万頭 , うち乳 牛 34 万 , 1964 ) いる。アノレフアノレフ ァ , ジャがイモ , 果実 , 大麦 , ェン ヾク , コーリャン , 亜麻 , 酪農製品 を産する。世界的規模のと畜場をも つスイフト , アーマ両社のシカゴ工 場は 1959 年に操業をやめてカンザス シチに移ったので , 食肉供給業の中 心は全国第 2 位の家畜肥育場と 11 の 食肉加工所のある同地に移りつつあ る。かっての農業州にも各種工業が おこり , なかでもウイチタにはポー イング , ビーチ , セスナ各社の航空 機工場があり , 全国一の小型機生産 をはこる。石油生産では第 5 位。他 にセメント , 石炭 , 亜鉛 , 塩 , 石材 , 鉛を産する。 1803 年のルイジアナ購 入でフランス領から米領になったカ ンザスは , 1861 年に 34 番めの州とな 2 6 0 場 , 食肉加工所 , 製鉄所 , 精油所 , 製粉 , 製材所 , 農耕機械工場があり , 十し草 , 穀物 , 家畜の市がたつ。 ズーリ川の舟運のために 1833 年に設 けられたウェストボート・ランディ ングから発展し , 初めはウェストボ トと呼ばれたが , 38 年にカンサス の町が地取りされ , 89 年にカンザス シチとなった。カンザスシチ大学 ( 1929 創立 ) がある。 〔石光〕 かんざんし寒山詩中国唐代の 人 , 寒山の作と伝えられる一連の詩。 寒山は唐初 ( 7 , 8 世紀 ) の人で , 世俗 を超越し奇矯な性格を持っ隠者とさ れ , その分身の拾得旨とともに日本 にも親しまれた人物であるが , 実在 人物かどうかを疑う説もあり , その 作とされる寒山詩も , 複数の作者に よる可能性も少なくない。また実在 したとしても , 時期は 9 世紀ごろで ある可能性が強い。詩の内容は多様 で , 褝宗色の強いものも多いがけ っしてそれ一色ではなく , 人間的悩 みの告白や , 隠者であることへの懐 疑もみられ , 要するに大部分が , 方で官吏であった中国詩人らのなか で , まったく拘束されぬ自由人 , 裸 の人間のことばで歌われている点 , 中国詩のなかでもきわめてユニーク な地位を占めている。 〔丸山〕 った 〔石光〕 カンサ、スシチ Kansas City 米 国 , カンザス州の東部 , カンサス , ミズーリ両川合流点にある工業都市。 ミズーリ州のカンサスシチと隣接す る。人口 1219 ( ) 1 ( 1960 ) で同州のウィ チタにつぐ。家畜肥育場 , 食肉加工 所 , 大穀物倉庫 , セッケン工場 , 製 鉄所 , 精油所があり , 付近に油田 , 石材 , 石灰石鉱床がある。 1843 年ワ イアンドット・インディアンによっ て開かれた地であるが , 55 年にアメ リカ連邦政府に売却され , 白人によ る植民は 57 年に始まり , 86 年に市と なった 〔石光〕 カンサ、スシチ Kansas City 米 国ミズーリ州の西部 , ミズーリ川の 南岸にある商工業都市。州境線をは さんでカンサス州のカンサスシチと 隣接する。人口 475539 ( 1960 ) で州内 ではセントルイスにつぐ。家畜肥育 かんし干支 / 十干十二支 かんし鉗子主として手術時に ものをはさむ目的で使用される , は さみ状の機械の総称。現在 30 種以上 の種類があり , 手術には欠くべから ざる機械で , 手術の進歩とともに種 種創意改善されている。おもなもの は , 止血の目的で血管をはさむコッ ヘル鉗子 , 産科手術のさいに産児の 頭をはさんでひき出すために使用す るネーゲレ鉗子 , 骨を把持するた めに使用する骨鉗子などである。そ のほか各臓器の把持 , 器具の挿入な どのさいに , それぞれの目的に応し た形の鉗子か、使用される。〔成瀬〕 かんし漢詩中国の旧詩の形式 に従い , 中国の文字言語を用いて作 られた詩をいう。中国の旧詩をも含 めてよばれることもあるが , 狭義に は日本人の作のみをいう。名称も , 明治以後に発達した新体詩と区別す るため , 明治 20 年代の国粋主義的風 潮から , 日本固有のものでないこと を示すために使用されたものである。 それ以前はただ「詩」とよんだ 日本で漢詩が作られ始めたのは , 近江朝 ( 667 ~ 672 ) で , 天智天皇のこ ろ盛んに作られたと伝えられるが , それらは壬申鮻の乱によって失われ , 現存する最古の漢詩集は 751 年に編 集されたく懐風藻 > である。これは 現存する最古の作品の作者大友皇子 を始め 64 人の作 120 編からなり , 作 者はすべて上流階級の人物であるた め , 作品は貴族的で生気に乏しいう らみがある。 平安時代にはいると白楽天のく白 氏文集ぅ〉や梁の昭明太子の編ん だ / く文選 > などの影響で新しい 詩風もうまれ , 総集としてく凌雲 集 > く文華秀麗集 > が , また漢詩文の 総集としてく経国集〉が勅選され これらの詩集におけるおもな作 た 家としては嵯峨天皇 , 小野篁ら がおり , これにややおくれて都良 香新の続いて菅原道真らが出た。 , のころを頂点として漢詩 , 漢詩文は 衰え , 鎌倉 , 室町時代には , 五山の 褝僧を除いてはほとんど顧みる者も なくなったが , 一面 , 五山の神僧に よって従来の貴族的な詩風に代わっ て , 宋の蘇軾や黄庭堅さらに 彼らが宗とした唐の杜甫のたくまし い詩風がとりいれられた。代表的作 家に絶海中津毟んがいる。 江戸時代にはいると漢文学はふた たび興隆し , 元禄以後 , 荻生徂徠 3 を中心に , 門人服部南郭 , 高野蘭亭 らが , 明の李攀竜王世貞らの 影響をうけて , 漢魏六朝の詩になら った格調高い詩を唱えた。新井白石 などもこの傾向の詩を作った。それ まで手本とされていたく三体詩〉 ( 宋の周弼うの編 ) に代わってく唐詩 選 > が流行するようになったのも , このころからである。安永以後にな ると , これに対して山本北山など , 明の袁中郎の説により , 平易な新 鮮さを重視する動きが起こり , さら にそれ以後になると , 中唐 , 宋 , あ るいは清代の詩を重視する動きなど も起こるようになった。江戸時代最 後の作家として頼山陽らがいる。 明治にはいると清代の詩の影響が 強く , 森槐南ら多くの作家が出た が , 大正 , 昭和期に至ると , 漢詩の 創作は日本の文壇とも大衆とも関係 の薄い一部の同人や学者などの趣味 として残るのみとなった。 〔丸山〕 かんじ漢字漢語 , 中国語を表 わす表語文字で , 単音節の語彙まを 中心とし語尾変化のない中国語の性 格によく合致している。漢字は漢文 化の伝搬とともに周囲の民族に伝わ り , 日本 , 朝鮓 , 安南に根をおろし た。朝鮮では中国との交渉が日本よ り直接的で , 日本語以上に強い影響 を受けたよしかし漢字の読み方は 1 字について一通りだけで , この点日 本と事情が異なる。安南では後漢か ら三国時代にかけて中国文化が波及 し漢字 , 漢文を用いたが , 15 世紀こ ろ漢字を利用しその構成法にならっ て合成した字喃 ( チュウノム ) がっく られ , 固有の安南語を書き表わすの に使われた。しかし今日では , ロー マ字を国字として採用し , 漢字や字 喃は用いられなくなりつつある。 〔起原と変遷〕最古の漢字は , 19 世 紀末発掘された / 甲骨文で , 殷代の ものと推定されている。この字体は 周代に受け継がれて金文とよばれる
カンケンガ 2 4 4 択が個々の楽器の音色よりもむしろ 以後専門の指揮者が現われ , また各 ートをまとめるために楽器群ごと 音域によって決められたこと , そし に主席奏者があり , さらに指揮者を て , 通奏低音 ( 音楽の項のバロック チ 期参照 ) という当時の独特な演奏慣 助けて管弦楽全体をリードするのが コンサート・マスターである。これ 習の結果 , オルガンやチェン - バロの ( 木管 ) ような鍵盤楽器がほとんど常用さ は一般に第 1 バイオリンの主席奏者 ホー ン′ があたる。 れたことである。楽器編成の規模も , オーポエ j 演奏会場における楽器の配置は , 作曲者が厳格に指示することはまれ ート / フ丿レ 会場の音響効果や作品の性格などに で , 演奏団体の能力や大きさに左右 / ビオラを され , 概して小さな編成であった。 よって種々のものがあるが , 図のよ チェロー しかし , 1784 年にウェストミンスタ うな 3 種がもっとも標準的である。 ー聖堂で彳なわれたヘンデノレのくメ 管弦楽によって演奏される音楽に サイア〉が , 合唱のはかに 250 人もの も種々の形式があるが , 交響曲 , 交 ハープ 大管弦楽を用いたような例外はある。 響詩 , 協奏曲などがもっとも代表的 管弦楽の歴史で大きな時期を画し なものであり , そのほかヒ。アノ曲や 室内楽が管弦楽用に編曲されること たのは 18 世紀前半のマンハイム楽派 もある。また , オペラ , ノヾレー , オ であった。南ドイツのこの地には , ラトリオ , カンタータのような劇音 当時のヨーロッパでもっともすぐれ 打楽器 ) 楽や合唱音楽にも管弦楽が重要な役 た管弦楽団があり , J. シュタミッ 割を果たす場合が多い。 ( 1717 ~ 57 ) らを中心に合奏技術を飛 〔歴史〕楽器の合奏そのものは楽器 躍的に高めるとともに 幅の広いタ、、 イナミックス ( 音力法 ) をつくり出し の発明とともに古くから存在したと て管弦楽の表現力を著しく拡大した。 思われるか、 , 楽器相互のノヾランス , 近代管弦楽の出発点となったマンハ 各楽器の機能や性格が組織的に考え / クラリ ( 木管 ) イム楽派は , 、イドンとモーツアノレ られた大規模な合奏は比較的新しい。 トに大きな景彡響を及は、し , さらにべ 中世およびルネサンス時イにの合奏は , ーベンに受け継がれる。この 3 祝典用のファンファーレなどを除け 第 2 、 人によって古典派管弦楽か市寉立され ば , むしろ室内楽的なものであった。 バイオ : リン たが , それは弦を主体にした 2 管編 各パートに特定の楽器を用いた最初 ハープ この時代 成のものであった。また の大規模な管弦楽は , 16 ( ) ( ) 年ころの にはロンドン , ノヾリ , ライプチヒ , ウ G . ガプリエリ ( 1557 ~ 1612 ) のくシン モー ィーンなどの主要都市で定期的な管 フォニア・サクラ集 > である。 指揮 第レヾイオリン 弦楽演奏会が始まり , 従来はおもに が当時のヨーロッパでもっとも富裕 貴族や一部富裕階級のためのもので で国際的な者 5 市ベネチアで書かれた ン、一プ : チューバ ホーン フ あった管弦楽が , 一般市民の芸術に ことは重要で , 大規模な合奏が , 方では貴族 , 宮廷 , 富裕階級の保護 なったことも忘れられない。 ツ 器 のもとに , また他方では多数の聴衆 19- 世紀のロマン派になると C. M. v. と大きな演奏会場を前提として生ま ーやメンデノレスゾーンの手 「ン工 . ーーノヾ オ で , 管弦楽に色彩的 , 絵画的効果が れたことを暗示している。 16 世紀末 とりいれられた。しかし , 彼らの管 から 17 世紀にかけては , もっとも公 、工を 弦楽が基本的には古典派管弦楽の楽 ク 共性に富む音楽がオペラであったと フ 器編成を受け継いだのに対して , 新 ころから , 管弦楽もおもにオペラの しい楽器も加えて楽器編成を著しく この . でとく 一部として発達した。 拡大し , その後の発展に大きな影響 に注目される作曲家か・モンテベルデ イで , 彼のオーくラくオノレフェオ > ( 16 を与えたのカゞフランスの一くノレリオー (* 呂 ) フルート・第レヾイオリン旨揮 ズであった。彼は 4()() 人以上の奏者 07 ) の管弦楽は , 種々な楽器の個性 を要する作品さえ計画した。楽器編 なるものは , 日本語の「管弦楽」と を強調し新しい演奏技巧を開拓した 管弦楽の楽器の配置。 成を拡大しようとする傾向は後期ロ いうことばに矛盾するが , 実際には ものとして画期的な意義をもってい 上は一般的な西欧型 中は新しいアメリカ型 マン派に共通する特徴となり , ワグ る。くオルフェオ > の管弦楽は多くの そオしそ、 tLstring orchestra, wind 下はドイツの歌劇場で ナーはく口一工ングリン > やくトリ orchestra とよばれて , 広義の管弦 点で革新的ではあったが , その主体 行なわれているもの スタンとイゾルデ〉で 3 管編成を , 楽に含まれる。 カゞ管楽器におかれていた点では , ま さらにくニーベルンゲンの指輪〉と だルネサンス・オーケストラの性格 管弦楽は多くの楽器の複雑な集合 くノヾルシフアノレ > では 4 管編成の管 体であるから , 演奏にあたっては , をとどめていた。それに対して , モ 弦楽を用いるにいたった。彼のあと , 合奏の正確さと表現の統一をはかる ンテベルディの晩年以後 , 管弦楽は プノレックナー , マーラー , R. シュト 弦楽器を主体にするようになり , フ ために , 全体を統率する指揮者が必 ラウス , 初期のシェーンべノレクらか・ 要である ( / 指揮 ) 。指揮者の存在は , ランスのリュリやイタリアの A. スカ ますますこの傾向をおし進め , とき 管弦楽あるいはその前段階である多 ノレラッチのオペラやノヾレーにおいて には 6 管 , 8 管の編成さえ要求した 楽器の合奏とともに古く , かっては 弦 4 部を中心、にした管弦楽が発達し おもにテンポや拍子の指示を目的に 編成の規模が増しただけでなく , た。以上のようなオペラやノヾレーの の時代には各楽器の能力も著しく拡 していた。しかし 19 世紀のロマン派 一部としての管弦楽と並んで , 17 , 大され , 巨大な複雑な合奏体を統率 で管弦楽の規模が著しく拡大するに 18 世紀にはコレリやビノヾルディの手 する指揮者の重要性と発言力も高ま 伴って指揮者の役割も増大し , 単な で , 合奏協奏曲のような純粋器楽と った。一方 , 印象派のドビュッシー るアンサンプルの統率者にとどまら しても管弦楽が発達し , その成果は は「オーケストラのノヾレット」とよ す , 作品の解釈者としての強い個性 J. S. ノヾッノ、とヘンデルに受け継カヾ ばれるような繊細な色彩感を管弦楽 このようなノヾロック・オーケ を主張するに至る。在来は鍵盤数楽器 れた。 ストラに共通する特徴は , 楽器の選 のうえで表わした。 に座して指揮するのが通例だったが , 、、 ( 打楽器 ) ( 金管 ) フアゴット トラン 丘 チェレスタ 第一ノヾイオリン 第 2 バイオリン 指揮 フアコ . タ 冂レコ 冂凸 、フルート ビオラ ン ロ コントフ / 、 工ーエ工ーエー ( 工 ト ツ
2 け世紀初めにはシェー ン・べノレクグ ) くグレの歌 > ( 1913 ) やストラビンスキ ーらに大規模な管弦楽もあったが , その後の現代音楽はむしろ室内管弦 楽ふうな小規模な編成を好んで用い るようになった。ストラビンスキー のく兵士の物語 > ( 1918 ) はその傾向の 最初の現われである。楽器編成カ曰、 さくなったのに対して , 各楽器の用 法や組合せの方法は著しく変イ匕した。 たとえば , 古典派やロマン派の管弦 楽で主体をなした弦が , ときには打 楽器的な効果のために用いられ管楽 器が主要な役割を演したり , 打楽器 の種類と用法がひしように拡大され たりする。また , きわめて特殊な編 成が用いられることも多く , 現代の 管弦楽では標準的な編成の意味が減 少して , 作曲者の表現意図に応じて それぞれ独自の楽器編成が用いられ る傾向が強くなっている。〔角倉〕 かんげんがくたん管弦楽団管 弦楽を演奏する団体で , 1 ( ) ( ) 人前後 の楽員から成る大規模な交響管弦楽 団 symphonic orchestra, あるいは ー管弦楽団 philhar- フィノレノ、一一モ monic orchestra と , 20 人前後の室 内管弓玄楽団 chamber orchestra とが ある。ふつう管弦楽団というときは 前者をさすことが多く , これは交響 楽団ともよばれる。また , 管弦楽団 は , 常任指揮者と固定した楽員をも ち , 定期的に演奏会活動を行なう常 設的なものがふつうであるが , その はか , 音楽祭やレコード録音などに 際して臨時に編成されるものもある。 現在の交響管弦楽団は , 広範なレバ ートリーに応しる必要から 3 管編成 ( / 管弦楽 ) 以上の楽員を常備してい る。現在各国における主要な管弦楽 団をみるとつぎのようである。 〔オーストリア〕ウィーン・フィル ー管弦楽団 ( 1842 創立 ) , ウ ィーン交響楽団。〔ドイツ〕ベルリン・ フィルハーモニー管弦楽団 ( 1882 創 立 ) , ベルリン国立歌劇場管弦楽団 ( 1742 創立 ) , ドレスデン国立歌劇場 管弦楽団 ( 1841 創立 ) , ライプチヒ・ ゲバントハウス管弦楽団 ( 1743 創立 ) , バイエルン国立管弦楽団 ( ミ ン国立歌劇場管弦楽団も兼ねる ) , ンプルク・フィルハーモニー管弦楽 団 ( 1896 創立 ) 。〔フランス〕パリ音 楽院管弦楽団 ( 1828 創立 ) , ラムルー 管弦楽団 ( 1882 創立 , バリ ) , コロン ヌ管弦楽団 ( 1872 創立 , パリ ) 。〔イタ リア〕ミラノ・スカラ座管弦楽団 , ローマ・アウグステオ管弦楽団 , ト リノ交響楽団。〔英国〕ロイヤル・フ イルノく一モニー管弦楽団 ( 1813 創立 , ロンドン ) , B B c 交響楽団 ( ロンド ) , ロンドン・フィル / 、一モ 管弦楽団。〔ソ連〕モスクワ国立管 弦楽団 , レニングラード・フィルハ ーモニー管弦楽団 ( 1802 創立 ) 。〔米 国〕 ューーヨーーク・フィノレ / 、一一モ 2 5 5 ー交響楽団 ( 1842 創立 ) , ポストン交 響楽団 ( 1881 創立 ) , フィラデルフィ ア管弦楽団 , シカゴ交響楽団 ( 1891 創立 ) , サンフランシスコ交響楽団 , ミネアポリス交響楽団 , セントルイ ス交響楽団 ( 188 ( ) 創立 ) , ピッツバー グ交響楽団。〔その他〕オランダの アムステノレダム・コンセルトへボ、ウ 管弦楽団 ( 1883 創立 ) , ベルギーのプ リュッセル王立音楽院管弦楽団 , デ ンマーク王立管弦楽団 ( コペンハー ゲン ) , フィンランドの一、ルシンキ 市立管弦楽団 , ノルウェーのオスロ・ フィルノ、一一モニー管弦楽団 , スエー デンのストックホルム王立歌劇場管 弦楽団 ( 1773 創立 ) , スイス・ロマン ド管弦楽団 ( ジュネープ ) , ハンガリ ーのプダー、スト・フィノレノ、一モニ 管弦楽団 , ルーマニアのプカレスト・ フィルハーモニー管弦楽団 , チェコ ー管弦楽 ク ) チェコ・フィノレノ、一一モー 団 , ポーランドのワノレシャワ・フィ ルハーモニー管弦楽団など。 日本の管弦楽団は 1881 年 , 文部省 音楽取調掛 ( 現芸大音楽学部の前身 ) の教師であった米人メーソンが組織 ( 楽団員 1 ( ) 人 ) して取調掛と宮中で行 なったのが最初で , 1912 年ごろには この音楽学校の管弦楽団員は 5 ( ) 人を 数え , 2 管編成の曲が演奏されるよ うになった。職業的楽団としては 19 14 年山田耕筰が 3 管編成の楽団によ る演奏会をもったが , 26 年からは日 本交響楽協会として定期演奏を始め , 翌 27 年からは新交響楽団と改組し , 近衛秀麿の下に日本におけるもっと も代表的な管弦楽団として発展した。 現在はその後身 N H K 交響楽団のは か , おもな管弦楽団につぎのような ものがある。東京交響楽団 ( 東宝交 響楽団より分離 ) , 東京フィルハー モニーー交響楽団 ( 旧名中央交響楽団 , 東京交響楽団 ) , A B C 交響楽団 ( 旧 名近衛管弦楽団 ) , 日本フィルハーモ ー交響楽団 , イムペリアル・フィ ルハーモニー交響楽団 ( A B C 交響楽 団より分離 ) , 京都市交響楽団 , 大 阪フィルハーモニー交響楽団 ( 関西 交響楽団より改組 ) など。 〔角兪〕 かんご看護看護とはふつう使 われている病気の看護のほかに , 病 気の予防 , 健康保持および増進など の意味も含まれている。重い病気 , ある種の慢性の病気 , たとえば精神 病 , 結核などの場合にそれぞれ専門 の病院に入院し , 特別の検査 , 治療 , 看護をうけなければならない。しか し病気の種類 , 状態によっては入院 の必要はないし , 退院後の回復期の ことなどを考えてみても家庭内での 看護も必要なことが多い。この場合 病人はくつろいだ気持で療養できる のはよいが , しばしばわがままにな りがちで , 看護者も同情のあまり適 切な看護を忘れがちになる。そのた め家庭看護に必要な程度の正しい看 著名な管弦楽曲 ( 編集部選 ) カンゴ 数字は作曲年代 名 作曲家 S. ノヾじ′ 作 ロロ J. モ べ べ べ べ ン ン イ イ ト ト ト ト ン / コ・ テ。 ド ド アノレ ′く ′くノレ ハ ル ル ン ン ト ン ン ン ン ト メンデノレスゾーン メンデノレスゾーン メンテつレスゾーン ン / ン′ ワ J. ス グ コ . グ ンユ メ リ ナ ン ン ン ト ス ト ラウス タナ グ ムス ムス ムソルグスキー プ . ルックナ チャイコフスキー R. シュトラウス R . ーコノレヨガコフ フランク ダンディ サン・サーンス ド ド ド テ - ン ス レ ストラビンスキー ストラビンスキー ストラビンスキー ン′くノレク ン - ヾノレク クリャービン フ べリウス カ ヒ・コ・・ノシ / ヒ・コ - 、ノシ・ - ポノレジャク 管弦楽組曲 ( 第 1 ~ 4 番 ) 1717 ~ 23 組曲く水上の音楽〉 1717 組曲く花火の音楽〉 1749 くパリ交響曲 > ( 全 11 曲 ) 1786 ~ 89 くザロモン交響曲〉 ( 全 12 曲 ) 1791 ~ 95 交響曲第 3 番 交響曲第 4 番 交響曲第 1 番 交響曲第 3 番 交響曲第 4 番 交響曲第 8 番 交響曲第 9 番 交響曲第 6 番 交響曲第 5 番 交響曲第 3 番 交響曲第 41 番 1842 くライン〉 1850 1841 ( 1851 に改作 ) ( 春 ) 1841 くスコットランド > くイタリア〉 1833 交響曲第 5 番く宗教改革〉 1832 ( 未ラに . 成〉 1822 ぐ各日昌〉 1824 く田園 > 1808 0 運イな > 1807 ぐ英 : 雄 ) 1804 くジュピター〉 1788 交響曲第 8 番く千人の交響曲 > 1907 ・交響詩くフィンランテ・イア〉 1899 交響詩く魔法使の弟子〉 1897 く海〉 ( 管弦楽曲は 5 曲 ) 1905 く牧神の午後への前奏曲 > 1894 1893 交響曲第 5 番く新世界より > 交響曲第 6 番く悲愴〉 1893 交響詩くドン・ファン〉 1888 交響詩くシェ工ラサード > 18 田 交響曲ニ短調 ( はかに交響詩 5 曲 ) 1888 くフランス山人の歌による交響曲 > 1886 交響曲第 3 番 ( 交響曲は 5 曲 ) 1886 交響詩く中央アジアの草原で > 1880 交響曲第 4 番く口マンチック〉 1880 交響詩くはけ、山の一夜 > 1877 交響曲第 4 番 1885 交響曲第 1 番 ( 交響曲は 4 曲 ) 1876 組曲くべール・ギュント・〉 1875 交響詩くわカ { 祖国〉 1874 ~ 79 円舞曲く美しく青きドナウ > 1867 交響曲第 1 番 ( 交響曲は 1 曲のみ ) 1855 交響詩く前奏曲 > ( 交響詩は 13 曲 ) 1848 歌劇く口一ェングリン > より前奏曲 1848 スピ ギ 交響曲く法・見の詩〉 1908 く五つの管弦楽曲 > 1909 くオーケストラの変奏曲〉 1928 組曲く火の鳥〉 1910 組曲くべトノレーシカ > 1911 組曲く春の祭典 > 1913 交響詩く口一マの泉〉 ( 三部作の 1 ) 1916 フ。ロコフィ - 工フ フ コ フ アリャ イ ル シ - . 工イン・ ル ン ク . ル ノレ く古典交響曲〉 1917 舞踊曲く三角帽子〉 1919 舞踊曲く天地創造 > 1923 く寄港地 > 1924 糸且曲くノ、一リ・六 , ーノシュ > くノ、リのアメリカ人〉 1928 くボレロ〉 1928 交響曲第 3 番 ( 交響曲は 4 曲 ) 舞踊組曲くカ・イーヌ > 1942 交響曲第 5 番 1937 1926 1930 ショスタコビッチ ノ、チャトリアン - ? ノレタ オネゲ ヒンデミット く管弦楽のための協奏曲〉 1943 く小協奏交響曲 > 1945 交響曲第 3 番く典礼風 > 1946 ・ - 交響曲く世界の調和 > 1951 注以上のはかにも代表作としてあげられる曲は多いが , ここでは 標題楽的な曲を中心にできるだけ多くの作曲家にわたって選曲した
クリ ーム 5 6 4 もあるが , 皮膚を荒らす成分も含ま クリーム c rea m クリーム状に なった化粧料の総称で , 油脂 , ロウ れるので明示した使用法を守る必要 などと水 , グリセリン , グリコール がある。 〔高見沢〕 類のような水性物質との乳化物。使 クリーム c r e a m 食用のク = リ 用目的から洗浄用クリーム , 栄養ク ムで , 牛乳のクリームをはしめ洋風 リーム , 化粧下クリームなどに大別 の料理や菓子に用いるクリーム状の され , 原料の種類によって油性クリ 食品をいう。 ームと無油性クリームに分類される。 1 ) 牛乳のクリーム牛乳の表面に凝 1 ) 油性クリームみつロウ , 鯨ロウ , 固する脂肪質を , 分離して得たもの 固形ノヾラフィン , セレシン , ワセリ で , 生クリームと通称している。そ ン , ラノリン , 流動ノヾラフィン , オ のまま食したり , チョコレート , コ リープ油などから適宜に選択し , セ ココアなどの飲み物に加え ッケンなどによって水と混合し乳化 て風味を添えたりする。 2 ) 製菓用ク させたもの。油脂成分を水中に分散 リーム生クリームをそのまま添え グリム兄弟向かって左は兄 , 右は弟 ることもあるが , ふつうは砂糖 , 香 させて水中油型の乳化をはからせた 料 , デンプン類を加え , また卵 , 牛 り , 逆に水を油脂中に分散させて油 リムの法則」をたて , くドイツ文法〉 乳 , バターなどにデンプン類を加え 中水型にしたりすることもできる。 4 巻を公にしてゲルマン語学の基礎 てクリーム状にしたものもある。工 代表的なものは , a. コールドクリー をおいた。兄弟は共同で民衆のなか クレアやシュークリームなどの中身 ム用途がひろく , 万能クリームと から昔話を収集しく子どもと家庭の としたり , デコレーションケーキの もいう。洗浄クリーム , 栄養クリー 物語 > を刊行 , これは「グリム童話」 飾りなどにし , くだものの上にかけ として親しまれ , 後代の学芸に多大 ム , マッサージクリームなどは , たりする。おもなものをあげると , のクリームの成分を加減して , それ の影響を与えた。さらに兄弟は後半 a. クリームシャンチークリームフ 生を傾けてくドイツ語辞典 > 全 16 巻 ぞれの目的に適するようにしたもの ェテともいう。生クリームをあわ立 の巨大な編集企画をたて , 生前に第 といえる。ファンデーションクリ てて , 砂糖 , 香料を加えて作る , b. 3 巻までを完成した。過去 4 世紀の ム ( 一種のクリームおしろい ) はコー メレンゲ卵白を堅くなるまであわ 語彙を完全に集め , 豊富な文例を ルドクリームにおしろい成分をねり 立て , 砂糖と香料を加える , c. フォ 引用したもので , あとはベルリン・ こんだものである。 b. クレンジング ンダン砂糖と水を火にかけてかき アカデミーが引き継ぎ 1960 年に完成 クリーム洗浄用のクリームで , 主 した。 / グリム童話集〔小塩〕 まぜながらキャンデーにし , 酢を 2 , 成分が流動パラフィンであるから化 3 滴落として火からおろす。着色し グリムどうわしゅうグリム童話 粧下やマッサージには使用しない。 集グリム兄弟によって集められた 油性化粧の洗浄に適するが使用後は たり香料を加えたりする , d. クリー 昔話集の通称。正しくはく子どもと家 よく洗いおとさないと皮膚をいため ムアングレーズカスタードクリー ムともいう。砂糖 , 卵黄 , 少量の小 庭の物言吾 Kinder- und Hausmär - る。 2 ) 無油性クリームノヾニシング クリームで代表される。皮膚に塗る 麦粉を混ぜて牛乳を加え , 弱火で煮 chen > という。グリム兄弟は大学在 学中にプレンターノに出会って昔話 たもの。これに溶かしたゼラチンを と薄い膜となって , あたかも吸収さ ( メルヘン ) 収集をすすめられ , 習学 加えたものをクリームコーレという。 れて消失したように感じられるので したサビニー教授の史的見解やロマ この名がある。これは表皮に適度の e. クリーム / ヾチスリ クリームア ン派の運動に影響されて , 1807 年こ ングレーズより小麦粉を多いめにし 水分をあたえ , 荒れを防ぎ , 粉化粧 ろから熱心に昔話の採集を始め , 早 下として適している。また少量の油 て作る。 ヾターを加えたり , メレン くも () 9 年には 47 編の草稿を作ってプ ゲや生クリームを合わせたりする。 脂類を加えて , やや油性クリームの レンターノに送った。しかし移り気 f. ノヾタークリーム / ヾターを主体と 感じをあたえたものもあり , これは なプレンターノはライン河畔の修道 したもので , 卵黄 , 砂糖 , 生クリー 中性クリームとよばれることがある。 院に託して忘失 ( のち 18 93 年に発見 3 ) その他栄養 ( ナリッシング ) クリ ムなどを加えて作る , などがある。 され , 祖稿とよばれるが , 断片的なス なお , 料理用のクリームとしては , ームやホノレモンクリームか、あるカ { , ケッチにすぎなかった ) , そのうち これらは皮膚によい影響を与える動 アントルメ ( 甘み料理 ) には菓子用の にも兄弟は鋭意収集整理につとめ , 植物油やホルモンをバニシングやコ クリームが用いられる。このほか , ′、ンセフレとグレーテノレ 12 年 85 編 , 15 年 70 編を出版し , 注釈 ールドに加えたもので , とくに中年 / スープのうちのボタージュやソー 父母につれられて森の の第 3 集 ( 1822 ) とともに , く子ども スのうちクリーム状のものをクリー 以上や皮膚の疲れたときに適する。 奥へ捨てられにゆく。 ムの名でよぶことがある。 / ケーキ と家庭の物語 > の 3 部を完成した。 またにきび , 湿疹 , そばかす , 日や ヘンゼノレは : 帰りの道し しかも生前版を重わるたびに改稿追 〔関〕 け止め用の薬品を配合したクリ るべにパンくすをまい ーム 補して 17 回に及び , 総計 240 編ほどの グリムきようだいグリム兄弟 ておく ( リヒター画 ) 昔話を紹介 , 世にくグリム童話〉と ドイツの言語学 , 文献学の創始者。 よばれて , 兄弟のゲルマン学の源流 兄はヤコプ・グリム Jacob G ri mm となり , 世界民俗学の基礎となった。 ( 1785 ~ 1863 ) , 弟はウイルヘルム・ 昔話の紹介としてはペロー童話が先 グリム W i 1 h e 1 m G r i mm ( 1786 ~ 18 行するが , ペローは昔話の種を文芸 59 ) といい , その生活と研究におい 化したのに反し , グリム兄弟 , こと て兄弟は生涯ともに堅く結ばれ助け に兄のヤコプはロ伝の厳格な保存を 合った。祖父は牧師。父は役人であ 考え , ドイツ古代の習俗信仰を照ら ったが早く没し , 兄弟は窮乏のうち す貴重な遺産として扱ったため , 世 に苦学し , ふたりともゲッチンゲン 界最初の学問的な意図が達成された 大学教授となるが , ノ、ノーバー公ェ うえ , 弟ウイルヘルムが終生 , 適応 ルンスト・アウグストの違憲を非難 性のある素朴で美しい表現に改め , して職を追われ ( 1837 ) , ベルリン大 同じ話を比較して定型化をはかった 学に招かれ ( 1841 ) その地で生渊を送 ために , 質実な文学性をもあわせ , った。兄ヤコプは科学的言語・ ' / の方 法を確立し , 音韻推移についての「グ 後世の指標となった
1 0 0 ころ八丈島 , 紀州沖にいた魚群はえ 派 , 文人画派にも温雅な花島の秀作 さのイワシを追って金華山沖に達し , が多く , 浮世絵派では葛飾寡北斎 , 安藤広重の花鳥版画がある。総して 夏季の黒潮の勢力の盛んなときには ミ 日本の花鳥画は詩歌の場合・と同しく , 北海道まで回遊する。北上回遊する 季節感を反映しているところに特色 ときの速度は黒潮の速度に比例して があるが , 現代では洋画の影響によ おそいが , 秋季北日本より南下する群 って抽象化ないしは象徴化する傾向 れは , 一夜で 13 ( ) ~ 185km をも移動す がみられる。 〔高崎〕 るという。水温 17 ~ 30 ℃のきれいな ガーツ〔山脈〕 Gh a t s ゴーツと 水を好む。ひしように成群性が強く , も発音する。インドのデカン半島の また流木 , クジラ , ジンべェザメな 東西両側を南北に走る山脈で , 東ガ どにつく性質がある。カツオの群れ にはよくオオミズナギドリが追従し , ツ山脈と西ガーツ山脈に 2 分され る。西ガ、一ツは平均標高 900 ~ 1500 魚群発見のよい目じるしとなる。 m , デカン半島の分水線をなしてい カツオはカツオ釣り合により , るが , 東ガーツは山脈とは名ばかり 本釣りで漁獲されるが , 視力および の台地で , 西ガーツやデカン高原の とくに聴力が鋭敏なため , 無動力船 奧から流れでる諸川に開析されてい から動力船に転換した時期には , 機 る。西が一ツはアラビア海岸に急傾 関の音がカツオ群を散逸させるので 斜し , 南西モンスーンはこれにあた はないかと問題にされたはどである。 って海岸に多量の雨をふらすが , そ 現在では 100 トン前後の動力船に魚 の東側デカン高原内部は雨が不安定 群探知機を積んで探索し , 生きたイ で , 干ばつに悩まされる。西が一ツ ワシをまきえとして与え , 十分に寄 から流れ出るマハナジ , ゴダノヾリ り集まったところを釣り上げている。 クリシュナなどの川は , 東ガーツを カツオは日本の重要水産物の一つで , 横切るとき滝や急流をなすので多く はすでに花鳥画の名手として辺鸞 漁獲量は 1963 年は 112 万トン , 64 年 の水力開発計画が進められている。 らが知られている。以後 , 花鳥画は は 166 万トンで , ソウダがツオ , ハガ ガーツ山脈の南部は高温多雨のため , しだいに盛んになり , 唐末五代にか ツオ ( キツネガッオ ) なども漁獲され けて黄筌をえと徐熙よが出て宋代花鳥 チーク , コクタン , シタンなどが茂 るが , カツオとは比較にならないほ 画の先駆をなした。黄筌一派の画風 り , またゴム , コーヒーのプランテ ど量が少ない 〔安田〕 は線と濃彩を併用 ( 鉤勒鎭彩 ) し ションがある。 〔斉藤〕 〔料理〕カツオのさしみは皮つきの て , 黄氏体といわれ , 宋の宮廷画院 かつうら勝浦〔市〕千葉県外房 銀皮作りともよばれ , ふつう腹節を を支配した。また自由な徐熙の作風 州勝浦湾 ( 三日月湾 ) にのぞむ市。房 皮つきのまま用い , 生臭さを消すた をうけた徐氏体といわれる没骨描 総東線に沿う。人口 29133 ( 1965 ) 。 19 め焼き霜 ( 表面が白くなる程度に強 法が行なわれた。この両者が基とな 火でさっとあぶる ) をいれる。このた 55 年勝浦町 , 興津町と 2 村が合併 , め焼き霜作りとも , 上佐から伝えら り , また互いに影響しあって , 花鳥 58 年に市制。江戸時代に紀州漁民が 画は宋代にめざましい発達をとげた。 回遊魚のイワシ , カツオなどの漁業 れたというので上佐作りともいう。 宋の花鳥画は , 万物を宇宙の本体の をひらき , 1930 年の築港完成以来沖 カツオのたたきというのは , 焼き霜 現われとみる宋人の世界観が背景と 合漁業の根拠地となり , 外房第一の にしたものを厚めのさしみに作り , なって内面化の方向にも進んで , き 漁獲高をあげている。マグロ漁の突 食塩をふりかけ , サンショウやシソ 棒ん漁船は有名である。市街の中 わめて精密なものとなった。徽宗 : ぅ の葉やネギをこまかく刻んでダイコ 皇帝のく桃鳩図〉は宋代写実主義の 央には名物の朝市がたち , そのはか ンおろしと合わせ , カツオの上にの せて包丁の腹でたたき , しよう油や 代表的傑作といわれる。南宋では画 鵜原理想郷 , 勝浦灯台 , 勝浦城跡 , 帆船時代の港町興津に日蓮が開いた 二杯酢で食べる。 院に李安忠 , 李迪ーらがあり , いつば このはか , みそ汁 妙覚寺 , 断崖の「おせんころがし」 , う文人や画僧による理想主義の絵も のすり流し , ちくわ風にこしらえた 文銭カツオ , しよう油と酒で煮っ 守谷洞窟がある。 行なわれ , 牧谿はその代表作家で 〔尾留川〕 めた角煮 , たった揚げなど , いずれ かつうら勝浦〔町〕徳島県勝浦 ある。それ以後では元の銭選 , 明の も総菜向きの料理である。 / 鰹節 戴進 , 呂紀 , 清の沈南蘋らが著名 郡 , 勝浦川に沿う盆地に発達した町。 人口 9091 ( 1965 ) 。明治までの川舟交 / なまり節 / ( 別刷 ) 魚類〔柳原〕 である。日本の花鳥画はおもに室町 通の時代には , 川をさかのばる高瀬 かつおどりカツオドリ科の鳥で 時代以降 , 中国画の影響下に発達し 舟の終点であった。坂本地区を中心 カラスくらいの大きさ。小笠原諸島 , た。雪舟や狩野劣ぅ元信らによって日 にウンシュウミカンの栽培が盛んで , 硫黄ぅ列島その他で繁殖する熱帯性 本的な画風が成立し , 桃山時代には 県の栽培中心地でもあり , 海外にも の海鳥で , 迷鳥としてまれに日本に 狩野永徳 , 山楽に代表される桃山障 輸出する。生比奈には柑橘試験 やってくる。暗かっ色で腹面は白色 , 壁画に大規模な花鳥画が盛んに描か 場がある。 〔寺戸〕 れた。江戸時代にはその他の新興諸 くちばしは大きくて青緑色である。 流派中で光琳派の個性的な花鳥画 脚は淡黄色で指は 4 本ともみすかき かつお〔鰹〕サバ科の魚。一般 がもっともすぐれ , また長崎に渡来し にカツオというが , 北陸道でマンタ、、 で連なっている。ふつう海洋上で生 た沈南蘋の伝えた写生風の花鳥画も ラ , 東京 , 長崎でカツオまたはマガ 新風を吹き込んだ。円山派 , 四条 ツオという。第一背びれ 15 棘きよ , 第 カツオドリ 二背びれ 2 棘 13 軟条 , その後方に 8 個の離鰭鵞がある。しりびれ 2 棘 13 軟条と 7 離鰭。体は紡形で背側は 緑黒色 , 腹側は銀自色で数本の縦線 がある。体長 8()cm をこえる。強い遊 泳力をもち , 太平洋 , インド洋 , 大 西洋に分布するが , 日本海には少な い。暖流性の回遊魚なので , 晩春の 0 花鳥画徽宗筆く桃鳩 図〉絹本着色 1107 左 , ノ、がツオ 右 , カツオ 0
6 0 影響をうけ , また死の予感におびえ のほか海産のカジカ類も数多く , キ つつもマルクス主義の影響をうけ , ヌカジカ , イタ、、テンカジカ , アナノ、 本所 , 深川の労働者街に住もうと試 ゼ , アサヒアナノ、ゼなどが日本沿岸 みたが , 果たさないままに死んだ 〔安田〕 で知られている。 く冬の蠅わく闇支の絵巻 > く交尾 > くの かじかがえる渓流にすむアカガ んきな患者〉などの作品がある。虚 ェル科のカエル。体長雄 30 ~ 4()mm , 無とけん怠にむしばまれた近代の青 雌 50 ~ 70mm 。体の背面は灰かっ色で , 春を的確な表現 , みすみすしいイメ 暗かっ色の班紋が点在する。四肢の ージと批判精神で描いた。 〔広末〕 各指端には吸盤が発達するが , みず カジェフカ Kadievka ソ連 , ウ ~ 8 月 , 山間の渓 火に見舞われ , 世界有数の火災国と かきはノトさい 6 クライナ地方北部にある都市。人口 なっている。古代の人家が密集して 流や湖畔のよどみの石の下などに産 いない時代には , 類焼の危険も少な 19.2 万 ( 1964 ) 。ドンバス炭田の北部の 卵する。繁殖期の雄の鳴き声は美し かったと思われるが , 都市の発達に 中心、地で , 1840 年ごろ炭鉱町として く古来人に愛好されるが , 鳴き声賞 つれて大火の発生を招いている。ま おこった。第 1 次五カ年計画 ( 19 28 ~ 美の目的で飼育される例はまれであ 32 ) によって鉱山機械製造などの重 る。本州 , 四国 , 九州に分布し , 日 た戦乱には攻防の手段として , よく 工業も始まった。 1935 年に炭坑夫ス 本固有のカエルで , 山口県の岩国川 , 火が放たれた。応仁の乱 ( 1467 ~ 77 ) の兵火は京都市街を焼き尽くし この市にある炭坑でノ 京都府の嵐をら山 , 神奈川県の相模 タハノフカゞ ルマの 14 倍を採炭し , いわゆるスタ 川などは有名な産地。飼育には , 小 ている。日本のおもな大火と世界の ハノフ運動 ( 労働者の積極性をもと 五大火といわれるものは第 3 表 , 第 石を入れ金網をかぶせた水盤を用い にした生産競争運動 ) をおこした 小こん虫を与える。 4 表のとおりである。 〔松井〕 〔火災の俗信〕「地震 , 雷 , 火事 , とで有名。石炭工業学校 , 鉱山学校 , かじかざわ鰍沢〔町〕山梨県西 部南巨摩郡の町。人口 6913 ( 1965 ) 。 音楽学校などがある。 〔渡辺一〕 おやし」のことわざどおり , 火災は カシオペイア Kassiopeia キ、リ 甲府盆地の南西端にあり , 富士川を 人々の恐怖の的であった。古代人は 「荒ぶる神」として火をまつり , おそ シア神話。ェチオヒ。ア王ケフエウス へだてて市川大門町と向かう。富士 の妻で / アンドロメダの母。海神ポ れつつしんだ。いまでも一般家庭の 川の河港で甲州の門戸であった。鉄 セイドンの憎しみをうけ , 高潮と怪 道開通前には生糸 , 木材 , 木炭を積 台所に , かまどの神として / 荒神湫 物で国を荒らされたので神託により み出し , 塩その他の海産物 , 大豆 , をまつっているのは火に対する神聖 , 娘をいけにえにすることとなった 陶器 , 繭などを移入した。その取引 畏・布 : の念のあらわれといえよう。平 そこにゴノレゴン退治のペノレセウスカゞ の商店や問屋 , 旅館などが多く , 川 安時代には陰陽道弩の影響で , 火 通りかかってアンドロメダを救った 船八百八艘といわれたが , 中央線と 事や地震は鬼気御霊のたたりと信せ 身延線が全通してまったく地方中心 られ , そのわざわいをはらうために カシオペイアはのち星座となった。 の商業地となった 〔千葉〕 しばしば改元がおこなわれた。 1177 〔高津〕 年の大火では , 皇居をはしめ京都の カージガン cardigan 毛糸編 カシオペイアざカシオペイア座 みのジャケットの一種。形は前をす 大半を焼き , この災禍のため元号が 秋の北天にみえる w 字形の星座。午 安元から治承と改められている。そ そまであけ , 長そであるいは半そで 後 8 時の南中は 12 月 2 日。神話では で ( 多くは長そで ) , えりぐりはカー のほか火事の夢は吉兆鬆うであると カシオペイアがいすに腰掛けている ジガン・ネックとよばれる丸えりぐ ニワトリの鳴き声を夜まねると 姿といわれる。北極星をはさんで , 力、 火事になるとか , ネズミが家にいな おおぐま座と対し , 北極星をさし示 り , あるいは V 字形である。男女と くなると火災の危険があるとか , 妊 す星座として有名である。日本にも もに着用し , とくに婦人用は , プラ 婦が火事を見るとあざのある子ども ウスの上にはおったり , 同じ糸によ 「いかり星」「やまがた星」の名があ るセーター ( プル・オーノヾー ) といっ が生まれるとか , かまどの火口は北 る。 15 72 年「チコの新星」とよばれ しょに着ることも多く , これをツイ に向けてはいけない , といった種類 る超新星 ( 最大光度一 3. 5 等星 ) がこ の星座に出現したが , 現在は電波星 ン・セットという。軽くて着ごこち の俗信がある。 / 消防 〔平野〕 がいいので , 家庭着 , 通勤着 , 旅行 カシオペイア B としてそのなごりを かしい香椎福岡県福岡市の香 とどめている。 着にひろく愛用されている。もとは 椎宮の所在地。もとの粕屋郡香椎町 〔草下〕 英国のカージガン地方の坑夫が着用 が 1955 年編入された。博多湾東岸に 力、じ力、カジカ科の魚。東京でカ していたが , クリミア戦争 ( 1853 ~ あり , 香椎潟の美しさは歌にもよ ジカ , 琵琶胡でフグまたはオコゼ 56 ) で有名な英国の将軍カージガン まれたが , 現在は火力発電所や福岡 という。第一背びれ 8 または 9 棘 伯が好んで着たところからひろまっ 女子大学がある。北には , 海ノ中道 第二背びれ 16 ~ 18 軟条 , しりびれ 11 たといわれる。 〔田中〕 とよばれるクロマツの林か、茂る砂丘 ~ 13 軟条。体色は黄赤色を帯びた灰 かじきカジキ科の魚の総称。マ の半島が志賀島のまでのびている。 色で , かっ色の班紋をもち , 体長 15 カジキ , メカジキ , ノヾショウカジキ , 香椎宮は , 仲哀天皇が熊襲征討の cm に達する。日本全国の水量の少な クロカジキ , シロカジキなどカゞ日本 途中橿日宮で没したため , その妃神 い川にすみ , 美味である。同じ科で で知られている。東京ではマカジキ すこし大形のカマキリのいるところ 功黔皇后が天皇をまつったのが起原 を単にカジキとよんでいる。またカ にはカジカはすます , カジカのいる といわれ , のちに皇后もまつられた ジキマグロとよばれることもあるカゞ , ところにはカマキリはすまない。 社殿は 18 ( ) 1 年藩主の黒田長順が造っ マグロとは別科である。いすれも上 た香椎造りという他に例のない複雑 カジカ あごが著しく突き出て剣状のくちは。 〔伊崎〕 な構造をもっている。 しになっているのか、特徴である。魚 かじいもとじろう梶井基次郎 類中大形のもので , マカジキは 2 m, 1901 ~ 32 作家。大阪に生まれ , 11 () kg , メカジキは 3 m, 3()0 kg , シ 三高理科をへて東京大学英文科に進 ロカジキは 4 rn , 500kg に達するも み , 1925 年中谷孝雄 , 外村繁 , 北川 カマキリ のカゞいる。またカジキ類では一般に 冬彦らとく青空 > を発刊。く檸檬ド〉 雌のほうカゞ大きい。マカジキは多く く城のある町にて > を発表したが は水面に浮かんでいるところを発見 病気のため大学中退。湯ガ島に転地 して , もりで突いて捕える ( この漁 し川端康成と知り合い , 新感覚派の カシイ 」左ノヾショウカジキ 右 , マカジキ カジカがエル 0 0 0 - カージガン