ルキ、一総需要の中に占める石炭の地 位は 1957 年の 46 . 1 % から 64 年は 24 . 5 % に落ち , 政府の保護政策にもかか わらす , 64 年の出炭量 5()()() 万トン強 を維持することが問題となってきた。 〔鉄鋼産業〕あらゆる産業の基礎で ある鉄鋼は最近ますます重要性を加 えている。工業の急速な高度化によ って鉄鋼多消費型産業が発展し , そ れが鉄鋼の飛躍的な発展を促進して いる。 1964 年の生産量は銑鉄 2377 万 トン , 粗鋼 398 ( ) 万トンで , 粗鋼生産 高は西ドイツを抜き , 米国の 3 割弱 にまで成長した。 〔機械産業〕機械工業は金属 , 化学 工業と並んで工業高度化のにない手 である。製品は産業機械 , 工作機械 , 電気機械 , 自動車 , 船舶 , 精密機械 などきわめて多種類におよぶが , 最 近の生産増加は鉱工業の中ではもっ とも急速で鉱工業生産額の 30 % を占 め , 現在の産業発展期の主導的役割 を果たしている。 1964 年の生産状況 は工作機械 13 万台 , 電気冷蔵庫 32 ( ) 万台 , テレビ 52 ( ) 万台 , 自動車 17 ( ) 万 カメラ 459 万個 , 船舶 226 万トン などである。 〔石油化学産業〕工業の重化学工業 化によって化学工業は急速に発展し ているが , そのなかでも花形なのは 石油化学工業である。石油化学は石 油や天然ガスを原料とするが , 最終 製品は合成繊維 , 合成樹脂 , 化学肥 料 , 合成ゴム , 洗剤など広範にわた り今後の発展がもっとも期待される 産業である。石油化学工業は 1958 年 に生産が開始されて日が浅いが , 6() 年の石油化学製品生産額は 2394 億円 に達し , 化学工業全体の生産額 1 兆 4655 億円の 16 . 3 % を占めている。 〔繊維産業〕戦前の繊維工業は日本 産業の主役であったが , 戦後は重化 学工業の発展によってその比重は小 さくなっている。しかし繊維工業の なかでも綿糸などの天然繊維と , ナ イロンなどの合成繊維では事情はま ったく異なる。前者は斜陽産業であり , 後者は成長産業である。 1964 年の生 産量をみると , 天然繊維の代表格で ある綿糸は 51 万トンで戦前の 8 ( ) % 程 度であり , スフ , 人絹など再生繊維 の生産は戦前をかなり上回っている 5 が , スフを除きいすれもこの 4 , 年間は停滞ないし減少している。 れにひきかえ , ナイロン , テトロン , ビイニロンなどの合成繊維はひきつづ き増加し , 64 年の生産量は 34 万トン で , 1960 年の 3 倍ちかくになってい る。しかし天然繊維 , 再生繊維合 成繊維は繊維としてそれぞれ長所 , 短所をもっているから , これらを混 紡 , 交織した複合繊維が今後イ申びる 傾向にある。 〔工業の高度化〕経済が成長してく るにしたがい農業国はしだいに工業 国へと発展し , 工業国は軽工業より 6 3 4 も重化学工業の比重が高まってくる。 このような傾向を産業構造の高度化 , 工業の高度化という。軽工業は紡績 , 製材木製品 , 食料品などの消費財産 業であり , 重化学工業は鉄鋼 , 非鉄 金属 , 機械 , 化学および石油石炭製 品の生産財産業から成り立っている。 重化学工業は軽工業よりも生産の機 械化や自動化が進んで生産性が高く , また賃金水準や生産されたもののな かから所得となる割合 ( 付加価値率 とよばれる ) や技術水準も高い。日 本の工業は最近急速に発展している が , それには工業の高度化という とが背景となっている。日本の工業 生産の構成をみると , 軽工業と重化 学工業との割合は戦前では 1928 年 ( 65 . 2 : 34 . 8 ) , 35 年 ( 47 . 3 : 52 . 7 ) , 戦後では 5 ( ) 年 ( 5 ( ) : 5 の , 55 年 ( 48 . 4 : 51 . 6 ) , 63 年 ( 3 ( ). 9 : 69.1 ) で , 両者の 比率は戦前と戦後では逆転し , 重化 学工業化が進んでいる。また戦前の 工業の中心的地位を占めていた繊維 工業は 1928 年の 46 . 9 % から 63 年には 11.7 % となって著しくその比重が小 さくなっている。一方 , 重化学工業 のなかでは機械工業の比重が急速に 高まり , とくに電気機械は 1928 年の 1 . 2 % から 63 年には 9.4 % となってい る。さらに戦後だけについてみると , 重化学工業化の進みぐあいは 1955 年 ごろまでは目だった動きをしていな いが , 56 年以降になると急速なスピ ードで進展しはしめている。生産技 術の進歩は各工業部門の生産性を向 上させる効果をもっているが , 最近 生産性の伸びのとくに著しいのは電 気機械 , 輸送機械 , 合成化学 , 石油 精製 , 鉄鋼などで , これらはいすれ も重化学工業部門に属している。 〔技術革新〕工業の高度化には技術 革新がその基盤となっている。技術 革新は単に技術進歩だけにとどまら す , 企業の経営組織や市場の開発な どを含んだ経済発展の原動力を意味 するが , 日本の技術革新は諸外国に 比べてきわめて急速に進展している。 その理由は , 石油化学 , 合成化学 , 電子工業などのように欧米の先進国 で最近開発され工業化されている新 しい分野と , 乗用車 , 産業機械 , 石 油精製などのように先進国において すでに過去に工業化され日本では従 来遅れていた分野の技術進歩が短期 間のうちに同時集中的に行なわれて いるからである。これがまた工業の 成長と高度化のスピードを速めてい る。そして技術革新を行なうために はまた多額の設備投資を必要とする が , 戦後の民間設備投資は 1947 ~ 55 年の間に 2 倍に増大したが , 55 ~ 64 年の間には 6.2 倍に増大している。世 界の主要工業国における最近の重化 学工業化の進展ぶりと設備投資の増 大ぶりを比較してみると , 重化学工 業化の速度の速い国ほど設備投資の 増加率が大きくなっている。 〔消費革命〕技術革新は工業の内 では重化学工業化という面に大きく 反映されているが , それはまた新製 品の造出や消費 , 輸出 , 資源など 各方面に激しい構造変化をもたらし ている。 1 ) 現在新製品とよばれ技術 進歩の著しい商品ははとんど重化学 工業製品である。戦後日本で生産さ れた新製品をみると , 1956 ~ 57 年こ ろまではプラスチック , 合成繊維の 比重が大きかったが , 58 ~ 59 年ごろ からテレビ , トランジスタをはしめ とする家庭用電気製品が大量普及し , 6 ( ) 年ごろから乗用車が本格的に台頭 してきた。 2 ) 最近の消費構造の変化 は「消費革命」といわれるはど急速 に進んでいる。 1955 ~ 64 年の間に日 本の消費水準は約 70 % 伸びているが , 1956 年を基準にして 64 年までの 8 年 間にナイロン , テトロンなどの合成 繊維 7.8 倍 , テレビ 12 . 7 倍 , 電気冷蔵 庫 36.6 倍 , 扇風器 7.7 倍などと国民 消費量が激増している。このような 消費構造の変化がまた日本の急速な 重化学工業化の進展をおし進めるう えに重要な役割を果たしている。 3 ) 日本の輸出産業は従来繊維 , 雑貨な どの軽工業製品に片よっていた。し かし最近の世界市場では重化学工業 製品や耐久財を中心とする高級消費 財に対する需要の増加が著しい。そ のため輸出を伸ばすためにはどうし ても重化学工業製品の輸出に努力す る必要がある。日本の輸出総額のう ち重化学工業製品の占める割合をみ ると , 戦前は 2 ( ) % にも満たなかった ものカゞ 1953 年には 34.3 % , 55 年 36.2 % , 57 年 4().5 % , 60 年 44 . 4 % , 64 年 57.1 % というように年々しだいに上 昇している。また重化学工業製品の なかでも従来は比較的加工度の低い ものが多かったが , 最近では加工度 も高く , 高度の技術を必要とする機 械や新製品の輸出の増加が著しい。 4 ) 工業高度化の進展につれて工業の 資源依存の型も変わってくる。技術 革新の結果 , たとえば合成繊維の出 現によって , 綿 , 羊毛 , 麻などの天 然資源の比重は低くなり , またプラ スチックは原皮 , ゴム , 木材などの 代わりに使われるようになった。ま た技術革新は , エネルキ、一の消費構 造をも変化させた。エネルギー革命 といわれているように従来主要な工 ネルギー源であった石炭は石油へ , 原子力へと資源転換が進んでいるが , 石油も , 原子力も石炭に比べて豊富 安価で機械的に自動制御できる技術 上の有利さをもっているから , それ は逆に技術進歩の向上にも役だって いる。日本の工業発展にとって資源 に恵まれていなかったことが従来一 つの大きな障害になっていたが , 技 術革新によって現在ではこのような 制約はしだいに消滅しつつある。
4 1 5 とくに高火磁器は強度が大なので高 陶磁器の製造工程 級食器として適する。軟磁器は融剤 を多く含んでいて 1200 ℃程度で磁器 化する。素地もうわぐすりも強度が あまり大きくないので , 実用品には 不向きだが , 彩色がしやすいので美 術工芸品に適する。 3 ) 生産陶磁器は新石器時代に上器 4 としておこり , その後 , しだいに発 下絵付け 達して , 成形方法や焼成方法 , また うわぐすりをかける方法などに進歩 , 成形 素焼き釉掛け本焼き 5 改良が行なわれ , 日用品材料 , 上建 色釉掛け 材料 , 美術品などとして重要なもの 陶磁器は , 製造工程のうち焼成の方式の組合せの違いによって特色がでる。 1 土器の となった。西洋では中世以後 , 各国 焼成工程で , 製造費がもっとも安い。 2 陶管やかめの焼成に用い , 食塩釉の揮発性を においてそれぞれ独特の発達をとげ , 利用して安価にうわぐすりを掛ける方法。 3 衛生陶器 , 釉がわら , タイルの焼成に用 民間や国立の工場が多数建てられる い , 成形した器にしかにうわぐすりを掛けて焼成するので生カぐけともいう。 4 , 5 食器 , ようになった。東洋においては , 中 工芸品などの焼成工程。一般に , 陶器は 4 → b → 1 , 5 → a → 1 で , 磁器のうち和食 器は 5 → a → 1 , 洋食器は 5 → a → 1 , 5 → a → 2 , 半磁。器では 4 → b → 2 の工程を 国および日本において西洋に劣らな とる。彩色方法により他の工程も用いられる。図のうち灰色の部分は高温作業を示す い発達をし , とくに磁器の製造技術 きり描いたつは、 ( 壺 ) や , はち ( 鉢 ) で , 材質が用いられるが , 高温で使用す は , はるかに進歩していた。日本の る場合には , アルカリ成分の少ない 技術は , 初めは中国よりの輸入であ 西アジア文化の影響によって生まれ ったが , 国内各所の優良な原料産地 ムライト磁器 , アルミナ磁器 , べリ たものといわれる。これについで / 黒 を中心として , その地方に特色のあ リア磁器などが適する。高周波絶縁 陶や / 白陶 , 灰陶などが現われ , 殷 る陶磁器工業が発達した。それらは 体磁器には , 誘電体損失の少ない滑 周土器を代表する。とくに灰陶はそ 今日でも何々焼きという名でよばれ 石磁器 , フォルステライト磁器など の後も長く実用品として一般に使用 ているものが多い。しかし近代工業 が適する。誘電体磁器には誘電率の された。灰陶のなかには , 窯の中で としての陶磁器工業は , 大都市を中 大きいチタン ( チタニア ) 磁器 , 各種 灰が降りかかって自然にうわぐすり 心として工場が建てられるようにな チタン酸塩磁器が使用される。磁性 を生したものがあるが , さらに意識 り , また電気材料を中心とした特殊 体磁器には透磁率の大きい逆スピネ 的に灰を土とともに溶かして塗り , 陶磁器工業が発達してきた。陶磁器 高い火度で焼いてうわぐすりを生し ル型フェライト質の磁器が用いら させた灰釉陶がある。これは中国最 の総生産量は年約 114 万トン ( 1964 ) れる。 初のうわぐすりのかかった陶器であ 2 ) 耐熱磁器難融性陶磁器と低膨張 で , その約 44 % が建設用品のタイル 類 , 29 % が台所 , 食卓用品 , 8 % が電 性陶磁器があり , 難融性陶磁器には り , 世界最古の強火釉 ( 高火度で溶 気用品 , 7 % がおもちゃ , 置物類であ 融点の高いアルミナ A し 03 , べリリ けるうわぐすり ) であって , まさに る。おもちゃ , 置物類の 84 % , 台所 , ア BeO, ジルコン Zr02 ・ Si02 , トリ 磁器の母体である。 a. 漢 , 六朝う時 食卓用品の 49 % をふくめて全体の 43 代西アジアから新しい製作技術が ア Th 0 などの鉱物が用いられる。 % が輸出に向けられており , 日本の 方 , 急熱急冷に耐えるには低膨張性 中国にはいって , 鉛を混せた , 低い 重要輸出産業の一つとなっている。 火度で溶けるうわぐすり ( 緑釉 ) が使 陶磁器が適し , コージェライト 2Mg 〔特殊陶磁器〕特殊陶磁器は原料鉱 O ・ 2A1203 ・ 5Si02 , ュークリプタイ 用されたが , 日常には一般に灰色の ト Li20 ・ A し 03 ・ 2Si03 などを組成 物の電気的性質 , 磁気的性質 , 熱的 かたい上器が用いられた。漢代につ づく六朝時代になると , オリープ色 とする鉱物が使われる。 性質 , 機械的性質などの特殊な物性 3 ) 硬質磁器耐摩用磁器と工具用磁 や黄かっ色のうわぐすりのかかった を利用するものである。特殊陶磁器 は用途によって分類すると , 電磁気 器があり , 耐摩用磁器には , かたさ かたい陶器が各地で盛んに作られた と同時にわばりのあるアルミナ , チ その製作の中心地の名をとって , ふ 用磁器 , 耐熱磁器 , 耐食磁器 , 硬質 タン , ジルコンなどが応用される。 つう / 越州とよばれている。 b. 唐 磁器 , 多孔質磁器となる。材質的分 工具用にはアルミナ , 各種炭化物の 代中国各地に陶磁器を焼く窯場が 類は , アルミナ磁器 , ムライト磁器 , 磁器がある。とくにチタン磁器は , おこり , 日常生活に使用されるまで 炭化物磁器 , 滑石磁器 , チタン磁器 , になった。なかでも名高いのは , 前 かたさは小さいが糸のような柔らか スピネル磁器 , ジルコン磁器などの ように製品を形成する主鉱物の名や いものの摩擦には大きな抵抗性を示 代以来の越州窯の / 青磁 , 河北省の 原料鉱物の名を付けてよぶことが多 すので , 紡糸用スピンガイドとして 邪州窯の白磁 , 景徳鎮の前身であ い。製法は材質によって異なり , 普 る昌南窯の白磁や湖南省の岳州窯の 最適である。 〔山口〕 通陶磁器のように粘上を配合するこ 陶磁器の歴史 青磁 , 四川省の大邑窯の白磁などで , とによって粘性 , 塑性を与えて成形 いすれも唐代の代表的な陶磁器であ 世界の陶磁器の歴史は大きくみて , を容易にすることができないので , / 土器から陶器へ , 陶器から磁器へ る。なお漢代以来の低火度の緑釉も , プレス成形することが多い。焼成温 としだいに進歩してきた この時代に大いに発達した。いわゆ こでは 東アジアにおけるその発達と , 西ア る / 唐三彩がそれで , 貴族文化にふ 度は原則としてその構成鉱物の結品 ジアと欧州における発達とにわけて さわしい華麗さを示した。唐文化は がよく発達する温度が必要であるか 近隣の諸国に大きな影響を与えたが , ら , 材質によって大いに異なり , 1000 述べる。 ℃前後から 2000 ℃以上を必要とする これに伴って陶磁器の製作技法もま 〔東アジアの陶磁器〕 1 ) 中国世界 た各国に伝えられた。 c. 宋代技術 ものまである。 でもっとも陶磁工芸の発達した国で , 1 ) 電磁気用磁器絶縁体磁器 , 誘電 磁器のまたの名を「チャイナ」とよ 的にも美しさの点でも空前絶後とい 体磁器 , 磁性体磁器 , 半導体磁器が われる , さまざまのいわゆる宋磁 ぶように , 最初に磁器を作り出した ある。絶縁体磁器には常温絶縁体磁 ( / 宋 ) が作り出された。宋代の陶 のは中国である。中国最古の陶磁器 器 , 高温絶縁体磁器 , 高周波絶縁体 は彩陶 ( アンダーソン上器 ) である。 としては , ます北宋代に首都注京 磁器の区別がある。低周波または直 に近い河北 , 河南地方におこったい これはよくみがいた黄かっ色の器面 流の常温使用には普通陶磁器と同し に , 黒や赤で渦巻や幾何模様をくっ くっかの窯が名高い。とくにすぐれ トウジキ 2 締焼き 食塩釉焼き 本焼き 成 配合原料 配合原料 配合原料 品品品 製製製 成形 成形 締焼き 釉掛け 色釉掛け 色釉掛け 成形 上絵付け上絵焼き 締焼き下絵付け釉掛け 釉焼き 3 1 配合原料 1 上絵付け上絵焼き 2
チェケッチ チェコスロ / ヾキア ( 補 ) 第一次大戦後の共和国 時代のなごりで , 今も 大統領制をしいている ( 社会主義国としては 珍しいことで , チェコ とユーゴだけ ) 。今の 大統領は , 1964 年に選 ばれた ( 3 選 ) A. ノボト ー ( 1904 ~ ) で , 任 期は 5 年。彼は , この 国でただーっの正攵党で ある共産党の第一書記 をも兼ねる。共産党の 党員数は約 17 ( ) 万人で ある。兵役は義務兵役 制 ( 2 年 ) で , 総兵力は 23 万。なお , この国の 社会主義建設は 196 ( ) 年 代になってから , やや 停滞ぎみで , 63 ~ 70 年 の新七ヵ年計画を実施 中だが , 63 年にも工業 生産の発展はわすかな がら低下した。 は両地の所有者 ( または地上権者 , 永小作権者など ) の間の契約により 設定され , 登記をすれば第三者にも 対抗しうる ( たとえば承役地の地主 がかわっても , なおこれに対して地 役権を主張できる ) 。 〔遠藤〕 チェケッチ Enrico Cecchetti 1850 ~ 1928 イタリアの舞踊教師。 舞踊家であった両親に学び , 1870 年 スカラ座でデビューして以来欧州各 地で踊ったが , とくに教師として高 く評価され , 9 ( ) 年ロシア帝室バレー 学校 , 1909 年ディアギレフー座 , 18 年ロンドンで学校を開設。この間 , ジンスキーやアンナ・ノヾプロワら の各舞踊家 , マシーン , ド ・ / ヾロ - ア リファールらのすぐれた振付家を育 てた。その技法は , チェケッチ・メ ソードとして今もなおひろく用いら れている。 〔秋山〕 チェコスロ′ヾキア Czechoslova- kia 正称 Ceskoslovenskå Sociali- stickå Republikao 欧屮 l•l の中心、音にに ある社会主義共和国。古来この地方 を制すれば , よく欧州を制すること カ { できるといわれている。国境は北 はポーランド , 西は東西ドイツ , 南 はオーストリア , ノ、ンガリー , 東は ソ連に接しており , 東西に長く約 750 km , 帯状の内陸国である。面積 127869km2 , 人口 13951000 ( 1963 ) 。首 者にはプラノ、。 〔自然〕地形は西部のポヘミア地塊 , 中央のモラビア低地 , 東部のスロノヾ キア山地の 3 部分に分かれる。 / ポ ヘミアは 3 方をズデーテン山地 , 工 ルツ山脈 , ポヘミア森に囲まれた工 ルべ ( ラベ ) 川流域の盆地 , また / モ ラビアはドナウ川の支流モラノヾ川の 沖積平野である。 / スロパキアはカ ート山脈の西部を占め , ノレ / ヾ チェコの最高峰ゲノレラホフカ山 2663 m がそびえている。気候は , 西欧の 海洋気候から東欧の大陸気候への漸 進地帯であり , 比較的温和で , プラ ハの年平均気温は 9 ℃ ( 1 月一 1 ℃ , 7 月 19 ℃ ) , 降水量は 486mm 。 〔住民〕住民はチェク人 ( 67 % ) とス ロノヾキア人 ( 28 % ) が主で , そのほか ドイツ人 , マジャール人 , ポーラン ド人 , ウクライナ人などがいる。ロ 語は西スラブ語系のチェク語とスロ ノヾキア語が公用語となっている。 〔政治〕政体は 1948 年以来社会主義 体制となり , 60 年 7 月 11 日制定の新 憲法は , チェコスロパキア共産党を 「社会および国家における指導権力」 と規定している。共産党は 19 21 年創 立され , 第二次大戦終了時は党員 2 万にすぎなかったが , 戦後急速に発 展した。元首は大統領で , 議会は一 院制の国民議会 , 政府は首相 , 副首相 , 閣僚からなる。ただしスロノヾキア地 区にはこの地区の立法 , 行政をつか さどるスロパキア民族会議がある。 〔産業〕 . 凍欧諸国中第 1 の工業国で , 2 古くから西欧文化を吸収し , 農業地 帯のスロパキアを除き工業が高度に 発達している。おもな工業は , 機械 , ヤ金 , 繊維 , 兵器 , 金属 , 皮 , ガ ラス , 化学、陶器 , 本材 , ビールな どで , 東欧諸国とくらへて , 鉄鋼 , 銑鉄の生産はポーランドとはは・同し くらいである。また 埋蔵資源も豊 富で , 石炭 , 鉄 , 銀 , 銅 , 鉛 , 岩塩 など多種類があり , とくに石炭は東 欧諸国中ではポーランドに次いで第 2 位を占めている。ウラン鉱の埋蔵 量もかなリ多く , ソ連からの長期借 款によって採掘が行なわれ , 主とし てソ連に輸出されている。工業の国 有化は完全に行なわれている。農業 はスロパキア地方が主要耕作地帯で , 小麦その他の麦類 , ジャガイモ , サ トウダイコン , トウモロコシ , ホッ プ , くだものなどを産出する。農業 経営は , どんどん国営化しており , これと農業生産協同組合経営とを合 わせると , 集団経営の農業は , 全耕 地面積の 92 % ( 1962 ) になるといわれ る。貿易はソ連をはしめとする社会 主義諸国との取引が多く , 貿易総額 この種のもので のだいたい 7 ( ) % カミ、 ある。最近 , 中東や東南アジア , 南 米方面にも進出しはしめている。主 要輸出品は工業用機械設備 , 化学製 品 , 車両 , 兵器などで , 輸入品は農 産物 , とくに穀物が多いが , ソ連か らマンガン鉱や合成ゴム , もめんな ども多量に輸入している。最近は東 欧諸国経済相互援助会議 ( 略称コメ コン ) の企画する , 国家分業の重要な 一翼をにない , 機械生産などで , 大 いに社会主義諸国の工業的発展に寄 与している。とくに兵器とくつの生 産は古い歴史をもち世界的に著名。 〔社会〕疾病保険 , 労働不能年金 , 老齢年金 , 多家族扶助金など社会保 険 , 社会保障制度が完備し , 消費物 資価格の引下げなど国民の福祉向上 のための政策カヾ進められている。国 民の生活水準はソ連も含めた社会主 義諸国の中でいちばん高い。失業者 はなく , 婦人労働が奨励されている。 このために乳幼児を預かる託児所や 幼稚園が職場あるいは地域ごとに設 けられている。家事も社会化されて 洗たく , っくろい , 買物などをひき うける「解放された家事」とよばれ る施設が発達している。また教育も 普及していて 7 ~ 15 歳の子どもは全 員無料で一つの学校で 9 年間の教育 か・受けられる。学校数は 12052 ( 1963 ~ 64 ) , 生徒数 226 万。次の課程に 3 年 制の上級学校 , 実業学校 , 教員養成 学校 , 大学がある。最近 11 年制の普 通教育の学校ができた。 〔文化〕マスコミ関係では , 現在チェ コには 1515 種の新聞と雑誌が発行さ れている。いちばん権威のある新聞 はプラハで出ている共産党機関紙 くノレーデ・プラーポ〉で , 約 110 万音に , それに次いではプラチスラノヾで出て いるくプラウダ > で , 約 3 ( ) 万音に。海 外に出ている国情紹介のグラフ雑誌 にくチェコスロノヾキア・ライフ〉が ある。その他放送機関として国営 チェコ放送がある。チェコ人の民族 的自覚が高まったのは 18 世紀半ばこ ろからで , 19 世紀になるとすぐれた 文学者が現われはじめた。歴史劇や 民話劇を書いた J. K. ティル , 民話 を集め書きかえた婦人作家ネムツォ チェコ近代詩の父といわれ革 命的なジャーナリストでもあったヤ ン・ネルダらがそれである。また 2 ( ) 世紀の作家としてはチャベク兄弟 , 第一次大戦中の兵十たちの様子を風 刺的に描いたくよき兵十シュべイク > の作者ハシェクらがいる。 1881 年国 民の総力を結集してプラハに建てら れた国民劇場は , オーストリアの圧 迫に対する政治的デモンストレーシ ョンでもあったし , 演劇 , 音楽の発 展に大きく貢献した。チェコはスメ タナ , ドボルジャク , ヤナチェクら の作曲家を生み , プラハは欧州一流 の音楽都市でもある。毎年開かれる 「プラハの春」という音楽祭は名高 い。また人形劇にすぐれ , コペッキ スクーノヾらの人形使いを出して いる。戦後は人形劇映画が盛んに作 られている。一方 , 体操の伝統も長 く , 戦後 5 年にいちど開かれる「ス ノヾルタキアード」には全国から若人 が集まり集団体操 , 民族舞踊をくり ひろげる。 〔相場〕 〔歴史〕チェク人とスロパキア人は 前 5()0 年ごろ今のチェコスロノヾキア 地域に住んだスラブ族の 1 グノレープ から発生した。 7 世紀に最初の王国 サモカ { , 9 ~ 1 ( ) 世紀には大モラビア 侯国が形成された。 10 世紀には中欧 に進出したマジャール人の支配下に 置かれ , 16 世紀以後 / ハプスプルク 家の支配にはいった。チェコスロノヾ キアの建国は , 第一次大戦でドイツ 帝国およびオーストリア・ノ、ンがリ ー帝国が崩壊したのち , 1918 年月 のことである。そして 12 月民主主義 的共和制を根幹とした憲法を制定し , マサリクを初代大統領とし , クラマ ルシュを首班とした初代内閣の成立 をみた これはポヘミアおよびモラ ビア地方のチェク人が民族の自由を 奪われてから約 300 年 , スロノヾキア地 方のスロノヾキア人にとっては約 1()()() 年りの独立であった この国はべ ルサイユ条約などによって領土問題 を確定したのち , 30 年代の初めころ までは中欧の一国家として繁栄した。 しかしドイツでヒトラーが政権を握 りドイツ人の大同団結を主張してく ると , スデート ( ズデーテン ) 地方に 住むドイツ人は , 38 年 , 完全自治を 要求した。 ミュンヘン会談に現われ たズデーテン問題をめぐる列国の対 ドイツ政策の失敗が , 第二次大戦の
各種の動物がひろびろとした場所に 飼育されている。しかし一般に欧羽ヨ の動物園はあまり広くないものが多 く , たとえばロンドン動物園は約 1.4 万 m2 , アムステルダム動物園は約 11 万 m2 , フランクフルト動物園は約 1() 万 m2 , ハーゲンべック動物公園は約 20.2 万 m2 で , 割合に小さい。また日本の 上野動物園は約 12. 8 万 m2 である。米 国の動物園は一般に広く , ューヨ ークのプロンクス動物公園の約 101 万 m2 , サンジェゴ動物園の約 81 万 m2 セントルイス動物園の約 33. 6 万 m2 な どが , その例である。動物園には , おもにほ乳類 , 鳥類 , は虫類 , 両生 類などが飼育されるが , ときにこん 虫類も飼われ , 魚類その他の水生動 物はおもに / 水族館に飼われている。 収容動物の種類からみると , 現在も っとも多いのはベルリン動物園で , ほ乳類 , 鳥類 , は虫類 , 両生類 , 魚 類 , 無脊つい動物を合わせて 1500 種 をこえ ( 魚類以下を除いて約 900 種 ) 。 ロンドン動物園は 1400 種をこえ ( 魚 類以下を除いて約 1100 種 ) , ョークの動物公園は魚類以下を除い て約 11 ( ) () 種 , サンジェゴ動物園は同 しく約 10 ( ) 0 種である。一般に , 魚類 以下を除いて 500 種前後であれば , 動物園としては上位の部に属する。 日本では上野動物園が , 水族館を除 き , ほ乳類から両生類までで 478 種 ( 1965 年 8 月現在 ) で , 第 1 である。 〔入場者数と経営形態〕動物園の入 場者をみると , 上野動物園は , 有料 だけで年間 430 万 ( 1965 ) であり , 世 界最高と思われる。米国の入場無 料の動物園 , たとえば , 国立ワシン トン動物園では 400 万人 ( 推定 ) , シ カゴのリンカンノヾーク動物園では 350 万人 ( 推定 ) であるが , これは 1 週 間のう・ち日曜 , 祭日を含んだ 4 日間 は無料で , 他の日だけ有料である。 ニューヨークの動物公園で約 21 () 万 人であり , 大部分の動物園は 2 ( ) 0 万 人以下である。動物園は経営形態か らいうと , 米国では市営のものが多 く , これらは全部無料である。動物 学協会で経営しているものは有料 ( 全日または週間のある特定の日 ) で あるが , 大部分はやはり市からの補 助を受けている。欧州では動物学協 会経営のものが多く , ほとんど全部 有料である。そのはかに私立の動物 園もあるが , これらはいわゆる遊園 地形式であったリ , 同時に動物の売 買を行なったりしているものが多い 〔動物の展示のしかた〕動物園の内 容として重要なのはその収容動物で あるが , またその展示法もひしよう に重要である。つまり動物舎の構造 については , 各国がきそって改良を 加えつつあるので , 年ごとに新機軸 が現われている。しかし原則的にい えば , 動物分類学的展示と生態学的 ( 動物地理学的 ) 展示とに分けられる。 4 3 3 昔は前者を主としたが , 最近はとく に後者に重点が置かれている。つま り個々の種類を見せるということか ら , 動物の生活 ( 生態 ) を見せること に変わってきたといえよう。個々の 動物舎の構造からいえば , 今までは 金網か鉄棒で囲っていたものを , 人 の見る部分は動物の飛び越えられな い堀を掘って金網や鉄棒を取り去り , その運動場も , なるべく動物たちの 生息地の地形を取り入れ , また生態 学的展示では , 同一地方に生息して いる動物たちをできるだけいっしょ に飼い , あるいは同居しているよう に見せるために , 他種との間に堀を めぐらす方法カ { 採用されている。 の堀をめぐらす方式を無さく式また は放養式といい ドイツの / ノ、一ゲ ンべックカゞ , 20 世紀初頭にノ、ンプル ク郊外につくったアフリカ動物ノヾノ ラマは , その先駆をなしたものとし て有名で , 日本では多摩動物公園が 知られている。また近年は , 鳥類そ の他いろいろの動物たちを見せるの に , 金網などの代わりにがラスが利 用され , 客と動物との間の視覚的障 害物を取り除くことに努力がはらわ れている。鳥類 , とくに水鳥につい ては , 片方の翼の初列風切羽を除去 して飛行能力を失わせ , 天井のない 広い場所に , 低いさくで収容する方 ものとみる伝統的見解を打破し , 動 物にも高等精神作用を認めようとす る主張や , はしめて系統発生的な比 較を試みたことなど , 動物心理学を 実質的に創始したといえる。しかし , ダーウイン時代の動物心理研究は , いわゆる逸話的記録を集めてこれに 擬人的解釈をはどこす段階にとどま り , 真に実証的な研究からは遠かっ たとえば , 20 世紀の初頭にも , た 足で床を打っ数をもって算数の問題 に答えるハンスというウマが評判を よんだことがあったが , 十分検討し てみると , 実は , 飼い主が無意識的 にうなすく徹細な頭の動きに対して 反応するにすぎないことが知られた。 このような逸話の解釈に基づく動物 研究の難点が批判され , 新しい実証 的な研究が始まったのは , 20 世紀に なってからである。 J. ロイプ ( 1859 ~ 1924 ) , C. L. モーガ、ン ( 1852 ~ 1936 ) らから始まって , さらに J. J. ュクス キュル ( 1864 ~ 1944 ) , E. ソーンダイ ク ( 1874 ~ 1949 ) , W. ケーラー ( 1887 ~ 1960 ) , R. M. ャーキズ ( 1876 ~ 19 56 ) , K. ロレンツ ( 1908 ~ ) らがす ぐれた業績を発表している。現在の 動物心理学は , 動物の心理や意識の 研究をめざすものではなくて , 「動物 の行動を観察や実験によって究明し , 行動の法則を明らかにする科学」と 定義され , 心理学 , 動物学 , 生理学 などとの関連が深い。具体的には , 行動の発生 , 動物の感覚や反応の様 式 , 動因や刺激の行動に及ばす効果 , 定位行動などが主要な研究領域であ り , 学習行動や系統発生的比較も問 題となる。比較を主眼とするときは , 比較心、理学とよばれることもある。 トウヘンツ 動物園 ( 補 ) 日本にお ける放飼式動物園とし て名高い東京都多摩動 物公園は , 日野市にあ り , 1958 年 5 月開園 , 66 年現在 , 面積約 44 万 6000m2 , 飼養動物 192 種 , 約 2000 点で , とく にライオンを放し飼い にして , / ヾスに乗って 見物するアフリカ園が 有名である。 法がとられている。 〔古賀〕 どうぶつき動物記シートンの 作品。 18 90 年から書きはしめられた く私の知っている野生動物 > ( 1898 ) , く灰色グマの物語 > ( 1900 ) , く狩られ るものの生涯〉 ( 1901 ) など , 野生動 物の生態を詳細に観察し物語風に仕 上げた 30 編あまりの一連の作品をさ して , 日本ではく動物記〉と総称し ている。すぐれた自然科学者でもあ った作者は , 「動物はただ程度の差 においてのみ , われわれ人間と異な った欲望と感情とをもつ」という確 信にたち , 動物たちの真実の生活を 強い愛情をこめて描いている。また それらの作品には , 筆者の手になる 動物画がさし絵として豊富に収めら / 心、理学 〔藤永〕 れている。 〔宮本〕 とうふつこ濤沸湖北海道網走 支庁東部 , オホーック海に面する小 さな潟完湖。面積 9 km2 , 最深 2. 5rn の 塩湖である。春は白鳥が集まるので 白鳥の湖ともよばれ , また秋にはカ モ , サキも飛来する。冬は凍結する。 オホーック海を境する幅 200 m の細 い砂嘴こは網走国定公園に属する北 浜原生花園として名高く , 放牧の牛 馬が遊ぶ草原である。網走から国鉄 釧網線で北浜まで 20 分。〔勝保〕 どうぶつしんりがく動物心理 学動物心理の科学的研究は Ch. ダ ーウインに始まる。彼は , 動物にお ける情緒の表出が進化論の見地から 適切に理解されると主張した。 つ して , 人間と動物をまったく異質な どうぶつゆ動物油動物から得 られる油。大別して陸産のものと , 海産のもの ( 海獣油色、油 , 肝油 ) の 2 種に分けられる。一般に常温で液 状のものを油 , 固状のものを脂とい うが , 鶏油やガチョウ油のように融 点が常温より高くても脂といわない ものがある。脂肪酸はオレイン酸 , ノヾルミチン酸 , ステアリン酸が主で , 他に少量のミリスチン酸 , リノール 酸を含む。 とうぶてつどう東武鉄道東京 都北東部から北関東一帯にひろがる 私鉄路線。 1897 年設立以後 , 小私鉄 路線を合して現在の路線となった 日光線 ( 杉戸 ~ 東武日光 ) , 伊勢崎線 ( 浅草 ~ 伊勢崎 ) を幹線に , 支線には 野田線 , 東上線 , 鬼怒川線 , 字都宮 線 , 熊谷線 , 桐生線などがある。鉄 道の総営業キロは 503. lkm, パス路 線は約 4300km 。地方都市間の輸送を 主とし , また沿線に日光 , 鬼怒川温 泉 , 赤城山 , 伊香保温泉などがあり , 観光上も重要である。 〔伊崎〕 とうへんついほう陶片追放 / オ ストラシズム
ナンカイシ 5 8 6 つロス海とウェッデル海の深い湾 なんかいでんてつ南海電鉄大 を結ぶロス・ウェッデル低地帯の一 阪府南部地帯を走る私鉄路線で , 正 称は南海電気鉄道。大阪市の難波 つに大別される。 1 ) 東南極ロス海の西縁ビクトリ から和歌山市へ通しる本線と , 高野 山へ通じる高野線を主とし , 支線に ランドからウェッデル海の東縁に 4 ツ るはは、東経の音に分にはいる地域で , 加太線 , 多奈川線などがある。営業 半円形の平面をなし , 大南極 Greate キロは鉄軌道 206. 5krn , ノヾス 1071. lkm 。 Antarctica ともよは、れている。 1925 年設立の高野山鉄道会社が , 47 は主として先カンプリア紀 ~ 古生 曰 年近畿日本鉄道から現在の本線など 初めの片麻岩 , 結品片岩 , 深成岩類 の資産を譲り受けて改称した。郊外 を基盤とし , これに不整合に重なる は通勤に , 長距離は行楽などに利用 古生代末 ~ 中生代初めの砂岩層およ される。国鉄線に乗り入れて白浜口 , びこれに貫入した祖粒玄武岩からな 南画作品例。工蒙作 新宮にも通している。 〔伊崎〕 南画と文人画とははとんど同じ意味 く山水図巻〉 ( 部分 ) リ , 楯状地とよばれるような古い大 なんかいどう南海道大化改新 に用いられているのである。清代に 陸塊であり , アフリカ , オーストラ は , 南画はいわゆる「四工呉・庫」を 後定められた地方区分のうち , 畿内 リアなどと似た地質構造をしている 中心に画壇の主流を占めるにいたり , と山陽道の南 , 四国を主とする地方 中生代以後の大規模な地塊運動を受 宮廷画家にまでその様式が浸透した 紀伊 , 淡路 , 阿波 , 讃岐 , をし、し、 け , クイーンモード山地やマックロ が , しだいに形式に流れ低俗化した 伊予 , 土佐の 6 国からなっていた。 トソンランドの山地など , 3()()() そして清朝南画も , 初期の石濤 〔駒井〕 / 五畿七道 ~ 40 ( ) 0 m を越える山地が形成されて 八大山人や中期の金農ら「揚州八怪」 ナンガバル′ヾット〔山〕 Nanga ール いる。大陸縁辺部には / エレバス山 の一派など , 民間の異端的な画家に Parbat ヒマラヤ西端 , カシご ( 4023m ) などの活火山も噴出してい より奔放な独自な表現がみられたと の北 , インダス川屈曲部にある高峰。 る。最近のソ連 , オーストラリア , 標高 8125m 。 1895 年英国隊の試登以 いえる。 / 清 日本などの人工地震探査の結果は , 日本の南画は江戸時代中期に中国 来 1953 年 7 月 3 日オーストリアのヘ この地域が大陸であるという考えが 南画の影響をうけて興った。初期の ルマン・プールの単独登頂成功まで 正しいことを証明している。すなわ の半世紀あまりの間 , いくつかの試 画人としては祇園要ん南海 ( 1677 ~ 17 ち厚い氷の下の基盤は , 海岸近くで 51 ) , 服部南郭 ( 1683 ~ 1759 ) , 彭城 みか、くリかえされた山で , ヒマラヤ は海面下に達する部分も多いが , 内 百川 ( 1698 ~ 17 53 ) , 柳沢淇園 ( 17 ( ) 7 の高峰の中ではもっとも長い登山の 陸では高くなり , 標高 300() m に達す 歴史をもつものの一つである。近代 ~ 58 ) があり , これらの人々は中国文 るところさえある。重い氷をのせて 登山史のうえにめざましい足跡を残 人の風雅な生活に共鳴し , 明清の画 地殼が / アイソスタシーによる沈下 したマンメリーはこの山で 1895 年に 譜を手本として独力で描き , 日本南 を受けている ( 重力測定の結果確か 遭難し , ドイツ隊は 1934 , 37 年の 2 画の先駆をなした。やがて蕪村 , 池 められた ) ことから , この氷か、溶け去 回の遠征で多数の犠牲を払っている。 大雅の 2 人が出るに及んで , 日本的 れば , 当然現在海面下にある基盤の 〔松方〕 な南画様式が確立された。蕪村の絵 多くは隆起することが考えられ , 東 なんきよく南極地球の自転軸 は俳諧的な情趣を盛り , 大雅は南 南極は一つの大陸となるであろう。 の一方の端が南極であるが , 画の本質をよくつかみながら , 破格 一般に 各国の最近の東南極の地質調査の成 の画境を示して , ともに中国画とは はこれを南極点 S 。 uth Pole といい 果によれば , これまで未調査だった 別個の作風を創造したのである。 南極点を中心とする地域を南極地域 露岩地域も , 前述の東南掫の一般的 のころから日本各地にあいついで個 Antarctic Region とよぶ。南極地域 性的な作家が輩出し , 南画は江戸時 な地質構造と異ならないことが明ら の境界には種々のものが考えられる かとなった 代を通して隆盛をきわめた。京都の が , 1958 年 2 月に開かれた南極研究 青木木米 , 備前の浦上玉堂 , 九州の 2 ) 西南極 パーマー半島 ( グレアム 特別委員会の国際会議では . , 南極と 田能村竹田 , 江戸の谷文晁 , 渡辺崋 ランド ) からロス海東岸にいたる地 は , 南緯 5()0 ~ 600 に存在する , 海洋 士或であり,/ ト南 ffiLesserAntarctica 山らはことに有名である。明治以後 の水塊の不連続線である南極収斂 ともよばれる。こは新しい造山帯 南画は / 富岡鉄斎のような独自な境 線 ( 水温が 2 ~ 3 ℃上昇する ) から南 であり , ノヾーマー半島からサウスオ 地を開いた南画家も出たが , 一般に の地域であり , 南極大陸およびその サウスジョージアをへて 形式化してしだいに衰えた。しかし 隣接諸島 , 南極海とその中に散在す 南米大陸に連なり , 環太平洋造山帯 その精神と内容は新しい日本画に影 る海洋島を含めたものとされた。以 の一部をなすと考えられているが , 響をケえて南画家以外の日本画家か 上が広義の南娵であり , 南極大陸お よび隣接諸島は狭義の南極といえる。 ニュージーランドとの関係は明らか らも多くの南画的作品が生まれた。 総面積約 65()() 万 km2, うち大陸は約 パーマー半島でみると , 他 でない / ( 別刷 ) 南画 〔高崎〕 1310 万 kmf , 隣接諸島約 7560()km2 , 海 の造山帯と同様に火山性内弧と非火 なんかいじん南懐仁 / フェル 洋中に散在する諸島約 1320 ( ) kml 山性外弧に分かれる。前者は南米か ビースト れに大陸と接して海上に浮かぶたな ら延びるスコチア弧をへてパーマー ( 棚 ) 氷の面積約 93 万 km2 ( 現在この数 半島の西へ至る , 古生代 ~ 中生代の 字はもう少し増し , 大陸が減ってい 堆積物が褶曲した褶曲帯であリ , る ) があり , 海面上の面積はオースト 花コウ岩 , 安山岩などの火成岩の貫 ラリア大陸の約 2 倍に達する。 入 , 噴出がみられる。非火山性外弧 〔地質と地形〕南極大陸は , 上記の はパーマー半島東側をなし , 中生代 広大な面積のうち約 2 % 以下が露岩 末 ~ 第三紀の堆積物からなり , 褶曲 こから得 地域と推定されている。 これらは 運動はあまり激しくない。 られた地質学的な知識と , 大陸の大 褶曲運動ののち , 準平原化を受け , 地形に基づいて , 南極大陸の地体構 その後の隆起運動によって 20 ( ) () ~ 造が考えられてきた。南極大陸はイ 30 ( ) ()m の山地が形成された ーーっク ) ドランドの山地へ連 ンド洋に面する東南極大陸と太平洋 弧はマリ 続するものと考えられてきた。 側の西南極大陸 , およびこれを分か ナンガ / ヾノレノヾット。オミ は北峰 , 雪煙をあげる 中央の黒い岩壁が主峰
教的テーマのうちに市民の現実生活 が反映し , 様式も従来の平面的表現 から , しだいにイ子をもったリアノレ なものに変わっていく。 16 世紀 , 宗 教改革の時代思潮は芸術家の魂をゆ ことに絵画芸術において , 芸術家の内面を告白し , 見る者の心 の奥底に訴えようとするコミュニケ ーションの意欲が強く打ち出された。 ーこに独自のドイツ・ルネサンスが 開花し , デューラーの < 四人の使徒 > , ネワルトのくイーゼンハイ ム祭壇画 > , ホルバイン ( 子 ) のくキリ ストの屍ば > などには , 「イタリア・ ルネサンス美術は形体であり , ドイ ツ・ルネサンスはことばである」 ( プ ルクハルト ) といわれる特徴が如実 に示されている。彫刻も、 V . シュト ス , リーメンシュナイタ、、一らから P . フィッシャーへの歩みに後期ゴシッ クからルネサンス彫刻への道程がう かがわれる。 16 世紀後半からの経済 の衰微 , とくに 17 世紀 , 三十年戦争 後の国上の荒廃はドイツ美術をも衰 退させた。その後 , 諸侯の宮殿を中 心に豪華な装飾と奔放な空間構成に すぐれた 18 世紀のバロック , ロココ 様式の建築群などにみるべきものも あるが , 19 世紀の古典主義も , しょ せんはキ、リシア模倣にとどまるなど , ルネサンス以後の約 3 ( ) ( ) 年は , 概し て美術の世界は不毛に終わった。 19 世紀未 , ドイツ帝国成立後の経 済的発展を土台に新しい建築運動が 起こり , / 分離派は過去からの分離 絶縁をめざして機能的 , 合目的な近 代建築を推進し , 造形芸術と近代技 術 , 近代工業との結合を深めた。 方 , 資本主義の矛盾の深化 , 西欧合 理主義の行きづまりを背景に 2 ( ) 世紀 初め , / 表現主義がはなばなしく展 開し , 第一次大戦の惨敗と社会不安 , ナチスの台頭による戦争再開におの のく時期にゆきわたった。表現主義 は , 芸術家の主観の表出をモットー とする。フランス 19 世紀の印象主義 が , 光のままに感応する物体の視覚 的なリアリティを描写したのに対し て , ドイツ表現主義の絵画は , 主観 に密着した感情的な描線や色彩によ ン ) て , 物体の背後にひそむ精神的な リアリティを究していく。目にうつ る対象は , すべてあるイデア ( 理念 ) のメタモルフォーゼ ( 変容 ) であり , 移ろいゆくいっさいの事物は象徴に すぎないというファウスト的な考え 方が , ドイツ造形精神の根本にある と考えて誤りない。したがって , の時期のドイツ美術には , 主観の真 実を訴える人間臭のきつい画面 , 怪 異な空想に飛躍する幻想的な色彩や 対象のデフォルマションなどが往々 にして特徴をなしている。これは , ドイツ・ルネサンス期の表現にもあ る程度共通している。表現主義運動 のエコールとしては , オーストリア 3 6 3 ) を中 の画家 ( ) . ココシュカ ( 1886 ~ - 、 , レリング ) 「シュ、ソノレノ、 心、とする ( 嵐 ) 」 , E. L. キルヒナーー ( 188 ( ) ~ 1938 ) に代表されるドレスデンの「プリ ッケ ( 橋 ) 」 , F. マルク ( 188 ( ) ~ 1916 ) およびロシア / 、カンジンスキーのキ . 宰したミュンヘンの「プラウ工・ラ イター ( 青騎十 ) 」があげられるが , このはか , E. ノ . ルデ ( 1867 ~ 1956 ) お よび M. べックマン ( 1884 ~ 195 ( ) ) の名 言己憶されなければならない。青 も , 騎士派には , 諸芸術の幅広い統合と いう理想があり , これが後に / ノヾウ ハウスにおいて実現されることにな る。建築という実用芸術を , 諸芸術 統合の柱とするバウハウスでは , 表 現主義に構成主義の要素を加え , 抽 象芸術の基礎的な実験が行なわれた。 こでは , カンジンスキーとともに スイス人クレーが重要である。表現 主義の画家はタブローのはかに版画 も数多く制作したが , ドイツ美術の 独創であり , かっ , その持色をもっ とも雄弁に物語るのは版画である。 版画は木版 , 銅版ともに 15 世紀のド イツに始まっているか、 , これに寄せ る芸術家の愛着は時代を問わす並々 ならぬものがある。対象を黒白 2 色 に要約する版画は , 寡黙ではあるが , この強い対照によって , 対象は非物 質化され , 図式化され , 抽象化され る。「精神の造形者」 ( ウォーリンガ ー ) といわれるドイツ美術家の特徴 を裏書きする技法である。〔坂崎〕 ドイツの音楽 ドイツ音楽の発展は , イタリア , フランス , 英国と比べるとその出発 がかなりおそい。しかし 18 世紀のノヾ ッハ , ヘンデル以後約 100 年にわた って , ドイツ音楽は高い水準に達し , 。音楽の中心、であった。そ ヨーーロッノ、 の音楽は一般に組織的 , 論理的な構 成が重んしられ , 感覚的な美しさや 洗練さよりも内面的な深さが追求さ れるのを特色とする。 1 ) バロック期以前古代のドイノ日 楽の実体については不明なところが 多いが , これには移動前のゲルマン 民族のもつ特殊性が , ローマの文化 を受け入れることにより混合してし まったこと , さらにキリスト教の浸 透により , まったく異なった形を作 リあげた点に大きな原因がある。タ キッスのくゲルマニア > には , きわ めて異質な古代ドイツ人の音楽につ いての記述がみられる。キリスト教 の音楽としては , 9 世紀ころにザン クト・ガレン修道院がグレゴリオ聖 歌の重要な中心であり , 12 世紀末に はフランスに興ったトルノヾドーノレ ( / 吟遊詩人 ) やトルべールの歌曲の 影響をうけて , ミンネゼンカ、・一 ( / ミ ンネザング ) がドイツ最初の世俗歌 曲の花を咲かせ , やがて新興商工業 者階級に属するマイスターージンガー に受け継がれる。しかし , これらは ドイツ いすれも , 単声の音楽であり , 他国 からの影響によるものであった 世紀には , 素朴な魅力をもった家庭 音楽として , 多声的世俗歌曲が興隆 し , また同時代の c. パウマン ( 141 ( ) 頃 ~ 73 ) のくオルカ、、ン曲集 > はドイ ツ・オルガ、ン音楽の重要な源となっ た。 15 世紀後半にはアタ、、ム・フォン・ フノレタ、、 ( 1445 頃 ~ 1505 頃 ) , H. フィン ク ( 1445 頃 ~ 1527 ) らが出て , すぐれ ー音楽を作り , 16 世紀 たポリフォ 一時オルランド・ディ 半は、には , ラッソー ( 153 ( ) 頃 ~ 94 ) をはしめとす るフランドル出身の音楽家がドイツ の音楽界で重要な位置を占め , さら に H. L. ノ、スラー ( 1564 ~ 1612 ) , M. プレトリウス ( 1571 ~ 1621 ) らがイタ リアで開拓された複合唱様式の普及 に貢献した。宗教改革はドイツを激 しい戦火にまきこんだがルターーに 創始されたプロテスタントの / コラ ールは続く時代の音楽創作に大きな 2 レヾロック期 17 影響を及は、した 世紀にはいると , ドイツの音楽家は 声楽 , 器楽の分野で活躍し , とりわ けカンタータ , 受難曲 , オルがン曲 など宗教高 : 楽で指導的な役割を果た す。シュッツ ( 1585 ~ 1672 ) は受難曲 やオラトリオでノヾッノ、に比肩しうる 高みに達し , S. シャイト ( 1587 ~ 16 54 ) はドイツ・オルがン音楽発展の 基礎を固め , D. プクステフーーデ ( 16 37 ~ 17 ( ) 7 ) , J. ノヾツへ . ルべノレ ( 1653 ~ 1706 ) らがこれに続く。チェンノヾロ トの音楽も興り , H. F. ビー やリ ー ( 1644 ~ 1704 ) はノヾイオリン音楽 でノヾッ / 、への道をひらく。オーケス トラ音楽では J. ローゼンミ ( 16 20 ? ~ 84 ) , 歌曲では A. クリーガ ー ( 1634 ~ 66 ) らの活動がみられる。 ハンプルクでは R. カイザーー ( 1674 ~ 1739 ) を中心、に国民的オペラ建設の 努力がなされ , J. S. ノヾッハによりノ ロック音楽の頂点カ { 築かれる。彼と 並ぶ同時代の巨匠ヘンデルは主とし て英国において活動したが , バツ・・、と な対照的にオラトリオとオペラの分 野ですぐれた仕事を残した。 3 ) ロコ コ , 古典派 , ロマン派 ノヾッノ、ク ) 日免 年には音楽に新しい傾向が現われ , 17 世紀末以来すでにフランスにみら れた軽快で優美なロココの艶麗毳様 式 ( ギャラント・スタイル ) がドイツ でも行なわれ , G. Ph. テレマン ( 16 ~ 1767 ) らが活躍する。 18 世紀中 81 期を中心、として , ソナタ形式はバロ ックのそれから脱して , クラシック・ ソナタ形式へと発展する。この主要 な役割を果たしたのは , ドイツでは C. P. E. / ヾツ・′、 ( 1714 ~ 88 ) らのべノレリ ン楽派 , J. シュタミツツ ( 1717 ~ 57 ) を中心とするマンハイム楽派 , J. C h. ワーゲンサイル ( 1715 ~ 77 ) らウィ ンの前古典派の人たちである。これ らの作曲家や同時代のイタリア , フ ランスの作曲家によって準備され ,
左上中国西北部 , 甘粛省の段々畑。この付近は黄河上流域にあ たり、北のモンゴル高原 , 東の黄土地帯 , 南西のチベット高原が こで接触する。雨量は少ない。農産ではコムギを主ごし、アワ , コーリャン , 工ンパク、チンコー ( オオムギの変種 ) なごが栽培 される。中中国東北 , 本溪鋼鉄公司の第 3 , 第 4 号高炉。この 地からは良質の粘結炭ご特殊鉱の原料となる低リン鉄を生産した ので重要視され , 日露戦争以後日本の資本が進出し , 長い問日華 合弁であったが , 1939 年日産系の州重工業株式会社に統合され た。現在 , 鞍山ごならんで中国の有力な製鉄所ごして発展してい る。下左遼寧省阜新にある海州炭鉱。大規模な露天掘で、解放 後建設された。下右 1957 年完成した揚子江の大橋朝長さ 1670E 。 漢陽ご武昌の間にかかる。 この橋の完成によって北京ご広州は鉄 道で直結するに至った。上部は歩道ご車道、下部は鉄道が通じる
2 3 6 1.9 , 圧縮強度 90 ~ 150kg / cm2 ) で一 少減するとしても構法としては著し く経済的になる。 2 ) 璧式構造柱 , のほかあわコンクリートやガスコン 折板構造の 梁を設けす , 壁体の組合せによって クリ トなどか・つくられている。 壁と屋根 鉄筋コンクリートの鉄筋の端には 11 部の荷重をささえ , 水平力に耐え 鉄筋とコンクリートとが一体となっ るものであり , 間仕切りの多い住宅 , て働くように , かぎを付け , 鉄筋を アパートなどで平面計画上比較的大 継ぐときには鉄筋の径に対して 25 ~ きな壁体をとりやすい場合に適して 4 ( ) 倍以上重ねなければならない。鉄 おり , 鉄筋量を節約することができ 筋の端部をコンクリートに埋め込ん る。 3 ) ラーメン・壁併用式構造壁 で引き抜けないようにするためには , の一部を柱 , 梁とみなしてラーメン 径の 40 倍以上埋め込むことを原則と 解法を行なうもので , 水平力は原則 薄い紙でも , それに するが , 応力の小さい場合には減少 から大別して一体式構造と組立式構 として壁に負担させる折衷式構法で まかい折リ目をつける される。鉄筋の量は構造計算によっ 造とに分けられる。一体式構造は建 ある。いわは、耐震壁式ラーメン構造 とある程度曲げに抵抗 て決定されるが , 計算上必要ない場 を璧式構造に接近させたものといえ 設現場において構造物の鋳掣を仮わ できるし , 風のよう 合でも安全を考慮して一定量の鉄筋 くでつくり , 一体として鋳造するも る。 4 ) シェル構造柱 , 壁 , 梁など に啝直に立てて用いる を入れるのがふつうである。法規で の概念を捨てて , 卵の殼や員殼のよ ので , 従来の鉄筋コンクリート造は と上から押されても側 ほとんどがこの方式にはいるもので は , 柱の主要な鉄筋はコンクリ うに一体となった薄い膜で空間をお なから押されても抵抗 できる強い支壁となる。 ある。組立式構造はあらかしめ柱 , おう形式の構造で別名を曲面構造と 断面積の 0. 8 % 以上で , 4 本以上と 折板構造の力学的原理 梁あるいは床 , 壁などの建築構成要 もいい , 大いに自重を軽減すること し , 帯筋を 3 ( ) cm 間隔以下で , かっ主 はこれと同しもので , が可能である。シェル構造にも多く 筋小径の 15 倍以下とすることが定め 素を分解加工し , これを架構式構法 図は東京世田谷公会堂 によって組み立て , あるいは接合部 の種類があり , 円筒状シェルや H P られている。また , 主要な梁は複筋 の折板による壁と屋根 だけを現場打コンクリートで固める ( 双曲放物面 ) シェルが建築物に適用 とし , 肋筋を梁せいの % 以下の間隔 を図解したものである 方式である。万代ぺいなどもこの構 に配置するよう規定されている。鉄 この構法は 法の応用とみてよい。 筋コンクリート構造における主要な PS コンクリート構造との結びつき 鉄筋はなるべく部材の周辺に配置す によっていっそう長所を発揮し , 今 るのが効果的であるが , あまり周辺 後建築生産が工業化され , 工場生産 にかたよるとコンクリートの付着カ 方式が導入されるにつれて逐次発展 が減少し , 外界の影響を受けて腐食 していくものと考えられる。 を早め , 耐火性を失うので , かなら 邯の殼のような , シェル構造による上屋 す一定のコンクリート被覆を保たな 次に一体式の鉄筋コンクリート造 ーれを「かぶり」 を架構の形式によって分類すると , されている。 5 ) 折板構造平面板を ければならない。 ラーメン式構造 , 壁式構造 , ラーメ と称し , 壁 , 床では 2 cm, 柱 , 梁で 互いにある角度をもたせて連結し , ン・璧併用式構造 , シェル ( 殼 ) 構造 , は 4cm, 基礎は 6cm 以上必要である それ自体で一つの構造体としたもの 折板構造に分けられる。 1 ) ラーメン とされている。鉄筋コンクリート造 である。折板構造はシェル構造とと 式構造外力を主として柱 , 梁に支 もに , 従来困難視されていた鉄筋コ 床スラブ , 屋根スラブは梁と一体に なり , 架構のわい曲を防止する重要 持させる方法で , 骨組の接合部をで ンクリートによる大はり間架構を可 きるだけ剛にしたものである。この な構造体である。ふつうは梁で周辺 能ならしめるもので , その発展が期 構造は , 擘体を骨組とは無関係に柱 を固定されたスラブとして設計され 待されている。 〔材料と使用法〕鉄筋コンクリート るが , スパンが大きくなると , 一方 間にはめ込むか梁に懸吊をよさせる帳 に用いる鉄筋は J I S の「一般構造用 向または井げたに小梁を組んで床フ、 壁式と , 骨組と鉄筋コンクリートの ラブをささえ , あるいは小梁上に根 圧延鋼材」の規格に合格し , かっ降 壁体を協力させて水平力の一部を璧 太付きの床スラブをかけて , 床スラブ 伏点 24kg / mm2 以上のものである。 に負担させる耐震壁式とに分けるこ の自重 , 鉄筋量を軽減するくふうが 般に丸鋼を使用するが , 付着強度を とができる。 a. 帳壁式純粋ラーメ 試みられる。特殊な場合として極度 増すために特別の断面をした異形鉄 ン式ともいうべきもので , 壁体の配 に空間を利用するため梁せいの節約 筋を使用することもある。コンクリ 置が骨組に制約されないから平面計 を目的として床スラブを厚くし , 柱 トはセメントペーストで砂 , 砂利 画を行なううえでは望ましい構法で 上部をひろげて床スラブをささえ , を固めたもので , セメントペースト あるが , 地震のある地域では骨組の 梁をいっさい設けない方法があり 負担を大きくし , 実用的価値を失う の濃度によって著しく強度が変わる 無梁スラブ構造とよばれている。床 ばかりでなく , セメントの品質 , 砂 , おそれもある。 b. 耐震壁式壁体は スラブに大きな応力の生することは 砂利の品質や純度などによっても影 柱 , 梁と一体化して建物の剛性を高め , まれであるが , 局部的に集中荷重や 響を受ける。セメントは J I S で規定 柱 , 梁の応力を減し , 断面の減少に 衝撃を受けることがあるからあまリ されたポルトランドセメントを用い 役だつので , 空間構成の自由度は多 薄くすることは危険で , ふつうは 1 ( ) るのがふつうであるか、 , 高炉セメン ~ 13cm である。壁は床スラブと同様 ト , シリカセメント , フライアッシ に骨組の補強として重要な役割をに ュセメントなどを利用する場合もあ る。砂 , 砂利は骨材とよばれ , いす なうことができるから構造上は柱 , れも酸 , 塩 , 有機物を含ます , 粒度 梁と一体に打ち上げることか望まし にむらのないものが望ましい。ふつ いが , 建物の使用上あるいは施工法 う , コンクリートの比重は 2.3 内外 上 , 帳壁としてあとから取り付けら で圧縮強度は 90 ~ 2 ( ) ( ) kg / cm2 のもの れることもある。壁厚は外壁で 12 ~ が使われるが , 鉄筋コンクリート構 15cm , 内壁で 9 ~ 12cm とされること 鉄筋コンクリート造の内部 造を軽量化するために , 軽量コンク カヾ多い に木造 , 鉄骨などの造作を取り付け リートの研究も進められている。現 るためにはあらかじめコンクリ 在一般に使用されている軽量コンク ートはキとして火山レキを骨材と に受材としてアンカーポルト , 木レ する軽石コンクリ ト ( 比重 1.4 ~ ンガ , インサートなどを埋め込んで テッキンコ 鉄筋コンクリート造の 一般に梁 , 住宅では , 柱などでラーメンを形 これを骨格とし たラーーメン式構造 ( 左 ) カ ( 使用されるが , 2 , 3 階程度の小規模な住宅 では , 璧と床または屋 根スラブで構成した壁 式構造 ( 右 ) でも十分で ある 屋根スラブ 木造床
る。 c. 名古屋種明治の初めに名古 屋地方の地鶏から作出されたもので , ! もと名古屋コーチンといわれた。単 冠。尾および翼の一部は黒で他は淡 黄かっ色。標準体重は雌 2600g , 雄 3300g , 初産は 6 ~ 7 カ月で年産 150 ~ 170 個 ( かっ色卵 ) である。本種は 体質強健で密飼に耐え , 飼料の利用 性もよく , 温順であるため日本全国 の山間部に多く飼われていたが , 最 近はしだいに減り約 3 % ぐらいであ る。抱卵やひなを育てることがうま い。そのほか兼用種としては , ワイ アンドット種 , ーーノ、ンフ。シャ 種 , 三河種などがある。 4 ) 愛がん用 種長尾鶏 ( / オナがドリともいう ) , 鳴き声を楽しむコェヨシ ( 秋田 ) やト ウテンコウ ( 高知 ) , チャポ , / シャ モなどがある。 〔ニワトリの飼育〕ニワトリは他の 鳥類と異なって , 改良の結果一年中 産卵する。ただし , 単冠白色レグホ ン種の優秀なもののように , 年間毎 日産卵を続けるものもあるが , 多く の品種では何日かにいちど休産する。 また就巣 , 換羽の時期にも休産する。 産卵数は初年度がもっとも高く , 年 次が進むにつれて前年度の 12 ~ 20 % すっ減少していく。種卵をうるため に雄を入れる場合には雄 1 に対し雌 1 ( ) 程度が適当とされている。種卵は 一般的に初年度産卵のものが , また 1 日の中では早朝および昼ごろ産卵 したものより , その中間に産卵した もののはうがふ化率が高い。ふ卵は 今日では産業的に行なう場合にはす べて人工 / ふ卵器によって行なわれ , 日本では 1 回の入卵数が 1 万個内外 のものがもっともひろく用いられて いる。卵は 21 日でかえる。ひなを育 てるのも人工育雛器で行なわれる のがふつうで , この場合ふ化後 1 週 間ぐらいまでは 31 ~ 35 ℃に保ち , そ の後 1 週間に約 2 ~ 3 ℃すっ下けて しだいに外気になれるようにする。 ひなにはひな白痢 , / コクシジウム など各種の伝染病があり , 抵抗力も 弱く , 全群が一時に侵される危険が きわめて大きいから , 予防 , 消毒 , 病気の早期発見などには十分注意し なけれはならない。餌えつけはふ化後 36 ~ 48 時間ごろに行なう。飼料には ゆで卵の黄身 , 小麦 , 青菜などをこ まかくして混せケえるが , 最近では ひなの時期に応してよく配合された 各種の飼料が販売されている。 ニワトリの個体の識別には翼また は脚に , 番号をうったアルミニウム やセルロイド片をつけるのがふつう である。ニワトリがその能力を十分 に発揮できるためには , 日常の管理 に負うところがきわめて大きい。ま た飼料は購入する割合が大きいので 駄鶏を飼っていることによる経済的 損失は少なくなく , 群飼の場合には 病気の伝わり方も早いので , 日常細 6 8 3 心の注意をもづてニワトリに接し , 病鶏や産卵数の少ないニワトリはで きるだけ早く淘汰しなければなら ない。また就巣時は産卵を中止する から , 就巣鶏はなるべく明るいとこ ろへ出すか , かごに伏せて 1 日数回 場所を変えるなどしそすみやかに離 巣させる。そのはか点灯飼育といっ て夏から秋にかけて産卵の減った時 期に夜間に電灯照明をして産卵を増 すこともあるが , これを行なった ワトリは翌春無処置のニワトリが盛 んに産むころにはまったく能力が低 下してしまうから , 点灯は翌春は不 要とする老廃鶏に対してのみ適用す るのが望ましい。またふつうのニワ トリは初年度産卵の末期に休産 , 換 羽を行なうが , 能力の高いニワトリ では休産せす , 引き続いて 2 年めの 産卵にはいってしまうことがある。 このような個体は翌春からの産卵率 が思わしくなく , また産んだ卵のふ 化率も落ちるので , 5 ~ 7 日間断食 させ水だけ与えて強制的に休産 , 換 羽を行なわせることもある。肉を目 的として肥育させる場合には炭水化 物性の飼料を多く与え , 運動を制限 し , 外界の刺激を避けてエネルギー の消耗を少なくする。また大きなひ なを去勢したり , 餌をだんごにして むりに与える方法もある。 〔鶏舎〕鶏舎としては次のようなも のがある。 1 ) 平飼い鶏舎ふつう 般に用いられているもので , 面積は 卵用種では 1 m2 当り 3 ~ 4 羽を基準 とし , 兼用種ではこの 1.2 倍ぐらい の面積を要する。採光 , 換気 , 害敵 ( イヌ , ネコ , ネズミ , ヘビなど ) の 侵入に注意し , 床はコンクリート張 りが望ましい。産卵箱はトラップ・ ネストといって , ニワトリが産卵の ためにはいると , 人が出してやるま で出・られなくなってしまうものを用 いれば , 個体の産卵能力を知ること ができる。 2 ) バタリ ワトリを 1 羽もしくは 2 ~ 3 羽すっ 木製または金属製のかごに収容して たてよこ幾段にも並べたもので , 給 餌 , 給水 , 採卵 , 採ふんなどは外か ら行ない ニワトリはくびを外へ出 して餌をついばむようになっている。 床はすのこあるいは金網でやや傾斜 し , 産み落とされた卵は自然にころ がってかごの外へ出る。 このノヾタリ ーやケージにはそのまま屋外に置く ものと , 屋内に入れるものとある。 またこれらには給餌 , 採卵 , 採ふんな どをコンべヤで自動的に行なう大規 模のものもある。 ヾタリーもケージ もともに収容面積の節約 , 管理労力 の節約 , ニワトリどうしの競合防止 , 衛生 , 個体観察の便利などを目的と したもので , その目的は達せられる が , 一方運動の著しい制限 , 環境の 変化に対する適応の不能などがある ため , 管理には十分注意しなければ ならない。 3 ) コロニー舎 15 ~ 20 羽 を収容しうる簡易鶏舎で , 定置式の ものと移動式のものとあり , いすれ も放飼場に付置されている。若いニ ワトリの育成などに便利である。 〔養鶏業〕ニワトリは , 昔は / 闘鶏 , 時を知ること , 神へのいけにえなど を目的としていて , 現在のように家 禽として採卵 , 採肉を目的として飼 われ , 改良されたのはそれほど古い ことではない。しかしニワトリは環 境に対する適応性も大きく , 世代の 交代も早く , 集約的な小規模な農業 経営にもよくはいりうるため , 世界 各地でひろく飼われ改良も著しく進 んだ。日本においても , 卵肉の生産 を目的とする実利養鶏の始まったの は明治以後のことで , 政府の保護や 奨励もあって急速に発達し , 1939 年 には 45 ( ) () 万羽に達した。しかし , 第 二次大戦中 , 輸入飼料の途絶 , 人間 食料との競合などで , 一時衰えたが , 戦後畜産の発展とともにふたたび盛 んとなり , 65 年現在約 1 億 38()0 万羽 である。養鶏業には家庭および農家 などで副業的に行なうものと , 都市 近郊におけるように専業的なものと がある。とくに最近盛んになりつつ あるプロイラーの場合などは後者の 色彩が強く , なかでも大資本をバッ クにし , 半ば工業化した形態も現わ れている。今までは養鶏業の主目的 は採卵にあり , 肉用としてはごく一 部を除いては去勢雄や老廃鶏を肥育 したものであった。プロイラーとは 生後 14 週未満で体重約 18 ( ) ( ) g 以下の 若いニワトリをいい , 本格的な肉鶏 というべきである ( なおそれ以上の ものはロースターとよはれる ) 。品種 としては横班プリマス・ロック種と 単冠白色レグホン種とからできたロ ック・ホン種のように , 卵用種と兼 0 ニワトリ 鶏舎の例。左はパタリ ー飼育中の中びな。採 卵設備はまだ設けられ ていない。右はケージ で飼育される成鶏。産 卵すると , 卵は前方の 採卵設備へおちていく
トキワズリ 4 5 6 の落葉低木。四角で細い小枝の上に 物理的あるいは精神的なものである 対生する葉を多数つける。葉は幅の 場合もある。主として自律神経に 過敏状態が潜在していたり , / アレ 狭い卵形でとがり , 3 脈があって柄 ルギー状態であったりすることが多 はない。花は黄緑色で小さく , 春に い。万一の場合にそなえて薬物など 葉に先だって開き , 雌雄の花は別の の初回の投与を徹量から始めるこ 穂につく。果実は多肉の 5 花弁に包 まれて丸く径 5 ~ 6 mmo 夏季に熟し とが , 治療上では用心深いやり方で 左 , ドクガ ( x 1 ) 初め赤く , のちに紫黒色に変わり , 字太夫となり , さらに晩年には豊後 ある。しかし徹量のものでも大きな 右 , チャドクガ ( x 1.3 ) 大掾と改めた。三味線方の名人 4 世 甘味があるが有毒で , 子どもが食べ 反応を呈することがあることは避け 岸沢古式部の協力で常磐津の黄金時 て中毒死することがある。葉や茎も がたい。アレルギー体質といわれる 代をつくったが , 晩年 , 両家間に不 ものは , 特異体質の一部分と考えら 有毒である。根に根粒菌があるので 〔高谷〕 和を生し , 岸沢は別家をたてるに及ん やせ地にもよく生育する。〔大井〕 れる。 どぐう土偶いわゆる土人形の だ。 5 , 6 , 7 世は養子によって継がれ どくが〔毒蛾〕鱗し目ドクガ科 たが , 現 8 世は 7 世の実子。〔町田〕 こと。世界最古の土偶というべきも のガの一種。中形の種類で , はねを 開いて 35mm 内外。黄色 , 前ばねの中 ときわずりんちゅう常磐津林中 のは , 今から約 2 万年前に残された 1842 ~ 1906 明治時代の常磐津の名 欧州旧石器時代のオーリニャック文 央にかっ色の帯がある。はとんど日 本全土に産するが , 北海道の中北部 人。本名山蔭忠助。 1 世松尾太夫に 化に認められている。野獣 , 鳥 , 人 学び , 2 世松尾の名を譲られた。次 物などを描いた洞窟絵画とともに このはか朝鮮 , 中国 , にはいない いで家元の養子に迎えられて 7 世小 当時はマンモスのきばや岩石を材料 シベリアなどに分布する。幼虫は黒 文字太夫となったが , まもなく不縁 にした女性像が多く作られていたが 色でだいだいかっ色の部分があり となり , 林中と改めた。一時 , 故郷 まれに粘上を用いた土偶も発見され 長毛がある。老熟すると 5()mm 内外に 盛岡へ帰ったが , 9 世市川団十郎に ている。チェコのモラビアにあるド なる。第 1 および第 4 腹節に毒毛が く関の扉と〉上演にさいしとくに呼び ・ビエストニツェ遺跡から出土 あり , 人体に付着すると発しんする。 ノレ . ニ 迎えられ , 以来東京すまいとなり妙 した裸体像が著名であり , 粘土に骨 クヌギ , ナラ , クリ , サクラその他 技をふるった。その声望により常磐 種々の広葉樹の葉を食べ , 若齢幼虫 灰を混ぜて作られている。前 60()0 年 津の隆盛をもたらし , また常磐津 , で集団して越冬する。 5 ~ 6 月ころ ごろになると , 西アジアには農耕や 体毛を混した繭を作り , その中でさ 岸沢両家の和解に努めた。 〔町田〕 牧畜を新しい生産方法とする新石器 ドクウッギ とくいたいしつ特異体質正常 なぎとなるので , 幼虫の毒毛は脱皮 時代の村落が営まれはしめたが , そ 人ではたいした反応がないような刺 殼とともに繭内に残る。成虫は 6 ~ の当時の代表的な遺跡として知られ 激に対して , 異常な病的反応を示す 7 月に発生し , 電灯によく集まる。 るノヾレスチナのエリコからは , アシ 上偶の例 3 点。 1 : 左は 体質の常識的な総称であるが , 厳密 ふつうは・それはど多くないが , 年に を骨組とし , その上を石灰で固めた ・ビエスト よって大発生をすることがあり , 9 な定義はつけにくい。通常は化学的 人像が多く出土している。男 , 女 , ェ出土の女性像 , 高さ 物質の刺激 , たとえばカニ , 工ビ , 子どもなどの区別があり , 人体の % ~ 10 月に第 2 回の発生をすることも 11. 5cm , 旧石器時代後 サバなどの食物や , アンチビリン剤 , ある。羽化のさいに繭内にある毒毛 程度の大きさに作られている。ェリ 期。上右はエリコ出 E ョード剤 , 水銀剤などの薬物に対し は体やはねに付着し , 灯火に飛来す コではまだ上器か・作られていないカ { の女性像頭部 , 高さ 22 cm, 新石器時代末期。 て , 激しい胃腸症状 , 皮膚発しん , その次の時期になると西アジアの農 るときに飛散して人体に害を及ばす。 下は中国の陶俑で , 長 ショック状態 , 発熱 , 中毒症状など とくに雌は羽化のときに , 繭内の毛 耕村落では上器の製作が行なわれる 治市分水嶺出わ , 高さ を示すものをいうが , 刺激が単なる を全部腹端にかき集めてきて , 産卵 ようになり , 同時に女神像としての 5cm, 戦国時代中期 のさいに卵の被覆物とするのでその 上偶も多く作られるに至った。ハッ スナ文イヒ ( 前 5()00 ~ 前 4000 前後 ) には , 害が著しい。毒毛が人体についた場 両を前で組み合わせた女・性裸像や , 合は , 徹温湯で軽く洗い落とし , ドクガ科は日本 ひょうたんのような形に単純化され すってはならない。 た上偶がある。以後 , 地中海の周辺 に 40 余種を産する。卵または幼虫で 越冬し , 幼虫には長毛があり , 毒毛 から欧州にかけての農耕村落には , を有する種類が多い。農林業上の害 豊作を祈願するための女神像として ネ 虫も多いが , 上記ドクがのような衛 の土偶が盛んに作られた。インドの 生害虫もある。チャやッパキの害虫 新石器時代にも土偶が作られていた のチャドクガも人体に同様の害を及 が , 中国では新石器時代には , 土器 ばす。 〔黒沢〕 の装飾としての人頭がいなどがみら どくガス毒ガスひろくは生物 れるにせよ , 上偶はまったく残され 体に有害な気体一般をさすが , ふつ ておらす , 周代の末になってはじめ うは戦争において人員の殺傷を目的 て陶俑とよばれる黒色の小形上偶 として使用される気体または使用温 が現われた。日本の上偶は縄文う 度で有効濃度以上の蒸気圧をもつ液 時代の早期から簡単な作が残されて 体をいう。第一次大戦中の 1915 年 4 おり , 中期から後期 , 晩期にかけて 月ィープル戦線でドイツ軍が英軍に は美術的にもすぐれたものが多くな 対してポンべ塩素を用いたのが大量 った。やはり大部分は女性像である 使用の最初である。毒がスを分類す が , 写実的な表現はとられていない。 弥生時代にはほとんど上偶らしい る・と , 窒息ガス ( ホスゲン , ジホスゲ ン ) , 催涙ガス ( クロルピクリン , ク ものがないが , 古墳時代にはいると , 死者を葬る墳丘の上に立てる埴輪 ロルアセトフェノン ) , びらんがス 土偶 ( 人物埴輪 ) が数多く作られた ( イベリット , ルイサイト ) , くしやみ / 埴輪 / 縄文式文化 〔芹沢〕 ガス ( ジフェニノレクロノレアノレシン , アダムサイト ) , 血液ガス ( 青酸 , ク どくうつぎ〔毒空木〕イチロべ ロルシアン ) などのはか , 新しいも ゴロシともいう。山野の日当りには ので神経ガス , 精神錯乱ガスが注目 える高さ 1 m くらいのドクウッキ、科