ケイモウシ 6 1 0 させ , その刑期の残余期間を無事に 性 ( 悟性 ) をもった個人がっくる変革 した思想家にノレソーカゞいる。彼は , 経過したときは刑の執行が終わった 可能な構成体としてとらえられた。 生まれながらの人間をあくまで善・性 ものとする制度である。懲役受刑者 かくてそれは市民革命の実践的原理 としてとらえ , 道徳的感情を理性の には木工 , 印刷などの作業が強制さ であり , ロック哲学は啓蒙の師であ 上においた点で , ロマン主義の先駆 れるし , 少年刑務所では職業教育お をなすが , また国家も , この善なる った。啓蒙思想は本国はもちろん , よび学校教育が行なわれる。刑務所 人間の帰ーすべき道徳的存在として フランスで奔騰し , 米国では独立革 においては , 夜間独居または雑居が 描き , 求めた。フランス革命はロッ 命に結実して 18 世紀の指導的理想と よいとされ , 昼夜独居は短期間の懲 ク的原理とともにこのルソー的原理 なった。イギリス本国ではその / 経 罰の場合以外には考えられないこと 験論の徹底の方向でバークリ ヒ によって遂行されるのである。フラ ンス革命はなお封建的重圧のもとに になっている。 / 刑罰〔遠藤〕 ューム , あるいは 3 世 A. A. C. シャ けいもうしゅぎ啓蒙主義 18 世 フッペリー「 1671 ~ 1713 ) , F. ノ、チソ あったドイツの知性に大きな感激を 紀の西欧で , とくにフランスを中心、 ン ( 1694 ~ 1746 ) らによって人間学的 与えた。 にひろく展開された近代思潮。それ 〔ドイツ〕ドイツにおいてはレッシ 道徳哲学から実証的社会科学の道が は絶対主義社会がになういっさいの ひらかれ , F. ファーガソン ( 1723 ~ ングが鋭く既成宗教を批判し , 封建 権威を破砕しようとするプルジョア 1816 ) , A. スミス , べンタムへと展開 的イデオロギーの才Ⅱ皮につとめたカ { , ジーの自己主張であり , 閉ざされた して市民社会の思想的支柱がうちこ 市民階級の劣勢からライプニツツや 中世的 , 封建的世界を教育によって まれる。また文学として小説が生ま ウォルフの合理主義哲学を基礎にフ 啓発して , 明るい理性的な世界に改 ドリヒ大王による「上から」の れて市民生活の諸局面を描写し , デ リ 革しようという基調につらぬかれた 啓蒙が行なわれ , 結局は絶対主義の リチャードソン , O. ゴール フォ 宗教 , 哲学 , 文学 , 社会科学など精 ドスミス ( 1728 ~ 74 ) らがあらわれる。 体制を深めていった この影響の下 神活動の全般に及ぶ多彩な思想運動 にドイツ的心情によって啓蒙思想を しかし 18- 世紀を理」生の世紀 , 天才の であった。それは先進的な意識から 言侖理的に純イヒしたのがカントであっ 世紀ともよばせるのはフランス啓蒙 の後進的現実に対する批判であり , た。カントは啓蒙思想の中核にある 主義の華麗な展開である。 すでに 17 世紀に市民革命を遂行して 市民的個人の自主的 1 吾性使用の可能 〔フランス〕すでに 17 世紀に国民文 市民社会とその思想を確立しつつあ の根拠を追求し , 旧来の理性批判と 学の古典的開花をもち , またデカル った先進国イギリスを理想とし , してこれを展開しつつ市民精神の哲 トらの合理論哲学による人間 1 吾性の 学的自覚たる批判哲学の体系を完成 れに学びつつ , まだ / アンシャン・レ 自主的使用を経験していたフランス ジームのもとにあったフランス・プ は , 18 昶 : 紀にはいってポノレテーノレ , した。 ルジョアジーの市民革命を目ざす思 以上のように啓蒙主義は近代思想 モンテスキューらによるイキ、リス啓 想的武器であった。やか、てそれはド 蒙思想の受容によってその伝統に反 の骨格を形成したのであり , 今日の イツをはしめ全欧州に波及するが , 思想も啓蒙主義の刻印を残している 省を加え , ようやくアンシャン・レ といえよう。なお , 日本では , 明治 市民層が弱かった後進国ドイツでは , ジームの矛盾を危機的に意識しはし 初年の福沢諭吉らの / 明六社を中心 ついにフランス革命のような政治的 める。ポノレテーノレとモンテスキュ とする啓蒙専制主義的開明政策が啓 実践に進みえす , むしろ頭のなかの の果たした役割は大きかったが , な 革命として論理的な純化をうるにい 〔荒川〕 蒙主義として存在した。 お現実的な変革においては保守的で けいやく契約広い意味では身 たった あった。 1750 年以後 , つぎの世代か、 〔イギリス〕啓蒙主義は 17 世紀イキ、 分関係 ( 婚姻など ) に関する合意をも より徹底した啓蒙を推進する。ディ リスの市民革命の過程で用意された。 含めて一般的に私法上の効果の発生 ドロー , ダランべーノレ , E. B. de コン を目的とする合意をいう。狭い意味 すでに中産的市民層の台頭とともに ディヤク ( 1715 ~ 80 ) , C. A. 工ルーく 自然科学とプロテスタンチズムは旧 では債権の発生を目的とする合意だ シウス ( 1715 ~ 71 ) , P. H. D. ドノレノヾ 来のカトリック的世界観に強力な挑 けをさす。合意は正確にいえば , 2 ック ( 1723 ~ 89 ) らく百科全書 > の編 戦を行なっていた。それらは自然と 人以上の者が , 一方が売る他方が買 集に結集した思想家たちである。彼 うというように対立する意思を示し , 理性の復権をもたらし , 宗教は理性 らの立場はさまざまであったか、 , ロ との合致を要求され ( 理神論 ) , 人間 その内容が目的物や値段について合 ック哲学を徹底して感覚論から唯物 致し ( 客観的合致 ) , かっ互いに相手 は生まれながらの権利をもっ存在と 論にいたり , 理神論から無神論にい 方と契約しようとする ( 主観的合致 ) して契約によって市民社会を形っス たる方向で旧習と旧体制を攻撃し , 場合に成立する。 るものと考えられた ( 自然権 ) 。この フランス革命への道を踏み固めた 〔契約の自由と信義誠実の原則〕す 新しい運動を決定的なものにしたの また , 経済学においてケネーが / 重 か、ニュートンとロックであった。彼 べての個人が封建的な身分的支配か 農主義を出発させ , 産業資本への目 らによって自然は人間がそのなかで ら解放された自由な人格をもつもの を開くとともに自由放任 ( レセ・フェ と前提する近代法では , 契約をする 生きる計測可能なできごととして , ール ) へと前進して新しい体制の要 理性は地上的人間の備える良識とし かどうか , 契約の内容や方式をどう 求をささえた するかは個人の自由とされる。この て , 社会はそれぞれ独立した人間理 啓蒙期にあって百不斗全書派に対立 東京小菅刑務所。左は 全景。中は廊下の両側 に並ぶ房。右は雑居房
キリストキ 者はなく , 子および子が望んで父を 啓示した人のほかに , 父を知る者は ない」 ( マタイ 11 章 27 ) , 「わたしと父 は一体である」 ( ヨハネ IO 章 30 ) 。キリ ストはこれらの宣言をおびただしい / 奇跡によって証明したが , とりわ けその神性の証拠とみられるものは その復活である。また , キリストは 聖霊によって処女マリアの胎内で人 間性を受け , 「万事においてわれら と等しくあるために」 , 飢えや悲しみ や , 苦悩や困窮という人間的な弱さ もあまんして耐え忍んだ。カトリッ クでは , このようにキリストのなか に神性と人性との合ーをみ , 彼が真 の神であり , ・同時に真の人であると 考えている。 しかし , キリストにおける神人性 の秘義を除去しようとする人々も少 なくない。 一部のプロテスタントや 啓蒙主義者は , キリストを宗教的 天オまたは倫理的超人とみ , グノー シス派はキリストは仮の肉体をもっ ていた神とし , その人性を否定して いる。また彼をモーゼと同しような 預言者 , あるいはユダヤ教の離教者 , 漬神者 , また単なる空想の産物とす るむきもある。 / キリスト教 〔美術におけるキリスト像〕 2 ~ 4 世紀にかけてキリスト教が迫害され た時代には , キリストのしるしは地 下の礼拝所 ( / カタコンべ ) などでキ リストの頭文字や魚 , 子羊など象徴 的な表現がとられ , やがて羊飼いや オルフエウスなどの形を借りて描か れるようになり , 4 世紀ごろから地 上に会堂が建てられるとともに , キ リストの誕生や復活などの聖書の物 語による描写が現われ , 教義上から 多くのキリストの肖像やマリアに抱 かれたキリスト像が描かれた。十字 架上のキリスト像は 6 世紀前にはみ られない。初期のキリスト像は美し い若者の姿をとり , 5 世紀以後から はひげをつけた権威ある姿として現 われている。人間の罪をになった苦 難の姿としてのキリスト像はゴシッ ク末から近代にかけての所産である。 / ( 別刷 ) 聖書 〔小林〕 キリストきようキリスト教キ リスト教は , 仏教 , イスラム教 ( 回 教 ) とともに いわゆる世界三大宗 教の一つに数えられる。しかし , そ の信徒数が世界人口の % 以上を占め , さらに世界の動きを左右する文化水 準の高い民族に集中していることか ら , 世界でももっとも有力な宗教で ある。キリスト教は大別して三つの 大教団に分かれている。すなわち , ローマ・カトリック教会 ( / カトリッ ク ) , 東方正統教会 ( / 東方教会 ) , プ ロテスタント教会 ( / プロテスタン チズム ) で , カトリックは緊密な統一 体をなし , 東方教会もほは、統一を保 っているが , プロテスタント教会は 多数の諸教派に分かれている。 4 7 4 〔教義〕キリスト教の教義 , 礼典 , 制度などは教派によりそれぞれ異な るものをもっているが , キリスト教 会といわれるかぎり , 根本教義は共 通である。それは , 神の子キリスト による救いという信仰で , このキリ ストの教えは「聖書」と「教会」と によって威力をもつ。 キリストはヘブライ語のメシアの キ、リシア語の訛で , メシアとは , イエ ス生誕前 2 世紀ごろから , イスラエ ル ( ユダヤ ) を救う神よりの救いぬし を意味する語となっていて , ユダヤ 人の多くがメシアを待望していたの である。このようにキリストとは , 救世主を意味する語であって , われ われと同じ人間であり , われわれを 救うために神のもとから来臨した神 の子なる救いぬしであることがわか る。初代教会の「イエスは主である」 という単純な告白も , のちに 4 , 5 世紀 の教会会議で確認され , 後代教会の 信仰の基準となった「真の神にして 真の人なるイエス・キリスト」とい う命題も , 同しようにこの点を表わ しているものと考えられる。キリス ト教における教義の中心は , 上述の ように聖書と教会である。 1 ) 聖書 キリスト教の唯一のいわゆる経典で , キリストとキリストによる救いを主 題とする書である。これなしには , キリストを知ることはできない。聖 書におけるキリストによる救いは , 二つの面から考えられる。それの預 言と , それの成就であって , 時間的 にいえば , キリスト生誕の前とあと とである。神が人間を救うことを聖 書的な用語では人間に対する神の 「契約」 ( ちぎりを結ぶこと ) という が , キリスト出現前のものは古い契 約 , キリスト出現後のものは新し い契約とよばれる。聖書も , 旧契約 の書 ( 旧約聖書 ) と新契約の書 ( 新約 聖書 ) の 2 部からなっている。 2 ) 教 会聖書に基づいて , キリストを信 じ , 生活し , キリストをのべ伝える 信仰者の集団が教会である。教会は , いわば「キリストのからだ」として , 可見的にキリストを体現するもので ある。新約聖書では教会なきキリス ト者というものは考えられないもの としている。したがってキリスト教 の姿は教会の歴史なしには考えるこ とはできない。 / 聖書 / 教会 〔歴史〕イエスの活動は「神の国」の 宣教をもってはしめられた。イエス における神の国とは , 地上的な領土 や支配形態ではなく , また , 宗教的 幻想による楽園でもなく , 神の意志 の支配するところであり , 神への全 人的服従の存するところであった。 イエスが召集した少数の弟子団は , このような神の国の約束に生きた 群であった。イエスの死と復活から 50 日 , ユダヤの祭りである 5 旬節の 日に , 弟子たちを中心とする一団の 信従者たちは , 神の聖霊の力をうけ て立ちあがった。こうして形づくら れた集団が原始ェルサレム教会であ る。彼らは , はしめ / ュタ、、ヤ教の戒 律や儀式に従っていたが , しだいに ユダヤ教との異同が問題となり , や がて , ひろく異邦の地にのびゆくに したがって , キリスト教の独自性が 明確に自覚されるようになった。 の新しい展開の拠点になったのは , シリアの首都アンチオキアであり , その活動の中心となった人物が / パ ウロである。 ノヾウロはユダヤ教の厳格な / ヾリサ イ宗徒として , はしめは教会への激 烈な迫害者であったが , キリストに 出会って回心し , 使徒としてとくに 異邦の地への伝道に専心した。当時 , 地中海沿岸の諸国は政治的にはロー マの支配下にあり , 文化的にはギリ シア文化 ( ヘレニズム ) が浸透してい た。これらの世界にノヾウロはひろく 伝道し , ついには首都ローマにまで 足をのばした。彼は , ユダヤ教的な 律法主義 , 功徳主義と果敢に戦い , イエス・キリストの恩寵黔うによって のみ救われるという , イエスの福音 の中心、点を明確ならしめた てキリスト教は地中海沿岸の各地に 教会がつくられ , 監督 , 執事 , 長老 などの組織がおこり , 洗ネし , 聖餐 などの儀式が定められた しかし , 教会に対するユダヤ人た ちの迫害とともに , ローマ帝国の弾 圧も激しく , 6 ( ) 年代初めのネロ皇帝 の迫害にはしまり , 250 年間にわたっ て多くの皇帝が教会を圧迫したが , もっとも激しかったのはデキウス帝 の 249 年以後のものと , ディオクレ チアヌス帝の 3 ( ) 3 年から 10 年間に及 ぶものであった。ついにコンスタン チヌス大帝の 313 年に , / ミラノ勅 令によって信教の自由が公布され , こにキリスト教は公認となり , 380 年にはテオドシウス帝により口一マ 国教となるにいたった この 300 年 に近いあいだ , 教会は外からの迫害 に対するとともに , 内にはグノーシ ス Gnos i s ( 1 ~ 4 世紀におこったキ リスト教的主知主義 ) のような異端 思、想の侵入 , モンタヌス派 M on t an - i s m ( 2 世紀後半フリギアのモンタヌ スに始まる異端思想 ) 。のような狂信 的運動などに対しても戦わなければ ならす , このなかで教会は , みすか らを強化し , 教会の正統性を確立し なければならなかった。経典 , 信条 , 監督職といったものもこのような必 要にせまられて制定されてきたので あった。 1 ) 経典初代教会は旧約聖書以外に は経典類をもたなかった。しかし , 早くからロづてに伝えられていたイ ェスの説話や行動が , 70 ~ 100 年こ ろには , 文書の形で保存されるよう になり ( 福音書 ) , それとならんでパ
か扱われたものが主となっているが , 一方 , 英雄諸家には幾代にもわたる 系譜があるが , だいたい神々を祖先 とし , 彼ら相互間も結婚によって複 雑に結ばれ , それらに属する同時代 の英雄が相互にまた交錯して同し伝 説中に現われる。たとえば , 上記の デウカリオンの子孫らは主として北 ギリシアのテッサリアと中部ギリシ アの英雄諸家となっているが , 中部 ギリシアのポイオチアのテーベ王家 はべロポンネソスのアノレゴリスの河 神イナコスの娘イオとゼウスとの子 の孫アゲノルの子力ドモスを祖とし , カドモスの姉妹エウロべの子ミノス はクレタ島王家の祖 , アゲノルの兄 弟べロスの子ダナオスの娘とアイギ プトスの子とはベルセウスとヘラク レス一家の祖 , ゼウスの子タンタロ スの子べロプスは同しくアルゴリス のミケナイ王家アトレウス一族の祖 となった。これら諸家のうちテセウ スを出したアテネ王家の系譜だけが 他と関係なく孤立しているのは著し い例外である。 デウカリオンの子孫のうち , 名高 い伝説の中心、人物となろたのは , へ レンの子アイオロスの孫で月神に愛 されたエンジミオンをはじめ , その子 孫のカリドン王オイネウスの子メレ アグロス , テーベ攻略の 7 将の 1 人 テイデウスとその子でトロヤ戦争の 勇士ディオメデスである。さらにア ルゴ合遠征隊物語の主人公イアソン や , 夫アドメトスの身代わりになっ て死んだアルケスチス ( エウリピデ ス作の悲劇の主人公 ) も同し一族に 属する。イナコスの子孫には , ゼウス と交わってベルセウスやヘラクレス の祖となったイオがあり , また同じ 家のプロイトスと関係があるべレロ フォンと予言者メランプスはともに アイオロスの子孫で , おのおの名高 い物語の主人公となった。アゲノル の子孫のうち , クレタ王ミノスとそ の子孫だけはアテネのテセウスと : ノタウロス , ミノスの娘アリアドネ とファイドラを通して結ばれている。 一方 , アゲノルの子力ドモスを祖と するテーベ王家には , ディオニソス , ニオペ , エジプス , アンチゴネ , ア イオロスの子孫でテーベ攻略のアル ゴリスかたの大将アドラストス , アン フィアラオスらのほか , アンフィア ラオスの子で第 2 回めのテーベ攻略 の英雄アルクマイオンがある。アノレ カジア王家の始祖はペラスゴスで , この一族では , ゼウスの子アルカス , ヘラクレスの子でトロヤ伝説圏とつ ながるテレフォスおよびカリドンの イノシシ狩りのアタランテが名高い。 スノヾルタ王家の祖はチタン神族のア トラスで , この一族で活躍するのは アポロンに愛されたヒアキントス , ティンダレオス , その妃でゼウスと 交わったレタ、 , 絶世の美女ヘレネ , ギリシア 4 5 4 夫アガメムノンを殺害したクリタイ ムネストラ , カストルとポリデウケ スを生んだレダ ( アイオロスの子孫 ) , ティンダレオスのめいでオデュッセ ウス ( アイオロスの子孫 ) の妻となっ たベネロべらがあり , アトレウスの 一族との婚姻関係によって , 両家は トロヤ伝説圏の中心となった。 トロ ヤ王家からは , ローマ建国の主人公 アイネイアス ( アフロジテとアンキ セスの子 ) , 暁の女神ェオスに愛さ れたチトノス , ゼウスに愛されて天 上にさらわれたガニメデス , 最後に プリアモス王の子で , トロヤ戦争の 原因となったノヾリス , トロヤカ { たの 大将ヘクトル , 予言者へレノスらが 出ている。同じくトロヤ物語中の主 人公アキレス ( アキレウス ) は , 河神 アソボスの子孫で , 河神の子アイア コスの子べレウスの子であり , また 同し物語中でアキレスに次ぐ勇士ア イアスはべレウスの兄弟テラモンの 子である。さらにアキレスの子ネオ プトレモスも父の死後 , この物語の 中心人物となっている。アテネ王家 の祖ェリクトニオスは , アテナがヘ ファイストスと交わらすに , その精 液にふれて生んだ子とされ , この系 譜中の諸人物の事跡はふつうの英雄 物語と異なり , 宗教的色彩が強く アイゲウスとその子テセウスにいた ってはしめてクレタやその他の伝説 と結びついている。ギリシアの英雄 時代末期におかれるトロヤ戦争は , 当時のギリシア世界のすべての英雄 をそのなかに巻きこんだ大戦争で , 10 年めにギリシア軍が勝利を得たが , その後に諸将の帰国物語が多く現わ れた。そのうち名高いのはオデュッ セウスの物語と妻に殺害されたアガ メムノンの子オレステスの報復と娘 イフィゲネイアおよびウェルギリウス が歌ったアイネイアスの放浪とロー マ建国の物語である。トロヤ伝説は 膨大な圏をなし , これに参加した英 雄らの子どもか , そのつぎの世代で ギリシアの英雄時代は終わっている。 たオリンポス教は各地にあった。ア テネにおけるアテナ女神の祭儀 , ェ レウシスにおけるデメテル女神の秘 儀はとくに有名である。オリンポス 教と同し神々をもちながら , 異なる 世界観を有する宗教もあった。霊魂 不滅の救済思想に基盤のあるオル フエウス教 , 特殊な宗教的境地によ って人気を得ていたディオニソス教 などである。 〔水上〕 / ( 別刷 ) ギリシア 〔高津〕 ギリシアの宗教 古代ギリシアの宗教は国民宗教で あった。オリンポス山に住む神々は ゼウスを王にいただき , 広い地域に わたってそれぞれ異なる政治区域に 生活するギリシア人の , 民族として の統合の象徴となっていた。そして これらの神々は美術や文学のすぐれ たなかだちとなり , さらになかだち になることによってますます美しい 神格を形成した。ギリシア文明の豊 かさはそのままギリシアの神々の姿 に反映しているといえる。オリンポ ス教そのものは , ヘレニズム文明の 衰退とともに , 新興のキリスト教に 勢力を奪われて滅びるまで多神教と しての性格を変えなかったが , 地方 守護神を主神とする , いわば変形し ギリシアの哲学 ギリシア哲学の展開は古代ギリシ アの時代とヘレニズム・ローマ時代 の 2 期に大別できる。そのうちさら に前者は , アテネにべリクレスの全 盛期が訪れるころを境として 2 分で きる。 〔アテネ以前〕前 7 世紀後半から前 6 世紀初め , ギリシア人はエーゲ海 を中心に東は小アジア沿岸から西は イタリアの地に及んで多くの植民都 市を建設し , 活発な経済活動を始め た。とくに小アジア沿岸に活動した イオニア人はホメロスのうたった祖 先の遺産を継いでオリンポスの神々 をあがめながら , やがてその物質的 富のうえに , 新しい精神生活をミレ トスを中心、にひらいた。彼らはもは や神話的世界解釈には満足せす , 万 象をその「もとのもの arche 」から 説明しようとした。それは根本原理 からいっさいをとらえようとする理 論 ( ロゴス ) 的な精神であり , 学とし ての知恵 ( 晢学 ) の始まりであった 彼らの「もとのもの」は概して自然 的なものであったから自然学者とよ ばれ , これがイオニア哲学の基本性 格をつくる。「もとのもの」を水とし たターレス虹際限なもの ( ト・アベ イロン ) としたアナクシマンドロス Anaximandros( 前 611~ 前 547), 空 気とみたアナクシメネス Anaxi me- ne s ( 前 585 ~ 前 524 頃 ) らのミレトス 派がこれである。さらに前 6 世紀末 になるとエフェソスの人へラクレイ トスがこの派の伝統に加わり , 流動 的な火を根本物質とし生成流転を万 物の真相 , 世界の理法 ( ロゴス ) とし た。一方 , 前 6 世紀後半になるとペ ルシアの侵入により繁栄の中心はイ タリアの地に移るが , 小アジア沿岸 サモスに生まれたピタゴラスは南イ タリアのクロトンに移住して新しい 学問的要素を生みだした。そのころ 経済的発展に伴ってようやく新旧勢 力の抗争が激化し , オリンポスの宗 教にかわってオルフエウスの宗教カヾ 盛んとなったが , 彼はこれにイオニ アの学風を結びつけヒ。タゴラス教団 を組織して新しい生活原理をうちた てた。それは肉体の束縛から霊魂を 解放するためにきびしい禁欲的生活 を行ない , 数学 , 音楽などの純粋な 理論的研究により真理を観想して魂 を浄化しようとするものであったが , そこには政治と宗教と学問を結新
神々ど伝説の世界 ーキリシアの神話と伝説から一 解説・高津春繁 ゼウスど人間の交流 ギリシア神界の主神 , オリンポスの神々の長であるゼウス は , 語源不明の神々の多いギリシアの天上界で , 例外的に明 らかに「空」を意味するが , これはギリシア人の祖先がゼウ ス崇拝をその故土からはるばる南の国にもって来たことを意 味している。こうしてこの大神は新しい上地で , 妻ヘラをは じめとして , 上着の先住民族の女神や人間の女と交わって , 新しい神界の主となった。多情多恨ともいうべきゼウスの恋 からは多くの神々や英雄 , 佳人が生まれたが , ゼウスはまた 美少年をも愛した。なかでも名高いのがトロヤ王子ガニメデ スである。ゼウスは美しいこの少年を , 使いのワシに ( 一説 にゼウス自身がワシになったともいう ) 誘かいさせたとも , 直接自分で奪ったともいわれる。美術の表現では古来 , ワシ 説によるものが多く , バチカン宮の大理石彫刻 , ナポリ美術 館のカメオの優品 , ポンべイの壁画 , その他ミケランジェロ , チチアーノ , コレッジョ , ルーベンス , レンプラントら後世 の巨匠の絵画に見るものも多くワシである。さらわれるがニ メデスの表情は , こうこっ , 失神 , 警戒 , いろいろで , レン プラントのように美少年ならざる反抗するわんばく小僧をも ってしたものもある。上左の古拙な作品 ( テラコッタ、前 5 世紀 ) では , 珍しく後説を採っている。 ゼウスは人間の女を愛するときによく自分の姿を隠して近 づいている。なかでもよく絵になっているのは , 白牛に変し てフェニキアの王女エウロべをさらった話と , クチョウの姿となって交わったレダ ( 下 , チェザーレ・ダ・ セスト 14 7 ( ) 頃 ~ 15 24 頃 ) の物語である。レダはスパルタ王 チュンダレオスの妃で , この交わりによって卵を産み , そこ から生まれたひとりがトロヤ戦争の原因となった美女ヘレネ である。美女の裸身に男性のかわりに幼児や鳥獣の愛撫を配 する構図は , 古今の芸術家たちが好んで描いたものであるが , そこにはいっそうの夢想と官能と静思の象徴的世界が現出す る。そのせいかレダを扱った作品は , ルネサンスの巨匠たち をはじめ , 美術 , 文学に枚挙にいとまがない。 このはか , ゼウスはヘラクレスの母アルクメネ , ベルセウ スの母ダナェなど , 十指にあまる女を愛しているが , そのた びに妻ヘラ ( 右ト , ゼウスとヘラ , 前 5 世紀 , セリヌスのヘ ラ神殿メトープ ) がしっとに狂い , 女たちゃその子の英雄を 苦しめる話が , 名高いイオやヘラクレスの伝説となっている。 キリシア 6
4 7 7 キリストキ は絵画や彫刻が , やはりその作者 , したルオーはきわめてまれな例に属 礼拝すべからす」という聖書のこと あるいは作者の背後の民衆の信仰を する。しかもそれでもなお , ルオー ばが示すように , 図像描写について 具現している場合 , それらはキリス の芸術をただキリスト教美術という は , 初期キリスト教時代以来 , くり ト教美術としての内的条件をみたす ことばによってのみ表現することは かえし論争の対象となり , ときには 困難である。 ものといえよう。したがって , キリ 破壊の運動さえ伴った。しかし , カ スト教的な題材を取り扱ってはいて 〔キリスト教美術の図像・目的〕キ タコンべ以来 , 東西の両教会とも大 も , 本質的にはまったく異教的 , 世 勢としては , キリスト教美術を肯定 リスト教美術 , とくに絵画および彫刻 俗的な作品も多いわけで , 厳密には , ( 教会堂の建築については / 教会堂 し , 上述のような諸目的のために保 外的 , 内的両条件をみたすもののみ 建築 ) のもつ宗教的意図をいくっか 護し育成してきた。しかし , カタコ が真のキリスト教美術であるといえ に分類することができる。第 1 は , ンべの壁画の歴史が示すように , 図 る。歴史的に観察する場合 , こうし 教会堂建築の装飾などの実利的な意 像表現は無制限に行なわれたのでは た意味でのキリスト教美術は , 主と 図である。第 2 は , 神の栄光の賛美 なく , むしろたえす抑制しながら各 して中世に展開する。ルネサンス以 である。教会堂建築を装飾すること 種の描写へとたどりついている。ま 後も , 教会堂建築は盛んに行なわれ 自体が , 「神の家」をより美しく壮大 た , 感覚の世界を否定し , 魂の精神 たし , 絵画 , 彫刻においてもキリス にしようとする意図をもったもので 的世界をたたえるキリスト教の論理 ト教的題材を取り扱ったものがきわ あるし , 個々の題材や図像は , いす において , 古典芸術のような現世的 , めて多いが , 中世のキリスト教美術 れも直接 , 間接に神の世界への賛美 人間的な描写が可能でないのは当然 はそれらとは異なっている。信仰と として描かれる。第 3 は民衆の教化 といえるだろう。初期の教父たちか、 教会の権威が , 民衆の社会生活にも である。中世の芸術は , しばしば「石 視覚の美をしりぞけ , 音楽や , 光や 精神生活のなかにも浸透していた一 の百科全書」「文盲者の聖書」といっ 色彩の抽象美を賛美するのもそのた たことばで形容されるように , 各種 の時代においては , 芸術家の注文主 めである。しかも一方では , キリスト の図像は , 字の読めない民衆のため あるいはノヾトロンは , 教会あるいは 教美術は , 目に見えない超越的世界 聖職者であり , 芸術家は聖職者自身 や抽象的概念を , 目に見える具体的 に , 教義 , 聖書の物語 , 聖者の伝説 であることも多く , 少なくとも無名 なものとして表現し , 人々に教えね をはしめ , 道徳 , 1 年の暦 , 各種の 科学など , あらゆる教えを図解によ の職人 , 謙虚な信者として奉仕 : した このような諸条件 は、ならなかった って表示する役割をになった。聖書 これは信仰のもとに生きた時代精神 からキリスト教美術の一般的な性格 のロ語化 , 印刷術の普及などが , し が芸術として具体化しているのであ が生まれる。つまり写実的な再現の って , 近代の美術のうちに現われる だいにキリスト教美術のこうした役 芸術ではなく , 本質的に抽象的な象 キリスト教美術と本質的に異なるも 割を減殺するのであるが , キリスト 徴の芸術という性格である。 / ゴシッ のである。もちろんルネサンス期以 教美術が中世において果たした教化 ク以後は , しだいに古典的精神のも 後も , 聖なる芸術に復帰しようとす 的な役割は , きわめて大きなもので とに再現的な傾向が高まっていくが る動きはしばしば現われた。反宗教 あったといわねばならない。最後に それでもなお , 本質的には , ゴシッ 改革運動に伴う努力 , あるいはナザ キリスト教美術は , 上述のような諸 クの美術も象徴の芸術であり , 信仰 レ派 , また 2 ( ) 世糸己にはいってからの 手段を通」 : て宗教的感情の高揚を意 ラール・サクレの運動などがそれで 図する。たとえば聖母子を描いた / ス ある。しかし , これらの多くの動き テンドグラスを見るとき , 民衆はそ にしても , 中世におけるように純一 こに彼らの脳裏にある聖母子のイメ な信仰のための美術ではなく , 他の ージがきわめて明確に具体化されて 側面を多くもっている。それぞれの いることを知るだけでなく , その色 時代精神のかたわらに開花したキリ と光線の美しさによって謙虚な信仰 スト教美術にすぎす , 本質的には , 心、にたどりつく。 こうしてキリスト その時代の , あるいはその作者の芸 教美術は , 信仰から生まれ , また信 仰を植えつける。この相互関係が可 術である。たとえばノレ・コルビュジ 能である条件のなかにのみ , キリス 工によって設計されたロンシャンの 教会は現代の信仰の具体化というよ ト教美術とよに値する聖なる芸術 りは , 現代建築の先端的な課題が , ができあがる。 たまたまキリスト教建築という形に 〔キリスト教美術の象徴性〕ユダヤ 具体化されているにすぎない。マチ 教と同様に , キリスト教も元来 , 偶 スによって装飾されたバンスの礼拝 像礼拝に対しては否定的である。「わ 堂にしても同様である。個人的な信 れの前にいかなる偶像をも立つべか 仰を現代的な精神にまで高め具体化 らす , われの前にいかなる偶像をも 、 00 ・ .0 よ : 左はローマのサンタ・ プデンチアー - ・ナ聖堂の アプスのモザイク ( 4 世紀末 ) で , キリスト と使徒および象徴人 が東方的に描かれてい る。右はフランスの・ヾ ズレーの聖マドレーヌ 聖堂の大扉口を飾る浮 彫り ( 12 世紀 ) で , キリ ストを中央に使徒の伝 道を表わしたもの 0 み し シャルトル大聖堂西正 面入口の円・柱彫像。旧 約に出る族長と預言者 を表わしたものといわ れ , 12 世紀中ごろの作
5 6 6 失って放浪し , みすからも戦争に加 ド大学出身。 1926 ~ 3() 年ロンドン・ く世人に忘れられ , 16 世紀中期以後 タイムズの編集に当たった。 26 年カ わった。 33 歳ころから文筆活動には 再発見された。 18 世紀になってゴッ トリックに改宗し , 以来宗教的作家 いり , 実生活では旅館主 , 商人 , 町 トホープに植民地がつくられ , 今日 として名声が高まった。 35 年リべリ 長などを遍歴する。変名で出版した のデンマーク領の基礎ができた。内 アを訪れ , く地図のない旅 > を発表 自伝的小説くジンプリチシムスの冒 陸の探検は 19 世紀後半以後ナンセン , 険 > ( 1669 ) は , スペインの悪者小説 した。 40 年スペクテーター紙 , 41 ~ ピアリーらによって行なわれたが 44 年外務省に勤務。代表作にくスタ の流れをひいているが , 三十年戦争 まだ未知の部分が多イ , 第二次大戦 をいきいきと描き , ューモアに満ち , ンプール特急 > くプライトン・ロッ 後はほとんど毎年各国の探検隊が送 ク > く権力と栄光〉くものの心 > く情 そのうえ主人公の内的発展と浄化を られている。 〔戸谷〕 事の終わり > くおとなしいアメリカ 描写して , ドイツのすぐれた教養小 クレジスタン Kurdistan 西ア 説の一つとなった 人 > などがあり , 映画シナリオもく第 〔小塩〕 ジアのイラン高原から , トロス山脈 三の男 > など成功作が多い。彼は自 グリーンランド G re en 信 nd カ にわたるクルド人の居住地域。面積 作品を「本格もの」 s e r i ou s と「読 ナダの北東方 , 大西洋と北極海の間 約 191660km2 。クルド人はイラン系の みもの」 entertainment に・分類する にある世界最大の島。面積 2176000 イスラム教徒 ( スンニー派 ) で人口は が , 両方に共通するのはスリラー風 km2 , 人口 33140 ( 1960 ) 。デンマーク 約 400 万と推定。政治的境界はなく , の領土であったが , 1953 年本国の県 の構成でしかも追われるものの立場 イランとソ連の一部に約 1 ( ) 0 万 , ト で取り扱い , 前者の場合 , 追われる と同格の自治権をえた。主要都市は ルコに約 200 万 , イラクに約 5 ( ) 万が 者の異常な心理 , 悪の意識を追究す 南部のゴットホープと北部のゴッド 分かれて住んでいる。少数の定着者 るところに神を見いだすという , カ ノ、「ン冫 / を除き多くは遊牧民である。この地 トリック作家としての本領がうかが 〔自然〕全土の約 85 % , 1834 ( ) ()0km2 は古代からひんばんに支配者をかえ は氷床 ( 内陸氷 ) におおわれ , 氷床の たのち , 1639 年トルコ・イラン条約 グリンカ M i kh a i 1 1 va nov i c h 表面は内陸部に向かって高くなり , で両国領に 2 分された。また第一次 GIinka 1804 ~ 57 ロシアの作曲家。 最高部は 3000 m を越える。一方 , 氷 大戦にはロシア軍が進入 , 戦場とな 貴族の家に生まれ , 幼時より音楽に 床の基盤は表面とは逆に盆地状をな り , 1920 年セープル条約でクルジス 親しんだが , はしめ鉄道省につとめ し , 30 % ほどは海面より低いことが タンの独立が認められたが , 23 年ロ ( 1824 ~ 28 ) , 1830 年療養のため国外 第二次大戦後の調査によって明らか ーザンヌ条約でトルコ , イラン , イ に行き , イタリアとドイツで正統的 にされた。氷床の縁辺で氷原上に突 ラク領に 3 分された。 〔奧野〕 くるしまかいきよう来島海峡 な西洋音楽の技術を学んだ。これら 出している岩山はヌナタクとよばれ の成果は 34 年帰国後に現われるが , るが , そのうち南東部のキ、ユンビヨ 愛媛県今治市と , 対岸の越智郡に とくに重要なのは初めく皇帝に捧ま ルン山は 3750 m でもっとも高い。海 属する大島の間をいい 小島が点在 岸の無氷部はかっての氷河侵食によ げし命〉と改題させられて初演され するため 3 水道に分かれる。古くか たくイワン・スサーニン〉 ( 1835 ) と り波状の高原とフィヨルドが発達し らの瀬戸内海交通の要衝であるが , くルスランとリュドミラ > ( 1842 ) で , ている。氷塊は海岸の絶壁からくす 最大潮流速 8 ノットを有するため , このオペラはロシア国民主義音楽の れ落ちて氷山となり , 東海岸では東 航海の安全を期して , 1901 年中渡島 基礎を築いただけでなく , 19 世紀後 グリーンランド海流やラブラドル海 潮流信号所が , 54 年大浜灯台に無線 半の欧州の国民主義音楽に大きな刺 流に運ばれて遠くニューファウンド 放送標識が設けられた 〔勝俣〕 グルジャ〔共和国〕 Gruziya ソ ランド沖に達し , 北大西洋航路の船 〔角倉〕 連 , カフカズ山脈南部 , 黒海沿岸に を脅かす。内陸は 1 月の月平均気温 グ、リンテンレワアレト Grindelwald あり , 19 36 年以来ソビエト連邦の構 が -50 ℃ , もっとも暖かい 7 月でも くノレニーズ・アノレプス 成共和国の一つである。アブハズお ー 14 ℃の極寒気候である。海岸部は の谷にある町。人口 3100 ( 196 の。標 よびアジャールの両自治共和国 , 南 高 1 ( ) 38m 。交通とウインタースポー ツンドラ気候で , メキシコ湾流の支流 オセチア自治州を含み , 面積 69700 ツの中心地で , 保養地でもある。イ に影響される南西岸にはカバ , ヤナ km2 , 人口 4410000 ( 1964 ) 。主者にはト ンターラーケン , ラウタープルンネ ハンノキの疎林や草原もみられ ンに通ずる登山鉄道がある。ュング ビリシ。北は大カフカズ山脈 , 南は る。動物はホッキョクウサギ , テン , フラウ連山の北ろくにあり , 東方に 小カフカズ山脈に限られ , 中央部に ホッキョクキ、ツネ , オオカミ , シロ ウェッターホノレン ( 3701 m ) カ { そびえ , クマなどが生息し , 沿岸部には海鳥 は , 黒海に注ぐリオニ川流域平野と その登山口となっている。〔生野〕 やオットセイ , セイウチがいるはか カスピ海に注ぐクラ川流域の河谷部 ニシンなどの魚も多い。クジ がひらける。最高点は 5047m のカズ グリンメアレス′、ウゼン Hans Ja- タラ , べク山。気候は温暖多雨で , 高山に ラは近年著しく減少した。 kob Christoffel von GrimmeIs- 〔住民・産業〕住民はエスキモー ( 約 は氷河がある。住民の % はグルジャ hausen 1621 / 22 ~ 76 ドイツの / ト 3000 人 ) , 欧州人 ( 1867 人 ) のはか , 人で , 南カフカズ語族に属するとさ 説家。三十年戦争のため早く両親を 大部分は両者の混血によるグリーン れるがまだ決定をみない。 ほかにロ ランド人で , 南西海岸に集中する。 シア人 , アルメニア人 , オセチア人 , ェスキモーは大部分が北西部のチュ アブハズ人などがいる。ブドウ , ーレ ( ツーレ ) 地区 , ィータ地区に住 カン , アンズなどの果実類 , 茶 , タ む。住民の大部分は毛皮獣の狩猟と バコの栽培が盛んで , 牧畜は 1964 年 沿岸漁業に従事している。鉱産とし で牛約 147 万頭 , 羊とヤキ、約 232 万頭 ては南西岸の氷品石が世界第 1 位を である。水力発電を基礎に , 石炭 , ヤ金 , 機械など鉱工業の開発はめざ しめ , 他は未開発である。この島は 気象観測上からも , 北極圏航空路の ことに埋蔵量が世界の % と ましく , 中継地としても重要で , N A T O につ いわれる良質のマンガンは有名。太 古からの人類の遺跡があり , 交通貿 ながる航空基地やレーダ基地が置か 易の要地であったため , 紀元後はロ れ , 米軍が駐留している。 ーマ , ビザンチン , イランなどとしば 〔歴史〕 10 世紀末にノルマン人工リ しば支配者が変わった。 337 年ごろ ックが発見上陸し , 緑の島と名づけ キリスト教がはいり , 7 世紀にはア て欧州人の来航を促したが , のち長 グリンカ 3
カーネギー 鐘カリョンとよばれ る教会の鐘で , 多くの 鐘が高音から低音へ並 べてあり , 機械しかけ で鳴らす。古くは長い 綱を引いて鳴らした 1 3 4 ( 1891 開場 ) は 1898 年の改築金の大部 竜が水神の使者であることに由来す るものであろう。なお除夜に百八の 分は彼の寄付で , カーネギーホール と名づけられたほか , 1900 年に 100 鐘を鳴らすのは , 鐘の功徳によって 万ドルを投したカーネギーエ科大学 , 百八の煩悩をやぶるということか 05 年教育振興のため 1000 万ドル ( の らきている。 西洋の鐘はベル形式で , 古くはギ ち O 万ドル追加 ) を投したカーネギ ー財団 , 10 年のカーネギー国際平和 リシアで神託を伝えるために用いら れ , ローマでは執務の合図 ( 朝鐘によ 基金 , カーネギーヒーロー資金 , 11 年のカーネギー協会設立などは著名 る ) に利用されたが , 中世には教会 〔木村〕 につけられるようになり , 12 世紀こ なものである。 ろより大きな鐘がさかんに作られた . 力一 - オ、一シ - ョン carnation l() これらの鐘は手で鳴らされるものと , 世紀ころから南欧で栽培がさかんと なってきたナデシコ科の園芸植物。 機械じかけで行なわれるカリョンの 現在の花の基礎となった四季咲き種 2 種がある。有名な鐘にはローマの は 18 世紀中ころにフランスで作られ サン・ピエトロ聖堂のものなどあり , し , 上部に乳ちのある乳の間 , 中央に この花は母性愛の花とされ , 毎 最大のものはモスクワのツア 銘文を刻む ( または陽鋳する ) 池の間 コロコル ( 17 33 ) で , 高さ 7.92 m ある 年 5 月の第 2 日曜日を / 母の日と定 がある。部分的に唐草文なども飾 め , 紅 ( 母のいる人 ) , 白 ( 母のなくな が , これは完成前に火災で一部がこ るが文様はほとんどない。銘文は本 った人 ) の花を胸に飾り , 母への感 われ , 一度も鳴ったことがない。日 文 , 銘文の文案者 , 筆者 , 寄進者 , 謝の意を示す。花ことばに白と紅は 本における西洋の鐘の古いのでは京 鋳造者などの名を表わすものがもっ 愛情とある。日本へは江戸時代に渡 都妙心寺春光院にあるキリシタン時 とも形式が備わったもので , 代表作 来してオランダナデシコとよばれた 代に使用した西紀 1577 年銘のベルが に京都神護寺の梵鐘 ( 875 ) がある。 〔蔵田〕 か・ , 明治の末にはマノレメーゾン種か、 ある。 また鐘はよい音色を出すことに苦心 輸入され , 次いで米国より今日の温 カーネギー Andrew Carnegie したので ( 銅を多くすると音が悪く 1835 ~ 1919 鋼鉄王といわれた米国 室種レヾーベチュアル種 ) がはいって なり , スズを多くすると割れやすい ) , 営利的に栽培されるようになった の産業資本家。スコットランドの織 ポーダー種は , 秋に播種して育 その製法の割合については秘伝とさ 物業主の子として生まれたが , 家産 れていたほどで , 音色は黄鐘調糶ド てると春に咲く強健な露地用種で , の没落で 1848 年米国ペンシルノヾニア を最上としている。寺院の鐘は飛 に移住。巻糸工 , 電報配達夫 , 電信 これにはグレナダン , マーガレット , 鳥時代の法隆寺鐘がもっとも古い 技師などをへてべンシルバニア鉄道 シャーポーなどの系統があり , 切り とされ , 在銘の鐘では京都妙心寺の の監督となり , 一方 , 石油会社 , 運 花 , 花壇 , はち植え用一年草として 文武天皇 2 年 ( 698 ) の年紀の作がも 送会社などに投資して巨大な利潤を 取り扱われている。 っとも古く , 最大の鐘は京都方広寺 えた。 65 年より鉄鋼業の経営に着手 , 温室種は米国で切り . 花用として改 ーカネタタキ の国家安康銘 ( 1614 ) のもので高さが 72 年べッセマー製鋼法で有名なべッ 良されたもので , 茎は強く四季咲き 4. 24m ある。日本の鐘は寺院の梵鐘 セマーと知り合って以来 , 製鋼業に 大輪で , おもにさし芽によってふや を中心としているので , 鐘供養や鐘 主力を注ぎ , ヒ。ツツバーグ周辺の鉄 される。日爰地の露地やビニルハウス に関する伝説が多い。安珍清姫語 鋼所を統合 , 99 年には世界最大のカ 温室では冬の切り花用としての栽培 で有名な和歌山県道成寺の鐘供養は ーネギー製鋼株式会社をつくりあげ , が多いが , 強健なコーラル ( 紅小輪 ) 踊りや劇などで一般によく知られ , 全米製鋼額の % 近くを生産するにい やピーターフィッシャー ( ピンク , 白 , また各地にみられる鐘ガ崎 , 鐘が淵 1901 年 , 会社を / U S スチ 中輪 ) は露地栽培が行なわれ , とく たった などの地名は , 水中に鐘が沈んでい ールに売り渡して業界から引退 , 以 に涼しい地方では夏の切り花栽培が ミ るという沈鐘伝説による。梵鐘と水 後は社会事業に専念した。すなわち , 盛んである。 栽培方法はいろいろあるが , 苗の 神との関係は鐘の上部につけられた ューヨークのミュージックホーノレ 心つみは 2 ~ 3 回 , 平均 10 本程度の 左 , 中国 , 西周の青銅の鐘。上部の柄にあたる部分は甬 ( よう ) といわれ , こに鐶 ( かん ) をつけて斜めにつるし 腋枝をたて切り花とする。生育する た。枚とよぶ突起のある中央の部分は鉦 ( しよう ) とよばれ , 下部の鼓 ( こ ) とよところをたたいて鳴らした。そ につれて倒れないようにネットを張 の両下端の銑 ( せん ) とよぶ部分がとがっているのが特徴で , 銑と銑との間は弧状をなしている。中 , 奈良時代の り , 腋芽をかいて 1 輪とする。肥料 , 梵鐘 ( 福岡県太宰府町の観世音寺 ) で , つるす部分は竜頭 , 上端を肩 , 中部を胴 ( 鐘身 ) , 下端を駒 ( こま ) のつめと 薬剤散布の世話はかなりかかる。新 いう。鐘身は , 紐 ( ちゅう ) とよぶ陽起した線状で縱横に区切られ , 突起した乳の並列した部分を乳の間といい , 品種の育成は実生によるが , 交配は 線条の交差したところに鐘座が前後にある。右 , モスクワにある世界一といわれる大鐘ツアー ・コロコノレ 秋から春までの空中湿度の少ない時 を選ばないと結実しにくい。種子を 秋にまけば春に開花する。〔浅山〕 かねたたき直し ( 翅 ) 目 , コオロ キ、科のこん虫の一種。秋の鳴く虫の ーっ。体長 l()mm 内外 , へん平 , 灰か っ色の鱗片でおおわれている。雄の 上翅は黒かっ色で短く帯のように見 える。雌にははねカ { ほとんどない。成 虫は 8 月の中 , 下旬から 1() 月にかけ て出現し , 庭木 , かきねの上などで チン , チンとかれんな美しい声で鳴 く。関東地方以西の暖地に分布する 〔黒沢〕 ガーネット / サクロ石 かのう化膿多数の / 白血球が 泳ぎ出す炎症で , 黄色不透明の液 , 4 た カーー - オ、一一シ・ヨン
3 6 2 キヌ も養蚕技術の輸入を物語っている。 こうして新しい養蚕法が伝えられて 絹織物の技術は進み , 製品も精巧と なり , 各地で絹織物を産出して朝廷 への租税とした。平安時代には服飾 の発達に伴って , 絹織物の織り方や 模様や色合いなどがさらに進歩し , 以来 , 京都 , 堺 , 博多 , 丹後 ( 京都 府 ) , 越前 ( 福井県 ) , 加賀 ( 石川県 ) , 上野 ( 栃木県 ) などの絹織物産地が 生まれ , それぞれ独特の絹織物を産 い。抗マラリア剤として古くから重 出した。江戸時代には産地もふえ , 蚕神として崇拝 発明したといわれ , その種類も増し , 染織の技術もさら 用されているが , 下熱剤にも使われ されている。その後 , 中国内では普 に精巧をきわめて , 和服の発達とと ている。また神経強壮剤や陣痛促進 及したが , 他国には秘密が保たれ , もに絹織物は空前の発展をとげた。 剤に用いられることもある。副作用 ながいあいだ独占的事業として発達 に注意を要する。 明治年間には製織の機械や技術の輸 〔宮木〕 した。欧州へはいわゆる / 「絹の道」 きぬ絹カイコの繭からとった 入によって産額も増し , その製品を をへて隊商によって運ばれ , 古代ロ 繊維で作る糸 ( / 生糸など ) および絹 輸出するようになったが , その後は ーマで同し目方の金と取引されたは 織物 , まわたなどの総称。養蚕法に 人絹その他の化学繊維の生産によっ ど貴重であった。またアラビア人に よって大別すると , 屋内で飼育され て相当の影響を受けている。しかし よって海路も利用された。養蚕の技 る家蚕からとる家蚕絹と / サクサ 絹の生産国として日本は世界の首位 術は紀元前後のころから朝鮮をへて ン ( 柞蚕 ) やテンサン ( 天蚕 , / ャマ 日本へ , また同しころインドへも伝 を占め , ことに生糸は日本の輸出物 マュガともいう ) からとる野蚕絹と 中の重要品であり , 主産地は石川 , わった。しかし欧州へは 6 世紀ころ 福島 , 京都 , 福井 , 群馬 , 埼玉 , 山 があるが , 家蚕絹が重要なので , で , 中国に長く住んでいたベルシア 般に絹と称するときはこれをさす。 僧が竹づえの中にカイコの卵を隠し 形 , 新潟などの諸県である。日本以 て伝えたという話がある。 7 世紀に 外では中国 , フランス , イタリア , ソ 野蚕絹には柞蚕絹と天蚕絹が有名で このほかにクリムシ ( 栗虫 ) はイタリアで , 10 世紀にはスペイン 連 , インド , タイなどでも生産される。 あるが , からは栗虫糸を , クスサン ( 樟蚕 ) か 〔絹の性能〕織物その他の用に供す でも生産されたが , 14 世紀以後から はフランスで盛んになり , 17 世紀の るためにカイコの繭から糸を繰り出 らは / てぐすをとる。また同種のも ゴプラン織など , すぐれた技術を生 して数条を集めて糸状にしたのを生 のにクモの糸からとるクモ絹があり , 糸という。生糸は絹の本質であるフ マダガスカルの特産としてひろく知 むにいたった イプロインがニカワ質のセリシンに 日本では , 最初の伝来として記録 られる。 〔沿革〕カイコの原産地は明らかで にみえるのは , 仲哀天皇時代に蚕種 よって包まれたもので , 色は灰白色 または黄色で手ざわりは堅く光沢に が献しられたとあり , 応神天皇 14 年 ないが , 養蚕に関してもっとも古い も乏しい。セリシンは熱湯 , とくに 歴史をもつのは中国で , 伝説によれ には弓月君が秦人を従えて帰化し , ば前 2()0 ( ) 年以上も昔に黄帝の妃西陵 セッケン , 炭酸ソーダなどの溶液で 蚕種をもたらしたとあり , また阿知 使主のの帰化や呉織り , 漢織り 煮沸すると溶けるが , フィブロイン が養蚕をすすめ , 製糸技術や織機を 絹左は漢時代の絹織 物 ( 楼蘭出土 ) 。右は魏 晋南北朝時代の絹織物 ( 外モンゴルのナイン テ・スム出土 ) キノコのいろいろ に裂けやすい。ムスカリンその他の毒成分があ ハッタケマッタケ科。項目参照。 食用キ / コ ハラタケマッタケ科。項目参照。 り , 食べると発汗する。 ニガクリタケクリタケに似てひだその他がよ マイタケサルノコシカケ科。項目参照。 ヒラタケ世界の温帯地方にひろく分布し , 広 ナメコマッタケ科。項目参照。 ごれた黄緑色を帯びている。マッタケ科。つば 葉樹の枯れ木や切り株にそう生する。マッタケ はあるが , 柄に密着する繊維質である。苦みが キヌガサタケスッポンタケ科。項目参照。 科。かさは半円形や扇形で , 1 側に短い柄があ あり , 食べると中毒を起こして死ぬこともある。 る。かさの径は 10cm 内外 , 表面は灰白色または 毒キノコ きわめてふつうに庭園や道ばたに生し , 毒々し ねすみ色。無毛 , 平滑で下面のひだは茎に垂生 オオワライタケ世界にひろく分布する。マッ くないから注意を要する。 し白色。かさ肉は柔らかく純白である。柄には タケ科。夏秋のころ , 種々の広葉樹幹に単立ま ペニテングタケ秋季山林内に群生する。マッ 毛が多い。食用として栽培される。これに似た タケ科。テングタケと似た姿で , 柄にはつ一よと たはそう生する。かさは平らに開き , 径 10cm く ものに冬季発生するカンタケがある。柄に毛が つばがある。しかし , かさの表面は美しい鮮紅 らいとなり , 上面はだいだい黄色または少しく なく , 幼菌の色は濃い。 色なたは黄紅色である。ムスカリンを含み , 昔 かっ色を帯び , 平滑で薄い繊維状の鱗片がある。 アミガサタケおもに春季に庭園 , 林中の地上 から有名な毒キノコであるが , 中毒の例ははと ひだは柄に直生し黄色 , 柄も淡黄かっ色でつば に発生し , ひろく世界に分布する。ノボリリョ んどない。むしろ , 乾燥させて食用に供してい がある。神経を侵す成分を含み , 中毒すると踊 ウタケ科。高さ l()cm 内外で , かさは球状あるい り笑う。その成分はまだはっきりしない。 る地方もある。 は少しく長く , 黄かっ色または淡灰黄色で表面 ドクツルタケ夏秋のころ山林の広葉樹の間に イツポンシメジシメジによく似ている。マッ に網目状のくばみがあり , その表面は平滑で無 生する大形キノコ。マッタケ科。高さ 10 ~ 15cm , タケ科。ひだが熟すると紅色を帯び , 胞子は角 数の子嚢胞子をつける。柄は円柱状で太く , か かさは開いて平らとなり , 上面は平滑である。 張って紅色である。柄は繊維質で縦に裂けやす さと同色。内部はかさとともに中空である。食 柄の表面にささくれがあり , また膜状のつばと く , 食べられそうに見えるので毎年これによる 用となり , よいだしがでる。欧州人はこれを珍 下端につばがある。全体がもろい肉質で , 純白 中毒例がある。これに似たウラベニホティシメ 重する。同類に数種がある。 である。猛毒であるから注意を要する。 ジや , 春にナシ畑などにでるハルシメジなどは アンズタケ山野に自生する美しいキノコ。マ コタマゴテングタケ秋季に針葉樹林内の地上 食べられるが , しろうとには見わけにくい。 ッタケ科。高さ数 cm で漏斗形。全体が肉質で , に生する。マッタケ科。だいたいドクツノレタケ アセタケ秋季山林内の地上に群生する小形の だいだい黄色 , アンズの香カ { 強い。ひだは浅い に似た形をし , かさの表面は黄色 , その上に膜 キノコ。マッタケ科。高さ数 cm, かさは円すい しわ状で柄に下垂する。食用とし美味である。 状のきれはしが散在する。ひだも黄色である。 形 , またはすげがさ状に開き , 中央が突起して シイタケマッタケ科。項目参照。 テングタケマッタケ科。項目参照。 いる。灰かっ色で繊維質 , 放射状の条線が多く , マッタケマッタケ科。項目参照。 ッキヨタケマッタケ科。項目参照。〔小林〕 裂けやすい。ひだも灰かっ色 , 柄は繊維質で縦 シメジマッタケ科。項目参照。
キョウイク のちの大学 un i ve r s i t y の基となった 中世の手工業者たちは相互の利益を 守るためにギルド ( 職人組合 ) を結成 し , このギルドの組合員は親方 m a s ・ te r とよばれていた。職人になろう とするものは , 親方の家にはいり , 衣食を給され , 仕事を見習った。 れが徒弟で , 彼らの労働収入はすべ て親方のものとなった。教育年限は 国により , 業種によりさまざまであ るカゞ , だいたい 3 年から 6 ~ 7 年が ふつうで , この年期が終わると , 徒 弟は親方のもとを離れて独立の生計 を営む職人となるが , まだギルドの 組合員である親方にはなれない。彼 らはあちらこちらの親方を遍歴して , そこで日雇職人として働きながらさ らに技術を学んだ。この身分の職人 は旅職人 journeyman とよぶ。旅職 人は , 一定の遍歴修業をつんだのち , 親方資格試験をうけ , これがキ・ルド に認められると , はしめてギルドの 正組合員とされ , 徒弟をかかえ , 日 雇職人を使うことができた。旅職人 が親方資格試験のために提出する作 品は親方製作 maste r p iece とよば れた。宗教改革後の絶対主義の国家 では , 開明君主によって啓蒙主義が 採用され , 教育制度の確立が国家の 政策として重んしられた。プロイセ ン王国のフリ ドリヒ・ウイルヘル ム 1 世は公立初等学校を普及して外 人教師を招き , フリードリヒ大王は 地方学事通則を公布して , 地方農民 に対する義務教育制度を樹立すると ともに , フランス革命の影響の波及 をおそれて教育や思想の統制を強化 し , 宗教教育や厳格な訓育を命じた ロシアでもピョートル大帝以来 , 外 人教師を招いて高等教育の実施に着 手したが , ェカチェリーナ女王は国 民教育制度の実施に熱心で , 1764 年 男女少年教育一般条例を公布し , 国 立寄宿学校の設立に努力したが , や がてデイドローを招いて新しい学校 制度を立案させた。 日本の私教育の歴史についてみる と , 平安時代の貴族が必要な一般教 養を身につけるのは家庭教育の仕事 であった。大江匡房が 8 歳にして家 庭でく史記〉く漢書〉などを授けられ たのはその一例で , そのはか和歌 , 管弦 , 手習などが教養課目であった。 中世にはいって , 家族制が強固にな ると , 武士の家庭では教養課目のは かに家風 , 家学 , 家芸を伝授して家 の存続と繁栄をはかるようになった。 こうして院政時代のころには , 家風 と教育とを一つにまとめた「庭訓」 「家訓」などの語が現われた。庭訓は 早くはく明衡往来 > のなかにみえ , そこではまだ朝夕に受ける教育とい う意味であるが , やがて初歩的な生 活知識がすなわち教育であるという 考えに変化し , その意味で庭訓とい う語が用いられるようになった。そ 3 9 4 して日常百般の常識をもりこんだ教 科書をく庭訓往来〉とよぶようにな った。また別に父祖伝来の学問 , 秘 伝 , 奥儀などを庭訓とする用語法も 藤原定家およびその血筋をひく歌門 に使われている。これと類似の用語 であるく庭のをしへ > は阿仏尼の作 で , 日本最初の女子教育の書物であ るといわれる。家訓という語を用い て家庭での教育を行なう教科書とし ているのは武家に多く , 北条重時の く六波羅殿御家訓〉が初・期のもので ある。つづいて室町時代のく竹馬抄 > く今川了俊制詞 > , 戦国時代のく浅倉 敏景十七条 > く北条早雲二十一カ条〉 く武田信繁家訓〉く長曽我部元親百ヵ 条〉などがこの系統のものである。 中世では漢字 , 和歌 , 習字 , 有職故 実などの学芸を学ぶのは公家 であり , 武士は家訓のはかは弓馬の 道などの武芸教育 , 庶民は初歩の読 み書き , そろばんができればけっこ うとされ , 教育の課目も程度も身分 によりまちまちであった。また医者 , 儒学者などの知的な職業につくもの は私塾におもむいて , 門下となる が , 職人や商人は西洋と同じく徒弟 としての実地教育をうけた。江戸時 代の都市の商家では , 店をかまえて 営業する商家には丁稚 ( 小僧 ) , 手 代 , 番頭の 3 階級の使用人があった 丁稚と手代は年季奉公人である。商 人になろうとするものは 10 歳前後で 丁稚奉公にあがって主人の家に住み こみ , 衣食を給され , 店内の雑用に 追いまわされながら , 客への応対 , 礼儀 , 作法などをきびしく教えこま れる。ふつう 17 ~ 18 歳で元服するこ ろに手代に昇進し , ようやく帳簿 , 出納などの業務にあたることを許さ こうして丁稚にはいって 20 年 れる。 くらいで番頭となると , 別宅に住ん で通勤することができる。そのうち のあるものは主人から若干の資本と 「のれん」を分けられて独立した商人 になるのである。女の場合にも雑役 , 飯たきなどの女中奉公があり , 丁稚 奉公や女中奉公のきびしさと , その 契約が近代的な観念からすると人身 売買的にみられて非難されるが , 実 際には貧しい少年少女が奉公によっ て針仕事 , 商売 , 技術 , 読み書きを 教育されたということも見のがせな い。したがって村によっては , 年こ ろになると , 進んで子女を出かせぎ 奉公に出す風習があり , 親はこれに よって子どもに広い世間を知らせ , 教育を行なったのである。明治初期 の農民一揆新のなかには , 新政府に 対し新設された小学校を廃止し私塾 を自由に許してはしいという嘆願を 要求のなかに加えているものがかな りあるが , これをあながち文明開化 を恐れる農民の愚かさとばかりみる ことはできない。庶民の子女はそれ まで親がしつけたり , 奉公に出して 教育していたのに , 小学校はこうし た民間教育の妨げになると思われた。 さらに近代的な学校の教育は , 農民 たちの生活とは無関係で役にたたぬ うえに , 学校の設立費や維持費が貧 しい生活の重荷になったからである。 なおこれ以後の近代の教育は学校教 育が中心になるので , 学校の項を参 照されたい 〔近代の教育制度〕自然発生的に生 まれたばらばらの教育組織が , 全社 会的に統合されて , ーっの体系をと るのは , 近代の国民国家の発展につ れてである。 19 世紀の国家主義の台 頭に促されて , 各国は , 富国強兵の ために全国民にひとしく普通教育を 授けることを必要と考え , ます , 初 等教育の制度を整備するとともに それを義務化した。すでに教育は , 任意の私事ではない公的事業と考え られ , いわゆる公教育制度が確立し たわけである。日本においては , 18 72 年の「学制」により , 公立 , 義務 , 無償の 3 原則に則した公教育制度が はしめて整備されたのである。 2() 世 紀になって , 民主主義が世界的風潮 となると , その観点からする公教育 制度の批判 , 修正が制度改革の中心 二つの世界大戦を 的課題とされた。 へて , 各国はようやく積極的にその 方向に動きつつある。それらの動向 をとおしてみられる近代的公教育制 度の理念は , つぎのような諸点であ る。 1 ) 世俗化とくに欧州各国にお いては , 久しく教会の手中にあった 教育は , 国家主義と社会主義の激し い戦いによって , 人間のもの , 一般 このようにし 庶民のものとなった て成立した公教育制度は , したがっ て教義的世界観に基づく宗派勢力に よって支配されてはならず , 同時に また , 公立学校は特定の宗派教育に 偏してはならす , 全国民的要求を基 盤にして教育を行なわねばならぬと する。 2 ) 中立性近代的公教育制度 はまた 18 世紀的絶対主義国家からの 解放でもあった。しかし , 教育が政 治の一環とての国家の営みである ということは , 支配層の意図がおし つけられることを不可避とする。し たがって教育の政治からの相対的独 立性を守るために , 政党政派や政治 権力からの干渉を最小限度におさえ , 学校そのものが一党一派に偏向する ことのないよう中立性の原則を立て ている。 3 ) 機会均等これは教育民 主化の重要な試金石である。その理 念を追求する運動の一つは統一学校 の試みであった。それまでの教育制 度は貧民のための初歩学校や寺小屋 , 上流のためのギムナジウム , カレッ ジという , 貧富上下に応した二本だ この「複線型」組織 てであったが は , 教育の機会均等という理想から いって好ましくないものであった これは後代になると小学校から、実業
6 6 9 コバルトに変化し , 20 年後でも数 椎本が 47 ) 総角 48 ) 早蕨 49 ) らに必要部分の輪郭を描き起こす , 百トンのラジウムを散布したのと同 宿木 50 ) 東屋 51 ) 浮舟鷲 52 ) いわゆる作り絵の手法によってきわ じ強さの放射能に汚染される。〔林〕 蜻蛉 53 ) 手習隠 54 ) 夢浮橋ゆめ めて濃密な彩色画面を構成する。多 うきはし げんじものがたり源氏物語平 ( 第 45 ~ 54 巻を俗に宇治十帖という ) く俯瞰まん的にかっ建物の線が 45 。に 安時代中期の長編物語。 54 巻。 / 紫 の 54 巻である。 近い角度で画面を切るような角度か 式部の作。古く「源氏の物語」とよ 〔あら筋〕桐壺の帝の皇子光 ( ひかる ) ( 臣 ら写す大胆な構図法により , また吹 籍に下って源姓を賜わり , 世に光源氏とよ ばれた。 10()8 年には少なくともその ュ、ふきぬき 抜屋ロやたいとよばれる描法によって ばれる ) のおいたちから , 須磨明石に閑居 一部は世に流布していたことが作者 室内を見おろし , 広い空間を表現し する政治的不遇の時期をへて太政天皇に準 のく紫式部日記 > によってうかがえ えている。人物の顔は引目鉤鼻 する位をうるまで , その間 , 父桐壺の帝の る。作者の仕えた一条天皇の中宮彰 とよばれる簡潔な手法によって , 王 きさきで義母にあたる藤壺との密通事件が 子ないしは彰子の父藤原道長の保 朝貴族の典雅な表情をよく表現して あり , 正妻葵の上の死後 , 藤壺のめいで彼 護のもとに完成された作品と思われ いる。この作品が「隆能甃源氏」と 女によく似た紫の上を妻とするが , そのは る。世界の古典文学作品と比べてま かタ顔 , 空嬋 , 六条の御息所 ( みやすどころ ) , もよばれるのは , 作者を当時の宮廷 さるとも劣らない大長編小説である 明石の上 , 花散里など多くの女性との交渉 絵師藤原隆能とする江戸時代の鑑定 を描いた 1 ) から 33 ) までが一般に第 1 部と ばかりでなく , その芸術的価値にお によるが , 確実な根拠はない。おそ よばれる。そのうち 22 ) から 33 ) までには , いてもきわめてすぐれた不朽の古典 らく当時の宮廷か後宮を中心に企画 源氏がタ顔の遺児玉鬘を養女としてその周 である。この物語が何を描いたかに 制作されたもので , もとはく源氏物 囲に多くの求婚者が集まる話や , 源氏の子 ついては , 本居宣長のく源氏物語玉 語 > 54 巻全体にわたっていたと推定 タ霧と藤原氏の内大臣の娘雲居雁 ( くもい の小櫛れ〉における「物のあはれ」 されるが , その一部が現存し , 名古 のかり ) との恋と結婚の物語が語られる。 論が有名であるが , 一般論としては 第 2 部は引 ) から 41 ) までで , 源氏の新たに 屋の徳川美術館に絵 15 段と詞 16 段 , めとった朱雀院 ( すざくいん ) の女三の宮が 現在も修正の必要は認められない。 東京の五島美術館に絵 4 段と詞 4 段 柏木と密通し , 事が現われて , 女三の宮は 「物のあはれ」とは , 人間の心が事 が収蔵されている。 / ( 別刷 ) 絵巻物 出家し , 柏木は病死 , 源氏に長年連れそっ にふれて深く感することをいい , そ 〔石田〕 た紫の上も死に , 源氏が出家を決意するま れは恋 , すなわち男女の交渉にまさ げんしゅ元首外部に向かって でが描かれる。第 3 部は 42 ) 以下で , 源氏 るものはないから , この物語は男女 国家を代表し , 官吏の任命 , 軍隊の 死後の物語であり , 宇治十帖は , 宇治の八 の交渉 , ときには不倫の恋も書いた の宮の姫君、大い君 , 中の君 , 浮舟の 3 女 統帥 , 恩赦などをゆだねられている 性に男性主人公として薫 ( かおる。源氏と のである , という。平安時代には , 国家機関。ふつう対外的に国家を代 女三の宮の子 , 実は柏木の子 ) と匂宮 ( 源氏 すぐれた男性が幾人ものすぐれた女 表する面に重点がおかれ , 条約を締 の孫 ) を配し , このふたりの男性の間に身 性と交渉をもっことは当然であり , 結し , 外交使節を任免し , 全権委任 を誤って浮舟が出家するところで終わる。 むしろ美徳と考えられる伝統があり , 状 , 大公使の信任状 , 解任状などを ことに第 2 部以下は , 場面も人物も狭く これを「色好み」とよんだ。すなわ 発する権能をもたなければならない 限られ , 心理描写もとくに深くすぐれ , 男 拳銃 ( 補 ) 拳銃の所持 ち , 書かれた事がらに即していえば , 女の関係交渉の破たんとそれに傷つき破れ とされる。君主国の君主 , たとえば は , 小銃 , 機関銃 , 砲 , てあるいは死に , あるいは出家する人物が 宣長はく源氏物語〉は色好みの世界 明治憲法下の天皇や共和国の / 大統 猟銃 , その他の銃砲 , 描かれ , そういう人間の心情の推移がきわ を書いたものだというのである。そ 領は元首である。日本国憲法では外 / 空気銃とともに , 銃 めて正確に必然性をおびて描かれているの うした世界に生きた男女の心情を人 交関係を処理し , 全権委任状を発し , 砲刀剣類所持等取締法 で , 悲劇的な印象を読者に刻印する。 間的にみごとに描いたところにこの 大公使の信任状を与え , 条約を締結 ( 昭 33 法 6 ) で一般には に作者の到達した人間造型の特質がみられ , 物語の古典的価値がある。物語の舞 禁止されている。警官 し , また官吏の任免 , 恩赦を行なう 近代小説に劣らぬ魅力をもって読者をひき や鉄道公安官などの拳 台は , 制作時より約 1 世紀前 , 醍醐 機能は内閣にあり , 天皇はただ認証 つける根本の理由もそこにある。 銃所持は別として , 上 天皇から村上天皇の時代 ( のちに延 源氏物語絵巻はく源氏物語 > 中か という儀礼的 , 形式的な行為でそれ 記の銃砲を所持できる に関与するだけである。したがって 喜天暦の治といわれた ) にとられ , ら絵画化しうる場面を選び , 各絵に のは , 1 ) 狩猟 , 有害鳥 宮廷を中心とする最上流貴族の世界 内閣が元首の機能を果たし , 天皇は 物語本文を多少アレンジした詞を 獣駆除 , と殺 , 人命救 を彼らに仕える女房の立場から物語 別につけた 12 世紀前半の絵巻。平安 国の象徴である。 〔川北〕 助 , 漁業 , 建設業 , 2 ) るというたてまえをとる。各巻はま けんじゅう拳銃ピストルとも 一定の試験 , 研究 , 3 ) 時代の / 大和絵賢の逸品として価値 国際的拳銃射撃競技参 とまった独立の話としての性質が強 高い。描法はます線描でだいたいの いう。片手操作の小型火器で , 至近 加 , 4 ) 国際的 , 全国的 く , これを時間的に連鎖させ , ある 輪郭を決め , 色彩や模様を施してさ 距離の戦闘に適し , 護身用に使用す 連動競技の出発合図な いは同時の違った話を二つ以上の巻 レポル / ヾの内部 どのためなどに必要な 照星 に語ったりして , 全体として長い物 シリンダ 銃砲を , 都道府県公安 語に構成されている。各巻にはその 委員会の許可を受けた 撃鉄 巻の主題を暗示する優美な巻名がつ 場合である。 18 歳未満 けられているが , おそらく作者の命 の者 , 精神病者 , 麻薬 や大麻の中毒患者 , 心 名にかかるものと思われる。すなわ 神耗弱者 , 住居不定の ち , 1 ) 桐壺 2 ) 帚木 3 ) 空蝉 者などは許可されない。 4 ) タ顔 5 ) 若紫 6 ) 末摘花こ髭 7 ) 輸入も法定の場合以外 紅葉賀 8 ) 花宴の 9 ) 葵 は禁止されている。拳 1 ( ) ) 賢木許 1 1 ) 花散里 : 12 ) 須 銃の不法所持は 5 年以 磨 : 13 ) 明石をか 14 ) 澪標 15 ) 下の懲役または 20 万円 以下の罰金 , 不法輸入 蓬生 16 ) 関屋 17 ) 絵ムえあ 18 ) ムロわせ は 5 年以下の懲役また 松風 19 ) 薄雲 2 ( ) ) 饉 21 ) 乙女 : と は 30 万円以下の罰金 22 ) 玉鬘 23 ) 初音 24 ) 胡蝶ょ ( 営利の目的ですると 25 ) 螢 26 ) 常夏 27 ) 篝火 7 年以下の懲役または 28 ) 野分 29 ) 行幸 3 ( ) ) 藤袴ふ 50 万円以下の罰金 ) で ばかま 31 ) 真本柱まき . ばしら 32 ) 梅枝 33 ) 藤裏 ある。なお美術品 , 骨 とう品として価値のあ 葉引 ) 若菜 ( ト . ) 35 ) 若菜 ( 下 ) る火なわ銃など古式銃 36 ) 柏木 37 ) 横笛 38 ) 鈴虫 39 ) 砲は , 文化財保護委員 タ霧 4 ( ) ) 御法会り 41 ) 幻 42 ) 匂宮 会に登録することにな 43 ) 紅梅 44 ) 竹河 45 ) 橋姫 46 ) っている。 ケンジュウ 拳銃の構造 0 銃身 シリンダ軸 薬きよう除去装置発条 0 一一引鉄 遊底 撃針 照星 0 撃鉄 グリップ ーム 安全せん フレ 銃床 、、、弾丸 、、弾倉 、引鉄 弾倉発条ーー オートマチックの内部 0