ショウギ 2 1 変化をうけて , 仏像も神秘性を加え るが , 慢性となったり , 栄養失調に てくることで , 前代の写実的な奈良 移行することもある。治療としては , 彫刻や平安後期の優美な作風とは著 初期は飢餌翳療法からひきつづき適 しいちがいをみせた。材料も頭部か 切な食事療法を行なうとともに , 原 ら足先まで 1 本の木から丸彫りに作 因疾患の治療をする。多くは抗生物 られたもの ( 一木彫成 ) が多く , 衣文 質の投与が行なわれる。以上の状態 のひだには翻波式といわれている起 が慢性になって , 下痢を伴う栄養失 伏の高低が形式化された独特の様式 調症となったり , 以上の症状のはか を示している。なお日本史において , に意識障害や循環器の障害を起こし て消化不良性中毒症を起こす場合も 弘仁貞観時代の名で , ほば 9 世紀全 あるが , 育児知識の進んだ現在では 般の , 律令制再建の努力もむなしく 藤原摂関政治へいたる時代をさすこ ごくまれとなった 〔茂手木〕 しようがわ庄川岐阜県中部 , ともある。 〔千沢〕 美濃 , 飛騨国境の鷲ガ岳 ( 1672m ) 付 しようき鍾馗疫病よけの神。 近に発し , 深い谷をうがって北流し 容姿は人並みはすれて大きく , 巨眼 , 富山県側でも五箇山谷 , 庄川峡と ひげが多く , 黒冠をつけて長ぐっを よばれる谷をつくって伏木 ~ 新湊間 はき , 右手に剣を握る。伝説による で富山湾に注ぐ川。全長 146 km , 流 と唐の玄宗皇帝が熱病にかかったと 域面積 1879km2 。射水ず川ともいう。 き , 夢に現われて病魔を払ったので , 上流を白川といい , 流域に大家族制 玄宗はその姿を絵師に描かせて邪鬼 ではまれにさされている。 度と白川造りで有名な / 白川郷があ 駒数 4 ( ) 枚の現在の将棋は , 平安時 払いの神とした。これより歳末に鐘 り , 五箇山谷にもこれとよく似た部 代のふつうの将棋をもとにして , それ 馗の絵を門戸にはって邪魔を払う習 俗が始まったという。中国の民間に 落が集まっている。川は東礪波 に中将棋にはしめて現われた飛車 盛行し , のち日本に伝わり , 江戸時 と角行うの二つの駒を加えてでき 庄川町で扇状地を形成し , 二万石用 水などに分水される。下流に伏木を 代中期より端午の節供の幟に鍾馗 たものだが , その変遷の途中には , 飛 を描いたり , 日本画の画題となった 車と角行のはかに酔象と猛豹ぅ 外港とする商工業都市高岡市 , 河口 の二つの駒を加えて行なわれた時代 に新湊市がある。上流の白川には 19 またその後五月人形にもつくられる があった。後奈良天皇の時代に酔象 61 年 / 御母衣なろダムが建設され , 富 ようになった。さらに疱瘡の流行 と猛豹を除き , 今日の形態となった 時には , 朱で描いた鍾馗を門にはる 山県側にも小牧 , 祖山などのダムが またそれまでは大将棋も中将棋もす ある。庄川峡には静かな大牧温泉が ふうも行なわれた。謡曲のく鍾馗 > は , 鍾馗伝説に取材したものである。 べて駒は取り捨てであったのが , 今 〔門村〕 ある。 しようかん韶関 ( シャオコワン ) 日のように取った駒をふたたび使い 〔山田〕 うる制になった 中国 , 広東省北部の都市。曲江とも こうして室町時代 しようぎ将棋室内遊戯の一種。 中国では象棋 ( あるいは象戯 ) と書き , 末期にできた新しい将棋は , 次の安 よばれる。北江 ( 珠江の支流 ) の上流 上佻山時代に大橋宗桂記と本因坊 濆水 , 武水の合流点に位置し , 粤 日本でも江戸時代までは象棋 , 象戯 算砂の 2 人の名手が同時に現われ , と書いた。現在 , 将棋は世界各地に 漢線 ( 広州 ~ 武漢 ) が通するほか , にわかに発展の度を早めた 。冢桂は もあり , 中国をはしめ朝鮮 , モンゴ の地まで内河汽船の航行が可能であ 徳川家康が幕府に将棋所という機関 ル地方でも行なわれ , 西洋には / チ る。また江西省 , 湖南省 , 広西チワ を設置すると , その司芒に任ぜられ , ェス ( 西洋将棋 ) がある。中国の将棋 ン族自治区への公路が集まり , 省の 北の門戸をなし , 付近物資の集散地。 は丸い駒を用い , 駒数は敵味方で 禄を与えられた。以来彼はこれを職 32 枚 , 朝鮮のものは八角形の駒を用 日華事変中 , 一時広東省政府が置か としながら次いで名人となり , それ れた。人口 20 万。 い , 他は中国のものとはとんど変わ 〔徳増〕 がついに専門棋士の発生となった じようがんじがわ常原頁寺川富 らない。モンゴルのものは駒の名か、 江戸時代を通して宗桂を祖とする大 山県東部立山から流出し , 真川 , 和 全部獣になっている。 橋本家 , 宗桂の次男宗与を祖とする 田川 , 称名川の支流を集め , 上新川 〔起原と歴史〕将棋に類する遊びの 大橋分家 , 大橋家の門人伊藤宗看を 郡大山町付近より下流に広大な扇状 発祥地はインドで , それが西に伝わ 祖とする伊藤家が長く続き , これを 地を形成して富山湾に注ぐ川。長さ ってチェスとなり , 東に伝わって中 将棋家元三家とよんだ。歴代の名人 国の将棋になったといわれる。中国 は , それらの家からだけ選ばれ , 次 56km 。荒れ川で洪水も多く , 上流か ら岩石 , 土砂の流出が激しく , 大山 から日本への伝来は , 奈良時代から の 1 ( ) 人を数えた。 1 世大橋宗桂 , 2 町から下流は天井川となっている。 平安時代の初めにかけてのころと考 世大橋宗古 , 3 世伊藤宗看 , 4 世大 富山平野東部の水田に三郷用水など えられる。平安時代には将棋の駒の 橋宗桂 , 5 世伊藤宗印 , 6 世大橋宗 かんがい用水を送っている。有峰盆 名はすでに全部日本式になっており , 与 , 7 世伊藤宗看 , 8 世大橋宗桂 , 地を中心に電源開発が進められ , 既 伝来のあと日本独自のものに改めら 9 世大橋宗英 , IO 世伊藤宗看。この 開発 20 ヵ所 , 最大出力 39 万 kW に達し れたものと思われる。藤原頼長のく台 家元三家以外の民間棋上はいすれも 〔谷口〕 記 > 康治 1 年 ( 1142 ) 9 月 12 日の条に ている 素人とよばれ , 名人はおろか準名 「新院に参し , 御前にて師仲朝臣 じようがんじだい貞観時代平 人 ( 8 段 ) にもなれなかった。明治維 安時代前期をよ京日本美術史の時代 と大将棋を指して余の負け」とある 新になって将棋家元は禄を離れ , 将 のが文献の初見である。とにかく平 区分用語 , とくに彫刻史で用いられ 棋界は袞徹の一路をたどったが , そ 安時代には駒数 68 枚の大将棋と , 駒 ることが多い。中心となる清和天皇 の間にあってもなお 11 世伊藤宗印 , 数 36 枚の将棋の 2 種が存在し , さら の貞観年間 ( 859 ~ 877 ) からとられた 12 世小野五平の 2 名人を生んだ。明 に南北朝時代にいたって駒数 92 枚の もので , 嵯峨天皇の弘仁年間 ( 810 ~ 治末 , く万朝報〉が率先紙面を提供し 824 ) をとって , 弘仁時代とよふこと 中将棋が生まれた。室町末期に近い て新聞将棋を掲載するに及び , よう 山科言継の日記には , 数多く中 もある。もっとも両年間の様式は , やく棋界復興のきざしがみえ , 万朝 厳密にはかなり変化 , 相違している 将棋をさしたという記録があり , 当 報の投した一石はやがて各紙に将棋 時の公家と将棋のつながりがうかが 掲載の導火線となり , 井上義雄 , 関 この時代をとおしてみた彫刻の カ { える。中将棋は現代でも関西の一部 特色は , 密教が中心となる仏教界の 根金次郎 , 坂田三吉らの名棋士が続 鍾馗を描いた護符。中 国では室内の壁などに はり家の魔よけにした
ソマリア 5 7 8 産手段 ( 機械 , 建物 ) だけでなくそこ 立した旧英領ソマリランドと合邦し , 九谷 , 京都 , 瀬戸など各地で焼かれ での生産物もすべて国有である。そ ソマリ民族の国 , ソマリア共和国を るようになり , 今日では食器類の大 の規模は , 1963 年現在で , 1 ソホー 半を染付が占めている。欧州で本格 つくった 〔奧野〕 ズ当リの平均農用地面積 282km2 , 平 的な磁器が始まったのは 18 世紀後半 ソマリランド Somaliland アフ 均播種ゅ面積 98km2 , トラクタ 124 台 である。中国では外国産の青色顔料 リカ東端 , 赤道からアデン湾にいた ( 15 Ⅲに換算 ) に達し , 従業員数は 775 を「回青」 , 国内産を「呉須」あるい るインド洋沿岸地域を占める地方。 人である。また , ソホーズの総数は は「無名異」などと称し , 日本では ソマリ人の住む土地の意味である。 9176 で , ソ連における粒穀の国家調 天然産のものを呉須という。明治以 ソマリ人は東ハム語を話すイスラム 達総量の 41 % , 家畜と家禽んでは 38 後 , 西洋の輸入コパルトを使用する 教徒。土地の大部分は乾燥地帯で , % , 牛乳では 38 % ( 以上 1963 ) を占め ようになり , 風雅な味はしだいに失 遊牧が主産業である。古来エジプト , る ( ソ連内閣付属中央統計局調 ) 。ソ 〔渡辺〕 ギリシアに支配され , 7 世紀にはア われた。 ホーての従業員の報酬は国家公務員 そめもの染め物広義に解した ラブの支配をうけた。さらに , サン として賃金と若干の現物を受ける。 場合には , 染め物とは染料を用いて ジノヾル , トルコの支配下に入り , 19 独立の経済単位として運営され , 責 世紀後半にはエジプトの属領とされ 染めたものということになろう。 任者は企業長 ( ディレクトル ) で , 国 た。その後 19 世紀末から 20 世紀初め れを染織品ないし繊維製品に限って にかけて , フランス , 英国 , イタリ 家によって任命される。ソホーズに みても , 大きく分けると先染め物と は , 穀物 , 綿花 , 野菜 , 養豚 , 養羊 , 後晉染め物 , すなわち主として織物 アの 3 国によって三つのソマリラン 養馬など生産物によって種類がある ドに分割され , 一部はエチオピア , を織るための糸を , 機織りに先だっ が , 兼営も多い。農業におけるソホ ケニヤに編入された。第二次大戦後 て染める糸染めと , 織り上がったあ ーズの比重は最近増大しつつある。 との自然色の布を染める布染めとに は , / フランス領ソマリはフランス なお , 東欧の人民民主主義諸国 , 中 の海外領としてとどまり , 英領は独 なる。そしてこのいすれもに , それ 華人民共和国でもこの種の企業が発 立 , イタリア領はソマリアといい ぞれ単色染め ( 無地染め ) と多色染め イタリアの信託統治領となったのち ( 模様染め ) とがある。糸を多色に染 〔加藤〕 展している。 めるということは , たとえば , 絣 独立し , 英領と合邦して / ソマリア ソマリア S om ali a アフリカの ソマリア ( 補 ) 1961 年 憲法を制定 , 元首は大 を織るために糸のところどころをく 共和国をつくった。 〔奥野〕 東端 , アデン湾をへだててアラビア 統領で任期 6 年 , 国民 半島に対する共和国。面積 637661km2 , そめつけ染付白い素地こに青 くってまだらに染め , いわゆる絣糸 議会から選出される。 人口 23 ( ) () ( ) ( ) ( ) ( 1963 ) 。首都モ力、、ジシ 色の絵模様の施された磁器質の焼物。 を作ったりするときに行なわれるが 現大統領はオスマン ( 19 。大部分は遊牧的なソマリ人の社 青色顔料は酸化コバルトの化合物で , 全体からみるとごく一部であり , ま ) で , 1961 年選出。 たその技術も布地における模様染め 会であるが南部を流れるジュノヾ川 , その上に透明な釉薬をかけ , 1300 外交は積極的中立主義 ~ 1500 ℃前後で焼成する。中国では に比べれば比較的簡単なものである。 ウェビ・シェべリ川の流域にはソマ を取っているカ第ケニ 無地染めは , 染める対象が糸であれ , ヤとの間に国境紛争が リ人の農村やイタリア資本によるプ 青花 ( 華 ) , あるいは釉裏青といい しきリである。住民は 布であれ , 問題は主としてこれら植 ランテーションがあり , サトウキビ , 一説には宋代景徳鎮窯で発生したと 7 ( ) ~ 8 ( ) % がソマリ人で 綿 , バナナなどを栽培する。製塩や 物性 , 動物性繊維というような被染 称するが , 明らかでない。一般には あるが , 他にアラブ人 , 皮革などの手工業が行なわれ , また 元代の景徳鎮に始まるとされ , 至正 材料の材質 , 染料 , 媒染法などをい インド人 , パキスタン 近年米英資本によって石油開発が進 11 年 ( 1351 ) 銘のあるデビッド瓶こが かに用いて所望の色に染めるかとい 人もいる。 第・はソマ められている。ソマリア共和国はイ 名高い。もっとも盛んに焼かれたの う染色技術的なことが主であって、 リは吾カ ( 国言吾 , アラビア タリア信託統治領ソマリアと旧英保 は明代で , なかでも宣徳年間 ( 1426 ~ ・五イタリア語 , 英言吾 そこに時代的 , 地方的な違いといっ い一 1 、 が公用語。宗教はイス 護領ソマリランドが合邦した国であ 35 ) の製品は , 釉色 , 筆法ともに最良 たものは多色染めのように判然とし ラム ( スン一一おにカジ。 る。イタリアは 1 9 年以来この地に た形では現われないことが多い。染 である。これは , そのころ西方から 勢力を拡大し 1925 年までに旧イタリ スマリチン ( 蘇麻離青 ) , スポニチン め物を歴史的あるいは地域的な観点 ( 蘇勃泥青 ) とよばれるすぐれた顔料 からみようとする場合には , これを ア領ソマリアの全領域を手に入れ , 狭義に解して , 主として布地に施さ 英国は 1884 年から進駐占領し , 87 年 が輸入されたからで , この輸入がま もなくとだえ , 質が低下したという。 れる多色の模様染めとすることがむ に英保護領ソマリランドが成立した しかし , 明末清初の染付は日本に早 しろ当を得たものと思われる。 1936 年イタリアはエチオピアを侵略 , くから輸入され , 「古染付」「祥瑞ん」 布地に模様を染め現わそうとする ェリトレアを含めてイタリア領東ア など茶人にもてはやされた。朝鮮の 場合 , 技術的にみると二つの方向が フリカと称したが , 第二次大戦中連 染付は李朝初期に始まり , アンナン ます考えられる。その一つは , 布地 合軍が占領 , 49 年の国連総会でイタ ではとくに「しほ、り手」が喜ばれる。 に対して積極的に色を加え , 形を現 リアを統治国として川年間の期限で 日本では , 江戸時代初期 , 肥前有田 国連信託統治領となり , 6 ( ) 年 7 月 1 わしていこうといういき方で , たと に起こって ( 初期伊万里 ) , その後 , えば筆を用いて顔料や染料で布地の 日独立 , これに先だち 6 月 26 日に独 上に文様を描いていく描絵 , プロ ックや型紙を用いて模様をプリント 左は染付魚藻文のつば していくさらさ , 摺染めなどはこ ( 元代 ) , 右は至正 11 年 れに類する。これに対して第 2 の方 の銘をもつデビッド瓶 法は , 防染法を用いて布の一部に染 料が染め付かないようにして , 模様 を現わそうとする消極的なやり方で , このための防染法としては , 絞り , 板締め , のり , ロウなどが用いられ る。ただし第 2 のものもかならすし も終始消極的な方法のみで行なわれ るわけではない。防染したところへ あとから色や線がカロえられたり , 反 対にます色を加えた上を防染してお いて地染めをするというように , 第 1 の方法とあわせて用いられること
0C2H5 ズルチンの構造式 スリナム NHCONH2 婦人服の代表的スリ ープ スリープ ' 1 ) ウェッジスリープくさびそでの 的なものをあげると次のようである。 る。現在使用されるスリープの代表 されるツーピーススリープなどがあ 1 枚で構成されるもの , 2 枚で構成 プレスもある。裁断のうえからは , ぐりがそのままそでロになるスリー また夏の婦人 , 子ども服には , そで そで , 七分そで , 半そでなどがあリ , によって変化する。長さによって長 の形は衣服の他の部分とともに流行 世紀ころである。そで付けや , そで で山とそでぐりが考えられたのは 13 し今日のような立体的なそでで , そ 分として腕を包む形になった。しか 開けるにつれて , そでが独立した部 みられなかったが , 東方との交流が いう。西洋古代の衣服には , そでは こと。腕を包んでいる衣服の部分を スリープ s e v e 洋服のそでの 〔町野〕 オランダの領有となった ムステルダムを英国に与える代わり 67 年のプレタ、、条約で北米のニューア 年ころからオランタ、、の勢力が侵入し , はオランダ語が一的である。 1666 子孫 , ニグロ , 中国人などで , 言語 れている。住民はオランタ、、植民者の 現在は産出高の全部が米国に輸出さ 大戦中連合国の需要の % をみたし , どで , とくにポーキサイトは第二次 ポーキサイト , オレンジ , ブドウな 気候は蒸暑・い。主要産物は米 , 砂糖 , ほとんどいない。全般に 雨が多く , 地帯は砂地で農耕に適さす , [ 民は 豊かな沖積層をなしているが , 草原 の森林地帯に分けられ , 沿岸地帯は マリポ。沿岸平野 , 草原地帯 , 奥地 km2 , 人凵 32 ( ) 0 ( ) ( ) ( 1963 ) 。主者にはノヾラ イアナ ( 旧英領 ) に隣接。面積 14 2822 しフランス領キ、アナ , プラジル , が ランダの海外領上。北は大西洋に面 キ、アナともよばれる。南米北部のオ スリナム Surinam オランタ、、領 〔斉藤〕 いる 皮製品 , 木彫細工などが行なわれて 名園がある。しゅうたん , 銀銅細工 , 湖をたくみに取り入れたムガル朝の などがあるはか , ダル湖岸には山と 藩王の宮殿 , イスラム寺院や城さい で見物する。 6 世紀以来の古い町で , の橋カ { かかっているジェラム川を舟 浮か」 : ハウスポートに泊まり , 七つ 水の都といわれ , 観光客はダル湖に ド有数の避暑・地 , 観咒地で , 東洋の の両岸にひろがる美しい田丁。イン マラヤの山々を背景に , ジェラム川 人口 285257 ( 1961 ) 。標高 15 ( ) 511 。ヒ 3 4 0 こと。そでぐりが身ごろに V 字形に くいこむ。活動的なのでスポーツ服 に用いられる。 2 ) 工ポレットスリ プそで山と肩山が続いているもの。 ョークの感しにみえるので , 身ごろ の肩にキ、ヤサーやタックを入れるこ とも多い。 3 ) きものスリープ身こ ろとそでをひと続きに我ったもの。 長そでや短そでがある。「きもの」 の身ごろの部分だけの感しがするの で , この名か・つけられた。フレンチス リープともいわれる。 4 ) キャップス リープ肩先をおおう程度の短そで で . そで下はほとんどない。夏の婦 人 , 子ども服に用いられる。 5 ) シャ ッスリープワイシャツにみられ . る ような , そで山の低いそで。スポー ッ服に多く用いられる。 6 ) ドルマン スリープそでぐりが深く , ゆった りして , 手首でびったりとつまった そで。そで付縫目のあるものもある が , ふつう身ごろからひとつづきに なっている。トルコ人の用いるドル マンという外とうのそでに由来する。 7 ) ドロッブドショールダーースリープ ふつうのそで付線から落として付け られたそで。 8 レヾフスリープギャ サーなどで肩先やそでロをゆったり とふくらませたそで。プラウスによ くみられる。長そでで , そでロをふ くらませたものはビショップスリ プといい , 英国国教会の僧服からき ているという。 9 ) ブッシュアップス リープ押し上げるという意味から きているもので , そでの上部をゆっ たりとさせ , 下の部分では腕にびっ たり合わせたもの。また , 押し上げ た状態をもいう。 1 ( ) ) ラグランスリ ープえりぐりからそで下にかけて 斜めの切換線のはいったもの。 1 枚 そで , 2 枚そで , 3 枚そでなどがある。 肩や腕の動きが楽なので , コートに よく用いられる。 / そで〔田中〕 スル〔諸島〕 Sulu ミンダナオ島 から南西に伸びポルネオ島北東沖に いたる間に散在するフィリピン領の 諸島。総面積約 2823km2 。約 4 ( ) ( ) の島 から成る火山島群で , ホロ島が最大。 島々は森林が多く肥沃で , 罘 , ココ ナツッ , くだものを産する。イスラム 教を信するマライ族系のモロ族が住 み , 真珠 , 真珠員採取が盛んである。 古く 13 世紀ごろから中国人 , マライ と交易のあった地で , 中国元代の 地理書に「蘇禄」の名でみえている。 19 世紀後半にスペインの保護領 , 18 するが駿河旧国名。現在の静 岡県の一部。東海道に属し , 駿州と もいう。大化改新の時に珠流河国 , 廬原の国 , 伊豆国を合わせて駿河 国として , 国府を府中 ( 静岡市 ) に置 いたが , 681 年伊豆国を分置した。鎌 倉時代には武田 , 北条両氏の支配下 に入り , 南北朝以降今川氏が府中を 城下町として遠江みまで勢力を広 げたが , 1560 年の桶狭間まの戦い 以後は , 群雄争奪の地となり , 82 年 甲斐とともに徳川家康の支配地とな った。徳川氏はこの地を重要視して 府中を直轄地とし , その他 , 譜代大 名を配した。 1871 年静岡県となり , 76 年足柄県 ( 伊豆 ) を合わせて現在に 至った。く町歩下組帳〉 ( 1716 ~ 47 ) に よれは、 , 田約 157 ( ) 9 田」・ , 畑約 1 ( ) 917 田」・。 総石高 , 慶長 3 年約 15 万石 , 元禄年 間約 237937 石 , 大保 3 年約 25 ( ) 539 石。 〔谷凵〕 するがわん駿河湾静岡県の南 に深く入りこんだ湾。南限は石廊崎 と御前崎を結ぶ線。湾東部の伊豆半 島岸は火山が海にせまり , 屈曲のは げしい岩石海岸を示すが , 北および 西岸は割合に平滑で , 久能山 , 牧ノ 原台地などが海に面し , これらの間 に富 f.- 川 , 安倍川 , 大井川の扇状地 , 三角州が開け , 一部に砂丘が発達す る。海底の中央部は富十川河口から 南へ直線状にのびる 1 ( ) ( ) ( ) m 以上の深 海であり , 東および北岸も海岸付近 から急に深いが , 西部には石花海の などの海中台地がある。久能山の東 には三保ノ松原の砂嘴こがあり , 清 水港をいだく。沿岸の焼津 , 清水 , 沼津などはマグロ , カツオの遠洋漁 業基地であるが , 湾内ではイワシ , 廿バ , サクラエビなどの沿岸漁業が 盛んである。 〔門村〕 99 年米領となった ウェッ、ン スリ←フ・ スリー、 工ポレット ィ きものスリー ( 長そて ) ( 短そを ) ドルマンミプッシュアップ スリープ スリトフ梦 〔渡辺修〕 以リープ ラグラン ス′レタン su ltä n サルタン。「支 配者」を意味するアラビア語で , 単 なる称号としては 1 ( ) 世紀から存在し た。しかし , セルジュク・トルコの 建設者トウグノレノレ・べグカ { アッ / ヾス 朝の / カリフからスルタン号を認め られ , 全イスラム地域の最高俗権を 授けられてから ( 1 ( ) 55 ) , この称号は , 「一定地域の独立君主」という特殊 の意味をもつようになった。それ以 後 , カリフは純然たる宗教的君長た るにすぎす , 専制君主的権威はまっ たくスルタンのものとなった。さら にオスマン・トノレコ帝国のスノレタン がカリフに指名されるに及んで , ス ルタン・カリフ制度が成立したが 1922 年トルコ癶和国の形成とともに この制度も消滅した ズルチン d u lci n 化学名をパラ ドまたはノヾラ フェネト ノレカノレノくミ ェトキシフェニル尿素という人工甘 味料。融点 173 ~ 174 ℃の無色または ノ、ラフェネチジン 白色の針状結品 をホスゲンおよびアンモニア水で処 理すると得られる。ショ糖の 280 倍
3 3 8 東インド会社の西岸における本部が ビューティ , キング ( いすれも 7 月上 旬収穫 ) , フォーモーサ , サンタロー ポンべーに移されてから , しだいに 衰えた ザ , ソルダム , 寺田 ( 7 月中 , 下旬収 〔斉藤〕 穫 ) などがある。苗木はつぎ木によっ スラ′ヾヤ Surabaja インドネシ ア , ジャワ東音 5 の都市。人口 1007945 て作る。品種によって果実の大小 , 形 ( 1961 ) 。カリ・マス川の河口に位置 甘味や酸味が多少違う。果実は生食 し , 狭い海峡をへだててマドラ島に するはか , 砂糖づけや乾果を作る。 のぞむジャワ島最大の貿易港である。 〔大野〕 市街は , カリ・マス川が貫流し , 北 スモレンスク SmoIensk ソ連 , は河口のタンジョン・べラ港から南 ヨーロッノ、・ロシアの古都。人口 177000 はウオノクロモまで南北に細長く , ( 1964 ) 。 ドニエプル川の河港。モス クワへ鉄道が通し , カリーニン自動 約 12 km におよんでいる。市民の大半 車工場 , 亜麻やメリャスの工場など はジャワ人とマドラ人であるが , 華 がある。市は 9 世紀に建設された 僑や欧州人も多く , 商業都市であ モスクワへ通する街道の要地にある る。カリ・マス川東岸は一般に住宅地 ので , 1812 年のナポレオン遠征 , お 区で , 西岸は近代設備を誇る港をは よび 1941 年に大激戦が展開され , と しめ輸出入物資の倉庫も多い。おも くに第二次大戦では大半が破壊され な輸出物産は砂糖 , タノヾコ , コーヒ スモッグ sm 0 g s m oke ( 煙 ) と たが完全に復興した。ベトロバウロ ゴム , チーク材などで , 船舶の f 。 g ( / 霧 ) を合わせたことばで , 大 フスカヤ聖堂 ( 12 世紀 ) , ウスペンス 出入港数ではインドネシア第 1 位で 都会や工場地帯など煙や排気ガスの キー聖堂 ( 17 世紀 ) も復旧されている。 ある。陸上交通の重要拠点でもあり , 多いところにできるよごれた濃い霧 鉄道と道路でジャワ各地と結ばれて 〔渡辺一〕 のこと。おもに冬の晴れた風のない いる。市の起原は 15 世紀の中ごろで , . スーラ Georges Seurat 1859 夜から早朝にかけ , 地面が冷えて地 ~ 91 フランスの画家。パリ生まれ。 1743 年にオランダ東インド会社にゆ 上数十 m まで冷たい空気がよどみ , すられ , 東ジャワにおけるオランダ 官立美術学校に入り , アングルの弟 下層の気温が上層の気温より低い気 勢力の基地となった。 子アンリ・レーマンの教室に学ぶ。 〔遠藤〕 温逆転層ができると , 煙や排気ガ、ス スラブじんスラブ人インド・ 化学者シュプルールの色彩論および が上空に散らすに地上近くにたまり , ドラクロアの作品について , 色彩対 ョーロッパ語族の中のスラブ語を話 それに空気中の水分が凝結して濃い 比や補色の原理を追求し , 1883 年に すものの総称。スラブ族 , スラブ民 族ともいう。スラヲ人 Slavs の人口 霧ができる。視程をわるくして交通 は点描による最初の大作く水浴〉を を混乱させるはか , 排気がス中の二 描いて反響をよんだ。シニャックと は約 2 億で , おもに東欧に分布する。 酸化イオウや一酸化炭素などの有害 親交を結び , 色彩理論の実践に向か シベリアのロシア人もこれに含まれ 成分は人体に危険である。〔吉村〕 い , 86 年さらに完全な分割描法によ る。スラブ人は言五宀 , ロロロ子および地理 すもと洲本〔市〕兵庫県淡路島 るくグランド・ジャットの日曜日の 学上 , 東スラブ族 , 北西スラブ族 , 南東部にある淡路島の中心都市。 19 午後 > を印象派第 8 回展に出品 , 新 、南スラブ族に 3 大別される。 1 ) 東ス 40 年市制 , 55 年由良町などを合併 , 印象派への道を開いた。以後 32 歳の ラブ族大口シア人 , ウクライナ人 , 若さで死ぬまで , 画期的な新技法で 人口 46313 ( 1965 ) 。 1931 年以来 , 淡路 白ロシア人などからなり , とくに大 くサーカス > くボーズする女たち > の 唯一の城下町として発展し , 整然と ロシア人はスラブ人中で指導的地位 大作を描き , いすれも整然と造形さ した街路に旧城下町のおもかげをと にある。 2 ) 北西スラブ族ポーラン どめている。島の門戸にあたり , 大 れた画面に色点がモサイク状にちり ド人 , チェク人 , モラビア人 , さら 阪 , 神戸との間に定期船の便があり , ばめられ , 独得の色彩効果をあげて に現在のチェコスロパキア人などを 南淡町とは電車 , 島内各地とはバ いる。 / ( 別刷 ) 印象主義〔坂崎〕 含む。 3 ) 南スラブ族スロべニア人 , スで結ばれる。阪神工業地帯の飛地 スライド / 幻灯 セノレビア人 , クロアチア人 , プルが として , 綿紡績 , 機械 , 水産加工 , リア人などカ { はいる。 スラカルタ / ソロ 員ボタンの工業がおこり , また酪農 , スラブ人はおおむね , プロンドの スラックス s lack s 男女ともに タマネギ栽培も盛んである。紀淡海 毛髪と青い目によって代表される東 用いるゆったり身にあったスポーツ 峡にのぞむ由良地区は瀬戸内海国立 欧人種に属する。その他の人種特徴 用ズボンのことであるカ { , 一般には 公園に属し , 淡路富士の先山 ( 448m ) 婦人用をさす。元来は水夫などが使 は , プロンド系ヨーロッ / ヾ人である も内海の展望にすぐれる。郷土芸能 用したもので , 一般的になったのは スエーデン人 , デンマーク人より低 として人形芝居がある。 〔末尾〕 第二次大戦からである。いろいろの く , 平均身長は 166 ~ 169Cm ( ヨーロ すもも〔李〕中国原産のバラ科 型や流行があるが , 家庭着 , 仕事着 , ヾ人全体の平均身長よりは高い ) 。 スポーツ用などに多く用いられ , 七 の落葉高木。現在ひろく作られている 体格は一見すんぐりしており , 顔は 分たけのものは , ースラックスと 幅がひろく骨張り , 鼻は短くひろく , のはニホンスモモで , これカ { 米国で 改良され , 逆輸入されたものも多い。 く 0 よんだ鼻梁穿よは鈍い先端で終わっ いう。布地はギャノヾジン , フラノ デニムなど , ヒようぶなものが適し , ている ( ただしスラブ人という概念 葉は細長く , きょ歯がある。花は春 , は言語文化面よりのもので , 人種学 ウメのあとをうけて咲き , 白色 5 弁 最近は合成繊維によるものも多い。 の立場から言えば厳密性を欠く ) 。ス で / トさい。 1 芽から 1 ~ 2 花生する。 〔田中〕 ラブ人の起原については , 元来はカ スラト S u r a t インド西岸の港 果実は球形で径 2 ~ 3 , 7 月ごろ ト山脈北東にいたものが 7 黄色ないし赤紫色に熟する。水はけ 市。人口 288026 ( 1961 ) 。グジャラト ノレノヾ 8 世紀ごろ拡散し混血もして , 3 大 のよい , しかも乾燥にすぎない土地 州の南部 , ポンべーとアーマダバー 支派をなしたとする説と , 初めから に適し , 梅雨の少ない地方では病気 ドの中間に位置する。ムカ・ル帝国の ロシア平原に土着していたとする説 が少なくて栽培しやすい。自家不結 港市として発達したが , 1612 年イン がある。スラブ人は古くから定着の 実性といって同し木 , 同し品種の花 ドで最初のイギリス商館が建てられ , 農業と牧畜を営み , キリスト教がは の間では実どまりがはなはだわるく , 東インド会社の初期の貿易根拠地と 果実をならせるには他品種との混植 いる前の宗教は自然崇拝であり , ま して , 歴史的な役割を果たした。人 が必要である。品種には大石早生 , た祖先の霊も崇拝されていた。 9 世 ロも一時は 80 万に達したが , 1687 年 , スモッグ くアトリエの画家〉 彼の唯一の自画像 婦人用スラックス スモモ 花 果実
ジョウドウ 中国以来褝宗の間で行なわれてきた ので , これを臘八会えともいう。 諸種の経典により , 成道の日は 2 月 8 日 , 2 月 16 日 , 3 月 8 日 , 3 月 15 日などと相違するが , 日本でも平安 時代には 3 月 15 日に行なわれていた 褝宗がひろまるにつれ 12 月 8 日に行 なわれるようになった。 〔石田〕 じようどうじん上洞人山頂洞 人ともいう。北京郊外の周ロ店付近 の石灰岩小洞から 1933 年発掘された 旧石器時代後期の化石人類。頭骨の 完全なものは 3 個で , いすれも長頭。 老人男性は推定身長 174 cm で北京原 人に似たところがあり , 壮年女性の 1 体は推定 159 cm でニューカレド ア人らに似 , 他はさらに小さく , 下 がく骨を欠くがエスキモーに類する。 一家族内にこのように諸型があるこ 5 4 結社がつくられ , 慧遠かこれを代表 して , 浄宗の始祖と仰がれている が , 思想的な組織化は 6 世紀初めに 訳出された世親のく浄七論 > に注釈 した曇鸞のく往生論註 > で , これを うけてさらに道綽のく安楽集 > , 善導 のく観経疏 > がっくられた。 こうし て以後 , 浄上教は宗派をこえてひろ く行なわれ , のちには神と念仏との 結合といった形で存続していくが 日本では円仁によって伝えられた引 声ぅ念仏がのちの浄上教の母胎を 形成し , 常行呂 3 堂の普及とあいま って流行した。 1 ( ) 一世紀後半より 1 1 世 紀にかけて , 空也 , 源信が現われ , 前者によって念仏は僧の手から一般 庶民にわたされ , 後者においてはく往 生要集〉の著作をとおして日本浄土 教の確立をみることとなった。以後 , 多数の僧俗にわたる浄上信仰者を輩 出し , とくに , 堕落した教団をすて た隠者や市井に身を投した聖壯たち によって , 念仏は信仰の支柱となっ てひろく信奉されるようになったが , 念仏の流行にもっともあすかってカ があったものは , 代は末世であると いう末法の観念である。 こうして鎌 倉期にいたって , 愚痴無知の凡夫を 目あてとした源空の / 浄上宗や悪人 を仏の救いの直接目標と考えた親鸞 の浄上真宗 ( / 真宗 ) が開かれ , 下っ ては躍壯念仏を普及した智真の時宗 が開かれるにいたった。とくに親鸞 においては師源空が善導のく観経疏 > をよりどころとして , 称名念仏を強 調したのにたいして , これを一歩進 めて , 信心、こそ浄上に生まれるため の正因であるとしたことは , 浄上教 思想発達の一つの極限と考えられる。 このようにして庶民のものとなった 浄上教は時代の下るとともにさらに いちだんと普及化が行なわれ , 信仰 の純枠性も他の諸宗に比べて比較的 によく保持された。 なお , 浄上思想に基づく美術も , この信仰の普及につれ , 中国と日本 で盛行した 阿弥陀造像の造例では , 中国河南省の竜当の無量寿仏 ( 6 世 紀初め ) が占く , しだいに本尊の阿弥 陀仏のほかにも観音 , 勢至を伴う阿 弥陀三尊や極楽浄上を描いた「浄上 変」が製作されるようになった。浄 上変では , 敦煌の壁画に最大の遺 品が残されている。日本での造像は 飛鳥 , 奈良時代よりはしまり , の時代の末には多くの浄変が製作 されている。阿弥陀堂の創建も平安 中期ころよリ盛んとなリ , 現在遺構 として平等院鳳凰堂や法界寺 , 浄 瑠璃寺の阿弥陀堂などを数えること ができる。またこれにつれて , 鎌倉 期にかけて阿弥陀を来迎する諸菩 薩の像や来迎図が盛んに製作され るようになり , 苦の世界を表現した / く地獄草紙 > や / く餓鬼草紙 > など の絵巻物が現われたのも浄上思想を 強調するところから生まれたもので ある。 〔石田〕 とは注目される。 〔長谷〕 じようどきよう浄土教この世 に生をうけたいっさいのものを救い とろうという誓いをたてて悟リを開 いた仏 ( 仏陀 , 覚者 ) が , その誓い と悟りによって建設した清浄な国上 のことを浄上というが こうした浄 上の思想は仏教特有のものではない。 古代インド人の間に伝承されてきた 民俗信仰や異民族の信仰が仏教の発 展過程においてとりいれられ , それ が仏教経典のなかに多彩にくりひろ こうした浄上に げられたのである。 はすでに小乗経典において姿をみせ たものもあるが , 浄上の思想は , 仏 陀をどうみるかという , いわゆる仏 陀観と直接つながりがあり , 仏陀に 関する思索と賛仰を深めた大乗仏教 にいたってようやく結実し , 阿間仏 の妙楽浄上 , 薬師如来の浄瑠璃う 世界などの浄上が語られるようにな った。これらはいってみれは、 , 釈迦や の投影であるが , 中国の学者がいっ たように こうした浄上のなかで多 くの経典がこぞって賛嘆しているも のは , 阿弥陀発み仏の西方極楽浄上で ある。したがって阿弥陀仏の浄上が 他のどの浄上よリも信仰され , この 風習は中国 , 朝鮮 , 日本と伝えられ てきたから , 浄わ教という称呼は阿 弥陀仏の浄上思想にかぎって用いる のが通例である。阿弥陀仏をたたえ る経典のうち , 早くから注目され , 中国に伝訳されて , 浄上教の根本聖 典となったものは , いわゆるく浄上 三部経 > で , 今日 , 用いられている ものは , 魏の康僧鎧暠に訳のく無量な 経 > と宋の優良耶舎 : こよ訳のく観墲 寿経 > , それに姚秦の鳩摩羅什結な 訳のく阿弥陀経 > とである。インド では早くから , これらの経典によっ て浄上教の思想体系が整えられ , 竜 樹 , 世親らがこれにあすかって大き な影響をあとに残しているが , その 実は , 中国において結ばれ , 日本に いたっていちだんと盛んになった ます 5 世紀初め中国では山に念仏 しようとく承徳 ( チョント 中国 , 河北省北東部の都市。人口約 1 ( ) 万。旧熱河省の省都 ( 1928 ~ 56 ) で , 熱河ともよばれた。津河の支流熱 河にのぞみ , 京承線 ( 北京 ~ 承徳 ) と 錦承線 ( 錦州 ~ 承徳 ) の接続点にあた り , 東北地区への通路に沿っている。 市の北西にある旧熱河離宮は清代の 皇帝の避暑山荘 ( 17 ( ) 3 造営 ) であった 周囲 8 km の広大な敷地内に宮殿 , 庭 園や寺廟よが設けられた。なかでも 須弥福寿窮と普陀宗乗之廟という 大ラマ廟は有名で , それぞれチベッ トのボタラ宮とタシルンポ寺を模し たものである。離宮は荒廃していた が , 解放後修理復冗されつつある。 〔徳増〕 しようどく消毒病原細菌を完 全に殺すか , ときには病気を起こし えない程度にまで , その数を減少さ せることをいう。 この場合には非病 原性の細菌類は問題にしていない たとえば , 牛乳の低温滅菌では , 万 一混入するおそれのある結核菌や赤 痢菌は殺されるが , 無害な乳酸菌が 多数に含まれる場合には乳酸菌の数 はひしように少なくなるが完全には 死滅しない。滅菌とはあらゆる徹生 物を殺すことをいい 消毒とは意味 が違うが , 両者が混同して用いられ ることが多く , さきの牛乳の場合で もほんとうは滅菌とはいえない。赤 痢患者のふん便の消毒でも , 赤痢菌 だけを目的とし , 多数存在する大腸 消毒 菌はあまり問題にしていない。 法は物理的消毒法と化学的消毒法に 大別される。 〔物理的消毒法〕ひろく用いられる のは熱 ( 焼却 , 乾熱 , 湿熱 ) である。 焼却は再使用を必要としないものの 最も確実な滅菌法であるが , 喀痰 などでは , おがくすか新聞紙に十分 吸収させてから焼かないと周囲に飛 散して危険である。乾熱は密閉した 容器内の空気を , 160 ℃に 3 ( ) 分保つ。 家庭のてんびと同じ原理で , ガラス 器具や綿などに用いる。湿熱の中で 簡単に行なえるのは煮沸で , 注射器 , ヒ。ンセット類 , 食器に用いる。シン メルブッシュ煮沸消毒器カヾあり , 沸 騰後 , 約 15 分煮沸するが , 破傷風菌 などのオ胞は死なないので完全な滅 菌ではない。蒸気消毒は食器 , 衣類 , 器物など , その応用範囲は広い。コ ッホ蒸気がまを用い , 1 ( ) ( ) ℃ , 3 ( ) 分 作用させるが , ふつうのご飯蒸器で 代用できる。完全な滅菌には高圧滅 菌器を必要とする。約 2 気圧 , 12 ( ) ℃ , 20 分で芽胞も含めてすべての細 菌は殺され , かん詰 , 注射薬 , 外科 器械に用いる。牛乳では低温滅菌と 62 ℃ , 30 分か , 75 ℃ , 15 分の 加熱が用いられる。光線による消毒 のうち日光消毒は衣類や書籍に用い
ダイコク 6 () 3 ペ形 ( チンパニなどの片面太鼓 ) , わ く形 ( タンバリン うちわ太鼓の類 ) に 3 大別される。 一般に太鼓は , 皮 強く張るはど高い が小さく , 軽く 音が出る。また , 皮を胴に直接張り 付けす , 調べひもなどで締めて張っ たものは , 張力を調節して音の高さ と音色を変えられる ( 日本の鼓が代 表例 ) 。このはか , 太鼓の形で , これ を振って鳴らす銭大鼓や , デンデン 太鼓がある。 太鼓は古く新石器時代から有力な 楽器であり , アジア , アフリカで早 く発達した。欧州での歴史は浅く , 12 世紀ごろに小太鼓 ( サイド・ ム ) , 13 世紀ごろに十字軍によってチ 18 世紀にトルコ軍楽から大 太鼓 ( べース・ドラム ) が伝えられ , いすれも軍楽に笛とともに愛用され た。そして管弦楽には , ますチンパ ニが 18 世紀に採用されはしめ , 現代 では , 種々の太鼓によって多彩なリ ズムや音色カゞ駆使されている。とく にジャズにおけるドラムの役割はめ ざましく , 中南米音楽では , コンガ ( 長胴 , 片面 ) , ポンゴ ( 大小 2 個の両 大子し町〕茨城県北部 , 単位を規定し , さらに徹底した調査 面太鼓 ) などアフリカ系あるいは上 久慈郡の町。西の八溝山地 , 東の久 を , 没年の 98 年まで続けた。それゆ 俗の楽器が豊富にとり入れられてい 慈山地に囲まれた大子盆地を南下す え太閤検地を文禄検地ともいう。そ る。アジアのものでは , インドのタ る久慈川と押川との合流点にあり , の規定によると , 6 尺 3 寸を 1 間 , プラ・バヤ ( 大小 2 個のなべ形太鼓 ) , 水郡線に接する。人口 36761 ( 1965 ) 。 1 間四方を 1 歩 , 30 歩を 1 畝せ , 1 ( ) ムリダンガ、ム ( たる形 , 両面の音の咼 葉タノヾコ , コンニヤク , 茶 , ミツマ 畝を 1 反 , 1 ( ) 反を 1 町として測定し , さが異なる ) , インドネシアのクンダ タ , コウゾなどの集散地で , 馬市が 田畑屋敷など一筆ごとの史量をし , ン ( ムリダンガムの同類 ) , アラビア 開かれる。 19 55 年に編入された / 袋 等級をつけ , さらに各種の枡專が使 のナッカラ ( タブラ・バヤと同類。チ 田には袋田温泉と四度ノ滝の観光地 われていたのを廃止して京枡に統一 ンパニの祖形 ) などが代表的で , いす があり , 久慈川のアユも知られて し , 石盛をして ( 玄米収穫量を見積 れも複雑な奏法をもつ。中国では単 〔尾留川〕 もること。畑 , 屋敷もこれに換算し いる に鼓とよび , 多くの種類があって雅 たいこうき太閤記数種類ある て見積もった ) , 村の石高を決め , 楽にも使われている。朝鮮のもので また田畑を現に耕作している作人を 豊臣秀吉の伝記物語の総称。秀吉の は杖鼓 ( チャンク。長鼓 ) が特色をも 伝記はく豐鑑えみ〉く太閤素生記 > く甫 調べ , こうして検地帳を作成した。 つ。日本の / 雅楽では , 楽太鼓 ( 大 施ん太閤記〉く川角太閤記〉く真書 これによって従来の複な土地所有 太鼓 , 釣太鼓 , 荷太鼓など ) と , 太閤記 > く絵本太閤記〉など多数ある 関係は否認され , 検地帳に登録され 羯鼓 3 つ ( 両面を打つ ) , 三の鼓 ( ひも このうちでもっとも実録に近い た農民は , 作職驀 ( 土地耕作権 ) 所有 カ { , 者であるとともに年貢 ? んの負担者と で締める細腰鼓の一種 ) の 3 系統を のは , 秀次 ( 秀吉のおいで養子 ) に仕 用いる。楽太鼓系統からは神楽や 定められ , いわば等質なものとして え , 秀吉の動静を見る機会の多かっ 芝居の大太鼓こその他が生まれ , 直接領主に掌握されることになった。 た小瀬を南庵 ( 1564 ~ 164 ( ) ) の書いた 中世には田楽 , 風流などに用い く太閤記 > 22 巻である。しかし , 俗説 こうした点で太閤検地は , 中世的な られる大小種々の締太鼓 ( たとえは、 も含まれて , そのため史実にはほど 農民支配を否定し , 刀狩り , 兵農分 能の太鼓 , 里神楽の大拍子物巳など ) 遠いが , 江戸時代からひろく民衆に 離とあいまって農村の封建的支配の を生んだ。なお民俗芸能では , 羯鼓 読まれてきたのはく真書大閤記 > で , 基礎を固め , 次の江戸時代における や太鼓を腹につけて踊りながら打っ いわゆる「太閤びいき」を作り出す 幕藩体制成立への道を固めたもので ことが多い。 あった 三の鼓系統は大小の鼓 因となっ , 狂言 , 歌舞伎などの芸能 〔浅沼〕 大湖畔にはいたると となって日本独自のものに発展した。 に多くの素材を提供した。 〔浅沼〕 こく大黒インド伝来の民 ろに景勝地や公園があ 歌舞伎の下座音楽には , これら各種 たいこうけんち太閤検地豊臣 間信仰上の神。サンスクリット語の る。前方の島上にある の太鼓が利用されている。〔大浜〕 建物は労働者の保養所 秀吉が行なった / 検地 ( 土地調査 ) の たいこ太湖 ( タイフー ) 中国 , 総称。上地調査は古代から行なわれ 江蘇省最南部の大湖。面積 2213km : ており , 戦国大名もそれぞれの領国 水深は 3 m 内外。湖の南岸は浙江省 で行なっているが , その基準は一定 との省境をなす。浙江省から天目山 していなかった。織田信長は征服の 一帯の水を集める菖渓をはしめ多く たびにその上地の検地を続けていた の河川が湖の西岸に流入し , 湖の周 が , 中道で倒れた。秀吉は信長のは 辺はそれらを結ぶ連河網によってお じめた事業を継承し , 1582 年山城の おわれている。太湖の水は婁江 , 呉 検地をはじめとして , 各地征服のた 淞江 , 黄浦江の 3 河となって揚子江 びに検地奉行を任命したり , 旧領主 に注ぐ。湖の周囲は米 , 茶の産が多 に土地台帳を提出させるなどして検 く , 養蚕 , 淡水漁業も行なわれる。 地をすすめたが , しだいに基準を整 上には 7 ( ) 余の島がある。〔徳増〕 え , 94 年 ( 文禄 3 ) には画一的な面積 太鼓のいろいろ。左上 は神社でよくみかける 宮太鼓 , 胴に直接皮を 張る。左下は締太鼓 , 膜面は胴端の直径より 大きく , ひもで締める。 福井県三方郡三方町向 笠神事のもの。右上は 朝鮮の杖鼓 , 歌舞や合 奏に用いられる。細腰 鼓の一種で日本の鼓も 同系。右下はセイロン のカンディ歌舞の太鼓。 ムリダンガムなどと同 系 , 両手で両面を打つ 4
ダンス 7 0 9 373km2 , 人口 16629 ( ) ( 1964 ) 。大然の 徴し , またヨハネ黙示録によると新 良港をなし , 大西洋を見おろす美し しい者にエルサレムの城壁の 12 個の上 い町で , 占い城壁に囲まれ , スルタ 台は , 十二使徒を象徴するそれぞれ ンの宮殿やとりで ( カスノヾ ) の跡があ の宝石で飾られていた。宝石と天文 る。主産業はタバコ製造。古代から とを関連させた初めは古代のカルデ 戦略上の要地で , フェニキア , カル ア人らしく , 彼らは天文と関係のあ タゴ , ローマなどの地中海制圧の要 る石 325 個をあげ , それらを黄道上 衝であった。 7 世紀にアラブの支配 の十二宮に内己分した。のちにはただ 下にはいったが , 1471 年ポノレトガル 代表的な 1 , 2 個の石が十二宮のそれ 領となり , スペイン , ポルトガル , ぞれの星座 , つまり 1 年の 12 カ月に 割り当てられるようになった。 1 世 イギリスと支配者が変わったのち 16 84 年にモロッコ領 , 19 世紀には欧州 己のユタ、、ヤ / 、フラビウス・ヨセフス 各国の治外法権が認められ , 1902 年 の著書くユダヤ古代史 > も , イスラ のスペイン・フランス条約で国際都 ェルの祭司長の胸当ての 12 個の宝石 洋服だんす と黄道上の十二宮 , ひいては 1 年の 市としての地位が公式に規定された。 12 カ月との間に密接な関係があるこ さらに 23 年の英国 , フランス , スペ 洋風のたんすの需要が増している。 イン協定で永世中立を決定 , 45 年英 また最近の傾向としては , 引出箱 , とを説いた。宝石が幸運をまねき災 国 , フランス , 米国 , ソ連 4 国会議 害を払う神秘的な力をもっこと , あ たな箱などを適当に組み合わせて使 る宝石が特定の病気に対して予防 , 用するユニット家具 ( 単位家具 ) の形 により国際管理下に置かれた。 56 年 治療の効能があることは , ひしよう 式がとられ , さらに持ちはこびの不 モロッコ独立によってその領上とな 便なたんすはっくりつけにすること に古い時代から信じられていたが ってからも通貨 , 金融は国際管理 宝石が十二宮に割り当てられた結果 , が多くなっている。現在使用されて を受けていたが , 60 年 4 月からモロ ある星座が天頂にきたときその星座 ッコに完全併合された いるたんすのおもなものは , 次のよ 〔奥野〕 たんす簟笥引出しと戸だなか うである。 1 ) キリたんすキリ材は を象徴する宝石を身につけていれば , 防湿に適し , 軽くて加工しやすく , とくにその加護のカか、強いという信 らなる収納家具。一般には衣類を入 初めはいわゆる「月 れる衣装だんすをさす。はしめは刀 木目が美しいところからたんす材と 臂卩カ { 起こった だんすや , 香だんすなどのように器 月の石」としてその月に相当する宝 して愛好された。キリ材をすべての 財を入れる小形のものであり , 蒔鶩絵 部分に用いたのを「総キ、リ」 , 前 , 上 , 石を月ごとに川自次に取り替えて用い をはどこしたりして工芸的なものが 両側面に用いたのを「三方ギリ」と たか , のちには経済的理由から , 自 多かった。衣類はふつう / 長持や いう。また内部材をスギ , サワラ , 分の誕生月に当たる宝石を誕生石と して常時使用するようになった。古 繊維板などにして表面だけにキリの 櫃に納められていたが , 江戸時代 薄板をはりつけたものもある。形は 代の宝石の産地は東・洋で , 東西交通 にはいってから引出し形式の衣装だ 引出しの数や戸だなの組合せによっ の要所にある地理上の位置を利用し ・んすが用いられだした。これは小袖で て各種ある。 2 ) 整理だんす硬木 たユダヤ人は東洋の宝石を西洋に輸 だんすとよばれ , いまのキリだんす に変化してきた。また , 器財のため ( サクラ , チーク , ケヤキ , シオジな 入して大きな利益を得たが , 誕生石 のたんずとして現在もさかんに使用 ど ) を用い機械工業生産するものが の習慣を欧羽ヨに普及させたのも , 18 多い。床にしかに置く台輪式と床か 世紀にポーランドに移住したユダヤ されているものに / 茶だんすがある。 らある間隔をもった脚式とあり , 引 人がもとだとされる。誕生石は指輪 , 西洋では古くから長持に相当する収 腕輪 , とめ針 , 首飾りその他の装身 出し , 戸だなの組合せはいろいろで 納家具にチェストがあった。 17 世紀 ある。用だんすともいい , 小形のも 具として用いられ , 婚約指愉にも誕 に全部が引出し式のものができチェ のはベビーだんすとよばれる。 3 ) 洋 生石を使うのがふつうである。誕生 この形式 ストドラワーとよばれた。 服たんす整理だんすと同様硬木で 石は時代と地方で差異があるが , 19 は現在までつづいていて , 日本のた 作られるが , 洋服類をそのままつり 12 年米国宝石商組合が制定し , 52 年 んすにも影響をあたえている。なお 下げて収納できる部分をもっ形式の 米国 A N R JA か・改訂したものがふつ チェストドラワーはフランスではコ う行なわれる ( 7 ( ) 8 ページ参照 ) 。なお たんすである。ふつうワイシャツや ンモードといい , 米国式のよび方で ハンカチーフなどの小物類を収納す 現今では , 人工的に生産される合成 は 2 個重ねのものをトールポーイま 宝石の普及につれて , 合成宝石によ る部分やネクタイかけや鏡などがと たはハイボーイといい , ひと重ねの る新誕生石が生まれた。誕生石はそ りつけられている。 ものをローポーイという。 〔向井〕 ダンス dance 肉体によって現わ れぞれの意味 ( 宝石ことば ) をもって 〔種類〕現在のたんすは和風と洋風 される感情表出の一方法。舞踊と・訳 〔妹尾〕 に大別される。和風だんすは , キリ いる。 たんじよぐんとう男女群島五 だんすを代表として結婚調度には欠 されるが , 舞踊という語が , 明治以 来の造語であり , 芸術的な舞台上の 島列島福江島の南西 l()()km の東ンナ かせぬものとなっていた。しかし , 踊りを主とするのに対し , ダンスは 和服を収納するには便利だが , 洋服 海に浮かぶ群島。男お島 , 女め島をは よりひろく踊ること全体をさし , 社 しめ数個の小島からなり総面積約 5 類の収納には適さぬため , しだいに km2 , 長崎県福江市に属する。山地が 多く , 海食がいが発達するため居住 には適さないが , 対馬海流の影響で カツオ , マグロ , プリ , タイなどの 好漁場 , サンゴの産地となっており , 男島には漁港や水産施設の設置が進 められている。群島の北西にある無 人島の . 島ノ島は , 東経 128 。 7 ・で日本の 西端である。 〔谷口〕 タンジーアレ Tangier アフリカ の北西端 , モロッコ王国のジプラル タル海峡に面する港市である。面積 和風だんす ュニット形式の整理だ んす。横方向に組み合 わせることも , スチー ルの脚をとりはすして 上方に重わることもで きる ( オランダのプラ ークマンのデザイン )
、ス・ タル、 6 9 7 だるま達磨起上り小法師の 上演禁止されるなど物議をかもした。 ーっ。倒れてもひとりでに起きるよ 作者はこれによってペテン師 , 偽善 うに底を重くした人形で , 中国の神 者の典型をつくり上げた。く守銭奴〉 きン 僧である達磨の面壁九年の故事にち く人間ぎらい > などとともにモリエー なみ , 手足なく赤い衣をまとう僧の ルの傑作の一つであり , 日本では 19 姿に作る。日本の起上りがん具は中 34 年築地小劇場で初演された。 国の不倒翁が伝来したのが始まりと 〔あら筋〕富裕な中産階級の主人でお人よ しのオルゴンは , タルチュフという悪らっ いわれ , 室町時代には起上り小法師 な偽善者に心酔し , 家族の不満をよそにそ としてもてはやされたが , 達磨の姿 の男を家に置く。タルチュフは家の娘との になったのは江戸時代中期ごろらし 結婚 , 財産の横領をたくらむが , 女中を含 い。その赤い衣が天然痘 ( ほうそう ) めて家族みんなが力を合わせて主人の迷い よけのましないとされ , 倒れないこ 〔本田〕 を解き , 家を守る。 とが養蚕 , 豊作 , 大漁 , 商売繁昌の 支笏湖からの ぞむ樽前山北 縁起物として喜ばれ , 起上りがん具 をもつジナルアルプスが背後を走り , 面。すそ野は の代表となった 山地が多い。海岸線は屈曲に富み , いまなお正月など 原始林がおお ダルマチア諸島が点在する。気候は にだるま市の立つ地方が多く , 目の い , 頂部中央 比較的穏やかな地中海気候で , 雪は ないだるまを買ってきて , 満願のさ に溶岩ドーム めったに降らない。住民はセルビア い感謝のしるしに目を書き込む風習 カ { みえる 人 , クロアチア人が多く主として農 がある。郷上がん具として全国で張 業 , 牧畜 , 漁業に従事し , ブドウ , り子製のものが作られるが , 中部 , オリープ , 綿花などの栽培や養蜂峙 タ′レ′ヾガン talbaghan け、つ歯 関東のだるま市が知られ , 変わった 羊 , ヤギの牧畜が行なわれている。 目リス科の動物で , 英語のマーモッ ものでは仙台の松川だるま , 群馬県 その他セメント , アルミニウム , 造 ト ma r mo t はその一種。タルノヾガン 豊岡の目なしだるま , 松山の姫だる ま , 甲府の白だるま , 新潟の三角だ 船などの工業もあり , 発電も盛んで またはタルノヾノ、ンはもとはモンゴル るま , 金沢の八幡起上り , 高知や大 ある。主要都市はスプリト , ザダル , 語である。ポーランド , ソ連 , 中国 ドプロプニク。前 4 世紀にギリシア 分県竹田の女だるまなどがある。 東北部および西部 , チベット , モン が植民を行ない , ローマ時代にはそ / ( 別刷 ) がん具 〔小池〕 ゴル , インド北部 , ネパールなどに の属州に加えられた。 6 ~ 7 世紀に 分布し , 体長 25 ~ 35 cm , 淡かっ色で , スラブ系のクロアチア人やセルビア ウサキ、よりやや小さい。大草原に群 人が移住した。中世以後ビザンチン , 生し , 地中に穴を掘ってすみ , 冬は ハンガリー , ベネチア , トルコなど 穴の中で冬眠する。ときにはたくさ に臣属し , 1797 年オーストリア領と んの個体がすむが , そのときには穴 なった。第一次大戦後の 1919 年ュー を掘って出た土の処分のしかたとし ゴスラビア領となったが , イタリアと て , 1 匹があおむけになり , 他のタ ルノヾガンか、その上にのせられるだけ ューゴとの関係が悪化し , イタリア のフイウメ占領問題などが起こった 土をのせ , 他の数匹で尾をくわえて ひつばり上を運ぶ。中国東北部では 〔相場〕 肺ベストの常時保菌者で危険である たるみず垂水〔市〕鹿児島県鹿 児島湾をへだてて鹿児島市と相対し , が , 毛皮は利用価値がある。〔高島〕 桜島に接続する市。 1955 年肝属郡 だるま達磨菩提達磨 B odh i - 垂水町と 2 村が合併し , 58 年市制。 dharma の略称で , 中国褝宗の開祖。 人口 29175 ( 1965 ) 。大隅半島の玄関 後世になって種々の説話が付加され , 口にあたり , 大部分が山地で , 農業 架空の人物であるかのように誤解さ を主とし , タノヾコ , サツマイモ , ポン れてきた。出生については , 南イン カン , 促成野菜 , 茶などの換金作物 ド香至国王第 3 子というが , 異説が 山梨県向岳寺にある達磨図 ( 13 世紀 ) に主力を注ぎ , 肉牛 , 豚の畜産も行 多く , 中国渡来以前の伝は明らかで なう。漁業はカツオの生餌とする はない。初め宋境南越に達し , 次い たるまえさん樽前山北海道支 カタクチイワシ網漁か、主で , ノリ , で魏に至り , 褝を説いたが , 中傷す 笏 ! っ湖南部 , 苫小牧、、市に属する 真珠などの養殖も盛んである。霧島 標高 1024m の活火山。 1821 年以来き る者が多く , いくたびか毒殺されよ うとしたともいわれる。嵩山の少 わめて多くの噴火の記録を残してお 林寺に止住し , 9 年間壁に向かって り , 1909 年の噴火では高さ約 100 m 座し , 悟りを開いた ( 面壁九年 ) 故事 の溶岩ドームができて三重式の火山 となった。山の名はアイヌ語のタル は有名であり , 梁の武帝との問答 , オマイ ( 噴火によって地面が高くな 弟子の慧可が腕を断って求法の志を ったという意味 ) に由来する。南面 示したことなどが伝えられている。 は噴出した多量の火山灰がゆるやか 中国渡来年代も異説が多く確かでは ないが , 5 世紀の末ころと推定され な斜面をつくり , 数十条の凅沢が る。大乗安心の法を説いたが , それは ふもとへ向かって流れる。さらに低 だれでも仏となるべき性質を備えて い部分は森林である。山頂から風不 いるから正師の導きによりその信に 死岳 ( 1103 m ) や支笏湖がのぞまれ , / 支笏洞爺国立公園に含まれる。支 徹し壁観という神法を行し道の本質 に一致する法を体得するということ 笏湖から登山バスがある。〔谷口〕 である。日本に神宗が伝えられた当 : ダルマチア Dalmatia ユーゴス 初は「達磨宗」といわれ , 祖師とし ラビアの北西部 , アドリア海に面し ての達磨像が多く描かれた。彫刻で て , 北西から南東に連なる長さ約 460 は奈良達磨寺の像が有名。〔横井〕 の細長い海岸地帯。カルスト地形 タノレノヾガン ノ 祈願かなってだるまに 目を入れるという風習 は各地にみられるが , これは選挙戦にまでも ち出された大だるま 送確差民
シンセイド ロン : ン一 1 7 8 唐寅らがあるが , 彼らは北宗画系 の復興にまでさかの一よりうるが , カ イイ ロリング朝の解体後に現われた , 西 の浙派に対して呉派とよばれ , 明末 の董其昌が大成して清朝画壇の主流 欧最強の政治権力であるドイツの王 権が , オットー 1 世のもとで , 法王 ともなった。 / ( 別刷 ) 明〔杉村〕 プランンデルグ ヨハネス 12 世による帝冠授与を通し しんせつきじたい新石器時代 \ ーラ , ド王国 / 旧石器時代 , / 中石器時代に続く て , ふたたび古ローマ帝国の伝統と ドレスデン 時代であり , 農業の開始 , 磨製石 結びついたもの。「ローマ帝国」の名 器の使用などを特徴としている。 は , 史料上では 1 ( ) 34 年にはじめて現 プラ / 、 のことは・は New Stone Age あるい われる。しかし公権力の封建的な分 は NeoIithic Age の日本訳である。 散状態のもとでは , 帝国も実質的な neos はギリシア語で「新しい」を意 領域性をもちえす , 皇帝が同時にイ 味し , lithos は「石」を意味する。 タリア王を称したところから , ドイ 石器時代をはしめて旧石器時代と新 ツとイタリアが外形的に帰ーしたの みで , 官僚制による中央集権はつい 石器時代との二つに分けたのは , 英 に実現をみなかった。そのうえ , も 国の考古学者ジョン・ラボックであ り , 彼の著書によれば「新石器時代 ともと皇帝はローマ教会を保護し , とはフリントや他の岩石をみがいて 法王は皇帝に忠誠を誓うたてまえで あったのが , 現実には教会支配をめ 作った美しい武器や道具を特徴とす ぐって両者のヘゲモニー争いカ { たえ る時代であり , 日用品としては金属 す , これにからむ歴代皇帝のイタリ がまだ用いられていなかった」とし ア経略がドイツ内部の封建的アナー てある。しかし現在欧州の考古学界 1152 年に即位した キーを促進した。 で考えられている新石器時代の概念 しんせいどうめい は , 1 ) 農耕の開始 , 2 ) 家畜の飼養 , 神聖同盟 18 シュタウフェン家のフリ ドリヒ 1 3 ) 上器の製作 , 4 ) 磨研による石器の 15 年 9 月 26 日 , ロシア皇帝アレクサ 世のもとで , 帝権はふたたび輝き , 製作 , という四つの要素をその特徴 ンドル 1 世 , オーストリア皇帝フラ ュスチニアヌス帝の伝統に結びつく とするものである。 「神聖帝国」の称号もここにはしま ンツ・ヨーゼフ 1 - 世 , プロイセン王 〔食糧生産および社会の変革〕農耕 ドリヒ・ウィノレヘノレム 3 - 世の ったが , 政治的実体としての帝国は の開始と家畜の飼養という新しい生 ノヾリで締結された同盟。各君 有名無実化し , 以後は王朝の交替も 間に 産方法が , 人類の生活に及は、す影響 主は聖書の教えにしたがい兄弟の愛 盛んで , 13 世紀後半には / 大空位時 はひしように大きなものであった によって助けあい , 人民に対しては 代を現出した。 14 世紀には選帝侯の 家父長のごとくこれを指導し , 信仰 , 制度が確立してドイツの領邦的分裂 それまでの数十万年間 , 狩猟と採集 平和 , 正義の擁護のために彼らを鼓 は決定的となり , わすかに帝国議会 にたよって食を得ていた人間の小さ 舞することをうたっている。提唱者 がルーズな連邦的統一性を表現する な集団の代わりに , 土地に定着した はアレクサンドルで , 彼のロマンチ こととなる。 1438 年以降 , 帝位は事 共同体が現われた。単に狩猟する人 ックな理想主義には , 熱心な信仰家 実上 / ハプスプルク家に独占された たちにとっては , 獲物はいつでもと クリューデナー夫人の感化と , ドイ カ { , フリ れるものではないという心、配があっ ドリヒ 3 世以後はイタリ アの王冠を失い , カール 5 世を最後 たし , 彼らの貯蔵食糧はきわめて短 、ソグ ) 4 イ学第者・フランツ・フォン・ノヾーー ダーの覚書くフランス革命によって 期間に失われるものにかぎられてい に法王による戴冠もなく , ハプスプ もたらされた , 宗教と政治との新た ルク家は帝位を家門権力の伸張に利 た。ところが , 農耕の採用が行なわ れてからは , 穀物で満たされた倉庫 用するのみだった。列強の国民的発 な内的結合の必要性について > の影 がその心配を不必要なものにした。 響がみられる。やがて英国摂政とロ 展とドイツ内部における領邦主権の 家畜の群をもった農耕民は , さらに 確立により帝国は事実上生命を失っ ーマ法王 , トルコ皇帝を除く欧州の 生きている食糧倉庫をそなえている 君主はすべてこれに加入したが , ていたから , 1806 年ナポレオンの圧 カ下での皇帝フランツ 2 世の退位も , ことにもなり , 凶作のような不慮の の同盟自体は「一片の崇高な神秘と 一片の儀礼にすぎなかった。〔成瀬〕 災害から身を守ることができた。新 ナンセンス」 ( カッスノレリー ) にとど まり , 現実にはメッテルニヒの指導 しい生産技術の採用はまた , 規則正 しんせきでん沈石田 1427 ~ 15 しい共同生活へ人間を追いこむこと 09 中国 , 明代の画家。名は周 , あ のもとで , 列強政府によるウィーン でもあった。上地と家畜とを中心と 反動体制の維持 , 自由主義運動抑圧 ざなは啓南で , 石田は号である。江 して人間は 1 カ所に集まり , 共同社 のために利用される結果となった。 蘇省蘇州の人。詩文 , 書画ともに巧 会を形成した。村づくり , 家屋や倉 みで , 一生官吏とならす , 隠士とし しかし平和主義を掲げるその精神か , 庫の建築 , 農耕や家畜の保護といっ て終始した。彼の名声は明中期の第 復古時代の欧州外交をなにほどか規 た主要な仕事が , さらにこまかく分 定したことも否定できない。〔成瀬〕 一人者として高く評価され , その詩 化した労働を生み出すのである。貯 は唐の杜甫白居易 , 宋の蘇軾 , しんせいローマていこく神聖ロ 蔵された食糧 ( 穀物 ) や家畜を襲撃す 陸游を学び , 絵は宋の諸大家 , とく ーマ帝国 962 年 , オットー 1 世の戴 る野獣や , ときには人間どうしの敵 に元末の四大家を習って山水のほか 冠より , 1806 年まで続いた旧ドイ が現われ , 防御と闘争が新しい意味 に花鳥画もよくして / 南画隆盛の基 ッ帝国の称号。理念史的には , 800 年 , で生してくる。これは富と戦争の初 カール大帝の戴冠によるローマ帝国 をつくった。彼の門下には / 文徴明 , めでもある。食糧の確保と共同体の 、新気い、 発達に伴って , 人口は激増しはしめ 当。 古い秩序の終わりと , 新しい世界の 誕生とを意味している。英国の考古 学者ゴードン・チャイルドはこれを 食糧生産の革命といっている。 〔新石器文化の発祥〕新石器文化が , いつ , どこで起こったかについては , ハンプルク プレーメン ラ つケルン 0 マインツ マン シュトラスプルク ャウ川 ノくリ 7 ュ チューリヒ ペ ) レン ジ、ネープイ 4 0 ミラノ ジェノノく フィレンツェ ハンガリー王国 ~ ベネチ ルイユ アラコン 王国 シュタウフェン朝時代 の神聖ローマ帝国 : サツレジ : 三 : ア ~ 沈石田く山水図巻 > 部分 15 世紀末
ズツベ 野外用には防水加工をほどこして用 いる。なおダック・こ、 ( 夕、、ツクキャンバ ス ) と通称されるのは亜麻糸を平織 りにしたもので洋服の心地とされる。 〔小川〕 ス、ツ′、 Franz von Suppé 18 19 ~ 95 オーストリアの作曲家。ウ ィーンの音楽院卒業後 , 劇場付指揮 者兼作曲家として活躍し , オペレッ タと軽音楽の作曲家として名をなし た。その作風はウィーン風な軽妙さ と , イタリア風の美しい旋律性をも っている。オペレッタくボッカチョ〉 ( 1879 ) をはしめ , く詩人と農夫 > ( 18 45 ) , く軽騎兵 > ( 1866 ) などの序曲が とくに有名である。 〔角倉〕 すつばんスッポン科に属する / カメ。日本に 1 種だけを産し , 本 羽ヨ , 四国 , 九州の淡水に分布する。 甲長約 2 ( ) cm 。背甲ははは・円形で , 表面 に多数のいは、状突起がある。中央部 はやや隆起し , 石灰質が沈着してや や堅いが , 周縁部は肉質で少し柔ら かい。背甲も腹甲もカメ類の特徴で ある角質甲を成さない点が特徴であ る。くびは長いが , 頭とともに完全 に甲内に引き込むことができる。吻支 は柔らかく , 細長く突出し , 先端に 外鼻孔がある。四肢のみすかきは発 達し , 内側の 3 指にはつめがある。 背甲は濃オリープ色 , 腹甲は白色ま たは淡黄色である。頭の腹側には灰 色の不規則な班紋がある。水底の泥 土中に潜み , ときどき吻端を水面上 に出して呼吸し , ときには陸上に出 る。魚貝類を常食とし , 性激しく角 質のあごで盛んにものにかみつく。 5 ~ 6 月ころ水辺の砂泥に深さ 15cm 内外の穴を掘って , 径 2 cm くらいの 白色球形の卵を 30 ~ 6 ( ) 個産む。卵は 約 2 カ月でふ化する。冬は泥土中で 越す。肉は美味で食用にされ , 各地 で養殖されるが , 冬季のものをもっ とも美味とする。血液は滋養に富む として民間で用いられる。中国南部 , 台湾のシナスッポンは日本でも食用 2 7 2 ステアリンさんステアリン酸 高級脂肪酸の一つで脂肪光沢をもつ 白色葉状結品。分子式 C17H35C ( ) ( ) H 。 水には溶けないが有機溶剤にはよく 溶ける。牛脂 , 豚脂 , ゴマ油 , 大豆 油など多くの動植物油脂中にグリセ リンとのエステルとしてひろく存在 し , リン脂質 , ロウ中にも含まれる。 ナトリウム塩はセッケンの主成分で , 油脂をカセイソータ、、でケン化してっ くる。ステアリンロウソクはステア リン酸とパルミチン酸との混合物 , いわゆるステアリンを原料としてつ くったものである。医薬としては軟 こう , 座薬などをつくるのに用いら れ , またバニシングクリームなど化粧 品の製造にも多量に用いられている。 〔千原〕 ステーキ s te a k 西洋料理の焼 肉のことで , テキと俗称される。牛 , 豚 , 羊 , 鶏 , ヤキ・あるいは鯨の肉が 使用されるが , 牛肉 ( ビーフ ) を用い るのがふつうである。牛肉の中でも その部分によってロースのサーロイ ンステーキ , 腰肉 ( ラム ) のランプス テーキなどの名がある ( / ビーフス テーキ ) 。またひき肉の場合は / ハ ンノヾーグステーキとよはれている。 ステーキの方法は炭火を用いたあふ り焼きと油脂類を用いてフライ . ′、。ン で焼く方法がある。焼き方もさまざ まで米国風 , ロシア風 , アンダルシ ア風などがある。フランス料理のシ ャトープリアンは代表的なステーキ の一つで , その作り方は , 牛肉はヒ レ肉を 1 人前 2 ( ) 0 g くらい用いる。肉 を香辛料 , タマネキ、などをませたサ ラタ、、油に 1 ( ) 時間くらいつけ , サラダ油を半量すっ入れたフライバ ンで焼く。 ノヾターソースやプラウン ソースが適し , サラタ、、 , 揚げジャガ ノ、シカ、、ヤ , ポヘミャウシノケグサ トサカミノボロなどがおもなもの。 しばしば同様な気候下のイネ科草原 もステップとよばれ , ノ、ンカ、、リーの プスタ , 北米の / プレーリー , 南米 の / ハ。ンノヾスなどはその例である 〔前島〕 ズテ・一テン〔山脈〕 Sudeten 中 部ヨーロッノ、 , チェコスロ - パキアと ポーランドの国境から東ドイツの一 部にかけて連なる花コウ岩の山脈。 全長約 31 ( ) km , 幅 3 ( ) ~ 5 ( ) km 。西部 , 中部 , 東部の 3 地方に分かれ , 最高 峰はシュネーコップ山の 1603m 。気 候はきびしく 1 月で一 4 ~ 7 月で 8 ~ 14 ℃となっている。有用 鉱物を埋蔵し , 石炭 , 鉄 , ニッケル , 銅などを産し , その他石墨 , 白色陶 なども出る。山ろくには繊維 , ガ、 ラス , 製材 , 製紙などの工業が栄え ている。またエノレベ , オーデノレ , モ ラノヾなどの川の源となっており の水を利用して発電も行なわれる。 シュヒ。ンドレノレーフ・ムリン ( チェ コ ) , ェセーニク , ドウシニキ・ズド ルーイ ( ともにポーーランド ) などの温 泉があり , 保養地もある。最近数本 の鉄道が横断して観光客を誘致して いる。 1938 年 1 ( ) 月ヒトラーーのこの地 方のドイツへの合併は第二次大戦の 誘因となった 〔相場〕 イモなどをそえる。 〔関〕 にされる。 〔松井〕 〔料理〕日本では , だしで煮ながら 食べるスッポンなべか、おもで , スッ ポンの異名を「まる」というので , まるなべともよばれる。骨 , 肉 , 内 臓 ( は、うこうと胆嚢を除く ) すべてが 食べられる。また吸い物にもする。 なお , これらはショウガのしほ、り汁 を用いるので , これを入れた汁物は 「スッポン仕立て」と名づけられる。 〔柳原〕 ステッキ st ick 洋風のつえで 老人などの歩行を助けるものと , 男 子用のアクセサリーとカ { ある。また 白色のものは盲人用として世界的に 決められている。アクセサリーとし ては 16 世紀ごろから男子が用いたカゞ 17 世紀には細いものを婦人も使用し , 18 世紀のルイ王朝時代には装飾的な ものが男女ともに愛用された。日本 には明治の半は、ごろから男子のアク セサリーとして流行した。ステッキ の材料としては南米産のスネークウ ッドをはしめ , トウ , 根竹などが代 表的なものである。 〔青木〕 ステップ・ s te pp e ユーーラシアの 内陸に発達する乾燥草原で , ドナウ 川の下流地方 , ョーロッノ、ロシア南 部 , シベリア南西部に分布。イネ科 草原が圧倒的に優勢で , 地表のはと んどは草本によっておおわれる。春 から初夏へかけての降雨季に開花 , 結実するが , 盛夏には娵端な乾燥の ために植物の地部は枯れてかっ色 、ネがヤ類 , コがネカモノ となる。 ステ / Nicolaus Steno 1638 ~ 86 / 87 テンマークの地質学者 , 解剖学者 , 神学者。 Niels Stensen が本名 , ステノはラテン名。とくに 地質学に対する功績は大きく , 海成 や淡水成の地層についての研究を発 表し , 化石が古くからあったこと , 地層の中には生物が出現する以前に 堆積したものがあること , 累重する 地層の傾斜は地殼変動に基づくこと などを指摘した。さらに , 同種の鉱 物レ洋吉品において面と面とのなす角 ステープルファイノヾー 一定の法則 ) を発見した。 度に一定の安定性があること ( 面角 staple 〔尾崎〕 人造繊維束 ( トウ ) を短く切断しなが 単繊維を数千本集めて太い束にした 法で紡績する方法と , 長く連続した 紡毛糸を製造するのと同し機械と方 る。スフの紡績法としては , 綿糸や 維にして捕集するものとの二つがあ させるときこれを巻き取らすに短繊 るものと , ビスコースを糸状に凝固 製造したものを適当な長さに切断す ビスコーススフは人絹とはは、同様に フといえは、ビスコーススフをさす。 をスフとよぶことが多いが , 単にス レーヨンスフおよびアセテートスフ 糸 ) の総称として用いることもある。 維をいう。スフを紡績した糸 ( スフ 維を紡績用に短く切った綿状の短繊 断して用いたのにはしまり , 人造繊 の代用品として人絹 ( レーヨン ) を切 次大戦中ドイツにおいて , 羊毛や綿 fiber 略してスフとよばれる。第一