日 名 の 大 地 震 年月 ( 明治 5 年までは旧暦 ) 豊後 , 薩搴 武蔵 , 下野 下野 , 武蔵 陸奥 地 要 観 11 ( 869 ). こ慶 2 ( 878 ). - : 和 3 ( 887 ). 平 8 ( 938 ). 正久 2 ( 1 ( ) 7 ( ) ). 永 4 ( 1185 ). 応 6 ( 1293 ). 平 16 ( 1361 ). 月応 7 ( 1498 ). 正 13 ( 1585 ). 文禄 5 ( 1596 ). 禄 5 ( 1596 ). 慶長 9 ( 16 ( ) 4 ). 慶長 16 ( 1611 ). 慶長 16 ( 1611 ). 寛永 1 ( ) ( 1633 ). 、慶安 2 ( 1649 ). 万治 2 ( 1659 ). 寛文 2 ( 1662 ). 寛文 2 ( 1662 ). 寛文 5 ( 1665 ). 元禄 7 ( 1694 ). 元禄 16 ( 1703 ). 宝永 1 ( 1704 ). 宝永 4 ( 1707 ). 正徳 4 ( 1714 ). 享保 14 ( 1729 ). 文化 7 ( 1810 ). 1 ( 18 ( ) 4 ). 享和 2 ( 1802 ). 寛政 4 ( 1792 ). 明和 8 ( 1771 ). 3 ( 1766 ). 寛延 4 ( 1751 ). 文化 明和 文政 11 ( 1828 ). 明治 5 ( 1872 ). 安政 5 ( 1858 ). 安政 2 ( 1855 ). 安政 1 ( 1854 ). 安政 1 ( 1854 ). 安政 1 ( 1854 ). 嘉永 6 ( 1853 ). 弘化 4 ( 1847 ). 昭和 39 ( 1964 ). 昭和 27 ( 1952 ). 昭和 23 ( 1948 ). 昭和 21 ( 1946 ). 昭和 20 ( 1945 ). 昭和 19 ( 1944 ). 昭和 18 ( 1943 ). 昭和 8 ( 1933 ) ・ 昭和 5 ( 193 ( ) ). 昭和 2 ( 1927 ). 大正 14 ( 1925 ). 大正 12 ( 1923 ). 明治 29 ( 1896 ). 明治 29 ( 1896 ). 明治 27 ( 1894 ). 明治 24 ( 1891 ). 5 . 9. 7. 4. 7. 4 . 6 . 8 . 11 . 閨 閏 12 . 8. 10. 1 . 6. 2. 5. 9. 12. 5. 1 1 . 4 . 3 . 7 . 4 . 1 . 3. 4 . 6 . 8. 3. 2. 6. 2 . 2 . 6 . 8 . 9 . 5 . 3 . 11 . 3. 9. 12. 1 . 12. 6 . 3. 6. 26 29 3 ( ) 15 2 ( ) 9 13 24 25 29 7 . 12 7. 13 16 21 28 21 21 3 ( ) 1 2 ( ) 27 27 23 24 4 15 7 25 28 1 ( ) 1 4 27 12 24 2 15 4 5 2 26 6 28 22 15 31 1 23 7 26 3 10 7 13 21 28 4 川 相模 , 武蔵 , 関東諸国 京都および五畿七道 京都および山城 , 大和 山城 , 大和 近江 , 山城 , 美濃 , 伯耆 鎌倉 , 関東 畿内および南海道の一部 東海道 , 南海道 東海 , 南海 , 西海諸道 山城 , 和泉 , 摂津 , 近江 東山 , 北陸諸道および畿内 東海 , 会津 三陸 , 相模 , 岩代 , 東海 , 日向 , 北海道 駿河 , 伊豆 , 武蔵 東山 , 北陸諸道 大隅 越後高田 羽後能代 武蔵 , 相模 , 羽後能代 五畿七道 信濃大町 能登 , 佐渡 越後 , 越中 , 信濃 津軽 安房 , 上総 沖縄島 , 石垣島 , 宮古島など 肥前島原 佐渡 出羽 , 津軽 男鹿半島 越後三条 , 長岡 , 江戸 信濃 , 越後 相模 , 伊豆 , 駿河武蔵 , 東海道 , 畿内 飛騨 東海 , 東山 , 五畿七道 南海諸道 江戸 , 飛騨 , 石見 , 美濃 , 羽前 , 下総 越中 , 出雲 尾張 羽後 越前 , 加賀 城や民家が倒壊し , 大津波による水死者 1 ( ) ( ) 0 余 全壊 128266 , 半壊 126233 , 焼失 447128 , 津波による流失 868 , 死者 99331 , 負傷 1037 全壊 4387 , その他損傷家屋 1692 , 死者 209 。断層が著しい 大津波 , 吉浜で波高 25m 。青森 , 岩手 , 宮城で死者 27122 , 倒壊流出 10617 倒壊 3858 余 , 死者 726 , 傷者 1 ( ) 6 ( ) , 焼失 2148 全壊 8 万 , 死者 7273 。根尾谷断層を生しる。岐阜で余震 10 余年間続く 石見で倒壊 4049 , 焼失 230 , 死者 537 。震災地をつうし全壊 500 ( ) 以上 飛騨で倒壊 709 , 死者 2 ( ) 3 。山くすれによる被害あり 死者 7000 , 倒壊焼失 14346 , 焼失面積 2.3km2 , 藤田東湖ら圧死 死者 3 ( ) 0() 。 房総より九州東海岸にかけ大津波。全壊 1 万 , 焼失 600 ( ) , 流出 1500 ( ) , 半壊 4 万 , 房総より上佐にかけ大津波。倒壊流失 83 ( ) ( ) , 焼失 6 ( ) ( ) , 死者 6 ( )( ) 伊賀上野で倒壊 2259 , 四日市で倒壊 1133 。全震災地の倒壊焼失 5000 , 死者 1352 小田原の被害大 , 倒壊 33 ( ) ( ) , 死者 79 倒壊家屋 34000 , 焼失家屋 350 ( ) , 死者 12 ( ) ( ) ( ) 。犀川せきとめられ , のち決壊 三条町全滅 , 死者 40 ( ) 。震災地全般で倒壊 9808 , 焼失 12 ( ) 4 , 死者 1443 全壊 1129 , 死者 59 倒壊 5500 , 死者 333 。陸地隆起して象潟の名勝壊滅 小木湊全滅。死者 19 。地震にさきだち海岸隆起 津波により流失 8478 , 死者 1481 ( ) 大津波 , 流失 300 ( ) , 死者 1 万以上 弘前城破損。弘前領内で倒壊 694 ( ) , 焼失 252. 圧死 1 ( ) 27 , 焼死 3 ( ) 8 全震災地の死者 20 ( ) ( ) 。高田領の全壊および焼失 6088 , 死者 1128 能登で山くすれがあり倒壊 791 , 死者 5 大町で家屋全半壊 300 , 死者 倒壊 29 ( ) ( ) ( ) , 死者 49 ( ) ( ) 。伊豆より九州東海岸にかけ大津波 倒壊 435 , 焼失 759 , 死者 58 。能代ふたたび全滅。山くすれあり 倒壊 20162 , 死者 5233 。房総半島の被害大 , 江戸 , 小田原に震火災 倒壊 2760 , 死者 394 。能代大火で全滅 高田で城が破損し , 倒壊多数 , 死者 15 ( ) ( ) ( 高田付近 ) 倒壊 380 ( ) , 死者 200 。山くすれ , 津波あり 各地で諸城破壊し , 京都で倒壊 1 ( ) ( ) ( ) , 死者 2 ( ) ( ) , 唐崎で倒壊 157 ( ) 会津で倒壊 309 , 死者 28 , 那須で倒壊 1 ( ) 0 余 , 死者 11 江戸城が破損し , 倒壊家屋多数。日光に小被害 小田原の被害大 , 死者 15 ( ) 。熱海に津波あり , 箱根山に山くすれ 大津波あり , 伊達領で水死者 1783 , 南部津軽で人馬の水死 3000 余 山くすれ , 倒壊家屋多数。死者 37 ( ) ( ) 。新たに湖を生した 房総より九州東海岸にかけて大津波 , 被害多大。土佐宍喰で水死者 38 ( ) 0 京都で寺社 , 民家が倒壊し , 伏見城が大破。堺で死者 6 ( ) ( ) 津波があり , 別府湾内の瓜生島が海中に没す。死者 708 飛騨白川・谷で家屋が倒壊し , 死者 30 ( ) 余。長浜 , 大垣に震火災 津波あり , 伊勢大湊で家屋流出 100 ( ) , 死者 5 ( ) ( ) 0 , 鎌倉で水死者 200 山城 , 大和 , 紀伊 , 摂津など被害大 , 海岸地に大津波 建長寺 , 寿福寺が倒壊し , 死者約 2 万 神社仏閣の倒壊多く , 琵琶湖の水位激減 東大寺の巨鐘が落ちた 建物が倒壊し , 死者あり , 余震は数カ月におよんだ 津波 , 山くすれあり , 死傷者多数 地割れあり , 家屋が倒壊し , 死者無数。武相両国は被害大 三陸沿岸 羽後 , 陸中 関東南部 但馬北部 丹後北西部 三陸沿岸 伊豆北部 , 箱根・ 南海道 , 東海道 東海道 , 南海道 鳥取市およびその付近 33 , ゆくえ不明 43476 。東京市 ( 死者 6 万 ) の % 焦土化 全壊 , 焼失 3475 , 死者 395 。城崎全焼 , 豊岡 % 焼失 全壊 , 焼失 16295 , 死者 2925 全壊 2141 , 死者 259 , 断層が生しる 大津波あり , 流失 4917 , 倒壊 2346 , 焼失 249 , 死者 3 ( ) 08 断層 , 山くすれによる地変著しく , 全壊 7485 , 半壊 6158 , 全焼 254 , 大津波。全壊 26130 , 半壊 46950 , 流失 3059 , 死者 998 全壊 5539 , 半壊 117 ( , 非住家全半壊 16579 , 死者 1961 , 重傷 896 死者 119 ( ) 大津波 , 波高の最大 6.6m 。全壊 ) 70 , 半壊 19204 , 非住家全半壊 6493 , 焼失 2598 , 死者 1330 。上佐で 15 2 が海面下に没す 全壊 35382 , 半壊 10542 , 焼夫 3851 , 死者 3728 流出 1451 , 福井平野 十勝 , 日高 , 新潟 , 山形 , 釧路 秋田 津波。全壊 815 , 半壊 1324 , 流出 91 , 焼失家屋 14 , 死者 28 , ゆくえ不明 5 全壊 196 ( ) , 半壊 664 ( ) , 津波最高 6 軟弱地盤による被害大
コッカイ 2 0 9 種の法案成立妨害権を , 一般に「停 数は , 総議員の以 l-. とする。議 はできない。両院協議会において成 案を得なかったときは , 各議院の協 止的拒否権」という。 % 以 E による のち法には起 , 無記名投襾 可、いし 議委員議長はそれぞれその旨を議院 再可決に先だって , 衆議院は参議院 投票の 3 種あり , 無記名投票の場 に報告しなければならない。各議院 に対して両院協議会を要求すること 賢成は自票 , 反対は黒票 , 記名投 の議長は , 両院協議会に出席して意 ・は賛成は白票 , 反対は青票を投す もできる。また , 参議院が衆議院の 見を述べることができる。また両院 可決した法律案を受け取ったのち , こうして 1 院で議決された議案 協議会は , 国務大臣および政府委員 他院に送付され , 同様のち法によ 国会体会中の期間をのぞいて 6 ( ) 日以 の出席を要求することができる。な 議決されたとき , 本件は国会を通 内に議決しないときは , 衆議院は参 お , 両院協議会は傍聴を許さない。 したことになる。そして , 国会に 議院がその法律案を否決したものと 〔国会の権限〕国会は単に立法機関 、いて成をみた議事のうちで , 法 みなしてよい。つまり , % 以上の多 であるばかりでなく , 国権の最高機 , 条約 , 内閣総理大臣の指名などは 数で単独立法してもいいし , その法 関であるから , その権限は法津の制 、長よリ内閣をへて大皇に奏上し , 律案の成立を放棄 ( 廃案 ) してもよい。 定は、かりでなくひしように広範であ 律は奏 E の日から 3 ( ) 日以内に公布 3 ) 予算の制定 ( 憲 60 ) 内閣は毎会計 る。そのなかでおもな権限をしるす 年度に予算を作成し , 国会に提出し , , 原則として公布の日よリ起算し とつぎのとおりである。 満 2 ( ) 日をへて施行する。内闍総理 国会の審議をうけ , 議決されなけれ 1 ) 憲法改正の発議 ( 憲 96 ) 明治憲法 臣は大皇が任命する。それ以外の ばならない。国会提出にさいしては , にあっては , 憲法改正を提案するの 決事項は , これを内閣に送付する。 先に衆議院に提出しなければならな は大皇であった。しかし現行憲法で 両議院の間で議決が一致しない場 い ( 衆議院の予算先議権 ) 。この点は は , 民主主義の原理に立って , 最高 については , 憲法は特別に両議院 明治憲法の場合と変わらない。しか 機関である国会が提案することとな 意見を調整するための制度として し明治憲法の場合は貴族院がかなら これを国会の憲法改正発議権 った 両院協議会」の制度を設ける。両 すしも衆議院の可決案に拘東されす , 協議会は , 1 院から他院への開会 こでいう発議とは , 憲法 とし、う また貴族院が反対であれば結局予算 求によって開かれるのであるが , 改正案の発案とその議決の両方をふ は成立しなかった。それでは衆議院 案によって絶対に開くべき場合と , くむものとみられている。国会か・憲 の先議権はまったく意味がない。現 ・意的な場合とがある。予算 , 条約 法改正の発議をするには , 各議院の 行憲法では , 参議院が衆議院の意見 総議員の . % 以上の賛成を得なければ 関する両院協議会および内閣総理 と一致しないときは , まず両院協議 ならない。 % は発議のさいの定足数 に臣の指名に関する両院協議会はか 会を開き , それでもまとまらないと をしめし , また衆議院の優越はみと ゞらす開かなければならないもので , きは , 衆議院の議決を国会の議決と 律案に関する両院協議会およびそ めないものと解されている。 する。また , 衆議院が参議院に予算 2 ) 法律の制定 ( 憲 59 ) 法律案は , 原 案を送付して 30 日たったら , 参議院 つ他の両院協議会は任意に開かれる 丿のである。両院協議会は , 各議院 則として両議院で可決されたとき , の議決がなくとも , 予算は成立する。 法律として成立する。明治憲法の場 ら選挙されたおのおの 1 ( ) 人の委員 これをふつう予算の「自然成立」と 合のように , 天皇の「我可」はなく 0 組織され , その議長は各議院の協 よんでいる。 とも成立する。ただし , その法律の 委員のなかから互選された議長が 4 ) 条約の承認 ( 憲 73 , 61 ) 条約は内 歩会更代してこれにあたる。議事 , 効力は公布されたとき発生する。例 閣によって締結される。内閣はこの 決の定足数は % とする。両院協議 外は , 両議院において意見の - ・致が 締結にあたって , 事前か事後に国会 当においては , 協議案が出席協議委 みられないときである。この場合 , の承認を得なければならない。 ミの % 以上の多数で議決されたとき , 衆議院で出席議員の % 以上の多数で は , 明治憲法では天皇の専権であっ た条約の締結を , 米国型の制度に変 案となる。この場合をのぞいて , ふたたび可決すれば , 参議院の反対 町院協議会の議事は出席議員の過半 え , 締結権と承認権とを区別したの 意見をおさえて , 法律として成立さ である。国会の条約承認手続は , 予 女で決し , 可否同数のときは議長が せることができる ( 衆議院優越の原 にする。両院協議会の成案は , 両院 算の制定手続とまったく同様である。 則 ) 。しかし実際は % はむすかしい したがって , 条約についても , 予算 条件であり , したがって参議院の反 議会を求めた議院においてます審 し , 他の議院にこれを送付する。 対 ( 否決 , または修正 ) 意見は法案成 の場合と同しく自然成立 ( 自然承認 ) 立を抑制するはたらきをもつ。この 它案についてはさらに修正すること がみとめられている。しかし , 条約 ゆ瀛当 新呱爼 第物。町 国 民 0 第 - 9 任務委員 0 地方行政委員会 挙 会 内閣委員会 議 内閣委員会 国 地方行政委員会 會令旁 4 衆議院の議員の定数は 公職選挙法 ( 4 , I ) によ り 466 人であるが , 大 都市と地方の人口に比 例した定数配分が不均 衡となったため , 1964 年以来 , 東京 , 大阪 , 名古屋で 20 人ふやし , 当分の間 486 人を定数 としている。ただし 19 63 年の第 3 ( ) 回衆議院総 選挙は , 1953 年の奄美 諸島の復帰に伴う法令 の適用の暫定措置に関 する法律によって行な われたため , 467 人で 0 季第 多 国会の機能
コサクセイ に属して名今よ耕地の労働力となっ ていた名子気被官に現われており , 当時の農民の存在のもっとも一般的 1 8 0 ている ( 旧加賀藩 , 長岡驀などにそ の代表事例がみられる ) 。既耕地が小 作地となる場合 , その動機を売買 , 質入れ , 書入れの 3 種に分けること ができる。 1 ) 質入れ耕地を質に入 れて金を借りるので , 質入れしたも のの耕作権は質入人には無く , 彼は 法規上の所有権者であっても事実上 の小作人としてその耕地を借り , 質 流れとなるのを待つまでもなく小作 料を払いはしめる。 2 ) 書入れ担保 による借金であるから , 担保が流れ たときに はしめて小作関係が成立 する。劣悪な立場で金 ( ときには飯 米 ) を借りる場合は , 不利な条件で耕 地を担保に入れる ( 書入れ ) ことが多 いのはいうまでもない。 / 百姓 〔明治以降の小作制度〕明治維新政 府の / 地租改正条例 ( 1873 ) によって 従来の自作農はその土地の所有権が 与えられたが , 小作関係では所有権 者は地主で , 小作人はその借手とい う関係が確定し , 小作制度が法的に 確定されてから約 10 年の間に , 地租 は金納化し ( 年貢米納に対して ) , 米 価変動のなかで地主は力を強め , 農 地と農民の多くが広範に小作制度の 下に編入されるにいたり , その進行 は明治後期 ( 1900 ~ 10 頃 ) まで , たえ まなく続く。この間 , 1898 年の民法 施行により , 小作権は原則として地 主に無断で売買 , 転借できない など定められた。大正期の 1910 年代 には , 一般に小作制度の進展は停滞 状態に入り , 昭和期の 1920 年代以降 には減退していく。その原因として , 小作争議 , 米価政策 , 自作農創設の 政策 , そして 193 ( ) 年代以降の戦争政 策があげられる。 第二次大戦後の / 農地改革 ( 1946 ) は小作制度を解体させて小作農を自 立化させたが , 在村地主による若十 の小作関係がひろく点在して残って いる。これは , 農地改革が山林にお よばなかったこととならんで , 農地 改革の不徹底さを示すものとされて きたが , 小作料が強力な統制下にあ るため , 今日では農民を圧迫する関 係とはなっていない。 〔小作争議〕高率の小作料と地主の 圧迫は , しばしば小作争議を招いた。 耕地の自小作別割合の変遷 年 1917 1919 1921 192 3 192 5 192 7 192 9 1931 193 3 193 5 193 7 193 9 1941 1943 194 5 区 組織ど争議の変遷 小作人小作人組合 組合数組織人数 形態となっている。 こで名子 , 被 官への若干の耕地の給付がみられる のは , かまど分けによる自給耕地の 供与にすぎす , 借地関係にある独立 農民の発生を意味するものではない。 半独立的な小作農民の成立を中世期 に示すものとして , 欧州では折半地代 ( - または 2 分の 1 地代 ) がみられたが , 日本では刈分小作といわれる小作 慣行がある。これは収穫物を一定の 割合で分けて小作料とする慣行であ り , これを刈りとった束で数え , 収 量も何束と表現したこともあるが , これは中世的ないわば恣意的な収奪 方法を示している。 〔近世の小作制度〕近世以降の小作 制度の下では , 耕地の収量を固定的 に何俵取りと評定し , これに定率を かけて小作料を何俵と決め , 小作証 文 ( 水入証の用語が多い ) に契約する 一種の定額制となる。その特徴は , 高額の現物小作料 ( 水田は全部米で , また畑作でも米で納めさせるものが 多い ) と , 強力な身分的従属関係に あり , 契約した小作料を納めるだけ にとどまらす , 地主の家の冠婚葬祭 をはしめ , たきぎや草の採収その他 の雑役にたえす応しなければならな かった。地主に反抗するものは用水 を止められ , 村八分ぶになり , そし て最後には上地を取り上げられる。 小作農は事実上の生殺与奪の権を地 主ににぎられ , しかも , いかに過酷 な扱いを受けても土地から離れるこ とができなかった。日本の小作制度 こうした特 は , 諸外国にくらべて , 徴をもっとも典型的に備えていた しかも江戸時代においては , 領主制 度が事実上地主支配の後ろだてとな こうして , 江戸時代中期 っていた 以降 , 近畿 , 東北 , 北陸に急速に小 作関係が成立していくが , そのもっ ともきわだったものが , 開発新田で ある。近畿では大阪の鴻池の新田 , 三井新田 , 北陸では新潟県の福島潟 干拓新田 , 大瀁新田などにその例 がみられる。それは藩が商人に請け 負わせて新田を開かせ , そこに居っ いた農民を全部その請負者の小作人 とするものである。江戸時代の旧村 ( はば今日の部落に当たる ) で十何ヵ 村という広い範囲で農民の過半が 1 戸の地主家との小作関係におかれて いるのはこうした事情によるもので ある。これとは対照的に , 農民が荒 れた土地を長年かかって耕地とした ために , その土地の所有者に対して 強い発言力をもち , 地主は土地を取 り上げる力も , 小作料を高く取り立 てる権利ももたなくなった場合も多 く , これを永小作といって , 明治期 にはその耕地の所有権が地主側にあ るか小作側にあるかが法廷で争われ 681 1530 3496 4 58 2 4 156 4 414 4 810 4 011 3879 3509 293 16 3931 307106 365332 315771 306301 302736 242422 22 6919 210208 23595 小作争議 件数 8 5 326 1680 1917 2206 20 5 2 24 3 4 3 419 4000 68 2 4 6 17 0 3 57 8 3 30 8 2 4 2 4 894 区 年 188 3 188 7 19 0 5 1910 1915 1920 1925 ー 1930 1 93 5 1940 1 94 5 分 自作地 6 0.0 56. 4 5 0. 2 49. 8 4 9.4 4 8.3 4 8.6 4 5. 1 4 7. 1 4 8.5 4 7.9 小作地 40.0 52. 1 51. 5 52. 9 54.9 51. 4 51.7 50.6 50. 2 4 9.8 43.6 自作地 61.2 61.2 59.9 59.3 59.8 59.7 60.4 60.4 6 2.5 66.7 68. 1 小作地 38. 8 38. 8 40. 1 40. 7 40. 2 40. 3 3 9. 6 39. 6 3 7. 5 33. 3 31. 9 注各年とも農商務省および農林省統計表 による 注 1925 年までは農林省く地主小作人組合に 関する調査〉 ( 1926 ) , 以後は農林省く小 作年報 > く農地年報〉による 小作争議においては , 一般に小作 民の要求は , 小作料の減免 , あるし は値上げ反対 , 奨励米増加 , 肥料イ の支給 , 納米の格下げ , 小作権 , 小作権の確立などであり , その戦 ' としては , 小作料の不払いや共同イ 管 , 小学校の同盟休校 , 公租公課 滞納 , 地主に対する村八分 , 地主 の居すわりなどが行なわれた に対して , 地主側は立毛差押え , 作地への立入禁止 , 動産差押えなと を強行して対抗し , さらに警察 , 隊などが争議の鎮圧に出動するこ もあった。従来の一揆と区別して はしめて小作争議の名を冠した事 は , 明治中期に起こった足尾鉱毒彗 件だが , これは鉱害という特殊事行 によるもので , 本来の小作争議をし ろく触発するものではなかった。 びしい小作料と地主の圧迫に対する 小作農民の反抗は 190 ( ) 年ごろの明汁 後期から著しくなる。それ以前か 不作の年の小作料減免を要求する身 団行動は各地にあったが , それらに まだ非組織的 , 散発的なものであー た。 190 ( ) ~ 15 年にかけて各米産県 米穀検査制度が実施されると , 地は は米の品質向上を小作農民に要求し このため小作農民の労力その他の 担は増加し , そこに検査奨励米 ( は たは金 ) の要求や小作料引下げの しい争議行為が起こった。それはよ 庫 , 広島 , 愛知など西日本一帯と各 小作争 井 , 新潟などにわたった が全国的にひろまり , 本格化したク は第一次大戦後の大正中期以降かレ であるが , その起点とみられるもク は , 07 年新潟県のなかでも , 千町当 地主のいる蒲原平野に起こっ 「三升問題」である。これは前述ク 検査奨励米の要求が , 自発的に小 農民を何々部落興農会などの名の一・ 1 に組織し , それは全蒲原平野にひ冫 がり , はしめて警官の関与した事 であった。そして以後およそ 10 年 記録に残らない程度の小規模の争 は年々増加していく。 22 年日本農ー
ジュケンシ 5 6 別に , 手芸に相当するものに「お細 工物」と称する手先の技術がある。 これはとくに江戸時代に発達をみた もので , 初めは下級武十の妻女や町 家の女などが暇を利用して生計のた しにした。そのなかには , かご細工 , 経木細工 , こより細工などをはしめ , 馬の尾の毛を集めて組ひもなどを作 る馬尾細工など特殊なものもあっ た。また趣味と実用をかねて仕事着 などをしようぶにするため , こまか く縫目を入れる / こぎん刺しや , 小 布をためておいて何枚もはぎ合わせ てふとん布などを作る切はぎ細工な どもあった。細工物は江戸時代の後 期から明治年代までとくに盛んで , 手芸のさまざま左は 明治憲法では主権は天 ( / 編み物 ) 。 5 ) 組物羽二重糸を用 日本では , 茶道 , いけ花 , 琴などとともに婦人 民俗服の刺しゅうをす 皇にあったが現憲法では国民に存す いて羽織ひも , 帯締めなどを作るの の教養の一つとされ , その種類も多 るスペイン婦人で , 伝 るとしている ( 憲前文 , 1 ) 。したが をはじめとして , 上記の各種の糸を 統ある技術は家庭手芸 かった。明治以後には編み物 , 刺し のなかで受けつがれて って , 憲法上 , 日本は共和国である 用いてベルト , 縁飾り ゅう , レースなどの欧米の手芸がも いく。中はかぎばり編 とする学説が多い。主権が法人とし グなども作られる。 6 ) 織物工業的 たらされたため , これに押されて日 みレース。右は衣装人 ての国家にあるという国家主権 ( 国 ではなく卓上織機などでネクタイ , 本在来の細工物は現在ではほとんど 形の製作で手芸のなか 家法人 ) 説は君主主権説と国民主権 マフラーなどの小物類を作るものや , 行なわれていないが , ただその技法 でも技術を要し作品は 精巧な模様を現わすつづれ織り , タ 説との妥協の産物であり , 前者から は現代の手芸のなかにも生かされて 商品としても通用する 後者への過渡的段階を示す。それは ベストリーなどがある。 7 ) 細工物類 いる 君主を容認しながらも君主主権を主 〔種類〕手芸の種類は雑多で , なか 種類が多く , その範囲もひろいが 張できす , そうかといって国民主権 現在も行なわれている手芸的なもの には / 麦わら細工 , 竹細工 , 木彫り にまで踏み切れなかった 19 世紀ドイ をあげると次のようである。 a. / ビ など手工や工作に含まれるものと区 ッ公法学の発明である。明治憲法の ーズ刺しゅうの材料にもされるが , 別のつけにくいものもある。また 解釈としての美濃部達吉の / 天皇 つないで首飾りとしたり , 袋物など / 染め物のうちでも / 絞染め , / ろ 機関説は , この理論を輸入したもの うけつ染め , のり染め , / ペンテック を作る。小さな竹の管や木の実 , 種 で , 当時の支配的学説であった天皇 スなどのようにとくに手を加えるも 子なども同様に細工される。 b. / 造 主権説に対し進歩的意義をもってい のは染め物手芸などとよばれる。ま 花花びんにさすものと服飾とがあ た。なお , 国と国との間では相互に たガラス , プラスチック , ビニルな ジ、ヨー一一セ・ツ 主権不可侵を原則としており , その ど新しい材料を使用する手芸もつぎ ト , 染め皮 , ビニルなど作る材料は 意志に反して他国からのいかなる制 つぎに生まれている。もっとも一般 さまざまである。 c. / 人形手芸と 的な手芸をあげると次のようである。 約にも服さない。 〔川北〕 しても作られ , 衣装人形 , きめこみ 1 ) 刺しゅう類色糸 , 白糸をはしめ じゅけんしほん授権資本株式 人形 , 縫いぐるみ人形など各種があ 布置刺しゅうである / アップリケ , 会社において , 定款に定められた会 る。 d. びん細工フラスコ形のガラ 社が発行しうる株式の総数をいう。 切抜刺しゅうである / カットワーク スびんの中に造花 , まり , くす玉な かならすしも金額で表示されるもの やアイレット , 糸抜刺しゅうである どを作るもので , 狭い口からピンセ ではなく , また相当する株式が現実 / ドロンワークなど種類が多い ( 480 ットを使って仕上げる。 e. ちりめん ~ 481 ページ刺しゅうの技法を参照 ) 。 に発行されなければ実質的な資本と 細工布地の伸縮を利用して果実や なるものではないので , むしろ授権 2 ) レース類かぎ針を用いるクロッ 動物を作るもので , 腰さげや飾りひ 株式とよぶべきであるともいわれる。 シェレースをはしめ , この応用のヘア もの先などにつけられる。 f. その他 元来 , 英米法における author ized ピンレース , 虫ピンを利用して作る 日本在来の技法による手芸に / 押絵 , テネリフやコッポ , かんぬき止めでと capital の訳語で , 英米では n 。 minal / つまみ細工などがある。 めていくタッチングレース , 糸やひ capital ( 公称資本 , 名義資本 ) とも 〔青木・藤島〕 もを結んで模様を現わす / マクラメ よばれる。この制度は 1950 年の商法 しゆけん主権法を制定し , そ など種類が多い ( / レース ) 。 3 ) 裁縫 改正のさい , 英米法にならって採用 れを強制する力。すなわち , 一般に の技法を応用するもの布を縫いち 統治権とか国権とかいわれる国の権 されたもので , 株式会社における資 ぢめて陰影のおもしろさを出す / シ 力を意味する。国家はその領上内の 本の調達を容易にすることを目的と したものである。すなわち , それま あらゆる個人 , 集団に対し , 法に基 ャーリング , ひだとりで変化をつけ づいて命令し , もし命令に従わない での法律では , 会社の設立のさい るファンシープリーツ , ひだとりの をきは物理的強制力をもって服従さ 定款に資本の総額を記載し , その資 上を色糸でとめていく / スモック , せる力をもっている。主権は , 国内 本の総額に当たる株式の引受が確定 つまみ縫いで模様を現わすタッキン 的にはその領上内のあらゆるものに することを要求したので , 設立後 , グ , 布の間に詰物をして模様を現わ す / キルチングなどがある ( / 洋裁 ) 。 対する最高絶対の支配力をもち , 他 会社が資本を調達するには , 株主総 のいかなる制約にも服さない。主権 4 ) 編み物類毛糸編みが一般的であ 会の特別決議をへて , 定款を変更し るが , 材料によって各種の趣の異な が君主 ( 天皇 , 皇帝 , 王 ) にある国が て増資を行なうほかはなかった。 る手芸品が作られる。草の繊維から 君主国であり , 国民にある国が共和 の改正の結果 , 設立にさいして定款 国である。君主国では法 ( 憲法を含 に定めた株式資本の総額に当たる株 作るラフィア糸 , 紙ひもを加工して 作る千草糸 , ビニルャーン , スト む ) は国民代表機関 ( 議会 ) の議決だ 式の引受を必要とせす , 設立にさい ロー ( 麦わら ) をリポン状にしたアン けでは成せす , 君主の最終的同意 して発行されなかった株式は , 設立 ダリア糸 , ナイロンヤーン , 金属糸 ( 裁可 ) を要する。共和国では法は国 以降 , 必要に応して取締役会が分割 など新製品による材料が豊富である 民の意志にのみ基づいて成立する。 発行することが可能になり , 会社の . をを多第 1 以予冫
サッシュ 3 7 0 ル〉などが , 共産圏の文化運動の一 この間 , 明治末から大正にかけ 情による場合 ) との区別をみと た 翼として刊行されているっところで て , 講談社のく講談倶楽部〉くキン また嬰児をい殺しをも区別していオ 第二次大戦後の最近の傾向としては , グ〉などの大衆雑誌が登場し , また また , 3 年の懲役から死刑まで 米国の雑誌企業が世界的に進出しっ く主婦之友〉その他の婦人雑誌や , 児 ろい範囲で裁判官の裁量にまかさ つあることが注目される。とくにくリ 童雑誌の類が発行部数の飛躍的な増 ていることは日本の刑法の特徴て ーダーズ・ダイジェスト〉 ( 1922 創刊 ) 大をもたらすこととなったが , 欧米 る。殺人罪の規定の解釈として問 の成功や , くタイム > ( 1923 創刊 ) , くニ の雑誌史の推移と並行した現象とし になるのは胎児 ( 堕胎罪 ) と人 ( 殺 ューズ・ウィーク〉 ( 1933 創刊 ) など て顧みられる。第二次大載の末期に 罪 ) との時期的な限界である。胎 週刊時事誌の普及はめざましく , さ は , これら多くの雑誌は用紙統制の の身体の一部が母体から露出すれ らにタイム社が 1936 年に創刊した大 ため合併ないし廃刊のうきめにあい そのときから人になると解するの 判グラフ雑誌くライフ > は , 外国語版 中央公論社 , 改造社のように軍部の 判例としてあり , また通説である をあわせ薮百万の世界的発行部数を 圧力で解散を命せられた雑誌社も出 殺された人が尊属 ( 自己または配 うるにいたっている。雑誌はとくに た。しかし戦後には大多数の雑誌が 者の直系尊属。父母 , 祖父母 , 曽 復活し , また新しい総合雑誌く世界 > 父母など ) であれば , 死刑または 同志的な評論雑誌の場合 , 貴重なと 期懲役に処せられる ( 20 の。尊属・ らわれぬ言論の場として評価されて ( 1946 創刊 ) なども現われた。そして きたし , いまもその使命をになって 近年の著しい動きとしては , 新聞社 の規定について , 憲法の平等主義 いるが , 大規模の雑誌企業が発達す 発行の週刊雑誌が急速に売行きを増 反するのではないかという説があ るにつれて , 大資本による雑誌の商 最高裁判所は否定したが , 学説に し , ひいて出版社もこれにならって 品化は避けられない形勢にある。 各種の新しい週刊雑誌を創刊した 反対が少なくない。いすれも未遂 こに今日以後の雑誌の問題が , いわ と , 雑誌の大判化 , グラフ化がめだっ 罰する。また , 殺人罪を犯す目的 ゆる「ノヾルプス」 ( ザラ紙の俗悪な安 てきたこと , ハイティーン向きの娯 その予備をした者は 2 年以下の懲彳 雑誌 ) のはんらんとも表裏をなして 楽大衆雑誌にく平凡〉く明星〉のよう に処せられるし , 人を教唆 , 幇助 ' 考慮されわばならない な新しいタイプが生まれたことなど ( / 従犯 ) して自殺させた者 , また一 があげられる。 〔日本の雑誌〕江戸時代末期から欧 殺された者の嘱託を受け , もしく ( 〔友野〕 ざっしゅ雑種形質のちがう両 米の刺激で新聞雑誌が作られはしめ , その承諾を得て殺した者は , 6 ヵ 明治にはいって活版印刷の移入につ 個体間の / 交配によって生した子孫。 以上 7 年以下の懲役または禁錮に れて多くの雑誌が創刊されるように ーっの対立形質について相異なる両 せられる。後者のいわゆる承諾殺 ( なった。柳河春三編く西洋雑誌〉 ( 18 親の子を単性雑種 , 2 対 , 3 対の場 安楽死の問題がある。ひん死の状 . 67 創刊 ) , 森有礼 , 福沢諭吉らのく明 合はそれぞれ両性雑種 , 三性種と にあって激しい苦痛に苦しむ者の 六雑誌 > ( 1874 創刊 ) などが日本の雑 この対立形質の数が多くなる 痛を除くために死期を早めること し、し、 誌の先駆とされるが , 後者は文明開 はど雑種性が高くなる。メンデルが あるが , 違法性を阻却する ( 違法ー 工ンドウの実験で示したように , ち あると推定される行為についてそ 化期の学術評論誌として有名である。 がった対立形質の両親から得られた 明治 10 年代には自由民権運動のなか 推定を排除することで , 違法行為る 子は雑種第 1 代で , これは両親の形 にいくつかの政論雑誌が生まれ , 次 適法とするのではなく , 初めから 質をかねそなえているが , 優性の形 法ではなかったとすること ) かどー 次に圧迫されて消えていった。 1887 質しか現われなく劣性形質は潜在し 年には徳富蘇峰のく国民之友 > が平 かで争われる。具体的な事情によー 民主義をかざして創刊され , 当時の ている ( 優性の法則 ) 。次に雑種第 1 て違法性を阻却する場合もあると 青少年に迎えられたが , それに対抗 代どうしの交配によってえられたも すべきであろう。 〔遠藤〕 ざっそう雑草農業上は , 益」 して国家主義を唱える三宅雪嶺 , 志 のを雑種第 2 代といい こで雑種 第 1 代にかくされていた劣性の形質 賀重昻らのく日本人〉が翌 88 年現わ りは害のある草 , あるいはその上呶 この前後に文芸同人雑誌も多 を現わすものが一定の比率で出てく にまかれた以外のしやまな草をさ朝 れた。 る ( 分離の法則 ) 。また優性の遺伝子 く創刊され , 硯友社の < 我楽多文庫〉 , 一般には野生の草をばく然と か、 だけをもった系統 ( ホモという ) と , とめていう場合もある。自然に対対 森鵰外らのくしがらみ草紙〉 , 坪内逍 優性の形質を示すが劣勢の遺伝子が 遙中心のく早稲田文学〉 , 北村透谷 , る適応性に富み , しようぶで繁殖プ が強く , 種子の生産力も盛んで , しカ 島崎藤村らのく文学界〉などが知ら 潜在する系統 ( へテロ ) のものもある。 も種子は数年間も発芽力を失わなし れる。 1895 年博文館は総合雑誌く太 それぞれの系統内で交配すれば雑種 ものが多く , これに対して作物は一 陽〉を創刊したが , 企業として成功 第 3 代 , 第 4 代となり , そのうち遺 した総合誌の最初であった。以来く中 般に人為的に作られた特殊の奇形栢 伝子をホモにもった系統ではもはや 物ともいえるので , いろいろの障 形質の分離はおこらない。ちがう品 央公論〉 ( 1899 年く反省会雑誌 > から に対する抵抗性が強くなく , 特別グ 種間の雑種を品種間雑種 , 種の間の 改題 ) , 大正にはいってく改造〉 ( 1919 保護 , 管理を加えないかぎり自然に 創刊 ) などが日本独特の総合雑誌の 雑種を種間雑種 , また属の間の雑種 消滅するか , あるいはもとの野生 タイプを作りあげてく太陽〉の座を を属間雑種という。とくに第 1 代雑 奪った。文芸雑誌も前記のもののあ 態にもどってしまって作物として 種は両親のいすれよりも体が大きく 用をなさなくなる。 と , 明治後半以降にはく明星 > く新思 しようぶな形質を示すことが多い。 潮 > く白樺 > く文芸時代〉その他の同 〔種類〕日本の雑草は大別して畑れ これを雑種強勢といい , カイコ , 雑草と水田雑草に , また作物に対づ 人雑誌が , 時代の文芸思潮を形成す ワトリ , トウモロコシなど多くの農 作物や家畜にみられ , 育種の一つの る一方 , 短歌 , 俳句などの多数の結 る害の強さで強害草 , 害草 , 弱害 手段になっている。しかしそれも第 社雑誌が刊行されていることは , 日 とされる。 1 ) 畑地雑草メヒシバ , 2 代以後には劣ってくる。 / 遺伝 スズメノテッポウ , スペリヒュ , ノ 本の特異な現象とみていいであろう。 コペ , スキ、ナ , ・ナズナ , イヌビエ , また 1904 年創刊のく新潮〉 , 06 年創刊 〔佐藤〕 さっしん殺人人を殺すこと。 ハナタデ , ヤエムグラ , ヒメスイノ のく文章世界〉など , 雑誌社経営の など 53 科 3 ( ) 2 種 , 2 ) 水田雑草カ六 刑法上 , 殺人罪として死刑または無 一般文芸雑誌が永続するようになっ 期もしくは 3 年以上の懲役に処せら ツリグサ , キカシグサ , コナキ、 , たことも注目され , やがて菊池寛編 れる ( 刑 199 ) 。日本では多くの国の ゼナ , アプノメ , マッノヾイなど 43 を 集の文芸随筆雑誌として出発したく文 191 種が知られ , うち 18 科 76 種は可 立法例のように謀殺 ( あらかしめ熟 芸春秋 > ( 1923 創刊 ) は , 昭和期には 田と畑地に共通に発生するという。 売み物本位の総合雑誌にまで発展し 慮して行なう場合 ) と故意 ( 一時の激 一三ロ
シタギ 5 0 3 スカートの土台の変遷 れるし , ワラビ , ゼンマイ , ヤマ リゼンマイ , ヤマソテッなどの若 葉は食用にされる。しかし一般に 芽はあくが強く , 少しばかり毒分 含むものもあるから , よくあく出 して , 水にさらして食べるとよい。 燥したり塩蔵すれば長く保存でき オシダの根茎は綿馬鈩根といっ 駆虫剤に利用されてきた。へゴの は湿ったところに置いてもくさら いので , 着生植物を植え付けるの 利用される。そのはかシダの葉に ファーチン・ケ・一一′レ クリ . ノリン ファーチンゲーノレ こまかい美しさがあるので , 合成 フランス ( 16 世紀 ) ( 18 世紀 ) ( 19 世紀 ) スペイン ( 16 世紀 ) 脂の間にはめ込んだり ; あるいは 脚色上演することを禁しられていた 輪骨の材料としたが , 鯨骨 ( ヒゲクジ の形を模型にしたりして装飾用に ため , 背景となる時代を前時代から ラのロ中のひげから作る ) が用いら 借りたものであった。団十郎はこれ ることも流行している。〔小林〕 れるようになり , この需要をみたす したいふじゅうじ肢体不自由児 を不満とし , 興行師守田勘弥 , 狂言 ためにオランダの捕鯨業が発達をみ 身体不自由児 作者河竹黙阿弥の協力を得て , 明治 たという。 このスタイノレはフランス じたいまつり時代祭京都の 初年から 1887 年ごろにかけて史実を 革命とともに姿を消したが , 19 世紀 平安神宮で 10 月 22 日の神幸祭を中 尊重する写実的な史劇を上演し , そ 中期ふたたびクリノリンとよぶフー 、に行なわれるりで , 平安時代か の演出にあたってはすべて学者の考 プが流行した。婦人のズロース ( ドロ 明治維新までの京都のうつりかわ 証を仰いだ。これを積極的に後援し ワース ) は 16 世紀にイタリアの貴婦 をあらわす風俗行列が呼び物であ た依田学海 , 松田道之らが「時代物 人が乗馬のさいに用いたというが 1895 年の遷都一千年祭に平安神 は活きた歴史ならざるべからす」と 一般的になったのはこのころである。 が建てられたときにはじまる。行 述べたのをとらえて , 仮名垣魯文が しかしまだ , ひざまでの長さで数本 リは延々数にわたり , 午前に御所 「活歴史」と冷評したのがこの名称 のひだをとっていた。 19 世紀末には : 出てタ方神宮に到着する。テーマ の起こりである。 腰のうしろをふくらましたバッスル ・〔郡司〕 : は維新勤王隊 , 豊公参朝 , 延暦文 したぎ下着表着の下に着るも スタイルが流行したが , これには , ( 官などがある。なお , この種の風 のの総称。服装の変遷のうえから表 しりの部分に詰物を入れて形を作っ 享行列は平安神宮にかぎらす , 滋賀 着をぬぎすててゆく傾向があるので , ていた。 20 世紀になると男子の下着 きの多賀神社や日光の東照宮などで かって下着であったシャツが現在は が発達し , 活動的な各種のシャツが ) 行なわれる。 表着としても用いられるなど , はっ 〔佐藤〕 生まれた。婦人も暖房の進歩や , 毛 じたいもの時代物歌舞伎 , 人 皮のコートの流行によって防寒的な きりした区別はつけにくい。下着の 彡浄瑠璃呂うにおける戯曲または演 機能は保温や汗とりなどの実用面と 下着の需要が減り , 装飾的な下着が ーの種別。歌舞伎では時代狂言また 盛んになった 表着のスタイルを整えるためとに大 一番目物 , 浄瑠璃では時代浄瑠璃 別され , とくに後者の機能のために 日本の和服における下着はおもに : もいう。江戸時代以前の時代に題 用いるものをファンデーション ( 土 / しゅばんである。これは室町時代 タを設定したもので , これに対して 台 ) とよんで区別することもある。ま 末期に , いわゆる南蛮から渡来した 寺時の市井の風俗に取材したものを た美しい下着をとくにランジェリ シャッ風の下着に由来しているとい 世話物」という。時代物のうち というカゞ , これはフランス語で麻製 うが , これ以前にも同様な下着は着 , 平安時代以前のものは「王代物」 品のことであり , もと婦人の下着が 用されていたもので , ただ呼び方が : たは「大時代」などという。また おもに麻で作られたためである。 違っていた。初期の下着はそで無し こ名の御家騒動などを扱ったものを 〔変遷〕古代エジプトのロインクロ の簡単な貫頭衣式であったらしく , お家物」といい , 世話物的要素の濃 スやギリシアのキトンやローマのチ 正倉院には布衫んとよばれるものが 、ものを「時代世話」という。時代 ーックなどは下着と表着とをかね 残されている。平安時代の服装は幾 りでもっとも人気のあったのはく太 たような衣服であった。しかし婦人 枚も同形のきもの風の衣服を , 重ね 互記 > とく曽我物語 > の主人公たち が体形を整えるために布を巻きつけ て着ていたが , 表着と中着および下 きもののすそにちらっ : 、あり , 前時代の公卿僧 , 武家た く長ヒゅばん , けだし ることは古くから行なわれたらしい。 着との区別ははっきりせす , 時代が などの色彩は浮世絵の らがその登場人物であったから , 町 4 世紀ごろからシャツやズボン下が くだるにつれて , しだいに簡略イヒさ 好題となった。春信筆 、や庶民は取り扱われない。それら 着用され , 中世末期には , そでロや れるとともに下着が表着となってき ) 取材の世界も「四天王」の世界 , た。きものの前身である小袖も下 えりに飾り布をつけ , これを表着に 平家物語〉の世界、く伊豆日記〉の のぞかせるシャツや婦人のシュミ 着であったのが室町時代末ごろから と界 , く義経記 > などがほば定まって ズができた。 16 世紀にはスカートを 表着となったものである。下衣とし 、た。また歌舞伎では 1 日の狂言演 ふくらませるために , フープ ( わく ) ては , 男女とも袴をつけていたの ーは , 一番目物の名題によって統一 の一種であるファーチンゲールが発 で下袴をつけていたが , 男子は / ふ : れるのをつねとした。浄瑠璃では , 達した。ますスペインから , つり鐘 んどしの前身ともいうべき布を古く を松門左衛門によって世話物が確立 形のものが生まれ , フランスでは腰 から用いたようであり , 女子の / 腰 - て以来 , 区別ができるが , やはり にタイヤ状のものを巻いた。これと 巻も袴を着用しない場合などにはつ 代物が優勢でもあり , 重要な地位 ともにコルセットカ { 生まれたが , 鉄 けられたらしい。室町時代以降に小 ・占めてきた。概して演出曲調は比 製で胸から胴をしめつけるひしよう 袖の着流しが一般風俗になるにおよ ~ 的リアルな世話物に比して様式的 , に苦しいものであった。 17 世紀には んで , 下着は「しゅばん」の名で代 型的である。また明治時代に 9 世 婦人の間でべチコートが愛好された 表されるようになり , 下衣には男子 i 川団十郎によって始められた時代 色どりもはなやかに , 12 枚以上も重 はふんどし ( 下帯 ) が用いられ , 女子 リの一種を「活歴物」といった。江 わたものもあった。 18 世紀のロココ は腰巻 ( 湯もし ) とさらにその上に巻 i 時代の時代物は正確には史劇では く「けだし」 ( すそよけ ) がつけられ スタイルの婦人はフープの一種とし : く , 当時の武家社会のできごとを てパニエを用いた。初めは鉄や木を た。江戸時代には , しだいに下着が ノヾッス第レ ( 19 世紀末 )
ゴョウキン 2 6 () 周期を 1 年とする 1 太陽年の 流域の中部および北部の草原地帯 ) ( 365.2422 日 ) は , 月の満ち欠け では夜悲しい声で鳴きいやがられる。 期を 1 カ月とする 1 朔望月 おもに子ジカやェダヅノレイヨウの 幼子をおそうが , 鳥類 , アナウサギ , 数 ( 2 9.53 ( ) 589 日 ) で割り切れなし で , 閨月 , 年によってこの両 ドッグ , 野ネズミやこん 規準をどのように調節するかは 虫までも捕食する。北方産のものの より暦法上の難問題であり , そ 毛皮は毛深くひざ掛けとして値うち は天文学と数学の高度な技術と があるという。 〔黒田ネし〕 による記録とを必要とした。独 ' こよみ暦時間を年 , 月 , 週 , 文字をもった中米のマヤ文明で : 規則 , 労働保護立法 , 労働協約とい 日 , 時刻などに区分し , これらの単 ンカ帝国より 1 ( ) 世紀前 , すでにカ 位によって時間を計るのが暦である。 う三つの社会的規制が加えられ , り正確な天文の観測を行ない れらの上にはしめて自由契約として その体系の規定を暦法といい , また までの 3 ( ) 日を 1 カ月とし , 1 年 1 日を区分して / 時刻を数える体系 の雇用は実質的な意味をもってくる。 カ月 ( 36 ( ) 日 ) とする太陰暦の方、 〔日本の雇用膨態〕日本では , 自由 を時法といっている。暦は社会生活 改めて太陽暦をつくったがそ な雇用契約のための社会的規制が全 に秩序と計画性をあたえるために欠 面的に実施されたのは , 第二次大戦 くことのできないもので , 人間は数 ふつうの 1 カ月を 2 ( ) 日とし , 1 後のことである。それ以前は , 人身 千年の昔から , 自然現象とくに天体 18 カ月とし , このうちの 1 カ月 : ん買 , 年奉公などの慣行が雇用関 の動きに関連した自然現象の規則的 日の閨月として 1 年 365 日という 係を特徴づけていた。すなわち労働 な変化反復を規準にして時間を計り , 陽暦をつくりあげた。彼らは閨 者の募集制度 , 前借金制度 , 年季制 これによって農耕や狩猟の日取りを そ設けなかったが この 1 年 365 度 , 児童婦人の雇用などにそれは現 定め , 宗教的行事を営んだが , 生活 の暦法によってもなお誤差が生じ これらの要素を雇用関 われていた の複雑化と天文学の発達によって暦 とまで知っていた形跡がある はしだいに精密なものに改良されて れに対し , 驚くべき大上木工事を 係から排除する措置は , 第二次大戦 行したインカ帝国でさえ暦は 1 ヵ 後に全面的に行なわれた。ます労働 きた 日本語の「こよみ」は「かよみ ( 日 3 ( ) 日 , 1 年 12 カ月 36 ( ) 日という原 者の募集に対して , 憲法 , 労働基準 読 ) 」の意味であるといわれるが 法 , 職業安定法による労務供給など 的な方法を用い , ただ首都クスコ の禁止 , 婦人年少労働者の雇用につ このことからもわかるように , 昼夜 東西に立てた 4 基の石塔に投じる いての労 1 動基準法の規定 , 同法によ の交代による 1 日という観念は , ど 陽の影と太陽の位置によって夏至 る労働条件の明示義務 , 賠償予定の んな原始人でも知っていたにちがい 冬至を知り , 太陽の祭りを行なっ 禁止 , 前借金相殺の禁止 , 強制貯金 ない。次には規則的に満ちては欠け いたといわれる。 の禁止 , さらに解雇に関する法的制 る月の形の変化が , 時間を計る規準 〔自然暦および民間暦〕暦が社会 活に重要な役割をもつようになる 限 ( 解雇予告期間の設定など ) などで となり , 満月から満月まで , あるい は , いちど姿を没した月が三日月と は農耕文化期にはいってからであ ある。さらに一方では , 憲法や労働 して現われるいわゆる新月から新月 採取狩猟の生活をおくる民族では 法による団結権保護などがあり , 労 日と月と年との関係をそれほど厳 働者の契約における地位を保障して までを 1 カ月とする観念が生まれた。 に規定する必要はなかった 暦のことを英語でカレンダーという たと いる。 / 失業 〔江口〕 は、ヨルノヾ族は日第日を「今日の前」 , がこれは「叫ぶ」という意味のこ ごようきん御用金江戸幕府が 日を「今日のあと」という呼び方 財政難打開のため , あとで償遠する とばに由来し , 太陽暦採用前の古代 し , 日数にあまり関心を寄せす , ローマで , 西空に現われる新月を僧 というたてまえで , 江戸 , 大阪など だ 1 年を「かわいた季節」「雨降 の豪商から半強制的に調達した金銀。 が観測し , それを月の初めとして人 の季節」「木の葉の黄ばむ季節」 江戸中期以後はその金額も回数も多 人に叫び知らせたことから起こった いうようにおおざっぱに区分する く , おもに米価調節に使用されたが , といわれる。さらにまた新月 , 上弦 , 幕末には幕府自身の経費にあてられ 満月 , 下弦というような月の形のは くべリー公の豪華時疇書 > のミニアチ = た。本来は償還を保証されたもので , っきりした変化を基に 7 日間を一区 ーール。 12 カ月のうちの 7 月で , 背景はえ 切りするようになり , その点で献金とはちか、っていたが いまの 1 週間 アチェ城。ランプール兄弟とコロンプを 実際には返済されす , 明治維祈に至 の長さの始まりとなった。イスラム った場合が多い。明治政府は当初 , 教の暦は新月をもって各月の第 1 日 国政運営上の必要から御用金を調達 とし , 12 カ月をもって 1 年とする純 このほうは太政官金札の貸 然たる太陰暦であり , 3 ( ) 年を 1 期と したか・ , してその間の年に 11 日の閨 3 る日を挿 付けで返済された。しかし , この両者 入する。したがって 1 ヵ年の長さは の関係が明治時代の財閥の生成に大 354 ~ 355 日となり , 太陽を規準とす きく影響したといわれる。〔浅沼〕 る 1 年より 1 ( ) ~ 11 日短いので , 年始 こよしがわ子吉川秋田県の川。 は一定せす , 四季を通して移動する。 山形県との県境雄勝峠西方に源を発 このように 1 カ年を数えるには 1 カ し , 北西流して下流では米の産地本 月はど明確な規準がないので , 昔の 荘平野を形成し , 米の集散地本荘の / 、々は困惑したにちか・いない。年の 市街西方で日本海に注ぐ。長さ 83.5 規準には太陽の運行が規準になるが , kmo 流域面積 1520km2 。上流地域は林 それは温帯地方では四季の変化 , 緯 産 , 水力資源が開発され , 中流の矢 度の高い地方では , 冬至いや夏至「 島は木材集散地である。包蔵水力は における太陽の位置などをめやすに 〔谷口〕 最大出力 83647kW 。 するしかなかった。現在の暦法にお コヨテ coyote オオカミを・小さ ける年始の位置は 32 5 年ニケーアで くしたような食肉目イヌ科のは乳動 開かれた宗教会議で春分の日を 3 月 物。北米から中米の山野に 19 亜種ほ 21 日に定めたことに山来するもので ど産する。オオカミはど凶暴ではな あるか , しかも太陽の移り変わる 。北米のプレーリ こシシッヒ。川 、ソハ 、、リい
6 3 6 現 , その魂そのもので , 宗教の実体 ものであることは , はとんどの定義 が一致している。宗教的な感情 ( 情 は神化された社会にはかならないと 説いた。宗教はつねに集団意識の形 操 ) や行動や態度といわれるものも , をとり , 社会理想をさし示し , それ その観念なしには成しない。もち に向かって進むための動力となり ろん一般の信者がその観念を明確に とらえているわけではない。宗教は 超自然的制我の観念によって , 個人 第 知的であるよりも感情的 , 行動的な の利害を社会のそれに従属させ , 安 現象であり , 入信も大部分は習慣を 寧を保っ働きをするという。 このよ 自然に身につけ , 儀式に参加するこ うな見方ははかでもひろく行なわれ とによるので , 知的な理解により選 ている。ただし , 社会は歴史的に変 択されるのではない。自主的な入信 化するものだから , 抽象的に社会一 の場合でも , いわば全人格的に何か 般と宗教との関係を説くと現実から を求める態度が基礎になっており , 遊離する危険がある。宗教が政治上 感情や行動や態度が主で , 観念は副 の支配者に神聖な権威をあたえ , 階 次的なものとみられるが , それを客 級闘争や民族運動を抑圧する手段と 観的にみれば超自然的な存在の観念 して用いられたこともあれば , 反対 蹴鞠は正式には 8 人の を主軸とする社会意識としての宗教 の武士たちの間にまで流行した。技 に , 宗教を旗しるしとする階級闘争 鞠足 ( まりあし ) によっ て行なわれ , 見証が審 の存在が前提になっている。また宗 術的にも一定の形式が生まれて蹴鞠 や民族独立運動も少なくない。宗教 判役をつとめる。く年中 道とよばれた。流派を構えるものも 教とは , ひろく絶対とか理想とか価 が主要な地位を占めていた時代には 行事絵巻 > より 現われ , とくに藤原宗長の難波流 , 値とか , いわゆる人生問題の究極的 政治運動も創造的な文化活動も , い 藤原雅経の飛鳥井流 , 藤原為家の な解決にかかわる文化体制だとの定 わば宗教の衣をつけて行なわれた 御子左り流は有名で , 別に加茂の 義も , よく一面の真実をとらえてい こういう働きは , 現代でもまったく 氏人らが地下鞠をたしなんだと る。未開宗教などでは , 究極という 消えたわけではない。また特定の宗 教が権力と密着して排他的に絶対性 いう。 15 世紀ごろからは飛鳥井流が 明確な概念はみられないが , やはり を主張する場合には他の宗教は排除 もっとも栄えて蹴鞠道をほとんど独 神は運命の最後の決定者であり , 神 され , 信教の自由は許されない。近 〔佐藤〕 話は最高の真理であるとされている。 占して明治にいたった。 ただし , この定義によれば , 哲学も 代社会の成立に伴ってこの自由が認 しゅうきゅう蹴球フットボー められ , 思想の自由の一種として , 芸術も , あるいは政治思想も , いわ ル f 。。 tball の訳語。皮製のポールを 民主的な基本的人権の主要なものと ゆる「信念」のたぐいはすべて宗教 足でける競技の総称。今日 , 一般に みられるようになってきた。宗教の の一種とみなされることになる。 行なわれているものに / アメリカ 絶対性がそこに否定されて相対化し 方 , 神道などにみられるような習慣 ン・フットボール , 6 人式フットボ 宗教の後退と政治の進出が認められ 的な信心は宗教の範囲からはすされ ール , オーストラリア式フットボー る。市民が宗教的信仰のいかんにか るおそれがある。このような混乱を ル , カナディアン・フットボール , かわらす平等に扱われ , 近代的な国 さけるためには , 超自然的な存在の / ラグビー , / サッカー ( アソシェー 民としてひとしく一定水準の教育を 観念を宗教の定義のかなめとして確 ション・フットボーノレ ) カ { あるカ { , 日 受けることは , 近代社会が必然的に 定しておかねばならない。宗教とは 本で蹴球といえばサッカーをさすこ 要請している。だから , 政教分離 , 精神修養あるいは道徳の根源だとす とか、多い。 〔佐藤〕 すなわち政治権力と宗教との分離と る意見についても同様である。それ じゅうきょ住居 / すまい 教育と宗教との分離 , すなわち非宗 らは宗教と伝統的に深く結びついて しゅうきよう宗教宗教とは何 きたけれども , この結びつきが必然 教的な義務教育とが , 信教の自由の かということについては , いろいろ 2 本の柱とされる。そこには宗教の 論ぜられているが , 常識的には神仏 的だとはいえす , 現代ではむしろ非 宗教的な世界観やモラルが優勢にな 政治的 , 社会的平等に伴う宗教的寛 の信心のことで , 信者たちは現世利 容が強調された。しかし真の信教の 益を願うだけでなく , 人生の究極的 っている事実を否定することはでき 自由とは , どんな宗教を信じてもよ なしめくくりを求めて , 心のよりど ない。いすれにしても宗教をめぐっ いという自由を意味するばかりでな ころとし , 慰めや安心を求めること て , それを肯定するか否定するかに く , またどんな宗教をも信しない自 より二つの立場がある。ーっは特定 だとされる。ともかく宗教は人類史 由 ( 無宗教の自由 ) も当然ふくまれる の宗教を信しるかどうかにかかわり の大きな部面を占め , 各時代の諸民 近代諸国の憲法はみなこのような信 なく , 人間にとって本有的であり不 族の生活に深く根をおろして , それ 教の自由を保障し , 日本の憲法も , 可欠なものとして宗教をみとめる立 を規制し , 諸階層の切実な苦悩と願 国家神道の害悪への反省に立って , 場である。他の一つはそのような人 望とをもりこみながら , きわめて多 これ とくに厳密に規定している ( 憲 20, 間の本有性を否定する立場で , 様な発達をとげてきた。日本語の「宗 教育基本法 9 ) 。 を / 無神論とよんでいる。 教」も , 明治の初年の外交文書で英 文化の面でも , 近代以前には宗 〔宗教と社会〕未開社会などでは , 語 , フランス語などの r e 1 ig i 0 n の訳 が王座を占めて全面的な影響を及 0 宗教はその集団の文化的なわくとし として作られたもので , 明治以前に していた。生産力の発展 , 社会の、 は、祭り , 信心 , 教え , 道 , 法 , 宗 て成員に強制され , 神が連帯性の象 歩に伴ってその勢力が後退し , 科 日 , 宗門などという部分的な語しか 徴のような役を与えられている。成 芸術 , 道徳が政治と同しく宗教か 年式の儀礼などにこの関連が端的に なかった。宗教には信仰の対象とし 独立していった。近代社会では , 現われている。宗教を個人の心理に ての観念 , それに伴う特殊な感情と 学 ( 教学 ) は学問の王座から追放さ 限定して考察する傾向が有力で , 単 行動 , 儀礼および教団などの組織と て片すみのかすかな存在となった。 独な人間と絶対者との直接交通の内 いった要素があるが , その重点のお これらの変化は , 宗教が成立するネ 的経験なるものにその本質をみよう き方 , 宗教の機能や歴史についての 会的条件そのものの変化に基づい とする考え方もあるが , 宗教は全体 見方によって結論が分かれ , その全 いる。宗教的な意識を特徴づけてし として著しく社会的なものである。 体を見渡して客観的に定義すること る人間の無力感 , 不安 , 恐怖などー フランス社会学派はこの点を強調し , は容易ではない。しかし , 神仏や霊 自然に対する人間の , 社会の重圧ー とくに / デュルケームは , 宗教の社 や霊力や呪カなどの超自然的な神 対する個人の , 弱さにその基礎を 会的起原を主張し , 宗教は社会の表 秘的な存在の観念が宗教に一般的な ュ ウ シ
サンファン 4 2 7 51 年の考古学的発掘で , 聖堂が聖ペ われ , 虐殺は 26 日 ( 所によって トロの墓上に建てられたことの真実 月半ば ) までつづき , 新教徒の 性ははほ、確証された。 / 教会堂建築 こ上の首領コリニー提督をはしめ ( 図 ) - の人々が殺された。 / ュグノー 〔石川〕 サンビエー′レ〔島〕 Saint Pierre 〔木村〕 ニューーファウンドランド南方沖合に ンビア Zambia アフリカ南 ある小島。北西にならぶミクロン 内陸にある共和国。面積 746256 M ique lon 島とともに , フランス領 人口 3409110 ( 1963 ) 。首都はル サンピエーノレ・ ミクロンを形成し , もと英保護領で北ローデシア 総面積 26km2 , 人口 4362 ( 1962 ) 。中心、 1953 ~ 63 年に南ローデシア , はサンピエーノレ。グランドノヾンクス サランドとともにローデシア・ を中心とするタラ漁の根拠地で , と サランド連邦を形成していたが くに 18 ~ 19 ・世紀に栄えたが , 現在は 1() 月 24 日英連邦内の共和国とし サン・ピエトロ聖堂正 衰えた 〔戸谷〕 作歌詞 54 を含む 483 編からなるくさ 立した。そして / ローデシアと 面とオペリスクを中央 さんびか賛美歌広義には , キ んびか > が刊行された。明治時代に 境を流れるサンベジ川にちなん 2 基の噴水を配す リスト教で用いられる声楽曲の総称 「ザンビア」と改称した。ザンべ は賛美歌が日本における西洋音楽の るサン・ヒ。工トロ広場 であり , 狭義には , 宗教行事に参集 ーっの中心をなしたが , その後 , し域などを除き , 国土の大半は森 する一般会衆によって自国語で歌わ 般音楽文化の発展に伴って , 賛美歌 おおわれた高原で亜熱帯的気候。 れる単純な宗教歌曲 , あるいはロー もさらに音楽的に向上する必要にせ 、民はノヾンツー黒人で 6() 以上の部 まられた。その結果 , 新教各派の代 マ・カトリック教会のラテン語の典 ヾあり , 言語も 30 以上ある。銅 , ネし文による一部の宗教歌曲をさすこ 表からなる賛美歌委員会は , 1931 年 鉛 , マンガン , コノヾルトなど サンビア ( 補 ) 1964 年 ともある。日本では , 日本基督 ( キリ に新しいく賛美歌〉を編集した。全 ム産が多い。 〔前田〕 1 月総選挙を行なって スト ) 教団編の宗教歌曲集をさすこ ンビエトロ S a n P i e t ro ロ 6 ( ) 4 編の中には日本人の創作歌詞 70 統一民族独立党 , アフ の / バチカンにあるキリスト教 とか、多い。 を含み , またはじめて日本人の作曲 リカ人民族会議が進出 , の大聖堂。カトリ、ソクの総本山。 賛美歌の起原はすでにユダヤ教に も採用した。第二次大載後ふたたび カウンダ ( 1924 ~ ) を とはコンスタンチヌス帝が使徒聖 みられるか、 , キリスト教がヘレニズ 首相とする統一民族独 改訂委員会が組織され , 54 年には新 立党の単独政権が発足 ム文化と結びついたときには , ギリ トロの墓上に建てた 5 廊式バジリ 編く賛美歌 > が作られた。 これは旧 した。議会は一院制の 杉式の聖堂 ( 326 献堂 ) であった。 シアのヒムノス hym no s ( 賛歌 ) から 編を検討 , 取捨 , 修正し , さらに新 国民議会。経済の基盤 影響を受けた。 4 世紀ころからロー ネサンス初期に法王ニコラウス 5 作も加えて全 567 編となし , 歌詞も は鉱産物 , とくに銅は マ教会の支配下ではラテン語賛美歌 が改築に着手したが , その死によ 平易に改められたものである。一方 , 588 川 ( ) ( ) トン ( 1963 ) で が中心、になったが , すでに 9 世紀こ 中絶 , 16 世紀初めになってユリウ 聖公会では成文祈疇し書を用いるた 米 , チリに次ぎ世界 3 2 世カゞプラマンテの設計によって ろからドイツ語やイタリア語も用い 位 , 英国系のローデシ め , その賛美歌も礼拝様式によって ア・アングロ・アメリ られ , 世俗歌曲の宗教歌曲への改変 麋工事を開始した ( 1506 ) 。それは 限定され , 現在では 1922 年に編集さ カン会社グループと , も試みられた。宗教改革の結果生し リシア十字形のプランにドームを れたく改訂古今聖歌集 > が用いられ 米国系の口一デシア た新教諸派のなかでは , ルター派が こ設計であったが , 彼の死後 , ている。 〔角倉〕 ン・セレクション・ト オ 1 ( ) 世はラファェロを建築主任と ドイツ語による / コラールによって サンビターレ San Vita イ ラスト・グループによ さらにその死後 , ベルツツィ その後のドイツ宗教音楽に大きな影 タリア北東部海岸の古都ラベンナに って独占採掘が行なわ トニオ・ダ・サンが口をへてミ 響を及は、し , 一方 , 聖公会 ( 英国国 れている。 1963 年度の あるキリスト教聖堂。ュリアヌス・ 鉱産物総額は 1 億 2522 ンジェロか、この地位についた 教会 ) その他の英国諸宗派も独自の アルゲンタリウスカゞ殉教者聖ビター 万ポンドにの : よった ランジェロはプラマンテの案に 賛美歌を数多く創作して , 現在の新 レのため 6 世紀初め ( 525 ~ 547 ) に建 住民はアフリカ系が づきながら最終的設計を完成し , 教賛美歌の基礎を築いた。とくに 19 てたビザンチン様式の代表的建築。 7 ( ) % 以上 , 他はヨーロ ) 3 年ひとます落成したが , その後 , 八角形のプランをもち , 8 本の柱で 世紀の聖公会と米国諸派の果たした 、冫・ノヾノ、 インド人など。 ウノレス 5 世はマデノレナの設計によ 中央のドームをささえた集中式のレ 役割が大きい。その後 , 現在までに てギリシア十字の中央会堂式プラ 各国各宗派によって多数の賛美歌集 ンが造の会堂で , 内部をきらびやか を伝統的なラテン十字の長形会堂 に飾るモサイク画は , ュスチニアヌ が編集されたが , そこには , 創作歌 プランに改め , 16 ( ) 7 ~ 14 年十字の 曲ばかりでなく , 中世ラテン語賛美 ス帝およびテオドラ皇后や , 旧約聖 の部分を延長 , さらに前廊および 歌の自国語訳や民謡旋律の転用もか 書関係の題材を扱い , ビザンチン風 な正面を完成 , 旧バジリカ献堂 の華麗な色彩 , 図像の様式化ないし なり含まれている。日本における賛 ) ( ) 年祭にあたる 1626 年 , ウルノヾヌ は類型的表現のうちに東方的特色を 美歌の歴史は , 16 世紀後半のキリシ 8 世によって献堂された。なおそ タン渡来とともにはしまり , 当時す いかんなく表出している。〔石川〕 ニがこれに鐘塔を付 でに日本語訳の賛美歌が用いられた サンファン SanJuan 中米 , 米 巨大な柱廊をもっサン・ピエト しかしカトリック教会では正式典礼 領プエルトリコの主都。人口 451658 広場を完成した。聖堂の広さは にラテン語を用い , その音楽もグレ 16() m 2 , 長さ 211 m , ドームの直径 ゴリオ聖歌や多声部のミサなどが司 , その頂までの高さ 132 m 。内部 祭やとくに訓練された聖歌隊によ - ルネサンスからノヾロックへかけて て歌われるので , 一般会衆における 墲数の美術品で飾られている。正 賛美歌は大きな位置を占めていない。 ニによるプロンズ 、壇はベルニ これに対し , 新教教会の音楽では日 がいをもち , , こでミサをあげ 本語の賛美歌が中心であり , 明治初 のは法王に限られる。聖堂内には 年以来 , 西欧賛美歌の日本語訳とと のはか 29 の祭壇がある。 13 世紀と , 創作歌詞もかなりの数に上っ されるプロンズの聖ベトロ像の ている。明治後期にはバブチスト派 ま先は参拝信者のせつぶんによっ のく基督教賛美歌〉 ( 1889 , 96 増補 ) 滅している。ミケランジェロの やメソジスト派のく基督教聖歌集 > ( 1895 , 1900 増補 ) に続いて各派通 エタもここに納められている。地 の賛美歌集も現われ , 19 ( ) 3 年には創 こは歴代法王の墓があり , 194 ( ) ~ い第ゝ サン・ビターレ聖堂
コウノイケ 9 6 大半まら殺された窮境を切り抜け , るなどの伝承をうんだ。アンデルセ 商社や三和銀行の前身鴻池銀行を設 ンの童話でも知られる。 立 , さらに生命保険 , 倉庫 , 信託な 日本のコウノトリは渡りをしない どの事業を営んだ 〔進藤〕 早春前記のような所に枯れ枝を運ひ ごうのかわ江川中国山地を横 直径 2 m もある大きいそまつな巣を 坦る。これを昔からツルと混同し「ツ 断し , 島根県江津市で日本海に注ぐ ルの巣ごもり」「松上のツル」などと 中国地方第 1 の川。 ごうがわ」とも いい , 流長 19 ( ) , 流域面積 3859 : いった。もとは日本各地におり明治 上流を可愛川とよび , 広島県の三 時代の初めまでは江戸の町中に , 大 次気盆地で神野瀬川 , 西城川 , 馬洗 きな寺社の屋上などで繁殖した。そ 川などを集める。昔は河川交通が盛 れが明治維新後 2 ( ) 年くらいの間に乱 んで三次商人が活躍 , 沿岸の三次 , 獲され , わすかに兵庫県出石 t す郡の 粕淵 , 川本などは河港であった 鶴山にだけ残った 1921 年天然記 谷沿いに三江南線 , 北線が通し , 上 し , 周囲からの影響も受けやすい。 念物に指定されたが , 戦争のため鶴 流に多くのダムがある。 更年期障害の一次的原因は , 老化に 山のマツの巨木が伐採供出されたり 〔松山〕 こうのす鴻巣〔市〕埼玉県中央 よる内分泌機能の減退や自律神経中 して分散した。今では地域を定めす 枢の変調であるが , 老化に対する心 部大宮台地北部の市。高崎線に沿う。 特別天然記念物に指定されているか 1965 年現在で兵庫県豊岡市方面に 10 1954 年市制。人口 36526 ( 1965 ) 。中仙 理的懸念が , 二次的原因を成してい 羽 , 福井県武生市と小浜市方面に 3 る。症状の発現は , 半数以上の女性 道から日光裏街道のわかれる所に発 が閉経前に現われ , 一部が閉経と同 達した重要な宿駅で , 市場町でもあ 羽のみ生存 , それも減少傾向にある。 時に , また一部は閉経後に現われて 〔高島〕 った。中心部で製糸 , 織物 , 機械工 / ( 別刷 ) 天然記念物 いる。症状の持続は 1 年以内がもっ こうのまい鴻之舞北海道紋別 業が行なわれる。特産のひな人形は とも多く , 次いで 1 ~ 2 年 , 長いも 江戸初期から農閑期の副業につくら 市の南隅に位置する鉱業集落。住友 れ , 今は専業の家内工業となってい のは 3 年に及ぶ。 金属鉱山の操業により , 金銀を産出 る。勝願寺には江戸時代の治水功労 〔治療〕更年期障害を自覚しても , し , 金は全国総産出量の % 以上を占 者伊奈忠次の墓があり , 駅の北 1.5 治療を要する者は全体の約 40 % であ める。鉱脈は新第三系を輝石安山岩 , には農林省関東東山農事試験場が る。治療の原則は , ホルモン的回復 石英面岩が貫いた熱水性のもので より自律神経機能の失調回復におか ある。 〔尾留川〕 ある。 1915 年に発見されてから発展 こうのだい国府台千葉県市川 れる。工ストロゲン ( 卵胞ホルモン ) を重ね , 金泥青化製練法によって , やアンドロゲンのホルモン療法のほ 市にあり , 両総台地が高さ約 2 ( ) m の 金 6 % , 銀 92.5 % の祖地金として愛 か , 塩酸プロカイン静注法 , 臓器埋 がけで江戸川の低地にのぞむところ。 援県新居浜の製練所へ送られる。 没法 , 間脳照射法 , 精神療法などが 貝塚 , 古墳が多く , 国府 , 国分寺が 試みられる。 置かれた古代の中心地。里見氏 , 北 〔謝〕 こうはい光背仏像の背後につ こうのいけぜんえもん鴻池善右 条氏の古戦場 , 山部赤人が歌によん けられた光明で , 後光もともいう。 衛門江戸時代以来の大阪の富豪鴻 だ真間の手児 ( 古 ) 奈の霊堂 ( 手児奈 頭光背と身光背の 2 種があり , 前者 池家の主人の名で代々襲名。山中鹿 はこの地に住んでいた美しい娘で , は仏像頭部に , 後者は胴体部につけ 之介の子といわれる山中新六が , 摂 何人もの若者に愛され , 思いあまっ られる。 1 ) 頭光背その形から円光 , 津国鴻池村で武士をやめ濁酒を製造 て入水したという ) や真間山弘法 輪光 , 宝珠光 , 輪羯光 , 筋光 , 火 販売し , 清酒の醸造法を発明したの 寺 , 総寧寺など , 史跡が多い。交通 諂以光の 6 種に区別され , その細部 が , 鴻池家の始めである。のち大阪 の便と , 野戦砲兵隊跡の敷地に恵ま の文様でさらにこまかく分けること に進出 ( 1619 ) , 酒屋を経営 , 新六の れ , 多くの学園や病院 , 考古学研究所 もできる。このうち円光は , 如来 , 子善右衛門は回船業や両替商をはし などが建設されている。里見公園は 菩薩から明王 , 天部像にいたるま めた。 3 代以後しだいに金融業に専 江戸川をのぞむサクラの名所である。 でもっともひろく用いられ , その製 ことに諸大名との関係を深め 作も各時代におよんでいる。 2 ) 身光 〔尾留川〕 て各藩の御用 , 貸付けなどで巨富を 背挙身光ともいう。形によって一 こうのとりタンチョウに似てい 築いた。幕末期 , 幕府の財政難に際 るが , じつはサギなどに近縁な鶴鷺亥ん 重輪光 , 舟形光 , 円相光 , 火諂光の してはよく御用金を調達した。明治 目コウノトリ科の鳥。くちばしはツ 4 種があり , さらにこまかく分ける 初年 , 藩債処分で諸大名への貸金を ことは頭光背の場合と同しである。 ルより太く大きく , 頭頂は羽におお 奈良時代以降 , もっとも標準的に用 われ , 目のまわりは皮膚が裸出して 赤く , 胸にはやや長い羽がふさ状に いられたのは二重輪光であった。 西洋でも光背にあたるものとして たれ , 脚は桃赤色である樹上に巣 を造り , トビのように上昇気流に乗 オーレオールまたはマンドラがあり ! って飛び , 高い声で鳴かす , 動物質 キリストや聖者たちの身体を包んだ のみを食べるなどはツルとの相違点 が , 頭部だけのものをニンプスと称 である。東アジアのコウノトリは朝 した。 〔千沢〕 鮮 , 中国などでは姿を消し , 日本に こうはい交配生物における雌 いるものが最後の自然集団のように 雄間のかけ合わせをいう。 この雌雄 考えられる。欧州のコウノトリは東 の遺伝子型は同し場合と違う場合が アジアのと同種の別亜種で , 体が小 あるが , このうち , あとの場合をと くちばしが赤く , 渡りをし , くに交雑ということもある シュバシコウ ( 朱嘴鶴 ) の名で区別さ は両方を含めて同し系統 , 品種内の れる。秋にはアフリカに渡り翌春欧 交配を同系交配 , 違った属 , 種 , 品 州にもどる。人家近くの高木 , 電柱 , 種の間で交配して / 雑種をつくる場 合を異系交配 ( 交雑にあたる ) という 屋根の上などに大きな巣を造ってひ レ夸ツ なを育てるので昔から親しまれ , 人 同系交配をくりかえすと , 遺伝子型 間の赤ん坊はコウノトリが運んでく が固定されるため特性は維持される 1 大阪北船場の鴻池家の 店。格子造りで有名 巣をなおすために枯れ 枝を運んでいるコウノ トリと巣中の子鳥たち