3 4 3 とで動物の信頼を得る方法をはしめ , より , 満員になりしだい幾回となく ト , グロック , ヒ。ンポらのすぐれ 行なうというのがふつうであった 猛獣芸に大きな成果をあげた。さら 宝化が現われた。現在ソ連や中国 同しころ , 移動動物園と猛獣芸が人 ' ではサーカスは国営として栄え , にハーゲンべックは 88 年には周囲に 気を得だした。なかにはサーカスと 鉄さくをはりめぐらしたリングの中 ッ , フランス , 英国 , 米国でも 結合しているものもかなりあったが に多数の動物を放すことをくふうし の興行は国民の支持をえて , 相 とくに有名だったのはサンが一兄弟 ~ 流してわざをきそう。大きなサ て有名になった。 のサーカスで , 19 世紀末には英国第 〔米国〕ワシントンが 1793 年に クス団は , ドイツに IOO , ソ連に 1 といわれた フランスに 60 , 米国と英国に J. B. リケツツのサーカスを見物した 〔フランス〕アストリーとそのむす を数え , 日本にも 20 余のサーカス という記録があるが , 英国から渡っ こジョンの一行はフランコニと組ん { あるが , 大きなものは有田 , 木 て 1792 年にニューヨークとフィラデ でフランスに渡りフランス最初のサ シバタなど数団体にすぎない。 ルフィアではしめたこの公演カ { , 米 ーカスを公開した。フランコニはま 国における最初のサーカスと思われ 亜での 1 年の入場者数は 2200 万人 13 m にリングを規定したり , 最 る。米国では巡回サーカスが発達し ーすといい , その意味でソ連は第 た 初の巡回キャラバンを組織したりし ほろ馬車で旅する小サーカスは , といえよう。 た た。これからフランスではシルク ( サ 国〕英国の将校 Ph. アストリーは 移動に鉄道を使うまでに大規模にな ーカス ) が流行して , トッブハット 術の名人で , しばしば騎乗展技を 鉄道を最初に使ったのはバー の騎乗婦人が社会的なスターとして なったが , 退官後馬術士の娘と結 ナムで , 彼のサーカス団は 1871 年プ もてはやされた。フランスのサーカ して , 夫婦の妙技を一般に展覧 , ルックリンで興行して以来 , 見せ物 スも , 大規模な興行をもつようにな () 年にはロンドンのウェストミン 的な奇人珍獣によって米国随一の人 ったが , また小さな小屋で洗練され ター橋の近くに小屋を作って公演 気を得た。ノヾーナムに続くリングリ た道化の演する寄席姦芸風な演目と した。 3 年後に踊りと芝居のため ング兄弟はさらに規模をひろげて , ともに , 白馬を中心とする華麗な見 舞台を作りつけて , 王室技芸劇場 1918 年にはリング 3 , ステージ 4 , はなやかな現代サーカ せ物を特色とするようになった。こ こに近代サーカスの基 従業員 800 人となった。異色のあっ なのり , スの演技。左上の笑い の国のサーカス演目の多面で劇的な ができた。以来英国ではアストリ たのは , 西部の英雄バッファロー をふりまく道化の寸劇 ことには , 興行師コクランの力が大 に続くものがいくつも現われて内 ビル ( 1846 ~ 1917 ) の組んだサーカス と , 中上の手に汗にぎ きかった。 を充実させ , それまで大道芸とし で , これは 1880 年代には英国にも渡 る空中」 : らんこは , ポ 〔ドイツ〕ドイツにはゲーテのころ 行なわれていたアクロノヾット , 道 り , ロンドンで西部風の演技で評判 リショイ・サーカス。 から動物芸の見せ物があったが , 19 になった。米国のサーカスはその大 綱渡りなどが演目に加えられた 左下の道化のペーソス 世紀はじめに大芝居がさかんになり , と中下の豪華なゾウの 規模なスペクタクルにおいて世界で やはり「ワーーテルローーの戦い」 それから動物芸を中心として大規模 曲芸は米国映画く地上 よう、な馬芝居が見ものの中心であ 名高く , 5 両はどのサーーカス列車 . で 最大のショー〉より。 ことに動物園をも になっていった 移動するとき , 裏方としての電気係 , た。アストリー時代には , 馬 3 頭 , 右上は西ドイツのツー つ . ′、一ゲンべック Karl Hagenbeck 化 1 人 , ぶらんこ数人 , 綱渡り 1 機械係や雑役をましえて人数が多く , クンユピッツ曲芸団の ( 1844 ~ 1913 ) は , 1880 年に従来の折 、程度の小規模な巡回サーカスも多 猛獣動物園 , 器具舎などのつらなり フラフープ , 右下はポ 檻によって動物をしこむ方法を改 出た。定席のない各地の祭興行で , をみせて , やはり見せ物の本質を失 リンヨイのオーートバイ めて , はめること , やさしくするこ びこみやデモンストレーションに わない。 をあやつるクマ サーカス
サッシ 3 6 9 を、搾・物新応動・ 促されて , 大部数の大衆雑誌の普 日本の雑誌 ( 上 ) 上段左から , く明六雑誌〉創刊号 , くしがらみ草紙〉く国民之友〉く白樺 > 時代となった。すなわち米国のくハ 創刊号 , 下段左から , く青鞜〉くキング〉創刊号 , く文芸春秋〉く改造〉。外国の雑誌 ( 下 ) 上 ・ ? ンスリー - ・、マ 段左から , 英国の伝統的週刊風刺雑誌くバンチ〉 , く口ンドン・シャリバリ > ともいい , 18 ジン〉 ( 1850 創刊 ) は , 多くの図版 41 年の創刊。米国の週刊グラフ雑誌くライフ〉 , 1936 年の創刊。フランス版の家庭婦人堆 ・連載小説をのせた大判の大衆誌と 誌くボーグ > 。下段左から , スイスの美術雑誌くグラフィス〉 , ソ連の大衆誌くアガニョ ク〉 , フランスの文芸言志くエヌ・エル・エフ N R F 〉 て新しい分野をひらいたといわれ が , 英国でもサッカレー主宰のくコ ・ンヒル・マガジン > が小説を連載 はじめ , 一方 , フランスのくリリュ トラション〉 , 英国のくイラストレ ・テッド・マガジン〉などはグラフ 誌の早い例となった。また婦人雑 , 少年雑誌の類も多く出現し , 前 「には英国のくクイーン〉くレディ〉 , : 国のくレディズ・ホーム・ジャー - ル〉くボーグ > などが , 後者には米 ] のくユース・コン / ヾニオン〉 , 英国 ) くチャターポックス〉 , フランスの ル・マガジン・デデュカション ・レクレアション > ( ベルヌ編集 ) 、どがあげられる。もちろんこれら こ衆雑誌の普及のうちにも , 政治経 や文芸にかかわる評論雑誌はあと ・断たす , 最近までの著名な指導的 ミ誌としては , 英国のくエコノミス ステーツマン・アン ・ネーション〉くクライテリオン > , : 国のくアトランチック・マンスリ - 〉くネーション > くコスモポリタン〉 , ′ランスのくエスプリ〉くノヾンセ〉くヌ - べノレ・ノレビュ・フランセーズ ( N R ' ) > , ドイツのくドイッチェ・ルント リテラトウーノレ > ャウ〉くディ 、どカ { 数えられる。またソ連では共 党機関誌くコムニスト > をはしめ し , 国際政治誌くノーポエ・ウレ ミャ > や時事漫画誌くクロコディ 三月號 第第巻第 ニ月號 行秋存文 CC を SO ー新 E8 上了′ Ou 日 Ru 日 E8 0 を 00 、 0 日 一日 00 都ししを等 ド 0 リ自し [ 3 J をリ物を 3 協艷引 0 物 UF 0 れ ルⅣ 2 亂 、 0 ( す 7 イゴ / 」 - , し , ん FR. 4NCAISE 40
シャコ 5 9 4 ている。第一触角は先が三つにわか れ , 本来の民族性は失われている。 れている。胸部の肢の前方の 5 対が 〔歴史〕 1 ) 発祥以前踊りを意味 あご脚となり , その第 2 のものが大 るタ、、ンスの語は , また音楽 E の舞 きく発達し , カマキリの前肢のよう の意味もかねる。世俗的部楽の形 になってえさを捕えるのに役だって のはとんどか踊リの形式から生ま芽 いる。腹部は大きくて平たい。 ているが , 中世の宮廷で踊られた の肉を食用にするが , 色は淡灰かっ ルタレロ , トロットなどはいすれ 色で煮ても赤くならない。すしだわ 莊重な輪舞か , 歩く踊りであり , にする。 / ( 別刷 ) 甲殼類〔福井〕 たこれが農民の元気なはねる踊りク しやこ〔鷓鴣〕キジ科の鳥。日 形といっしょに組み合わされて , ちに組曲の形式ができあがった 本には産せす , / ウズラに似てコジ で , トンキンで取引されるためトン キン麝香といわれる。円形またはだ ュケイくらいの大きさである。華南 なわち前踊り Vor t anz はゆっくりし 円形の重さ約 2 ( ) ~ 30 g の香嚢の中に に多く , 秋には稲田に現われるが , た 2 拍子の踊りであり , あと踊り 顆粒状に固まった分泌物を含んで 山中の樹上でくびを引きかん高く鳴 Nachtanz は早い 3 拍子の型をとる くという。黄かっ色に小黒班が多い いる。その主成分はムスコンという 中世では , 教会の圧迫もあって , 足 - 一種の大環状ケトンである。これは りの発展も公然にはみられないが , けい背部か・小円白班状なのでコモン 水 , アルコールに溶けやすく , ふつ シャコともいう。昔九州に合で持ち ルネサンス , とくに 16 世紀になると うアルコールチンキとして各種香料 込まれていたというか・ , 近年はほと 「タ、、ンスの世紀」といわれるはど の保留剤 , 変調剤として賞用される。 んど飼い鳥としてもみられない。脚 ンスが隆盛をきわめた。アルポー なお / ジャコウネコの麝香腺の分泌 くオノレケソグラフィー > ( 1588 ) には やくちばしの赤い美しいイワシャコ 物から得られる霊猫ぅ香の主成分 は岩の多い山地にすみ , 南欧まで分 当時の / ヾ / ヾーヌ , ガ、イヤーノレ , ク 布し , 数種がある。近縁のヤマウズ も , 一種の大環状ケトンでシベトン ラントなど 19 の踊りの型が言己録さ ラは丘陵耕地に小群をなしてすみ , とよばれ , 香料に用いる。〔安川〕 ている。 17 世紀における主要なダン じゃこうじか〔麝香鹿〕偶てい 中国東北に多い。胸に黒い大班があ スは , アルマンド , クーラント , サ 目シカ科の獣。他のシカ類と違って るのカ { 特徴で , ヨーロッノヾヤマウズ ラバンド , ジーグなどの古典組曲の ラはこれが茶色である。〔黒田久〕 形式で , とくに絶対主義体制の中心 眼下腺がなく , 胆嚢がある。また雌 雄ともに角がない。雄では生殖門付 であったフランスでは , 各種の宮廷 じゃこう麝香 / ジャコウジカ の雄のもつ嚢状の麝香腺を乾燥した 近に袋状の麝香腺があり , これから ダンスの型が完成し , 各国に影響を / 麝香をとるので名高い。麝香腺は 及は、した。これらの宮廷ダンスも , もので , 古来珍重された重な否料。 農民の踊りよりきたものが多く , 力、、 冬の交尾期に発達し , とくに強い香 中でもチベット産のものは品質優秀 気を発するが , これは雌をひきつけ ポットはドーフィネ地方の , ノヾスヒ。 円世紀までのダンス音楽の形式 る働きをするらしい。上大歯は口外 工はプノレターニュ上也方の , メヌエッ にのびて , きば状となる。肩の高さ トはボアト一地方の踊りから発展し は 50cm くらい。毛は密生し , かっ色 たものであった。英国ではカントリ フランス宮廷のタンス 緩 偶 , 各種 15 ~ 16 ノヾス・ . ダンス で灰色の毛を混生し , 耳介は大きい。 ・ダンス ( コントル・ダンス ) か、踊 フランスの輪舞 軽快 各種 15 ~ 17 ・・ズランノレ シベリア , 中国 , ネノヾール , 樺太 , られ , カナリア諸島に由来する踊り 軽快 奇 , 各種 15 ~ 17 フランスのダンス ノヾスピエ 朝鮮などに分布する。性質温順で , のカナリーとともに , 欧州の社交ダ 変奏曲風 中庸 偶 , 各種 16 ~ 17 ノヾッサメッゾ 雑草 , 木の葉 , サルオガセなどを食 ンスとして愛好された。フランスの べる。 / ( 別刷 ) ほ乳類〔黒Ⅲ礼〕 パス・ダンスをつぐ 宮廷ダンスのうちでも , とくにメヌ 緩 偶 ヌ 16 ~ 17 しやこうダンス社交ダンスソ ェットは 18 世紀の社交ダンスの中心 軽快 フランスのダンス がイヤール 16 ~ 17 であり , 19 世紀にはウィーンを中心 シャノレダ、ンス social dance ク ) 言尺。 緩 偶 ババーヌをつぐ ア′レマンド 17 ~ 18 広義には原始的集団夕、、ンス , / 民族 としてひろがったワルツがこれに代 軽快 奇 がイヤールをつぐ クーラント 17 ~ 18 わって盛んに踊られた。これらの踊 舞踊 , 宮廷ダ、ンスなども社交ダ、ンス 緩 奇」よル 2 情熱的 サラノヾンド 16 ~ 18 りは , いすれも多人数で , 方形また の一種とみることもできるが , 観客 急 奇または は輪形をとって踊られていた を対象とした古代ギリシア劇の合唱 たと グ フガート風 17 ~ 18 えば , カドリーユは男女 4 人が方形 団の踊りやルネサンス以後にみられ 中庸 偶 がポット 17 頃 バック・バイプの持続低 で踊る型であり , コントル・ダンス る / バレーなど , 舞台上の踊りは社 頃 音をもつ 中庸 奇 ミュセ・ツト 17 は 4 組または 8 組の男女が対舞で踊 交夕、、ンスとはいいえない。ふつう狭 プーレ 軽快 フランスのダンス 16 る形式をとっている。これらに対し 義には , 2() 世紀になってから米国で 軽快 17 てワルツが初めて , 男女 1 対が向か リゴドン 流行し主として舞踏場で踊られるダ いあって踊るという社交ダンスの定 ンス ba Ⅱ room dance , とくに / ジ 中庸 奇 17 頃 メヌエット ャズと結びつき国際的に発展して家 をきりひらいた 緩 奇 頃 変奏曲風 17 シャコンヌ 2 ) 発祥期 2 ( ) 世紀にはいって , ます 庭内にも浸透したダンスをさして 奇れコ二 急 頃 おもにジーグ 17 米国で従前とは違う新しい動きが起 いる 軽快 偶 頃 イギリス風 , フランス風 17 コントル・ダンス ニグロの民謡に欧州の和声 社交ダンスは男女 1 対の形で踊ら こった 中庸 カ { 加えられて , それがジャズに発展 頃 ポーランドのタンス れるのか、ふつうで , 現在のワルツ , 17 ポロネーズ していったように , 社交ダンスの新 緩 奇ルは フォックストロット , タンゴ , ルン フランスのダンス ル 18 しい型がニグロの踊りにヒントをえ バ , ジルバ ( ジタバグ ) などはみな男 軽快 頃 イタリアのダンス 18 フォノレラーーナ この新しい型は北米の 女 1 対で踊る形をとっている。民族 て作られた。 軽快 奇 , 偶 イギリス風 工コセーズ 18 ~ 19 諸都市 , とくにニグロの多いニュー 舞踊も各人が楽しむために踊られる 19 ェコセーズをつぐ 軽快 オーリンズ ( ニューオーリアンズ ) , ポルカ 点では社交ダンスとの共通性がある 中庸 ニューヨークの黒人街であるハーレ が , 社交ダンスの男女 1 対の個人性 19 ポーランドのタンス マズルカ ム , シカゴの南部地区 , サウス・カ に対し , あくまでも集団性である。 中庸 奇「「 レントラーをつぐ ワルッ ( 古 ) ロライナ州のチャールストンなどで したがって , 民族舞踊のコンガやル 軽快奇「「げ「 ワルッ ( 新 ) ウィーン・ワルツが代表 19 頃 流行しはしめ , たちまち全米にひろ ンバにしても , 一般の舞踏場では社 注く奇〉く偶 > はそれぞれ奇数 , 偶数をあらわす がり , さらに欧州に伝わって国際化 交的なステップに作り直されて踊ら ジャコウジカ シャコの・一手市 イワンヤコ
ジャンヌダ 6 3 1 アーズ ) として流行した。また時事 が日本でもよく知られていた。第一 問題も歌われ、政治風刺がふえ , 18 次大戦後は、いろいろのタイプの多 世紀には放縦な文句や , 不平不満の くの歌手が活躍しておリ , イプ・モ 歌がはやった。 19 世紀にいたり , 歌 ンタン , ジノレ - べーーノレ・・ヾコ ノレジュ・フ。ラッ - サンス , シャントウ をおもな余興とするカフェ・コンセ ーズではエディット・ピアフ , ジャ ールが生まれ , 風刺作家のべランジ ェや歌手ポーリュスらがもてはやさ クリーヌ・フランソア , グレコ , リ れた。 1881 年に / ヾリのモンマノレトノレ ュシェンヌ・ドリ ールらが有名で にできた「黒ネコ」の成功以後 , キ ある。 ャパレーもシャンソンの発達に大き 〔日本のシャンソン〕日本では , 19 な役割を演しるにいたり , 従来の民 27 年に宝塚少女歌劇団が上演した 言風なシャンソン・ポピュレー . ルに くモンバリ > 以後 , 同歌劇団のレビ 対し , 芸術的なシャンソン・サバン ューで数々のシャンソンカヾ主題歌と トが作られるようになった して使われたのが、シャンソン流行 〔現代シャンソンの種類〕内容 , 形 化の初めである。つづいてルネ・ク 左はシャンソン・レア 式は多岐にわたるが , 大別すると a. レールの映画くパリの屋根の下〉な シャンヌダ ) レク Jeanne d'Arc リストを得意とするダ シャンソン・レアリスト下層階級 ど , トーキー以後のフランス映画と 1412 頃 ~ 31 / 百年戦争でフランス ミア。右はシャンソン の人間の悲劇など、人生の暗い面を の危機を救ったおとめ。「オルレア ともに , シャンソンも全国的に親し リテレール ( 芸術的な 主題とするもの , b. シャンソン・ド・ まれ , 第二次大戦後はイベット・ジ 詩に節つ・けしたもの ) ンの少女」とよばれ、フランス東部 で人気のあるイプ・モ のドンレミに農家の娘として生まれ シャノレムシャンソン・、サン、チ ~ マン ローらの来日や , シャンソン・レコ ンタン ードの発売の増加に伴い , 日本人歌 タルともいわれ , 恋を主題とする甘 た。きわめて信仰あっく , 13 歳のと 手や愛好家の急激な増加をみるにい きより , しばしば大天使ミカエルな いもの , c. シャンソン・ファン丁ジ [ 浅野〕 どの , 「フランスを救え」との声を耳 ストおもしろさを主とし , 機知に たった にし , 1429 年皇太子シャルル ( のち 富むものとなる。また歌手は , それ シャンタン s h a n tu n g 山東尉」の ぞれ得意とする歌や歌い方によって , ことで , たてがふつうの絹糸 , よこ のンヤ . ルノレ 7 ・世 ) のいるシノンにお が絹の玉糸で織られた先練リの平織 もむいて許可をえ , わすか 2()0 人の シャントウ ル・レアリスト ( a . を 得意とする歌手で , 女性はシャントゥ 物。よこ糸が太いのでつむぎのよう 将卒とともに破竹の勢いで , 軍を進 な節があり , 外観に趣がある。軽快 めた。ます当時のフランスを危機に ーズ・レアリスト ) , シャントウ で生地に張りがあり , 白地または無 おとしいれていたイキ、リス , プルゴ ル・サンチマンタル ( b. を得意とす ニュ連合軍によるオルレアンの囲 地染め , あるいはプリント染めなど る歌手 ) , シャントゥール・ファン みを打ち破って戦局を一変させ , さ として , プラウスその他の夏の婦人 テジスト ( c . を得意とし , 身ぶりも 服地として好まれている。最近は化 らにランスへと進撃し , 7 月 17 日こ 多くいれる歌手 ) , ディズール ( 歌詞 こでシャルル戴 1 び一の儀をとり行な を重視し , 語るように歌う歌手。女 学繊維によってもつくられ , またウ わしめた。翌 3 ( ) 年 5 月コンピエー ールシャンタンという毛織地もでき 性はディズーズ ) などに分けられる。 ュでプルゴ ニュ側に捕えられ , イ 、川〕 〔現代シャンソンの推移〕シャンソ ている。 シャンテ、リア chandelier 天井 ンは「 3 幕ものの芝居」といわれる キ、リス側に引き渡されたのち , ポー などからつるした室内の装飾電灯。 べー司教ピエーノレ・コーションによ ように , 物語性のある歌詞がこれま 多くの電灯を , 枝形に組み合わせて る宗教裁判の結果 , 31 年 5 月 3() 日ル でメロディーより重視されていたが , ーアンの広場でイギリス軍の手で火 第一次大戦後ジャズが輸入され , ン 装飾化したもの。フランス語の ch an- 刑に処せられた。処刑台上での絶叫 , ャンソンも同時にダンス曲でなけれ de lle ( ロウソクの意 ) から出た語でも とは燭台の総称であった。ロウソ 「聖ミカエル様 / 聖カトリーヌ様 / ば流行しなくなって , 歌詞の重要性 クを立てるシャンデリアは 14 世糸己こ ルーアンよ / ルーアンよ / おまえ がしだいにうすれた。 193 ( ) 年ころミ ろから欧州で使い出され , 18 世紀の がわたしの墓となるのか / わたし レイユ ( 作曲家 ) , ノアン ( 作詞家 ) が 後半から舞踏室の欠くことのできな はここで死なねばならないのか . ′ 新しいスタイルの歌を作り出したの い照明器具として , 美術的にもすぐ は有名である。 192 ( ) 年・に聖者の列に につづき、シャルル・トレネが知的 なシャンソンを書き , 低俗化したシ れたものが生まれた。初期のものは 加えられた。クリスチーヌ・ド・ピ ャンソンを革新した。第二次大戦後 , 木製だったがしだいにシンチュウ ピザンやフランソア・ビョンら 14 ~ ラジオ , テレビの発達につれ , シャ や青銅製のものが一般化した。日本 15 世紀の詩人たち , またンラー ョーその他の文学者 , 劇作家などに ンソンの歌われる場や聴衆も変わり , には明治以後 , 洋風建築とともに移 ンノン城に到着したジ よる彼を題材とした作品は数多い。 その内容 , 表現も大きく変化した 入され , 旧赤坂離宮の舞踏室のもの ャンヌ・ダルク。 15 世 が代表的といわれる。 最近はメロディーとリズムか・ , ヒッ 〔平野〕 〔木村〕 紀のタベストリーから トする大きな要素となリ , 歌詞と同 シャン・デフレ・ナゴッレ Chandernagor しくらいの重要・をもつにいたリ , インド東部 , 西べンガル州の都市。 外国でのヒット曲にフランス語の歌 人口 671 ( ) 5 ( 1961 ) 。カルカッタの北約 詞をつけたものが流行するという現 34km , フーグリ川に沿っている。ジ 象さえみられる。歌手では , 19 ~ 2 ( ) ート ( 黄麻 ) 工業が盛んである。旧 世紀にかけて , もっとも人気のあっ フランス領インドの一部で 1673 年以 たイベット・キ、ルべール , 第一次大 来フランス人居留地となリ , 工 F. デ 戦後のレビュー全盛時代にスターと ュプレクス ( 1697 ~ 1763 ) の下でフラ して活躍したミスタンゲット , モー ンスのインド貿易の根拠地として急 リス・シュノヾリュ - , ジ . ョ - セフィン 1757 年・と 94 年に一日与 速に繁栄した。 ヘーカーー , 第二次大戦前にはシャン 英国に占領されたか・ , 1815 年フラン トゥーズ・レアリストとしてフレー スに返還された。 195 ( ) 年インドに譲 渡され , 西べンガル州フーグリ地区 ル , ダミア , イボンヌ・ ジョノレジュ に編入された。今はチャンデルナゴ らカヾ知られ , そのはかではリュシェ ルとよ」 ンヌ・ボアイエ , ティ ノ・ロッシら 〔斉藤〕 0 を第
ゴシック 1 9 1 る。たとえは第ランの大聖堂では , はギルドが , 有力な文化形成の推 側壁が , 最上方の高窓 ( クリアスト 者となっている。たとえばロマネ リ ) , 中二階のようにもうけられた ク美術は , 修道院のアトリエを単 トリビューン , トリフォリウム , 下 として展開したが , ゴシック美術 部にアーケードと 4 層構成をなして , 専門的な職業的芸術家によって その水平の分節が明白である。パリ 成されている。しかも , 他方では リスト教の教会組織も整備し , 都 のノートルダムは 3 層構成であるが , 単位の司教 , 大司教の権威が完全 トリビューンの占める高さが大きい。 確立される。したがってこうした それに対してアミアンやランスでは , 景に成立するゴシック美術は , 中 トリビューンはなくなり , 高窓とア キリスト教美術のもっとも成熟し ーケードが伸長されてトリフォリウ 段階であるとともに , 欧州の統一 ムが縮小され , 基柱の垂直線の効果 な文化形成の第一歩であったとい がはるかに著しくなっている。採光 もそれにともなってゆたかになる。 る。しかし , ゴシック美術はロマ スク美術の持続的展開という面を ポールト架構の方法も , ノヾリのノ つ一方では , まったく異質の性格 トルタ、、ムでは , 梁 3 よ間 2 単位ごとに も多くもっている。絵画や彫刻に 3 本のオジー ( 補強アーチ ) をわたす 、ける図像上の , 様式上の変化がそ 6 分ポールトであるのに対して , ア もっともいい例で , 黙示録的幻想 ミアンなどでは , 梁間ごとに 4 分ポ 愛したロマネスクに対して , ゴシ ールトをわたして , 小円柱を周囲に 複合させた基柱に有機的に力をわた ク美術は , 人の子としてのキリス 信仰 , さらに聖母信仰をより多く している。柱の分節も少なくなり上 明している。また表現の技法も , 昇線の視覚的効果が強調されている。 、、リシア・ローマの古典的伝統の復 こうした技法と視覚美の均衡のとれ を示し , その点において次代のル た様式を古典的ゴシックと名づける 、サンス美術を準備している。アベ のも当然だろう。プールジュ , ポー ゴシック聖堂内陣部の ールや聖フランチェスコに象徴さ べーなどの聖堂もこの系列に属する ク , ェクゼターなどは装飾式 , 14 世 構造とその名称 紀後半以後は垂直式を生みだしてい L るような自然と人間への愛 , ある ものである。しかし身廊内部の高さ 、はトマス・アキナスの神学の示す 48 m , 鐘塔の高さ 153m にも及んだ る。ドイツでは , ゴシック様式の採 ¥理主義的思考が , ゴシック美術の 用は遅れたが , 13 世紀半ばにはシュ ポーベーでは , ゴシックの仰高性は 甼景となるのである。 すでに破たんをきたしはしめている。 トラスプノレク , ケルン , レーゲンス 〔建築〕ゴシック美術は建築によっ 13 世紀後半には , いわゆるレイヨナ プルクなどのすぐれたゴシック建築 ン様式があらわれて , ゴシックの理 ( 代表されるが , その特色はなによ を残している。スペインはドイツよ ) も欧州各地にあいついで建築され 想である仰高性を洗練された効果に りも早くフランス・ゴシックを採用 高めている。ノヾリのサント・シャベ と大聖堂群にあらわれている。これ し , 13 世紀にはトレド , プルゴスな つの大聖堂群のほとんどすべてが , ル , サンチュルノヾンなどカ { その例で , どの盛期ゴシック建築を残した 印高性を強調した著しい高壮な建築 柱はまったく分節をなくしてオジー こでもスペイン独自の伝統や構想と 長式を誇って , 水平線を強調したロ の基部まで上昇し , トリフォリウム の融和を示し , とくに後期ゴシック ~ ネスク建築と対照的である。この も廃されて高窓が伸長し , アーケー においてはイスラム教美術の影響下 ドに直接つながっている。 14 世紀以 ・卩高性の強調は , 中世的信仰を具体 に , 過剰な装飾性や , 馬蹄こ形アーチ 後には , フランボアイヤン様式があ の使用などによって特色を生みだし ヒしたものであるが , その技術的な 鼕礎は , リプポールト , 尖頭アー らわれ , 火炎状の装飾形式が窓やそ た。他方 , ローマの伝統とビザンチ の他の構成を特色づけている。しか ン様式の影響をうけつぐイタリアで フライング・バットレス ( 飛控 いの使用によるものである。これ し建築構造そのものの展開は , すで は , ゴシック様式の導入ははるかに , の技術は部分的にはすでにイギリ に終わったとみてよい。むしろこの ミラノなどの 緩慢で , オルビエト , 時期には , 大規模な建築はしだいに ( やロンバルジアの建築に採用され 聖堂は , 基本構造にはゴシック様式 少なくなり , 聖堂建築にかわって , : いるが , これらを組織的に用い , を採用しているが , 大理石やモサイ 斤しい様式を生んだのが 12 世紀のフ 各種の世俗建築が誕生しはしめるの クの使用による装飾的効果 , 内部空 である。以上は北フランスを中心と ランスの建築家である。 11 年に献 間の高さよりも広さを強調する点で , したゴシック建築の展開の概略であ されたサン・ドニ修道院が , その 北フランスのゴシック様式と異なっ 赱初の例で , リプポールト , 尖頭ア って , . フランスの他の地方では , ロ ている。いすれにせよ , ゴシック様 ーチが合理的に適用された結果 , ロ 式はフランスにおいて典型的な発展 マネスク以来の地方的伝統をうけっ アネスク建築に比較してはるかに伸 をとげたのち , 当時の欧州全十に聖 ぎながら古典的ゴシックを展開させ , ~ された垂直線の比例が生まれ , 壁 堂建築の基本構造として普及し , 国 またときにはアノレビ , ツールーズの 、部が縮小して堂内は明るく解放さ 際的な統一様式を成立せしめた。 聖堂のように , ロマネスク風の様式 している。このサン・ドニ修道院の を多くとどめる聖堂も建てられた。 〔彫刻〕キリスト教化された古典的 に式をさらに合理的に , 大規模に実 欧州の他の国々も , やはり口マネス ヒューマニズムは , 彫刻においても もしたのが , サンス ( 1135 ~ 頃 ) , ク以来の形式に , 北フランスの古典 っとも具体的な表現をみいだしてい をン ( 1160 頃起工 ) , ノヾリのノートル 的ゴンツクを採用している。比較的 る。キリスト教美術のアルカイク期 ' 、、ム ( 1163 起工 ) などで , 初期ゴシッ 早くからリプポールトの使用をみせ といいうるロマネスクを脱して , 彫 , と名づけられている。しかし , たイギリスは 12 世紀末よりフランス・ 刻はこの時期に古典的成熟の段階 , しらの初期ゴシック式は , 内部外部 ゴシックの影響下にいわゆる初英式 現想化の過程にはいる。幻想的なデ ・もに , まだ水平線の効果を残して ( アーリーイングリッシュ ) を生み フォルマシオンを特色としたロマネ 、るが , 13 世紀前半の大聖堂群 , シ だした。カンタベリ リンカン スク彫刻に対して , ゴンツク彫刻は , ・ルトル , ランス , アミアンになる ソールズベリなどである。 13 世紀後 写実に著しく接近し , 平和で人間的 , 完全に , ゴシック様式が成熟す 半には , ウェストミンスター な感動を生みだし , 東方的な装飾的 ヨ シャフト 。柱頭 洗礼盤ー : 内 - 陣 - 子 身廊 朏肌ⅢⅧⅢⅢⅧ川 祭土亶
サンゴショ 4 1 5 さんごくしえんき : 三国志演義 らせて帝位につき ( 晋の武帝 ) , 次 。、二 = 呱列 中国明代初期の長編小説。 24 巻 12 ( ) 0 280 年呉を滅は、してふたたび中 回からなる。作者は 14 世紀後半の人 , この三国時代は戦乱 羅貫中である。元来 , この題材であ こえまがなく , また統一権力も崩 る魏 , 呉 , 蜀の 3 国が鼎立した時 こ混乱の時代ではあったが , 三国 代をしるした陳寿の史書く三国志〉 それぞれ戦力を養い , また後背地 1 開発経略した。江南の開発が進 に基づき , 相当の虚構も加わった 満州 , 朝鮮やベトナム , 雲南地 国争覇の物語自体は , かなり古く こも勢力が伸張した。また屯田制 から生まれていたと考えられ , 宋代 ょ人民支酉己は西晋にうけつがれ , には寄席姦でこれを専門に語る講釈 らに北魏の均田法のもとになり , 師もおり , 元末に出たく全相三国志 結中正制ものちの選挙制度のもと 平話〉が , 今日に残っている。羅貫 なった。したカヾってこの時代は , 中はこれらをもとにしつつ , 内容 , る意味では , やがて開花する隋唐 形式ともに一新してこの作品を作り 弋のさきがけであったともいえる。 あげたもので , 1522 年の刊本が現存 、ぐ第′心法 ろまで , / 新羅 , / 百済 , / 高句 布したものとしては , 1679 年刊行の く三国志演義 > のさし の 3 国が , 対立抗争した時代を 接近し , ついに第一次大戦発生後 , 毛宗崗による改訂本がある。物語は 絵 , 孔明に重用された 〔五井〕 1915 年 , 英国 , フランス側に立って 孔明の奇略 , 関羽 , 張飛の生気あふ 馬謖 ( ばしよく ) は , 街 亭の戦いで作戦を誤っ さんごくかんしよう三国干渉 参戦するにいたり , れる武勇談を中心にリズミカルに展 三国同盟は終末 たため , 雄図むなしく孔 清戦争後の / 下関条約に対するロ 開する。人物の性格の描き分けとい をつげた。 〔成瀬〕 明は泣いて馬謖をきる ア , ドイツ , フランスの干渉。下 さんごしよう珊瑚礁サンゴ礁 う点では , く水滸伝瑟こ > などに一歩 条約で遼東半島の日本への割譲が の主体である / サンゴは造礁サンゴ をゆするが , 全編を貰く祖野ではあ 定すると , これら 3 国は中国分割 を主とし , そのほか石灰藻 , 二枚貝 , るが男性的な魅力は , この書の最大 おくれをとることを恐れ , 条約調 の特色であり , 「赤壁」「五史原」な ウニ , 有孔虫などの石灰質の生物遺 後 6 日めの 1895 年 4 月 23 日 , ロシ どの地名を人々に親しませ , あるい 体が加わる。サンゴ礁が発達するに は「三顧の礼」などの成語が , 今日 の主唱のもとに共同し , 掫東の平 は , いくつかの条件が必要である。 に害があると唱えて , 日本の遼東 のように大衆的なものになるうえで , 造礁サンゴが好むのは , 平均水温 島放棄を勧告し , また実力によっ この作品が果たした役割をみても , 25 ~ 35 ℃の流れが強く , 塩分の高い この影響の大きさが知られる。日本 威圧した。日本は拒絶する力をも 熱帯の外洋で , また共生する石灰藻 なかったので , 結局勧告を受諾 , でも , 江戸時代の元禄期以来く通俗 が炭酸同化作用を営むことのできる , 月 5 日その旨を 3 国へ通告し , 11 三国志〉として広く親しまれた 日光のとどく浅海に発達する。サン 〔あら崩〕後漢末 , 王室の権威は衰え , 各 8 日遼東半島還付条約に調印 , 3 ゴ礁は裾礁 , 堡ほ礁 , 環礁に・分かれ 地に暴動があいつぐころ , 姚園に義兄弟の テール ( 約 45 ( ) ( ) 万円 ) の代償とひき る。大部分は火山島を基盤にしてお 契りを結んだ , 劉備 , 関羽 , 張飛の 3 人は , 。えに清国へ返還した。それ以後政 り , 裾礁とは島のまわりをとりか 名将諸葛孔明の助けを得て , 蜀の地により , ・は臥薪嘗胆のスローガンで対 んで発達しているもの , 堡礁とは潟 魏の曹操 , 呉の孫権と鼎立する。国力にお : 戦争の準備をすすめ , また列強の をへだてて島をとりまいているもの , いて劣る蜀が , 強大な武力を擁する魏と対 ー国分割競争は激化した。 〔鹿野〕 環礁とは中央に礁湖をもって環状に 抗し得たのも , 関羽 , 張飛の豪勇と , 孔明 の知謀によるものであったが , 時はついに さんごくきようしよう三国協商 並んでいるサンゴ礁である。サンゴ 蜀にくみせす , 劉備 , 関羽 , 張飛は前後し ) 07 年から 17 年にかけて , 英国 , フ 礁の成因は Ch. ダーウインの沈降説 て没し , 幼主劉神を助けた孔明も五丈原に ンス , ロシアか、 , ドイツ , オース がもっとも有名で , 火山島の沈降に 戦病死し , 蜀はやがて滅亡する。一方 , 魏 リア , イタリアの / 三国同盟 , と ともなって , 裾礁がしだいに堡礁と もやがてその臣司馬氏により滅ばされ , 大 にドイツの積極的な進出に対抗し なり環礁となっていったと考えられ 下は司馬氏の晋の手に帰する。〔丸山〕 つくった同盟関係で , 1891 年の露 さんごくどうめい三国同盟ビ ている。その他の説としてデーリ 、同盟 , 19 ( ) 4 年の英仏協商 , 07 年の スマルクの主導下に , ドイツ , オー の氷河制約説があるが , これは氷河 : 露協商の総称である。このうち露 ストリア , イタリアの三国間に結ば 時代に極地に大氷原が発達したため , れたフランス , ロシアに対する防衛 、同盟ははしめから明らかにドイツ 熱帯地方の海面が約 60m も低下した。 仮想敵とする軍事同盟であったが , 同盟で , ビスマルクの「保障政策」 それでサンゴの発育はとまり , 島は の一環をなすもの。フランスの孤立 ; 仏 , 英露協商は最初はそれぞれの はげしい海食をうけて海面下に沈ん 化をめざして , さきに結成されたド ( 民地の勢力範囲を認めあう協約で だ。水河時代の終わりごろから温度 ・つた。しかし ( ) 5 年 , 11 年の再度の イツ , オーストリア , ロシアの三帝 か、上り , サンゴはふたたび発育しは 協約が , 1875 年ごろ事実上解消した - ロッコ事件をへて , これらの協商 じめ , 海面が上昇するとともにます インドネシア領西イリ アン , スノ、ウテン諸島 しだいにドイツに対する軍事同盟 のち , ビスマルクは 79 年にオースト こうして島が海中に ます成長した。 中のビアク島 ( 周囲に ) 性格をもつようになリ , 12 年には 没して環礁となり , そうでないもの リアと同盟を結んでいた。一方 , 統 白く見えるのか・裾礁 ) ; 仏 , 英仏海軍協定が成立し , 英露 一後まもないイタリアが , オーースト ーにも同し協定が結はれようとして リアおよびフランスとの間に問題を 、た。一方 , 三国同盟の一員である かかえているのをみたビスマルクは , タリアも 19 ( ) ( ) 年の仏伊秘密協定以 同国をフランス側に走らせないため , 、は協商側に接近しだし , 協商三国 81 年フランスがチュニスの併合を断 ・めざすドイツ孤立化は成功した。 行したのを契機に , ドイツ , オース 年第一次大戦がおこると , 三国は トリア側へ引き込み , 82 年 5 月 , イ ・いついでドイツに宣戦して結東を タリアとドイツおよびイタリアとオ ーめ , 戦争を遂行したが , 17 年・のロ ーストリアとの間の同盟を締結させ ア革命により口シアが脱落したた これを三国同盟と称し , その後 た 三国の協商関係は事実上終わり の数回の更新をへて継続した。しか つ ( ナた しイタリアは時とともにフランスに 〔青山〕 ノ、
ジシュウヨ 4 8 5 だいに工業化の道をたどる一方 , スに近い。 / カットワークやアイレ おいて紙を破りすてたり , 紙の一ヒか ットがその代表である。 6 ) 糸抜刺し 廷や聖堂での需要も少なくなって , ら刺しゅうしてあとで紙を切る方法 ゅう上台の布のよこ糸またはたて もある。ぬい方は糸の撚の向きに 華な美術品としてはみられなくな 糸あるいは両方の糸を抜きとって , が , 民間の手芸としては各国に行 よってだいたい左から右へと刺し進 残った糸をまとめたりすきまにかが われ , とくに民俗的服装には独特 める。刺しゅうのぬい方すなわちス りを入れたりする刺しゅうで / ドロ テッチはひしように多く , フランス 美しさがみられる。 〔坊城〕 ンワークとよばれる。この精巧なも 刺しゅうだけでも 30 ( ) 種をこえるは 刺しゅう手芸 のは刺しゅうよりレースの趣がある。 どである。このうちおもなグループ 一般家庭での手芸としては裁縫の 7 ) 自由材料刺しゅう各種の特殊な 目を応用した簡単な手法が多く , にわけるとだいたい次のようになる。 材料を使った刺しゅうの総称である。 飾品 , 身の回り品 , 室内装飾品な 1 ) フラットステッチアウトライン 細いリボンを糸の代わりに用いるリ に施される。日本在来の手法によ ステッチ , ランニングステッチ , サ ポン刺しゅう , ラフィアと称する草 テンステッチなど平たいステッチの 刺しゅうは日本刺しゅうとよはれ , れは釜糸とよぶ細い絹の色糸や の繊維を用いるラフィア刺しゅう , 総称である。 2 ) ルーブドステッチ 銀糸を用いて写実的に精巧に刺す 毛糸による毛糸刺しゅうなどがある。 プランケットステッチ , チェーンス テッチなど輪をつくりながら刺すも 法である。現在では帯やすそ模様 またコードやテープを置いて線状の 図案を現わしこれをとめつけるコー きものなど特殊の場合に使われる のの総称である。 3 ) ナツッステッ ド刺しゅう , ビーズを刺しとめてゆ けで家庭手芸としてはあまり行な チフレンチナツツ , ジャーマンナ ツツなど結びを作る刺し方の総称 れない。一般に用いられる手法は くビーズ刺しゅう , スノ、ングル ( 金 である。 4 ) キャンノヾスステッチク 米から伝えられたものでフランス 属やセルロイド製のボタン風の飾り ) リしゅうとよは、れるか、 , この名称は ロスステッチ , スターステッチなど を刺しとめてゆくスパングル刺しゅ いわゆる区限刺しゅうに用いるステ ランスか、刺しゅうか盛んであった うなどがある。 〔材料と用具〕刺しゅうをする土台 ッチの総称である。 ころからきたもので , フランス特 の手法というわけではない。また 〔取扱い〕刺しゅうをした布地の洗 になるものは布地にかぎらす毛糸編 み物 , パナマ , 皮革 , ビニルなど針 たくとしては , ぬるま湯に地質に合 ; くにその国や地方の持色が図案や の通るものであれは、なんでもよいわ った上質の洗剤をとかし振洗いをし , 己色や刺し方のうえに現われている 一般には針の通りやす なまかわきのうちに裏からアイロン ) のは , それぞれロシア刺しゅう , けであるか・、 い織り目にのびやつれのない布地が ( ェーデン刺しゅう , 中国刺しゅう , をかけて仕上げる。布はしほ、らす軽 く押えて水をきり , ひろげたまま十 「ンド刺しゅうなどの名でよばれて 適している。白色刺しゅうにはしよう し , アイロン台はぬい目をつぶさぬ ぶな綿 , 麻が多く使用され , 区限刺 〔種類〕刺しゅうには多くの種類が 柔らかいものを使うのが要点である。 しゅうには布目のあらいキャン・バス / ( 別刷 ) 刺しゅう / 刺しゅうの技法 ) るが , 材料や技法のうえから代表 やバスケット織りの布地が適するな りなものをあげると次のようである。 〔古沢〕 ど刺し方によってもえらは、れる。刺 ( 本巻 48 ( ) ~ 481 ページ ) ししゅうから〔四十雀〕燕雀く ) 色糸刺しゅう美しい色と光沢を しゅうをする糸はどんなものでもよ 目シジュウカラ科の鳥でスズメより いがフランス刺しゅう用として各種 ) っ色糸を用い装飾的効果の大きい 小さい。さえすりがシーシーガラ , 町しゅうである。日本刺しゅう , 中 の糸か、市販されている。綿糸が主で チンチンカラと聞こえるところから 太糸では 3 番 , 5 番 , 8 番などがあ ヨ刺しゅうなどははとんどこれであ その名がでた。背面は頭からくびに り 5 番が標準である。細糸では 25 番 実用よりもその美しさか・重んし かけてか青みのある黒色で , その黒 , れる。 2 ) 白糸刺しゅう白い布に といって 6 本の細糸を合わせてたは、 色部はのど , 上胸 , けい側に連なっ ] 糸で刺しゅうするもので , 下着 , ン ねたのがあり , これを刺し方によっ て 2 本とか 3 本とか分けて用いる。 てほおの白色部をかこむ。以下は白 ツ , カノヾー類など実用品に用いら 色で上胸から続く黒条が縦に走って L る。洗たくに耐えるよう刺し方も このはかカットワークやドロンワー いる。背面は黄緑色で腰以下は灰青 ク専用の糸があり 3 ~ 35 番まである : ようぶな方法か・選ばれ , 心、を入れ 色である。繁殖期には山に移り , 秋 が , 一般には 8 番 , 16 番 , 2 ( ) 番など : 浮彫風にしたり , 切抜きや糸抜き である。なお色糸は色落ちゃ毛羽 から冬にかけて 5 ~ 1 ( ) 羽の小群で人 どによって変イ匕カ { つけられたりす 里に現われ , 都会地にも姿をみせる。 ちのしない光沢のよいものを選。 フランスでとくに発達をしたた こん虫やその幼虫が主食で , 森林害 針はフランス刺しゅう用として 1 フランス刺しゅうというと白糸 12 番まであり , ふつう 5 番の糸には 虫駆除上のてがらは大きい。動作が ilJ しゅうをさすほどである。 3 ) 区限 活発でよくさえすり , 5 ~ 6 月に木の 可しゅう布の織り目を利用して規 2 , 3 番が , 25 番の糸には 6 , 7 番の針か、 適する。わくは刺しやすいよう布地 ほらにさら形の巣を造る。卵は 5 ~ リ的に刺す方法である。北欧でひろ 〔高島〕 を張るのに用いる。大きな四角のわ 11 個くらい。 : 行なわれるため北欧刺しゅうとも じしゅうよう磁州窯中国河北 くもあるが , ふつうは直径 1 ( ) ~ 15cm 辷は、れ、ノルウェー刺しゅう , スエー の丸わくが使われる。わくは布目が ン刺しゅう , ロシア刺しゅうなど 省磁県彭城鎮にある華北最大の陶窯。 現在も黒釉粤 , あめ釉の雑器を焼いて これである。しかしこの手法は各 のびたり糸の締まらない欠点もあり , むしろ使用せすに刺しゅうする位置 いるが , ふつう磁州窯とよばれてい 也に行なわれるものでフランスで有 る陶器は宋時代の作品をさす。はは・ 召な / タベストリーや中国の紗刺 を人さし指の指腹にかけて巻くよう 同じ種類のものが , 河南 , 河北 , 山 0 、な 0 日本の絽ろ刺しや / こぎんなど にし , 母指と中指とて布を押え , こ 東 , 陝西省など華北一帯の民窯で作 」区限刺しゅうである。 4 ) 布置刺し の部分を刺すようにするとよい。 られたらしく , 民間雑器の窯である つう土台の布の上に違った布を置 のはかの用具としては裁縫用のはさ ため文献に乏しいが , 近年窯跡調査 ー、て模様を現わし、回りをとめつけ みや目打などがある。 っ刺しゅうである。 / アップリケか・ 〔刺し方〕ます布に刺しゅうする図 カヾ進んでいる。そのうちス工ーデン 人力ールべックの発見した河南省修 ーの代表であるが日本刺しゅうの切 案を書くがこの方法には , 心を細く 武当陽峪の修武窯がもっともすぐれ した鉛筆で写し描く方法と複写紙 ミせぬいや切は、めぬいもこれに当た た作品を焼成したようである。その 5 ) 切抜刺しゅう上台の布を切 ( カーポン紙やチャコペーノ、一 ) によ とって図案を現わすもので白糸刺 る方法がある。また布地の色が濃い 特色は灰白色の地に白上を化糾 : がけ ゅうに多くみられる。これをこま して , これに黒い鉄絵の具でさまざ 場合などには図案の紙をあて , しっ - く施したものは刺しゅうよりレー け糸で輪郭をさしてしるしをつけて まな史様をはどこしたもので , 手法 ンジュウカラ 磁州窯 ボタン文の梅瓶
コウコガク 韻のある画風を大成した。代表的作 品にく富春山居図巻 > があり , 中国 の南画派の神品と称されている。 の図は水墨画で , 平遠の景から山岳 の景にうつり , さらに江浦の静に返 ってまた山となり江波遠山となる。 墨色の濃淡 , 筆勢の粗豪まことに名 品である。 〔杉村〕 こうこがく考古学考古学は , 人類がのこした物質的遺物によって , 人類の過去を研究する学問だといわ れている。日本語で考古学というの は , アーケオロジー archaeology の 訳語であって , もとはギリシア語の アルカイオロキ、ア ( 古代の学 ) から出 ている。英国やフランスで用いられ ている広義の考古学は , 扱う対象が 石器時代から古代 , 中世までにわた り , いわゆる先史考古学 prehistoric archaeology と古典考古学 classical archaeology との両方を含んでいる。 しかしドイツ , デンマーク , ノルウ ェーなどで用いられる狭い意味の考 古学というのは古典考古学だけをさ し , それ以前の研究は先史学 prehis - tory として区別されている。日本 の学問は明治の初めに英国からの影 響をつよく受けたので , 広義の考古 学という概念か、ふつうになっている。 なお , 考古学ということばが日本で 初めて用いられたのは , 1879 年 , オ ランダ人の H. v. シーポルト原著く考 古説略 > の中においてである。 考古学の研究史 考古学が学問としての本格的な研 究体制をととのえたのは , 19 世紀に はいってからのことであった。しか し , その芽ばえは , すでに古くキ、リ シア・ローマ時代から認められてい る。前 70() 年ごろのヘンオドスは , 人類の歴史が「黄金時代」「銀の時 代」「青銅時代」「英雄時代」「鉄の時 代」という 5 時期を経過したという 説をなした。また先史学 , 人類学の 開祖といわれる前 1 世紀のルクレチ ウスは , 人類の歴史に「つめ , 歯 , 石 , 木 , 火を用いた時代」「青銅を用 いた時代」「鉄を用いた時代」の 3 段 階があることをすでに考えていた この 3 区分法は , のち 19 世紀にトム センによって確立された三時期法と 共通している点に注意すべきである。 下ってルネサンス時代におこった古 代文化へのあこがれは , しだいに探 検と発掘の方向へ人間を導いていっ た。古代の遺物を集める風習がイタ リアにおこり , 18 世紀にはそれか、ノヾ リをはしめ各地に伝わった。近世考 古学の開祖とたたえられるウインケ ルマンはこのような時勢のなかで育 った。彼はギリシア・ローマ時代の 彫刻を比較研究して , その制作技術 から様式を区分し , 発展から堕落へ の段階を定め , 新しい美術史観を確 このように過去の遺物を材 立した。 料として比較研究し , 時代の前後 , 3 8 発達の順序を定めるのが近代考古学 の基本的な方法であり . , ウインケル マンによってその大道が開かれたと いえる。さらに 18 世紀末のナポレオ ンのエジプト遠征は , 考古学上でも 画期的なできごととなった。ナポレ オンは有能な画家と科学者とからな る探検隊を 1798 年に派遣し , エジプ トの地理と古代文化について研究さ せ , カイロにはフランスの研究所カ { 創設された。また / ロゼッタ石を含 む多くの可動的な遺物が集められた。 ナポレオンの編集になるくエジプト 誌 > ( 1809 ~ 13 ) は考古学上世界最初 の大報告書であるといってよい。ロ ゼッタ石に刻まれていた象形文字は , 1822 年にいたって / シャンポリオン が解読に成功したのであるが , これ らに刺激されて各国の調査団がぞく ぞくとエジプトに派遣され , 遺物は 欧州各地に運ばれた。カイロには大 博物館が開設され , 調査研究の基礎 か、できあか、った このような風潮に うながされて , 西アジアの諸地方に も探索の目がそそがれ , さらに各地 の遺跡が踏査され , 遺物の収集が盛 んとなった。各国の考古学研究は , こにその第一歩を踏み出したので ある。 以下 , 各地方 , 分野での考古学研 究や発掘のおもなものを , おおむね 時代を追って概観してみる。 〔ェーゲ世界・オリエント〕 19 世紀 の後半 , / シュリーマンによって行 なわれたトロヤ , ミケナイなどの発 掘はめざましい事件であった。幼年 のころから , 伝説の都トロヤの発掘 を夢みていたシュリーマンは , つい に小アジアのヒッサルリクの丘を選 んで , 1871 年から彼の死 ( 1890 ) にい たるまで前後 4 回のトロヤ発掘をつ づけ , その結果を世に伝えた。また シュリーマンはこの間に , ギリシア のミケナイ , チリンス , オルコメノ スなどの発掘も行なった 発掘によって , これらの地域も石器 時代から青銅器時代 , 鉄器時代を順 次に経過してきている事実が判明し た。さらにこれにつつ・いて / 工ノヾン ズはクレタ島においてクノッソスそ の他の宮殿を発掘し , 前 6()00 年から つづいた古代文明の推移を明らかに ミノア文明がこれである。そ した。 して , これらミノア文明 , トロヤ文 明 , ミケナイ文明を含み , ェーゲ海 一帯に古く栄えていた / ェーゲ文明 の存在が知られ , その研究が進めら れた エジプトでは , フランスの A. マリ ェットらの努力で , 1850 年代から各 地で発掘が行なわれ , フランスの G. マスペロ ( 1846 ~ 1916 ) , 英国の F. ピ ートリ ( 1853 ~ 1942 ) をはしめ各国の 学者がはなばなしい活躍をつづけ , 研究法も初期の状態から脱して科学 的なものとなっていった。テーベ , ′レクソノレ , ヨガッカラ , テノレ・ユ . ノレ・ アマルナなどの発掘 , 研究で , 王朝 時代のエジプト文化の姿もしだいに 明らかとなり , ファュームでは , と くに新石器時代の住居跡について重 要な発見がなされた。また H. カータ ー ( 1873 ~ 1939 ) とカーナポンによる / ッタンカメン王墳墓の発掘は , 新 王朝時代の王墓の姿をそのままに知 らせ , その豪華さで世を驚かせた。 西アジアでは , 18 世糸己にはいって から , オスマントルコの袞退を機と して欧州諸国の政治的 , 経済的利害 関係がこの地に波及し , 多くの旅行 者や学者がはいりこむようになった やか、て , フランス総領事の E. ポッタ ( 1802 ~ 7() ) は 1842 年アッシリアの者に コルサノヾードを発掘して , サルゴン 2 世の王宮を明らかにし , 一方 , 英 国大使カニングに援助された A. H. レ ャード ( 1817 ~ 94 ) は , ニムルード ( 18 45 ) , ニネべ ( 1848 ) など多くの遺跡 , 王宮を調査し , 英国とフランスの発 掘競争のようになった。さらに各国 もこれに加わった。フランスは J . d. モルガンを派して 1897 年から古代ペ ルシアの都スサの大発掘を行ない , ハンムラビ法典や未知の古工ラム語 に関する文献なども発見された。コ ルデワイを長とするドイツ東洋学 会のノヾビロン発掘 ( 1899 ~ 1914 ) , ウ ルク発掘 ( 1913 ~ 39 ) , 英国のウーリ ーらによるシュメル人の者 5 / ウルの 発掘 ( 1922 ~ 34 ) など , 著名遺跡がつ ぎつぎに調査された。楔形文字は , グローテフェント , ローリンソンら の努力で , 19 世紀半ばには解読され , さらに各言語の研究がつづいた。ま た , 彩色上器や初期農耕村落の研究 も進められ , 世界の新石器文化発祥 の地は , 実にこの「肥えた三日月地 帯」にあるといわれるようになった なお , / トアジアのポガズキョイをは しめとする発掘調査によって , うす もれていたヒッタイト王国の存在と その歴史も知られるようになり , 他 の各地でも調査が進んだ 〔先史学の発達〕この間に欧州では , 考古学の別な分野が開拓されつつあ った。欧州の中部から北部にかけて は , 先史時代にはむしろ文化の後進 地であって , 洞窟遺跡 , 員塚 , 巨 石墓 , 湖上住居などの著しい分布が みられる。したがってここでは , れらの遺跡を発掘して遺物を集め , 層位 , 組成 , 型式などの比較研究に よって古代文化を明らかにする方法 が発達した。これが先史学あるいは 先史考古学といわれる部門である。 それは , ます C. J. トムセン ( 1788 ~ 1865 ) の三時期法設定によって基礎 をおかれた。トムセンはコペンハー ゲンの商家に生まれ , 幼少のころか ら古代遺物に関心をいだいていた 彼は , 自分の集めた遺物を , 石器時 代 , 銅器時代 , 鉄器時代の 3 期にわ
ジュウシセ 6 4 5 法王インノケンチウス 3 世の呼びか けで起こされた。これにはフランス : ェデッサ伯国・ の諸侯や騎士が参加したが , 彼らは ェデッサ・・ 地中海商権の独占をねらうべネチア アルメニア′・ 0 商人の利害に動かされて , ビサンチ ン帝国の首都コンスタンチノープル アンチオキア円・ :. ー ァンチオキアフラテス を占領し , この地にラテン帝国をた ・・公国 てた。もともと十字軍は同じキリス = く 2 : : トリボ、リド丿ポリ伯国 ト教国のビザンチン帝国救援の目的 = - 地三中三海を一 で起こされたものであったが , 0 ダマスクス 十字軍は逆にそれを滅ばしてしまっ ア - ツ。コン た。 5 ) 少年十字軍 ( 子ども十字軍 ) 工ルサレム 1212 年 , ドイツ , フランスの多数の ェルサレム王国 少年少女がそれぞれ集団をなして企 てたものであるが , 目的地ェルサレ ・第一次十字軍後の ムに行き着くどころか , 多くがマル シリア ( Ⅱ 40 年こ・ろ ) 十字軍遠征にいでたっ インノケンチウス 3 世時代に象徴さ セイユ商人によって奴隷として売ら 聖王ルイの図くフラ 第 1 次十字軍ののち , 十字軍士の手によ れるような口一マ法王権の全盛時代 れるという悲劇に終わった。 6 ) 第 5 ンス大年代記〉手写本 ってエルサレム王国をはしめ , 工デッサ を現出した。しかし十字軍の失敗的 の中のミニアチュール 次十字車 ( 1228 ~ 29 ) 神聖口一マ皇 伯国 , アンチオキア公国 , トリポリ伯国 終了とともに , 民衆の宗教的情熱は 帝フリードリヒ 2 世によって起こさ など十字軍国家が建設されたが , 1144 年 さめ , やがて法王権力の袞微をもた れ , 皇帝は外交的手腕によって聖地 にエデッサ伯国 , 87 年にエルサレム王国 らすにいたった。次に , 封建制度の を回復し , ェルサレム王国を復興し が滅びるなど現地勢力は衰え , アンチオ 中核をなす諸仗 , 騎士に代わって , たか、 , 長つづきせす , ふたたびエジ キア公国は 12 年に , トリポリ伯国は 69 年に滅びて , すべて姿を消した その指揮者として活躍した君主権台 プト軍は聖地を占領してしまった。 頭の機運がもたらされ , ようやく君 7 ) 第 6 次十字軍 ( 1248 ~ 54 ) , 第 7 次 主による中央集権国家建設への歩み 十字軍 ( 127 のいすれもフランス王 は , 宗教的情熱や , キリスト教君主 が始まった。さらに , 十字軍を契機 ルイ 9 世 ( 聖王 ) により , エジプト , の理想 , 騎士道的精神とならんで , 贖 として東方貿易は著しい進展をみせ , 宥く ( インダルジェンスの訳。免償 北アフリカのイスラム教徒を討伐す とくにベネチア , ピサ , ジェノノヾな るために起こされた。しかし第 6 次 とも記 ) や債務の帳消しが保証され どイタリア諸港市の発達に大きな刺 十字軍ではルイは捕虜となり , 身代 たこと , 東方物産 , 戦利品の持ち帰 激を与えた。そして都市の発達に伴 金会を払って帰国 , 第 7 次十字軍 りなどの現実的欲求も加わっていた う貨幣経済の発展 , 市民階級の台頭 ではルイは伝染病にかかって病死し ことはみのがせない。なお十字軍の は , やがて中世封建社会の基礎であ た。以後も , 小規模な異教徒討伐の 名は , 参加者が , 肩または胸に赤い る荘園制度を根もとから掘りくすし 遠征は行なわれたが , 13 世紀末には 十字を付けたのに由来する。 それらも終わり , けっきよく十字軍 てゆく要因となった。その他 , サラ 〔経過〕十字軍は 200 年間に , 大規 センの文化 , 科学 , 風習 , 戦術も東 の目的は失敗に終わってしまった 模なものだけでも 7 , 8 回おこされた。 方から輸入され , また十字軍を機と 〔影響〕十字軍は聖地を回復し , そ 簡単な経過は次のとおりである。ま して結成された宗教騎士団の活動な れを確保するという直接の目的は達 すはじめ , 隠者ヒ。工ールらの率いる ど , 十字軍のもたらした多くの影響 成できなかった。しかし , 2 世紀間 熱狂的な農民軍が出発したが , 烏合 3 ぅ が数えられるが , 要するに西欧中世 にわたり , 数十万の将兵が東方に往 の衆にすぎない彼らは途中で全滅し の盛期を象徴する事件として起こっ 来したことは , それが本来意図しな た。 1 ) 第一次十字車 ( 1096 ~ 99 ) フ た十字軍は , またそれを崩壊させる かったさまざまの大きな影響を西欧 ランスの騎士が多く参加し , ロレー さまざまな要因の発展を促進させた に与えることになった。それを一 ヌ公ゴドフロア・ド・プイヨンらが でいえば , 西欧中世の封建社会の崩 〔青山〕 のであった 指揮をとった。彼らは小アジアをへ じゅうしせい従士制広い意味 壊と新しい時代への移行を促進させ て激戦の末 , 聖地を攻略し , ェルサ では洋の東西を問わす , 一般に主君 たことである。ます , 十字軍はキリ レム王国をはしめ , いくつかのキリ とその従者の間に生した関係をいう スト教の信仰を高揚せしめ , それは スト教国をたてた。しかし , まもな くトルコ族が勢力を回復し , 聖地が 危うくなったので , 第 2 次の十字軍 プリュー 、 / ユ が結成された。 2 ) 第 2 次十字軍 ( 11 メッツ / くリ ドイツ皇帝コンラート 3 世 , 47 ~ 49 ) レーゲンスプルク 0 フランス王ルイ 7 世が参加。しかし , フランス、 聖 王国 その軍は途中で略奪をくりかえした 、、ハンガリー王国 ローマ帝国 だけで , ダマスクス攻略に失敗して 引き上げた。 3 ) 第 3 次十字軍 ( 1189 ノ / 、 ン ~ 92 ) もっとも大規模な遠征であ った。これは / サラジンカ { 聖地を占 領したことに対して起こされ , ドイ ツ皇帝フリードリヒ 1 世 , フランス 王フィリップ 2 世 , イギリス王リチ ャード 1 世が参加した。しかしドイ ツ皇帝は小アジアで溺死ご , フラン フム王国 ス王はイキリス王と不和になって帰 国 , リチャード王だけがとどまって 戦ったが , 聖地を回復できすに引き 上げた。 4 ) 第 4 次十字軍 ( 1202 ~ 04 ) 4 わ第当・・ もきぐて 0 ノ 第一次十字車 96 ~ 99 第 2 次十字軍Ⅱ 47 ~ 49 第 3 次十字軍Ⅱ 89 ~ 92 心アンチオキア リポリ アッコン 0 ルサレム トー第地 レオン王国ツ ールーズ マル カスチリヤ 王国 / リスポン / くレンシア セビリャム 0 コンスタンチノ アドリアノープル・・ 三 / - . ・・ . ・ . ) セルジエデッサ : 、イコニウム ン . 工 - 0 十字軍の進路
4 3 4 ポルトらがその指導者だった ではプーシキン , レールモントフら 主義 , 新即物主義 , ツアラらの 〔 17 世紀〕イギリスではミルトンが がいっせいにこの風上から登場する。 ダイスム , アポリネール , ジャ クロンウェル没後に没落 , 隠せいし これらの詩人はノヾイロンやプーシキ ノレベルディらのあとをうけて , て / く失楽園 > ( 1667 ) その他を書い ンに代表されるように , 多かれ少な イト学説に新しい夢の領域への ルネサンスの最後を飾るこの作 た かれ時代の政治 , 社会思潮に熱烈な 手を見いだしたプルトン , スー 品は , 人間の没落を通してキリスト 関心をいだき , みすからその渦中に 工リュアーノレ . アラゴンらの / 教精神を称揚した叙事詩だが , ラテ はいって変容をとげていった詩人が 実主義 , ノヾウンドらのイマジズ ン語ふうの格調を伝えた修辞的語法 多い。くチャイルド どがおもなものである。く荒地 > ・ノ、ロノレドク ) によって新しい伝統を作った。フラ ネい ( 1812 ~ 18 ) によるバイロンの影 22 ) で今世紀の詩的変革に明確 ンスでは前代の文芸復興の諸成果が 響は全欧をおおった ドイツではや を与えた T. S. ェリオット , ソ ようやく整理されはしめ , いわゆる や遅れて天オ的叙情詩人であり , 自 ト社会主義の勝利を革命的ロマ、 / 古典主義の大天オが輩出する。詩 由主義的革命思想の鼓吹者であった シズムで歌いあーナたマヤコフス 壇でもますマレルプが現われてプレ ハイネが登場するが , 19 世紀中葉の たちもこれら新運動の波の中か イヤード派の詩風を否定し , より簡 大詩人は / く悪の華〉 ( 1857 ) 1 巻によ 場した。今世紀前半の世界的名 素できびしい古典派の詩風をきりひ って名声を確立したフランスのポー もっ詩人としては , 以上のほか , らいた。次いでボアローが古典主義 ロレンス , オーデン , スペンダー ドレールである。人間存在の悪の深 文学の理論的基礎づけを行ない , 名 淵に下って載慄的な美を発見し D. ノレイス , デイラン・トマス 著く詩法〉 ( 1674 ) を書いた ドイツ たこの詩集は , ロマン派とのちの象徴 国 ) , サン・ジョン・一くノレス , シ では宗教改革後新旧両派の抗争 ( 三 派 0 橋渡しをなすととも 0 = , 近代 : ノレビエノレ , コクト シャーーノレ , 十年戦争 ) のため一般の教養水準は の一大源流となった。彼の遺産は プレベール ( フランス ) , 低下し , 詩作も少数の学者にかぎら ッセ , カロッサ , プレヒト ( ドイ ィくノレレーーヌ , ランボ、 - ー , ~ ラノレメ れた。スペインはセノレノヾンテスの時 ロートレアモンらに受けつがれ , 20 工セーーン , ノヾステノレナーク ( ソ、 代であるが , 詩人としてもゴンゴラ 世紀の詩にまで深い影響を与えてい フロスト , サンドノヾーグ , スチ やケベードが出て文運隆盛をきわ る。彼はまた米国の詩人ポーを欧州 ンズ , W. C. ウィリアムズ , カミ に紹介し , ポーを象徴主義の系譜に グズ ( 米国 ) , がルシア・ロルカ ( めた。 〔 18 世紀〕ルイ 14 世の死 ( 1715 ) とと 加えるうえで決定的な役割を果たし イン ) , ネルーダ ( チリ ) らをあげる もにフランスでは偉大な天オの時代 とができる。 た。ランポーは 17 歳から歳ごろま 〔大岡 中国の詩 は終わりを告げ , 反宗教的 , 反伝統 で詩作しただけで惜しげもなく文学 的な啓蒙思潮が主流を占・めた。しか を捨てたが , この短期間に彼が「こ 〔古代〕中国の詩の歴史は / く し大革命 ( 1789 ) とそれにつづくナポ とばの練金術」を極限までためした 経〉にはしまる。く詩経 > は前 6 レオン帝制時代の動乱の空気のなか く地獄の一季節 > ( 1873 ) やくイリュ 紀ごろ , 周王朝がロ伝えに歌われ で , やがて 19 世紀に開花すべきロマ ミナション〉 ( 1873 ~ 75 ? ) は , その きた民衆の歌謡を集め , 整理を加 ン主義の気運が準備されていく。イ 書簡で語られたいわゆる「見者」の たもので , 孔子はく詩経〉を評し ギリスでは世紀半ばまでフランス古 「思い邪なし」といい民衆の哀 思想とともに後代に深刻な影響を与 典主義の影響が支配的で , ドライデ の素朴な吐露をたたえた。以来 , えた。ロートレアモンのくマノレドロ ン , ポープがその傾向を代表した。 ールの歌 > ( 1868 ) は世紀にはいっ 国末の楚辞 , 漢魏六朝なの楽府 世紀末にいたってフランス革命の影 てから超現実主義者たちに再発見さ 唐宋の詞 , 元明の曲など , 各時イ弋 響や中世紀的なものへのあこがれか れる。マラルメはノレコント リ 新体の詩は , 例外なく民間にその ールら高踏派とポードレールの象 らロマン主義が生まれ , プレイク , を発しているといってよい。楚の 徴主義の影響下に出発したが , 言 ワーズワース , コールリッジらカ { 叙 詩人屈原はこうした楚の民間詩を 語に関する比類なくきびしい省察 情詩の新風をひらいた ドイツの場 とにく離騒〉などの長編叙情詩を 合も似た事情にあり , クロプシュト によって悟性的な詩の極北をきわめ 造した。杜甫や白居易らの大詩人 ックが宗教感情を大胆にうたって古 た。く半獣神の午後メ ( 1876 ) が名高 民衆の形式をかりて , 民衆の痛苦 いが , 最晩年のく骰子一擲い ( 18 代弁した。 典主義への反抗を開始し , 次いでル 〔漢〕漢の武帝 ( 在位前 141 ~ 前 8 97 ) は極度に圧縮され純枠化された ソー主義者へルダ = が民謡の価値を 語の交響曲的編成によって象徴主義 によって設けられた音楽官署「楽 再発見した。非合理な空想 , 感情世 の深い哲学を表現した。彼の客間で に , 宮廷楽歌の歌詞として集めら 界の発見は , 世紀後半の約 20 年に及 開かれた火曜会という会合からは , ぶ疾風怒濤をう ( シュッルム・ウント・ た楽府体の詩 ( 略して楽府とよは る ) も , 多くは濃厚な社会性と ドラング ) の時代を導き , 若いゲー クローデル , ジッドらカヾ 巣立った。一方 , 米国ではホイット 性を有し , 漢末から北朝にかけ テやシラーがこの怒濤の中から現わ く孔雀東南に飛ぶ〉やく木蘭翆 マンの / く草の葉 > ( 1855 ) が新大陸 れる。ゲーテの / く若きウェルター の最初の自由な歌声を響かせた。 のような長編叙事詩があらわれた の悩み > ( 1774 ) は , ドイツ文学の存 〔世紀〕今世紀の詩は象徴主義の 南朝の楽府には「子夜呉歌」のよ 在をはしめて世界に告げたが , 彼は 完成 , 伝搬と , 新たに登場するさま な五言四句の叙情的な小詩形が泓 / くファウスト〉 ( 1831 ) を頂点とする して , 「絶句」の先駆をなした。 その全道程において , ドイツ的なも ざまな美学革命運動をおもな軸とし ら楽府体の詩は , 歌い朗唱するに のを全人類的なものに普遍化し高め て展開してきた。象徴主義的風上を る偉業を達成した。シラーは戯曲 な「五言」「七言」の詩形を用いた 代表する大詩人は , フランスのバレ それは , 「二言」または「四言」 くウイルヘルム・テル〉 ( 1804 ) をは クローデル , ドイツのゲオル しめ多くの劇詩で , 自由を求める国 詩に比べて脚韻の効果を強調し , ゲ , ホフマンスターノレ , リ′レケ , イ 容もより豊富に表現することのて 民精神に不滅の形象を与えた。 ギリスのイエーツ , E. シットウェノレ 〔 19 世紀〕世紀初頭 , ロマン主義的 らだが , 彼らの円熟期である今世紀 る詩形として , 漢民族にもっと 好されるにいたった。漢末の建錂 最初の 25 年間は , 第一次大戦をはさ 風上がいっせいに開花した。イギリ キーツ , んで新連動が続出した時期でもあっ 代 ( 196 ~ 219 ) になると曹植らグ スではノヾイロン , シェリ た。マリネッチらイタリアの / 未来 フランスではラマノレチーヌ , ユゴー 人は楽府体に注目し , より叙情竹 A. d. ビニ ミュッセ , ドイツでは 主義 , トラークル , べッヒャー べ 強く , 作家の個性の鮮明に表われ 全編五言句からなる「五言古詩」 ン , ゴル , トラーらドイツの表現 リス , ヘルダーリン , ロシア シ