、、リ」第、 t を ・・ : をゞト ト、个第※、疇 ~ 鬮ゞを ( ( をに」一第一 ステンドグラス 1 ロマネスクの教会は , 怪異な彫刻装飾や厚い壁体で外界 ( 俗 界 ) をしゃ断し , 幽暗な堂内に聖なる世界をひそめたのに対 して , ゴシックの聖堂は , 高層な空間をステンドグラスで囲 み , 積極的に彼岸の世界そのものを形成した。ステンドグラ スは 1 m 2 に 350 ~ 450 ほどの色ガラス片をちりばめた , 厚さ 2 ~ 6 mm の薄く透明なモサイク板にほかならない。世紀のシ ヤルトル聖堂は 163 ものステンドグラス窓をもったが , その 多くは聖職者や王侯 , 貴族 , 商人などの信者が奉献したもの こごにパン屋 , くつ製造業者など各種のギルドの寄進が めたち , 窓下方のステンドグラスにそれぞれの生業場面がう っされていて興味深い。上図のうち聖母子中央部は世紀中 葉の貴重な遺品で , 1 194 年の火災を免かれ , 聖堂再建のごき , まわりに天使像をはめて内陣南側を莊厳したもの。やや平面 的たが , 少数の強い色彩が大がらな図容にマッチし , 聖母聖 堂 ( ノートルダム ) の主窓にふさわしいモニュメンタルな効果 を生み出している。 1 3 世紀前半のプールジュ聖堂はシャルト ルど並ぶステンドグラスの宝庫である。十字架を背負うキリ ストを中心に , 赤 , 青を主調ごして緑 , 紫色などをあしらい , 前世紀にはみられない碁盤目のはなやかな装飾の上に複雑化 した構図を緊密に表現している。同時代のシャルトル作品ご きわめて近似しているのは , 同一工房で作られたためらしい シャルトル聖堂のステンドグラスく聖母子〉 中央 , に世紀中頃左右 , 13 世紀前半 プールジュ聖堂のステンドグラス く十字架を背負うキリスト > 1 2 15 頃
スエード ている。 に充実した軍備を備え る空軍をはしめ , 相当 そぎ , 世界第 4 位を誇 軍備の拡充にも力をそ 似て , 中立を裏づける ている。またスイスに のために真剣に努力し れるとおり , 平和実現 事務総長の活躍にみら て , 故ノ、マーショルド ただし国連を舞台とし いう条件をつけている。 争には参加しない , と こったときでもその戦 にするような戦争が起 たとえば国連軍を相手 合への参加に際しても , なかったほか , 国際連 る。 N A T O に加盟し 中立外交政策にみられ の政治の特徴は , その 82 ~ ) 。スエーデン タフ 6 世アドルフ ( 18 工は 1950 年即位のグス スエーテン ( 補 ) 現国 は県会および 6 都市の市会から選出 された 8 年議員 ( 毎年 % を改選 ) , 後 者は直接選挙 ( 選挙権は 21 歳以上 ) に よる 4 年議員によって構成され , 両 院議員の被選挙権は 23 歳以上 , 両院 には権限上差がない。選出には比例 代表制が採用され , 1936 年以来社会 民主党が第 1 党を続けている。 1814 年以来国是ともいうべき中立外交を 堅持し , また自由主義国家群中でも っとも完備した社会保障制度をおし すすめる政策は , 野党の自由党 , 農 民党 , 保守党などからも力強い支持 を受けてきた。また , 49 年の北大西 洋条約機構 N A T O には不参加を表 明し , マーシャルプランとも 51 年に 手を切ったが , 汎スカンジナビア の協力体制確立には意欲的である。 〔経済〕この国の経済をささえるも のは , 豊富な森林 , 良質の鉄鉱 , そ して無限の水力である。このうち森 林は国土の 56 % をおおい , その大部 分がドイットウヒ , ドイツアカマッ などの有用樹種よりなる。年伐採量 は樹皮をのぞき 3800 万 m3 ( 1963 ) , そ の約 50 % がノヾルプ用に投入され , 木 材パルプは年産 579 万トン ( 1963 ) , 輸出量は世界 1 位である。紙類 , 化 学繊維 , プラスチックなどの生産も 多い。一方 , 鉄鉱は北部のキルナ地 区 , 中部のべリスラーゲン地区から 良質鉱が 1598 万トン ( 1964 ) も採掘さ れ , 世界に名高いスエーデン鋼の原 料となる。石炭と石油はそのはとん どを国外に求めねばならないが , 可 能包蔵カ年 8 ( ) ( ) 億 kW 時といわれる水 力が順調に開発され , 年間発電総量 は 452 億 kW 時 ( 1964 ) , その 65 % が重 点的に工業に投入される。各種の工 業が盛んであるが , とくに鋼鉄業は 世界的で , ポールべアリングをはし め各種の電気器具 , タービン , 車両 , 兵器などが名声を博している。また 第一次大戦後急に発達した造船業も 1964 年の商船進水総トン数は 104 万ト ンである。対外貿易も北欧ではもっ とも活発に行なわれ , 常態において 約 10 % の入超を示すが , これを補う 有力なものは海運業で , 商船保有量 ( 10() トン以上 ) は 431 万総トン ( 1964 ) である。またこの国の民芸 , ガ、ラス 工芸その他のモ夕、、ンクラフトも有名 である。 〔社会〕この国は , 社会保障制度の ゆきわたった福祉国家 , 生活水準の 高い文化国家の例としてよくひかれ る。国民 1 人当りの所得は日本の 3 倍以上であって , 貧富の差の少ない 〔戸谷〕 ことでは他に類をみない。 〔歴史〕スエーデン南部には太古か ら北ゲルマンに属するノルマン人が 居住し , 前 15 世紀ころより青銅器時 代 , 前 4 世紀ころには鉄器時代には いり , 6 世紀ころにはいくつかの小 9 ~ 11 世 部族国家をつくっていた 紀のノルマンの移動時代には , この 2 4 6 地のノルマン人は主として東方スラ プ地域に移動し , 商業活動に従うと ともに , ノブゴロド , キエフなどの 都市を建設して , ロシア国家の起原 をつくった この間スエーデンには カトリックの信仰がひろか、ったか・ 小部族国家の統合も進んで , 10 世紀 末ウーロフ王のもとで , 一応スエー デン統一王国が成立した。中世のス 工ーデンは , 封建制度が行なわれる とともに王位をめぐる内紛があいつ ぎ , またデンマーク , ドイツ騎士団 , ハンサ商人との抗争に悩んだ。しか し 12 世紀半ばには東方に勢力を拡大 してフィンランド地方を征服し , れを領土とした。やがてデンマーク 女王マルグレーテは 1389 年スエーデ ンを破って , 97 年にカルマル会盟を っくり , 以後 1 世紀あまり , スエー デンはデンマーク王の支凸己下にはい った。しかしその間スエーデンの独 立運動は根強く続けられ , 1523 年グ スタフ 1 世のもとでふたたび独立を 回復した。グスタフ 1 世 ( 在位 1523 ~ 60 ) はスエーデンの近代化の基礎 をつくった王で , 諸種の改革を行な ったはか , ルター派の新教を保護し てひろめたため , 以後スエーデンは 新教国になった。その孫 / グスタフ・ アドルフ ( 在位 1611 ~ 32 ) はスエーデ ン史上最大の君主であった。彼は議 会制度の改革などを行なって近代化 につくし / 三十年戦争にさいしてド イツに侵入して勇名をうたわれ , ス ェーデンを欧州の一大強国たらしめ た。しかし 18 世紀初めの / 北方戦争 においてロシア , ポーランドと戦っ たカール 12 世 ( 在位 1697 ~ 1718 ) は , はしめ連勝して威をあげたが , ポル タバの戦いに大敗してバルト海東岸 の領土を失い , さらにデンマークに も攻撃され , 以後スエーデンはかっ ての勢力を失った。その後もスエー デンは欧州の国際紛争にしばしばま きこまれ , 19 世紀初めのナポレオン 戦争中はロシアのためにフィンラン ドを奪われたが , ナポレオンの没落 後はノルウェーを併合した。 19 世紀 後半以後のスエーデンは , 戦争に加 わることを極力さけ , 立憲君主制の もとで , 政治上 , 社会上の自由主義 化に力を注いだ。 2 ( ) 世紀にはいり , 1905 年ノルウェーの分離独立を承認 し , 再度の世界大戦には中立の立場 を堅持した。 このように約 1 世紀半 にわたり戦争を経験しなかったこと は , この国の繁栄の原因となった。 第一次大戦後議会では社会党の勢力 が大いにのび , 3() 年代以降ほとんど 一貰して政権を担当し , 穏健な社会 主義政策を行ない , その結果 , 現在 のスエーデンは世界でもまれな高度 の福祉国家として繁栄を続けている。 また長い間の平和はその文化的発展 をもたらし , 18 世紀の植物学者リン ネをはしめ , 19 世紀にはダイナマイ トの発明者ノーベルや作家ストリン トべリらカ { 出 , 20 世紀にはいっても 多くの国際的な学者を生んでいる。 〔青山〕 スエード s ue de ヤギ皮 ( キッ ド ) あるいは子牛皮 ( カーフスキン ) をクロムなめしにし , 肉側面をやす りまたは金剛砂で摩擦して仕上げ , 表面にビロードのような毛羽を生 せしめた皮。ふつうこの面を表とし て用い , 毛生面を褻として使う。 の仕上げ法がス工ーデンから起こっ たのでこの名があるという。袋物 , ブッククロス , ノ、ンドノヾッグ , くつ の甲皮 , ジャケットなどとして用い られる。ぬれた場合は乾布でたたき , 水分を除き , 陰下しにする。専用の 液体クリームがあるが , あまり塗ら ぬほうカ { よく , ワイヤプラシまたは ナイロンプラシをかけてよごれを とる。 すえよし末吉〔町〕鹿児島県東 部 , 囎唹郡の町。人口 24676 ( 1965 ) 。 国鉄志布志線が通し , 北東は宮崎県 都城さ新の市に接する。米 , 麦 , サッ マイモ , タバコを中心とする農業地 帯である。養蚕 , 牧畜も盛んで , と くに囎唹牛産地の中心をなし , 年 4 回牛市が開かれる。付近には荒神面 古墳をはしめ遺跡が多い。 〔上井〕 すおう周防旧国名。現在の山 口県東部にあたる。山陽道 8 カ国の ーっで , 周州 , 防州ともいう。大化 改新のときに大島国 ( のちの大島郡 ) と都怒国 ( のちの都濃み佐波吉 敷鶩しの 3 郡 ) を合わせたが , 721 年熊 毛郡より玖珂郡を分離して 6 郡と なった。鎌倉時代にはいり , 藤原氏 , 北条氏が守護となったが , 南北朝時 代以降大内氏の世襲となり , 山口を 中心に大陸との交渉をもち , 明との 貿易で財力をたくわえて , 大内文化 の名があった 1557 年毛利元就に滅 は、され , 以後長門とともに毛利氏 の支配地となった。江戸時代には長 州 , 徳山 , 岩国の 3 藩を分置した 1871 年山口県となり現在にいたった く町歩下組帳〉 ( 1716 ~ 47 ) によれば , 田約 19571 町 , 畑約 1 ( ) ( ) ( ) 8 町。総石高 , 慶長 3 年約 16782 ( ) 石 , 元禄年間約 2 ( ) 2788 石 , 天保 3 年約 489429 石。近 世の特産物には半紙 , どがある。 こんにやくな 〔谷口〕 すおう素襖 , 素袍室町時代の 半ばごろから用いられた武士の日常 服。戦国時代には大名も着用したが , / 大紋よりは格が低く , 江戸時代には 将軍御目見以上の武士で無位無官の ものの式服として用いられた。 / 直 垂から変化した形で , 垂領 ( い わゆるきもの形のえり ) で , わきに 縫目がなく , 地質は麻で , ふつう同 し布の長袴かをつける。胸ひもと菊 とし ( ひも飾りの一種 ) とが革でで きているため革緒直垂ともいわれた 前面のそでつけの位置と背の中央と
ジョリュウ 1 1 6 をする写実小説を書いたのをはしめ 防寒用であり , / マフラーはおもに として , その後プロンテ姉妺やジョー 防寒用のえり巻に用いる。〔田中〕 ジ・エリオットら男性と肩を並べる ジ ' ョ′いショ・一ネ Giorgione 14 作家を生み , バージニア・ウルフら 78 ~ 1510 イタリアの画家 , カステ に至っている。ドイツにも女流作家 ルフランコに生まれた。本名ジョル はいるが , リカノレダ・フーフその他 , ジョ・ノヾノレノヾレリ Giorgio Barba- これに比肩する作家は乏しい。米国 r e 11 i 。 G. べリーニの弟子。短い生涯 は歴史が新しいので , 19 世紀にスト については不明の . が多いカヾ , おも ー夫人が現われたほか , 20 世紀には にベネチアで活躍し , くら > くモー いってから , ノヾーーノレ・ノヾック , ・ーー - ガ、 ゼの火の試み > などの作品にみられ ッチェルらの , 世界にき る詩的情緒に富む風景を画面に導入 こえる女流作家が現われてきている。 した画家として知られ , ルネサンス 〔日本〕日本では 8 世紀の万葉歌人 最初の裸婦臥加像く眠れるビーナス > のなかに大伴坂上郎女弩讐さかの ( / 絵画 ) の作者でもある。その画風 石川郎女らの女流歌人のいたことは は , 画面にあふれる個性的かつ大胆 の後も新しい研究所の設立などを通 知られているが , 詩歌だけでなく , な官能美と深い叙情性にあり , 宗教 10 ~ 11 世紀にかけての平安朝時代の じてフランスの原子力研究を指導し 的な人間感情あるいは崇高性を基調 文学は , そのおもなものの大部分を た。また , 彼は 1949 年以来死ぬまで とする 15 世紀イタリア絵画を克服 , 世界平和評議会の議長をつとめ , 国 女流作家が書いている。紫式部の / ベネチア派の盛期を基礎づけた。 際的な平和運動のためにも中心にな / く源氏物語 > , 清少納言の / く枕草 他に傑作く田園の奏楽〉くソロモン 子〉 , 藤原兼家の妻の / く蜻蛉日 って活動した の審判 > などがある。 〔後藤〕 〔坂崎〕 記 > などをはしめ , 小説 , 随筆 , 日 じよりゅうぶんがく女流文学 記などの分野に女流作家が活躍して 閨秀う文学ともよばれる。とくに文 いる。彼女らの多くは受領 ( 諸国 学方法上のジャンルをさすことは、で の長官 ) の娘で , 貴族社会の解体を はないが , 男が書く文学に比して女 女の身でうけとめ , その不幸を告白 性でなくては表現できない感情や論 するところに日記物語が生まれた 理を特色とするので , ひろくこのよ しかし中世以後武家の時代になると , び名がある。 〔外国〕古くは前 6 世紀ころ , ギリ 詩歌以外に女流文学はふるわす , 王 朝作家に匹敵するものは現われてい シアに現われた女流詩人サッフォー の名が , 女性らしいあでやかな恋愛 ない。明治にはいってからは樋口一 伝説にいろどられて有名であるが , 葉が現われ , 主情的に女性の心理を 小説の場合は , 中世になってキリス 描き , また与謝野品子が情熱的に自 我の解放をうたった。一葉以後 , 田 ト教と封建社会が女性に社会生活を 午すようになって , 女性の居間のた 村俊子 , 野上弥生子 , 宮本百合子 , めに生まれた「優雅」の文学に起原 ・林芙美子 , 岡本かの子らが出て日本 をもっている。恋のいきさつや感情 文学に独特の寄与をしたことも無視 ジョノレジョーネく嵐 > 150 5 頃 の分析を志した優雅の文学は , やが できない。第二次大戦後は野上弥生 てその中心、人物である宮廷婦人にみ 子のほか , 平林たい子 , 佐多稲子 , ジョレス Jean Jaurés 1859 ~ すから筆をとって小説を書かせるよ 円地文子 , 壺井栄 , 幸田文 , 大田洋 1914 フランスの政治家 , 晢学者。 うになった。フランスでは 17 世紀の 子 , 網野菊 , 曽野綾子 , 有吉佐和子 1878 年高等師範学校に入学 , 81 年哲 らが活躍している。 ラファイエット夫人の / くクレープ 学の教授資格を得た。 85 年タルンか 〔瀬沼〕 の奧方〉 ( 1678 ) , セビニエ夫人のく書 ショー′レ sh a wl 肩掛け。防寒 , ら代議士に立って以来 , っとに文学 簡集 > ( 1725 ) などから , 19 世紀には 防暑 , 砂は、こりよけのため婦人の頭 , 的な , また熱情的な雄弁家として知 いってスターノレ夫人 , ジョノレジュ 首 , 肩をおおう。形は正方形 , 長方 られ , 社会主義者として労働問題に サンドらから現代のポーボアールま 形 , 三角形で , 材料には毛織物 , 綿 , 専念した。 ドレフュス事件では機関 で , かずかすの女流作家が現われて 絹 , ナイロン , 毛糸 , レース , 毛皮 紙く小共和国 > を通し共和制の擁護 いる。英国では少し事情が異なり , などが使われ , 色無地やがら物など をはかった。また社会主義政党の統 19 世紀の初めにジェーン・オースチ いろいろである。ショールは衣服の ーに努力し , 1905 年統一社会党を結 ンが現われ , スコットの歴史小説に 原形の一つで , それが進展してそで 成した。その後 , 反戦平和運動を推 対し , 日常茶飯事に冷静な人生批判 か・ついたり , あるいは腰に巻いてつ 進したが , 第一次大戦直前の 1914 年 7 月 31 日 , パリで狂的な国粋主義者 けられ , ペチコートやズボンに発展 ラウル・ビランの凶弾にたおれた したといわれる。インド , ベルシア などでは絹や毛織物のショールに刺 彼は人道主義的理想主義に立つ社会 しゅうやふさ飾りのついたものがっ 主義者として特異な風格をもつ存在 くられているカ { , とくにカシミ ル であった。著書く社会主義的フラン 地方で産する / カシミアのショ ル ス革命史 > は社会経済的基礎過程の は名高い。東洋のショールが欧州に 研究を開拓した 〔木村〕 紹介されたのは 18 世紀で , 19 世紀に ショーロホフ M i kha i 1 A 1 e k s a n - は機械織りのものがつくられ婦人の drovich ShoIokhov 1905 ~ 間で流行した。日本人がンヨールを 連の作家。ドン・コサックの出身。 使いはしめたのは明治になってから 中学在学中に市民戦を迎え , 赤軍に で , とくに和服姿には欠くことので 加わって転戦した。戦後 , 石工 , 積 きないものになった。ショールと同 荷夫 , 教員 , 事務員など雑多な労働を しようなやくめを果たす / ストール へて短編く子馬〉 ( 1923 ) をはしめド は比較的細長いもので , 装飾または ン地方の生活に取材した作品を発表 , 0 研究室におけるジョ リオ・キュリー夫妻 01 0 心 一三ロ ジョレス 左は 1 世紀中ごろ欧米 に流行したふさ飾りの あるショール。右は現 代の和服用のンヨール
ンメモノ 5 7 9 も少なくない。 〔染織工芸史〕描絵やプリントによ る模様染めは , おそらくひしように 古くから行なわれていたものと思わ れる。前 2500 年ころの古代エジプト の壁画にもプリントと思われる衣装 をつけた姿がみられるし , 先インカ の染織品にも描絵が現存している。 インドのさらさはこの両方の技術が , のちにはさらにロウの防染技術も加 わって最高度に発達したものという とカ { できよう。 kalamkar と palam- めに利用されている。防染剤を布地 p 。 r e というのがそれで , 前者は描染 手のこんだもので , 世界のどこにも め , 後者は木版によるプリントに手彩 に付着させて行なうものにはロウ染 これによ ない技法であるとともに めのほか , 友褝 , 小紋 , 中形う染めな 色を加えたものである。これはのち って近世以後の日本独特の多彩な絵 どのように , のりを用いるもの , ま に 18 世紀にはいって銅版プリントに 模様が生み出され , 完成されたとい れに泥を用いるものなどがある。日 なって欧州でも行なわれ , 有名なフ 〔山辺〕 うことができる。 本のロウ染めは , 古く中国で﨟纈 ランスのオーベノレカンプのプリント 〔染色の種類と方法〕染色の方式に 染めなどが生まれている。 といわれたものが , 7 ~ 8 世紀ごろ は種々あるが , そのおもなものは , 日本では正倉院の染織品に描絵 , に伝わったものであるが , その後 , 浸染 , 捺染で , そのほかにパッド 摺絵がある。また摺衣などといって , 技術が失われ , 明治以後にジャワの 染め , 引染め , 摺染め , 描染め , 注 ヤマアイの葉を直接布へすりつける ヾチックの技術によって復活したも 込染め , くくり染め , 霧吹染め , ろ ことも行なわれたようであるが , 模 のである。ジャワのロウ染めは , 古 うけっ染め , 墨流し染め , しごき染 様織物および防染法による精巧な模 く王室の中で女性たちの手芸として め , 写真染めなどがある。 1 ) 浸染 発達したもので , 初めはあいと白で 様染めの発達に伴って , うし、う才ミ 染料を溶かした液に所要の助剤を加 あったものが 17 世紀ごろ茶系統のソ え , その中に繊維 , 糸または布を浸 朴な技法は , 染織工芸としてはあま ただ ガ染料が加わり , さらに 18 世紀には して染色する方法を総称する。 2 ) 捺 り大きな発展をみせていない。 いってあかわ系統のはなやかな色が 染いわゆるプリントで , 種々の模 し , 染めで現わし得ないようなもの 加わっている。ロウ染めのさい , 防 様に染色する方式である。これには , を描絵にするとか , また , 著名な画 染のロウはジャワではチャンチンと 直接に色のりを捺印して蒸気で蒸し 家が小袖に絵を描くというような て染料を染め付ける直接捺染法 , 染 いうロ金付きのパイプのようなもの こった高級品においてはと ことは , めない部分にのりを捺印して , 全体 で置かれる。はかに金属性のプリン きどき行なわれている。プリントは を染色し , のりのある部分を不染の 明治以後 , 化学染料による写しのり ト型も量産品には用いられている 正倉院の﨟纈は木型が用いられたも まま模様に残す防染法 , あらかしめ ができてから精巧なものが発達した のであろう。筆は用いられていない 浸染した布面に , その色を抜くこと が , 日本のプリント技法はむしろ布 ようである。のりを防染に用いる技 のできる色抜剤を含んだのりを捺印 地より紙を用いた版画にそのもっと 法は , 外国ではチェコの木型のリ置 もすぐれたものがみられるといって して , その部分を色抜きして模様を一 よいであろう。防染法による模様染 きのアイ染めのようなものもあるが , 現わす抜染法などの種別がある。従 めのもっとも素朴なものは絞染めで , いすれも素朴なもので , これがもっ 来 , 捺染は , 型紙を用いて行なう方 とも高度に発達したものは日本の小 これはひしように古い時代から世界 法 , 木版を用いる方法など手工的に ことに精細な友褝染めで 紋 , 中形 , 操作することが行なわれてきたが , の各地で行なわれていたものと思わ あろう。小紋 , 中形はいすれも型紙 近来これを機械的にプリントするこ れる。なかでもインドのノヾンダナは 「へら」を用いてのり置き とが普及している。大きい模様は , を用い , もっとも古い伝統をもっているとい が施されるが , 友神染めは , ロ金付 われ , 技術的にもすぐれたものが多 スクリーンプリントで手工または機 い。またベルーの先インカにも 7 きの筒へ入れた筒のりもしくは棒の 械的に捺染する。 3 ) パッド染め布 8 世紀ごろの精巧なものが残されて 先へつけた楊子のりなどを用いて , をひろげた状態で染液に浸して , ロ 左から 9 ~ 11 世紀ころ の , 先インカ時代の纐 いる。中国では纐纈といわれ , 細い線を描き , これに彩色 ( 色差し ) ールで絞って平等に染め付ける機械 纈毛織。西域出土の夾 れが 7 ~ 8 世紀ごろ日本に伝わって を加えて仕上げたものをさらに伏せ 的な染色法である。 4 ) 引染め布を 纈 ( 唐代 ) 。 18 世紀ジャ 日本の絞染めの伝統を形成している。 のりでおおって地染めをするという ひろげて , はけで染液を引き染めす ワの草花模様をあしら しかし日本の絞染めが , もっとも高 った﨟纈の綿布である 度に発達したのは , 15 ~ 16 世紀以後 で , 辻ガ花染めという絞りと描絵 , 摺箔などを併用した模様染めが現 われ , 次いで江戸時代にはいって , 総匹田のような精巧きわまる絞染め が発達した。今日も京都 , 愛知県の 鳴海 , 有松鴿などにその伝統が継 承されている。絞りに似たものに板 締染めがある。これの古いものには 中国系の精巧な多色染めの夾纈が 1 あり , 奈良時代に日本に伝わったが その後 , 技術が絶えて今日その技法 は判然としない。今日いわゆる板締 染めはこれとはやや異なるもので , それもはとんど行なわれておらす , 現在板締染めは一部の絣織物の糸染 3 左は正倉院蔵の花鳥模 様摺文絶 ( あしぎぬ ) 。 型紙を使用した最古の ものといわれる。右は 辻ガ花染めの幡 ( 部分 ) 。 布は絹で 16 世紀のもの イっ
スコラテッ 2 6 1 題がとりあげられ , また一方では , ーン , ダンディの四大都市に集中 , ともいう。ユーゴを構成しているマ スコピエ ( 補 ) 第二次 大戦後 , セメント工業 , 論理を構成する観念の実在性の問題 主都エジンバラは政治 , 文化の中心 ケドニア共和国の主都。人口 171893 レンズ , 農薬などの化 が論争された。けっきよく前者の問 〔志賀〕 となっている。 ( 1961 ) 。ューゴの首都ベオグラード 学工業が興った 1963 題は信仰と理性あるいは宗教と哲学 〔歴史〕スコットランドには前 3 千 に通ずる交通の要衝で , 飛行場もあ 年 7 月 26 日激震があり の間題につながり , 後者は有名な観 年紀の新石器時代以来イベリア人と る。食料品 , 織物 , 皮革 , 製材 , ガ 市の % が壊滅 , 死者数 念実在論と唯名論の論争となり , よばれる人々が大陸から渡来して住 ラスなどの工場がある。大学 , 農業 千人の被害を受けた の二つの問題はさまざまに形を変え んでいたが , 青銅器時代ののち , 前 6 研究所などがあり , ノヾルダル川流域 世紀ころからケルト系の諸部族が渡 物資の集散地。スコピエは , 古くス ながら , スコラ哲学のすべての時代 来して , 鉄器時代にはいった。この クピといってローマの属州ダルダニ を通ヒて重要な主題となっている。 アの主都であり , 6 ~ 13 世紀にはビ 最初に規模の大きな哲学体系を作っ 地方はローマ人によりカレドニアと よばれ , 1 世紀の半ば , いまのイング ザンチン帝国に属し , 1392 ~ 1912 年 たのはスコッス・エリウゲナ ( 810 頃 ~ ランド , ウェールズを征服したロー はトルコ領であった 〔相場〕 877 頃 ) で , 彼は 9 世紀の学者たちの スコラてつカーくスコラ哲学 水準からいえば異常にすぐれた人物 マ軍か・し ( よし ( よ侵入したか、 , ついに 9 ~ 14 世紀ころまでに起こったさま であ・る。その思想には新プラトン主 征服できなかった。なおスコットラ 義の要素が強い。アンセルムス ( 10 ンドの名称は , アイルランドにいた ざまの哲学の総称。狭い意味では 13 スコット人が , 4 世紀以後この地方 世紀のトマス・アキナスらの哲学の 33 ~ 1109 ) はアウグスチヌスの思想 立場をさすこともある。総称の場合 , を忠実に継承し , その立場は「知解 に移り住んだことに由来する。 5 世 その立場はきわめて多様であるが , を求める信仰」ということばに現わ 紀に始まる民族大移動により , アン すべてキリスト教徒の哲学であり , れている。また神の存在の本体論的 グロ・サクソンがイングランドに侵 主要な学者はたいてい教会の聖職者 証明とよばれる思想はその後の哲学 入して七王国をたてたころには , ス である。宗教の信仰はあたえられた コットランドもいくつかの小王国に 史に大きな問題を投げた。そこには 教えを信するところに成り立っから , 初期のスコラ哲学に共通な論理学的 分かれていたが , それらはしだいに 統合されて 1()— 11 世紀には一応スコ 要求の現われをみることもできよう。 キリスト教徒の知的な思索は個々の 12 世紀の著名な学者アベラールは文 ットランド王国が成立した。この国 精神の自発的な欲求が働くかぎり , 学的にも有名な人であるが ( / アベ は 14 世紀初めイングランドのエドワ さまざまでありうる。その場合 , 信 仰からくる制約は思索者の内的な制 ラールと工ロイーズの手紙 ) , その ド 1 世に征服されたこともあった 主要な学問的業績は , 観念実在論と 約であって , 固定された観念が思索 が , まもなく独立を回復し , 14 世紀 唯名論の論争に一応常識的な解決を 後半ロバート 2 世が即位して以来ス にとってかわるのではなく , 哲学か・ もたらしたことであろう。彼は実在 宗教的な信条を論理的に前提するの チュアート朝が君臨することになっ の客観性を合理的に追求する立場を た。以後のスコットランドの歴史は , でもない。そこにスコラ哲学 S ch 0 ・ イングランドとの抗争を中心、として 徹底させたので , スコラ学的方法の lastic philosophy その他のキリス 複雑な局面を展開するが , 16 世紀の ト教的な哲学が成り立ち , その多様 確立者といわれることもある。 12 世 紀には有名な博学者が多く , スコラ 女王メアリ・スチュアート時代には 性が存在する。スコラ哲学はキリス ジョン・ノックス ( 1505 頃 ~ 72 ) によ ト教徒の哲学的思索として , 宗教的 哲学は内容も研究者も著しく拡大さ る長老派の宗教改革運動が起こって な信仰の真実性を合理的に基礎づけ れた。またはしめてパリに大学が組 内乱が続いた。メアリ退位後に即位 ようとする意図を含むことが多いが , 織されたこと , さらにアリストテレ したジェームズ 6 ・世は , ェリザベス スの著作が西欧に紹介されたことが しかし学としての哲学の独立性はス 1 世死後のイングランド王を兼ね , コラ学者たちの間でしだいに明確に 重要である。 13 世紀はスコラ哲学の , こに両国は同君連合の状態になっ 意識されている。スコラ哲学者の扱 最盛期で , そのなかでとくに重要な 学者はポナベンツラい 2 幻 ~ 74 ) , た。その後イングランドに起こった ト う問題は , はしめギリシア , ローマ 清教徒革命 , 名誉革命のときにはス マス・アキナス , ドウンス・スコツ から伝わったアルテス・リべラレス ス ( 1266 頃 ~ 13 ( ) 8 ) である。この 3 者 コットランドの多くの人は革命を支 ( 文法学 , 修辞学 , 弁証学 , 算術 , 幾 持した。そして 1707 年アン女王のと はいすれもアリストテレスの影響を 何 , 天文 , 音楽の 7 教養科目 ) の中の き両国は正式に合同してグレートプ うけ , キリスト教徒としてアウグス 弁証学から発展し , 論理学的な問題 リテン王国となり , 以後のスコット チヌスの神学の精神を受け継いでい が関心、を集めていたが , やがて形而 ランドの歴史は / イギリスの歴史の 上鷲学がすべての哲学研究の主要 るが , 3 者を比較すると , トマス・ な領域となり , とくに神 , すなわち 中におりこまれている。 〔青山〕 アキナスがいちばん大胆にアリスト スコ′、ス Scopas 月リ 4 - 世糸己のギ 哲学的な絶対者を中心として世界観 テレスを受けいれている。ポナベン リシアの彫刻家 , 建築家。パロス島 を立てることが思索の課題となった ツラの思想には強くアウグスチヌス の出身といわれるか、 , その生渊はは 倫理学も人間学も自然学も形面上学 風の実存的な思索が基調をなしてい 的に考察されている。批判的な認識 とんど知られない。ギリシア本上で る。トマス・アキナスの思想はもっ 論や心、理的経験的な自己省察や自然 制作し , 晩年は小アジアで活動した 現象の観察などは哲学者の興味をひ らしい。ギリシア彫刻の古典後期の かす , また歴史的な考察の観点をと 代表作家で , 同時代のプラクシテレ スの優美様式に対し , 落ちくは、んだ った学者もあまりみあたらない。要 眼窩 , 激しいひだづけ , 沈痛な表 するにスコラ哲学は少なくともその 情 , 激情的な姿態などの表現を特色 積極的な学者においては , 終始形面 としている。テゲアのアテナ・アレ 上学の研究であり , 絶対者中心の世 ア神殿の遺跡出上の彫刻断片にスコ 界観の理論的体系化の試みであった。 パスの特徴をよく示したものがある。 中世の初期は社会的な混乱の時代 で , すぐれた学者たちもいわは、孤立 / 、リカルナッソスのマウソレウムの 彫刻制作に参加し , この彫刻遺品に して存在し , 一般的にいえば , 文化 彼の作品とみなされるものがある。 活動はきわめて低調であった。 12 世 紀ころまで多くの学者がもつばら弁 〔中山〕 スコヒ。工 Skopje ユーゴ南音阯 証学 ( 論理学 ) を研究し , そこからキ ノヾルタ、、ル川に沿う者に市。スコプリエ リスト教徒の弁証学研究の評価の間 R. F. スコット W. スコット スコ / 、ス作といわれ一 いるく戦 L- の頭部〉 1
4 2 いうのか、 , ノト説ジャンノレにとって何 しようせいばっしよくしさん焦 欧米の小説 広い意味にとれば , 欧州の小説の よりの素材であり , 成長の糧宅だか 性没食子酸 / ヒ。ロガ、ロール しようせき硝石天然に産出す らである。フィールディングのくト 起原は古代ギリシアのロンキノスの ム・ジョーーンズ〉 ( 1749 ) には生き生 る主成分が硝酸カリウム K N ( ) 3 の鉱 くダフニスとクロエ > , またローマの きと多様な人物たちが描きこまれ , 物を硝石 , 硝酸ナトリウム N aN ( ) 3 の ベトロニウスのくサチリコン > , アプ 鉱物をチリ硝石という。ともに硝酸 手ごたえある社会像が浮かび上がっ レイウスのく黄金の驢馬いなどのう のアルカリ金属塩であるから , 性質 てくるばかりでなく , 主人公の愛す ちに求めることができる。また中世 べき人間味がいかにも身近な感しで は似ているが , 産出状態 , 取出し方 に数多い騎士道ロマンスや風刺的な は違う。硝石は窒素を含む有機化合 迫ってきて , 作者のかっ達な男性的 寓豸 - 話物語をも無視するわけにはい な人間性肯定と笑いが小説全体にあ 物が地中でバクテリアの作用で分解 かない。しかし小説を , 何よりも現 酸化したもので , チリ , スペイン , 実らしい印象を生み出すことをめざ ふれている。他方リチャードソンの くノ、メラ > ( 1740 ~ 41 ) は , これとは対 イタリア , エジプト , アラビア , イ す写実的な虚構の物語の意に解し , ンドなどの乾燥地帯 , 砂漠地帯に とくに近代小説に限定して考えるな 照的に , 動きの少ない女性的な世界 土壌または岩石の上に薄層をなして を扱った書簡体の小説であるが , 小 こ 2 , 3 世紀間の文学的特産 らば , 産する。チリ硝石は南米チリに多く 間使という身分の女性をあえて主人 物とみなしてさしつかえあるまい。 公に取り上げた点 , また日常生活の 産し , カルシウム , ナトリウム , マ 少なくとも小説が現在のように文学 わすかなことに即して女・性心、理の動 グネシウムの硫酸塩 , 塩化物などと の中心、的ジャンルの位置を占めるに 共存している。成因は付近の岩石が きをこまかにあとづけた点に類の少 いたったのは , 新しい現象なのである。 風化され , 空気中の窒素から生した ない特色があった。とかく涙つばい 写実的な近代小説の誕生地として 硝酸と化合したとか , 火山岩などが ますあげるべきは , 16 世紀後半以降 感傷性におちこむ危険がっきまとっ 雨によって低地帯に集まり成分の塩 のスペインであろう。 この時期にお たにせよ , フランスのノレソーをはし けるスペインのめざましい国力の伸 類が堆積したともいわれる。硝石 , め , のちのデイケンズやジョージ・ 長が一つの刺激として働いたに違い チリ硝石は 19- 世紀まではもつばら硝 ェリオットらのノト説は , ーにその ないが , 作者不詳のくラサリリョ 酸の原料とされていたが , 現在では 源を発するものといっていい。女・陸 デ・トルメスの生涯 > やアレマンの 心、理の描写という点で見落としてな はとんどそのままで肥料に使われて いる。純粋なものはともに無色の結 くグスマン・デ・アノレファラチェ > な らないのは , 17 世紀フランスのラフ ァイエット夫人の / くクレープの奧 どの , いわゆる / わるもの・小説があ 水によく溶け , アルコール , 工 日日 方〉 ( 1678 ) であろう。人妻の恋愛と ーテルには溶けない。肥料にするほ いついで書かれた。その輝かしい到 いう , その後無数の小説家たちによ 達点がセルノヾンテスのく模範小説集 > か , 強い酸化剤なので黒色火薬の原 って愛用される主題を , これほどの 料となる ( 硝酸ナトリウムは吸湿性 ( 1613 ) であり , / くドン・キホーテ〉 繊細さと明確な輪郭をかねそなえつ が強いので , 日本ではあまり用いな ( 1605 ) であった くドン・キホーテ > つ描き上げた例はまたとなかった い ) 。また利尿剤 , 金属熱処理剤にも 執筆の目的の一つは , 当時なおひろ こまやかな心理的透察と , 多弁や道 く愛読されていた騎士道ロマンスの 用いる。 〔池〕 草をいっさい刈り取った形式上の洗 しようせつ小説小説という 無意味さ , 愚かしさを風刺するとこ 練において驚くべき達成でありと とばは古くからあるが , 今日の意味 ろにあった。スペインではとくに かく無定な放漫に流れやすい小説ジ で用いられるようになったのはまず の種の物語が力を占め , また騎士道 ャンルに対する警告という面でも見 坪内逍遙のく小説神髄 > ( 1885 ~ 86 ) 的な美徳が重んぜられてもきたので , のがせない意味をもつ。実人生の多 風刺がいっそう必要かつ効果的だっ 以後と考えてよい。逍遙は英語のノ 様さ , 豊かさをそのまま描きとるこ たのであろうカ { , いたすらにロマン ベル novel という意味をもってノト説 チックで非現実的な騎士道ロマンス とをめざすことの多い英国の小説に ということばに新しい生命を与えた こうした鋭い形式感覚は , の世界を批判 , ちょう笑するところ すなわち小説は現代の日常の社会生 対して , いかにもフランス的な寄与という に , 近代小説の最初の動因が存した 活 ( 世態 ) を描き , 人間性の真実を追 ともできよう。 求する散文文学であるとした。この という点は重要である。もったいぶ さて 19 世紀は文字どおりノト説の世 って仰々しいもの , 硬化した因襲的 意味の小説は同し意味のフィクショ 紀である。デイケンズ , サッカレー なもの , また空虚な英雄気どりなど ン fi c t i on ( 作り話 ) であっても , 昔の の内幕をあばきたてるというのが , 物語とは区別される。物語は英語の ージ・エリオットを生んだ英国 , ロマンスにあたり , 英雄や貴族や豪 多くのすぐれた近代小説に共通する ノヾノいザ、ツク , スタンタ、一一ノレ , フロ - べ ール , ゾラを生んだフランスに続い 傑を主人公にし , 宮廷の恋愛や狩猟 特徴だからであり , くドン・キホー トルストイ , ドスト や戦争などのはなばなしい冒険や伝 テ > の態度や精神は , 貴重な源泉と て , ゴーゴリ 奇を描く散文文学で , そこには叙事 してのちに絶えす組み直されること 工フスキー , チェーホフのロシア , になった。スペインの小説の強い刺 さらにはホーソン , メノレビノレ , ポー 詩的な要素も認められる。これに対 マーク・トウェーンの米国などの文 激のもとに次のめざましい開花をみ し , ノト説にはロマンスの要素は少な 学上の新興国が , にわかに大きく浮 たのは , 18 世紀の英国である。ます い。言いかえれは、 , 小説と物語とを こうした膨大か 写実小説と浪漫物語として区別する / く口ビンソン・クノレーソー〉 ( 1719 ) かび上カヾってきた。 っ多彩な 19 世紀の小説群を簡単に色 のデフォーカ { 現われ , フィ ー - ノレテ。イ ことができよう。しかし現代の用語 分けすることは不可能である。ただ ング , リチャードソン , スモレット , では , ノト説は英語のフィクションと スターンらがあいついで登場した 英国 , フランスの作家たちが , 市民 同様に広義に解され , 写実小説のほ とくにデフォー 社会の中に生きる人間たちの姿や変 ーノレディング , かに伝奇物語を含めた総称に用いら 化を描きとることに力を傾けたとす スモレットは , スペインのわるもの れている。それだけに小説とは何か , 小説の道具だてを借用しながら , そ れば , ロシア , 米国の作家たちは , その本質を定義することはむすかし の写実性において著しく柔軟さと自 むしろ社会から離脱した孤独者の内 い。アランは小説を単に散文として ーっには , すでに 由を増し深めた。 的な苦悩により深くかかわったとい 論し , フォスターは一定の長さによ 名誉革命をへて議会制度を確立した うことができよう。スタンダールの る作り話とばく然と定義するにとど / く赤と黒〉 ( 183 のが , 副題の示すよ 英国の市民社会のいちはやい成熟と まっている。以下 , 歴史をたどるこ 「 1830 年年代記」という一面を いう事情も有力に働いたに違いない。 とによって小説の本体を明らかにし もち , サッカレーの / く虚栄の市 > 個人相互の間の自由で多様な関係と ショウセイ
かあリ , 平時における徴兵期間は原 則として 1 年半である。 3 ) その他 教育制度は初等 , 中等 , 大学の 3 課 程よりなリ , 初等教育は義務制であ る。社会保障としては , 労働省の下 部機構の予防対策公社を中心とする 労働災害保険 , 疾病保険 , 老齢保険 スペインの歴史 などがある。 た て神聖ローマ皇帝に即位し , その勢 カルロス 1 世はまたカール 5 世とし なども征略 , 一大植民帝国をなした。 にはメキシコ , ペノレー フィリピン カルロス 1 世 ( 在位 1516 ~ 56 ) の治世 インドに植民地をひらいたが , 孫の 見を後援し , その成果を独占して西 イサべラはコロンプスらの新世界発 ラム勢力を滅ばしてこれを併合した。 礎を固め , また 92 年グラナダのイス しつつ貴族をおさえて絶対王政の基 両王は身分制議会 ( コルテス ) を利用 邦を生み , スペイン王国が成立した。 ラを王妃としていたので , 両国の合 位は , 彼がカスチリャ女王 /. イサべ 年アラゴン王フェルナンド 2 世の即 〔スペイン王国の成立と全盛〕 1479 3 キリスト教王国の封建支配下に帰 スチリャから独立したポルトガルの ラゴン , そして 12 世紀半ばごろにカ べリア半島の大半はカスチリャ , ア をグラナダに押し込めた。かくてイ ルドバを占領 , ついにイスラム勢力 したキリスト教十字軍は 36 年にはコ オンソ 8 世 ( 在位 1158 ~ 1214 ) の組織 成され , 1212 年カスチリャ王アルフ にアラゴン , カスチリャ両王国か、形 すられていく。すなわち IO ~ 11 世紀 ( レコンキスタ ) の前にその版図をけ とするキリスト教徒の国土回復運動 フ国はやがて西ゴート貴族層を先頭 咲かせた ( / サラセン帝国 ) 。西カリ の都市を誇り , イスラム文化の花を ルドノヾは 1() ~ 11 世紀にかけ世界最大 ドバを首都に西カリフ国を建て , コ ヤ朝が倒れたとき , その一族がコル 75 ( ) 年にノヾグダードの / ウマイ 置くムーア人の支配がこれに代わっ 王国は滅は、され , セビリヤに太守を た。しかし 711 ~ 715 年間に西ゴート 紀半ばまでにスペインの主人となっ が , 西ゴート王国が他を制圧し , 7 世 にゲルマン諸族が侵入して建国した や都市生活を普及させた。 5 世紀末 時代を通してローマ風の大土地所有 ろまでにほは、全上を属領とし , 帝政 手をのばし , オクタウィアヌスのこ た 前 3 世紀末以来ローーマが侵略の 行なわれ , ケルト人も北部に入住し リシア , つつ、いてカノレタゴの植民か、 りフェニキア , 前 7 世紀ころよりキ、 器時代にはいった。前 12 世紀ころよ 25 ( ) ( ) 年ころにはイベロ族により青銅 器時代までさかのは、り , おそくも前 アルタミラの洞窟壁画など旧石 〔占代・中世〕スペイン文化の跡は 2 8 5 1520 年にコ 力は欧州第 1 を誇った。 ムネロスの乱として知られるスペイ ン諸都市の反乱が起こったが , その 鎮圧を通していっそう強化されたス ペイン王権は , 次の / フェリペ 2 世 の代に最盛期を迎えた。彼は 71 年 / レバント海戦にトルコを破り , 世 界海上の支配者となる一方 , 81 年に はポルトガルを手中に入れ , また反 宗教改革の先頭に立って一時全欧州 を制圧した。しかしその強圧支配は オランダの離反を招き , これを支援 するイギリスのエリサベス女王に対 しスペインは決戦を期したが , / 無 敵艦隊が 88 年に大敗北をうけたため , 海上支配権をイキ、リスに奪われた。 一方 , 国内では産業の沈滞をみ , イ タリアの影響をくむルネサンス文化 だけが黄金時代のなごりをとどめる にすぎなかった。次いで 1640 年には ポルトがルの独立を許し , さらに / スペイン継承戦争の結果 , プルポ ン家の / フェリペ 5 世に帰したスペ イン王位は , ネーデルラントやイタ リアに残る領土の放棄をしいられ , その後カルロス 3 世 ( 在位 1759 ~ 88 ) が出て啓蒙的改革をもって国勢再建 に努めたが , 退勢をくいとめること はできなかった 〔最近世〕フランス革命にさいし , 初め対仏大同盟側に参戦したが , 17 95 年バーゼルに講和し , 翌 96 年には フランスとの同盟をしいられた。 18 08 年にカルロス 4 世の宰相ゴドイの 施政に反発する貴族や軍人がクーデ ターを行なった機会にナポレオンの 十渉を受け , ナポレオンの兄ジョゼ フが王とされた。しかし同年 5 月反 仏暴動が起こり , 各地にゲリラ戦が この反仏闘争は民族解 開始された。 放と自由主義的改革を企図する運動 としての性格を帯び , 12 年主権在民 を基調とする憲法を制定 , 14 年のナ ポレオン没落を迎えた。しかしフェ ルナンド 7 世 ( 在位 1813 ~ 33 ) の王政 復古は極端な反動政治を行なった。 これに対し 20 年に軍隊革命が起こっ たが , 23 年に神聖同盟の武力干渉で 打ち砕かれてしまった。 32 年王位継 承をめぐって , いわゆるカルリスタ 戦争が発生 , その鎮圧後はエスパル テロ , ナノレノヾ工ス , オドンネノレらの 将軍による軍人独裁がつづいた。そ れは , 地主貴族の極端な保守派とお くればせながら近代化をはかるプル ジョア勢力との対立 , 王権の下に国 家統一を固めようとする統一派と共 和連邦制をめざす地方分立主義の 対立などが生み出す混乱の反映であ った。その間 , プロレタリア勢力の 台頭と , これに対するプルジョア政 権の反動化が目だった。 68 年カジス の海軍を中心に革命が起こり , 70 年 アオスタ公アマデオを王に迎え , 73 年には共和制をとり , 習 74 年パビア 将軍のクーデターをへて旧王家のア ルフォンソ 12 世の王政復古を迎える。 新王政の下でカノバスの保守党とサ がスタの自由主義諸派連合党が形式 的な議会政治の下に政権交替を重ね たが , その間 98 年 / 米西戦争の結果 , キューノヾの独立 , フィリピンその他 こうした沈 の米国への譲渡をみる。 滞のなかに , ウナムノら「 98 年代の 作家」はスペイン復興の方途をさが し求めたのであった 〔 20 世紀〕ノヾクーニン主義の影響を くむ貧農 , 労働者の騒動や地方分立 主義の運動などの混乱のうちに第一 次大戦を迎え , 中立国として産業拡 大の利を得たが , 戦後の恐慌に大打 撃を受けて激しい労働不安をよび , 1923 年その克服をねらって将軍プリ モ・デ・リべラ ( 1870 ~ 193 のの軍事 独裁が成立した。 30 年 1 月彼が失脚 したのち , 翌 31 年には共和革命が行 なわれ , ワイマル憲法を範として新 憲法が制定されたが , 極右派は CE DA ( 右翼自治連合 ) を結成して反動 攻勢をとり , これに対して労働者は 34 年 IO 月武装決起を伴った総罷業を 行ない , さらに 36 年 1 月には反ファ シズム人民戦線を結成 , 2 月の総選 挙に勝ってアサーニヤ人民戦線内閣 を成立させた。しかし / スペイン内 乱の結果 , / フランコの独裁政権が 確立する。フランコ政府は 39 年 4 月 日独伊防共協定に加わったが , 第二 次大戦には形式的中立を保ち , その ためひとり戦後に生き残った。戦後 の冷戦の激化は 53 年の米国との軍事 , 経済朕定の成立とともに西欧自由 陣営の一翼として同政権をあらため て安定させるにいたった 〔森田〕 スペインの文学 現在知られている最古の文学作品 は , 12 世紀半ばごろ作られた作者不 詳の叙事詩くわがシッドの歌〉で , これはスペイン中世の英雄ェル・シ ッド ( 1043 頃 ~ 99 ) の武勲をたたえた / 武勲詩である。スペイン文学で最 初に激しい個性を表現したのは , 13 世紀の終わりに生まれ , 14 世紀半ば に獄死したらしいイータの僧正ファ ン・ルイスで , その作品くよき恋の 書〉は韻文で書いた恋愛遍歴の自伝 ともいえる , 風刺と自・嘲にみちた ものである。 15 世紀になるとイタリ アのルネサンスの影響が現われ , サ ンチリャナ公爵らの叙情詩が出はし める。散文では王族出のファン・マ ヌエノレのくルカノル伯爵 > ( 1335 ) によって著しい進歩をとげ , また 15 世紀末のロハスの劇曲体の小説くラ・ セレスチナ〉 ( 1499 ) が近代文学の幕 を開く。 16 ~ 17 世紀にスペイン文学 は最盛期を迎えるが , これを「黄金 世紀」という。詩はポスカンやガル シラソのイタリア詩派が起こり , 次 いでルイス・デ・レオンを中心、とす るサラマンカ派と , エレラを中心、と するセビリャ派に分かれ , やがて表 スペイン スペイン ( 補 ) スペイ ンの政治体制は , フラ ンコ統領を独裁者とす るファシズム型といっ てよい。しかし , 第二 次大戦前からのフラン コの独裁に , 最近にな ってようやく民衆の抵 抗が始まっている。す なわち 1961 年に続発し た労働者のストライキ は , 62 年 , 63 年にもうけ つカ { れた。この背景に は , スペインの非民主性 と後進性とのための生 活難 . が横たわっている。 そこでフランコは , ア メリカの援助で経済危 機を乗りきろうとして いるが「自由の守護 者」アメリカカ { 「独裁 国」スペインを援助す ることにはアメリカ国 内でも批判がたえない。
スキー スキー競技のいろいろ。 回転競技は大回転 , 滑 降とともにアルプス地 方に発達しアルべン競 技と総称され , 飛躍競 技 , 距離競技は北欧で 発達したためノルディ ック競技と総称される スキー左は北欧神話 のスキーの神ウル。 17 世紀のラップ族の絵か ら模写したもの。中は 樺太原住民の極地型ス キー。間宮林蔵のく北 蝦夷図説〉より。右は スエーデンのウブサラ 近郊で発見された 1050 年ごろの石碑。ルーン 文字と絵が刻まれ , 左 下に弓をもちスキーを つけた人がみえる。下 は 1911 年高田の練兵場 でスキー訓練を受ける 軍人たちとレルヒ少佐 ( 左から 4 人め ) , 2 人 おいて堀内大佐。太い 1 本づえが特徴的であ る。なお , 札幌農大へ コラーが持参したスキ ーは 2 本つ・えであった 2 5 () - も 0 ミ ( 0 、い " 協 .. 朝い、ふ 、、い、ル、レ嶬、討んツ 謝齢市 スキー ski スキーということ は、は , 元来スカンジナビア語源で , 板または薄い板を意味する。スキー は今日では世界中に普及し , 冬季ス ポーツの王として多くの愛好者をも つにいたった。原始的なスキーの分 布は , スカンジナビア西岸からべー リング海峡にいたるユーラシア大陸 北音ににわたり , その南限はだいたい バイカル湖を中心にして北欧と樺太 を結ぶ線である。日本の周辺では樺 太のストー ( 長さ 1.2 ~ 1. 3m , 幅 20 cm , 裏に毛皮がはってある ) と朝鮮 半島北部の山地にソルナ ( 長さ 1. 6 m くらい , 現在のスキーにもっとも近 い ) がある。前者を極地型 , 後者を南 方型 , 両者を左右にはいて 1 対とす る北方型の 3 類型に大別することが できる。近代スキーはこの南方型の 新生である。 〔沿革〕ビサンチン帝国の歴史家プ ロコヒ。オスは 6 世紀に , また中国の く新唐書 > にはスキーを行なう辺境 民族について記録している。北欧神 話にはスキーの男神ウルと女神スカ ディがある。またフィンランドの泥 炭層から青銅器時代の遺物と推定さ れるスキーが出上しており , スキー の起原をスカンジナビアとする説の 有力な根拠となっている。スキーが スポーツとなったのは 13 世紀の半ば ごろといわれ , 当時ノルウェーでは スキーが国技といわれるはど盛んで あった。その後 , 乗馬の流行におさ れて一時すたれたが , 17 ・世紀末から スカンジナビアでふたたび盛んにな り , ノルウェーでは 18 世紀末に競技 も行なわれた。 1888 年 , 探検家ナン センのスキーによるグリーンランド 横断が文明世界の強い関心をひき , スキーは北欧から中欧の国々にはい った。オーストリアのマチアス・ツ ダルスキー ( 1856 ~ 1940 ) は山地に適 したシュテム技術の新体系を編み出 し , さらにこの技術は / シュナイダ ーに継がれ A. ファンクの映画と著作 で体系化され , 「アールベルク・スキ ー術」として世界的名声をえた 19 24 年の第 1 回オリンピック冬季大会 ( シャモニー ) は北欧種目 ( ノルディ ック ) だけで行なわれたが , 36 年の 第 4 回冬季大会 ( ガルミッシュ・パ ルテンキルヘン ) にはアルべン競技 も加えられ , 普及から高度化の段階 にはいった このころフランスでは シュテム技術に対して平行回転だけ を正しいとするローテーション技術 が唱えられ , 別に外傾技術も現われ たカ { , そのまま第二次大戦にはいっ た。戦後オーストリアは「逆ひわり」 を導入して , 伝統のシュテム技術の 新体系を打ち出し , 現在これが世界 的に行なわれている。 〔日本のスキー〕日本で最初にスキ ーについて記録を残したのは江戸時 代末期の北地探検家間宮林蔵である が , これは前近代スキーである。近 代スキーの受入れは明治末で , 札幌 農科大学 ( 現北海道大学 ) ドイツ語講 師のスイス人 / 、ンス・コラーは 19 ( ) 8 年にスキーを持参し , 本人はすべれ なかったが , 学生にスキー熱をうえ つけた。 1 ( ) 年スエーデン公使杉村虎 ーはスキー 2 組と参考書を陸軍省に 寄贈し , 歩兵第 58 連隊 ( 新潟県高田 市 ) がこれを研究することになった 習 11 年同隊に配属されたオーストリ アの武官テオドノレ・フォン・レノレヒ 少佐 ( 1869 ~ 1945 ) の指導で 1 月に最 初の講習を開始した。レルヒはツダ ルスキーの友人でスキー術の弟子で あり , 受入側では師団長の長岡外史 の命で連隊長の堀内文治郎が委員長 となり , 10 名の将校が指導を受け , やがて世界に例のない急速確実な普 及の実をあげ , 日本のスキーの基礎 を築いた。日本最初のスキー競技会 は 12 年 1 月高田市郊外金谷山で行な われた。一方 , 札幌農大では 12 年に スキー部を創設 , 競技に登山に開拓 活動をした。以後日本のスキー界は 欧州とだいたい同し経過をたどるが 続く 1 ( ) 年間に全国的な普及をとげた。 23 年には初の全日本選手権大会が大 日本体育協会の手で開かれ , 25 年全 日本スキー連盟が結成され , 翌 26 年 国際スキー連盟 F I S に加入した。 28 年オリンヒ。ックの第 2 回冬季大会 ( サ ンモリツツ ) へ初出場 , 翌 29 年には ノルウェーの選手を , 続く 30 年には シュナイタ、・一を招き , 全領域に技術 的躍進をとげた。第二次大戦後 , ス キー人口は増加の一途をたどリ , 現 在数百万人といわれている。 54 年に はアンリ・オレイエがフランス技法 を伝えたが , 57 年以降トニ
飛琩螺鈿箱無 8 世紀後半長径 39. 20E 銀の薫炉 8 世紀前半横径 18cm 飾大刀 8 世紀前半長さ 98.8cm 8 世紀前半長さ 54.9cm 金銀平脱横刀 木画箱 8 世紀後半長さ 44cm 0 、 ( :. 、 : - 00 = ' ぐ 0 ・・く -00 く一一 - く 0 、ぐく 0 く = く ( く = 0 くぐくく 0 くくくく・く 0 、く をこ第 く ( くぐ《《く・ 正倉院 4
4 2 6 ゼウス ャフナ王朝 , 南部ではコッテ王朝 , カンディ王朝が支配した。しかし , 1505 年のポルトガル人の来島は , の島を欧州に結びつけることとなり , ローマ・カトリック教などが紹介さ れた。次いで 17- 世紀初頭にはオラン ダ人が来島し , セイロンの農業を自給 から商品生産に切・り換えさせ , コー コショウなどの栽培をひろめ た。宗教面ではプロテスタントが普 及した。さらに 18 世紀後半からは英 国の勢力が強まり , 英国は 1815 年に ら特産品生産の主体はプランテーシ とくに聖なる山として有名である。 セイロンの王統を断絶させるととも インドとの間のポーク海峡は , サン ョンで , しかもその大半を英国資本 に全島を支配下に置いてその植民地 が支配している。工業はあまりない。 ゴ礁が発達してアタ、、ム橋という砂り料 とし , 1948 年イギリス連邦内の自治 をつくっている。季節風の影響で , 1959 年第 3 次計画として経済 1 ( ) ヵ年 領として独立するまで続いた。 8 世 乾季と雨季があり , 南西季節風は 5 計画を発表。 64 年 9 月日本は総額 16 ( ) 紀まで王都であったアヌラーダブラ 万 ~ 2 ( ) ( ) 万ドルの借款供・しを約束した。 月中旬から 10 月まで続き , 南西岸に や 8 世紀以後の首都ポロンナールワ 多雨をもたらし , 北東季節風は IO 月 には遺跡が多い。 〔斉藤・蝋山〕 〔増原〕 ゼウス Zeus ギリシア神話の最 から 11 月中旬に比較的少ない雨を降 〔歴史〕セイロンの名称はサンスク 高の神。ローマの / ジュピターにあ らす。 リット語のシンハラ・ドビーノヾ S im- 原住民であるべッダ族は少数が南 たる。チタン神族の末子クロノスと h a la-dvi pa ( 獅子ヒの島 ) から出たも レイアの子。わが子に王座を奪われ の森林地に残存するのみで , 全人口 ので , アラビア人がそれをなまって るとの予言を得たクロノスは , 生ま の 68 % は , 北インドから古く移住し サラン・ディープとよび , さらにポ ルトガル人がそれをセイラーン Ce i - れた子を次々にのみこんだか、 , レイ たシンハリーズである。南インドか 悁。とよんだことに由来する。セイ アは最後の子ゼウスの代わりにうふ、 らの新しい移住者タミル族は 23 % を セイロン ( 補 ) 1964 年 ロンの歴史は , 前 5 世紀の前半 ( 一 着にくるんだ石を夫にのみこませ , 占めるが , 公民権をもつものともた 12 月 , 閣内不一致のた ひそかにゼウスをクレタ島のほら穴 説では前 4 世紀 ) インドのグジャラ ないものが半々で , 公民権のないタ め議会は解散。 65 年 3 に隠し , ヤキ ( アマルティア ) の乳で ト地方のシンハリーズの王子ビジ ミル族の取扱いが , いつも大きな問 月の総選挙の結果 , 保 ヤが故国をのがれて来島したことに 育てた。ゼウスはのちに父に薬を飲 題になる。ほかにムーア人 6 % , オ 守党の統一国民党に敗 れてノヾンダラナイケ内 始まる。彼は南インドのパーンディ ませて兄弟たちを吐き出させ , 彼ら ランダ , ポルトガル人の混血である 閣は辞任。新政府は統 ャ国の王女をめとって王位につき , ガ、一などか、住んでいる。シンハ の助けで父とチタン神族を滅は、し 一国民党中心の連立内 その子孫が前 4 世紀ごろまであいつ リーズは大部分仏教徒でシンハリ ( この戦いをチタノマキアとよぶが 閣で , 首相はセナナヤ ズ語を話し , タミル族はヒンズー教 いで統治した。前 3 世紀の後半 , ア / ギガントマキアと混同されやすい ) ケ。非同盟外交は不変 徒でタミル語を話す。ムーア人はイ ショカ王の王子マヒンダがインドか 天空と地の支配権を得てオリンポス だが , 反中国 , 対米接 ら仏教を伝えた。当時の国王デー 山に住み , 神々と人間の長として秩 スラム教徒。キリスト教徒は約 70 万。 近の方針をとっている。 ナンヒ。ヤ・ティッサはすぐさま帰依 序 , 正義 , おきてなどをつかさどっ 〔政治〕第二次大戦後の 1946 年に憲 た。兄弟にポセイドン , ハデス , 姉 して , 首都アヌラータ、、プラにティッ 法が制定され , 48 年 2 月イキ、リス連 サーラーマ精舎を建てた。これか・の 妹にヘラ , デメテル , へスチアがあ 邦内の自治領として独立したが , 前 ・ビハーラ ( 大寺 ) の起原 り , ヘラを妻とした。ヘラをはしめ 年の協定により英軍に軍事基地を許 であり , セイロン上座仏教確立の基 多くの女神や人間の女との間にたく すなど , 英国の影響力がかなり残さ 礎となった。前 2 世紀には南インド さんの子どもがある。すなわち , ア れた。 56 年 4 月の総選挙でノヾンダラ ポロン , アノレテミス , 、ノレメス , ー からタミル族が侵入 , 支配し , また ナイケ首相の率いる人民統一戦線が 前 1 世紀後半には大ききんが起こっ ファイストス , アテナ , アフロジテ , 大勝して組閣 , 英国がら基地の返還 ペノレセフォネ , ディオニソスらの神 このとき , インドに先がけてシ た を実現し , 共和制の準備や外国資本 神 , 人間ではベルセウス , ヘラクレ ンハリーズ語による仏教聖典の書写 国有化の方針を明らかにするなど , が行なわれたと伝えられている。紀 ス , 美女ヘレネ , ミノスらか、ある 民族主義的な色彩が強まった。しか そのほか各都市の先祖になっている 元前後のころになると , ノヾッタが一 し 56 年英語にかえてシンノ、リーズ語 ものに彼の子が多い。また彼が白牛 , ・アノヾヤ王がアノヾヤギリ・ビ を公用語にすることを決めたため , ハーラ ( 無畏山寺 ) を建てた。大寺が ハクチョウ , 黄金の雨などに変身す タミル族の抵抗が激しくなり , 政情 保守的伝訊的セイロン仏教の中心で るのも他の神々にみられないことで 不安が続いて , 59 年 9 月首相は暗殺 あったに対して , この無畏山寺は進 ある。 された。 60 年の総選挙で故首相の未 ホメロスによれば , ゼウスは絶対 歩的な態度を持し , 以後十数世紀に 亡人バンダラナイケ夫人 ( 1916 ~ 的の権力をもち , 気象現象を支配し , わたって両者は互いに対立を続けた が率いる自由党が勝利し , 彼女は世 雷といなびかりを放ち , あらしを起 9 ~ 12 世紀にかけては , セイロンは 界で最初の婦人首相となったが , 61 こした。ゼウス名の語源はインド・ 南インドと盛んな交渉をもったが , 年初のシンハリーズ語の公用語切換 ヨーロッノヾ語族の dyeus, diw( 空の その反面 , タミル族の侵入に悩まさ え実施で , 4 月ふたたび非常事態が 意 ) で , ギリシア人が北方から侵入する れもした。しかし 12 世紀のパラーク 宣言された。外交的には , 中立主義 ときに伝えた神であるが , それが先 ラマ・ / ヾーフ 1 世はセイロン中興の をとった。 住民族の神々と結びついて , 新たに 英主として有名であり , 政治体制を 〔経済〕農村人口が全人口の 85 % を 多くの神話が生したとみられ , 多く 整備するとともに , 1 ( )( ) ( ) 以上のかん 占める農業国。既耕地は国上の約 20 の子どもがあるのもそのためである。 がい湖 ( タンク ) をつくった。また彼 % 。茶 , ゴム , ココナツツの特産物 は仏教教団の浄化をはかり , 大寺を 聖獣はワシ , 聖樹はカシ。オリンヒ。 を輸出して , 主食の米の大半 , 衣料 アとドドナに崇拝の中心があった を輸入する。ことに紅茶の生産は量 , もって全セイロン仏教を統率させる / キ、リシア ( 神話 ) ことにした。次いで 13 ~ 18 世紀にか 質ともに世界的に有名である。これ 〔高津〕 セイロン左は青銅の 観音座像 , 11 世紀ころ。 右はン一キ・リヤの「獅 ーに 22 人の美 女の壁画がある。