6 3 8 ダイユドウ 光球には地球の地面のようにはっき りした境があるわけではない。光球 はガスのかたまりであるか・ , そのが スの密度がしだいにうすれて大気に 続く。表面重力が大きいために , そ のうすれ方が急激であり , ある程度 までうすれると不透明なガスが急に 透明になる。この不透明と透明との 境が光球面であり , 実際には 50km は どの範囲で不透明から透明に変わる。 光球面は一様に輝いていない。中央 部から遠ざかるほど暗くなり , 周辺 付近では中央部の明るさの % くらい しかない。周辺部では色もかっ色が かる。これは周辺部では厚い大気層 を通して光球を見ているからである。 この周辺減光は , 太陽を望遠鏡で白 紙トに投影してみるとよくわかる。 有名なダイヤモンド。 白班は太陽の周辺部でよく目だち , 地球の面積の 1192 ( ) 倍 , 体積は約 13 ( ) 530.2 カラットの大石はセプター ( 王 1 南の星プラジル産 これは高一 脈状を示すことが多い。 で , 1853 年発見。 125. 5 万倍となる。太陽の質量は 1. 99 ( ) 5X 笏 ) へ , 317.3 カラットの石は第 1 カラット , 光線のぐあ のがスが内部からもりあがったもの 1033g で , 地球の質量 ( = 5. 975X1027 公式王冠に配され , その他大小 10 個 いで淡紅色に輝く。 2 で , いわば高温ガスの山脈である。 g ) の約 33 万倍である。それで太陽を の石もいすれも英国王室に秘蔵され グレートモーグルイ 比較的安定で , 数日間同しような形 分割すれば , 地球ぐらいの惑星が 33 ている。 5 ) ホープ 44.5 カラットの ンド産中最大で 2 5 ( ) カ をしている。黒点に関連しているこ 万個作れる計算になるが , 実際はあ インド産の石で , 帯青緑色のユニ ラット。 17 世紀後半以 とが多い。空気が落ち着いていると とで述べるように地球と太陽とでは 後消息不明。 3 アフリ クな美しさと , 古来所有者に不幸を きに高倍率の望遠鏡で太陽を見ると , 力の星世界最大のダ 化学組成がまるで異なるので , 太陽 もたらしてきたことで有名。〔堀〕 イヤで , 初めカリナン やや薄暗い背面の上に白い小さな粒 たいゆどう大楡洞 ( テュトン ) には地球を約 33 万個分集めたはどの と名付けられたが , ジ 状体がたくさん見られる。この粒状 北鮮 , 平安北道北東部にある金銀鉱。 物質があるという表現は正しくない。 ョージ 5 世の命名で「ア 体は変化が急で , 数分間で様子が一 体積に比べて質量が小さいので , 太 東洋一の称ある雲山金鉱の北西 28km フリカの星」となった 変する。直径は数百 km の程度である。 陽の平均密度は地球の平均密度の約 にあり , 雲山に次ぐ優良鉱といわれ 4 フロレンチンやや これは太陽の内部から高温ガスが上 黄色みを帯びたダイヤ。 % で , 水の 1.41 倍にすぎない。表面 る。鉱脈幅平均 2 m , 班状花コウ片 5 コイヌールもとロ がってきて , 表面の冫分えたガスと入 における重力は地球の場合の 28 倍で , 麻岩の中に石英と共存する。李朝時 ーズ形のダイヤであっ れかわるためにできる現象で , 静置 太陽表面で物を落とせば最初の 1 秒 代末期フランス人によって発見され , たカ { 1852 年このような されたみそ汁の中にこれによく似た 間に 137m 落ちるし ( 地球では 4. 9m ) , 次いで英国資本によって開発された 形に研摩された。なお , 現象が起こる。 体重 50kg の人が太陽にいけば体重は 〔村〕 鉱山である。 コイヌールは「光の山」 〔大陽の自転〕太陽は自転する。 たいよう太陽 / 太陽系の中心 14 ( ) Okg となる。 の意という の現象を最初に発見したのは , ガリ 〔各部の名称〕われわれが毎日見て に位し , われわれ地 -. ヒに生きる生 レイであって ( 1610 ) , 自作の望遠鏡 いる太陽面を光球という。前にしる 物が必要とする光と熱とを送ってく で太陽の黒点を観測し , 黒点の規則 した太陽の半径とは , この光球の半 れる天体。太陽とはどんな天体なの 正しい運動から推論した。日面緯度 径をさす。光球 - E には , ときによっ か , その実体がわかり出したのは比 35 。以下は黒点の観測から自転周期 て黒いしみのようなものが見える。 較的近年であって , まだ 1 ( ) ( ) 年とは が得られるが , それより両に近い たとえば太陽の距離 これが太陽黒点 ( / 黒点 ) である。ま たっていない ところでは黒点の出現が少なかった た黒点とは反対にひときわ明るく見 にしても , コペルニクスは地球の半 り , あるいは全然出ないので , 黒点 える部分もある。これを白班という。 径の 1140 倍 , ケプラーは同しく 32 ( ) ( ) は利用できない。それで分光器を用 光球より外側には大気があり , 大気 倍と考えていたほどである ( 実際は いて太陽の東西両縁付近のスペクト は光球に近い彩層と , それより外側 約 2347 ( ) 倍 ) 。しかし , 太陽研究の進 ルをとり , スペクトル線のすれから にひろがる / コロナ ( 光冠 ) とに分か 歩は近年著しく , 太陽の誕生から進 東縁の接近速度 , 西縁の後退速度を れる。彩層の厚さは 1 万 ~ 2 万 km 程 化まで考えることができるようにな 測り , それから自転周期を測定する。 度 ( 場所により , 時により異なる ) , 左の表でわかるとおり , 太陽の自転 その主成分である水素が出す光によ 〔距離と大きさ〕太陽と地球間の距 周期は日面緯度によって異なり , 赤 って赤く輝いているのでこの名があ 離は平均 14954 万 km , これは 20 世紀 道に近い部分ほど自転が速い る。彩層からコロナの中に , ときお になってからの測定値を , その精度 現象を赤道加速という。赤道加速の り赤い炎が飛び出しているのが見ら を考えにいれて平均したものである。 原因についてはまだよくわかってい れる。これを紅炎 ( プロミネンス ) と 地球の軌道はだ円なので , 太陽地球 ない。太陽の自転軸は地球の軌道面 いう。黒点と白班はふつうの望遠鏡 間の距離は季節によって増減する。 に対して 82 。 35 ' 傾いている。その結 で見られるが , 彩層と紅炎を見るに 太陽がいちばん近いのは毎年 1 月 2 果 , 毎年 3 月ごろに太陽の南極が地 は特別な装置 ( 狭域フィルタまたは 日ごろで , 平均より約 25 ( ) 万 km 近く , 球に向き , 太陽面上における黒点の 分光太陽儀 ) を必要とする。空気が いちばん遠いのは 7 月 4 日ごろで , 移動経路は北に向かって凸に曲がる。 特別に清澄な高山でコロナグラフと 平均より約 25 ( ) 万遠くなる。太陽 9 月ごろにはこの逆となり , 黒点の いう特別な装置を使うと , 光度が強 の見かけの半径は平均 15 ・ 59.63 " で , 移動経路は南に向かって凸となる。 いコロナ下層部は毎日観測できる。 これは 10 円硬貨を目から 247Cm 離す 6 月と 12 月には地球は太陽の赤道面 皆既日食になると , 望遠鏡なしで彩 と , 太陽がすつばり隠れる大きさで 内にあり , 黒点の移動経路は直線と 層 , 紅炎 , コロナが見られる。 ある。上記の距離と見かけの大きさ なる。なお自転軸がきまるから赤道 〔光球〕倍率がどんなに大きい望遠 から , 実半径を計算するのはたやす 面がきまり , したがって太陽面上で 鏡で見ても , 光球の周辺はナイフで い。その値は 695600km で , 地球の半 も緯度がきまる。日面緯度は , 切ったようにはっきりしているが , 径の約 109 倍 , したがって表面積は 太陽の自転周期 日面緯度周期 ( 度 ) 24. 65 24. 85 25. 19 25. 85 27.48 29. 00 30. 93 32. 50 33.57 34. 00 、 1 2 3 -4 5 0 っー 8
4 0 0 セイドウ 壇と内陣および一般信者席を備える 聞 > を刊行。 07 年 , 党内に直接行動 年三 一五事件直後禁止された。 , 政党 ( 補 ) 1964 年 11 月 , 宗教団体創価学会の政 のが基本で , そのほか教区聖堂には 論 ( アナルコ・サンジカリズム ) が台 の時期の無産政党は , それぞれ労働 治組織である公明政治 洗礼盤や信者の告白の室がある。聖 組合 , 農民組合を基盤に左 , 右 , 中 頭したとの理由でこれも結社禁止と 連盟が公明党と改称し 堂のうち , 司教管区の中心である司 間に分かれて抗争し , この傾向はそ なった。その後 / 大逆事件以後 , 大 た。綱領に , 1 ) 王仏冥 教座 cathedra のある聖堂をカテド の後の日本無産政党史に尾を引いて 正期のロシア革命 , 米騒動を契機と 合の理念のもと 1 こ地球 ラル cathedral( 司教座聖堂 ) とよび , する労働者や農民の運動の高揚期ま いる。しかし , そのなかにも絶えす 民主主義による人類救 大聖堂とか大教会 , 本寺などと訳さ で沈滞期をすごした。 2() 年 , 社会主 合同への動きはあり , 28 年 , 日本労 済と世界平和 , 2 ) 人間 性社会主義による大衆 れる。ドイツのドーム , イタリアの 義勢力の結集という役割をもった日 農党 , 日本農民党などを合同した日 福祉 , 3 ) 仏法民主主義 ドウオモもカテドラルを意味するが , 本社会主義同盟 ( 新人会 , 思想 , 労働 本大衆党 ( 平野 , 麻生久ら ) , 30 年 , による大衆政党 , 4 ) 公 団体の社会主義者 3() 名発起人 , 21 年 これは , 神の家のラテン語 dommus 中間派の合同党である全国大衆党 明な議会制民主主義な d e i に由来する。なお , 一般会衆の 結社禁止 ) , 22 年 , 非合法下に日本共 ( 麻生ら ) , 32 年 , 無産政党の一応の どをかかげ , 政策面で ためでない礼拝所はネし拝堂 ( チャベ 産党結成などがあったが , 合法無産 大同団結である社会大衆党 ( 安部ら ) は憲法改悪や核兵器持 政党の結成は , 25 年 , 日本農民組合 ル ) といい , また修道十 ( または修道 結成に及ぶ。しかし合同によって , ち込みに反対し , 自主 外交確立と国連中心主 を中心とする労農諸団体との折衝を また , 満州事変発生な・ど時代の緊迫 女 ) のっとめる場所は / 修道院とい 義のはか , 住宅問題 , って聖堂から区別される。 / 教会 へて , 農民労働党 ( 浅沼稲次郎ら ) が によってその性格は著しく右翼的と 流通機構改革 , 社会保 〔田上〕 なり , 共産主義排撃の強調 , ファシ / 教会堂建築 結成された。しかし , 同党は結成 3 障 , 減税など国民生活 時間後に , 共産主義の実行を企てる せいどう青銅青銅は人類がも ズム勢力への接近があった。 40 年社 安定策を打ち出してい ものその他の理由で禁止された。翌 会大衆党は解党し , 右派系の人は大 っとも古くから使用した金属であり , る。議会への進出は , 銅とスズを主成分とする合金である。 26 年 , 議会を通しての社会改革をめ 政翼賛会に加盟していった。一方 , 1955 年に創価学会政治 連盟から地方議会へ進 プロンズといわれ , 俗に唐金とも ざす労働農民党 ( 杉山元治郎ら ) が結 37 年 , 国際的な反ファッショ人民戦 出したのを皮切りに いわれる。青銅の色は , スズの量が 成されたが , 当初の左翼排斥方針に 線運動にこたえて結成された日本無 参議院へは 56 年 3 , 59 5 % 以下のものは銅と同じ , スズを 対して , 左翼からの加入要求をめぐ 産党 ( 鈴木茂三郎 , 加藤勘十ら ) は , 年 9 , 62 年 15 と議席を だんだん増すと黄色になり , 15 % で って分裂 , 右派の脱退となり , 右派 同年 12 月禁止された。 増し , 62 年創価学会政 は赤みがかった黄色である。さらに は , 26 年日本労働総同盟を中心に無 〔戦後〕第二次大戦後 , 日本の政党 治連盟を解消して公明 スズを増すと白みをおびてきて , 25 産政党右翼である社会民衆党 ( 安部 , は再出発をした。日本社会党 , 日本 政治連盟を結成 , 63 年 % のものは青みがかった黄色である。 の統一地方選挙では , 片山哲ら ) を結成した。また 26 年に 自由党 , 日本進歩党 , 日本協同党 , 817 人が当選した。 64 年 各種の用途に使われている青銅には は , 山梨県を中心とする無産政党最 日本共産党その他多くの政党が 1945 には衆議院進出を決定 , アルミニウム青銅のはか , リン青銅 , 右翼の日本農民党 ( 平野カ三ら ) , 左 年のうちに設立ないし再建された 公明党と改称。 66 年 1 ケイ素青銅 , カドミウム青銅などの 右抗争の中間に立つ日本労農党 ( 三 現在は . 自由民主党 , 日本社会党 , 月現在 , 参議院 20 , 東 各種の二元銅合金がある。青銅をス 輪寿壮ら ) が結成され , 無産政党は 公明党 , 民主社会党 , 日本共産党が 京都議会 23 をはしめ地 ズ含有量で大別すると , 青銅貨幣や おのおの勢力の大小はあるが , 労働 〔小林〕 おもな政党である。 方議会に多くの議席を もっている。委員長辻 銅メダルは 4 —10%, 美術工芸品や せいどう聖堂教会堂ともいい 農民党 , 日本労農党 , 社会民衆党 , 武寿 , 書記長北条浩。 銅像は 1 () ~ 25 % , つり鐘は 20 ~ 25 % , キリスト教の信者が集まり , 公に礼 日本農民党の 4 党並立となった。分 機関紙く公明新聞 > 。 砲金 ( 機械部品材料 ) は 9 ~ 11 % であ 拝する建造物。神学的には「神の家」 裂後の労働農民党 ( 大山郁夫 , 細迫 る。 / 砲金 / リン青銅〔雀部〕 と考えられ , 天なる神が地上に宿る 兼光ら ) は , 左翼勢力の指導権のも せいどうき青銅器青銅で作ら 場所とされる。時代 , 地域 , 宗派に とに , 日本共産党の合法舞台ともい れた利器 , ひろく道具の類をいう。 よってその建築様式は異なるが , 祭 えるような活発な運動を行ない , 28 先進文化地域では石器時代に次いで , 銅と青銅が最初の金属として現われ 鬲 角 る。青銅を作るのは金属文化の第 2 7 ー電ー 期で , 自然銅をたたきのばして作る 方法とは異なり , 鉱石を溶かして銅 を作るヤ金術が知られた。銅を精練 する方法は前 5 千年紀の後半 , 西ア ジアで行なわれたのが最古のようで ある。エジプトでは先王朝期 , 小ア ジアのアナトリアでは前 3 千年紀 , インダス文明でもはは、同しころに銅 製品が用いられている。約 10 % のス ズを混せたほんとうの青銅は前 250 ( ) 年ごろ北イ . ラクで作られた。、この銅や 青銅の知識は , 小アジアやエーゲ海 域から北および西に伝わり , 前 15 ( ) ( ) 年ごろにはスカンジナビアのような 北辺の地まで青銅器時代が出現した。 殷周青銅器 ( 容器 ) の器形分類 鼎 , 鬲 , 甑 烹熟器 食器 器 羸 , 豆 , 黒 , 盛 器 山 , 尊 , 方彝 , 咒航 , 盛 壺 , 甑 ( はう ) , 罍 , 番 器 雌 , 角 , 爵 , 觚 , 解 飲 盤 , , 甑 , 洗 , 盃 ( う ) , 彎ーー卩ー 3 もーム・ 洒器 ヾ ( こア、 ( 少 水器 堆器
ジンタイ 1 8 4 に弾力で員殼を開かせる外しん帯で な調節機能の働きの座でもある。ま る。多分に芸術性を欠いた七五調文 ある。ホタテガイなどは同し働きを た内分泌腺は , 化学的物質すなわち 語体の詩であったが , 近代詩の根源 するものが内側にあるので内しん帯 ホルモンを分泌して物質代謝のコン となり , それにつづいて多くの詩作 , とし、う トロールを行ない , ひいては成長や 詩論が試みられた。なかでも森鵰外 〔鈴木・福井〕 発育を調節する。 じんたい人体われわれは毎日 らの新声社同人による訳詩集く母 いろいろのものごとを見 , 聞き , 感 最後に生殖作用を分担する生殖器 影〉 ( 1889 ) は芸術的香気の高い西 があって , われわれの身体のしくみ し , あるいは働いたり , しゃべった 欧の詩の世界を伝えることに成功し , り , 食べたり , またその間絶えす息 は完成する。あらゆる生命あるもの また同しころ発表された北村透谷の と同しく , 人体もまた永久にその生 をしつつ生命の営みをつづけている。 新体詩は近代的な思想と感情を表現 命の営みをつづけることは不可能な そしてこれらの働きは , けっきよく しているが , 新体詩が詩として最初 のところ , 体内で行なわれる物質代 ため , 迫りくる老衰と死による生命 の芸術的完成をとげるには , 島崎藤 謝と , それに伴うエネルギー代謝の の営みの中断を , 新しい世代を産む 村の / く若菜集〉 ( 1897 ) をまたねばな 結果にはかならない。そこで生命の ことによって存続させるためのもの らなかった。土井晩翠 , 薄田泣菫 , である。 営みをつづけていくためには , エネ 蒲原有明語らの詩人がこのあとに 〔人体を特徴づけるもの〕さて上に ルキ、一の源となる栄養物を身体に補 続いたが , 明治 40 年代になると詩と あげた人体の構成要素ないしそれぞ 給し , その酸化に必要な酸素をとり いえば新体詩をさすこととなり , 入れ , また物質代謝の結果生する不 れの働きは , 原則的にはヒト以外の の語は自然消滅した。 / 詩〔広末〕 用物や老廃物 , および炭酸がスをと 動物一般のからだにもみられる。た しんたいしようがいしやふくし り除く必要がある。消化器 , 呼吸器 , だ動物が高等になるはど , その個体 身体障害者福祉日本の身体障害者 および排出器 ( 泌尿器がその代表的 を環境に適合させる能力が高度とな 福祉対策は身体障害者福祉法 ( 昭 24 なもの ) がこれらの働きを分担して り , 換言すれば , 個体の環境に対す 法 283 ) を中心に行なわれている。本 いる。さらに栄養物やがスや老廃物 る適応範囲ないし独立性が高められ 法は身体障害者の職業能力や生活能 を体内のそれぞれの場所に運ぶ必要 る。そしてヒトはそのもっとも極端 力を回復させ , その社会復帰をはか な例であって , 酷寒の極地から酷熱 があり , 血液と血管および心臓から るための更生援護を目的としている。 の地 , あるいは超高空においても生 なる循環器がこのやくめを担当する。 したがって経済的援助は直接の目的 このような各種の作用は , いわば生 きつづける方法を見いだしてきた とはしていない。本法でいう身体障 これらはいわば上にあげた関係機能 命現象を保っための基本的な働きで , 害者とは , 本法別表に掲げる身体上 が高度な能力を発揮しているためで どの一つを欠いても生命の維持は不 の障害のある 18 歳以上の者で身体障 あるが , 要するにその機能の中心と 可能となる。これを広い意味の栄養 害者手帳の交付を受けた者である。 なる神経系 , ことに脳の発達につれ , 機能とよぶが , 植物性機能 , 自律性 障害は視覚障害 , 聴覚または平衡機 新しく人工的な感覚器や運動器 , す 機能 , あるいは内臓性機能というよ 能障害 , 音声機能または言語機能障 なわち道具や機械が作られたためで うな名もある。 害および肢体不自由の 4 種とされ , ある。人体そのものに関する構造上 一方 , われわれの毎日の生活は , 結核や精神障害など内部障害は含ま の第 1 の特徴はその直立姿勢で , そ その環境と身体との相互関係におい ない れに関連して頭がい腔および脳の大 て営まれている。すなわち外界のい 〔援護の機関と措置〕行政を主管す きいこと , 手足の機能の分化 , こと る中央官庁は厚生省であり , 援護の ろいろな刺激をとり入れ , 判断し , 実施機関は福祉事務所を管理する知 に手の運動が精緻芸い巧妙である点が そして外界に働きかける。これらは 事または市町村長であり , 福祉事務 重要である。これらの要素があいま 感覚器と運動器 ( 骨と筋肉 ) , および 所がその第一の現業機関である。 って人類の文化を産み , 発展させて その間を連絡する神経系の働きによ それぞれの福祉事務所には有給 , 専 きたのである。ヒトの身体が類人 るもので , 総括して関係機能とよん 門の身体障害者福祉司をおくことに 猿えなどのそれと異なる局所的な でよい。動物性機能ともいい , また なっている ( 各都道府県と横浜 , 名 事項 , たとえば頭がいの形や大きさ , やや不思議な用語であるが , 前にあ 古屋 , 京都 , 大阪 , 神戸 , 北九州の げた内臓性機能に対して体性機能と 脊柱や胸郭の形状 , 上肢の骨や関節 六大市は必す , 市町村は任意 ) 。 1964 もし、う。 のしくみ , 下肢の関節面の傾きなど 年 7 月 1 日現在 IO 51 人の福祉司のう は , いすれも上述の基本的な特徴 次に , 人体を形づくるこれらの各 ち 526 人は兼任という実情である。 種の器官の働きを相互に巧みに調節 ( 直立姿勢 ) に , 直接 , 間接に結びつ このほか都道府県は身体障害者更生 し , 一個体としての調和する生命現 いた変化にほかならないといえる。 象を営ませ , あるいは全身的な成長 なお胎生期間および未成年期間が長 相談所を設置している。相談所には , や発育をコントロールするものとし いこともヒトの生物学的な特徴であ 医師や心理・職能判定員が配置され , て神経系と内分泌腺がある。神経系 る。 / ( 別刷 ) 人体 〔細川〕 専門的な判定と指導を行なうことに は上述のように関係機能にあすかる しんたいし新体詩明治初期の なっている。手帳は身体に障害のあ 重要な要素であるが , 同時に全身的 る者から知事 ( 六大市長 ) の指定した 文明開化思想の流れにそって出現し 医師の診断書を添えて知事 ( 六大市 た新詩形。明治の啓蒙思想は詩の世 種類別身体障害者更生援護施設の現況 ( 1964 年 12 月末現在 ) 長 ) に申請 ( 15 歳未満の者は保護者が 界においても変革をもたらし , 西洋 代わって申請 ) すれば審査のうえで 詩歌の形式と精神をとりいれて新し 地方公共社会福祉 国立 交付される。援護の実施機関は身体 い詩をつくろうとした。江戸時代末 計 団体立法人立 定員 以来 , 訳詩や新詩形の試みがなされ 障害者の診査 , 更生相談 , 医療保健 数 数定員 数定員 数定員 てきたが , それが「西洋ノ風ニ摸倣 施設や公共職業安定所への紹介 , 身 収体不自由者更生施設 1 150 44 1802 45 1952 シテー種新体ノ詩」をつくり出そう 体障害者更生援護施設への収容また 容失明者更生施設 4 287 4 775 4 140 12 1202 は収容の委託 , 更生のため必要な医 という意識的主張のもとになされた 施ろうあ者更生施設 1 3 155 1 ( ) 0 2 55 療またはその費用の給付 , 盲人安全 のは外山正一 , 矢田部良吉 , 井上哲 設身体障害者収容授産施設 20 961 4 ( ) 1916 2 ( ) 955 っえ , 補聴器 , 義肢 , 車いすなどの 次郎共著のく新体詩抄 > ( 1882 ) がは 利用点字図書館 22 10 12 補装具の交付や修理などを行なう。 しめてである。西洋の訳詩とそれに 施設盲人ホーム 16 9 7 また国鉄では , 一定の場合に身体障 習った創作詩 19 編が収められ , これ 害者旅客運賃割引の取扱いをしてい まで詩といえば漢詩をさしていたの 注く厚生の指標 > 特集く福祉と国民生活の動向〉 ( 1965 ) , ただし点 字図書館と盲人ホームはく厚生白書 > ( 1963 ) に対して「新体詩」とよんだのであ る。史生援護施設の現況は左表のと 0 : 一口
スエード ている。 に充実した軍備を備え る空軍をはしめ , 相当 そぎ , 世界第 4 位を誇 軍備の拡充にも力をそ 似て , 中立を裏づける ている。またスイスに のために真剣に努力し れるとおり , 平和実現 事務総長の活躍にみら て , 故ノ、マーショルド ただし国連を舞台とし いう条件をつけている。 争には参加しない , と こったときでもその戦 にするような戦争が起 たとえば国連軍を相手 合への参加に際しても , なかったほか , 国際連 る。 N A T O に加盟し 中立外交政策にみられ の政治の特徴は , その 82 ~ ) 。スエーデン タフ 6 世アドルフ ( 18 工は 1950 年即位のグス スエーテン ( 補 ) 現国 は県会および 6 都市の市会から選出 された 8 年議員 ( 毎年 % を改選 ) , 後 者は直接選挙 ( 選挙権は 21 歳以上 ) に よる 4 年議員によって構成され , 両 院議員の被選挙権は 23 歳以上 , 両院 には権限上差がない。選出には比例 代表制が採用され , 1936 年以来社会 民主党が第 1 党を続けている。 1814 年以来国是ともいうべき中立外交を 堅持し , また自由主義国家群中でも っとも完備した社会保障制度をおし すすめる政策は , 野党の自由党 , 農 民党 , 保守党などからも力強い支持 を受けてきた。また , 49 年の北大西 洋条約機構 N A T O には不参加を表 明し , マーシャルプランとも 51 年に 手を切ったが , 汎スカンジナビア の協力体制確立には意欲的である。 〔経済〕この国の経済をささえるも のは , 豊富な森林 , 良質の鉄鉱 , そ して無限の水力である。このうち森 林は国土の 56 % をおおい , その大部 分がドイットウヒ , ドイツアカマッ などの有用樹種よりなる。年伐採量 は樹皮をのぞき 3800 万 m3 ( 1963 ) , そ の約 50 % がノヾルプ用に投入され , 木 材パルプは年産 579 万トン ( 1963 ) , 輸出量は世界 1 位である。紙類 , 化 学繊維 , プラスチックなどの生産も 多い。一方 , 鉄鉱は北部のキルナ地 区 , 中部のべリスラーゲン地区から 良質鉱が 1598 万トン ( 1964 ) も採掘さ れ , 世界に名高いスエーデン鋼の原 料となる。石炭と石油はそのはとん どを国外に求めねばならないが , 可 能包蔵カ年 8 ( ) ( ) 億 kW 時といわれる水 力が順調に開発され , 年間発電総量 は 452 億 kW 時 ( 1964 ) , その 65 % が重 点的に工業に投入される。各種の工 業が盛んであるが , とくに鋼鉄業は 世界的で , ポールべアリングをはし め各種の電気器具 , タービン , 車両 , 兵器などが名声を博している。また 第一次大戦後急に発達した造船業も 1964 年の商船進水総トン数は 104 万ト ンである。対外貿易も北欧ではもっ とも活発に行なわれ , 常態において 約 10 % の入超を示すが , これを補う 有力なものは海運業で , 商船保有量 ( 10() トン以上 ) は 431 万総トン ( 1964 ) である。またこの国の民芸 , ガ、ラス 工芸その他のモ夕、、ンクラフトも有名 である。 〔社会〕この国は , 社会保障制度の ゆきわたった福祉国家 , 生活水準の 高い文化国家の例としてよくひかれ る。国民 1 人当りの所得は日本の 3 倍以上であって , 貧富の差の少ない 〔戸谷〕 ことでは他に類をみない。 〔歴史〕スエーデン南部には太古か ら北ゲルマンに属するノルマン人が 居住し , 前 15 世紀ころより青銅器時 代 , 前 4 世紀ころには鉄器時代には いり , 6 世紀ころにはいくつかの小 9 ~ 11 世 部族国家をつくっていた 紀のノルマンの移動時代には , この 2 4 6 地のノルマン人は主として東方スラ プ地域に移動し , 商業活動に従うと ともに , ノブゴロド , キエフなどの 都市を建設して , ロシア国家の起原 をつくった この間スエーデンには カトリックの信仰がひろか、ったか・ 小部族国家の統合も進んで , 10 世紀 末ウーロフ王のもとで , 一応スエー デン統一王国が成立した。中世のス 工ーデンは , 封建制度が行なわれる とともに王位をめぐる内紛があいつ ぎ , またデンマーク , ドイツ騎士団 , ハンサ商人との抗争に悩んだ。しか し 12 世紀半ばには東方に勢力を拡大 してフィンランド地方を征服し , れを領土とした。やがてデンマーク 女王マルグレーテは 1389 年スエーデ ンを破って , 97 年にカルマル会盟を っくり , 以後 1 世紀あまり , スエー デンはデンマーク王の支凸己下にはい った。しかしその間スエーデンの独 立運動は根強く続けられ , 1523 年グ スタフ 1 世のもとでふたたび独立を 回復した。グスタフ 1 世 ( 在位 1523 ~ 60 ) はスエーデンの近代化の基礎 をつくった王で , 諸種の改革を行な ったはか , ルター派の新教を保護し てひろめたため , 以後スエーデンは 新教国になった。その孫 / グスタフ・ アドルフ ( 在位 1611 ~ 32 ) はスエーデ ン史上最大の君主であった。彼は議 会制度の改革などを行なって近代化 につくし / 三十年戦争にさいしてド イツに侵入して勇名をうたわれ , ス ェーデンを欧州の一大強国たらしめ た。しかし 18 世紀初めの / 北方戦争 においてロシア , ポーランドと戦っ たカール 12 世 ( 在位 1697 ~ 1718 ) は , はしめ連勝して威をあげたが , ポル タバの戦いに大敗してバルト海東岸 の領土を失い , さらにデンマークに も攻撃され , 以後スエーデンはかっ ての勢力を失った。その後もスエー デンは欧州の国際紛争にしばしばま きこまれ , 19 世紀初めのナポレオン 戦争中はロシアのためにフィンラン ドを奪われたが , ナポレオンの没落 後はノルウェーを併合した。 19 世紀 後半以後のスエーデンは , 戦争に加 わることを極力さけ , 立憲君主制の もとで , 政治上 , 社会上の自由主義 化に力を注いだ。 2 ( ) 世紀にはいり , 1905 年ノルウェーの分離独立を承認 し , 再度の世界大戦には中立の立場 を堅持した。 このように約 1 世紀半 にわたり戦争を経験しなかったこと は , この国の繁栄の原因となった。 第一次大戦後議会では社会党の勢力 が大いにのび , 3() 年代以降ほとんど 一貰して政権を担当し , 穏健な社会 主義政策を行ない , その結果 , 現在 のスエーデンは世界でもまれな高度 の福祉国家として繁栄を続けている。 また長い間の平和はその文化的発展 をもたらし , 18 世紀の植物学者リン ネをはしめ , 19 世紀にはダイナマイ トの発明者ノーベルや作家ストリン トべリらカ { 出 , 20 世紀にはいっても 多くの国際的な学者を生んでいる。 〔青山〕 スエード s ue de ヤギ皮 ( キッ ド ) あるいは子牛皮 ( カーフスキン ) をクロムなめしにし , 肉側面をやす りまたは金剛砂で摩擦して仕上げ , 表面にビロードのような毛羽を生 せしめた皮。ふつうこの面を表とし て用い , 毛生面を褻として使う。 の仕上げ法がス工ーデンから起こっ たのでこの名があるという。袋物 , ブッククロス , ノ、ンドノヾッグ , くつ の甲皮 , ジャケットなどとして用い られる。ぬれた場合は乾布でたたき , 水分を除き , 陰下しにする。専用の 液体クリームがあるが , あまり塗ら ぬほうカ { よく , ワイヤプラシまたは ナイロンプラシをかけてよごれを とる。 すえよし末吉〔町〕鹿児島県東 部 , 囎唹郡の町。人口 24676 ( 1965 ) 。 国鉄志布志線が通し , 北東は宮崎県 都城さ新の市に接する。米 , 麦 , サッ マイモ , タバコを中心とする農業地 帯である。養蚕 , 牧畜も盛んで , と くに囎唹牛産地の中心をなし , 年 4 回牛市が開かれる。付近には荒神面 古墳をはしめ遺跡が多い。 〔上井〕 すおう周防旧国名。現在の山 口県東部にあたる。山陽道 8 カ国の ーっで , 周州 , 防州ともいう。大化 改新のときに大島国 ( のちの大島郡 ) と都怒国 ( のちの都濃み佐波吉 敷鶩しの 3 郡 ) を合わせたが , 721 年熊 毛郡より玖珂郡を分離して 6 郡と なった。鎌倉時代にはいり , 藤原氏 , 北条氏が守護となったが , 南北朝時 代以降大内氏の世襲となり , 山口を 中心に大陸との交渉をもち , 明との 貿易で財力をたくわえて , 大内文化 の名があった 1557 年毛利元就に滅 は、され , 以後長門とともに毛利氏 の支配地となった。江戸時代には長 州 , 徳山 , 岩国の 3 藩を分置した 1871 年山口県となり現在にいたった く町歩下組帳〉 ( 1716 ~ 47 ) によれば , 田約 19571 町 , 畑約 1 ( ) ( ) ( ) 8 町。総石高 , 慶長 3 年約 16782 ( ) 石 , 元禄年間約 2 ( ) 2788 石 , 天保 3 年約 489429 石。近 世の特産物には半紙 , どがある。 こんにやくな 〔谷口〕 すおう素襖 , 素袍室町時代の 半ばごろから用いられた武士の日常 服。戦国時代には大名も着用したが , / 大紋よりは格が低く , 江戸時代には 将軍御目見以上の武士で無位無官の ものの式服として用いられた。 / 直 垂から変化した形で , 垂領 ( い わゆるきもの形のえり ) で , わきに 縫目がなく , 地質は麻で , ふつう同 し布の長袴かをつける。胸ひもと菊 とし ( ひも飾りの一種 ) とが革でで きているため革緒直垂ともいわれた 前面のそでつけの位置と背の中央と
ジンク 1 4 8 もののそでを通さす , かぶって寝た 上に重く挂トけるはど暖かであるとい 部に成幼虫が食い入るので俗にシン ことのなごりであろう。 17 世紀以来 , う錯覚がある。寝台などでからだを クイムシとよばれる。 〔長谷川」 国内で綿の栽培が行なわれ , 明治に 敷ぶとんのなかに埋めるようにする しんくう真空本来は物質のま はいってから外綿が輸入されるに及 と , 上掛けは軽くても防寒になる。 ったく存在していない空間を意味す んで国内にふとんが普及し , また畳 とくに寝たときの肩の部分から熱が るが , 自然空間の真空中にはいろい が広まるとともに 日本人の就寝の 逃げるのを防ぐことが必要で , 夜着 ろの素粒子が存在し , またポンプに 形式は大きく変化した。今日の日本 などのように首の出る部分を半円形 より作られる真空はいかにしても完 のすまいには専用の寝室はなく , 随 にえぐったものを利用すると効果的 全な排気はできない。実際にはわず 時どこにでも移動できるふとんが寝 か気体が残った状態 ( 1 mrn H g 程度以 である。また安眠のためには足の保 具の代表になったが , 今でも農家な 下 ) を真空といい , その程度により 温が必要である。反対に防暑には通 どには専用の寝間に「万年床」式に 種々の真空度がある。真空度をあら 気性があリ , 吸水性のあるタオル地 ふとんをのべたままにする風習が残 わすには , 残留気体の圧力を水銀柱 を利用するとよい。最近は寝具用の の高さに換算して何 mm H g ということ タオルケット ( タオル織りの上打ト布 ) っている。 〔西洋の寝具〕古代エジプトやキ、リ が普及しはしめている。また冷感を が多い。電球は 10 ー 2 ~ 1 ( ) ー 4mmHg , 真 シアでもすでに寝台は使用されてい 空管は I() ー 3 ~ 10 ー 6mm 日 g はどの真空 与えるために , 敷とんの上に寝こ たが , 聖書その他の記録によると貧 ざを敷くこともある。 である。今日得られる真空の限度は 民は床にふとんを敷いて寝ていたら 〔手入れ〕睡眠中には相当量の発汗 約 1()-9 mm H g だ力をこれでも 1 cm3 当 しい。キ、リシアの初期の寝台は木製 があり , 寝具は水分を吸収している。 り約 4000 万個の分子が残っている。 のわくに布や皮のひもをはり , 頭部 〔真空概念の変遷〕ギリシアのデモ そのためしばしば日下しすることが には板をとりつけたもので , その上 必要で , これによって乾燥と同時に クリトスは「実在しているのは原子 に毛皮のふとんを敷いたものであっ 固まった綿のふくらみを回復するこ と空虚 ( 真空の意 ) のみ」といって , たが , 末期には美しい掛ぶとんやま とができる。もめん綿は長く使った 真空を原子の運動する一つの舞台と くらが作られた。古代ローマでは小 ものは , 打直しをする。合繊綿 , 羽 して物質とかかわりのないものとし さいクッションをまくらに用い , 敷 毛などもときどき日干しするはうが た これに対し , アリストテレスは ぶとんに枯れ草や羊毛などを詰めた 「自然は真空をきらう」とのべ真空 よいが , 打直しの必要はない。 後期になると上流階級では羽根ぶと を否定してデモクリトスに反対し , 〔宮本・小川〕 んを幾枚も敷いたので , ふたリがか じんく甚句邦楽の楽曲形式の この説は長く信しられた。その後が りで寝台をととのえ , 寝台にはいる 名称。「ヒんく」の語源については , リレイはこれに注目し , その弟子ト のに踏台を用いた。一方 , 北欧では 人名であるとか , 神供すなわち神 リチェリによって水銀柱による真空 浅い箱に草 , わらなどを詰めた寝台 が作られ , またゲーリケはポンプに への供物であるとか , 種々の説が伝 などを用いた。中世初期には壁ぎわ よって真空を作りだし真空嫌悪が えられている。人名説によれは、 , 江 の長いすや床などに獣毛 , 羽毛など 大気圧によるものであることが判明 戸時代中期に流行したく兵庫口説 > を詰めたふとんを敷き , 毛皮をかけ , ートンは光の本体を微粒 という盆踊歌のなかの小間物商海老 した たいてい裸体で大形のリンネルの敷 屋甚九郎の成功談をうたったく甚 子と考え , これが真空を通過するも 布にくるまって寝た。貧民は床に敷 九郎節〉が越後に伝わって , く越後甚 のとしたが , 波動説をとなえたホイ いたイ草の類の上に昼間の衣服のま 句 > となったという。しかしく越後甚 ヘンスは , その媒体をエーテルと名 句〉はいすれも七七七五調の 26 文字 まごろ寝した。イ草は年に数回しか づけ , 重さをもたないものとして真 とりかえす , 大や家畜もあがるので で口説調ではないので , く甚九郎節〉 空中に存在するものとした。光ェー たいへん不潔だった。 13 世紀には寝 の直接の延長とは思われない。現在 , テルの考えは相対性理論により完全 台はクッションを重わてからだを傾 甚句は民謡的な存在として各地の盆 に脱却され , 空間そのものが電磁場 斜させるようになり , 象眼や彫刻や 踊歌 , 仕事歌になり , また三味線に あるいは重力の場を存在せしめる性 彩色が加えられたが , 14 世紀になる 合わせて二上りまたは本調子でうた 質のものと考えられるようになった。 と寝台がぜいたくな上掛けでおおわ われている。前者はことに酒席でも そしてまた , 場の量子論成立後は , れるようになったので , 寝台自体に てはやされ , 後者からはく角カ甚 真空は , 電子の場 , 中間子の場 , 核 は装飾をこらさなくなった。 15 世紀 句〉が出た。く秋田甚句〉く遠島甚句 > 力の場などの場のにない手として , になると寝台は大形になったが , 当 重要な物理的な存在となったばかリ く両津甚句 > く米山甚句 > などが愛 時の貴族は旅行に家具などの大部分 好され , 甚句とはいわないがく新庄 でなく , デイラックの電子論によれ を持ち運ぶ習慣だったので , 寝台も 節〉く山中節 > などもこの曲の型で ば , 真空中には負のエネルギー準位 旅行にたすさえたといわれる。 日本民謡の大半は甚句型に属する。 にある電子がぎっしり充満している 〔寝具の機能〕寝具はからだを横た 〔町田〕 と考えられ , 真空は空虚なものでは えたとき適当な弾力があり , 柔らか しんくいむし〔心食虫〕果樹の なく豊富な物質性をもつものと考え でからだを楽な姿勢に保っこと , ま 果肉や核および樹木の材部などを食 られるようになっている。 た保温性に富むことが必要である。 害する害虫の通称。おもなものは次 〔真空中での現象〕気体の圧力は気 保温的には敷ぶとんとト京とんとの のとおリである。 1 ) スガ科の / トさい 体分子が壁と衝突するとき壁に与え ンンクイムン 3 種比は , 6 : 4 カ { 合理的だが 一般に ガであるリンゴヒメシンクイは幼虫 る力である。真空になって圧力が減 リンゴヒメシンクイ がリンゴ類の果実内に食い入るので 少することは気体分子の密度が減少 モモシンクイガ することである。密度が減少すると 俗にシンクイムシとよばれる。 2 ) モ 分子が衝突せすに飛平均自由行程 モやリンゴなどの果実の心部にまで が長くなり , 真空度がひしように高 食い入って大害を与えるシンクイが くなると平均自由行程が容器の寸法 科のモモンンクイガの幼虫 , および と同程度となって気体分子相互間の ナシやリンゴなどの表皮のすぐ下を 衝突はなくなり壁との衝突が多くな 食い荒らして腐敗を起こすヒメハマ る。このような状態では大気圧での キガ科のナシヒメシンクイなどはい すれも俗にシンクイムシとよばれる。 気体とはひしように違った性質を示 し , 粘性 , 熱伝導度 , 音速 , 放電現 3 ) 甲虫類のなかでツッシンクイ科 , 象などの物性が大気圧とはまったく ナがシンクイ科のものは木や竹の材 ( 成虫 ) ナシヒメシンクイ ( 幼虫 ) ( 幼虫 )
ショクプッ 9 8 性のある食品業種に対しては許可制 生活をするものもあるので , 絶対的 体はさらに偽足を出して行動し , ま な区別とはいいがたく , 菌類はやは がとられ , その施設の構造 , 設備に ったく動物と違わない生活を営む。 一定の制限が設けられたり , また食 り植物として扱われるのがふつうで したがって動物学では変形菌を菌虫 品の製造加工法に対して基準が設け ある。 類として原生動物門中の 1 綱として 2 ) 植物の体の細胞は 2 次的に原形質 られたりしている。さらに食品その 取り扱っている。同し原生動物門中 ものあるいはこれに添加する添加物 から分泌されたセルロースを主体と の植物性べん毛虫類として動物とみ した細胞膜をもつが , 動物の細胞に ( 人工目・味 , 色素 , 防腐剤などの化学 なされているミドリムシは , 細胞膜 的合成品 ) に対しても成分上の規格 はない。組織によっては細胞膜は厚 がなく , 体の前端に 1 本の長いべん が設けられたり , 使用制限などがな くなり , 細胞間の連絡は細胞膜にあ 毛をもって水中を遊泳し , 眼点をも されていてその検査か、行なわれてい いた小穴を通る原形質糸で保たれる って光を感し , 暗所に生活すると徹 る。またこのようなことは食品その にすぎなくなる。したがって細胞間 生物や有機物を食べて消化し , まっ ものばかりでなく , 食品をいれる容 の物質交流は植物ではゆるやかとな たく動物であるが , 明るいところに 器 , 包装にまで及んでいる。そして り , 動物のように激しい連動を行な 生育するものはクロロフィルがあり このような実務は都道府県知事が任 うためのエネルキ、一源を急速に細胞 光合成を行ない , 環境が変わるとペ 花の断面 命した食品衛生監視員およびと畜検 から細胞へと運搬しにくいし , さら ん毛を失って厚い膜をかぶって体眠 査員によって行なわれている。なお に外界の刺激の伝達もさまたげられ , 状態にはいる。植物学ではこれを当 輸入食品の検査についても , 主要な このため , 植物には動物にみられる 然植物であると考え , ドリムシ植 港に国の食品衛生監視員が駐在して ような神経系がまったく発達してい 物門を設けている。このように下等 いてその実務に当たっている。しか ない。しかし堅い細胞膜があるため , な生物については植物とも動物とも し以上のような行政上の諸対策は消 環境の変化には耐える能力がある。 つかぬものが少なくない。生命の単位 費者としての各家庭の食事の調理段 また生殖細胞は厚い膜でおおわれ , である原形質のかたまり ( 細胞 ) があ 階にまでは及んでいないから , 家庭 胞子になって長期の乾燥や高熱にも って , それが外からエネルキ、一源を 葉の断面 とくに主婦の食品衛生に対する知識 耐えることができる ( / 細胞 ) 。 なんらかの方式で取り入れ , そのェ の普及とその実践ということも食品 3 ) 植物の生長は茎や根の先端にある ネルキ、一一源を呼吸によって分解して 衛生の立場から重要なことである。 生長点や , 茎の形成層など特定の分 活動エネルギーをうるという生命の / 食用色素 〔松井〕 裂組織だけに細胞分裂が起こり , 細 様式は , 原理的には動物 , 植物とも しよくぶつ植物生物を二つに 胞を積み重ねるようにして行なわれ 同しである。エネルギー源の摂取方 分けたとき , 動物と対比される生 る。したがって分裂組織に変化が起 法で動植物の相違が生するのである。 被子植物の体の構造。 物群を植物という。 〔細胞の生活相〕前川文夫は 1947 年 こると , それ以後に作られる植物体 根 , 茎 , 葉の三つの栄 〔植物の特徴〕典型的な植物として , は変わった性質のものとなる。たと に原形質が外界から物質を摂取する 養器官からなる。断 えば , 生長点のコルヒチン処理によ マッ , タケ , ウメなどの種子植物と , さいに生理的に重要な意味をもっと 面でみると , 根と茎は 典型的な動物としてイヌ , サル , キ って植物の倍数体が比較的たやすく 思われる細胞の界面膜の性質をとり 放射相称たが , 葉には つくり出されることでもわかる。 ジなどの脊つい動物と比べるとき , 背腹性があって区別さ あげて , これを細胞の生活相と名づ れ , 生長の方向につい 植物と動物を区別する形質として次 方 , 動物では発生のはしめに嚢胚を け , 次のように類型化した 1 ) ビー ては根と茎で逆である のようなものがみつかる。 作り , 成長にさいしては体のどの部 ルス相原形質の徹細な小塊で , 内 1 ) 植物は / クロロフィル ( 葉緑素 ) を 分においても細胞分裂が起こって細 部的な分化はみられす , 界面に膜の 胞が増殖する。 もち , 気孔からとりいれた炭酸がス 分イヒはみられない。ビールスやノヾク 以上のように典型的な動物と植物 と根から吸いあげた水を材料として テリオファージか、これにはいる。純 光合成を行なってデンプンを作る。 の間にははっきりした区別がつけら 粋に生物であるかどうかに異論もあ また無機の窒素源からアミノ酸やタ れるが , 植物を種子植物から , シダ , るが , 少なくとも自己増殖という生 ンパク質を合成するなど , 自家栄養 コケ , 菌類 , 藻類と下等な分類群へ 命現象を呈するので , ふつう生物に の性質をもっているのに , 動物では とたどり , また動物も原生動物まで 加える。 2 ) アメーノヾ相細胞膜をも 有機炭素源 , 有機窒素源しか利用で 下にたどると , 植物とも動物ともつ たす , 細胞界面には流動性に富んだ かぬ生物に出会う。たとえば変形菌 きないという他家栄養の性質をもつ。 原形質膜をもつ。形は一定しないで したがって植物のなかでも菌類は他 類は有膜の胞子を作って繁殖する点 原形質膜を変形させることにより運 家栄養であり例外なので , これを特 動する。アメーバ で植物として扱われているが , 生活 変形菌がこれに 別な生物群と考えて , 生物界を動物 , 史の一時期にはアメーバ状の変形体 はいる。 3 ) べん毛相細胞界面には 植物 , 菌類の 3 界に分ける人もある。 細胞膜がない。ある程度原形質膜が となり , クロロフィルをもたないの しかし明らかに高等植物であるネナ で腐生的な他家栄養で生活するはか かたく , 変形しにくい。原形質の一 部をゲル化して外に細く突き出し , シカズラ , ギンリョウソウ , ャッコ に , 微生物を変形体中に取り込んで ソウ , ッチトリモチなどのようにク 消化する。これは明らかに動物の「食 べん毛を作る。べん毛藻類 , ミドリ ロロフィルをもたす , 寄生 , 腐生の ムシ類 , 遊走子 , 精子などがこれに べること」と同し現象である。変形 はいり , とくに生活史の出発点であ ラウンケルの分類した植物の生活形 A ~ D は地上 25crn 以上に冬芽をもっ地上植物 る雄性の生殖細胞 ( 精子 ) にこの相の で , E ~ F は地上 25cm 以下に冬芽をもっ地表植物。 G は地表に接して冬芽 : をもっ半 ものが多いので , べん毛相は原始形 地中植物。日 ~ ーと K ~ N は冬芽が地表以下にある地中植物。 J は冬芽をもたす種 態に近いものと考えられる。 4 ) 包膜 子を地表に布して越冬する夏生一年生植物。いすれも , 白い部分は冬には枯れる 相細胞界面に保護するための後生 質として細胞膜を分泌する。細胞膜 自体は生命に直接関係ないが ために形態進化がもたらされる。原 形質を外界からへだててしまうので 悪い環境に耐えることができる。し かし一方では運動性をまったく失う。 べん毛相が悪環境のため包膜相にな ったとも考えられる。単細胞の有膜 の植物がすべてこれにはいる。以上 茎の断面 30 0.25 っ 4 - っ ) 0 0 N
スペイン 現の難解で知られるゴンゴラを迎え る。虜リはローベ・デ・ルエダによっ て貴族と教会から離れ , 生に 1800 の劇を書いたというローベ・デ・べ ーガによって , いわゆるスペインの 国民劇が確立した。続いてドン・フ アンの性格を創始したチルソ・デ・ モリナ , 性格劇を創始したルイス・ デ・アラルコンをへて , やカ { てカル デロンにいたり , スペイン演劇は開 花の頂点を迎えた。小説は 16 世紀半 ばの作者不詳のくラサリリョ・デ・ トルメス〉 ( 1554 ) によって社会風刺 の / 「わるもの小説」が起こり , アレ マンのくグスマン・デ・アノレファラ チェ〉 ( 1599 , 1604 ) , ケベドのぐ世渡り の名手ドン・パプロス〉 ( 1626 ) , べ レス・デ・ゲ / ヾラのくびっこの悪魔〉 ( 1641 ) など続々と現われ , 西欧諸国 にもその流行をもたらした。なかで もセルバンテスは , 16 世紀以来流行 した騎士道物語を風刺した / くドン・ キホーテ > ( 1605 ~ 15 ) によって世界 的な名声を博し , 近代小説の基を築 いた。なおファン・デ・ラ・クルス , サンタ・テレサ , ルイス・デ・グラ ナダら宗教家の手になる「神秘文学」 という特異な様式が現われたのもこ の時代であった。 18 世紀は前世紀の はなやかさにひきかえ , 政治も文化 もフランスの勢力のもとに息をひそ め , 文学もまた貧寒をきわめた。た だ劇におけるモラチン ( 1760 ~ 1828 ) とラモン・デ・ラ・クルス ( 1731 ~ 94 ) , 風刺小説のイスラ神父らがわ すかに光彩を放った。 19 世紀はロマ ン主義によって始まるが , リバス公 爵 , ェスプロンセダらの詩人 , 幻想 劇くドン・ファン・テノリオ〉 ( 1844 ) の作者ソリリャ , 最後に純情の詩人 べッケルらがある。同時に風俗 , 風 景などをスケッチ風に , あるいは風 刺的に描く「風俗作家」たちが現わ れ , やカヾてフェルナン・カノヾリエロ アラルコン , ペレダらをはしめ , ス ペインのノヾルサックとよばれたペレ ス・ガルドス ( 1843 ~ 192 のらの写実 主義小説が時流にのって現われ , や カ { てクラリンやノヾルド・ノヾサン , プ ラスコ・イ ノヾニエスらの自然主義小 説を迎える。 20 世紀にはいると , 米 西戦争によってスペインは多くの植 民地を失い , 国民全般の間に幻滅と 無気力がみなぎったが , このとき国 民精神の覚醒、をめざした文学運動 が若い人々の間に起こった。すなわ ち「 98 年代の作家」といわれる人々 で , 思想家のウナムノ ( 1864 ~ 1936 ) , / ト説のノヾロノ、 ( 1872 ~ 1956 ) , ノヾリエ・ インクラン ( 1866 ~ 1936 ) , 随筆のア ソリン ( 1874 ~ ) , 詩のアントニオ・ マチャド ( 1875 ~ 1939 ) らで , 1930 年 代まで活躍した人々である。次いで 詩人ではラモン・ヒメネス ( 1881 ~ 1958 ) , / ト説ではべレス・デ・アヤラ ( 1881 ~ 1962 ) , 思想家のオルテガ・イ・ 2 8 8 ガセト ( 1883 ~ 1955 ) , 続いて詩と劇 のガルシア・ロルカらか、現われるカ { 36 年の内乱でたちまち衰微する。そ の後 , 小説のスンスネギやカミロ・ホ セ・セラらや劇作のプエロ・ / ヾリエホ らがしだいに台頭してきた。〔会田〕 スペインの美術 スペイン人はしみだが , 放縦で空 想力に富み , 迷信に傾きやすい宗教 的な国民で , しかも非論理的な気質 をもっている。一般に過剰装飾はス ペイン美術の大きな特徴をなすが , たとえばそのバロック様式などでも , 他の西欧諸国にはみられないほど華 美に飾りたて , 壮麗さを賞賛させよ うとする強引さがある。チュリグエ ラ風の祭壇背後のついたて , 聖歌隊 席 , 金工品などどれをとってみても , 彼らはこれらの制作に途方もなく時 間をかけ , 惜しげもなく材料を使っ ている。またその反面彼らは狭量な 教会や厳格な宮廷によって強い制約 をうけてきたし , 外国人や外来文化 の影響を吸収したり , あるいはこれ と対決したりすることにすっかり精 力を消耗して , 正常な自己表現を進 展させる自由がなかった。とくに絵 画の分野でそれが著しい。しかしェ ノレ・グレコ , べラスケス , ゴヤらの 大画家を送り出し , 断続的にではあ るが西欧絵画の根底をゆさぶりつつ その進展に輝かしい役割を果たして きたことも事実である。 〔建築・彫刻〕遠く口一マ時代に建 設されたメリダやセゴビアの水道橋 の遺跡 , およびそれにつづくトレド 周辺の西ゴート時代の美術品なども かなりのこっているが , しかし他の 西欧諸国ではみられないスペインの 特異性はそのオリエント的なふんい 気であろう。 711 年のムーア人の侵 入後 , 15 世紀に彼らが完全に駆逐さ れるまで約 800 年にわたってこの国 に根をおろした / イスラム文化は , 美術にも深く浸透した。コルドバの 壮麗な大モスクをはしめとし , トレ ドのサント・クリスト・デ・ラ・ル ス , セビリヤのヒラルダ , 石の詩と いわれている / アルノ、ンプラの豪華 な宮殿などのすばらしいイスラム美 術が展開した。ロマネスクやゴシッ ク時代の建築と彫刻は , 南フランス のそれらと類似しているが , その大 きな原因は聖地サンチアゴ・デ・コ ンポステラに至る巡礼者のルートに 沿って様式が伝達されたからである。 この時代の傑出した大聖堂はトレド , サンチアゴ , プノレゴス , セビリャ , レオン , サラマンカの六大聖堂であ ろう。ルネサンス時代には , 装飾の 問題をこの伝来の新様式と巧みに融 合させつつプラテレスコ様式 est ⅱ 0 plateresc 。を創造した。セビリヤの 市庁舎やサラマンカ大学のフアサー ドにみられるように , とびらロや窓 の周辺に集中的に繊細な装飾をほど こしたものである。しかし 1556 年即 位したフェリペ 2 世はこのような装 飾主義を排し , 簡素で威厳にみちた 古典美を理想とし , 」 . d. エレラに命 して / ェスコリアル王宮を建造させ この冷たく飾りけのないエレラ 様式はスペイン人の趣味とは異質の ものであり , やがてすぐまた装飾過 . 多なバロック様式の台頭となる。静 的なエレラ様式に代わって動的で丹 念に仕上げられたこの新様式は , チ ュリク、、ユ - ラ十に est 0 churriguera で頂点に達する。このような壮麗な 装飾趣味と狂的なまでの信心とは現 代建築にまで及んでおり , バルセロ ナにある A. ガウディ ( 1852 ~ 1926 ) の サグラダ・ファミリア聖堂の異様な 有機的構成や幻想的な装飾モチーフ にそれを認めることができる。スペ イン彫刻では , つねに木がもっとも 一般的な材料であった。豊富で安価 ということ以外に , 彩色に都合がよ かったからで , 彫ることと同等に彩 色の問題は重視されていた。有名な 画家たちも動員され , 彫像の肌描 き , 衣装描きなどの専門家も出てい る。イタリアの影響はミケランジェ ロの弟子であったべノレゲテによって 伝えられた。彼は師の作風をスペイ ン人好みのリアリズムと強烈な感動 に向くように無統制にゆがめ , に芝居か、かったミケランジェロ様式 が誕生する。スペイン人の熱烈な信 心と極端なリアリズムは , 彫像全体 を彩色するだけでは満足せす , 実際 の頭髪を用い , 像に衣装をつけ , ガ ラスの涙をつけるなど極端な手法ま でとるにいたっている。 〔絵画〕旧石器時代の代表的洞窟 絵画を / アルタミラにもっスペイン は , 写本芸術 , 壁画 , 板絵などで絵 画活動を開始する。アスツリアスや カタロニアの修道院で彩飾された写 本芸術は ( 8 ~ 9 世紀 ) , その後の壁 画や板絵の作家たちに感化をあたえ ている。最初の壁画はカタロニアの 小聖堂から発見されたもので ( 12 世 紀初め ) , これらのロマネスク絵画は 今日ノヾルセロナの美術館に展示され ている。板絵はおもに金 , 銀で画像 を描いたもので祭壇の前におかれた ノヾン・アイクのスペイン訪問 ( 1427 ) 以後には , フランドル派の影響が強 くみられるようになったが , 15 世紀 末ごろカタロニアに新しい一種の理 想主義的傾向が出てくる。この機運 はバン・アイクがもたらした絵画革 新を妨げ , やがてこれを絶滅する。 一方 , スペインは芸術や政治のうえ でイタリアと密接な関係にあり , カ タロニアの絵画は 14 世紀以来中部イ タリアのトスカナ地方の一部のよう な観をみせた。したがってスペイン ではフランスより早くイタリア・ル ネサンスを模倣する。しかしルネサ ンスはスペインでキリスト教精神の た
タカサゴ 6 5 4 めたのは , 日本の台湾領有時代で , 坑を開いた , 日本最初の近代機械化 それ以前は漢民族の文化をとり入れ 炭鉱である。また明治初年の囚人労 たものを熟蕃く , そうでないものを 働 , 納屋制度下での労働条件の劣悪 , 生蕃とよんでいた。人類学その他で 争議の暴動化その他労働運動史上の とくに問題となるのは , いわゆる生 先駆的な諸問題をひき起こしたこと 蕃のはうであり , タイヤル ( アタヤ でも知られている。官営をへて 1881 ル ) , サイシャト , プヌン , ツオウ , 年三菱鉱業の所有となった。 1965 年 ルカイ , 度出炭量は 91 ( ) m の大立坑の二子坑 ノヾイワン , プュマ , アミ ヤミ族などがいる。高砂族は , アウ を中心とする高島坑が 127 万 24 ( ) () ト ストロネシア語族のインドネシア語 ン , 端島坑が約 35 万トン。優良な原 派に属する。定住農耕民で , 以前は 料炭であるため , 石炭界の不況はあ 焼畑耕作によっておもにアワを作り , まり影響していない。水不足で本土 祝賀にうたわれるもっともめでたい 多少は陸稲栽培も行なった。同しア から給水船で運んでいたが , 最近海 曲。がっちりとした構成をもつうえ ウストロネシア系諸族が水田稲作民 底送水管が開通した。 〔上井〕 に堂々たる演出がとられ , 諸役の秘 と認められているなかで特異の存在 たかしましゅうはん高島秋帆 事ロ伝も多い。「高砂やこの浦船に である。昨今は , 陸稲が主となり , 1798 ~ 1866 江戸時代末期の砲術家。 ・・着きにけり」がひろく知られて トウモロコシ栽培の導入後は , アワ , 名を茂敦 , 通称は四郎太夫 , 秋帆 いるが , これはワキのうたう待謡な ヒ工は減少している。山地の部落は , は号である。長崎の町年寄兼鉄砲方 ので正式な能狂言には用いられない その周辺に古来からの焼畑地をもつ の家に生まれ , その職を世襲した。 とされている。この曲をもとにして ものが多い。焼却は , 雨季に先だち , その間オランダ流砲術を学び , 1840 多くの日本舞踊曲 , 邦楽曲が作られ 山刀で樹木を切り倒して行なう。雨 年門人と長崎で研究の成果を試み , 季ののち , 掘棒で穴をあけ種まきす ている。 翌年江川太郎左衛門のあっせんで江 これらの作業は一般に部落共同 る。 戸に出て , 幕府に認められたが , 讒 〔あら筋〕九州阿蘇の宮の神主友成 ( ワキ ) が従者 ( ワキツレ ) を連れて京都へ上る途中 , 労働のもとで行なう。焼畑地は地カ 言畝する者があって処罰され , ペリ 高砂ノ浦に立ち寄って有名な松をながめて 耕耗のため , 2 ~ 3 年で放棄する。 ー来航後の 53 年許されて江川ととも いると , 尉 ( ヒよう。前ジテ ) と姥 ( うは。シ に国防の一線で活躍した。幕末の砲 彼らの固有の宗教はアニミズム ( 精 テッレ ) の夫婦が現われ , めでたい松の由来 霊信仰 ) が中心で , 農耕儀礼にはとく 術家の大半は , 彼の影響を受けたと を語って聞かせる。そして自分たちは絵の にアワに関するものが多い。首狩り いわれる。 〔浅沼〕 精であることを明らかにする。友成は不思 たがじよう多賀城〔町〕宮城県 の習俗は有名であるが , これもアワ 議さに住吉の浦へいくと , 老翁は住吉の明 豊作を願う宗教儀礼の要素を多分に 中部 , 仙台市と塩釜市の間にある宮 神としての本体 ( 後ジテ ) を現わして , さわ 城郡の町。人口 27444 ( 1965 ) 。東北本 含んでいた。推定人口は約 20 万。な やかな神舞を舞って , めでたく御代をこと 線とその海岸線 , 仙石線が通してい 〔池田〕 お高砂族は現在では高山 ( カオシャ ほぐ。 たかさご高砂〔市〕兵庫県の中 ン ) 族と呼ばれる。 る。旧海軍工廠跡が自衛隊駐とん 央南部 , 加古川の河口西岸にある工 たかしお高潮風津波ともいう。 地と工場地帯になっている。町の北 業都市。 1954 年高砂町を中心に市制。 気象の乱れが原因で起こる , 数時間 部に多賀城跡があり , かたわらに日 人口 61 ( ) ( ) ( ) ( 1965 ) 。播磨灘要臨海工 本三古碑の一つ多賀城碑 ( 壺ノ碑 ) ないし数日間にわたる異常潮位の現 業地帯の一翼として , 鉄鋼 , 機械 , 象。低気圧の接近とともに , 強風が がある。南にはく古今集 > で有名な ソーダ , 製紙 , 紡績 , がラス , しょ 海から海岸に向かって吹きつづける 末の松山がある。多賀城は碑文によれ う油 , 耐火レンガなどの工業が起こ と海水が吹きよせられ , 気圧降下に ば 724 年大野東人が築いたとあるが 高砂族左はノヾイワン り , さらに海岸埋立てによる発展が よる海水の吸上げとあいまって海岸 碑自体の真偽も疑わしく確かでない。 族頭目系男子の盛装。 期待されている。江戸時代は貢米積 の水位が上昇する。風の効果は海が 多賀城には 8 世紀ごろ鎮守府や陸奥 % ヒョウ皮の陣羽織 , イ 出港であった。能のく高砂〉で名高い相 浅いほど著しく , 浅海湾の奧部でも 国府が置かれ , 奈良時代前後の東北 ノシシのきばの首飾り 生の松や , 曽根の松がある。山陽 経略の拠点であった。 802 年坂上田村 っとも大きな水位上昇をみる。日本 などは頭目系の装飾。 本線加古川駅から高砂線が通じ , 山 ズボンはは一ま前だけを 麻呂が鎮守府を胆沢城に移したが , では主として / 台風によって起こり , おおうがこれは高砂族 陽電鉄も通しる。 陸奧国府はここに置かれ , 前九年 , 東京湾 , 伊勢湾 , 有明海などが有名。 〔末尾〕 独特の風俗である。右 たかさごぞく高砂族台湾の原 1964 年までの 60 年間に , 平常潮位上 後三年の役 , 源頼朝の奥州藤原氏征 はかって首狩りをもっ 住諸種族。この呼称が使用されはし 2 rn を越したものは 7 回 ( 室戸台風で 伐 , 南北朝争乱などにも各勢力の拠 て近隣の脅威であった 大阪 3.2 m , 伊勢湾台風で名古屋 3.4 点となったが , 室町時代に奧州探題 ツオウ族男子の盛装 m)o lm 以上の高潮ははば 1 年に 1 が陸奥国加美郡に移され , , こは廃 回の割合で起こる。実際の海水位は , 〔田辺・奧野〕 止された そのときの平常潮位 ( すなわち満十 ) たかすぎしんさく高杉晋作 18 39 ~ 67 江戸時代末期の長州藩の志 によって異なることに注意を要する。 十。名は春風 , 通称が晋作で , 東行 外国では , アメリカ東海岸 , 欧州北 海沿岸などでよく起こる。高潮はか と号した。吉田松陰に学び , 1858 年 なりの精度で予報できる。〔梶浦〕 江戸に出て時事に目を開き , 以後尊 たかしま高島〔町〕長崎県南部 , 王攘夷運動に加わった。 62 年には 上海にいって対外策の要を痛感し , 西彼杵郡の町。人口 19825 ( 1965 ) 。 攘夷の志を強め , 帰国後 , 久坂 , 伊 長崎港外約 15km , 野母半島の西の海 藤らの同志とともに品川の英国公使 面に浮かぶ高島 ( 面積 ( ). 95km2 ) とそ 館を焼打ちした。次いで長州藩が攘 の南西 4km の端島も ( ( ). 064km2 ) から 夷のため下関海峡で外国船を砲撃し 3 なる。鉄筋高層アパートを主とする たのち , 彼は家がらによらす力量中 特異な炭鉱町が発達し , 人冂密度は 心で奇兵隊を組織した。 64 年四国艦 全国一高い。海岸を . コンクリーートで 隊の砲撃で藩が敗れると , 講和条約 固めた端島は人工島で , 軍艦島とも よばれる。高島炭鉱は 1868 年に佐賀 の正使として和議に尽力。ために攘 藩主が英人 E. B. グラバーと鼓同で立 夷派の反感をかって亡命したが , 第 能のく高砂〉。左方は 観世静夫の前ゾテ
に封鎖されたが , 巡洋艦は英国の商 業路を攻撃した。 ドイツはさらに潜 水艦による通商破壊戦を開始したが , 1915 年 5 月英国の巨船ルシタニア号 を撃沈し , この船に多数乗っていた 米国人が水死したために米国の非難 を招いた。 16 年 5 月ドイツ艦隊が海 上封鎖を突破するために出動し , ユ トランド沖で英艦隊と戦ったが , 英 国の制海権は依然確保されていた 東洋では , 日本は中国における利権 の拡大と確保を目的として参戦した が , 日本の陸軍はドイツの租借地で ある山東を攻撃し , 14 年 11 月青島を おとしいれた。またその海軍はドイ ツの東洋艦隊を追って , 9 月にはド イツ領南洋諸島の北半を占領した 中立を宣言したイタリアを味方に 引き込むために交戦両陣営は激しい 外交戦を演したが , 1915 年 4 月 , 英 仏露はイタリアとロンドン密約を結 んで , アドリア海沿岸 , アフリカな どに領土獲得の好餌を保証したの で , イタリアは 5 月三国同盟から離 脱し , 次いで連合国側に立ってオー ストリアに宣戦した。しかしイタリ アは軍事的には劣勢で , オーストリ ア軍に敗れた。ルーマニアは , 大戦 に対して中立を守ることの代償とし てオーストリアにプコビナとトラン シルバニアを要求したが , オースト リアはこれを拒絶した。そこで連合 国はルーマニアに連合国側に立って 参戦することを要求したので , ルー マニアは 16 年 8 月に参戦した。プル ガリアは 1915 年 10 月同盟国側に立っ て参戦した。ギリシアでは , 中立を 維持しようとする国王と , 大ギリシ ア主義実現のため参戦しようとする 首相べニゼロスとの対立が続いたが 17 年に連合国側に立って参戦した。 このように , 参戦にさいしては代償 として戦果に関する取引が行なわれ た。とくに旧トルコ帝国の領土の分 割をめぐって多くの秘密協定が結ば れた。イタリアの参戦にさいしての ロンドン密約もその一つであり , 他 に 1916 年 5 月の英仏露によるサイク ス・ピコ協定などがあった 〔各国の国内体制〕大戦が長期化す るに従って , 各国とも軍需品や国民 の生活物資の生産や調達が重要な問 題となった。英国では 1915 年 5 月自 由党のアスキスが保守党 , 労働党を 加えて挙国一致内閣を成立させ , 16 年 1 月徴兵制度をしいた。 16 年 12 月 にはロイド・ジョージが首相となり , かなり独裁的に戦争指導にあたった。 英国は大戦遂行のために植民地の兵 力をも動員せざるをえす , カナダ , オーストラリア , ニュージーランド , インドなどから多量の軍隊をえた。 しかし戦争の長期化につれて , イン ド , エジプト , アイルランドなどで 民族運動が激しくなり , 16 年アイル ランドではシン・フェーン党の反乱 4 2 9 が起こったが , 英軍によって鎮圧さ れた フランスでは開戦当初 , 好戦的熱 狂のうちに社会党も戦争を支持し , 国内の政争は中止されて , 「神聖連 合 l'Union sacrée 」カゞ成立したか・ フランスは戦場となって激戦が行な われ , 戦争も長期化すると労働者や 戦線の兵士のなかにも反戦連動が起 こり , 1917 年には社会党も政府との 協力を拒絶するにいたって神聖連合 は崩壊した。 17 年 11 月首相となった クレマンソーは反戦運動の弾圧と戦 時体制の強化につとめた。 当時世界で最大の社会主義政党で あったドイツ社会民主党が載争に協 力したので , ドイツも容易に戦争に 突入できたが , 戦況が好転せす , 連 合軍の海上封鎖が厳重になるにつれ て軍需品の生産は低下し , 国民の生 活状態も悪化し , 民衆の厭え戦気分 もひろまったが , 社会民主党の左翼 反戦派は 1916 年非合法のスパルタク ス団 ( のちのドイツ共産党 ) , および 中間派は社会民主主義共働団を組織 して政府の戦争政策を批判し , 17 年 これら反戦主義者たちは独立社会民 主党を結成した。 〔米国の参戦とロシア革命〕第一次 大戦の発生にさいして , 米国は中立 を守った。大統領ウイルソンは戦争 を早く終わらせることを企図し , 19 16 年大統領に再選されたのち「勝利 なき平和」を唱えた。米国は欧州の 交戦国の双方に物資を供給して , そ の経済は活発となったが , 英海軍の 海上封鎖によって連合国との関係が 密接になった。 17 年 2 月ドイツが無 制限潜水艦戦を宣言すると , 米国は ドイツと国交を断絶し , ウイルソン は国際正義と人道を名目として 4 月 には対独宣戦を布告した。米国は欧 州に大軍を派し , 軍需品の供給 , 財 政援助を行なったので , 連合国は軍 事的 , 経済的に優越することになった。 第一次大戦がロシアの社会に与え た影響は深刻であった。開戦のさい にロシアの政府や軍部は短期戦を予 定していたが , 作戦が無計画であっ たうえに軍需品が不足していたので 戦局は不利であった。戦争が長びく に伴って国内の動揺が激しくなり , ストライキが各地に始まり , 軍の士 気もあがらす , 脱走兵があいついだ。 このような情勢のうちに 1917 年 3 月 ( ロシア暦 2 月 ) 二月革命が起こって ツアーリズムが倒れ , さらに 11 月 ( ロ シア暦 10 月 ) 十月革命が起こってソ ビエト政権が成立した ( / ロシア革 命 ) 。ソビエト政権は「平和に関す る布告」を出して即時休戦と無併合 , 無償金という「公正な民主主義的講 和」のために交渉することを交戦国 の人民と政府に訴えるとともに ツ ァーリズム政府が結んだ秘密条約を 公開して , この戦争が帝国主義の目 セカイタイ 的のための戦争であることを暴露し た。しかし連合国はソビエトの平和 提案を黙殺したので , ソビエトはド イツ , オーストリアと休戦して講和 のための交渉を始めた。この講和交 渉はロシアの敗戦につけこんで領土 をとろうとするドイツの態度のため に難航したが , けっきよく翌 18 年 3 月 3 日プレスト ・リトフスク講和条 約が結ばれてソビエトは戦争から離 脱することができた 〔戦争の終結〕連合国はソビエト政 権の発した平和提議を黙殺したが , 交戦諸国民や , 軍隊とくに植民地兵 にあたえる影響に対して , 戦争の目 的を明らかにし , 戦後への期待をあ たえて , 戦争を遂行することが必要 となった 1918 年 1 月 5 日英首相ロ イド・ジョージは英国の講和条件を 表明し , 次いで 1 月 8 日 , ウイルソ ンはいわゆる「十四カ条 Fourteen P 。 i n t s 」の講和条件を発表した。そ のおもな内容は秘密外交の排斥 , 公 海の自由 , 関税障壁の撤廃 , 軍備縮 小 , 植民地問題の調整 , ロシア問題 の解決 , ベルギーからの撤兵 , アル ザス・ロレーヌの返還 , イタリア国 境の再調整 , オーストリア・ハンガ リー帝国内諸民族の自治的発展 , ルカン諸国からの撤兵とセルビアの アドリア海への出口の付与 , トルコ 帝国内諸民族の自治とダーダネルス 海峡の開放 , ポーランドの独立 , 国 際連盟の創設などである。米国の参 戦が戦局を決定したことによって , これがのちに講和条約の原則となる のである。ドイツでは戦争の重圧に 悩む国民の間に反戦の気運がひろま り , 議会の多数派も妥協平和と民主 1917 年 的改革を唱えるにいたった 7 月帝国議会は講和決議を通過させ たが , 軍部の独裁的な勢力が強化さ れ , 休戦は実現しなかった。 18 年に はいってプレスト・リトフスク講和 条約によって東部戦線から解放され たドイツ軍は , 西部戦線に攻撃を試 みたが失敗し , 10 月バーデン公マク シミリアンカ { 宰相となって , ウイル ソンに十四カ条に基づく講和を申し 入れたが , ウイルソンの要求はしだ いにきびしくなり , 交渉は進まなか 9 月末 , ドイツの同盟国プル った ガリアカ { , 10 月 , トルコカヾ連合国に 降伏し , オーストリア・ハンがリ 帝国内では支配されている諸民族が 独立を唱え , 11 月 3 日 , 連合国と休 戦した。同し 11 月 3 日 , ドイツでは キール軍港の水兵の反乱を機に革命 連動が各地に起こ・り , 労働者兵士ソ ビエトが樹立され , 9 日ベルリンに 革命が波及し , 宰相マクシミリアン は政権をドイツ社会民主党首工ーベ ルトに譲り , 皇帝は退位して翌 10 日 オランダへ逃亡した。 11 月 11 日 , 連 合軍の最高司令部の所在地コンピエ ニュの森でドイツの新共和政府の
スーダン 界の腐敗暴露と , それをめぐって起 こった政争。スタビスキーは政界 , 金 融界に深く入り込み , 公債の不法発 行により当時の金で約 5 億フランを 詐取したが , 1933 年末発覚ののち , 翌年 1 月不審な死をとげた。騒ぎは いっそう拡大され , 右翼ファシスト 団体はこれを利用し , 34 年 2 月 6 日 には政府打倒の騒動を起こし , この 間進社会党のショータン , 夕、、ラデ ィエ両内閣があいついで倒れ , ファ このた ンズムの危機か、高まったか・ め急進社会党 , 社会党 , 共産党の提 携が促進され , 人民戦線の結成をみ 2 6 9 による工業社会主義化と農業集団化 を通する社会主義建設を推進した。 この間コミンテルンを通して「国際 プロレタリアートとソ連の利害の一 致」を原則とする共産主義運動の路 線が形成された。 36 年一国社会主義 建設の成果のうえに新しい体制を法 的に裏付ける「スターリン憲法」が 制定されたが , 一方 , 彼はジノビエ フ , ブハーリンをはじめ党内反対派 のきびしい大規模な粛清を行ない ( 1936 ~ 38 ) 党の一枚岩的統制を確立 するとともに , 共産主義の国家死滅 論を修正して資本主義包囲下での国 家の必要を主張した この期以降個 人崇拝 , 権威主義 , 教条主義による 悪弊が暗い影をおとすにいたった 41 年にはしまるヒトラーーの侵略には 最高司令官として連合国と共同して 勝利をえた。その間 , 43 年にテヘラ ン , 45 年にヤルタ , ポッタ、、ムで連合 国の首脳と会談し , 戦争遂行 , 戦後 処理の問題について討議 , 45 年 8 月 には , 日本に宣戦し , ソ連は対日戦 勝国の一員となった。第二次大戦後 には彼に対する個人崇拝は神話的に なり , また彼の指導したソ連大国主 義は社会主義諸国の協力関係に悪影 響を及は、した。 53 年 3 月 5 日脳出血 で没したが , 56 年の第 20 回党大会で 以上の点について「スターリン批判」 が公然と提起され , その後今日なお 彼の功罪および彼に象徴される政治 体制の是非は論争の的となっている。 彼はまたくレーニン主義の基礎〉 ( 19 24 ) をはしめ多くの著作を書き , マル クス主義理論に一つの発展を与えた 〔前野〕 スターリン / バルナ スターリン / プラショフ スターリンうんがスターリン運 河 / 白海バルト海連河 スターリングラード / ポルゴグ ラード スターリングラードのたたかい スターリングラードの戦い 1942 年 8 月から 11 月にかけて , スターリン グラード ( 現名ポルゴグラード ) で , ドイツ軍と同市を守備するソ連軍と の間に行なわれた激戦。ソ連軍は根 強く抵抗し , そのため市はまったく の廃虚となった。 11 月末反撃に転し たソ連軍は , 約 33 万のドイツ軍を包 囲するにいたり , 翌 43 年 2 月ドイツ 軍の残兵 9 万は降伏 , この戦いはソ 連軍の全面反攻のロ火となった 〔渡辺一〕 スターリンスク / ノボクズネック スタール ( 夫人 ) Staél 1766 ~ 1817 フランスの女流文学者。ルイ 16 世時代の財政家ネッケルの娘。早 くから開明的な思想をいだき , スタ ール男爵と結婚したがまもなく離婚 , ルソーやゲーテに関する著作を著わ し , その才知を注目された。しかし , 彼女の自由主義的な言動はナポレオ ンに迫害されたため , 各国を転々 , そ の間ゲーテ , A. W. シュレーゲノレらと 交際しつつ著わしたくドイツ論〉 ( 18 1() ) は , 主著く文学論 > ( 18 ( ) ( ) ) ととも に 19- 世紀のフランス・ロマン主義文 学の先駆的な業績として評価されて いる。ほかに・小説くデルフィーヌ > ( 1802 ) , くコリンヌ > ( 1807 ) などがあ る。 / 女流文学 〔小島〕 るにいたった 〔木村〕 スー、ダ、一マン Hermann Suder- mann 1857 ~ 1928 ドイツの作家 , 劇作家。自然主義の起こったころ , 巧みな作劇法で社会問題を扱った戯 曲く名誉〉 ( 1889 ) やく故郷 > ( 1893 ) で舞台に大成功を収めたが , 作品と してはむしろ劇作よりも , 故郷の東 プロイセンと深い結びつきを示す小 説く憂愁夫人〉 ( 188 7 ) やく猫を橋 > ( 1889 ) , 晩年の傑作くリタウェン物 語 > ( 1917 ) などのほうか、郷 E 文学の 先駆として高く評価されている。戯 曲作品としてはほかに くソドムの末 路 > などがある。 〔岩淵〕 スターリナバード / ドウシャンべ スターリ / / ドネック スターリン losif Vissariono- vich Stalin 1879 ~ 1953 ソ連の 政治家。レーニンの後継者として , 党 , 政府の最高指導者であった。本 名ジュがシビリ D z h uga s hv i li 。ス ターリンは筆名で「鋼鉄の人」の意。 グルジャ人でカフカズ地方のトビリ シ県ゴリ市に生まれた。くっ職人の 父を早く失い , 母の手で育ったが , 1894 年チフリス神学校に入学 , やか てマルクス主義にふれて秘密結社に 加わり , 99 年放校された。その後地 下運動にはいり , たびたびの逮捕流 刑にも屈せす職業革命家の道を進ん だ。 98 年に加入した社会民主労働党 内ではポルシェビキ派に属し , カフ カズ地方で活動したが , 1912 年には 党中央委員となり , 機関紙くプラウ 夕、 ) の編集などに活躍した。スター リンの筆名はこのころから用いた 13 年北シベリアに流刑 , 17 年二月革 命で釈放されるとベトログラードに 戻ってレーニンの帰国を迎え , 5 月 党中央委政治局が創設されるとレー ーン , トロッキー , ジノビエフらと 名を連わた。十月革命をへてソビエ ト政権が成立すると 17 ~ 23 年民族問 題人民委員となり , また国内戦には 軍事的指導に活躍した。 22 年初代党 中央委員会書記長に選ばれたが , 以 後終身その地位にとどまり独裁化す るにいたる。 23 ~ 27 年のトロッキー 派との一国社会主義論争 , 28 ~ 29 年 のブハーリンらとの農業集団化論争 を通して両者を放逐し , 五カ年計画 すだれアシや細く割ったタ ケを寶すのように麻糸 , 絹糸などで 編みつらねたもの。贇垂姦れの意味で , 室の内外をへだて , 日光などをさえ ぎるのに用いる。通風がよく , 手工 的な美しさが涼味をよぶので , とく に夏季の室内装飾具として愛用され ている。上代の寝殿造りでは , すだ れは重要な室内調度品のひとつで , 格子の内へたれるものを内簾 , 外 へたれるものを覆簾荢いといい , 母 屋には内簾を , 庇には覆簾をかけ るのか、ふつうであった。また牛車こ にも用いた。すだれのおもな材料は タケで , 昔から知られる伊予すだれ ( 愛媛県産 ) の材料スタ、、レヨシは , メ ダケ科に属する。編み糸の色によっ て青すだれ , 白すだれ , 材料によっ て萱すだれ , 菅姦すだれ , 葦をすだ れ , 菰をすだれなどの別があり , 最 近ではプラスチック製のものも出回 っている。日よけ以外のすだれには , 小形のすし巻すだれや蒸寵用のす だれなどがあり , また , すだれを利 用したものには , すだれ障子 , すだ れびようぶなどがある。 〔平野〕 スターン Laurence Sterne 17 13 ~ 68 英国の作家。ケンプリッジ 大学卒業後ョークで牧師をしていた か、 , 1760 年くトリストラム・シャン ディ氏の生活と意見 > 1 , 2 巻の刊行 でたちまち有名となった。 この小説 はさまざまな人物の行動とことばと 意識の流れをごった混せに書き , ス トーリーはなく脱線が続くが , のち のジョイスらの手法を暗示するもの がある。題名のトリストラムは 3 巻 になって現われ , 最終の 9 巻でもま だ赤ん坊である。そのほか , 黒くぬ りつぶしたページや , 何も書いてな い章もあるという , 風変わりな趣向 がこらされている。フランスを旅行 したときの紀行くセンチメンタル・ ー〉 ( 1768 ) は人間の情緒の ジャ かすかなゆらぎを , 独特の文体でと らえた随筆風の中編 , ほかにくイラ イザへの日記 > がある。 〔高藤〕 スーダ、ン Sudan 広義にはアフ リカ大陸 , サハラ砂漠の南の地域を いう。もともとスーダンとはアラビ ア語のスータ、、 suda ( 黒 ) の複数で , 黒 人の国を意味する。西アジアや北ア フリカのアラブがサハラ砂漠の南 にある純粋の黒人が住む国を , ばく ぜんと総称したもので , その限界は , サハラ砂漠南部のギニア湾岸を中心 に , 東はエチオピア国境にまで , だ スターーリン スタール夫人