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検索対象: 国民百科事典4
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1. 国民百科事典4

ソラトプエ 5 8 1 うろこ むじな菊 七宝つなぎ 花びし そで模様などの区別もあり , ふつう わりに , ふつう一定量の布を出すも ソラタ〔山〕 Sorata イヤンプ のであり , 調は毎年定額の絹 , 絶 , lllampu 山ともよばれる。南米 , ア 絵羽模様といって , 縫目の部分も模 綿 , 布 , または鉱物 , 海産物を出す ンデス山系の東コルジェラ山脈中の 様が連続して染められる。〔小川〕 そようちょう租庸調 1 ) 中国 もので , 正丁だけはさらに副物を加 最高峰。ポリビア西部の町ソラタの 南北朝時代から隋唐時代に行なわれ えさせられた。これらの庸 , 調は , 南東約 8 km にある。山はイヤンプ ( 6362 m ) とアンコウマ ( 6428 m ) の 2 中央政府のおもな財源であった。雑 た基本的税目。均田法と深い関係が 徭は地方での徭役で , 年に 60 日以内 , ある。租は田租であってアワ ( 殼のつ 峰からなる。ふもとの町イヤンプは , 国司の監督で労働せしめられるもの いたアワ ) , 庸は本来は徭役労働 ポリビアの首都ラバス一帯の住民の をすべきところを物で代納するもの , であった。租はともかく , 調 , 庸 , 保養地となっている。 〔町野〕 調は晋代には戸調ともいわれて戸単 とくに雑徭は一般人民にとってきわ そらちがわ空知川北海道石狩 位にかかっていたもので , 絹 , 布 ( 麻 めて重く , 兵役の負担などとともに 川第 2 の支流で , 十勝岳に源を発し , 布 ) を納める税であるが , 北朝から隋 , 生活全般を破壊的といえるはど圧迫 富良野盆地を過ぎ , タ張山地を横切 って石狩川に注ぐ。流長 166 。中 唐にかけて , それらがすべて人丁単 〔奥野〕 していた ゾラ Emile Zola 1840 ~ 1902 流の富良野盆地は北海道有数の農業 位の均等課税として計算された点が 地帯で , 田畑が開け , 米どころとし 特色である。唐では毎年丁ごとに租 フランスの作家。土木技師の子とし て知られる。下流の横谷部には芦別 , はアワ 2 石 , 調は綾あやぎぬ ) , 絹 , てパリに生まれた。幼くして父を失 維 ( 絹の粗なもの ) いすれかを 2 丈 い , 貧窮に追われてアシェット書店 赤平など空知炭田の一部を成す炭鉱 と綿 ( まわた ) 3 両 , 布 ( 麻布 ) なら 2 都市がある。金山 , 野花南 , 奔 の店員となったがこ一 でフロく一 丈 5 尺と麻糸 3 斤 , 庸は年 2() 日の標 ルやゴンクール兄弟らと交わるよう 茂尻に発電所があり , 国鉄根室線が になったことが彼を急速に文学へ近 沿岸を走る。 準徭役の代わりにその 1 日につき絹 〔勝俣〕 3 尺 , 布ならば 3 尺 7 寸 5 分の割合 つ・け , 1867 年くテレーズ・ラカン > そ・ノぶえんばん空飛ぶ円盤 未確認飛行物体 unidentified flying で納める規定である。なお , 租 , 庸 , て文壇に登場した。やがて , テーヌ object ( U F O ) ともいう。英語の 調のほか , 雑徭という地方的なカ役 の実証主義や C . ベルナールのく実 flying sau. cer の訳。このことは・の があった。こうした形は , 整然たる 験医学序説 > などの影響下に , 人間 戸籍制度と , 比較的伸縮性に乏しい 起こりは , 1947 年 6 月 21 日 , ケネス・ を遺伝 , 環境 , 時代の 3 条件によっ 財政のもとでしか成功しない税制で アーノルドという実業家がワシント てとらえようとする「実験小説論」 あったので , 唐の中期にはしだいに ン州の上空を自家用機で飛行中 , 空 を唱えるとともに , その理論を適用 他の税に圧倒され正税たる位置を失 して , 第 2 帝政期のフランス社会を の一角に銀色に光る円盤状の物体 9 い , 両税法に代わられた。〔菊池〕 個を望見し , この名でよんだのが最 描きつくそうという壮大な企てを起 こし , / 0 レゴン・マカール双書〉 初である。以来 , 世界的な注目をあ 2 ) 日本日本の律令制時代にも , 大 陸の制にならった租 , 庸 , 調による ( 1871 ~ 93 ) の執筆にとりかかった。 び , 類似した飛行物体の目撃例は無 数に報告され , 47 年以前にもさかの 税法が , 日本的に変更をうけながら / く居酒屋 > , / くナナ〉くジェルミナ ール〉は双書中とくに声価高く , 自 ほって調査された。円盤の多くは , 行なわれた。租は田地に課せられ - 然主義作家としての地位を決定的な 天体や天文現象 , 光学的気象学的現 大宝令ではロ分田ん 1 段につき 2 束 象 , 航空機 , 鳥 , 観測気球などを未 2 把わで , 租率は収穫の 3 % とほば一 ものとした。彼は社会的にも文学的 経験な観測者が誤認したものが多く 定していて軽かった。庸 , 調 , それ にも一貫して弱者の立場に立ち , 科 なかには , うそや作り話もある。円 に雑徭 ( 日本では「ぞうよう」と 学と進歩を信して腐敗や悪を攻撃し ロ ) し む ) は男子だけにかかる人頭税で , 盤を他天体から飛来した字宙機であ た。 / ドレフュス事件で敢然と無罪 その場合 21 ~ 60 歳までの者を標準の るとか , 円盤の着陸や字宙人を目撃 を主張し , 社会の偏見と戦った彼の 正丁とし , 61 ~ 65 歳の者と軽い不具 したと称し , 評判を集めた人物もあ 活動はあまりにも名高い。他にく三 者は次丁 , 17 ~ 20 歳は少丁とされ , 都市双書 > く四福音双書〉があり , るが , 内容はあやしげなものが多い 負担額で次丁は正丁の % , 少丁は % 晩年の彼の空想社会主義的な思想を 空飛ぶ円盤は , 科学的な解析よりも , とされていた。庸は元来は歳役とい みることができる。 / 自然主義 むしろ大衆心理学的な研究対象とし う徭役で , 年に 10 日の徭役労働の代 て興味をそそられる。 〔草下〕 〔成瀬〕 代表的な和服の染め模様であるが , このなか には織模様とされるもの , また衣料に限らす 他にも応用される模様も多い。唐草つる草 の図案化で仏教とともに伝えられた。菊 , ポ タンなど花をあしらうことも多い。麻の葉 麻の成育が早いのにちなんで , うぶ着や子ど ものきものに用いることが多い。市松石だ たみともいう。古くからある模様だが , 江戸 中期に佐野川市松という役者によってひろめ られた。黒と白の配色が多い。青海波波の うわりの図案化で祝着として用いることが多 い。さやがた卍 ( まんし ) をつないだ模様 で , もとは , 紗綾 ( さや ) の地紋として用い られた。観世水渦の図案化で能楽の観世流 のきまり模様として扇などにつけられたのが はしまりである。州浜海辺の州を上からみ た形でさらに三つの円形を合わせた形に図案 化されたものもある。おもに中形の模様とさ れる。うろこ魚のうろこの図案化で赤と白 の配色が多い。たてわく , 七宝つなぎ , 花び しともに公家の装束の模様とされたもので 品位があり , 地紋とされることも多い。むじ な菊小菊模様の一つでおもに小紋とされる 唐草 麻の葉 青海波 市松 州浜 観世水 さやがた たてわく ゾラ

2. 国民百科事典4

王用の色である黄色に塗られ , 銀の ふたカ { ついたり , 緑の竜の飾りカゞつ いていた。その料理は , 食卓中央の 黄色の大ばちに鶏とアヒルとフカの ひれのすまし汁を盛り , はかに冷や した紅白の肉だんご , たけのこをあ しらった炒肉 ( チャオロー ) 糸 , さい の目に切った豚肉 , 鶏卵と豚肉とキ ノコをこまかく刻んで揚げたパン , キャベツやカプをあしらった豚肉 , 香ばしいなべ焼きのチキンや骨抜き のチキンなどもあり , とうてい西太 后一人では食べきれないので , 残っ たものは女官たちに分けあたえられ ただしすわっ るならわしであった て食べるのは西太后だけで , 他の陪 食を許された者は , 皇后といえども 立ったまま食事するのがしきたりで あった。しかし , 中国の民衆の食事 はきわめてそまつで , その食物は南 方の米食 ( 乾飯やかゆ ) , 北方の雑 穀食 ( 麦やトウモロコシの粉食 , ア ワやコーリャンの粒食 ) など栽培食 物によって大きく影響されてきた。 とくに北中国の農家では季節によっ て食べる雑穀が異なり , 江蘇省の農 家では 6 ~ 8 月小麦 , 9 ~ 10 月コー リャン , 11 ~ 1 月サツマイモ , 3 5 月コーリャンというように食べた 副食はおもに塩づけの菜とみそとい う変化のないこんだてで , 肉類は旧 正月 , 端午 , 仲秋 , 清明 , 上元 , 冬 至いなどの節日や冠婚葬祭に限られ ていた。しかし調味料では植物油の 消費量が大きく , これで栄養が補給 されていた。塩も貴重だったので , 塩魚をもってこれに代えるところが 多かった。華北地方では茶も用いず 白湯を飲んだ。しかし , これは人民 共和国成立以前のことで , 現在では 農民の食生活は大きく変化した。 インドでは宗教 , 民族 , 階級によ って食事の内容は多種多様である。 イスラム教徒は肉食をするが , 豚肉 はけっして食べない。ヒンズー教徒 は , 最近は上流階級で肉食するもの がしだいにふえたカ { , 一般には精進 食をするものが多く , とくに牛を尊 崇しているので牛肉は絶対に食べな い。一般のインド人は朝早く起きて 牛乳入り紅茶を飲み , 午前 11 時ごろ にからいカレーで味をつけた飯と野 菜を食べる。午後 4 時ごろにはビス ケットかバナナで紅茶を飲み , 日没 後夕食をとる。夕食はいちばんのこ ちそうで , 金属製の大きな丸ざらに 飯をのせ , これに味をつけた野菜や , ダールという黄色い汁や , ギーとい う油や牛乳を固めたものをかけ , 右 手で手づかみで食事する。食事後 , 口をきよめるためにバン ( 香料入り の青い葉 ) を食べることもある。イ スラム教徒が豚肉を食べないのは , おそらくユダヤ教の影響であろうと いわれるカ { , その禁忌はきわめて厳 重で , 彼らは豚の油を使った料理も 8 7 避けている。イスラム圏の中心をな すアラビアの遊牧民の食事は , マホ メットの時代からたいした変化はな く , 1 日 2 食の生活で , 日没後のタ 食がおもな食事であり , 正午少し前 に前夜の残りのパンとラクダの乳を とるだけである。朝はつばきをゆる めるためといって , ノヾンや乳を舌に 入れる程度で , 都市では軽くコーヒ ーですませる。常食はイナゴ , ナッ メヤシ , 野草などで , パンや肉が出 るのはごちそうの部類であった。食 事の作法はきわめて厳格で , 食事の 前に手を洗い口をきよめ , 「アラーの み名によって」とか「アラーをはめ たてまつる」と唱える。最近までは 立てひざをして食卓につき , 右手の 親指 , 人さし指 , 中指で食物をつま み , 左手は不浄であるとして用いな かった。なおイスラム教徒は , のど を切って血を取り去った鳥獣の肉で ないと食べることを禁しられ , また ひづめの割れた獣の肉でないと好ま しくないとする派もある。〔小池〕 日本の食事 〔民間の食事〕日本では 17 世紀初め まで食事の回数は 1 日 2 回カゞふつう で , その時刻は朝とタ方であった。 しかし , これは正式に膳について 食べる食事のことで , 労働の激しい 庶民たちは , とくに田植えどきなど の忙しいときは , 働いている場所へ 食物を運び , 正式の食事のほかに間 食をも食べた。今日の弁当にあたる 食事で , 古くはこれを「ひるま」と よんだ。近畿地方ではこれを「けん すい」または「はせき」といってい る。けんすいは間食 , はせきは補食 のことで , いすれも中世に僧の間で 起こったものとみられる。また「こ びるま」「こびり」などとよぶ地方も あり , 時間を表わして四つ茶 , 七つ 茶 , 八つ茶などともいう。「四つ」は 今の午前 10 時 , 「八つ」は午後 2 時の ことで , 茶は元来休憩のときに出し たが , ふつう食物を添え , それを含 めて茶といった。今日の「おやっ」 はこの八つ茶に由来する。このよう に正式の食事の間にお膳につかない 食事力 { 行なわれはしめたのは , その 呼称からみて中世後期ごろと推定さ れる。当時日本の食糧事情がひしょ うに悪く , 京都付近でも米飯はほと んど食べられす , 米を食べるにして も , かゆか雑炊にして食べた。食事 の質の悪くなったことは空腹をよび , それが午餉 ( ひるま ) , 間食 , 補食 を必要とするにいたったのであろう。 近世になると , 農民の労働は税負担 その他のために実に重いものになり , 夜の明けぬうちに起きて働いたので , 朝飯前に朝茶を食べる家が多かった。 夜は夕食後もひと働きするため , 仕 事を終えて夜食をとる風習も各地に みられ , 農繁期には 7 回も食べる農 家が多かった。一方 , 一般民衆の食 、ンヨクジ 物は戦争や凶作のたびに悪化したが , 同時に新しい食物や食法の発見され ることも少なくなかった。粒穀はも と「こしき ( 甌 ) 」で蒸して食べるこ とが多かった。粒穀に水を入れてた く / かゆが 11 世紀ごろからみられる ようになるが , その「堅がゆ」とよ ばれるものは今日の / 飯と同しであ り , 今日のかゆは「姫か、ゆ」といっ た。また魚肉などの保存のため , れらに塩をかけ , また魚肉と魚肉の 間に飯をはさみ , おけに入れ , 上に おもしを置いてたくわえる方法もあ った。 / すしはそうした貯蔵法とし て始まったものである。 神への供物としては , 古くは / い けにえをささげる風習があったが , 延喜式では米 , 酒 , 魚が多く用いら れ , 日本人の食物が獣肉をきらい植 物性食品や魚肉などに変化したこと を示している。供物は神にささげた のち , 人もともに食べるのがふつう で , 神霊の宿る食物を分かち食べる ことによって神の恩恵にあすかり , 共同の力と幸福が得られると信しら れていた。神酒は神の座に連なる人 人に幾度も回し飲みされ , さかなや 飯が回される。つまり供物は熟饌く であって , 生の米や魚菜を供えるこ とはなかった。米はふつう飯か / も ちにして供えられた。神に供えるも ちを「お鏡」とよび , 仏に供えるも ちを「お姿」とよぶところの多いの は , これに神仏の霊が宿ると考えた ためであろう。正月の雑煮も神に供 えた種々のものを煮る意で , 北九州 でこれを「のうれえ」といっている。 のうれえとは直会で , 神に供えた ものを共食することである。 3 月の 節供の草もちや白酒 , 5 月の節供の / ちまきは招福除災のためのもので あり , 盆に小麦だんごや , そうめん を仏前に供えるのは , この時期が麦 の収穫時であったためであろう。・ 8 月の名月に供えるサトイモ , 9 月の 節供のクリ , 名月に供える豆 , 10 月 の十日夜かや亥子ののもち , 11 月 23 日のダイコンなど , いすれもそれぞ れの収穫祭のなごりである。共食の しきたりは家々の私的な祭りである 祝儀 , 不祝儀にも行なわれた。民間 の祝儀にはもち , 赤飯 , 魚などが用 いられ , 不祝儀にはやはりもちはつ こうして くが , 精進料理であった 村の人々が共食によって喜びと悲し みとを共同で分かち合っていた。し こういう習俗が煩わしいと感 かし , じるようになると , 調理だけを招かれ た家で行ない , 食物は各人が行器ぃ ロはか に入れて持参するようになり , やが ては食物だけを贈るようになった。 したがって食物の贈答は共同飲食に 発していることが多い。たとえば「み やげ」の起こりは「宮笥 0 や」で , お 宮で共食した残りを笥 ( はこ ) に入れ て家に持ち帰ったことに由来すると

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3 3 4 国を巡業するようになった。 初めの れを交互にやる方法で , レスリング らに発展させている。そのはか , く弦 ころは「人方屋経ゃ」といい , 見物人 楽四重奏曲第 1 番わが生涯より〉 ( 18 のルールに似た点カ { ある。この手こ の取リ巻いている範囲内を場として いに変化をもたせ , 同時に攻めかか 〔角倉〕 76 ) が有名。 るようになって「手合い」の形とな いたが , 勝負をはっき . りさせるため スメル〔山〕 Semeru インドネ と見やす・くする必要から ~ E 俵が考案 り , さらにくふうがこらされて「仕 シア , ジャワ東部のテンゲル山脈の されるようになった。その時期は織 切り」に進化したと思われる。その 南端にあるジャワ最高 ( 3676 m ) の活 田信長の全盛期ごろで , 信長が近江 火山であり , マハメル山ともよばれ ころは上俵もなく , 禁手などもなか 国常楽寺で近江国中の力士を集めて った。相手を殺すか , 降参するまで る。しばしば爆発を起こしており , 相撲を行なったのは 157 ( ) 年であり , その優美な形の頂上からは絶えす噴 続けられたことは , く日本書紀〉の垂 78 年には安上城内で 158 人の力士 煙を吐きつづけており , 遠くスラバ 仁天皇の 7 年の条にも , 当麻蹶速耙 による大会を催しているが , 〔遠藤〕 このと と出雲の野見宿禰 2 の対戦が述べ ヤからも望見される。 きに土俵が設置されたものと推定さ すもう撲 , 角カ日本で独自 られ , 宿禰は蹶速をけり倒し , あば れている。上俵場の創始は , 相撲 の発達をしてきた競技で , カわざの ら骨を踏み折って殺したとある。日 本ではこれを相撲の初めとし , 宿禰 にとっては一大革命で , 技術的に大 一種。 2 人の競技者が , 土俵場また を祖神として祭っている。「カくら 変化を起こし , いよいよ競技化し , は区画された場所で , 素手で勝負を べ」が「すもう」といわれるように 観賞にも興味を増すとともに , 体育 争い , 相手を倒すか区画外に出すこ とによって勝敗を決する競技。古く なったのは , く日本書紀 > によれば允 的にも大きな効果をもたらした。 恭天皇の葬儀にあたって , 新羅から 3 ) 職業団と勧進相撲江戸時代にな から職化するほど全国的に普及し ると , 職業力士は江戸 , 夫阪 , 京都 楽人人が見舞としておくられ , 次 ている。精神力を強化し , 機敏さ , いで中国からも雅楽 , 舞楽が伝えら 巧妙さを養う全身運動であり , 1941 を中心に集結し , しだいに組織化さ 年国民学校令がしかれたとき , 学校 れたが , その舞楽が面 , 装束をつけ れていった。相撲会所とよばれる本 て演しられたのに対し , 裸で行なわ 体育の中に加えられ , 61 年の新指導 部が生まれ , 神社 , 仏閣 , 橋などの れるカくらべを「素の舞」「素舞」と 建設基金を募る趣旨で「勧進相撲」 要領として , 小学校 1 年生から男女 を興行し , それが定期的となって「番 いうようになり , 「すまひ」の動詞 を問わす必修させることになった。 化「すまふ」が名詞となり , 今日 相撲に類する力を主とした体技は世 付」もできるようになった。各地か 「すもう」と書かれるようになった。 ら巨人やカ持が晴れの場所をめざし 界各国にあり , 古代エジプトの遺跡 の壁画に , 相撲に似た形が描かれて 1 ) 節会相撲大陸との交流によっ て集まってきた。また諸大名が競っ て力士を召しかかえた。観賞の対象 て諸式があらたまり , 相撲が祭典や おり , また古代オリンピックでも , 権力者の祝い日などの儀式のなかに として , 相撲は大衆の心、をとらえた ボクシング , レスリングのほかに のである。地方でもその刺激を受け この二つをいっしょにしたようなパ 加えられたことが宮廷記録などに残 ンクラシオンという競技が行なわれ て , 相撲が盛んになった。整った形 っている。聖武天皇は 726 年に諸国 態での江戸勧進相撲の最初は 1624 年 た。聖書や仏典にも , 古い時代に相 の力士を集めて , 盛大な節会相撲を といわれている。 1789 年 , 江戸深川 催した。前年の不作に対して , 天阜 撲に似たカわざの行なわれたこと 八幡宮境内での 11 月場所の 7 日め , が豊作祈願をしたところ , その年大 が書かれてある。さらに現在 , タイ 上俵上で谷風 , 小野川に史上初の横 豊作となったので感謝と祝いのため 国をはしめ南方諸地域 , シベリア地 綱伝授の式があり , 91 年には江戸城 方で行なわれているカわざや , 中国 に企画されたもので , このとき , 近 の角觝や拳法 , 蒙古相撲など , 内で将軍家斉の上覧相撲が催された。 江第国の住人で相撲の名人志賀清林 このころ古今最強といわれる雷電為 日本の相撲に似た原始的カわざの分 に命ヒて , 競技規則を作らせた。清 布がひろくみられる。 右衛門も登場し , 職業相撲の基礎を 林は , 従来の殺しわざであるこぶし 〔沿革〕く古事記〉に , タケミカヅチ で突くこと , なぐること , 足をもっ 確した。 てまっこうからけることの 3 手を禁 4 ) 国技館建設明治の大変革は , 相 ノカミとタケミナカタノカミが , 出 この節会を機会に , 「相撲の 撲にも大影響があった。廃瀋によっ 雲の伊那佐の浜でカくらべをやり , その勝負によって「国ゆすり」が行 節」は宮中の重要な儀式の一つとな て , かかえを解かれた力士は , 経済 なわれたと書かれてある。日本にか り , その後約 400 年間続いた 的に独立しなければならなくなった。 ぎらす原始時代には , 領上を決める 2 ) 土俵の設定相撲は , 武士にとっ しかし興行は不況が続き , 収入の配 場合とか , 首長を決めるときに て基本的な鍛練法であり , 競って腕 分にも不公平があり , 旧態依然の会 のような方法がとられていたようで , をみがいた。陣中や狩りのあいまや , 所の運営ぶりに , 高砂浦五郎 ( 当 時前頭筆頭 ) が改革を叫び , 1873 年改 鎌倉鶴岡八幡宮の社前などで , 将軍 カくらべは一種の神占いであったと 上覧とか奉納の相撲が行なわれた 正組を組織して対抗した。 6 年のの 思われる。このカくらべの記述中に とがく吾妻 % 鏡 > やく太平記 > など 「手ごい」ということばがあるが , 攻 ち合併して , 相撲会所を東京大角カ 協会と改め , 機構の大改革を断行し に書かれている。さらに室町時代末 め手は相手の手を取って攻め , 相手 期になると , 職業力士が生まれ , 諸 た。おりから文明開化の風潮が高く は攻めをかわして放そうとする , そ 相撲廃止論が出たが , 伊藤博文らの 支持があり , 年には明治天皇の天 覧相撲が催され , 新横繼梅ガ谷以下 の力士がその上俵をつとめたがこ れで廃止論は影をひそめ , さらに日 引 清 , 日露戦争後の国力増大とともに 活気を呈した。初代梅ガ谷改め雷 取締の好運営もあって , 1903 年以後 横綱を免許された常陸山と 2 代め 梅が谷の対立が人気を博し , さらに 朝潮 , 荒岩 , 国見山 , 駒ガ岳 , 逆鉾 , 太刀を山らの強剛の輩出に , いよい よ興隆の波乗り , 09 年東京両国に 大鉄傘えの国技館が開館される運び スメ ) レ 江戸勧進相撲も寛政以 後文化文政期はおもに 回向院で行なわれた。 土俵上は玉垣 ( 右 ) と立 神 ( 左 ) のカ戦 , 緋縅 , 柏戸 , 千田川らの名前 もみえる。技量伯仲の 緋縅 , 玉垣を両大関と した文化 11 年 ( 1814 ) こ ろの風景とおもわれる 盞第

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タイキカン 大気環流 6 0 2 レムの帝位が認められたが , 56 年 , ソーは , 人間の意志は分割したり委 その死に続く皇帝選挙は二重選挙と 譲したりできないから , 代議制とは , なり , リチャード・オプ・コーンウ 本来ありえない制度であるという。 ォーノレとカスチリャエアルフォンソ またケルゼンは , 選挙民の指示によ が対立 , 両者とも外国人のためドイ って拘束されない代議員を「代表」 ツに関心なく , 政情は乱れた とよぶのは虚構であるとさえいう。 時期には選挙侯制の兆候がみられた このような批判はあるが , 近代国家 ほか , ライン都市同盟の形成 , 市民 の複雑さと巨大さは , 国民の直接的 文化や神秘主義の台頭など , 中世末 政治参加をも事実上不可能にしてき 期ドイツ史の特徴的諸傾向がはっき た。そこで諸国では , 直接民主制的 要素 ( 国民発案 , 国民投票 , リコー 〔成瀬〕 り現われてくる。 ルなど ) を加えることによって , 代 だいげつし大月氏前 3 世紀半 大気環流の原因につい たいきかんりゅう大気環流太 議員の政治行動が国民の政治関心か ばごろから後 1 世紀後半まで中央ア ての新循環論による , 陽の熱作用などにより地球上の大気 ら遊離しないよう , さまざまなくふ ジアで活躍した遊牧民族。その人種 子午面内の循環モデル が環流すること。大気の大循環とも うを試みる。ソビエト制などはその についてはチベット人説 , トルコ人 いう。赤道近くでは , 大気が太陽か もっとも極端な例である。〔小林〕 説 , イラン人説の 3 説がある。初め ら受ける熱のはうが放射で失う熱よ たいぎやくじけん大逆事件 中央アジアの大勢力としてモンゴル 大逆事件 ( 補 ) 1961 年 り多く , 極近くでは受ける熱より失 / 幸徳秋水をはしめとする多数の無 高原を制圧したが , やがて匈収に 唯一の事件生存者坂本 う熱のはうが多い。しかし地球上の 政府主義者 , 社会主義者が , 明治大 圧迫され , その主力は前 2 世紀半ば 清馬と , 死刑となった 大気の平均気温分布はほは、一定して 森近連平の妹栄子は , 皇の暗殺を企てたという理由で処刑 ごろ西方に移動し , アフガニスタン 東京高等裁判所に再審 いる。これは赤道地方から極地方に された事件。幸徳事件ともよばれる。 北部に入り , バクトリア王国を倒し 請求を行なった。これ 熱が運ばれているからと考えられる。 日露戦争後日本の社会主義連動には これを大月氏という。大月氏は た は 65 年 12 月新証拠なし 地上の平均風系もだいたい一定して 君主制否定の思想が芽はえた。その 漢の武帝の対匈収共同作戦の提案に として棄却されたカ { 、 おり , 風系が摩擦で弱まらす毎年維 なかで労働者宮下太吉は天皇暗殺を 従わす , ヒンズークシの要地を擁し ただちに最高裁判所特 持されているのは , 運動量が適当に 決意し , 新村忠雄 , 古河カ作 , 管野劣ん て , ソグディアナ , ーノレ高原に 別上告を行ない , 調査 補われているからである。このよう が続行されている。 スカ、、と計画に着手 , 19 1 ( ) 年 5 月 25 日 いたるまでも勢力範囲としたが , 1 に大気中の熱 , 運動量 , 運動エネル 発覚して逮捕された。幸徳はテロに 世紀後半 , / クシャン朝に滅は、され キ、一一 , 水蒸気などを運んで平均の状 は反対であったが , これを機会に無 た。なお大月氏西遷のとき一部は黄 態に保っ現象を大気の環流という。 政府主義 , 社会主義の徹底的弾圧を 河上流域にはいった これを小月氏 以前はこの原因を極と赤道の温度差 もくろむ第 2 次桂 ( 太郎 ) 内閣によっ とし、う 〔本田〕 て首謀者とみなされ , 多数の同志と による対流とし , それに地球の自転 たいげん太原 (. タイユワン ) 中 太閤検地石田三成が の影響を入れた構造図が考えられて ともに逮捕された。同年 12 月 , 26 名 国 , 山西省の省都。人口 1 ( ) 2 万 ( 1957 ) 。 秀吉の命により大隅 , いた。しかし上層観測の発達から , が大逆罪で起訴され , 11 年 1 月 18 日 晋中盆地の北部 , 汾水の東岸にある。 強摩 , 日向の検地を行 この対流説では説明つかないジェッ 死刑 24 名 , 有期懲役 2 名の判決があ 同蒲線 ( 大同 ~ 風陵渡 ) と石太線 ( 石 なったとき ( 1594 ) 用い ト気流 , その他の発見があり , また った。死刑のうち 12 名は翌日無期に 家荘 ~ 太原 ) の分岐点にあたり , 省 たという検地尺。左カ { 表 上層観測の新しい多くの地点の観測 て , x 印の間が 1 尺で , 減刑されたが , 上記 5 名を含む 12 名 の政治 , 交通 , 商工業 , 文化の中心 1 寸ごとに墨線を横に 値から , 運動量その他の輸送量を計 である。清末に機器局が設けられ , は同月死刑を執行された。以後日本 引いてある。右が裏面。 算できるようになった。その結果 19 の社会主義連動はいわゆる「冬の時 近くは軍閥閻錫山ドがこの地に割 この寸で 6 尺 3 寸を 1 5 ( ) 年ごろから環流は高低気圧による この事件はまた日 拠して工場を建てるなど , 比較的近 代」にはいった 間 , 5 間 x 6 ( ) 間を 1 反 大気の水平混合により形成されると 本の知燾人に深刻な衝撃をケえた。 代工業の伝統に恵まれていた。人民 とすると書かれている いう説が認められるようになった 和国成立後は省の豊かな鉄 , 石炭 〔鹿野〕 たいきゅう大邱 ( テーク ) 韓国 , 大気環流には , 移動性高低気圧によ など鉱物資源を利用して , 工業都市 としての発展が著しく , 鉄鋼 , 機械 ~ 2 日周期の変動 , 地球を取り 慶尚北道の道庁所在地。人口 8114 ( ) 6 巻いて数回波うっ程度のより大きい 化学 , 紡織の大工場が建設され , ま ( 1965 ) 。大邱平野の中心部にあリ , 韓 気圧の山谷による 5 ~ 6 日周期の変 たセメント , 製紙 , 製粉などの工業 国三大都市の一つに数えられる。ソ 動 , 上層の東西方向の風速による約 ウル ~ 釜山間の重要な経済都市で米 , が行なわれ , 華北工業区の一中心を 4 週間周期の変動などがある。水平混 繭 , 生糸 , 葉タバコの市場として最 なしている。唐の高祖が独立の兵を 古最大を誇っている。大邱リンゴの 起こした地であり , 唐の滅亡後五代 合は不規則な流れによるのでモデル 産地としても知られるが現在は減産 を書くのはむすかしいが , バルメン 北漢の都ともな 十国のころには晋 , している。精米業 , 製糸業も盛んで ( 1898 ~ ) によれば熱帯地方では対 った古い町で , 現在も正方形の整っ ある。朝鮮戦争中の 1950 年一時李承 た市街に城璧をめぐらし , 南西の晋 流が環流のおもな働きをしていると 晩政府の駐在地となった。慶北 , 大 陽 ( 太原鎮 ) の近くに名勝晋祠があリ , されている。大気環流の研究は大気 その水母殿は建築の壮大をもって知 の運動 , とくに将来の予想をするに 邱 , 青丘などの大学があり , 釜山に 〔徳増〕 重要なもので , 長期予報にも役だっ。 次ぐ学生運動の発生地として注目さ られている。 ロ村〕 太鼓代表的打楽器。胴 れている。 / 気候 / 大気 〔村〕 たいくういじたい大空位時代 や , わくに張った皮の膜を , 手やば だいぎせい代議制現代の民主 ちなどで打っ膜鳴楽器の総称。リズ ドイツにおける事実上の皇帝空位の 主義政治制度のもっともふつうの形 時期 ( 1256 ~ 73 ) 。シュタウフェン家 ム楽器としてもっとも重要である。 式であり , 代表制ともいう。 一般国 もともとは「大きな鼓」の意で , 胴 の没落から / ハプスプルク家のルド 民が直接に政治に参加するのではな のくびれた / つづみ ( 鼓 ) 以外を「た ノレフ 1 - 世の登位 ( 1273 ) に及ぶ。 1245 く , 選挙によって特定の人 ( 代議員 ) こ」といい「大鼓み」と区別す ドリヒ 2 世の破門に伴い , 年フリ を選び , その代議員が国民の代表と るため太鼓と書くようになった。し チュー - ーリンゲンの / 、インリヒ・ラス して , 政治の運用を全面的に委任さ かし原理上は鼓も太鼓の一種で , ペ , ホラントのウィレムカゞあいつい れる制度である。したがって代議制 こでは太鼓を広い意味すなわちドラ で国王に選立された。 54 年フリ = 間接民主制 = 議会主義といえる。 ムと同義に扱う。形によって , 筒形 リヒの子コンラート 4 世の死により 一方 , 直接民主制が純粋な民主主義 シュタウフェン家が断絶するとウィ ( ふつう両面太鼓。種類が多い ) , な 制度であることは当然であるが , ル 亜熱帯ジェット 90 。 ( 極 笋界面 極前面ジェット 圏界面 水平混合が卓越ー・ 赤道 ) 0 。

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セイシュ 3 8 0 2 ( ) 世紀における原典批判 , アッシリ の」 H 司 y S c r i p t u r e ともいわれ 日本語でバイプルを聖書と訳したの ア学 , エジプト学 , 比較言語学 , 比 はこれに由来している。 較宗教学 , 考古学の成果は , むしろ 〔聖書の成立〕聖書はく旧約聖書〉 正しくその歴史性を立証しつつある。 とく新約聖書〉の 2 部からなり , そ ヌジ ( モスル付近 ) およびマリ ( ューー の成立の事情はおのおの異なって フラテス川中流 ) の発掘からわかっ いる。 た多くのイスラエル系人名は彼らが 1 ) 旧約聖書の成立ユダヤ教正典 前 2 千年紀初め , メソボタミア北部 ( カノン ) は元来 24 書 ( 現行 39 書 ) に分 に定住していたことを証明し , 工リ けられた。これを大別して , a. 律法 コ遺跡の発掘からヨシュアの / ヾレス ( トーラー ) , b. 預言者 ( ネビイム ) , チナ侵入の裏付けが得られ , 伝説と c. 諸書 ( ケスビイム ) とする。かって 考えられたソロモンの大厩ド舎の跡 は「律法」は「モーゼの五書」とよ がメギッド遺跡から出土したことな ばれ , 著者はモーゼその人と信せら どはその例である。また , くさび形 れたが , 19 世紀の聖書の原文批評の 文字文書から「大洪水」「 ノヾ ( ノレグ ) 死海写本のイサヤ書 治活動の公明を図り , 選挙の公正を 発達によって「五書」は成立年代も 塔」などの原型が発見され , エジプ 確保することを目的とする。政治団 著者も異なる四つの史料 , すなわち ト史料からはイスラエル族が前 12 ( ) 0 体は選挙管理委員会に届出 , 受けた J 史料 ( 神をヤハウ工とよぶ ) , E 史 年ごろカナンにいたことか、知られた 寄付と支出を定期に同委員会に出 料 ( 神をェロヒムとよぶ ) , D 史料 ( 申 ( メルネプタ碑文 ) 。また前 2 千年紀 しなければならない。 命記法 ) , P 史料 ( 僧侶法 ) から成 〔川北〕 半ばのカナンにおけるノヾール崇拝の せいしゅ清酒 / 日本酒 立していることか、明らかにされた ( グ 実態が , ウガリトやビブロスの発掘 せいしゅう清州 ( チョンチュ ) ラーフ・ウェルハウゼン説 ) 。 J 資料 や出土文書から明らかにされている。 韓国 , 忠清北道の道庁所在地。人口 はもっとも古く , 前 850 年ごろユダ 2 ) 新約聖書の成立ユダヤ教の信仰 ヤに成立し , E 資料は前 75 ( ) 年ごろイ に養われたイエス・キリストにとっ 12 ( ) 9 ( ) ( ) ( 1965 ) 。京釜線の鳥致院から スラエノレで , D 資料は前 622 年 ( ヨシ 分岐して忠州と結ぶ忠北線に沿う中 ては旧約聖書が聖典であり , 固ろう ュア王の宗教改革 ) ごろユダヤで , な律法主義に堕したユダヤ教の殼を 都市でこの地方の行政 , 文化の中心 最後に P 資料は前 500 年ごろ捕囚時 破って新しい信仰をのべたのちも , 地。清州大学がある。米をはしめと 彼自身で信仰集団を組織したり文書 する農業 , 清酒製造業 , 紡績業など 代にバビロニ . アで成立し , 前 450 年 を残すことはなかった。しかし , や が行なわれている。 ごろェズラが帰国のさい持ち帰った 〔村〕 ものとされる。正典のうち最古の史 せいしょ聖書キリスト教の聖 がて弟子たち ( 使徒 ) を中心に生まれ 料は士師記のデボラの歌で , 前 1200 典であるノヾイプル B ib le のこと。 た信仰集団はさまざまな迫害をくぐ 年ごろのもの , もっとも新しいもの イプルの語源はギリシア語で , 本に りぬけてしだいに拡大する。この過 使用する紙の原料パピルスの茎の髄 程で , 50 ~ 60 年代のころから遠方へ はソロモンに仮託された箴え言や伝 をさすビブロス bib los よりきたもの の宣教の目的などからノヾウロなどの 道の書で前 4 ~ 前 3 世紀の作とされ で , それの指 / ト詞ビブリオン bibli 。 n る。聖書のギリシア語訳 ( 七十人訳 ) 書簡が残され , さらに宣教者の日己 , は大著の一部または書籍の意味があ 団体の記録 , 説教の覚書をはしめ はプトレマイオス 2 世 ( 在位前 285 ~ った。ギリシア教父たちは聖なる書 前 246 ) の治世に完成しているので , とくにキリストの言行のロ伝 , 伝承 きものの全集成を表わすのに この 正典としてのヘブライ語原典は少な を記録する努力がなされた。かくて ビブリオンの複数形ビブリア b ib 1 ia 70 年代以降新約聖書の根幹をなす 4 くとも前 3 世紀初めには成立してい という語を用いた このギリシア語 福音書や使徒行伝が成立する。 4 福 たはすである。ラテン語訳 ( ウルが がラテン語に移り , さらに近代語 ( ド 音書は , 史料 , 内容 , 文体 , 配列な タ ) は 400 年ごろヒ工ロニムスにより , イツ語の BibeI, 英語の BibIe, フラ どに多くの類似点のあるところから ドイツ語訳は 1525 年ルターにより翻 ンス語の B ibl e ) が派生した。したが 一括して共観福音書とよばれるマル 訳され , 英語訳はジェームズ 1 世の ってこれは「すべての本の中の本」 コ伝 , マタイ伝 , ルカ伝の 3 伝とヨ 命によりウルガタから 1611 年出版さ または「すぐれた本」という意味を ハネ伝である。このうちマルコ伝が れている ( 欽定訳 ) 。 18 世紀の啓蒙思 もっている。その他「神聖な書きも もっとも早く成立し , これを資料と 潮は聖書の歴史性を疑ったが , 19 ~ してマタイ , ルカ両伝が成立したと される。 a. マルコ伝すでに書きと どめられてあった資料をもとに初め ⅸ市 0 品駅を 000 neut ⅸ 00 加 0 いをい 0 なェ てキリストの言行をまとめあげた試 社驫 0 0 行し 頑 0 認新。日 ・ 0 し第 0 : 叫朝 ! ひ餮物電ⅵーをにい飆 みで , 70 年のころ , パウロと伝道を 当面山 ! 皿如 0 無純 示し材 n506 日い豆 0 れ物 010 防第加当川を : 当“し . ru0 山臨 0 ・ 簡 0 試ーⅵ工砂叫鷲朝 ともにしたマルコにより書かれたと ー山、朝 00 はまー第レ 「聞 0 誌 4 0 立い下な取 0 ( される。直截翳くな写実的表現で人 ロ洋【い h Ⅱⅱにはいを 騨油 0 朝洋罅、 0 0 0 面 間的なキリスト像を伝える。 b. マタ 0 朝住朝は身朝 イ伝今日では使徒マタイではなく 第日 0 市ヨ盟第 a 0 日ー mtü ( 、地試皿ま 200 無名のユダヤ人キリスト者の手にな れ 0 ・一を ! 1 ⅸこ洋は 0 . をイ tü 噸耳 B00 朝市 るとされ , 8 ( ) 年代の成立で , 旧約から ロ第 0 に観ⅲ 0 亜盟ーヨ 3 山 000 朝ト ー仙聞既恤 贏朝朝 5 は 02 第 , 00 ( 03 盟 0 ・和、Ⅲ 0 の引用が多く , その表現は論理的で 川 0 、 u を第【 ! 00 載れ新 00 盟 tN い ragld 0 田 0 加り一ん 0 第 第躪を訂 5 引収 ( よ動 0 代い円山日。 00 い 0 ユダヤ人のメシア ( 救世主 ) としての am れ 00 置盟ロ 0 0 盟畆 : 製直 ・ i 朝を : " れ b 可 0 は キリストが強調される。 c. ルカ伝 飆物メ第第料 : リ m' 、を 1 郎ー、】れに 0 国 れ 00i2 ー上し協 au 面 4 山 ー国 : u 国山 0 0 止 E00 am 国・ 同しく 80 年代に成立し , パウロの同 第 0 に、 020 ・ 0 、の、 0 、 m 0 気瀛 al m ー 0 - ドれ 0 し 0 心」 0 、 面ー 0 皿面盟齦 90 な 00 セ itm ・ : 1050 「 ( : 0d0 00 元を虹 = 、←卩 : , , 00 動 0 電、 伴者ルカの著とされ , 3 伝中も ? と も洗練されており , 普遍的な人類の 救い主としての愛のキリストが描か れる。 d. ヨハネ伝 1 世紀末 ~ 2 世 紀初めに書かれたとされ , 著者は確 マトヤド 左はフランスの聖王ル イ時代 ( 13 世紀 ) のさし 絵入聖書から , 詩編の 一部。右はグーテンべ ルクの四十二行聖書か ら , 多色刷で精巧な飾 一文字カ { はいっている

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スイサンカ 第 1 表 主要国漁業生産量 1009 1243 1457 1477 シュ , イタリアのフアプリアーノな ( 1963 年 , 単位 国 日 ソ 米 名 本 連 国 ノノレウェ カナダ スーくイン 英 国 インドネシア デンマーク アイスランド フランス 西ドイツ フィリピン ポルトガル オランダ 千トン ) 生産量 6697.8 3977.2 2711.9 1387.8 1191.3 1097.9 1 ( ) 45.8 951.2 936.2 848. ( ) 784.5 742.3 646.9 564.9 539.8 361.0 注国連食糧農業機構 水産統計による 第 2 表 世界の漁獲物利用 ( 単位 10 万トン ) ど , それぞれに面の粗滑 , 寸法など に種類がある。紙は描く前に水張り しなければならない。筆はテンの毛 のものが最上。水彩画の歴史として はルネサンスの画家たちの着色デッ サンやエスキースがその先駆である。 初めから水彩画として描いたのはデ ューラーであり , もっとも発達した のは英国においてで , 17 世・紀ごろか ら 19 世紀にかけて , ホラー , プレー ス , サミュエノレ・スコット , サンド ビー兄弟 , ルーカー , が一ティン , コットマン , ピーター・デ・ウィッ ト , デビッド・コックス , コンスタ プル , ターナーらカ { あいついで出た 彼らの多くは風景画家であったが , 透 明な水彩絵の具と白い画用紙との使 用によって光の微妙な段階 , 明るい 大気の効果を十分に出すことができ たからである。この明るい水彩画技 法はフランス画壇に強い影響を与え た。セザンヌ , シニャック , ラブラ ードらはみな水彩画をよくし , デュ フィは軽妙で自由な即興画を作って いる。日本では明治中期以降 , 浅井 忠 , 大下藤次郎 , 三宅克己 , 石井柏 亭 , 中西利雄らが水彩画家として知 類 魚 塩乾品 冷凍魚 ん詰 ーノレ の他 そ か 鮮 種 総漁獲量 生産量 58 年 63 年 143 73 27 30 43 10 326 164 83 47 40 120 10 464 られている。 〔石川〕 注国連食糧農業機構 水産統計による すいさんかぶつ水酸化物広義 には水酸基ー O H を含む無機化合物 で , 希ガス元素以外のほとんどすべ ての元素は直接または間接にこの種 の水酸化物を作る。ホウ酸 B ( O H ) 3 なども含まれるが , この種の水酸化 物は O H がイオンではなく分子の構 成成分として結合している。ふつう は M ( O H ) れであらわされるような金 属 ( M ) と水酸基とからなる化合物を さす。組成上は金属酸化物に水の添 加した水加物 ( M O ・ nH 2 0 ) に相当し ている。金属の種類によって , もっ とも安定で強い塩基性を示す水酸化 カリウム KOH ( カセイカリ ) , 水酸 化ナトリウム NaO H ( カセイソーダ ) , 塩基性の水酸化カルシウム Ca ( OH ) 2 から , 酸性 , 塩基性を示す水酸化ア ルミニウム A 1 ()H ) 3 のような両性 化合物までさまざまな化合物がある。 第 3 表 種 世界における主要漁獲物の漁獲量 ( 1958 ~ 1963 ) 58 年 59 年 60 年 61 年 62 年 63 年 ( 単位万トン ) ニシン , イワシ類 淡水魚類 タラ類 イカ , タコ類 サケ , マス , ワカサギ類 マグロ , カツオ , トビウォ類 ボラ , カマス , イシナギ類 工ビ , カニ , シャコ類 カレイ , ヒラメ類 海草類 サメ , ェイ類 注国連食糧農業機構水産統計による 32 44 76 82 172 198 220 204 373 403 722 886 455 389 231 231 200 177 84 85 44 32 458 417 242 231 213 172 90 117 48 34 473 414 242 230 219 193 93 129 55 33 479 457 259 244 231 203 101 120 65 35 491 490 278 262 243 184 108 91 54 37 2 2 4 陽性の強いアルカリ金属などでは , 金属またはその酸化物と水との作用 で生成し , 食塩水のような塩化物水 溶液の電解や , 複分解などによって 作られるものもある。アルカリ金属 の水酸化物の多くは潮解性 , 水溶性 が大きい。アルカリ土類金属では , バリウムの水酸化物はかなり水に溶 けるが , カルシウムのものはわすか しか溶けない。そのはかの多くの水 酸化物は難溶性である。〔山田圭 1 すいさんぎよう水産業海洋 , 河川 , 湖沼など水中に存在する動植 物を資源として利用する業種。水産 業の歴史は海に近いところに住む人 類が , その資源である魚類や員類を 食用にしたことに始まる。それが近 代にいたり , 社会文化が進み , 漁獲 物の利用が向上し , そのための水産 加工 , 製造業や鮮度を保持するため の冷凍業が 2 次的に興隆した。また 水産物の利用が進んだ国では水産資 源の限界カ { 心、配されるようになり , 水産生物をもっとも有効に永続して 利用するための資源の保護や管理を 進め , さらに有用水産生物を育成す る水産増殖業へと進展し , 近代的な 水産業の時代へ進んだ。 海中の生物は漁獲されるまではま ったく所属のないもので , 船上にと り上げられた瞬間に所有が決まる。 その点でまったく原始産業といえる のが / 漁業で , これが水産業の主体 をなしていることは他産業に比べて 特異である。漁業形態は個人で行な うような小規模なものが大多数を占 める反面 , 海外に進出する大企業が 少数ではあるが行なわれるのも水産 業の特徴である。いすれにしても同 じ海で先を競うために漁業者どうし の争いや , 国と国との衝突も起こし やすい。したがって漁業には国際的 な問題も多く , 日本に関係のあるも のでは南極海の国際捕鯨委員会 , 日 本 , 米国 , カナダ 3 国のオットセイ条約 , 日韓漁業協定 , 日ソ漁業条約などは 関係国間で資源保護 , 漁業規制を取 り決めているものであり , 領海をよ りひろく主張したり , / 大陸だなの 主権を宣言したりしている。豊かな 海に恵まれる国では , このように水 産資源の帰属を主張する傾向がある のに対して , 本土が狭く海外漁業の 進出の盛んな国々では , 逆に公海の 自由の原則から漁業においてもその 自由を主張するのである。水産業が 地域的なものから海外へ進出し , 国 際的になった端緒は , 捕鯨業が 1818 年に大西洋から太平洋に進出し , 日 本列島東方の海域にマッコウクジラ の大漁場を発見したことによるとの 見方ができる。 1900 年ごろの情勢は , 日本の漁業がまだ局所的なものにす ぎなかったのに対し , 欧米諸国は先 進し , 米国式の / 巾着く網 , タラ釣 漁法 , 英国のトロール漁業 , ノルウェ ー式捕鯨業など国際的にすぐれたも のが多かった。日本はこれらのすぐ れた漁法を盛んにとり入れ , また食 糧の需給に応して水産製造業が躍進 するなど世界的な動向のうちに水産 業も世界屈指のものになっていった 〔世界の水産業〕日本 , 米国 , ソ連 , インド , カナダ , 英国 ノノレウェ などは世界の主要水産国で , 1963 年 世界総漁業生産 4640 万トン ( 国連食 糧農業機構水産統計 , 1964 ) のうち 上記数国でその大半を占める。漁獲 される魚種はイワシ , ニ、シン , タラ , サケ , マス , ヒラメ , カレイなどカ { そのおもなもので , これら魚種の漁 獲高合計は総漁獲高の約半分を占め ている。これらの魚種はいずれも群 泳性の種類で , イワシのほかは , す べて北方の寒流域に生息するもので ある。 1 ) 米国大西洋岸北部のタラ , ニシン漁業が第 1 で , 次いで太平洋 北部のイワシ , サケ , マス漁業が盛 んであり , カキも大西洋岸でおもに 養殖され , 古くから盛んなことは有 名である。近年は太平洋岸での養殖 業が興隆しており , その種ガキはす べて日本から輸入されている。利用 面では鮮魚をそのまま食用にするこ とはなく , 漁獲物をただちにかん詰 などにし , また魚粉や魚油の製造が 早くから工業化されている。 2 ) カナ ダサケ , マス漁が首位でロプスタ ー ( 工ビ ) , ニシン , タラ , ヒラメ類 の漁業も行なわれ , サケ , マス , ロ プスターはかん詰にし , また東洋市 場向けに塩ニシンや干しダラの生産 も盛んである。 ューファウンドラ ンドはカナダの東方にある島で , 漁 場の中心に位置し , いろいろの北方 魚種の漁業の中心、地になっているが , とくにタラ漁業は盛大である。 3 ) ノ 地域的に水産に恵まれ , ノレウェ 漁業従事者の総人口に対する割合が , 日本に次いで高くなっており , ンとタラの漁獲が多く , かん詰製造 も盛んである。また捕鯨業の先進国 として , ノルウェー式捕鯨は有名で ある。 4 ) ソ連沿海州方面が盛んで , サケ , マス , イワシ シン , カ などの魚類が主要なものである。そ のほか淡水域でとれるチョウサメ , また各種淡水魚の量も多い。なおソ 連の水産業は国営組織でその躍進は 著しく , 漁業の機械化でも注目すべ き点が多い。 5 ) 英国トロール漁業 が主体で , いろいろな型式のトロー ル漁法が発達しており , 北部大西洋 にひろく出漁し , タラ , ヒラメ , カ レイ類を漁獲し , またニシン漁業も 盛んである。島国一であるために , 日 本と同様に各地域によって各様の小 規模な漁法が種々行なわれている。 6 ) イタリア地中海の漁業を代表し ており , 国民もよく魚類を食用にす る。小型トロールや / 定置網漁法が 行なわれ , マグロ類からイワシにい

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くアダムとイプの堕罪〉クラナハ 1530 年 1 5 世紀末から 1 6 世紀初頭にかけて , ドイツは . , イタリア・ルネサンスどはまた ちがった , きわめて個性的な宗教画の名作をいくっか残している。たどえばデ ューラーのく黙示録〉 , グリューネワルトのくイーゼンハイ . ム祭壇画〉 , クラナ ハのく地上楽園〉なごがそれであるが , それらにはいすれも , ドイツ農民戦争 時代の世相や人物がいきいきご描かれている。あるものは英雄的なまでに意志 的であり , あるものはせいさんなまでに苦悩に満ち , あるいは幻想的なまでに ロマン的である。そこに激しく交替していく社会の明暗を読みどれる。クラナ ハの諸人物に 一種の冷たい夢ご不吉な予感がみられるのもそのせいであろう 聖 書 物語 本文解説・長尾喜又 り , 中央には ( 生 ) 命の木と善悪を知る木 ( 知恵の木 ) があ った。神は人にどの木のものでも食べてよいといったが , 知 恵の木の実は禁し , それを犯せば死なねばならぬと告げた。 さて野にすむ生き物のうちへビがいちばん悪がしこかった。 ヘビはその禁断の木の実を食べさせようとしてイプを誘い , 君たちが死ぬなんてことは絶対にないよ。神様は君たちがそ れを食べると , 君たちの目が開け , 神のように善悪のいっさ いがわかるようになるのをご存しなだけさと言った。イプは 知恵を求めてその実を食べ , 夫にも与えてしまった。すると たちまちふたりの目が開け , 互いの裸体をみて羞恥を覚え , イチジクの葉をつづり合わせて前をおおった。そして神の足 音を聞いたとき , 彼らはおそれを感して木の間に身をひそめ た。すべてを知った神は人を悪に誘ったヘビをのろって生涯 地にはうことを命し , 「神のようになる」欲心を起こした人間 には種々の苦痛を課し , 死後は土に帰らねばならぬと告げ , 彼らをエデンの園より追放した。 ( 創世記 1 の 1 ~ 3 の 24 ) アダムとイプ く旧約聖書〉の巻頭をなすく創世記〉によれば , 世のはし め「地は形なく , むなしく , やみが淵のおもてにあり , 神 の霊が水のおもてをおおっていた」。そこで唯一の神ャーウ ェは 6 日を費やしてます世を天と地に分け , そこに万象を創 造して秩序あるものとした。人祖アタ、、ム ( へプライ語で人類 の意 ) は , この創造の業の終わる日に神自身の像に似せて地 のちりから作られ , 神の息吹きを鼻に受けて生あるものとな った。神はさらにふさわしい助け手をアダムにそえようと望 み , 彼のあばら骨の 1 本から女を造った。この神話は人間が 神の栄光の反映であること , 男女が結びついて一つの肉とな るいわれを述べたものであろう。アダムはその女を妻にして イプ ( エバ , 生命の意 ) とよび , ともに裸で恥しなかった。 神は東方にエデン ( 楽しみの意 ) の園を設け , ふたりを住 まわせた。そこは鳥獣が遊び , 美しく , 食べてうまい木が茂

8. 国民百科事典4

セメント 人 , セム族とよんだのだが , そのの ち , 彼らの歴史はしだいに明らかと なっている。彼らは前 3()()() 年ころか ら歴史に登場し , アラビア , メソボ タミア , シリアを中心、に , アフリカ までもひろがった。その発源地につ いては諸説があって定まらない。彼 らは古代オリエント文明で大きな役 割を果たした。サルゴンのもとに帝 国を築いたアッカド族 , ノヾビロニア 第 1 王朝のハンムラビのとき全盛を 誇ったアモリ族もセム系であり , ア ッシリアのセム人は混血しつつ , 独 自のアッシリア文化をつくり , また レバノンのフェニキア人は商業民族 として活躍し , シリアのアラム族 , パレスチナのヘブライ人も大きな影 くだって 7 世紀以降 , 響を残した。 アラブ人の大征服 , サラセン帝国の 建設は世界史を動かす大事件であっ た。ユダヤ教 , キリスト教 , イスラ ム教や , アルファベット , アラビア 文字などもすべてセム人の所産であ 4 7 8 コンクリートー m3 当りの材料所要量 調合比 セメント 2 ) 製造工程 a ・湿式法粗砕機でセ ッコウ以外の原料を径 2 ( ) mm くらいに 砕き , 自動計量機で適量な成分にな るように配合し , 水を加え , 径 2 ~ 3. 5 m , 長さ 10 ~ 14 m のコンノヾイン ドチュープミルでよりこまかくし水 分 35 ~ 40% の泥しよう ( 漿 ) にする。 容量数百トンの貯蔵そうに入れませ て均質にし成分を補正する。湿式法 では泥しようなのでまぜやすいが焼 成のとき水分蒸発のための熱が余分 にいる。 b. 乾式法粗砕原料を径 2 m , 長さ 2() m ほどの円筒回転乾燥機 で乾燥し , 自動計量機で配合してさ らに粉砕し貯蔵そうに入れる。成分 を均一にするため数個の貯蔵そうか ら同時に抽出し , 混ぜて回転がまに 送る。最近は石灰石を前焼して生石 灰として配合する石灰焼成法で , 良 質のものが高能率で製造されている。 以前焼成に用いられた立てがまは , 大量生産には適さないが熱効率がよ いので小規模な生産にまだ使われる。 現在の回転がま ( ロータリーキルン ) は 1885 年英人 F. ランサムが特許を得 , 96 年米人 E. H. ノ、リーと H. シーメンに より実用化された。日本には 19 ( ) 2 年 に輸入されて急速に普及した。回転 カ { まは径 3 ~ 5 m , 長さ 5 ( ) ~ 17 ( ) rn の鋼板製円筒で , 3. 5 ~ 5 % の傾斜・ ですえつけてある。内側に耐火レン ガを張り , 毎分 1 ~ 2 回転の速度で 回転する。上から原料を入れ , 下か ら微粉炭または重油を吹き込んて燃 焼させる。原料はかまの回転につれ て下に流れ , 水分の蒸発 , 予熱 , 炭 酸石灰の分解 , 石灰と粘土質との化 合などをへて , 最後には 14 ( ) ( ) ~ 15 ( ) ( ) ℃くらいに熱せられ , 半溶融状態の 灰黒色の小塊クリンカとなる。原料 , 燃料は連続的に入れられ , クリンカ も連続的に流れ出る。回転がまは数 十日 ~ 2()() 日以上も連続運転される。 立てがまがコークス , 無煙炭しか使 えないのに対し , 回転がまは微粉炭 , 重油 , 天然ガスなどが使え , 燃焼管 セメント製造工程の一例 ( 湿式法経済がま様式 ) 小石 る。 / セム語族 〔三浦〕 セメント c eme n t 広義には各 種接着材をさすが , ふつうは土木建 築用の石灰を主成分とした無機質接 着材を意味する。単にセメントとい う場合にはもっともふつうのセメン トであるポルトランドセメントをさす。 〔セメントが固まる理由〕ポルトラ ンドセメントは粉末状だが , 水をま ぜると 2 時間前後から数時間で , 凝 結状態 , つまりまだ柔らかい半固体 状になる。 5 ~ 10 時間くらいたっと , 硬化というかたいこちこちの状態に なる。粉末状の物質が密接して存在 するとき , 新しい結品やゲルが発達 すると固まる。粘土や壁上はコロイ ド状で水でねるとねばくなり , かわ くと粒子間に分子間カ ( バン・デル・ ワールスカ ) が働き固まる。消石灰 はかわくと再結品するほか , 空気中 の炭酸ガスを吸い , 炭酸石灰の結品 が発達し , さらに固まる。セメント が固まるのは , 不安定な成分がだん だん水と結合 ( 水和 ) して安定化し , セメント粒子の外面を形成するゲル または結品部分と , これを互いに結 合する別の針状 , 柱状ときには鎖状 の結品部分とになるからである。冫疑 結状態では , ゲルの間にそれをつな ぐ結品が成長する時期で , 水和は全 体の 1 ( ) % またはそれ以下である。硬 を化状態では , ゲルをつなぐ結品が十 分に成長する。水和は 1 日で 25 % , 28 日で 65 % , 91 日で 75 % くらい進み , 強度も徐々に大きくなる。水和反応 式については種々の説があり , まだ決 定していない。ポルトランドセメン トの主成分はケイ酸三石灰 3 CaO ・ S i ( ) 2 , ケイ酸二石灰 2 Ca ( ) ・ S i ( ) 2 アルミン酸三石灰 3Ca() ・ A し ( ) 3 , 鉄 アノレミン酸四ィー灰 4Ca ( ) ・ A し ( ) 3 ・ ( ) 3 で , これらが水で分解され安定な ケイ酸カルンウムの複堆な化合物と 1 : 2 : 4 6.5 袋 ( 325kg ) 0.45m3 0.89m3 1 : 3 : 6 4.7 袋 ( 235kg ) 0.47m3 0.94m3 なり , ゲル状または結品となって粒子 相互の連結を強化する。ほかにセッ コウ Ca S 04 ・ 2 H 2 ( ) か、加えてあるか、 , これはアルミン酸三石灰が水和後す ぐ凝結する ( 瞬結 ) のを防ぐ。このた め水で練ったのり状のセメントがあ る時間流動性を保つので , 使用上っ ごうがよい。セメントの硬化は不安 定系から安定系への水和反応である ため発熱を伴う。なかでも不安定度 の大きいケイ酸三石灰は発熱量が大 きく , これを多く含むセメントによ る構造物は内部に熱が蓄積され , ひ び割れを起こすことがある。 〔ポルトランドセメント〕 1 ) 原料 石灰石などの石灰原料と , アルミナ , 酸化鉄をとる粘土質原料と , セッコ ウである。日本ではほとんど石灰石 が使われ , 粘上質原料はシリカ含有 量の高い粘土 , シェール , ロームな どで , シリカを補うにはシリカ含有 量の高いチャート , ケイ岩 , 砂岩な ど , 酸化鉄を補うには黄鉄鉱焼滓こ または銅からみを使う。セッコウは 天然セッコウのはか , 工業副産物の 化学セッコウも使う。セメント 1 ト ン当り石灰石 1. 3 トン , 粘土質原料 ( ). 25 トン , セッコウ 0. 036 トンぐらい を使う。日本の石灰石鉱床は塊状で , 急傾斜をなす場所に多い。この条件 に適した採掘法としてグローリーホ ール法が行なわれ , 立坑を設けて掘 り , 掘った鉱石は立坑の中に集め , 下底近くの小割室で小割りし , 立坑 最下部の積込口から鉱車へ積み込ん で坑外に運び出す。積込装置がたや すく機械化でき , 積込場と採鉱切羽 と離れていて安全なことが特徴であ る。日本のセメント工場は原石山の 近くで , 82.2 % が自家採掘をしている。 泥しよう貯蔵そう 泥しよう貯蔵そう 水 原料粉砕機 粗砕機 原料置場 0 石灰石 , 粘土 , ケイ石なご 石炭置場 原料チップラ 突 コットレノレ 収じん機 0 出荷室 詰機 セメント 回転がま セメントサイロ 徼粉炭給養装置 住コ粗砕機 ェアクエンチング クリンカ 空気選粉装置 石炭チップラ 石炭乾燥粉砕機 セッコウ置場 クリンカおよび クリンカ セメント セメント粉砕機 セ ツ コ ウ

9. 国民百科事典4

タイへイヨ 太平楽 マデク海溝がある。この海溝はフェ ニックス諸島 , 東の赤道近くから南 南西に走ってトンガ , ケルマデク諸 島に沿いニ ージーランドに達して いる。同しような , より短い海溝がべ ルーと北チリの沿岸にありベルー チリ海溝またはアタカマ海溝とよは れる。プーゲンビル島の南 , へプリジーズに沿って走っているも のもある。赤道の北は深さがおおむ わ 45 ( ) ( ) m をこえていて , 550 ( ) m 以深 の広い域がひろか・つている。最近の 研究によると海底地形の様相は今ま で想像されたもの以上に複雑で多く の海盆や海嶺があるのがわかって たくさんの海嶺がひ ! こような きた。 深所に横たわっているが , いくっか は表面の近くまで達していてその頂 が島となっているものもある。 こと に最近ではギョーが方々に発見され ている。日本列島やフィリピン諸島 など大陸沿岸の諸島の太平洋側にい くつかのひしように深い海溝が横た わっている。すなわちアレウト , 千 島 , 小笠原 , 琉球海溝はその深さ 7 ( ) ( ) ( ) ~ 9 ( ) 0 ( ) m , マリアナ , 日本およびフ イリピン海溝は , 90()0 m をこえてい る。大陸だなはアメリカ側でせまく アジアの岸で幅ひろい。太平洋底の もっともひろがった堆積物は赤色軟 泥であり , このはか有孔虫軟泥 , 放 散虫軟泥におおわれるところもある。 〔海流〕太平洋の海流系は , 表層の 大循環がおもに風の応力によって起 こされるものと考えられるから , 大 気の大循環と密接な関係をもってい る。ます貿易風帯には貿易風のため 南北の赤道海流か発達する。この間 を狭いが割合はやい赤道反流が反対 方向に流れている。北赤道海流は北 上して優勢な / 黒潮につらなり黒潮 は西風皮流に混じりあい , 西風皮流 は偏西風で東へ送られてアメリカ沿 岸まで達する。この流れは・さらに南 下してカリフォルニア海流となり , 貿易風帯に近づくと沖へ押し流され て北赤道海流と混しりあい ーっの 時計回りの循環を完成する。この北 太平洋の大循環に対し , 南太平洋の 大循環は反時計回りであって南赤道 海流 , 東オーストラリア海流 ( 南太 平洋 ) , 西風皮流およびベルー ( ある いはフンポルト ) 海流からなる。南 亜熱帯収束線は南緯 35 。 ~ 4 ( ) 。 , 南極 6 3 2 収東線ははは、南緯 55 。に位置してい る。南半球には黒潮に相当するよう な強大な海流はないが , ベルー海流 は下層からの湧 : 昇によって低温で ある。さらに北半球では , 北緯 55 。 6 ( ) 。付近では偏東風のため西へ向か う弱い極流があり , 西側に沿って南 下していって / 親潮となり , 極前線 の北側を偏西風によって東方に運ば れる。この流れはやがてアラスカ海 流となって北上し一つの環流を形成 する。これが亜寒帯環流である。 〔温度・塩分〕北緯 45 。 ~ 南緯 45 。の 範囲で , 表面水温は一般に西に高く 東に低い。東経 180 。以西では , 赤道 域における温度は 27 ℃をこえる。ま た東経 18 ( ) 。以東ではアメリカ沿岸は おおむね水温は低く , がラ / ヾゴス諸 島の周囲では温度 18 ℃ , カリフォル ニアとベルーの沖では 16 ℃以下の温 度がみられる。高温 ( 27 ~ 29 ℃ ) は , 暖かい赤道反流に洗われている中米 の沖に見られる。北緯 4S 以北およ び南緯 40 。以南では表面水温は一般 に 1 ( ) ℃以下で () ℃に下がることもあ り , 氷海の近くでは一 1 ℃以下にさ がることもある。表面水温の日変化 はごくわすかであり , 季節変化も , 亜熱帯域および南極の氷海近くでは わすかである。しかしカリフォルニ ア半島 , ベルー沖などではこれがひ じように大きく 5 ~ 7 ℃に達する。 とくに日本近海では北方定点 ( 北緯 39 。 , 東経 153 。 ) の例をみると冬には 11 ℃くらい , 夏には 25 ℃くらいとそ の較差が大きい。気温は一般に表面 水温より低く , 表面の塩分は気候状 況に基ついて変化する。すなわち塩 分は降水で低くなり , 蒸発で高めら れる。塩分は貿易風帯で 3. 5 % , 北 緯 200 および南緯 2 ( ) 。に 3. 6 % くらい の最大価がみられる。それよりは緯 度がますにつれて低くなる。 〔探検〕太平洋を最初に見た欧州人 はスペインの探検家ノヾルボアで , 15 13 年パナマのある山から太平洋をな がめた。しかし太平洋を最初に航海 した欧州人はポルトガルのマゼラン である。彼は 152 ( ) 年南米南端のマゼ ラン海峡を通って大洋に入り , この 海できわめて静穏な航海を続けフィ リピンについたため , 「太平洋」と名 っ 1 ナたという。 こののぢスペイン , ポルトガル , イギリス人らによって 太平洋の探検がすすめられたが , な かでも 1577 年にドレーク海峡から太 平洋に入り南北アメリカの沿岸を探 検したドレークや , オーストラリア , ニュージーランドなどを発見したタ スマン , 前後 3 回にわたりくわしい 大探検を行なったクックらは有名で ある。 19 世紀になると地理的探検の みならす多くの科学的探検が行なわ れるようになった。すなわち 1831 ~ 36 年のフィッロイのビーグル号によ る海洋大探検には若きダーウインが 参加した。 1872 ~ 76 年のチャレンジ ャー号の海洋大探検は太平洋の最初 の科学的 , 組織的な大調査であり , 海洋学という学問がうまれ出る基礎 となった点で特記すべきものといえ よう。 2 ( ) 世紀にはいってからの大探 検はまったく科学的のものであって , セントジョージ号 , デーナ号 , カー ネギー号 , ディスカバリー号 , スネ リウス号などの海洋大探検の成果は 現在でもわれわれの太平洋に関する 海洋学的知見の基礎となっている。 これらの純粋な学術的探検のほかに 海底電線布設の必要から深海の測深 や測温がさかんに行なわれた。工ゲ リア号 , タスカロラ号 , アルノヾトロ ス号 , ネロ号 , ラマポ号などの調査 がそれで , 前記の海洋大探検の成果 とともに貴重なものとなっている。 日本では旧海軍の水路部が 1925 年か ら測量艦満洲などで西太平洋域のく わしい海洋観測を行ない , 水産試験 場 , 水産講習所 , 海洋気象台の日本 近海の観測とともに太平洋の海洋学 的解明に大きな貢献をした。とくに 第二次大戦の直前 , 旧海軍の水路部 が行なった西太平洋の一斉観測は , 時代に先んじたものであった。第二 次大戦中の空白時代をへて太平洋の 学術的探検 , 調査は戦後きわめて大 規模かっ組織的に行なわれるように なり , アルノヾトロス号 , がラテア号 , チャレンジャー号 , ビーチャジ号な どの大探検や , ノルバック観測 , 国 際地球観測年の観測などにみられる 各国協同観測 , 日本の気象庁や米国 のスクリップス海洋研究所などが行 なっている近海域の精密な定期観測 , さらに凌風丸 , べアード号 , ビーチ ャジ号などが行なっている深海観測 と太平洋の海洋調査は多種多様にき わめて盛んで , 太平洋についての知 見も日々新しくかっ豊富になりつつ ある。 〔半沢〕 たいへいようせんそう太平洋戦 争第二次大戦のうち太平洋の局面 をさす。 1941 年 12 月 8 日の日本の対 米英宣戦にはじまり , 45 年 8 月 15 日 のポッダム宣言受諾をもって終わっ た。戦争中日本では日華事変をも含 めて「大東亜戦争」と称した。 / 世 界大戦 〔鹿野〕 たいへいらく太平楽雅楽曲の 一種。左方 ( 唐楽 ) に属し , 舞を伴う。 調は大食調。もと唐代にく太平楽〉 という曲があったが , それは「五方 獅子ヒ舞」とも称して別曲である。日 本でく太平楽 > と称するものは , 道 行 ( 舞人が楽屋から出て舞台にのは、 るまでの曲 ) に「朝小子う」の曲を , 破に「武昌楽」を , 急に「合歓塩か」 を用いる。舞人は 4 人 , いすれも紅 色の袍の上に金色の甲胄ろを着し , 金の太刀をと鉾をたすさえて舞う。 天皇即位の大饗うにはく万歳楽〉と ともに行なわれる。 〔田辺〕

10. 国民百科事典4

5 6 9 ので , ゆで汁は特有の風味があり , めた呼び方をしていたが , のちには 培範囲がひろい。日本の栽培面積お そば湯といって飲用されている。な 関東では「そば屋」 , 関西では「うど よび収穫量は右表のとおりであって おソバに / ルチンか・相当含まれてい ん屋」と呼び分けるようになった。風 北海道 , 鹿児島 , 宮城 , 茨城 , 岩手 るので高血圧症の食事に適するとい 味や趣向を競っていろいろ名代の店 などが多い。ソバの果皮と子実は構 〔川島〕 も現われたが , 現在でも「藪第「更 われている。 造上から , ふつうの方法では他の穀 そばかす医学工は雀卵く班ま 科」「砂場」などの系統に属する店 類のように精白して粒食にすること たは夏日班という。顔に多数生する が多い。一方 , 「年越そば」「みそか ソバ粉を作るには , 製 はできない。 米粒大以下のかっ色班である。しば そば」「引越そば」などの風習が生ま 粉機で荒びきし , ふるいで外皮の大 一般に しば遺伝関係が認められる。 れたが , 前 2 者は , 金銀箔をつくる 部分を除去してから製粉すると白色 思春期以後に生する。日光ことに夏 とき , 散乱した金銀粉の吸収にソバ の製品カヾ得られる。荒いふるいで分 の強い日ざしにあたると進行する。 粉をまいたことから金銭の回収にか けると相当量の外皮が混入し , 粉は 日にあたらないように注意すること , け , 後者は「そば近く」をもしった 黒くなるか、 , 風味はかえってよい ビタミン c を多くとることなどは有 ものである。どこの店でも , ソバ粉 食用としてのソノヾの利用は , はとん 効である。このような注意をしても だけで作る「生そば」には苦心、した ど大部分がソバ粉であるが , 間引苗 効果のない場合には , 医療を要する。 らしく , 友つなぎがくふうされたが や若い葉は野菜として食用にされる。 漂白剤は , 皮膚の弱い人はかぶれる むすかしいので一般化せす , ヤマノ ソバはまた家畜には最良の飼料であ ことがあるから医師と相談して用い イモをつかった「芋切り」 , 鶏卵を用 る。そのほかソノヾ殼はまくらなどの いた「卵切り」などから , 江戸末期 たはうがよい。海水浴や登山などの 詰物用となる。 〔武田〕 日本のソバの栽培 場合に / 日やけ止めのクリームを用 には「タイ切り」「エビ切り」「員切 〔沿革〕ソバは生育期間が短く , 春 付面積収穫量 いることもよい。レックリングハウゼ 秋 2 回の収穫も可能であり , しかも り」なども生まれた。ほかにも四季 年度 ン母班症や色素性乾皮症などの軽症 の産物などを加えた変わりそばが , 寒冷なやせ地でもよく育つので , 奈 の場合 , そばかすとまぎらわしいこ 良時代から救荒作物として栽培され いろいろある。 430 ( ) ( ) 483 1958 〔そばの加工〕ソバ粉は石うすで手 〔川村〕 たことがく続日本紀 > などによって とがある。 44900 1959 471 ソビエト s 。 v e t 会議を意味す でひいたものがよいが , 最近は機械 うかがわれる。 8 世紀ごろ朝鮮をへ 477 522 伊 ) 1960 るロシア語。ソ連邦における各級権力 びきのものが多くなってきた。ひい て渡来したものと思われ , 主として 4280 ( ) 439 1961 398 3720 ( ) 1962 機関。つまり下級の村ソビエトから た粉は , ふるいにかけて一番粉 , 山間地方に普及していった。滋賀県 378 4050 ( ) 1963 最高会議 ( ソビエト ) まで , すべての 番粉 , 三番粉までとる。一番粉はき の伊吹山ろくが最初の栽培地だった 347 2710 ( ) 1964 めがこまかいが香気に乏しい。更科 という説もある。初めは , 果皮だけ 権力機関はソビエトの形をとり , そ 注く作物統計 > による れぞれ選挙された勤労者代議員によ を除いたものを粒のまま米麦に混ぜ そばの系統は , この一番粉を使うの って構成される。レーニンは , プル がふつうである。二番粉は色カ { 黒い たソノヾ飯として食べていた。く料理 ジョア国家制度を否定し , 勤労大衆 花合集 > などによって , ソノヾ飯は江 が , ぬかや胚芽もあるので栄養もあ が直接政治に参与するソビエト体制 戸時代まであったことが知られる。 り , 香気も強い。藪そばの系統はこ こそ最善の国家体制であるとした。 やがて , ひきうすの普及に伴って , の二番粉を使っている。そばの打ち 第 1 次ロシア革命 ( 1905 ~ 07 ) におけ 粉末にしたものを水で練って蒸すソ 方にも , 手打ちと機械打ちがあるが , る労働者代表ソビエトに始まり , 十 最近は機械打ちのものが多くなって ノヾだんごや , 熱湯で練るソノヾがきを 月革命 ( 1917 ) 以後 , 実質的にプロレ 食べるようになった いる。手打ちそばを作るには , ソノヾ いまのような タリアート独裁の権力機関となった めん状の「そば」 , いわゆる「そば切 粉に小麦粉を 10 ~ 20 % 混ぜ合わせ , 水を少しすっ加えて十分にこね , 耳 〔加藤〕 り」ができたのは江戸時代初期のこ ソビエトれんばうソビエト連邦 とで , 寛永期 ( 1624 ~ 44 ) に奈良の東 たぶよりいくぶん堅めにする。これ ューラシア大陸の北部を占める社会 大寺へきた朝鮮の僧元珍が , つなぎ をめん棒で薄く平均にのばし , 小口 に小麦粉を使うことを伝えてからで 主義国家。正称はソビエト社会主義 から細く切る。これをゆでるには , あるともいう。だいたいソノヾ粉は水 共和国連邦 Soyuz Sovetskikh So- 沸き立った熱湯にほぐしながら入れ を加えてこねるたけでは線状になり て 3 ~ 4 分間煮沸し , すくい上げて tsialisticheskikh Respublik0 田各称 水にさらしてから , ざるにあげて水 にくく , さらに湯に入れてゆでると S S S R ( ロシア文字で C C CP, 英語 きれぎれになってしまうことが多い。 では tJ S S R ) 。大小約 200 の民族を を切る。このそばにつけ汁をつけて そのため種々の打ち方がくふうされ , 食べるのが「もりそば」 , だし汁をか 含む 15 の構成共和国から成る多民族 秘伝として伝えてきた店もある。「友 国家。総面積 22402200km2 で , 世界陸 けたのが「かけそば」である。これ 地の % を占める。人口 224764000 ( 19 を土台に各種の「ぐ」をあしらって , つなぎ」というのは , ソノヾ粉の 10 % 63 ) で中国 , インドに次ぐ。首都はモ に水を加えてとき , とろ火で煮ての ざるそば , てんぶらそば , 卵とし , ・り状になったところへ残りの 9() % を きつねそば , 南蛮 ( 鶏肉やカモ ) など スクワ。 加えてこね上げる手法で , このほか のたね物を作る。また「そばすし」と 〔自然〕国土は東欧 , 北アジア , 中 鶏卵 , クズ粉 , ヤマノイモをつなぎ いって巻すしをまねて中心に「ぐ」 央アジアにまたがり , 北は北極海を を入れ , ノリで巻いたものもある。 へだてて北米大陸と向き合っている。 に入れる方法もある。もっともふつ ソ連は北国である。最南端でも中央 うに行なわれるのはソ / ヾ粉 8 に対し なお , ソノヾ粉を湯で堅めに練ってそ 小麦粉 2 の割合で混ぜた「割そば」 アジアのクシカ市の北緯 35 ℃ 8 ・ ( ほ ばがきにし , これにだし汁をかけた ほ東京の緯度 ) で , 国土の 16 % が寒 り砂糖で調味して食べる。また菓子 てある。 1664 年にはそばを作って売 の材料にすることも多く , そばまん 帯 , 45 % が亜寒帯に属し , 31 % カ { 温 っていた菓子屋がめん類食の専門店 帯 , 4 % が亜熱帯 ( 暖帯 ) に属してい じゅう , そばらくがん , そばポーロ , として現われ , 「二八そば」と称して る。国土のいちばん南は , 黒海 , カ 売り出した そばもちなどがある。 二八とは , 配合割合と スピ海 , およびノヾミール高原 , 天山 , 値段の 16 文とをかけたものである。 〔ソバの成分〕ソバ粉の主成分はデ アルタイ , サヤンなど標高およそ 30 ンプンであるが , タンノヾク質 , ビタ そば屋の発展につれて行商するもの ニコチン酸も多く栄養 OO ~ 608 rn の大山脈に境され , その も現われ , 夜中に町辻に行商するも のを「夜鷹そば」 , 行商の荷に風鈴 山脈の北側には低地がつづき , シベ 価が高い。ソ / ヾのデンプンは火熱を をつけて歩いたものを「風鈴そば」 リアではオビ , ェニセイ , レナ川カ { 加えなくとも消化しやすく , ソバが などとよんだ。これらの店は関東で 北極海に注ぎ , ョーロッパ・ロシア きにしただけでも食べられる。また も関西でも「うどんそ屋」とまと ではポルが , ドン , ドニエプル川カ { ソノヾのタンノヾク質は水に溶けやすい 果実 花 ソノヾ