ジュキョウ 6 6 1 これを要求 , 約束する場合 ( 事後収賄 なり , 膳の上をよごさないための徳 ともいう ) 。 4 ) 斡旋収賄 ( 罪 ) 公 利の袴 , 杯受が用意され , 献酬のた 務員が請託を受け他の公務員をして めの杯洗が作られた。徳利は古くは スズ製のものが正式とされ , 日常用 その職務上不正の行為をさせまたは 相当の行為をさせないよう斡旋をす として備前焼 , 瀬戸焼 , 丹波焼のも のが用いられた。一般には背が高く ることまたはしたことの報酬として 口が細く , 胴のふくらんだ形につく 賄賂を収受しまたはこれを要求 , 約 るが , 直墹用の「火がん徳利」 , 胴 束する場合。いすれの場合も受けと にひげをもつ人面をはりつけた「 - ひ った賄賂は没収し , 没収不能のとき げ徳利」 , 布袋いをつけた布袋徳利 はその価額を追徴する。なお公務員 などがある。墹の方法は墹鍋による 以外の収賄も「経済関係罰則ノ整備 直墹から , 墹徳利やちろりによる湯 ニ関スル法律」など特別法で処罰さ 墹に移った。酒の運搬には戦国時代 れることがある。 〔遠藤〕 以後ヤナギで作られた柳樽ぎが用 しゆかくいんりきゅう修学院離 いられ , この呼称は江戸時代に愛用 宮京都市左京区にある離宮。後方 された杉材の四斗樽にも通用した。 に比叡の四明岳に続くきらら坂を背 小売業者は屋号入りの貧乏徳利を使 負い , 前方に松が崎方面の山々を見 酒器鎌倉時代の古瀬 って一般家庭に配達した。酒のびん 戸瓶子 ( 左 ) と古代ギリ おろす景勝の地にあり , 日本でも有 ったが , 漢からのち清朝の末までの シアの前 9 世紀ごろの 詰が普及したのは昭和のはしめごろ 数の名園として知られる。修学院の 約 20()0 年間は , 唯一の国定の教学と 幾何学文様アンフォラ からである。中国では戦国時代以前 名は , かってこの地に建てられた寺 して歴代の士大夫の必修教養だった。 から , 爵 , 鼎こ , 尊などの酒器が陶製 の名で , 一条天皇の代に ( 986 ~ 1011 ) これは中国の王朝支配体制の思想的 あるいは青銅製で使われていた。爵 支柱であり , また中国の代表的思想 官寺になったが , 荒廃したままにな は杯の総称で , 爵位という語は君公 であった。なお , 儒教は日本などの っていた。のち後水尾上皇みすから が家臣に位を与えるときに杯で酒を 中国周辺の国に移植され大きな影響 現地で意匠し , 平松可心の監督によ 飲ませた故事から出ている。鼎も祭 を及は、した。 って , 1655 年に着工され , 59 年ごろ 具として , とくに父祖伝承の家系の に完成された。園内は上 , 中 , 下の 儒教は君臣 , 父子 , 夫婦 , 兄弟 , 象徴として尊ばれた。尊は樽の古字 三つの御茶屋に分かれるが中の御茶 月月友の五倫を教える。その中心は である。酒という字はもと酉と書い 屋は後水尾の皇女朱宮光子の草庵 祖先祭祀こいによって結は、れる家長中 た これは酒つは、の形を写したもの でのち林丘寺となり , 明治に至って 心の家の秩序で , 君臣朋友の人倫は , 上 , 下の御茶屋とともに宮内省所轄 で , はしめはその字の底はとがって 家を単位としそして家を擬制した国 いた。底のとか・つた酒器はアラビア , の離宮となった。正門をはいると下 などの集団の上下的秩序である。五 エジプト , ギリシア , ローマなどで 倫が形成する諸集団の累積の総体が の御茶屋で , 庭内に寿月観 , 蔵六庵 ひろく使われたアンフォラか、有名で 天下で , 天下は天子を最高の父とし などがあり , 東の裏門を出て南にい ある。欧州では中世以後ガラス製の ていただく。人倫の具体的規定がネし くと , 中の御茶屋に達する。さらに 杯すなわちグラスが発達した。酒樽 である。人は礼組織のなかで子 , 臣 東方の緩こう配を , 田畑を左右に などと分のきまった存在であって , には主としてオーク材やブナ材が用 低い松林などを見ながら登ると , 上 分にしたがって修身するのがそのつ の御茶屋に出る。 3 庭園中もっとも いられる。なお , 欧州から西アジア とめである。この修身の徳目が仁義 大きく , 高いところに位置している。 にかけて古くから皮袋が酒の運搬 , 展望がひろく , 中央には浴童池とよ 礼智信の五徳である。ところで儒教 貯蔵に使われていた。 / 杯〔平野〕 じゅきよう儒教孔子にはしま では , 天下万物の根源は天なので , ばれる大きな池がある。池の島には 窮邃う亭 ( 軒 ) があり , 池の南東の る教説で , はしめは民間の一学派だ 礼は天道 , 徳は天徳である。そこで 高所には隣雲亭がある。人工の美に 自然美を巧みにとりいれた点がこの 離宮の味わい深い特色となっている。 〔坊城〕 しゆき酒器酒を入れ , あるい は飲むための容器。古い時代には今 も酒器として用いられる「ひさ などの自然物や上器が酒器として用 いられたと思われる。平安時代には 今も神祭に用いる素焼きの瓶子ざ、か 使用された。中国風のものもあって 胡瓶ミぃ , 俗に唐瓶子とよばれた。瓶 子は徳利を大きくした形である。 方指鍋という鍋形のものもあリ , これが小形になってのちの銚子に 変化した。銚子には弦付きの提子 と長柄付きの湯桶 % があリ , この弦 付銚子を簡略化して燗完鍋ができた。 銚子はおもに晴れの宴席に用いられ たのに対し , 内輪の小宴では徳利が 用いられた。今も結婚式や正月の屠 蘇用には銚子を用いる。近世にな ると , 酒を墹して独酌で飲むふうが おこリ , 陶磁製の徳利と陶製の小さ な杯物 ( 猪口をよ ) が愛用されるように 古代中国の青銅製の酒 器左から尊 , 鼎 , 爵 杯洗 火がん徳利
サラシコ 3 9 1 さよのなかやま佐夜の中山静 の製品が出回っている。その用途は 県掛川市の日坂から菊川までの はとんどが食器で , 食器をおく受ざ 東海道の坂道。小夜とも書く。道 ら ( 台ざら ) にも使われる。形や大き 石畳が敷かれ , 付近は樹木におお さは用途によって多種多様であるが れて昔のおもかげを残している。 ふつうは円形である。円形のものは 説で名高い夜啼き石や妊婦塚があ ろくろで作られ , 異型のものは型を 。昔から詩歌や紀行文にかかれた 用いて作るので , 型ざらの名がある。 海道線金谷駅から 3km 。〔伊崎〕 日本ざらには型ざらが多く , 図柄に さよりサヨリ科の魚。東京では 変化があり , 全面に装飾したものが くに大形魚をカンヌキサヨリ , 上 目だっ。西洋ざらはたいてい白地で でヨド , 高知でサェリ , サイチな 装飾は少ないが , 位置ざら , 肉ざら , という。背びれ 16 軟条 , しりびれ スープざら , ノヾンざらなど , それぞ 軟条 , 体は著しく側偏された帯状 れの用途によって大きさを異にし , 下あごが長く , 先端は美しいだ しばしば 6 人分 , 8 人分 , 12 人分な だい色をなす。全長 40 cm に達する。 どセットになっている。食器以外の 湾の表層にすみ , ときおり川口な さらには , 菓子ざら , くだものざら , 模様を描いたものが多い。またイン にくる。体の後半部をへビのよう また装飾用の壁掛ざらや額ざらなど ドから伝わって各地に特色のあるさ 動かして群泳し , ときどき水面を があり , 灰ざら , ペンざらなど特殊な らさが生まれ , ジャワさらさ ( ロウ染 びはわる。 4 ~ 7 月ころ沿岸近く 用途のものもある。 / 食器〔平野〕 めが多い ) , ベルシアさ・らさ , シナさ 海草などに卵を産む。日本全土に らさなどがある。日本には室町時代 。サ・ラ工ボ、 Sarajevo コ - ーコ・ス し , わんだわ , さしみ , すしなど の末に輸入されて珍しがられ , その ラビアを構成する共和国の一つポス 使われ高価である。 技法は日本の染め物に大きな影響を 〔安田〕 ニア・ヘルツェゴビナの主都。人口 与えた。生地は主として綿布を用い 175424 ( 1961 ) 。ジナノレ・アノレプス丘 サヨリ 陵中の盆地に位置し , 産業 , 交通の るが , 絹織物の絹さらさ , 羽二重さ らさもある。用途はふとん地 , ・帯地 , 中心。製材 , 金属加工 , 電気機器 , ふろしき地 , 羽織裏 , 下着地のはか , 紡績 , 皮革 , 食料 , タバコなどの工 テープル掛けその他のおおい布など 場がある。皮や木皮から作るしゅう さら皿食物を盛るために用い たんが有名。大学 , 図書館 , 博物館 に用いられる。なお , さらさの語源 平たく浅い器。古くは盤の字を書 などがあり , イスラム教寺院が多く はポルトガル語説 , インドの地名説 , 亠売して「ばん」ともいった ジャワの古語説などがあるが , はっ 残っている。市は 13 世紀から史上に くは本の葉 , 木片 , 平らな石など きりしない。中国名に由来する華布 , あらわれ , 144 ( ) ~ 1878 年トルコ領 , 食器として用いたが , これがさら 印華布 , シャム ( タイ ) から伝来した 1878 ~ 1918 年はオーストリア・ノ、ン はしめの形といわれる。日本でも がリー - 帝国領となった ので , シャム染め , シャムロ ( 抄室 ) ーのような容器は早くから使われ , 〔サラエボ事件〕 1914 年 6 月 28 日 , 染めなどの異名でもよばれる。 / 染 に史時代の上器に , すでに今日のさ セルビア人の 1 青年か、 , サラエボで め物 〔小川〕 つの原犁ともいうべきものが見られ オーストリアの皇太子フェルジナン サラサーテ Pablo de Sarasate 。上代の延喜式には , 材質によっ ト夫妻を射殺した。オーストリア政 1844 ~ 1908 スペインのノヾイオリン : 上盤 , 木盤 , 陶盤 , 瓷し盤 ( 磁器の 府は , この事件をセルビア政府の責 奏者 , 作曲家。幼時からノヾイオリン ら ) , 銅盤 , 銀盤 , 朱漆盤 , 黒漆盤 , の神童として注目され , 12 歳から 4 任に帰し , 両国の開戦は , 第一次大 彡状によって大盤 , 中盤 , 高盤 , 枚 年間パリ音楽院に学んだ。卒業後演 戦の発火点となった。 / 世界大戦 小盤有蓋麻笥盤 , 用法によ 殳ひら 奏家として立ち , 世界各地でその甘 〔相場〕 ルばん , って水盤 , 粥お盤 , 片粥盤などの名が 美な音色と超人的な技巧でバガニ サラゴサ Zaragoza スペイン 也え , 正倉院御物の中には , 金属製 ニの再来とまで賞賛された。作曲面 北東部 , アラゴン地方の都市。人口 つ精巧なさらや彩色した漆器ざらな でもその特色を生かしたはなやかな 35 ( ) 524 ( 1964 ) 。エプロ川にのぞみ , バイオリン曲を書いたが , なかでも ゴカゞ残っている。その後しだいにさ この地方の商工業 , 交通 , 文化の中 つは陶磁器のものが中心を占めるよ くチゴイネルワイゼン > はもっとも有 心、地。ゴシックのセオ , . バロックの 名である。 ) になり , その形体も平底のものか ピラール両聖堂などがあるはか , ア 〔角倉〕 成形後に高台をつける「つけ ルハフェリアなどアラブの建造物も サラサ、一′レ Antonio de OIivei- 多い。その他 15 世紀末創立された大 第台」式のものにすすみ , さらにはし r a S a 信 z a r 1889 ~ ポルトガ うからろくろの上で削りあげる「削 学がある。サルドゥーノヾとよばれた ルの政治家。コインプラ大学を卒業 , 先史時代のイベロ族の都市であった ) 高台」式のものに発展した。しか 1916 年同大学の経済学教授 , 26 年カ ー陶磁器のさらの使用がひろく民間 が , ローマに占領され , 軍事基地と ルモナ将軍のクーデターのさいに蔵 こ普及したのは江戸時代のことで , 相となって政界に進出。 32 年首相と なった。のち西ゴート , ムーア人に 7 世紀以後である。中国ではすでに なり , 独裁政治を開始し , 33 年ポル 征服されたが , 1118 年アルフォンソ 時代から , りつばなさらか、焼かれ トガル共和国憲法を制定して国民議 1 世によって奪回され , アラゴン王 ( おり , 宋時代になって技術の完成 会に対し勧告を行なう組合会議の制 国の首都となった。ナポレオン戦争 度を定めた。蔵相 ( 1928 ~ 4 ( ) ) , 陸相 いみた。一般に大さ、らを盤 ( パン ) と のときのサラゴサの根強い抵抗は史 小ざらを牒 ( ティエ ) とよんで ( 1936 ~ 44 ) , 外相 ( 1936 ~ 47 ) を兼ね , 上に有名である。 現在国民連合を率いて事実上の独我 、る。西洋でも古代キ・リシアの昔か さらさ更紗さらさ模様を現わ 〔吉永〕 制をしいている。 つ上器質のさらか、焼かれていたが した染め物。さらさ模様は , 主とし 産にはいったのは 17 世紀以後で , さらしこサラシ ( 晒 ) 粉漂白粉 て暗色を用いて草花 , 人物 , 動物 , 線 条などを幾何学的紋様として全面に くべイン , イタリア , フランス , ド ともいう。白い粉末で塩素に似た強 「ツ , 英国などの製品がすぐれてい 現わしたもの。型紙捺染 , 機械捺 いにおいがある。主成分の化学式は 染 , ロウ染め , 描染めなどの染色方 さらの材料はおもに陶磁器であ C aC い ( ) C い・ H 2 ( ) であるとされる しかし木工品 , 金属製 , ガラス 法がある。インドを本場とする外来 カ { , 正しくは , C a C し C a ( ( ) C い 2 のもあり , 最近ではプラスチック の染め物で , インドさらさは綿布に花 2 日 2 ( ) である。強酸化力を有し , 水 更紗 18 世紀のインド の作品。白地をバック に緑とえんし色を主調 にして立木手 ( たちき で ) とよばれる枝をは った花の模様を手がき によって染めたもの サラサ サヨナキドリ
6 2 6 いた。後者は唄い物の系統で , 江戸 時代初めに石村検校うなどによっ 一下り 六下り て , 小歌や踊り歌を集めて独立した 三味線音楽として三味線組唄が作ら 元のときに起こった中国の / 三弦 これは元禄のころになって長 れた ( 弦子 ) が明の初めに琉球に伝わり , 唄や端唄に発展し , とに江戸で 室町時代の末に日本に渡って改良さ は歌舞伎と結びついたり , あるいは れたもの。伝来については , く糸竹初 遊里でもてはやされて世にひろまっ 心集 > ( 1664 ) , く糸竹大全ーー大怒 これに対し , 京阪地方では , お た。 佐 > ( 1687 ) その他の書によって種 もに検校 , 勾当などの盲人たちに 種の異説が行なわれているが , 最近 よって / 地唄として存続 , 発達した の学者の研究を総合してみると , 永 語り物系統に属するものは , 河東 , 禄年間 ( 1558 ~ 70 ) に貿易船によって - 中 , 常磐津 , 富本 , 新内 , 薗八調 九州の博多や泉州の堺に琉球の / 蛇 ( 宮薗 ) , 義太夫などの浄瑠璃の各派 三味線の演奏 ( 三味線は常磐津のもの ) 皮線 ( 三線 ) が伝来したという説 と説教節 , 浪花節など , 唄い物系 が妥当であろう。 これを琉球で古く 統に属するものは , 地唄 , 長唄 , 端 は「しやみせん」とよんだことは , 台上にのせて奏することがある ) , 胴 唄 , 歌沢 , 嶽江 , 小唄ならびに流行 同地の古謡くおもろ > の中の「歌と ミ味線は江戸 歌 , 民謡などである。 を右ひざにのせ , 撥をもった右腕先 しやみせんの昔はしまりや・・・・・・」に 時代初期までは悼も細く , 胴もかな で胴の上を押え , 左手で棹の勘所を りへんへいであったが浄瑠璃や地唄 より推測される。日本でもひろくし さぐりつつ , 撥で撥皮の上にある弦 ゃみせんとよんでそれに三味線の文 などの発達に伴い , 悼も太く胴も厚 の部分を打つようにして弾する。は このはか古書には , 沙 字を当てた。 くなってきた。大別して太棹 , 中悼 , かに撥先で弦をすくう方法 , 左手の 弥仙 , 三美線 , 三尾線 , 三尾前など 細悼というが , 太棹は義太夫節 , 説 指先で弦をはしいたり , 摩擦したり の書き方がみられる。また江戸時代 する方法などがある。なお小唄の伴 教節に , 中棹は地唄 , 常磐津 , 清元 初期の学者の間では三線とも記され , 奏の場合やとくに静かに楽しむ場合 などに , 細棹は長唄 , 小唄 , 河東節 文語としては「さみせん」と記すこ などに用いられる。義太夫節の三味 などには撥を用いすに右手食指のっ めで軽く弾する。これを爪弾とよ とも行なわれた。また中国語をその 線は , とくに悼も太く胴も大きく , まま使用して三弦ともよんでいる。 ぶ。また同し目的のために作った小 河東節の三味線はとくに細い。もち 蛇皮線は伝来当初主として散所法 形の撥を用いることもある。 ろん , これらは悼の太さばかりでな 師や , 琵琶法師などの盲僧によって 三味線では大きな撥で撥皮にあた く , それに比例して棹の長さ , 胴や 演奏されていたが , 漸次改造されて , 撥や駒の大きさ , 胴皮の厚さも違っ るように演奏することによっていわ ている。三味線の全長はだいたい 1 ヘビの皮も , 強くて手に入れやすいネ ゆる撥音が出る。このために三味線 コやイヌの皮に代わり , 撥を用いて は旋律楽器のはかに , 種目 , 流派に m , その各部の名称は図のとおりで 弾奏するようになった。現在の三味 ある。棹というと広義には胴以外の よって差はあるがリズム楽器の役目 すべての部分 ( 海老尾から中子先 線の形は , ほは、安土をち桃山時代に定 ーの糸をわ も果たしている。また まで ) であるが , 狭義には乳袋 まったと思われ , 江戸時代にいたり , なかこ ざと上駒からはすし , 乳袋の部分 さき 各三味線音楽の発達とともにそれぞ から鳩胸品までの部分をさす。最近 を細工して , さわりといわれる三味 の改良型には , 少しでも高い音を出 れ定型化されていった。三味線は初 線特有のさびた音を出している。 めは , 一方では琵琶法師が琵琶のか 味線の調弦法は , もっともふつうに すために鳩胸を湾曲させす棹の表面 わりにこれを用いて物語り , また を胴のところまで延ばしたものもあ 用いられるものとして本調子 , 二上 方では , 当時流行の小歌や踊り歌の る。悼と胴の四辺はケヤキ , クワ , り , 三下りの 3 種があり , まれに 伴奏に用いられた。前者は語り物と 二メリ ) が カリンなどで作るが , 紅木を最上 下り , 六下り ( 三三下り , 用いられる。このほかにも特殊の曲 とし , シタンがこれに次ぐ。糸巻に はときとしてぞうげが使用される。 に限って用いられる調弦法もある。 海老尾 皮はネコ皮を上等とし , 下等品には ただしこれらの調子は演奏者の声の 高低に応してその音高を定めるため , イヌ皮を使用する。ネコ皮の場合は , 西洋楽器や雅楽器のように絶対音高 1 匹から 2 枚取るので 4 個の乳こん を固定しない。なお多くの三味線を が表皮にみえる。そのためネコの皮 合奏する場合に , とくにその旋律を 製のものを「四つ」といったりする。 装飾する目的で高音を出すようにす 弦は絹糸で一の糸がもっとも太く , ることがある。すなわち悼の途中に 二の糸 , 三の糸と細くなる。駒はタ ケ , 水牛角 , またはぞうげで作る。 ( ふつうは上駒から弦長のイのとこ ろに ) 「かせ」と名づける小さな金属 弦を弾するために用いる撥はツゲ , 片を結び付けて弦の振動部分を短く カシ , 水牛角 , またはぞうげなどで 作り , 全長 2 ( ) ~ 22cm , 上端の開き 7 ~ する。これを上え調子とよび , それに 1 ()cm である。なお棹は 1 本の棒で作 対して基本の調子をもったものを本 手とよぶ。本手の本調子 , 二上り , られるものを延べ棹と称し古来の形 三下りに対してそれぞれ上調子の二 であったが , 携帯に便利なためにそ 上り , 三下り , 本調子を用いるのが れを 2 本あるいは 3 本に分割して ふつうである。従来は三味線は歌声 ( ときとして 4 ~ 6 本に分けたものも ある ) 弾奏の際それを継ぎ合わせて の伴奏に使用し , 箏のく六段 > と合 用いるものが多く使われ , これを継 奏することなどもあるが純然たる器 楽曲はきわめてまれである。しかし ぎ悼とよんでいる。三味線を弾奏す 地唄や長唄などには歌の途中にかな るには , 正座し , またはいすに腰を これを地 り長い器楽の部分があり , かけ ( 大薩摩ま節では立って右足を ン セ ャ シ 本調子 三味線の調弦法。各弦 間の音程関係が定めら れていて , 音高は演奏 者が適当に定める。し たがって絶対音高をあ らわすものではない 三下り 巻蔵駒 糸糸上 乳袋 三味線の 各部名称 鳩胸 撥皮 根緒 胴掛 中子先
コート 2 2 6 トという名称が伝わったのは明治 用とされる。 7 ) ト の半ばごろで , ます / インバネス ( と 半身をおおう程度のコートの続、 んび ) が流行しはしめ , また婦人が外 おもに防寒用とされ , 地賢はオ 出用に着るようになった細えりの道 ーコートに準じる。略してト 行合羽が東コートと名づけら ともいう。 8 ) トップコート れて流行した。フロックコート , モ 着る合コート。季節感のはっき ニングコートが男子の礼服として ている日本ではスプリングコ 用いられるようになったのも明・治の いいならわしている。オ 半ばごろからである。 トよりい布地で , 防寒が目的 〔種類〕現在使用されているコート いため , 打合せのないもの , え は , 用途 , 形 , 材料などによって各 ないもの , そで凵の広いものな 種あり , とくに婦ノ、のコートは下の る。 9 ) トレンチコーート ドレスと関連して変化に富んでいる は塹壕の意味で , 第一次大戦 が , 代表的なものをあげると次のよ い , 英軍が塹壕生活用に考案し うである。 水コートが起原である。形は活 - で , 前はダブルの打合せ , 右肩 : 1 ) アルスター打合せが・ダブルにな 布の当て布が付き ( 最近は肩全イ リ , 後ろ中央すそにスリソト ( 切込み ) 2 重におおうような形も多い ) べ か、はいり , ボタン留めになっている 締めになっている。防水加工し 男子用コート。アイルランドのアルス ター産の生地で作られたところから 地を用いる。川レヾルト七分 この名がある。 2 ) オーノヾーコート のゆったりした婦人用コート。 防寒の目的で着用するコートの総称 プリンセスコートウェストあ コ , ー - ト coat もっ ( / ォーバーコート ) 。 3 ) サーコート まで身体にそわせ , それ以下を とも外側に着 用される衣服の総称。防寒 , 防暑 , 背広の上着よりやや長い男子用のコ せたスタイルで , 婦人コートの 防雨 , 防しんのため , あるいは装飾 ト。ステンカラーのえりで , 前を 形である。 12 ) ポックスコート 的な意味で着用される。 一般にはレ 体が箱のような感しのするコー ー留めにし , 胴をベルトで締 インコートやオーノヾーコーートなど外 めることが多い。学生や労働者が愛 総称で , 基本型の一つ。とくに とうの類をさすが , l-. 着やジャケッ 用している。 4 ) ダ、ツフルコート打 いかった服が流行した第二次大、 トの類もコートであリ , サックコート 合せカ { ダブルで , ひも留めになった 後によくみられた。 13 ) ラグラン ( / 背広服 ) , / フロックコート , / モ 短いスポーツコートで , すきんが付 トふつうのそで付けではなく ーングコート , スワローテールド くことが多い。本来は , あらいウー り付けからそで下にかけて , 斜め コート ( / 燕尾服 ) などがある。コ 切り替えられたそでをもったコー ル地で北欧の漁夫が用いたものであ ートの歴史は古く , はしめは寒さか の総称で , 基本型の一つ。 14 ) リ ったが , 軍隊用としてとりいれられ ら身を保護する目的で , 毛皮をまと ーシプルコート両面仕立てのコ た。ボタンは木製浮き状のものを用 っていたと思われる。今日のコート トのことで , 表裏どちらを表に いることが多い。 5 ) ダスターコート の形であるそで付外とうに相当する も着られるコートをいう。デザイ ちりよけに着る軽いコートの総称。 ものは , 古代ベルシアの遺跡の壁画 のくふうや布地によって 1 着で 2 コートの代表的なスタ 材料も目的に適した目の密なギャパ にみられるカゞ , このような形式のコ イルートレンチコー の目的を果たすので便利である ジン , プロード , サージなどで , 形 ト 2 ダッフルコーート トが欧州で一般に用いられるよう 15 ) レインコート雨天に着用す も切替えの少ない , ちりのたまりに 3 サーコート 4 ・・、ノレ になったのは , 14 ~ 15 世紀ころから コートの総称 ( / レインコート ) 。 くいものがよい。 6 ) チェスターフィ ト 5 アルスター のことである。また今日の背広服に 〔和服のコート〕防寒 , 雨よけ , ールドシングルの隠しボタンで胴 リノヾーンプルコート 代表されるテーラード型のコートが をくびらせて仕立てる。上えりに黒 りよけなど目的によって各種ある 7 ラグランコー -- ト 8 できたのは 19 世紀初期で , 男子服に のベルべットを用いる。ドレッシ 男子の和服外とうはインバネスが プリンセスコート 9 みられたのが最初である。日本にコ な感じのコートであり , おもに礼装 表していて , ふつうコートとよぶ チェスターーフィ 0 2 3 和服用コートの代表的 スタイル。 1 防寒コー ト 3 道行えりの半コート 6 第 リ 9 8 2 4 7 3
シュリョウ 6 8 5 る , 無益の殺生はかたく禁しられて スポーツと しての狩猟 いる。頭がい骨や四肢骨をたいせつ にとっておくならわしもひろくみら 〔歴史〕王侯貴族が娯楽として狩猟 れるが , これは , 骨に動物霊ないし を行なった記録はたいへん古くから 神霊が宿っているという信仰に基づ ある。前 2()()0 年ごろの中国 , 前 12 ( ) ( ) くものと考えられる。 年ごろのメソボタミアではタカ狩り がすでにスポーツ化していたらしい。 日本の狩猟 縄文う式文化の時代は , 狩猟採 前 5 世紀ごろのキ、リシアではイヌを 取によって生活が営まれていた。石 使ってウサギやイノシシを網に追い 鏃 ( 石のやじり ) が多く出上するか こむ猟がスポーツとしても重要視さ ら , 弓矢が盛んに用いられたものと れていた。ローマ帝国における狩猟 考えられる。弥生ごよ式文化がはしま は多様な発展を示し , 方式も銃がな ったのちも , なおしばらくは狩猟は いだけではとんど現在の狩猟に近い 重要な生業であったと思われる。歴 ものであったが , やはりごく一音にの 史時代にはいり , 農業が発展するに 支配階級の娯楽でしかなかった。中 つれて , だんだんと衰えてゆき , 江 世欧りのシカ , イノシシ狩りはとく 引堀 戸時代以降は , 山村の住民による単 に封建諸侯 , 貴族たちが好んだスポ 独狩猟が主となった。狩猟文化のお ツである。英国ではノルマン朝時 もかげを残すと思われる共同狩猟は , 代に森林法が制定され , 王家や貴族 現在東北地方の / またぎのクマ狩り たち以外の狩猟を禁断した。このよ にわすかにうかがわれるにすぎない。 うな環境の中で英国の伝統的なスポ 小土手 ぞ 〔単独狩猟〕個人が簡単な技術を用 ーツであるキツネ狩りが盛んになる。 土 \ 手 いて行なう狩猟で , 狩人は、かりで 狩猟が支配権力の手から一般民衆の 一般の農民も行なう。鳥猟と なく , 手にうつったのはフランス革命以後 カモ場猟。上は埼玉県越ヵ・谷カモ場のため池に集まるカモの大群。 して , タカ狩り , とりもち猟 , 網猟 , である。封建制の打倒が同時に狩猟 ため池の周囲には下図のような引堀がいくつも引いてある。猟のと わな猟 , 弓猟 , 銃猟などの伝統的な 権と猟場の解放となってあらわれた きは大のぞき ( 写真中央の小屋 ) からカモの動静を観察し , 風向によ 方法がある。獣猟には , わな猟 , お リその日に使う引堀を選び , 引起網をあける。えさで誘われたおと わけである。同じことは日本にもい りのアヒルを先頭にカモ群が堀にはいったところでロを閉し , 小上 し ( 圧殺 ) 猟 , 落し穴 , しかけ鉄砲 , えるのであって , 明治維新から幕府 , 手上に待機した猟者たちはいっせいに又手網でカモをすくう。以前 いけどり , 弓猟 , 投げ柴などがある。 大名の所有していたお鷹ま場 , お留よ は網でとらえそこねたカモはタカを放ってとらせた。カモ場はほか 〔同狩猟〕クマ , イノシシ , シカ 場が廃止され , 皇室の御猟場を除い に千葉県新浜のものが知られている。写真はく日本鳥類狩猟法〉より などの大形狩猟獣に対して行なわれ , て狩猟は一般民衆に解放された。 またぎのクマ狩りをその典型とする。 せて捕える。カモ場猟で使う叉手 〔網猟〕網を用いておもに鳥類を捕 数人が一団となって , 指揮者 ( しか 網もこのたぐいである。投網は坂網 える網猟は , きわめて古くから行な り ) のもとに , 持場をきめて統制あ とか坂取網といわれ , 朝夕 , カモか、 われ , 古代オリエントや中国にもそ - 丘を越えて低く飛ぶのにこの網を投 る狩りをくりひろげる。山にはいっ の記録や図がある。現在では , 銃猟 げ , 網に包まれて落ちるのを捕える。 ている間は , 女にふれることを忌み , の発達の前に網猟はすたれつつある 日常のことばを用いす「山ことば」 猟者はそれぞれ数本の網をもち , つ が , 古来の方法はまだ各地に残り , ぎつぎにそれを投げる。熟練を要す を用いるはか , 山小屋での生活は宗 ガン , カモ , スズメなどを捕えるの 教的精進のいろあいのこい厳格なも る勇壮な猟である。 に用いられている。網猟は , 朝夕に 〔銃猟〕近代的狩猟は銃の発達によ のであった。武器としては , 鉄砲の 鳥の通路にあたるところで行なうの ほか , 現在でもやリを用い , 獲物は ってささえられている。したがって が原則である。現行の狩猟法施行規 平等に分ける ( やまわけ ) ことが多く , 則では , 猟具として , むそう網 , 張 現在では狩猟といえばはとんど銃猟 たおした獣の肝などを山の神に供え を意味するようになっている。銃猟 網 ( かすみ網を除く ) , 突網 , 投網の る儀礼 ( けは、かい ) があるなど , クマ は獲物からみると鳥猟と獣猟とにわ 4 種の網が許されている。むそう網 狩りにまつわる慣行は , 北アジアか けられる。いすれも猟大を使うのが は , 綱をひくとかぶさるようになっ ら北米につながるものが少なくない。 ふつうであるが , 中にはカモの沖撃 た網で , 捕える鳥の種類 ( スズメ , カ またぎが村をなして住んでいるとこ ち , 鳥屋撃ち , シキ、の踏出し猟のよ モ , がンなど ) によって大小が違い ろは , 近年まで , 上信越国境から東 うに猟大を使わないものもある。日 また , 1 張りの網が片方からかぶさ 北地方にかけていくつかみられたが , る片むそうと , 2 張りが両方からか 光のシカ猟は勢子苣に追わせる銃猟 その生活は , 冬から春にかけて行な である。猟大には鳥猟大と獣猟大と ぶさる双むそうがある。これを池の う狩猟をのぞくと , ふつうの山村民 鳥猟大にはポインター そばや田畑など鳥のおりるところに があり , とさして変わりはなかった。しかし , ングリッシュセッターー , アイリッシ 設け , おとりで鳥を誘いこんで一時 ドイツポインターなど に多数を捕える。張網 ( 張切網 ) はも ュセッター 上に述べた狩りの慣行のはか , 1 ) は ポインターを使う鳥猟。 のポインティングドッグ ( 指示 . た ) が 使用銃は 2 連発散弾銃 しめてこれに参加した若者に特殊の っともよく行なわれ , また捕獲量も 成年式を行なうこと。 2 ) 狩人の祖神 多い。日没後 , 池のそばや水田など が山の神の恵みを受けた由来を記し , に竹ざおを立て , その間に網を張り , 狩人職の特権を明らかにするところ 暗夜に渡ってくるカモを捕える。 の , く山立根本之巻〉などとよぶ文書 の一種に千葉県下に伝わる谷切新網 , をもち伝えていること。 3 ) 各地のま または峰越ぎし網がある。木の間に網 たぎの村の間に , 上に述べた狩りの を張り , これを開閉して , 峰を越し 慣行の著しい一致がみられること , てくるカモを捕える。かすみ網もこ などから , かってはまたぎどうしの の一種だが , 現在は禁止されている。 間に広いつながりがあり , 農民とは 突網はおもにシキ、を捕えるもので , 異なり , かならすしも一定の上地に 上端がひろがった三角形の網で , 柄 しばられぬ生活をしていたかとも考 か、ついている。これを持った数人が 注意ぶかくシギに近づき , 急にかぶ 〔鈴木〕 えられる。
4 2 4 の空軍に参加 , 各地に転戦しつつ , サンドイッチにはさむ中身はフ 運動に加わり , 社会主義的な作品も くたたかう操縦士〉 ( 1942 ) を書いた リングとよばれ , 材料としては , 多く残した。 〔飯島〕 くん製サケ , いすれも飛行士としての行動と知覚 サンドイッチ s a n d w ic h 薄く切 や甲殼類ではカニ ワシやマグロの油づけ , 酢つ、けの 器官の緊張をとおして , 人間性の豊 ったノヾンの間に肉 , 野菜などをはさ シ・バエビ , カビア , イクラなど , かさと深さ , 希望と連帯を追求した んだもの。 17 世紀に英国のサンドイ 類では牛 , 豚 , 羊 , 鶏肉 , ハム , ものである。 1944 年地中海洋上で偵 ッチ伯爵が , カルタ遊びの間の簡便 食ということから思いついたものと 察飛行中ゆくえ不明。く星の王子さ セーージ , コンビ、一フ , レノヾ・一 ま > は遺作の童話。 いうが , 同様のものは以前にもあー 卵 , チーズなど , 野菜類では生の 〔成瀬〕 て , おもに弁当にされていた まのレタス , セロリ , トマト , キ サンテチェンヌ S a i t ー E t i e n ne フランス中部、ロアール県の都市。 〔用途と作り方〕サンドイッチは作 ウリ , タマネキ、 , パセリや , 調理 人口 2 ( ) 1242 ( 1962 ) 。フランス中南部 り方によっていろいろに用いられ , たジャガイモ , ンジン , アス . ′ヾ 力。スなどを用いる。 一帯を占める広大な高原マッシフ・ 弁当用やティー ( 茶 ) 用 , 正式のレセ プンヨン用 , あるいは前菜用のもの 作り方の要点は , ノ、ンの片面に サントラルの東部に位置する。近隣 中身に調和した . バターまたはマヨ がある。正式茶会 ( ハイティー ) のサ に大炭田をひかえ , ローヌ河谷との ーズをぬって , 中身をはさみ , 味 ンドイッチは上品に作られるもので , 交通も開けているため , 製鉄を中心 中身によくしみこむように , 重わ 上質の角形ノヾン ( 俗にイキ・リスノヾン とする重工業都市として発達した という。サンドイッチ用の大きな角 わせてその上に軽いおもし ( まな 人絹などの繊維産業も盛んである。 形パン ) を用いる。・パンは耳をおと た , または本など ) を 10 分ほどお マッシフ・サントラル東部に及ばす し , 紙のように薄く切り , 薄切りの サンテチェンヌの経済的 , 文化的影 とよい。次に , よく切れる包丁で , 響は北東方のリョンをはるかにしの 冷肉 , または好みの魚員や , 野菜を ほかのにおいの移らぬよ・うノヾン切 いでいる。 はさみ , 縦横 4 ~ 5 cm の小形に切る。 専用のまないたを用いて切る。な 〔寺田〕 前菜用のサンドイッチも , この作り ノヾンは前日焼いたものを用いるか、 サンド George Sand 1804 ~ 76 方に準している。ランチ ( 昼食 ) やビ 柔らかいか , 暖かいときには , と フランスの流作家。本名はオロー に包丁を暖めてから切るとよく , ノレ・デュノヾン Aurore Dupino 身分 クニックの弁当としてのサンドイツ ンの新しすぎるときには , 冫翁蔵庫 : チは / 、ンは厚め ( ). 5 ~ 1 cm ぐらいに の違う両親の下に生まれ , 少女時代 切り , ときには耳をおとさすに用い をノアンのいなかですごした。 18 歳 入れて少しひきしめるとらくに切 る。ふつうサンドイッチはノ、ン 2 枚 でデュドバン男爵夫人となリ , 2 子 ことができる。 / ( 別刷 ) サンド の間に中身をはさむが , ときには 3 を設けたが長続きせす , ノ、リに出た 〔萩原〕 枚またはそれ以上の間に交互にはさ 作家ジュール・サンドーと同棲 ~ さんとう山東 ( ンヤントン ) 〔省〕 むものもあり ( 米国の漫画の主人公 中国東部の省。略称は魯省。面手 共著でくばら色と白 > を書いた。翌 18 が好んで食べるところからダグウッ 32 年別れたが 1533 ( ) ( ) km2 , 人口 54 ( - ) 3 万 ( 1957 ) 。省 このときに由来した 筆名 ( 男子名 ) でくアンジアナ〉くレ ドサンドイッチの名がある ) , これは は済南。中央は泰山を主峰とする リア〉などの自伝的小説を発表して ふつうの食事となる。また重わ合わ 沂山地で , その外周は華北平野の一 認められるとともに , 男装して社交 部である魯西平野 , 膠灘回廊をなし せたパンの両面を焼いたものはト メ ストサンドイッチとよはれ , ランチ 東は丘陵性の / 山東半島が海に突阯 界に進出し , 小デュマ , ュゴー 用として暖かいところを食べる。 リメ , サント・プーープ , フロべーールな している。黄河は北西部を斜めに ど当時の文人たちと交わり , かすか のほかにノヾンを巻いたロールサンド れて渤海に注ぎ , 大運河は西部の すの話題をまいた。とくにミュッセ , イッチ , さらに小指くらいの口一ル 沼地帯を貫通して黄河と交わってし ショノヾンとの恋愛は名高い。彼女に にしたフィンが一口一ルサンドイツ る。気候は海洋性で温和であるが , とって恋は生活と同義語であり , そ これには柔らかな / 、ンか、 チがあリ , 内陸にはいるにつれて大陸性を帯し 用いられる。オープンサンドイッチ のたびに自己を脱皮させて新鮮な感 てくる。平原が多く , 丘陵もよく は中身をはさます , 1 枚のノヾンの上 情をもち続けた。く魔の沼 > , く捨て子 かれて , 農業が盛んである。小麦を フランソア > , く愛の妖精〉などの美 にのせたもので / カナベに似たはな はしめアワ , コーリャン , トウモ匸 しい田園小説のはか , 自伝くわが生 やかなものである。また白と黒のパ コシ , 綿 , ラッカセイの産が多く 涯の歴史 > がある。一方 , ルソーの ンを用意して耳をおとし , 同し大き タバコ , 麻、果実がこれにつぐ。ラ 二月革命前後には政治 影響も受け , さに四つ割りにし , チーズ , ノヾター カセイは全国第 1 位 , 小麦 , 綿 , ではぎ合わせたチェッカーサンドイ バコは第 2 位を占める。また半島を ッチなどがある。これらの変形は子 中心に漁業が盛んである。鉱物資 - サンドイッチの切り方 どもたちの集まりや , 多人数のパー にも恵まれ , 山地では緇博を中心に ティーを楽しませるのにふさわしい。 石炭 , 鉄 , 鉛を , 半島の招遠ではを を産し , 沿岸には塩田が開けている サンドイッチにぬるノヾターは , 基 工業は青島 , 済南を中心に紡織 , 本的にはノヾターをなめらかにクリー 機 , 化学工業が盛んである。鉄道に ム状にしたものが用いられる。微温 津浦線 ( 天津 ~ 浦ロ ) , 膠済線 ( 青島 ~ 湯に入れたポールの中にノヾターをと 済南 ) を通し , 沿岸航路は青島 , 煙台 リ , かくはんして用いる。このはか を中心に全国各地に達している。 ヾターに果汁 , 肉類 , 卵 , 魚員 , 野 一次大戦後 , ドイツに代わって日外 菜類をつぶしたり , 裏ごしにしたり がこの省に進出し , 青島の紡織 , してまぜ , 味 , かおり , 色の異なっ 博の採炭 , 鉄道経営を行ない , また たバターを作る。まぜる材料によっ 済南事件 , 山東問題などをひき起こ からし / ヾタ て , レモンノヾタ 〔徳増〕 ガーリック ( にんにく ) バター , ェッ した。 グノヾター , アンチョビー ( イワシの さんとうきようでん山東京伝 1761 ~ 1816 江戸時代の / 洒落に第 当 塩づけの一種 ) バター カレ - ーノヾタ 読支本作者。本名岩瀬伝蔵。江戸深月 チーズノヾターなどがある。また , の質屋に生まれた。 14 歳で北尾重旧 中身によってはマヨネーズを用いる の門下となって浮世絵を習得 , 黄 こともある。 サンテチェ A 日 C
シャぐ / ン 6 0 1 に向け , 絞りをその前におくことに な被写体は平面であるフィルム面に 、レンズのいろいろ よって , 像面の湾曲の収差を少なく 忠実に再現できない。理論的にはレ するようにしてある。ピントを合わ ンズの光軸上に並」 : 被写体中のある せなくてもすむ子ども向きのカメラ ーっの平面だけか・はっきり写ること に用いる。右図の B のようにフリン になるが , 実際にはこの平面の前側 メニスカス メニスカスレンズ ( A ) レンズ ( 日 ) 対称型レンズ ル型レンス トがラス製凹レンズとクラウンガラ または後側にある程度はっきり写る 範囲がある。この前後の範囲を距離 ス製凸レンズを 2 枚張り合わせて色 収差を除いたものは同時にコマ収差 , で示し写界深度という。また一方 , 球面収差も少なく , 明るさは F 11 ~ 焦 . を合わせたフィノレム面の前後で 9 ぐらいで , 画角は 4 ( ) 。ぐらいであ も鮮明に写る範囲があって , これを マート テッサー 型レンズ ゾナー 焦点深度という。 このような深度が る。 2 ) 対称型レンズ絞りを中央に 気プロター ) ありうるのは目の機能のためである。 おいて , その両側にまったく同じ形 物体を点の集合とみなすと , 各点が のレンズを配置したもので , 構造が 絞りに対して左右対称であるから , 点として撮影されることが , 鮮鋭な ガウス型レンズ 写真を写すことになる。ところが , 両方のレンズのもっている歪曲 , 湾 气アリストス ( ドグマー ) 点が少しばかり大きくなって円とな 曲 , コマの 3 収差が互いに打ち消さ チグマト ) り ( このような円を錯乱円という ) , れて収差カゞ少ない。 3 ) ペッツノヾール 型レンズ 184 ( ) 年にオーストリアの その直径が , 25cm ( 明視距離 ) のとこ 数学者ペッツノヾールか、設計したポー ろからみて ( ). 2.5mm( 視角で表わすと 2 ' ) 以下なら , 点とみなしてしまう トレーート用のレンて。 F 3 の明るさ 航空用テレ をもっていたが , 画角は小さく 15 。 ズームレンズ ので , 画像はは、けないものに見える。 フォトレンズ である。その構成は , 前後 2 組のレ そのため人が鮮鋭な像ができたと思 う範囲が広がるからである。被写体 ンズよりなり , 前玉は 2 枚張り合わ これは写真レンズとしては最高 る。 の前後の鮮鋭に写る範囲の広いほど せた色消レンズ , 後玉は張合せでな に近いものの一つでカラー写真にと 写真の歴史 ( 補 ) ボラ い 2 枚の色消レンズである。特徴は くに適している。 7 ) 軟焦点レンズ ロイドランドカメラと ピントか、深いといい , 深いピントを は 1947 年・に E. H. ランド 明るいが , 画角がせまいので , 現在で ポートレート , 風景写真などで芸術 得るには焦点距離の短いレンズを用 が発明した写真機の商 的効果を与えるために , シャープで も映写用レンズとして用いられてい いるか , 絞りをせまくして F 値を大 品名で川秒間で印画か・ ない軟焦点効果を出すための撮影レ きくすればよい。 る。 4 ) アナスチグマート本来は非 えられるのが特徴。そ 〔解像力〕二つの点をどのくらいま ンズである。これは球面収差か , 色 点収差がないレンズの意味であるが , のしくみは , カメラの 収差の補正が十分でないもの , また で接近させても 2 点として分離して 現在では満足すべき程度に鮮鋭な像 なかに感光性のネが用 両者がともに十分でないレンズでこ フィルムをまいたネが 撮影できるかという能力を解像力と ができるように収差が補正されてい ロールと , 転写されて の効果を出す。レンズによってはレ いい , ふつう線を対象にして , フィ るレンズをさしているようである。 印画紙となる非感光性 ンズの中央部では収差を十分補正し , ルム上で 1 mm 当りにはっきり写った アナスチグマートと称するものは 18 のポジロールとがあり 周辺部では十分でないものも作られ , 線の本数で表示する。収差のない理 9 ( ) 年ごろに当時の新種ガラスのバリ 両者の中間に現像液兼 これを開放で用いると軟焦点になり , 想的レンズの十算上の解像力れ ( 本 ウムがラスを用いて作られ , 最初に 定着液の薬液のはいっ 絞ればふつうのレンズになるものも 数 ) は 商品化されたのがプロターレンズで た紙袋が 8 個つけられ ある。 8 ) 広角 ( ワイド ) レンズ撮影 ある。これには種々のものがあるか、 , ている。撮影すると , 4 ふつうの写真の場合と 5 F ス このタイプのレンズは絞って使うと のとき , カ / ヾーする画面の範囲が 53 。 同様にますネがフィル となる。スは mrn 単位で表わした光の 画面全面が鮮明になるので広角レン よリ大きいレンズが広角レンズとよ ムが感光し , これがカ 5 XI ( ) ー 6mrn ( 緑の 波長である。ス = ズになる。 5 ) トリプレット型レンズ は、れる。このレンズの最大の弱点は メラの背面のところで 光 ) として F = 8 とするとれ = 2 ( ) 0 ひろく普及しており , 現在も新しい 周辺部がひしように暗くなることで ポジロールと合わされ 本 / mrn となるが , 実際のレンズでは レンズが発展しているタイプである。 ある。 12 ( ) 。のレンズを用いると , 中 るがこのとき小さな 2 8 ( ) 本ぐらいになる。実際の解像力を 原型はクックのトリプレット型レン 央部の露出に対して画面の周辺部で 個のローーラで薬品袋の ーっカぐおしつぶされ、 テストするにはテストチャートを用 ズである。トリプレット ( 3 枚玉 ) の は 16 倍ぐらいの露出を与えないと同 2 枚の間で , サンドイ ため構造が簡単で , 安価にできるの いる じ黒さの写真が得られないので , ッチ状に展開される。 〔レンズの種類〕 1 ) メニスカスレン で多量に作られている。 F 4.5 以上 れを補正することが必要である。 9 ) こで事務器械で用い ズ写真レンズのなかでもっとも簡 テレフォト ( 望遠 ) レンズレンズか の明るさのものは鮮鋭にカノヾーでき られている銀塩拡散転 単なタイプで , メニスカス ( 新月 ) 型 る範囲 ( 画角 ) がせまくなるが , 映画 らフィルム面までの距離が , 同し焦 写法と同し原理の拡放 の 1 枚の凸レンズの凹面側を被写体 転写がはしまるが , 反 点距離のレンズの場合よりはるかに 撮影用 , 映画用レンズとして十分の 応速度 , 分解能 , 感光 焦点距離 ( mm ) 性能を発揮する。このトリプレット 短いレンズである。したか、って長い 性などが改良されてい 600 を張合せにした代表的なものがテッ 種々の大きさの画面に対す 焦点距離をもつレンズに比して , カ て , 約 1 ( ) 秒で現像 , 転 500 る焦点距離ど画角の関係 サーで , 後玉が凸レンズと凹レンズ メラの長さを短く小掣にすることが 写 , 定着が行なわれ , 400 の張合せであるため , 収差を少なく できる。長焦点レンズは倍阜を高め , 良質の印画ができあが ー判 ( 60X 90 市 m ) プロー 300 できるので , さらに広い範囲を鮮鋭 遠方のものを大きく撮影するために これを裏ぶたをあ る。 判 ( 60X60 ′′ 6 X 6 けてとり出せは・よい。 にカバーできる。テッサーは解像力 用いるカ { , テレフォトレンズを用い 判 ( 24X 36 % 35 mm 一般用 , レントゲン写 がすぐれ , 優秀レンズの一つに数え ると , はるかに小さいカメラで同し シネ 判 ( 1 8 x 24 % 真用 , 工業用などで , られている。 6 ) がウス型レンズア 効果が得られる。最近の小型カメラ 高感度と写してすぐ印 ナスチグマートの基本型の一つにガ、 では単なる長焦点レンズではなく蕈 画をみられる特徴のた ウスの作った望遠鏡の対物レンズと 遠レンズが多く用いられている。正 め急速に普及している。 同し構成のものがあり , これをガウ 確にはレンズからつイルム面までの ス型というが , 構成 E は張り合わせ 距離 ( バックフォーカス ) が焦点距離 てない 4 枚玉型である。絞りに対し よリ短いレンズである。 1 ( ) ) 焦点距離 が変わるレンズ a. アタ・ノチメント て対称型のものがあるが , コマ収差 レンズ広義には , 写真レンズの前 が大きいので , 非対称にしてカーウス 型の特徴を生かしコマ収差を少なく または後ろに凸レンズをつければ , 画角 ( 司度 したものの例にドグマーレンズがあ 焦点距離は短く , 凹レンズをつけれ 0 1 0 20 30 40 50 60 70 80 90 1 00 PX 標準 短焦点 広角レンズ 長焦点 前王交換レンズ ノきロ 200 0000 0 0 0 0
コガタ工イ 1 1 9 ごかせがわ五カ瀬川宮崎県北 、た絵巻で彩色があり , 風俗資料と ても貴重である。他にく洛神賦 部を東流して延岡市で日向灘がに 注ぐ川。流長 1 ( ) 3km , 流域面積 1816 図巻〉が米国フリャー美術館に所蔵 : 途中に五つの瀬をもつのでこの 〔杉村〕 されている。 コカイン coca i ne / コカ ( コカ 名がある。流域は古生層が主体でそ のなかに花コウ岩が噴出している。 キ科 ) の葉に含まれるアルカロイ ド。塩酸塩などの塩類として局所麻 上流部に阿蘇溶岩が流入し , 侵食さ れて絶壁となり , / 高千穂峡 , 蘇陽 砕剤に応用されるが , 毒性が強いた 表面麻酔だけに使用される。塩酸 峡の名勝をつくっている。高千穂 , コカインは 1 ~ 1 ( ) % 水溶液 , 1 ~ 2 星山はか数個の発電所がある。下流 の沖積地に立地する延岡市ではこの % 軟こうなどにして粘膜表面に用い 電力と水を利用する化学工業が発展 る。傷口など病変した部分からは吸 、収が早く危険があるので使用を避け 〔松山〕 している。 る。血管収縮作用もあるので ( ). 5 ~ 4 こがたえいカー小型映画一般に をを朝 % 水溶液は点眼剤となる。コカ葉は 映画劇場で上映される映画は , 大部 元来 , 南米の原住民にこれを興奮剤 分が 35mm フィルムを使用していて , としてかむ習俗があった。この疲労 これを標準型映画といい , 特殊なレ クールも行なわれるようになった 感を去る快活化が連用をいざない , ンズを使ったり , 70mm のような幅の その間に 16mm 映画は , フィルムの種 習慣性をつけ , 慢性中毒におちいら 広いフィルムを用いたりして特別に 類も増加し , 複製プリントもできる せる。その中毒は狂暴性 , 不眠 , 錯 画面を大きく映写する映画を大型映 ようになり , 撮影機には複雑な機構 乱 , 無力症をきたすため / 麻薬とし 画とよぶのに対して , 幅が 35mm より をもった高級機も出現し , それらを てとり扱われる。 狭いフィルムを使用するものを総称 利用して商業宣伝などにも用いられ 〔宮木〕 コーカサス / カフカズ して小型映画という。 るようになり , また 35mm で製作した 〔小型映画の歴史〕劇場の映画が新 こかじ小鍛冶能の曲名。五番 映画から縮小焼付けした 16 mm プリン しい娯楽の興行として発達しはしめ 目物。作者不明。神剣の奇特を説く トが教育方面に活用されるようにな た 198 年代の初期から , 一般の人で 前段と稲荷の霊験談の後段との 2 った 〔 8mm 映画の普及〕 1932 年にイース 段からなる。能には神仏が助けて技 も趣味として映画を撮影したり , 家 庭で映写して楽しもうとする目的に 芸武功を完成せしめるものははなは トマン・コダック社は新しく 8 mm 映 応して , 取扱いが簡単になるように だ少ないがこの曲はその珍しい例。 画を作り出して発表した。 9.5mm 映 歌舞伎舞踊に取り入れられたり , 35mm を半分にした 17.5mm のフィノレム 画では撮影用にフィルム 10 m を 1 巻 や , もっと幅の狭いフィルムを使う とし , 16mm 映画では 5() フィート ( 約 長唄 ! に作られたりしている。 小型映画が生まれたが , 1921 年にフ 15.2m ) , 1 () () フィ ト , 200 フィート 〔あら筋〕京三条の小鍛冶宗近 ( ワキ ) とい う刀鍛冶のところへ一条帝から勅使 ( ワキ ランスのノヾテ社カ { 9.5mm 幅のフィノレ 1 巻を標準の長さとしているが , ヅレ ) が立って , 帝の御剣を打ち奉るよう ムを使う , 簡単で取扱いがやさしく の 8mm 映画では 16mm 幅のフィルム 25 にとの命令が下る。宗近は有力な相づちが 値段も安い撮影機や映写機その他を フィート巻きを 1 巻とし , その片側 ないので途方にくれ , ただ神力を頼みにし の 8 mm 幅を使って撮影するもので , ノヾテ・ベビーの名で発表し , つづい て氏神の稲荷に参詣すると , 童子 ( 前ジテ ) て 23 年に米国のイーストマン・コダ フィルムに写る画像 1 コマの面積は が現われて不思議なお告げがある。やがて およそ縦 3.5 mm, 横 5 mm くらいにす ック社がシネ・コダックと名づけて 宗近は稲荷明神 ( 後ジテ ) の相づちをえて , 16mm 幅のフィルムと撮影機や映写機 めでたく宝剣を打ちあける。 〔池田〕 ぎないが , それにふさわしい微粒子 ごかしよう五個荘〔町〕滋賀県 などを発売してから , アマチュア・ の乳剤が用いられたので , 家庭など 神崎郡中仙道沿いの町。人口 8927 で比較的小さなスクリーンに映写す シネとか , ホーム・ムービーといっ ( 1965 ) 。 / 近江商人輩出地の一つと たよび方で世界中に普及しはしめた。 るかぎり鮮明な画面が得られ , すべ トロ てが小型で経費も安いので急速度に して知られ , とくに金堂地区は近 当時の 35mm フィルムは生地に 江商人の豪壮な本宅が白壁をつらね , 普及し , 他の著名な会社からも撮影 セルロースを使っていて引火性や発 / ト型映画用フィルムの 特異な景観をみせている。農業が盛 機や映写機あるいはフィルムが発売 火性が強く , 火災の危険があったの 形式とサイズ。上から んで , はかに麻織物を産し , また旭 されて普通の写真に次ぐ発展を示し 16mm, シンクつレ式 8mm, に対して , これらの小型映画用フィ ダブル式 8 mm た。さらに 1935 年にはコダクローム 地区の鋳物 ( 梵鐘 ) は古くから有名 ルムはアセチルセルロースを用い と名づけた 16mm の色彩フィルム ( 天 である。 〔小林〕 引火性がなく , 燃え方もひしように 然色 ) がイーストマン・コダック社 ごかじようのせいもん五箇条の おそい安全フィルムで , 遅燃性とも から発表されたが , これは今日ひろ 誓文明治 1 年 ( 1868 ) 3 月 14 日明治 緩燃性とも , もしくは不燃性ともい われてきた。また撮影したフィルム く劇場用の色彩映画にも使われてい 天皇が神前に誓った維新政府の国是。 「広ク会議ヲ興シ , 万機公論ニ決スへ をネがに仕上げて , それからポジを る多層式発色フィルムのもとになっ シ。上下心ヲーニシテ , 盛ニ経綸 焼き付けるのでなく , 撮影に使った た最初のものである。それ以前にも ヲ行フへシ。官武一途庶民ニ至ル迄 , フィルムが反転現像によって , その 色彩映画の試みや方法はあったが , 各齠其志ヲ遂ケ , 人心ヲシテ倦うマ いすれも撮影や映写に特別の用具が まま映写用のポジになる方法が主に サラシメン事ヲ要ス。旧来ノ陋習はう 必要であったり , むすかしい制限が なっていたので , それだけ取扱いが ヲ破リ , 天地ノ公道ニ基クへシ。知 簡便で普及しやすかった。ことに 16 あったり , また効果もよくなかった 識ヲ世界ニ求メ , 大ニ皇基ヲ振起ス のであるが , mm のシネ・コダック・フィルムは現 このコダクロームは 19 32 年から始まった興行映画用のテク へシ」の 5 カ条より成る。由利公正 像付きで売り出されて大衆化した。 ( 1829 ~ 19 ( ) 9 ) が起草し , 福岡孝弟 その後 , 世界的なフィルムエ業や写 ニカラーと並んではんとうの : 1 床の 真工業の発達にともなって , 各国か 色彩映画時代を開き , さらにテクニ ( 1835 ~ 1919 ) と木戸孝允麓とがこれ カラーが専用の複雑な撮影機と複堆 ら 9. 5mm と 16mm のフィルム , 撮影機 , に修正を加えて作成したもので , そ な技術を必要としたのに対して , コ の本来の意図は , 諸侯を新政府に協 映写機 , いろいろな付属の器具や用 品類が現われて小型映画がますます ダクロームにはどんなカメラでも撮 力させようとするにあったが , のち 盛んになり , 同好者の集まりである 影ができる有利な点があり , そのこ には立憲思想の源をなすものと評価 アマチュア団体も生まれ , 各種コン ろには 16mm の録音機や発声映写機も されるようになった 〔野〕 能く小鍛冶〉の舞台面。 後ジテの稲荷明神 ( 左 ) と , ワキの小鍛冶宗近 . 26 5 ロ 、 8mm
であり , 当時急速に発展しつつあ た自然科学と結びつくものであっ 2 ) コントの三段階説から離れ , 一般的になったものとしては , S . ミルや E . マッノ、 ( 1838 ~ 1916 ) 哲学がある。超経験的な思弁を排 , 確実な認識を経験的事実に限る 場である。 3 ) ウィーン学団の哲・学 いわれる論理実証主義。マッハの 統のうえに , 実証主義の立場に立 ながら , 論理的なものをもそのな で処理しようという立場で , 米国 はいってから / プラグマチズムの 学と結合して支配的な地位を得て 〔小松〕 邑ば 1 という記号をつけたものを同 こはこの大区分のうちの一つ , たと わにして ( ) という記号をつける。次 またがるようなものは別にひとまと いら 9 までの記号をつける。全体に ます全体をナしつに大きく区分し , 1 ある一群のものを分類するのに じっしんぶんるいほう十進分類 〔川村〕 、たい湿疹に相当する らる。なお「くさ」という俗称はだ ついては医師の指示を受ける必要が 性慢性を通して , こう薬その他に ナない。慢性湿しんの場合の入浴 , ま性湿しんの場合は入浴はしてはい 則激性の食物を避けるなどがある。 とする外用療法 , 内服 , 注射 , 禁酒 , らる。湿しんの治療にはこう薬を主 気れて薬物性皮膚炎を起こすことが 蚕すぎるこう薬をつけるとそれにか 昜合は皮膚が過敏になっているので , い認められる場合が多い。湿しんの 人または家族にせんそく , その他 しばしば遺伝が証明され , また 勺側などの慢性湿しんの状態となる , ややのちにはひざの裏 , ひしの 頃面 , 頭部の急性湿しんの状態を呈 ヒよばれるものがある。乳児期には 生湿しん ( またはアトピー性皮膚炎 ) ヒもある。湿しんの一種にアトピー 章が湿しんの原因の一部分をなすこ ヒ考えられる。いろいろの内臓の故 卞から加わって湿しんを起こすもの それにいろいろの原因か、体の内 こ湿しんを起こしやすい性質があっ につて異なる。一般にその人の皮膚 訊因は複雑であって , 個々の場合に 置状を呈することもある。湿しんの 生湿しんの一部分が , 急性のような : ・り , また皮膚のかたさが増す。慢 くなり , 皮膚表面の模様が襯大と みがある。慢性湿しんでは皮膚か・ ともある。急性 , 慢性を通じてか 、り , 表面からこまかく皮がむける にをうるおす。またかさぶたを生し またしばしば漿液がもれて患 いの小さなは、つは、つが密集して発 患部が赤くなり , そこにアワ粒く しんとに区別する。急性湿しんで い。症状により急性湿しんと慢性 を占め , とくに 5 歳までの幼児に しっしん湿疹皮膚病患者の約 5 1 5 しく九つに分けて 11 , 12 ・・・・・ 19 , と いう記号をつけ , 1 の全体にまたが るようなものは川とする。このよう に順次 10 すつに細分していく分類法 が十進分類法である。英語で deci- mal classification, 田各称を DC と いう。やや機械的にすぎる欠点はま ぬかれないが , 体系的であり , ーっ の部門と他の部門との間の対応 , 連 関がつけやすい , ある事物が全体の 中で占める位置がとらえやすい , 新 しい事物を全体の中に位置づけるの に便 , 他の分類法では避けにくい 「雑」 ( どの部門にも分類しにくいも の ) が処理しやすく , それ自体を細 分することができる , などの諸利点 があるので , 種々の分野で通に用 いる標準分類法として有用である。 日本の産業統計が採用している「日 本標準産業分類」はこの方法によっ ている。十進分類法がもっとも普及 しているのは図書館の図書分類法で ある。米国の M . デューイが 1876 年に 出版したく十進分類法 > がその最初 で , その後改訂 , 拡張が加えられ , 米国と英国の図書館ではひろく使わ れている。 95 年にプリュッセルで開 かれた書誌学国際会議は , この D C を国際的な分類法の基礎として採用 したが , その後の拡張は急速に発展 する科学と産業とに歩調を合わせる ことに主眼がおかれ , D C とは別個 これが国際 のものとして発展した。 十進分類 ( U D C ) である。国際ドキ ュメンテーション連盟の分類法中央 委員会が中心となり , 各国に支部が あって , 継続的にこの分類法の整備 と拡張にあたっている。工業 , 技術 関係の分類が精密なこと , いくっか の補助記号を駆使することによって 複雑な概念も分類表の中に位置づけ うるしくみになっていることが持徴 で , ドイツ , 英国の工業標準規格に 採用され , 日本でも日本工業規格 ( J I S) はこの方法によって分類され ているなど , 工業技術方面ではかな リひろく用いられている。日本では , 1929 年に大阪の森清によって作成さ れ , 戦前 5 版までの改訂増補を重ね たく和洋図書共用十進分類表〉が , 第二次大戦後 , 日本図書館協会の事 業として改訂され , く日本十進分類 法 > ( N D C ) 新訂第 6 版として 5 ( ) 年に さらにつづいて新・訂第 7 版は 61 年に 発行され , はとんどすべての図書館 でこの分類法を採用している。一例 としてく原子核反応 > という書物を N D c によって分類するばあいは , 4 = 自然科学 , 42 = 物理学 , 429 = 原 子物理学 , 429.5 = 原子核 , であるか らしたがって 429.55 = く原子核反応〉 〔北村〕 じっしんほう十進法数をかぞ えるとき , 十になったらひとくぎり として東にして数える方法を十進法 という。たとえは・六十五とは 10 が 6 シッセイカ と 1 が 5 ということである。さらに 十が十集まったとき百という。 ように , 十進法は 1 ( ) , 1 ( ) 2 1 ( ) 3 などの 10 のべきを単位として数える 方法である。小数の場合は , 2 , ・・を単位として数える。十進法に さらに位取法を用いると 1 () 個の数字 だけですべての数が表わされる。た とえは、 , 365.242 は 3 x 1 ( ) 2 十 6 X 10 十 5 十 2 X i0 十 4 X 朝 2 十 2 X 103 を意味する。数の記述法としては完 全なものである。位取法は前 210 ( ) 年 ころシュメル人か・用いている。束に する数として 1 ( ) をとったのは , 指が 1 ( ) 本であることがその原因であって , 数学的には 1 以外のどんな自然数を とっても同様である。一般に , 〃す つまとめる方法を p 進法という。シ ュメル人は六十進法を用いていた これが現在 , 角 , 時間のはかり方の 中に残っている。長さや通貨の数え 方の中には十二進法や六進法の混ざ っているものがある。メートル法は 十進法によってできているので合理 的である。しかし他の位取法では , たとえば七進法で三十八に四十七を 加える計算は 53 十 65 = 121 となり , たいへん計算が不便である。 ( ) と 1 の数字だけ使う / 二進法は , 電流が 流れないときを () , 流れるときを 1 とする単純な表わし方ができるので 電子計算機の計算に応用されている。 1 / 数 〔村松〕 じっすう実数有理数と無理数 をまとめて実数という。実数は有理 数の極限である。実数では四則算法 が自由にでき , 大小関係が定められ ている。実数の特徴は連続性と完備 性である。連続性とは長さのような 連続量が実数で表わせ , したがって 直線上の点と実数とが 1 対 1 に対応 することを意味する。 これは解析幾 何学で用いられる座標の導入に対す る根拠を・与えている。完備性とはど んな基本列 ( コーシー列ともいう。 m , なを大きくすれば一。れ くらでも () に近づくような数列ロれの こと ) もかならす極限をもっことを このことは解析学 ( 微分積分 学 ) にとってきわめてたいせつなとこ ろである。 〔村松〕 しっせいカ、ん執政官コンスル c ( ) ns いの訳語。古代ローマの和制 時代の最高の政務官職。統領とも訳 される。兵員会で選任され , 任期 1 年て、 , 2 名の同僚制であった。虍老 院および兵員会を主宰し , 法案を提 出し , このため法律には提案した執 政官の名がつけられた。また紀年法 のうえで , だれカ { 執政官のときとい うように , 年次を示すにも執政官の 名がつけられた。また軍隊の指揮命 令権を有した。帝制時代には実質を 失ったが , 形式的には 6 世紀はしめ まであった。なお , コンスルの称は
コウシンリ こうしんりよう香辛料薬味と も香料ともいい , スノヾイス sp i c e の 訳語である。特殊の植物から芳香と 辛味を有する種子 , つばみ , 葉 , 茎 , 樹皮 , 根などを採取し , これを乾燥 して製したもので , 飲食品とくに肉 料理に風味を付与するために用いる。 欧州の食事は古くから獣肉料理が 主であったが , 昔は保存冷蔵設備も なく , とかく鮮度が落ち臭気を発し やすいので , これを消すためと中毒 を予防するために , 香辛料は欧州人 の食事にとっては欠くことのできな い必需品であった。しかもそのころ 香辛料は欧州には産せす , もつばら インド , 東南アジアの諸島からはる ばる輸送されてきたもので , 金銀財 宝にも比すべき一種の富であった 単なる食品でなく , 宗教的意義を帯 び , 寺院や聖者への奉納品ともなっ た。また死体をミイラにする保存性 の薬料ともしたし , また高貴を表わ す香料であり , ときには媚薬でも あった。そのため香辛料に対する愛 着 , 所有欲は強く , したがって膨大 な利潤をうむ交易品として , 争奪の 対象となり , それをめぐる物語は , 歴史のうちに特異な位置を占めて いる 〔歴史〕香辛料の歴史はきわめて古 く , すでに古代オリエントでも珍重 されていたことがわかっている。 ビロニア人は植物に関する知識が豊 かで , 香辛料についての研究もすす み , 前 8 世紀末の南ノヾビロニアの王 メロダク・ノヾラダン 2 世の庭にはカ ーダモン , コリアンダー , ジーノレ , ガ ーリック , オニオン , タイム , サフ ランなどを得る目的で栽培が行なわ れていたと伝えられ , 前 7 世紀のア シュル・ノヾニ / ヾルの王室の書庫跡か ら発掘された粘土板文書にはクミン , ジール , タイム , サフラン , コリア ンダー , フェンネル , ゴマなどが見 られ , 前 4 世紀ごろにはギリシア人 カ { コショウに親しみ , ローマ人がと くに香辛料を愛用し , 遠く東洋の原 産地から輸送することを企てた。ク ロープ ( チョウジ ) も古く前 3 世紀に は中国人はロに含んで呼気をにおわ せるのに用いていたが , 欧州への伝 来は中世で , シナモン , コショウな どとともにきわめて珍重された。コ ショウは貨幣の代用になったほどで こうした香辛料の数々は , 庶 あり , 民の手にははいらなかったが , 中世 の王侯貴族 , 僧職などの争い求める ものであった。そのころ , 欧州へ東 洋産の香辛料を運んできたのは , 主 としてアラビア商人であったので , アラビアが香辛料の原産地と思われ ていたが , 実は遠く東の南インドと モルッカ諸島から運ばれてくるもの であった。したがって , それはまこ とに高価であり , たとえば 16 世紀こ ろのチョウジの価格は , 原産地の原 6 4 価をもとにして算出すると , マラッ 力で 10 余倍 , インドで 30 余倍 , 欧州 では 360 倍になったという。けだし 当時の運搬道程の至難さを物語るも ので , 未開の海陸路を各種の民族が 中継して運び , この間に難船 , 海賊 , 戦争などの危険にさらされ , そのう え各所の関税 , 税関吏への贈与 , 商 人の仲介手数料などによって欧州市 場での法外な高価がうまれたのであ る。中世におけるイタリアのベネチ アは香辛料取引の中心地となり , 繁 栄をきわめ , 今にのこるベネチアの 壮麗な建築物の多くは実に当時の富 裕な香辛料商人の邸宅であった。と ころが 15 世紀にトルコ帝国が興り , 欧州と東洋とを結貿易路を脅かし , 香辛料の欧州への供給は絶えてしま った。これが動機の一つとなって , 欧州人のインドへの航路の探索が始 まり , コロンプスの大西洋横断 , ノヾ スコ・ダ・ガマの喜望峰の迂回、か らインド航路の発見となり , かくて 香辛料はポルトガル人の独占すると このころから東南ア ころとなった。 ジアの南方 , 赤道の南北に散在する モルッカ諸島が香料諸島とよばれ , こに産するチョウジは同諸島のニ クズクとともに欧州諸国の関心を大 いに集め , ポルトがル , スペイン イキリス , オランダ間でその支配権 を得る争奪戦が行なわれ , ついにオ ランダが勝ち , その支配権を握った その後 , オランダは香辛料の価格を つり上げ , 交易を独占し , 他国の介 入を排撃するの政策をとったので , イギリスその他の諸国はこれと対抗 の策を講じた。のちイギリスの植民 政策に中心的役割を果たしたイギリ ス東インド会社も , 1600 年ロンドン の香辛料商 ( グローサー ) が集まって 創立したものであり , 当初は東イン ド諸島 ( マライ諸島 ) の香料獲得を中 心目的としていたものである。まも なく 17 世紀の初めフランスは , チョ ウジ , ナツメグ , シナモンなどを自 国の植民地に移植することに成功 , 次いでイギリスもまた自国植民地に チョウジの移植に成功するとともに 強大な海軍力でオランダの諸港を封 鎖し , さらにシナモンの生産地セイ ロン島を占領し , 香辛料の交易に優 位を占めるにいたった。次いで 18 世 紀に英領ザンジノヾルへのチョウジの 移植は大成功をおさめ , 現在ではジ ャワ , スマトラの原産地よりも多量 のチョウジを輸出するようになり , ナツメグの西インド諸島への移植も 成功した。 19 ~ 20 世紀にいたり れらの植民地ではあいついで原住民 の反抗をうけ , 第二次大戦を契機に これらの植民地は続々独立国になり , イギリス , フランス , オランダの東 洋における植民地はつぎつぎに消え 去り , 過去 450 年あまり香辛料の獲 得に因を発した争闘も治まり , 現在 では世界の各地に移植栽培の研究も すすみ , 原産地の産品よりも多量か つ良質なものを産出するにいたって いる 〔使用法〕香辛料は栄養上からは必 要ではないが , 料理に風味と芳香を そえ , 食欲を増し , 消化液の分泌を 促すのに有効である。とくに西洋料 理では欠くことのできぬものとされ ている。使用法には , 台所で調理の さいに用いる場合と , 食卓に供えて おいて , 食事する各自が好みに応し てふりかける場合とある。前者はフ ランス流とよばれ , 香辛料は原形の 葉や粒のままを求めて , グラインダ などでひいて , ひきたてを用いるの がよいとされる。後者はイギリスま たはアメリカ流とよばれ , 香辛料を 粉砕し , これに増量剤などを加えた 振り出しやすい形のものが市販され ている。この両者を料理によって適 当に使い分けるとよい。使用法の要 点は , 1 ) 芳香の強いローレル , タイ ム , セージ , ナツメグなどは獣肉や 臭みの強い魚などに用いて , 特有の 臭みを消すとともに芳香をつけるの がよく , 調理のはしめから使用する , 2 ) 芳香の弱いノヾプリカ , べッパー ショウ ) , サフランなどは白身の魚 や員類 , 若鶏肉など淡泊な材料に芳 香をそえるのに用いる。このさい 芳香が発散しやすいものもあるので , 料理のできあがる少しまえに加える ほうがよい , 3 ) それぞれの香辛料の 芳香と性質をよく知って , もっとも ふさわしい料理に使用すること。し かし表だって使わぬことが大事で , あくまでも料理の材料の味を引き立 たすための隠れた味とすることであ り , 4 ) 香辛料のなかには各自の好み にあわぬものもあり , なれぬにお いはかえって食欲を減退させること もあるので , 料理中には控えめに用 い , 食卓に供して好みにまかせるの カ { よい 〔赤岡〕 こうすい硬水 / 水 こうすい香水身体や衣類など に芳香を与えるため , 各種の香料を 調合してアルコールに溶解した液。 古代エジプトやギリシアでは , 天然 の香料を固体のままたいて香煙を出 したり , 粉末にした香粉や , それを 油脂にねりこんだ軟こう状のものが 用いられた。現在のように蒸留によ って香料を製造する方法は 10 世紀こ ろのアラビアの学者アビケンナによ って成功したという。欧州では 11 世 紀ごろから東方諸国より各種の香料 がもたらされ , ひしような貴重品と して扱われていたが , 中世には天然 の花から香料をとることが発見され た。とくに 14 世紀の後半にハンがリ ・ウォ ーで発明されたハンがリ ターは , アルコールを用いたもので , 今日の香水の始まりといえる。次い で 17 世紀になると香水が売り出され ,