4 7 8 都市はこのような商工業者の自由と 平等を原則とする誓約団体 , 封建諸 侯と並ぶ広範な自治権をもつ自衛団 体 , 政治団体であるが , そうした法 的地位の確立はようやく 11 ~ 12 世紀 , 一般的には 13 ~ 14 世紀のことである こに至るまでにはきわめて 回ロ 長い過渡期が必要であった。したが ってその過渡期における都市的集落 の維持 , 発展という面で , キリスト 曰ロ 教会や修道院の演した役割は大きく , ユミロ 山の例。大手は身分層 産物市場の成立が , 商工業者の実力 により整然と居住区を 匸二二二二コ を増大させたものと思われる。しか 誓約団体という形式をとりえたのは , 人 ) 。からめ手は旭川 おそらくキリスト教的な団体意識と をめぐらして守備を固 める。川向うは後楽園 ゲルマン的なそれとの結合の結果で あろう。次に中世都市の市民団をそ に上中流の住宅 , さらに重工業地区 , る。いまこれを類型的に古典古代都 の構成要素の面から考えてみると , 飛行場などがある。一般に会社は機 市 , 中世都市 , 近代都市というふう イタリアを中心とする南欧型と , ラ 能性を求めて中心部に集まり , 住居 に分けて考えてみると , それはそれ イン下流 , フランドル , 北フランス や工場は広い敷地や静かな環境を求 ぞれにその時代の社会経済機構を反 を中心とする北欧型との大きな対照 めて遠心的に移動する傾向がある。 映し , おのおの独特の特徴を示して がみうけられる。すなわち南欧型都 そしてそのあいまの所属のはっきり いる。ます古典古代都市は , ポリス , 市では封建貴族の市民化が行なわれ , しない地帯に / スラム街が出現する。 あるいはウルプスまたはムニキピウ 貴族と大商人との合体 , 門閥化 , ひ こうしてますますマンモス化する現 ムとよばれ , その城壁の周囲に一定 いてはやがて都市内部の階級的対立 代都市における人口の集中 , 交通の の領土をもつ小規模な都市国家であ を誘発する要素が強かったのに反し , 混雑 , 住宅問題 , 衛生問題など , い 北欧型都市では自治権の獲得が封建 った。 / ポリスは , 最初農村に在住 わゆる都市問題の解決のために種々 勢力への反抗 , 暴動とその排除とい した戦士的地主階層の集住 ( シノイ の対策が講しられなければならない。 う形をとったため , 市民団の内容が キスモス ) によって成立したものが 英国では 19 世紀以来 , 田園都市 gar - 多く , 付庸民および奴隷の生産活動 比較的純粋な , 商工業者および農民 的市民の誓約団体たる特質を保持す den city の構想が立てられ , 労働者 を前提にして , 原理上平等の立場に が歩いて工場に通い , 余暇に畑を耕 ることができた。北欧都市に公共世 立つ自由な市民の誓約団体 , 都市共 すことが計画されたが , 工場と人口 界に奉仕する健全な市民意識が育成 同の守護神を祭る宗教団体であるこ の一部地域への集中のために理想ど されたのは , ーっはこういう理由に とをその本質としていた。そのこと おり進まなかった。したがって労働 から , 「市民権」を中心とした国政運 よるのである。中世都市はこうして 者は夜寝るだけの , いわゆるべッド 13 ~ 14 世紀に最盛期を迎え , 15 世紀 営の理論がうちたてられ , 長く欧州 タウンから時間をかけて職場まで通 にはいるとかえって伝統主義のわく の国家論に影響を及ばすこととなっ 勤することが多い。各国の都市では たが , 経済的にこれをみれば , 古典 にとしこもる傾向を示すが , 16 世紀 いすれも都市計画の必要にせまられ , 古代の市民はすぐれて特権的な消費 以降 , 近代国家の台頭 , 重商主義政 それとともに周辺の新設 , 既成の衛 者階級であり , 都市そのものも一般 策の採用 , 植民地貿易の拡大という 星都市を結ぶ行政区画を越えた総合 的には消費者都市であったといえる。 変革期にはいって , いよいよ急速に 的な計画が要求されているが , 日本 ところが中世以降においては , 古代 その特色を失うに至った。すなわち は著しくおくれているといわれる。 多くの都市は , 強大な国家権力の前 的伝統の強いイタリアの一部の都市 次に都市の形態や機能の変遷を歴史 を除いては , 都市国家という形はな にその自治権を奪われ , 国家行政の 〔岩井〕 くなり , 存立の原理を異にする都市 地方的中心に編入されたが , 外国貿 的にみてみよう。 ドイツ中世に建設され 易のための港湾都市やパリ , ロンド 都市の歴史 と農村の相互関係というものが , 社 たネルト・リンゲン ( 左 ) は聖堂を中心とする放 〔西洋の都市〕欧州の歴史において , 会経済を特色づけることとなる。そ ン , ウィーン , ベルリンのような各 射状都市。周囲を城壁 都市がめざましい発達をとげた時期 して市民の性格も一変して , 商工業 国の首都だけは , 例外的に人口の激 が固める。イスラム教 に従事する広義の生産者または勤労 増を示した。しかし近代国家の成立 は , キ、リシア , ローマの盛時と , 13 ~ の聖地メッカ ( 右 ) は砂 15 世紀にかけての中世後期と , 18 世 者の集団となり , 都市はいわゆる生 による首都の繁栄は , 東洋史にみら 漠の中に幾何学的に構 産者都市の特色をおびてくる。中世 紀末以降の産業革命期との 3 期であ れる都城などと比べれば比較になら 成された宗教都市で巡 礼が続く。 18 世紀中葉 ないほど小規模なものであった。し たがって欧州において近代都市を真 に巨大な商工業都市に発展させる最 大のきっかけとなったのは , いうま でもなく産業革命であり , それに伴 う資本主義の飛躍的な発展であった。 15 ~ 16 世紀には人口 IO 万の都市は当 時の最大の都市であったが , 産業革 命と世界市場の開拓によって新しい 産業都市が起こり , 都市人口が増大 した。中世の同職仲間であるキ、ルド やツンフトは解体して , それに代わ る大企業が続出し , 労働者の大群が A 天守を中心にした城郭。 日二の曲輪 ( くるわ ) , 上 層武士の屋敷。 C 町人の 住む中心商業区。 D 中層 家臣の居住区。 E 商工町 人の住居と寺院 , 小身の 武士 , 足軽などの居住区域
チュウワ 中部地方 ( 補 ) 日本全 体からみると太平洋岸 の人口が膨張する傾向 にあり , 名古屋を中心 とする中京地区は東京 , 大阪の中間にあって , これらの大都市ととも に東海道メトロポリタ ン地域 ( 大都市群帯 ) を 形づくりつつある。ま た , 最近 , 名古屋を核 とし , 中部地方に滋賀 , 三重両県を加えた地域 を , 中部圏としてまと まった経済地域をつく ろうという動きや , 伊 勢湾を中心とする愛知 , 三重 , 岐阜を合併して , 東海地方としての広い 行政単位にしようとい う動きが盛んになって きている。 量が少なくて冷涼な気候である。東 海地方の半島の先端部は冬も霜をみ ない温暖地で , 花卉 3 、栽培や野菜の 促成栽培が行なわれるが , 日本海斜 面の山間部には北西季節風に面して , 積雪 5 m をこえるところもみられる。 内陸盆地には日本にはまれな降水 量 IOOO mm 内外のところがある。 〔産業〕愛知県を中核とする工業地 域以外では , 主要な生産は農林水産 で , この地方の住民のうち 50 % 以上 がこれらに従事する。しかし北陸地 方を別として兼業農家が多く , 農家 人口の減少傾向がみられる。中部地 方は阪神 , 京浜の二大工業地帯の中 間にあり , また / 中京工業地帯をも っているので日本の他の地方よりも 深く , 広い範囲にわたってこれら経 済的中心の影響をうけている。中部 地方最大の資源である水力電気の大 半が , 関西 , 関東に送電されている のは , このような構造の現われの一 つである。また重要な観光資源であ る温泉 , 登山 , スキー , スケート , 避 暑地などの観光地を経営する資本や これを訪れる人々が , この二大経済 的中心をバックにしているのもこの ためである。このような点で中部地 方はまとまった自己の経済圏を構成 せす , 豊富な労働力も他の地域に出 ていく傾向にあり , 北陸 , 東山地方 に著しい出かせぎもこの現われであ る。名古屋の経済力は遅れて発達し この地方全体をその勢力 たために 範囲とすることができす , わすかに 東海地方の西半と , 東山地方の一部 を圏内に収めているにすぎない。北 陸地方はその自然条件に基づいた米 作と紡織業に , 東山地方も地形や交 通条件に根ざした商品作物栽培にお のおの特色をもち , 東海地方は気候 条件がよいことと市場に近いことと で , 近郊農業化の傾向を示すが , 中 部地方全体としての農業的特色は見 いだしえない。むしろ上記の順序に 農業地域の発達順序が現われる点が 特色であろう。工業上の特色は中小 企業が多く , その生産物は消費財を 主とする点にみられ , ことに衣料品 や家庭用品 , たとえば綿織物 , 農機 具 , 自動車 , 時計 , 楽器 , ミシン , カメラなどがそれを代表する。陶磁 器 , 化学肥料 , 製紙などもこの地方 の特色をよく示す工業である。 〔歴史〕中部地方は地形的に居住地 域が分立して発達したうえ , きびし い自然条件のもとでは初期の未熟な 技術による開発が望めなかったため , 富の蓄積が乏しく , 中世にはいって からやっと進展がみられた。北陸地 方には早くから畿内文化がはいった ため , 若狭 , 越前 , 加賀 , 越中には , 現在なお京阪神に対する経済的 , 文 化的依存度がわりに高い。東海地方 は中世 , とくに鎌倉時代以後関東の 勢力圏の影響力が強まってから , 日 1 2 8 本の二大中心地を結ぶ地帯として重 要視されてきたが , 東海地方自体の 発展は , 主として江戸時代 , 明治時 代になってから著しかった。名古屋 ( 中京 ) を中心とする東海地方は独自 の文化圏を形成したが , 愛知 , 岐阜 , 近畿地方の三重の 3 県を圏内にもつ にとどまり , 静岡以東は交通が発達 して市場 , 製品販路 , 方言系統 , 観 光など , いすれの点でも東京文化圏 に吸収されてしまっている。関東 , 関西の両文化圏は , おもに東海道 , 中仙道によって交流し , 中部地方に は宿場町から発達した集落が多くみ られる。戦国時代には , 交通上の障 害をよりどころとして , 今川 , 上杉 武田など各地に群雄が割拠したが , もっとも農業が進み , 交通面でも畿 内と連絡のよかった尾張によった織 田氏が支配権を獲得した 〔千葉〕 〔社会・民俗〕この地方の民俗は 1 ) 若狭湾から越後 , 佐渡に至る日本海 岸地帯 , 2 ) 愛知から伊豆半島に至る 太平洋岸地帯 , 3 ) 日本海と太平洋の 中間にある中部高地の東山道地帯 1 ) の 3 地帯に分けてみるのがよい。 日本海岸地帯古くから海上による 文化の交流があったので , 近畿 , 中 国 , 北九州の海岸地帯とよく似た民 俗が分布している。ます若者組や娘 組などの年齢集団のよく発達してい ることは , 東海地帯と同しであるが , 福井県の漁村には女性の産小屋や月 小屋が分布しており , その形は三重 県志摩半島や伊豆諸島と同しである。 日本海岸地帯には隠居の慣行はない が , 結婚しても妻は里方にいて夫の 妻問いをうける形式は各地にあり , 嫁が 1 年間に幾度も里帰りをする風 習がひろくみられる。この地帯には 本家分家の結びつきの強い同族はな くて , 姻戚の関係が重んしられる。 日本海岸地帯は冬季間の屋内工業が 発達し , / 出かせぎも盛んで , 古く から富山の薬売り , 越前のかま ( 鎌 ) 屋 , 越後の毒消売りなどの行商が出 , 角兵衛獅子 E とか瞽女亳などの芸人が 各地を回って歩いた。また富山や石 川の漁民は技術が優秀で , 各地にそ の漁法を伝えている。能登輪島の海 女耋は昔福岡の鐘崎から移住してき たといわれ , その民俗は多くの問題 を含んでいる。 2 ) 太平洋岸地帯年 齢集団の発達したところで , 社会組 織の面では日本海岸地帯といくつも の共通点をあげることができる。古 くから交通の要路にあたっており , 多くの新しい文化がはいり民俗の消 滅に影響した。 3 ) 東山道地帯積雪 量の多いところでもあり , 特色ある 民家や民具を発達させており , 富山 県五箇山や岐阜県白川郷の 3 階 , 4 階に及ぶ広大な切妻型の民家 , 明治 年間まで守られてきた大家族制など はとくに有名である。日本海岸地帯 と太平洋岸とが共通した民俗をもっ ているのに対して , 中部山村は変化 に富む民俗をみせ , それが東西民俗 文化の接触点ともなっている。男女 にかぎらす最初に出生した子どもが 家を相続する姉家督相続は , 伊豆あ たりが西限であり , 末子相続は長野 県諏訪地方が東限となっている。ま た小正月に仮装仮面で家々を訪れる 「あまめはぎ」は福井県を一つの西 限として東日本に分布しており , 農 耕儀礼も , いくっかの点で岐阜県を 境にして東西に分かれてくる。なお 富山県では礪波要み平野を中心とする 散居制の村落形態が有名で , 「かい にゆう」または「かいによ」とよば れる杉の屋敷森をめぐらした孤立住 宅の景観は , 武蔵野給の新田集落と ならぶ特徴ある存在である。同しよ うな村落社会の特色は , 木曽 , 揖斐み 長良 3 川の合流する濃尾平野西部の 水害防御のための輪中形態にもみ られる。いくっかの村落が共同で堤 防をめぐらし , 自然堤防の上に倉庫 兼洪水時の避難場所である「水屋」 の石がきを高く築いた農家が点在し ている。 〔千葉・坪井〕 ちゅうわ中和電気では正と負 の等量の電気が重なり合って電荷が なくなること。化学では酸と塩基が 当量すっ反応して , 両者の性質をも たない物質を生することをいう。た とえば酸である塩酸と塩基であるカ セイソータ、、を反応させると塩 ( 食塩 ) と水を生する ( H C 1 十 Na OH ー・→ N a CI 十 H2 ( ) ) 。 一般の化学反応と同様 に , 中和反応が進むにつれて系全体の 性質が変化する。上の例では , 水素イ オン濃度が変化し , そのため指示薬 の変色 , 電位や導電率の変化が起こ る。中和とは中性に向かうことを意 味するが , 中和反応生成物はかなら すしも中性を示さない。 たとえば水 溶液中での塩酸とアンモニアとの中 和反応で生する塩 ( 塩化アンモニウ ム ) は弱酸性である。一般に中和に あすかる酸と塩基の強さの差によっ て生成物の中性からのすれが決まる。 塩酸は強酸 , アンモニアは弱塩基で あるため , 生成物は酸性側へすれる。 / 酸 / 塩基 / 塩 〔古賀〕 チュクチじんチュクチ人 Chuk- chi / 古アジア族の一つで , アジ ア大陸北東端のチュクチ半島および その西部に分布する。みすからはル オラベトランとよふ、。モンゴロイド の形質的特徴を示す。総人口 15 ( ) ( 刈 の約 % は海岸に住み , 魚や海獣など の狩猟を行ない ( 海チュクチ ) , 他は 漁労のほか , 川沿いの盆地でトナカ イを放牧する ( トナカイ・チュクチ ) 。 社会単位は , 夫 , 1 人または数人の 妻 , 子たちの構成する家族で , 経済 的単位は , 漁猟区を共同で使う一団 ( 海チュクチ ) , いっしょにキャンプ する一団 ( トナカイ・チュクチ ) であ る。皮で張った低い円形のテントに
の中世社会は , その文化要素からい えは , ロ・・一マ帝い」の伝統 , キリスト 教 , ケルマン民族精神という 3 者の 融合体として現定できるが , その発 展は次の 3 に分けて考えられる。 すなわち 中阯前期 4 ~ 5 世紀 から 8 ~ 9 川 : 紀まで , 2 ) 中世中期だ いたい 9 ~ 12 世紀ころまで , 3 ) 中世 後期たいたい 13 ~ 16 世紀ころまで。 1 ) ます第 1 期は , 「ヨーロッパ社会」 の成羅期に該当する。この時代の初 期には , Ⅲローマ帝国領内へゲルマ ン民族か移動して多くの部族国家が でき , 占い占代的単一帝国の体制は まったくくすれ去るが , 社会経済生 活の面ては , 欧州の南半ではなお末 期ローマ的な慣習や制度が根強く残 り , 北 ' ににはゲルマン的な要素が圧 倒的に強かった。農民のあり方も , 南半て、はローマ貴族のウイラを中心 にコロヌみ制や奴隷制が基調をなし ていたのに反し , 北半には大家族ま たは氏族制の仮面をかる小規模な 原初村落のまとまりがあちこちに散 在し , そのうえに主従制に基づく戦 十的自由民と地方豪族との人的結合 体が , これまた大小まちまちに分立 していた。商工業や都市の生活は , 南半では衰えたりとはいえなお残っ ていたが , 北半にはまだ都市生活と 名づけうるものは見あたらなかった。 フランク王国は , カトリック教会と 結ぶことによって , このような地域 差のうえに大きな工権をうちたてる とに成功し , ロマン , ゲルマン両 民族の漸次的融合を促進するのに貢 献したが , それでも政治 , 経済 , 文 化の中心をライン , セーヌの流域に 切り換え , いわば地中海に背を向け た農村支配の体制に踏み切るまでに は , 8 ~ 9 世紀におけるカロリング 朝の台頭をまたなければならなかっ た。それゆえ 8 ( ) ( ) 年クリスマスの日 のカール大帝の截冠 : 立は , ただに政 治史的な画期であったばかりでなく 社会経済史的にも文化史的にも , 真 ョーロッノヾの誕生」を告げる象 徴的な件であった。 2 ) 第 2 期は , 封建制度の確と普及 をみた時代であったといえる。恩貸 制と主従制の結合としての封建関係 は , カロリング朝期に至って国家統 治の根幹的なー制度となり , 形式的 な役人制と並行して普及した。農民 の賦彳殳と貢租のうえに立ついわゆる 古典荘園支配が , 欧州の各地に形成 されたのもこのころからである。前 代のウイラないし小村落の多くは , 南 北の別なく三圃農法をとる集村形 態に変容しはしめたが , もともと分 散所領 , つまり一村多領主支配と領 主直営地への賦役義務を特色として いたため , この時代の村落はいまだ 法的意味での自治的諸権利や裁判権 を獲得することができす , せいぜい 農地経営の運営面における共同体的 1 2 3 慣習を育て得たにすぎない。また散 居制をとる地域では賦役の制はあま り発達せす , 最初から生産物または 貨幣による地代形態が多かった。し たがってそれだけ共同体の規制は弱 く , 農民各戸の個人主義的傾向が強 かった。さらにまたこの時代は , ノ ノレマン , サラセン , マジャーノレなど 異教徒の侵入があいついだため , キ リスト教徒による積極的な商工業活 動は , 北イタリアおよびライン下流 低地地方の一部を除いてはみられす , 農村人口の着実な増加と開墾が進ん だ程度であった。しかしその結果と して , 地方的な小市場が教会や修道 院の所在地に発生し , やがて開花す る特産物生産への新機運を生み出し たことは注目されなければならない。 3 ) 第 3 期は , 前半 , 外敵の侵入がや み , キリスト教文化圏の一応の平和 が保たれたことや , 十字軍遠征の新 しい刺激もあって , 中世的経済活動 がその頂点に達した時代であるが , 14 世紀中葉における黒死病の大流行 は , 全欧州にわたって人口 , 上地 , 資本のバランスを大きく乱して , 深 刻な経済危機を招いた。したがって その後半は , 各国それぞれにこの危 機からいかにして回復するかの課題 に直面して , 部分的にせよ , 近代的 な芽ばえをつかんだ時代である。い すれにせよ第 3 期の大きな特徴は , 中世都市の繁栄と古荘園の解体に 求められる。都市の繁栄は新しい市 民意識とおう盛な企業家精神を生み , 古荘園の地代荘園化は村落自治の 団結を固めるのに役だった。しかし この転換期にあたって , 今度は都市 の経済力を吸収しようとする王また は領坪君主の政策的意図が前面に現 われ , 農村に対しても個々の荘園領 主をこえて軍事的 , 裁判的にこれを 一円支配しようとするプルクまたは 裁判領主の権力が増大した。したが ってこの時代の封建領主は , もはや 単純な荘園領主ではなかったのであ る。そしてこの変化のさい , イギリ スとフランスでは王権強化または王 を中心とした身分制強化の方向をた どったか・ , イタリアとドイツでは逆 に都市国家および領邦の分立状態に これにはいろいろの理由が 進んだ 考えられるが , いすれにせよイタリア とドイツの国家統一の立遅れがらく 印づけられたのは 15 ~ 16 世紀である。 〔東洋の中世社会〕西洋の中世社会 についてややくわしく述べたが , そ れは東洋や日本ではもともと中世と ぃ いう時代分けの歴史意識がなく , わば学界の便宜問題としてこの概念 が援用されてきたにすぎないからで ある。封建社会を中世社会と混同す るような考え方の流行も , ーっには このような事情と関連している。つ まり東洋や日本の歴史には , 時代を 大きく区切らなければならないよう チュウセイ な超国家的な精神的変革の体験がな いのであるから , それはあくまでも 欧州の考え方を受け入れた便宜処置 にすぎない。したがってここでは封 建的生産様式や封建的な社会倫理と いったことに一応かかわりなく , 主 として政治体制の変化と文化一般の 様相を中心に , 東洋および日本の中 世社会をどう考えたらよいかを略述 してみよう。ます東洋であるが , そ の中でもインドはマルクス理論のア ジア的停滞性主張の根拠となったと ころで , そこには一見古代的にみえ る村落共同体と複雑きわまるカスト の制が根強く残っているため , どこ までをインドの中世とみるかは学界 でも未解決の問題である。またこの ような地域では , 文化発展の固有の リズムというよりも , 外民族との政 治的折衝の変化が時代分けの指標と なることが多い。そこでいきおい中 国史を中心に述べることとなるが こでも西欧や日本にみるような封 建制は成熟せす , 独自の国家観のも とに特色ある社会の展開を示したた め , 時代分けについては , 現に議論 百出のありさまである。しかしだい たい西欧との比較でいえば , 3 世紀 の後漢末から五胡十六国の時代をへ て , 隋 , 唐時代に至るまでが , ちょ うどゲルマン民族移動からフランク 王国盛時までの中世前期にあたり , その後 , 唐末から宋をへて 13 世紀後 半の元の興るまでが中世中期 , それ 以後 17 世紀清朝が興るまで , つまり 明朝を中心とする時代が中世後期と 考えられてよいのではなかろうか。 このようにもし宋代をもってもっと も典型的な中世社会と考えるならば , それは社会経済の面では唐代均田農 民の階層分解 , そこからもたらされ た佃戸坐制とよぶ新しい地主 , 小作 関係の成立を指標とし , さらに文芸 , 思想の面に現われる古代的なものか らの脱却を重視することとなる。し かしそれにもかかわらす中国では , 西欧や日本のような自生的豪族の封 建領主化 , 騎十文化 , 身分制はつい に成立せす , 最初から集権的官僚国 家の理念が極端に強かった。ー とはモンゴル族の征服王朝である元 朝でも同しであり , 中国人の世襲的 諸侯の領主権や在郷地主の権力は , たくみな監察制を通して抑圧された。 復古主義の色彩の強い明朝で , 中央 集権がいっそう強化されたことはい うまでもない。それゆえ商工業が発 達しても , 大きいものは多く官営の 特権工場または門閥で占められ , 自 治権を主張する自由都市や村落の法 的地位は認められなかった 〔日本の中世社会〕日本史の展開は , 西欧のそれと一脈相通するものがあ り , その意味で封建制度の内容も , 世界史上のどの国よりも , 西欧と日 本とが近似している。それはおそら
」響一ⅷ手 上北京の北海大橋。解放後見違えるように改装 された。東城ど西城どを結ぶ交通路の一つで、幅 は 34 m 。右前方は紫禁城。左の小高い山は景山で、 頂上の建物は万春亭どよはれる。展望のよいニご で知られる景山は , 紫禁城の城の周囲にめぐら した堀 ( 筒子河 ) の建設のとき出た土を積み上げ たものたどいわれる。付近は公園になっている。 橋の左は北海 , 右は中海ごよはれる小湖。中上 海の中山東一路 ( 旧称バンド ) 。黄浦江に面し , 革命以前は各国の金融機関が集まっていた。それ はまた列強の中国侵略の基地でもあった。諸外国 の投資では英国が第 1 で約を占め , 第一次大戦 後 , 主ごして紡績業を中心に進出した日本がこれ に次いだっ共同租界の実権は英国に属していた。 現在上海は , 外国貿易の点では衰えたが、全国的 な経済の一大中心であるこごに変わりはない 下華南最大の都市広州の市街を貫流する珠江。 革命以前は川の両岸近くに多くの水上生活者 ( 蛋 民 ) の小船が群がっていたが , 現在では , 彼らの 大部分は陸上に住居をかまえるようになっている 中華人民共和国 1
折 ( 幕 ) からなる形式をもつもので , 立役 ( 正未 ) , 立女方 ( 正旦 ) , ふけ役 ( 外 ) , 敵役 ( 浄 ) , 道化役 ( 丑 ) など の役割 ( 脚色 ) も整った。作品では関 漢卿のく竇娥冤〉 , 馬致遠のく漢宮 秋〉 , 玉実甫のく西廂記〉などが有名 であるが , 元末になると衰えた 3 ) 明清時代明代になると南曲が伝 奇の名でふたたび盛んになった れは , 元曲とは違って幕数の制限も なく , 男女混唱も許されるもので , 高明のく琵琶記 > , 湯顕祖のく還魂記 > などの代表作があげられる。そのふ しは , 琵琶 , 箏などを伴奏とする 海塩倥 ( 調 ) と打楽器だけを伴奏に用 いる弋き陽腔が中心であった。しか し明末に笛を主とする管弦伴奏をそ なえた優美な楽曲 , 崑山腔が一世を 支配して , 以後崑曲 ( 崑劇 ) が清代半 ばごろまで中国劇の主流となしった。 これは , 南 , 北両曲のすぐれた点を 総合したところから , 中国古典劇の 基礎をつくりあげたもので , これま での名曲も , 崑曲になおされて上演 された。清末になると崑曲は一部の 文人だけの愛好するところとなり , 一般民間では弋陽腔をはしめ地方劇 ( 秦腔 , 楜子腔 , 二黄腔など ) が流行 した。なかでも安徽地方の二黄腔と 秦腔から派生した湖北の西皮腔が , 胡琴 ( 胡弓 ) を中心にした楽調を北京 に導入し , 皮黄劇すなわち今日の / 京 劇が成立した。 4 ) 現代京劇はしだいに地方色を脱 し , 全中国演劇の主流となって崑曲 を圧倒した。崑曲は中華民国になっ てほとんど上演されなくなったが , 中華人民共和国成立後再興された。 現在京劇と並存している演劇に各地 の地方劇があリ , その種類も 20() 余 をこえるが , 現在もっとも盛んなの は , 南方の越劇と北方の評劇である。 また北京に設けられた国立の中国戯 曲研究院では , 京劇や地方劇の脚本 , 楽譜の出版などを行なって演劇の向 上につとめている。また現代劇は , 日本や米国に留学した人々によって 導入されてから約 5 ( ) 年になり , 曹禺 のく雷雨 > く日出 > , 郭沫若のく屈原〉 く虎符〉く孔雀胆〉 , 老舎のく竜鬚溝 > く茶館〉などが創作劇の代表的作品 1 0 5 成をみ , 同時に軍隊 , 農村など各分 野に前衛を配置 , 各地に職能別の団 体組織がすすみ , そのなかで五・ 十事件を契機に反帝国主義運動は広 範な展開をとげた。広東の国民政府 の北伐には , 中国共産党 ( 中共 ) も参 加し , 国共合作の武漢政府を樹立 , 中共党員は 26 年末には 1 万に達した 27 年蒋介石は四・ 二反共クーデタ ーを起こし , 南京政府をたてたが , 方 , 湖南省を中心とする農民運動の 発展は武漢政府を右傾化させ , 中共 はこれと手を切って 8 月 1 日南昌に 決起し , 湖南 , 湖北 , 広東 , 江西 4 省で「秋収暴動」を展開 , 8 月 7 日 九江の緊急会議で陳独秀ら右翼ひょ り見主義コースを清算 , ソビエト樹 立などの急進政策を採用した。 〔革命根拠地の建設期〕 27 年 12 月の 広東コミューン , 海陸豊ソビエトな どの敗北もあったが毛沢東らは井岡 山を中心とする農村革命根拠地の建 設を開始した。また都市では , 都市 奪取をめざす李立三コースなど中央 指導部の極左偏向は失敗を重ねたが , 31 年 11 月には江西省瑞金に中華ソビ ェト共和国臨時政府が樹立されて , 根拠地の建設は進展した。 1930 年末 から , 国内統一を指向する蒋介石の 包囲攻撃が開始され , 33 年の 1 ()() 万 を動員する第 5 次包囲攻撃で根拠地 は危機にみまわれ , 翌年の大移動 ( 紅 軍の長征 ) を余儀なくされた。 〔抗日民族統一戦線の時代〕 35 年 1 月の遵義会議で毛沢東コースが確立 されるとともに , コミンテルン第 7 回大会に呼応して八・ 言を発し , である。 〔岸辺〕 ちゅうごくきようさんとう中国 共産党中華人民共和国の主導的政 党。 19 21 年 7 月成立。ロシア革命の 影響をうけ , / 五・四運動で指導的 な役割を果たした各地の社会主義的 グループが , コミンテルン代表を迎 えて結集をはかったのが起原。 〔国共合作と北伐時期〕はしめは , インテリゲンチアを主とした 50 数名 ほどの小集団にすぎなかった。労働 運動の推進につとめ , 中国国民党と 提携して広範な統一戦線を組み ( 第 1 次国共合作 ) , 1925 年には中華全 国総工会 ( 労働組合の全国組織 ) の結 満州事変以来の日本帝国主義の中国 侵略に対する抗日民族統一戦線の樹 立をよびかけ , 37 年 7 月に日華事変 が突発するに至って第 2 次国共合作 が成立した。中共はこれまでのソビ ェト革命方式をとりやめ , 陜甘寧辺 区を中心とする抗日根拠地の建設に っとめた。 40 年 1 月 , 毛沢東はく新 民主主義論〉を発表し , 新国家建設 の方針を明示した。国民政府は重慶 移転とともに反動化したが , 中共は 国共分裂を回避しつつ , 生産自給 , 精兵簡政や整風運動を展開して , 態 勢の強化につとめた。 45 年 4 月中共 は第 7 回全国代表者大会 ( 七全大会 ) を開き , 毛沢東のく連合政府論 > で 第二次大戦の終結にのぞむ方針を確 立した。時に党員 121 万 , 正規軍 90 万 , 解放区総人口 9500 万。戦後 , 日本軍 占領地域の接収をめぐリ , 国共内戦 が始まったが , 中共は土地改革で農 民を立ち上がらせ , プルジョアジー やインテリゲンチアの支持をもえて , 国民党軍を中国大陸から一掃し , 49 年 9 月北京に中国人民政治協商会議 を招集し , 翌月 1 日に中華人民共和 国を成立させた。その後 , 中共は国内 復興と社会主義建設をめざして努力 をつづけた。 / 中国国民党〔野沢〕 チュウゴク ちゅうごくご中国語いわゆる 漢民族の言語。漢語 , 華語ともいう。 中央アジアにまで広がる中国全上の 漢民族および海外移民である華僑 の間で話され , 総人口は 4 億をこえ るという。タイ諸言語とともにチベ ット・ビルマ諸言語と親族関係をな し , シナ・チベット語族を形成する といわれるが , その証明はかなり困 難である。 中国語は古代語では単語は原則と して 1 音節であった。現代語では 2 音節の単語もかなり多く , 3 音節以 上のものも使われているが , これら の単語も固有の意味をもつ各音節に 分析しうるものが多い このように それぞれの音節の独音性がきわめて 強いので , 中国語は単音節的な言語 であるといわれる。各音節は音調の 高低変化による声調をもち , その表 わす意味の区別に重要な役割を果た している。このような構造の単語は 活用や呼応 , 一致などの語形交替を 行なうことなく , 文中の配列の順序 によって文法的関係を表わす。各音 節は伝統的に頭子音とそれに続く部 分とに分けられ , 前者を声 ( 声母 ) , 後者を韻 ( 韻母 ) という。韻は母音と 語末子音 ( 韶尾 ) との結合である。中 古漢語とよばれる隋唐時代の標準音 では声調に平 , 上 , 去気入の 4 種の区別 ( 四声 ) があり , 韻の数は 多く , 声母には有声音と無声無気音 , 無声有気音の対立があり , 現代の共 通語である北京方言に比べて複雑な 体系を有していた。中国で国語とし ての共通語が考えられたのは中華民 国以後であって , それまでの共通語 は古代に確立した語彙を語法の核心 部を保持する文語文であった。その ため各地の方言は独自の発達をとげ , 地域が広大であるため北部と南部の 方言の間では互いに了解することが できないといわれる。 現代中国語の方言は通常五つに大 別される。もっとも勢力のあるのは 官話系諸方言で中国の北部および揚 子江流域の中心部を占め , 南は湖南 省から雲南 , 貴州地方に広がっている。 呉音系諸方言 ( 蘇州語 ) は揚子江下流 の蘇州 , 上海地方から南方浙江省一 帯に話されている。呉音系諸方言の 南方には福建省を中心とし広東省北 東部 , 台湾 , 海南島などに話される 閨音系諸方言 ( 福建語 ) があり , 広 東省 , 広西省の一部には粤当音系諸方 言 ( 広東語 ) が話されている。客家韆 方言は広東省東部 , 福建省西部 , 江 西省南部 , 四川 , 浙江各省の一部な どに散在する方言である。これらは さらに細分できるが , 共通語の基礎 である官話系諸方言とくに北京方言 の体系はもっとも簡単で声母に有声 音の系列がなく , 入声は消滅し , 平 声が陰陽 2 種に分かれて 4 種のおも なる声調を区別する。有声音の系列
樹立 ( 1917 ) といった南北対立をはじ めとして , 列強の支持を背景とする 各地軍閥の混戦状態が生まれたが , そうしたなかでも北京政府の首班た ろうとする者は , 形だけにしろ憲法 と国会をシンポルにせざるをえなか ったし , 孫文の革命運動も護法 ( 憲 法と国会の擁護 ) をたてまえとして 戦われた。このことは , 辛亥革命以 後プルジョア民主主義が浸透しつつ , なお政治勢力としてのプルジョア階 級が弱体だったことを示すものにほ かならなかった。それゆえ , 19 年の 五・四運動が反帝 , 反封建の社会革 命 , 思想革命として発現し , その指 導も社会主義的な分子にゆだねられ たのである。その後 , 24 年に第 1 次 国共合作が成立して , 革命の深化が めざされたが , 北方における「曹鎤 賄選記 ( 直隷派の巨頭曹鎤が買収 と強迫で大総統に就任 ) 」といった軍 閥の横行と , 代議制の腐敗に対して , 孫文は不平等条約の撤廃と武力の民 衆化を叫び , 国民会議の開催を提唱 して , 商 , 工 , 農 , 学生 , 軍隊その 他 , 職能別の団体を結集して人民政 権を樹立しようとした。その論拠は , これまで軽視されてきた孫文の三民 主義 , 五権憲法や革命方略に求めら こうした運動にささえら れていた れて , 25 年の五・三十運動の展開に伴 い , 広東の国民政府の北伐が進めら れていったが , やがて 27 年蒋介石に チュウカン 9 6 ったが , 武漢陥落後に重慶に移転し た蒋介石政権の反動化が進むととも に , 国共の対立が激化し , 41 年の皖 南新四軍事件となった。その後 , 中共が分裂を回避しつつ , 解放区の 発展に努めたのに対して , 重慶政権 下では国民党の一党独裁と四大家族 ( 蒋介石を中心にした宋 , 孔 , 陳の一 族 ) による経済的独占が進行し , そ れに伴って民主同盟などによる民主 化闘争が展開されていった。 45 年第 二次大戦の終結をまって , 国民党は 米国の援助のもとに中共討伐にのり 出していったが , その圧制と , 経済 的腐敗や , 対米従属などにより , 全 民族的な反対にあって孤立化し , 初 期の軍事的優勢はたちまちくずれ , 台湾への避難を余儀なくされた。そ れに代わって , 49 年 1 () 月には中共の もとに結集した中国人民の手によっ て , 中華人民共和国が創立されるに 至った。 / 中国 〔野沢〕 ちゅうかんし中問子メソンと もいう。素粒子の中で / 陽子 , / 中 性子などの重い粒子 ( 質量は電子の 約 1836 ~ 1838 倍 ) と軽い電子との中 間の質量を有するような粒子の総称。 現在日パイ ) 中間子 , ミュー ) 中 間子 , K 中間子の 3 種が知られてい る。 1932 年中性子が発見されて , 原 子核は陽子と中性子からなることが 明らかにされたが , これらの粒子を 結びつける力が何であるかという とはなお疑問とされていた。 34 年湯 川秀樹はこのカの性質について考察 を行ない この力が電子の約 20 ( ) 倍 の質量の粒子によって媒介されるべ きものであることを指摘して中間子 の存在を予言した。すなわち陽子と 中性子はたえす中間子を放出吸収し , この中間子をやりとりすることによ って互いに結びつくのである。 37 年 C. D. アンダーソンか、字宙線中にその ような粒子を発見し , それが湯川粒 子であると推定したが , その後研究 が進むにつれて湯川の予言した粒子 と字宙線中の粒子との差が明らかに なった。 42 年坂田昌一 , 谷川安孝ら は湯川中間子がこわれて宇宙線中間 子になるという二中間子理論をたて たか、 , これはノヾウ工ノレ C. F. Powell ) ; オキアリニ G. P. S. O c - ( 1903 ~ chialini らにより 47 年実験的に証明 され , 湯川中間子のはうをパイ中間 ー中 子 , 宇宙線中間子のほうをミ 間子とよぶことになった。その後 / 加 速装置の発達により種々の粒子を人 工的につくることが可能となり , 5 ( ) 年前後から新粒子がぞくぞく発見さ れたが , その中に中間子に属する質 量のものがあり K 中間子と名づけら れた 〔各中間子〕 1 ) 兀中間子核子を結 びつける湯川中間子で , 正 , 負の電 荷を有するもの , 中性のものの 3 種 がある。質量は荷電中間子が電子の 273 倍程度 , 中性中間子はやや軽く 264 倍である。スピン量子数は 0 。荷 電中間子は寿命約 1 ( ) ー 8 秒程度で中 間子と / 中性微子とに崩壊し , 中性 中間子は約 10 ー 15 秒で 2 個の / 光子に 崩壊する。物質粒子 , つまり原子核 とは強い相互作用を有し , 核子によ って放出吸収される。核子どうしを 衝突させて兀中間子をつくり出すこ ともできる。 2 ) ″中間子中間子 がこわれて生しるが , 兀よりも寿命 か、ひしように長いので , 字宙線中に 生き残っているのはほとんど″であ る。質量は電子の 2 ( ) 7 倍 , スピンは % , 正荷電 , 負荷電の 2 種がある。 10-6 秒の寿命で電子と 2 個の中性徹 子にこわれる。物質とははとんど相 互作用を有しないので吸収されるこ とも少ない。 3 ) K 中間子質量は電 子の 966 倍の荷電中間子と 976 倍の中 性中間子がある。中性中間子には 2 種あり , 互いに反粒子であると考え られる。一方は 10-10 秒の寿命で 2 個 のにこわれ , 他方はその 300 倍の 寿命で 3 個の兀などにこわれる。荷 電中間子は多く″と中性微子とに われ , 2 個または 3 個のにこわれ ることもある。スピンは ( ) で物質と 強く作用するが , まだおよび″中 間子はど十分に研究されていない / 素粒子 〔遠藤〕 よる上海での四・ 二クーデターを 原子核内で陽子と中性 子は , 中間子をたえす 放出吸収し , このやり とりで互いに結びつく 機に国共は分裂し , 南京政府が成立 した。南京政府は北方の軍閥勢力を 一掃するとともに ソビエト建設に 向かった中国共産党 ( 中共 ) とは決定 的に対立するにいたった。また , 孫 文の「党をもって国を治める」とい った考えを利用して , 国民党独裁の ファッショ的体制を強めていき , 列 強の承認をもえた。南京政府 , 中華 ソビエト共和国 , ないしは地方軍閥 といった複数政権の内争が連続する なかで , それぞれ経済建設や上地革 命が進められていったが , 31 年の満 州事変以後の日本の大陸侵略に伴い 抗日統一と国内の民主化を求める大 旦新 衆運動が発展し , 中共の八・ や , 西安事件などをへて , 37 年の / 日 華事変の発生を機に第 2 次国共合作 が成立して , 抗日民族統一戦線が樹 立された。ソビエト共和国は解消し , 陝甘寧辺区に形を変えた。しかし , その一方では日本軍の奧地侵入に伴 い , 南京に / 注兆銘を首班とする , 傀儡政権が組織された。やがて八 路軍や新四軍の活躍により , 日本軍 の背後にまで解放区が拡大されてい 中性子 中間子 ちゅうきようこうぎようちたい 中京工業地帯広義には名古屋 ( 中 京 ) を中心として西は四日市 , 北は岐 阜 , 東は豊橋に至る伊勢湾 , 三河湾 沿岸の平野部を占める工業地帯で , とくに集中的な地区は , 北の一宮か ら南の刈谷にわたる東海道に沿う一帯 である。この地域の工業発達の歴史 は , 京浜 , 阪神 , 北九州の各工業地 帯よりも新しいが , 発達の早さでは もっとも著しい。愛知県の平野部は 古くからもめん織物の生産で知られ , また陶器も , 家内工業的ではあるが 製作されてきた。それが工場生産に 移されたのは明治以後で , 明治末期 から大正時代にかけて四日市が原料 の輸入 , 製品輸出地となり , 毛織物 , 輸出磁器の発達がめざましくなった。 しかし中核都市名古屋の港湾施設の 整備が遅れ , またその資本力も小さ かったため , 重化学工業が発達した のは昭和年間 , とくに第二次大戦中 からであった。初期の機械工業は紡 織機 , ミシン , 時計などで , 次いで 航空機 , 電気機械 , 自動車などが興 り , その材料部門として金属製造工 業が加わってきた。戦後は化学繊維 とその原料としての石油化学が四日 市地区に建設され , これに製鉄 , 自 動車工業が続いた。中京工業地帯の 特色は生産財よりも消費財 , とくに 衣料 , 家庭用品などの軽工業が中心 となっていること , したか、ってまた 中小企業 , ことに 50 人以下の零細工 場が圧倒的に多数を占める点にある。
トシイワイ 4 7 9 都市に流れ込んだ。 19 世紀初め英国 制度においてその行政単位となった のは県であるが , 県域の中の都市的 の都市人口は , 全人口の 2 6 % であっ たが , 20 世紀の 2() 年代には 8 ( ) % に達 な部分は県治で , ふつう城璧で囲ま こうして今日の都市は , 古代 れていたので県城ともいい , 県の行 や中世のそれとは違い , 近代資本主 政 , 商業などの中心であった。郡治 義社会が生み出した史上空前の歴史 は郡の行政の中心で管下の県治の 的形成体となったが , そこには新た つに置かれ , 他の県治よりもいっそ う大きな都市であったが , ・郡治の中 な社会的 , 経済的 , 文化的な深刻な でもとびぬけて豪壮な都市は国都と 諸問題が , 健全な市民意識の保持と よばれた。秦の成陽 , 前漢の長安 , 育成をますます困難にしてきている 後漢の洛陽 , 三国時代以後 6 代の国 のである。 〔増田〕 〔東洋の都市〕中央アジアや西アジ 都となった建康 ( いまの南京 ) , 北 の洛陽 , 唐の長安と洛陽 , 宋の洋京 アの乾燥地帯では , オアシスの周辺 にオアシス農業と中継商業と手工業 ( いまの開封 ) と臨安 ( いまの杭州 ) , を営む集落が結成され , そこには水 遼 , 金 , 元 , 明 , 清の国都で , 現在 も中華人民共和国の首・都である北京 利のために欠くことのできないかん は 2 ~ 3 万 , ふつうは 5000 ~ 1 万の がい工事や周辺遊牧民の略奪に備え などがそれである。また上海 , 青島 , 人口をもっていた。平原部の城下町 の建設は織田信長の安土 % , 豐臣秀 大連 ( いまの旅大 ) などは 19 世紀の欧 る軍事施設 , 隊商のための市場や宿 米資本主義の侵入によって建設され 吉の伏見や大阪 , 徳川氏の江戸など 駅の施設が設計される。したがって た西欧風の都市であるが , 中華人民 「乾燥アジア」の古代都市国家は , 城 の建設を通してますます活発になり 江戸時代にはいると中世的なとりで 郭をめぐらしたオアシス都市の性格 共和国の成立以後 , 新しい行政組織 と新興の鉱工業の発展のもとに多く はだいたい姿を消した この傾向は をもっている。西アジアではメソボ 元和期の「一国一城令」などをきっ タミア文明のウル , アッカド , の現代的都市が出現し北京と上海 / ヾビ ニネべなども本来はオアシス かけにますます促進され , 近世の大 は中央政府の直轄市となった。 都市から発展した都市国家であり , 名たちは平野の中に大城下町を建設 〔日本の都市〕日本の古代都市にあ バビロニア王国 , アッシリア帝国 , し , 領内の武士と商工業者を強制的 たるものは律令制における都である。 孝徳天皇の難波翕に京 ( 山根徳太郎に ーーに移住させた。こうして城下 ベルシア帝国などもこうしたオアシ ス都市の結集構成された姿であった。 より発掘調査中の大阪市東区法円坂 町は武士と町人の町となった。近世 中世にイスラム教がこの地帯を支配 の城下町の設計は城を中心に全市域 町の宮殿遺跡がこれと推定された ) をはしめ , 天智天皇の近江芸う大津宮 , すると , 円蓋煢と尖塔黔をもつイス の半分以上を占める侍町があり , そ の外部 , 城の大手の方向には町人の ラム教寺院を配する幾何学的プラン 持統天皇の藤原京などがつくられた によって設計された独特の宗教都市 この地域と侍町 が , 代表的な都城は唐の長安に模し 居住地域があった。 とは石がきや堀で隔てられることも の景観がダマスクス , バグダード , て造営された / 平城京 , / 平安京で あった。町人の居住地はさらに商人 サマルカンドなどに出現するが , 昔 ある。 13 世紀以来荘園の内部に農業 町と職人町とに分かれ , 主要街道に ながらのオアシス都市の性格に根本 やア工業がくりひろげられて中世的 沿って商人町が , その裏手に職人町 的変化はない。近代の西アジアは欧 集落の芽ばえが形成され , 室町期に があり , もっとも外側は防衛上の配 入ると領主や武士のとりで , 社寺の 州列強の帝国主義的発展の舞台とし 慮から寺町があり , その端に賤芫民 門前や寺内 , 水陸交通の要地などに て近代都市の建設が行なわれ , 豊富 の居住地があった。道路も防衛のた 中世的都市の景観がくりひろげられ な石油資源をもとにキルクーク , モ めに遠見がきかぬように , 丁字路や スル , アノヾダンなどの石油業都市が このような中世都市の代表は戦 袋小路になっており , 道幅は 2 生まれた。一方 , 民族主義の興隆に 国大名の支配下に営まれる城下町で ある。城下町は初期には「堀之内」 間の狭さであった。一方 , 堺などに 伴い , トノレコのアンカラ , イランの 代表される一部の海外貿易都市には テヘランなどでは近代的な首都づく 「根小屋」「山下」などと称され , そ りが自立的に行なわれた。ソ連に編 巨富が集まり , いちじは富裕な町民 の名の示すように . 山頂や丘の要害を 入された中央アジアでも鉄道が開通 の間の自治と結束が樹立されて , 西 利用して構築された武士の居館やと 欧の自由都市にみられるように町民 していちだんと近代的に改装され , りでに結びついて発展したものであ が自立して領主と抗争する動きもあ とくにタシケントは砂漠の中にそそ るが , 南北朝時代までは山上の城と ったが , ついに町人の都市として自 山ろくの町はまだ一体のものとして りたっ現代都市となった。西アジア 立することはできなかった。近世の の都市がオアシスに起こりをもつの 構成されていなかった。しかし , 16 世紀の火器の発達や野戦大軍団の戦 城下町においても町人の経済的実力 に対し , インドの都市は河川の流域 闘などに促されて武将たちの戦術が はしだいに弱まったが , 町人は武士 の土地が豊かで交通に恵まれた地域 変化し , また広い領国を支配する必 に寄生して富を蓄積する性格をぬけ に成立したが , 13 ~ 16 世紀のインド・ 要から , 城は険しい山頂から平地に だすことができす , 江戸時代を通し イスラム王朝時代にはジャムナ川沿 移った。一方 , 兵農分離によって多 て町人の政治的発言は低かった。明 岸の交通 , 政治 , 軍事の要地デリー くの家臣団が居城に集まって消費者 治維新以後 , 国内のあちこちに近代 が首都とされた。欧州諸国の植民地 都市が形成されるが , その多くは行 集団を形づくり , 彼らの需要に応し 活動はゴア , ポンべー , マドラス , カ て , 商工業者が農村から城下に吸収 政中心地で , 江戸時代の城下町の系 ルカッタなどの根拠地の建設となり , されたため城下町の繁栄はめざまし そこから西欧風の都市が成立するに 譜をつぐものである。しかし日本の かった。伊勢北条氏の小田原 , 斎藤 資本主義の急激な発展は , 都市の建 いたった 中国の都市がいつ成立したか明ら 氏の稲葉山 ( 岐阜 ) , 武田氏の甲斐 3 設と破壊をすさましくくりひろげる。 かでないが , 河南省の殷墟やそれ 府中 , 上杉氏の春日山 ( 越後府内 ) , 工業都市として成長する都市があり , 一方 , 鉄道の沿線からはすれた城下 に先行すると想像される鄭州の遺跡 大内氏の山口 , 島津氏の鹿児島など はこうした城下町であり , 稲葉山や 町 , 宿場町 , 港町の静かな袞弱があ は大きな城壁に囲まれた都市国家で 春日山は山城であったが , すでに町 った。 / 都市計画 あったことを示し , これから推定し 〔小池〕 としいわい年祝い厄年の者が て前 15 世紀より前に都市が発生した 家と居城とは接続して発展していっ 年頭などに行なう厄払いの行事およ ことが知られる。秦の始皇帝の郡県 た。この時期の城下町の大きなもの 木曽路の宿場町奈良井
地図の投影法 場合に相当し , 地図の中心から離れるにつれて図は したようなものがある。この図法によれば , 標準緯 たいへん平たくなって , ふつうの地図にはむかない 線 ( もと地球に接していたところ ) に近い部分の形 が , 太陽と地球との関係を表わすような場合には実 は比較的正しく表わされる。しかし経線の方向には 感がでる。円柱図法は , 地球の赤道部に外接するよ 伸縮はないが , 緯線の方向についてみると , 標準緯 う円柱状に紙を巻き , 地球の中心を視点として投影 線のほかはつわに多少伸びており , 面積も正しくな したもので , メルカトル図法が代表的である。これ い。そこで , 経線間にはさまれる各緯線の長さが実 は心射 ( 中心 ) 円柱図法を等角になるよう緯度線の間 際と一致するように経線を直して , 面積を正しくし 隔を規正した図法である。メルカトル図法において たものがポンヌ図法である。地図帳で日本全図や各 は , 地図上に引いた直線が経線となす角は , つわに 地方図あるいは諸外国の地方図に使われているのは , 実際の地球上の場合と等しい。したがって地図上で 多くはこの等積図法である。等積図法はこのほかに 海を隔てた 2 点 A , B を直線で結び , A からその方 もいろいろあるが , その一つモルワイテ図法は , 縦 向に船の進路をとれば , そのまま目的地 B に到達で 軸と横軸の長さの比を 1 : 2 とし , 中央経線から離れ きる ( ただし , この直線の示す経路は地球上の最短 るはど湾曲しただ円を用いるもので , 面積が正しく , 距離ではない ) ので , 海図にひろく用いられる。円柱 大きな形のゆがみがなくて , 世界全図としてよく使 図法の場合の円柱を円すいに変えたものが円すい図 われるようになった。またこの図法で世界地図を描 法である。すなわち , ある緯線のところで地球に紙 くとき , 数個の経線のところで地図を断裂したもの を巻いて円すい状とし , 地球の中心を視点として投 が断裂モルワイデ図法であるが , 断裂すると , 地図 影した後 , 紙をひろげて平面にしたもので , 図に示 の外縁部のはなはだしいゆがみを防ぐことができる 丸い地球を平面上に映すにはいろいろの方法があり , これが地図の投影法であるが , それらについて簡単 に説明しよう。投射図法または透視図法とよばれる ものは , ある位置に視点を置いて地球を一つの画面 に投影するもので , 視点の位置によってそれぞれ違 ったものになり , それに平射図法 , 心射図法 , 外射 図法および正射図法がある。平射図法は視点を地表 に置いて , 反対側の半球を地球の中心に立てた画面 に映したもので , 部分的に見て図の形が正しく現わ れるのが特徴である。心射図法は地球の中心に視点 を置いた場合で , 図は中心部から離れるに従って急 速に大きくなり , ふつうの地図としては不適当であ るが , 地図上の任意の 2 点を直線で結ぶと , それが 2 点間の最短経路を表わすという特徴がある。外射 図法は地球外の有限の距離に視点を置いた場合であ るが , 有限の距離といっても , 地表のごく近くから 無限に近い距離まであって , その距離は便宜的なも 正射図法は地球を無限のかなたから見た のである。 心射図法 平 射 図 法 龍町 目 00000 ■ を第はを一の 0 第ーーーー 正射図法 外射図法 心射 ( 中心 ) 円柱図法 ポンヌ図法 円すい図法 円すい図法 地図 の 投影法 断裂モルワイデ図法 モルワイデ図法
4 7 7 窪川まで延びた。窪川から土佐佐賀 市は市場の所在地 , 商工業の中心地 , まで延長された 20.7km の路線は支線 寺社教会や官庁の所在地 , 軍事上の の中村線である。主要列車ははとん 拠点などの機能をもつが , これらの どが高松から直行するため , 本州と 機能がいすれも農村的でないことが 高知県を結ぶ重要な路線であリ , ま 目をひく。要するに都市は / 村落に 対比される集落の類型で , 農漁業を た沿線には金刀比羅宮 , 大歩危韶 , 主とする村落に対して非農村的であ 小歩危の名勝 , 竜河洞などの観光地 り , 村落に比べて居住人口の量と密 〔伊崎〕 とざんてつどう登山鉄道登山 度が大きく , しかも住民は社会的文 客の輸送を目的として作られた鉄道 化的に異質であり流動的である。生 で , 急こう配の地形に建設すること 産集団と消費集団は分化し , 職場と が多いので , 一般の鉄道車両では昇 / すまいとが分離する傾向が強い。 降できないような急こう配を採用せ 〔都市の分類と構造〕都市の機能は ねばならない場合が多い。そのため 時代によっても地域によっても異な 軌道 , 車両とも特殊な構造や装置を る。歴史的分類としては , 封建都市 必要とするものである。その構造 , は城下町 , 市場町 , 宿場町 , 港町 , 型式から大別すれば次の 3 種がある。 門前町 ( 神社を中心に発達した町を 1 ) 粘着式ふつうの鉄道のように車 とくに鳥居前町という ) などの分類 輪とレール面との粘着力によって運 がある。このように都市の機能によ 転するもので , 軌道 , 車両とも一般 って現代の都市をみると , 政治都市 , の鉄道のものと大差ないが , プレー 商業都市 , 交通都市 , 港湾都市 , 宗 キ装置に特殊なものを備えている。 教都市 , 保養都市 , 観光都市 , 鉱業 粘着式で運転可能なこう配は IOOO 分 都市 , 衛星都市 , 工業都市 , 学園都 の 115 ~ 145 といわれている。日本の 市などに分けられる。都市の住民の 埋立地などで , ふつう , 商工業地 , 箱根登山鉄道がこの例で , その最急 主体を占める産業人口で分類すると , 下級住宅地として利用される。東京 こう配は 1000 分の 80 である。 2 ) 歯車 工業都市 , 卸小売都市 , 商工業都市 , の山手と下町とは典型的である。西 式軌道の中央に敷設した歯形のレ 欧のように中世からの都市が地震や サービス都市 ( 観光都市や保養都市 ) , ールと , 車両に取り付けた歯車とを 火災に破壊されすに残っている場合 交通都市 , 鉱業都市 , 水産都市など かみ合わせて運転する鉄道で , 歯レ がある。また生産都市 , 流通都市 , は , 狭い迷路をもつ旧市街のまわり ールの形状に種々あり , その考案者 に規則正しい新市街が建設され , そ 消費都市に分類する考え方もある。 の名をとってマーシュ式 , リッゲン 英国の経済学者 C. G. クラークは産業 の外部に工場や従業員の住宅地がつ バッハ式 , ストルプ式 , ピーター式 , を第一次産業 ( 農林水産業 ) , 第二次 くられる。広野の中に伝統にとらわ ロツへル式 , アプト式などとよんで 産業 ( 鉱工業 ) , 第三次産業 ( その他 れることなく建設された米国の都市 いる。もっとも進歩した型はストル の各種産業 ) に分けて , もっとも消 は , 土地の経済価値と資本の効率を プ式およびアプト式で , 最急こう配 費的な第三次産業が盛んに行なわれ 直接に反映した同心円の構造をとる IOOO 分の 250 前後まで可能である。 る都市はど現代的な都市であると述 ことが多い。中心部は最高の地価を 日本でも 1893 年以来 , 信越線横川 ~ べている。都市形態からの分類もあ 補償する高層建築が並び , 小面積で 軽井沢間 1000 分の 66.6 こう配区間に り , 街村型 , クモの巣型 , 碁盤目道 最大の利益をあげうる事業が集中す アプト式を使用していたが , 1964 年 路網型 , 不規則型などがあげられる。 る。これカ { ビジネスセンターで , 会 から粘着式にかわった。 3 ) 鋼素式 社や銀行の本店 , 高級商店街などが 都市の内部構造についてみると , 山 索道または / ケープルカーともいわ 密集するが , これに接して官庁街 , 手 upper town と , ド田」・ down town れ , 車両にロープを結び付け , 山上 新聞 , 放送社 , 鉄道駅や港湾などから との対照が目だっ。山手は台地 , 自 の駅にあるドラムにより車両をつる、 なる地帯がある。この外に軽工業や 然堤防 , 海岸段丘に乗った地域で , べ式に上下に運転する鉄道で , 粘着 商工業が混在し , その裏町が中下流 ふつう高級住宅地であり , 下町はデ 式や歯車式では運転できない急こう の住民の暮らす地帯であり , その外 ルタ , 扇状地下部 , 山ろくの湿地 , 配線に使用される。 〔鷹司〕 とし都市もともと都市という ことばが , 王宮所在地を示す「みや こ ( 宮所 , 都 ) 」と , 市場を示す「い ち ( 市 ) 」との二つの語から成立して いることでわかるように , 都市は政 治的中心としての意義と商業的中心 としての役割とをもっている。中国 の都城は政治中心地であり , 鎮は商 業と交通の要地に発達した都市であ る。都市を意味する英語のシティー ci ty , フランス言吾のシテ ci téは , ラ テン語のキウイタス civi tas からき たものであるが , 本来の意味はロー マ都市国家をさしていた。欧州の都 市名の語尾につけられている一 f 。 rd , -furt,-burg,-pur などは , 要害の地 を意味し , タウン town ( 町 ) は , かき に囲まれた集落を意味した。日本の 城下町は政治的中心であり , 宿場町 や市場町は商業的な都市である。都 登山鉄道 ( アプト式 ) 。 軌道の中央に敷設され たラックレール ( 上 ) に 機関車のラックホイー ル ( 下 ) がかみ合う 都心広場 ( アゴラ ) を中 心に整然と広がる古代 都市。図は列柱廊に囲 まれたアテネのアゴラ , 左の長い建物はアッタ ロスの列柱廊。列柱廊 の階下は店が並んでい た。右手前はゼウスの 祭壇。右側奧の円塔の ある建物は議事堂。中 央の建物はオディオン
ナガト 5 5 3 河へ進出する足がかりを得ること 〔千葉〕 となった なかじま中島瀬戸内海の防予 者島中の面積 23km2 の島。愛援県松山 市の北方にあり , 睦月 , 津和地 , 二神 , 野忽那などの諸島と温泉郡 中島町を構成する。古く忽那島とよ ばれ , 中世には放牧場があり , 後白 河天皇の荘園があった。斜面を利用 してミカン , ムショケキ、クの栽培が 長篠の戦いを描いた 翳 ー : 冫し 盛んであり , 乳牛の飼育も行なわれ く長篠合戦屏風〉 ( 部分 ) 。 ているはか , イワシ煮干しを特産す 左に徳川の鉄砲隊が陣 どり , 右からは武田の る。東岸の小浜が島内の中心集落で 騎馬長槍隊が突進する 中島町役場があり , こから松山ま で海上約 1 時間である。 〔門村〕 によって近代短歌の一つの頂点を示 国鉄羽越線が通し , 付近農村の集散 ながしま長島岡山県の南東部 , し , 独自の境地を創造した。他にく長 地ともなり , 毎月 3 , 8 の日には六斎 邑久郡邑久町に属する島。古生層 塚節歌集 > ( 1917 ) などがある。 市が立つ。米のほか , 茶 , キリ材を と花コウ岩からなる細長い島で , 19 出し , 水産業も営む。 「白埴 ( しらはに ) の瓶 ( かめ ) こそよけれ 〔千葉〕 2 ( ) 年国立らい療養所愛生園が設立さ なかぜ中瀬兵庫県北部 , 養父 : 霧ながら朝はつめたき水くみにけり」 れ , 38 年大阪から光明園が移転した。 郡関宮躊の町にある鉱山集落。 1573 〔広末〕 約 3 ( ) O ( ) 人の患者が療養しながら社会 年ごろ砂金が発見され , 1716 年ごろ なかっかわ中津川〔市〕岐阜県 生活を営んでいる。 〔赤木〕 までは , 生野銀山と並ぶ有名な金 南東部 , 木曽川流域と , 中津川 , 阿 なかしま長島鹿児島県北西部 , 木川の流れる広大な山地を占める市。 山であった 1688 年には銅も開発さ 天草下島と南東の笠山半島にはさま 1952 年市制。人口 47598 ( 1965 ) 。市街 れはしめたが , 現在は金 , 銀 , アン れた島。面積約 100km2 。出水ゞ郡東 , は中仙道の宿駅から発達し , 国鉄中 チモンを採掘し , とくにアンチモン 長島の 2 町に分かれ , 2 町合わせて 央線の開通後は付近村落の経済の中 は 98. 7 トン ( 1965 ) を産し , 全国の半 人口 18518 ( 1965 ) 。古期火山岩 , 中生 心地となった。中央線のはか , 国鉄 ば以上を占めている。 〔末尾〕 層 , 古第三紀層よりなり , 最高点は なかせんどう中仙道江戸時代 明知線 , 北恵那鉄道線が市域内を走 東部の矢岳で 402m , 北部はリアス の五街道の一つ。中山道とも書き , っている。製紙 , 木材 , 電気器具 , 紡績の大工場がある。また特産に苗 海岸をなし , 笠山半島との間の黒ノ 木曽路ともいう。江戸日本橋を起点 木石がある。東端の恵那山 ( 219 ( ) m ) 瀬戸は : 朝 : 朮か・はけしい。サツマイモ , に板橋から高崎 , 軽井沢を通り信濃 は木曽山脈中の山で , 展望は伊勢湾 タノヾコ , スイカ , ミカンの栽培が行 路をくだり , 美濃 , 近江支うにはいり草 まで及ぶ。頂上に恵那神社があり , なわれる。九州本土の阿久根 , 出水 津宿で東海道と合う 129 里 ( 約 52 ( ) km ) 中津川河岸の川上に部落には恵那 両市 , 天草島の牛深市との間に定期 余 , 67 宿の街道で , 途中坂本 , 贄川島 ( 川上 ) 文楽が伝承されている。川上 朮路がある。 福島に関所があり , 江戸と上方はを 〔勝俣〕 の西の保古せ山ろくには保古ノ湖スが なかしま長島〔町〕 結ぶ街道のうちで , 東海道の表に対 三重県北部 , 長島町 ( 補 ) 1963 年桑 桑名郡の町。木曽川と長良川にはさ あり , キャンプ地 , スケート場とな して裏にあたった。大河が少なく , 名郡長島町の三角州南 る。 / 恵那峡へも近い。 まれた三角州上にあり , 国鉄関西線 , 道中川止めの心配はなかったが , 山 端で超深層地下水の温 〔千葉〕 泉が掘り当てられ , グ なかっきよう中津峡埼玉県南 近鉄名古屋線が通しる。促成野菜 , の険しい木曽谷を含み , 街道沿いに ランスパー長島温泉と 西部 , 秩父郡大滝村にあり , 荒川 果樹の栽培が盛んで , ハマグリ , シ 産業未発達の後進地域が多かったの 名づけられて中京の大 ノリの生産も多い。増山氏が で , 交通量は少なかった。 の支流中津川がうがった峡谷。山地 〔浅沼〕 ン / 娯楽センターになった なかつ中津〔市〕大分県北部 , 居城した長島城跡 , 東海道七里の渡 ばかりの広い大滝村は全域 / 秩父多 アルカリ性単純泉 , 6 ( ) 周防灘うに面する市。 1929 年市制。 摩国立公園に含まれる。峡谷の中心 しなどの名所がある。 1570 年 11 月 , ℃。多くの浴場 , プー は中双里からその奧の中津川部落 翌年 5 , 9 月の 3 回にわたる長島 人口 58371 ( 1965 ) 。奧平氏 1 ( ) 万石の ルが設けられている。 までの約 8km で , 秩父古生層の岩石 揆は , 織田信長に対して伊勢 , 尾張 城下町として発達した中津平野の中 をけすり , 絶壁の高さは 100 m に及び , の本願寺門徒が起こしたもので , 輪 心都市で , 山国川にのぞみ , 国鉄日 広葉樹の原生林におおわれている。 中にたてこもり , 71 年 5 月信長の軍 豊線が通し大分交通耶馬渓誌線が分 川月初めから中旬にかけての紅葉期 を破ったが , 9 月信長は苦戦の末勝 かれる。紡績 , 木工 , 製鋼 , 機械の がもっとも美しい。さらに奧に秩父 ち , 長島城の門徒を殺した。その数 諸工場が立地し , 農産物を集する。 / 耶馬渓の玄関口にあたり観光客が は 2 万という。 / 一向一揆〔駒井〕 鉱山があって , 秩父鉄道秩父駅から なかしま長島〔町〕三重県南部 , 多く , 福沢諭吉旧宅 , 大雅堂 , 中津 中双里まで峡谷沿いにバス道路が通 熊野灘筅にのぞむ北牟婁郡の町。人 公園 ( 城跡 ) などもある。 し , この区間も峡谷美すぐれたハイ 〔上井〕 キングコースである。 ロ 15 ( ) 41 ( 1965 ) 。沿岸を国鉄紀勢線 ながつかたかし長塚節 1879 ~ 〔伊崎〕 なかと長門現在の山口県北西 が走り , 中心部は本材 , 水産物の集 1915 歌人 , 作家。茨城県の豪農に 散地として発達した漁港である。付 育ち病弱のため中学中退。正岡子規 部にあたり , 山陽道 8 カ国の一つ。 長州ともいう。また古くは穴門 , 穴 近沿岸はプリ定置網漁業が盛んで , の門に入り , のち〈馬酔木まし〉 , / くア 海女 : も多い。湾内の大島にはハマ ララキ ) に短歌 , 写生文 , 歌論を書 戸といった。北と西は日本海 , 東は き万葉調の「写生の歌」を主張した ュウなど暖地性植物群落 ( 天然記念 周防 : ぅ , 石見 , 南は瀬戸内海に接 農事の暇に旅行を好み , すぐれた旅 物 ) がある。また北の多気郡宮川村 する。大化改新のとき , 阿武国を合 の歌も多い。 1907 年ごろから小説に には近年宮川総合開発による宮川第 わせて 1 国となった。朝鮮半島をの 関心をもち , 1 ( ) 年漱石の推挙によっ 1 , 第 2 発電所が建設され , 電源開 ぞみ , 関門海峡をおさえる軍事上の 要地であったため , 大和 : ま朝廷や , 発が進んでいる。 〔小林〕 てく朝日新聞〉に連載した / く土〉に なかしよう中条〔町〕新潟県北 のちに西国に勢力のあった平清盛も よって名声を得た。く上 > は長く農民 部北蒲原郡の町。人口 21944 ( 1965 ) 。 この地を重視した。鎌倉時代に上肥 文学の代表作となった。 11 年こう頭 中心部は新潟平野北部の胎内川扇状 結核となりふたたび歌に専心 , 14 年 実平 , 佐々木信綱らが守護となった 長塚節 1