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1. 国民百科事典5

ノ 8 6 2 3 髱流などの変化の研究。 7 ) 気象上の オリエントやキ、リシアでも日食や月 変化の研究。 8 ) 影帯の研究。影帯と 食を戦争 , 疫病 , 地震などの不幸の 先れとした。タヒチではとれを日 は皆既になる前に数分間 , 皆既が終 わってから数分間地上に現われるさ 月の性交のためであるとするが , ざなみ模様の白黒のしまである。以 の考えはセレベス , モルッカその他 上のはか , 日は彩層や紅炎の観測も 〔小池〕 にも分布している。 行なわれたが , これらは日食時以外 につしんせんそう日清戦争 18 でもできるようになったので , 今で 94 ~ 95 年にわたる日本と清国との戦 は重点的には行なわれない。最近で 争。朝鮮における日本の地位は , 18 は , 日食時に 8 ~ 1 ()km 上空に飛行機 82 年の壬午当んの変 , 84 年の甲申の を飛ばしたり , 連続的に観測ロケッ 変以来 , 清国におされ続け , 貿易額 トを打ち上げたりして , 上空からも の比率も低下した。しかも日本国内 日食を観測する。 では民党の政府攻撃が活発をきわめ , 〔鈴木〕 〔神話伝承〕日食をめぐる神話や行 政府は , 国際緊張によってこの攻撃 事は冬至いのそれに似ており , わめ をそらそうとした。 こうした情勢の 今後約 18 年間に 日 いたり大きな音響をたてて騒ぐこと もと , 94 年 5 月朝鮮に起こった / 東 皆既食が見られる地域 本付近で見られる皆既 これは光と熱の衰えた太 か、多いか、 学党の乱は , この戦争の契機となっ 金環食が見られる地域 食と金環食の予定経路。 陽をよみがえらせ , 活気をふりそそ これは , 信仰で結ばれた農民の た なお 1963 年 7 月 21 日の ぐためである。日本神話のアマテラ 一揆新であったが , それを鎮圧でき よって日本の資本主義化は急速に進 明け方に北海道東部で スオオカミカゞ , 弟のスサノオノミコ ない朝鮮の閔氏政府は清国に援助 み , 軽工業部門での産業革命が行な 見られた皆既食は , 20 トの乱暴に怒って天の岩戸に隠れる 世紀に日本で見られる を求め , 6 月 8 日清国は朝鮓へ出兵 われた。弱体ぶりを暴露した清国は , 最後の皆既食であった 話は一種の日食神話で , 類似の神話 した。それを知った日本は , 同月 10 こののち列国による分割競争の対象 はタイ , ビルマ , インドシナなどの 日に出兵し , 軍事力を背景に内政干 とされた 〔鹿野〕 東南アジア大陸部に分布している。 渉を行ない , 保守派の巨頭大院君を にったよしさだ新田義貞 ? ~ ビルマ山地のバラウン族は , 長兄の 政権につけた ーに日清両国の対 1338 鎌倉 ~ 南北朝時代の武将。新 太陽 , 次兄の月 , 末弟の怪物という 立は決定的となった。 7 月 16 日 , 日 田氏の嫡流で朝氏の子。元弘の変に 3 人兄弟が食事したが , カレーの分 英改正条約の調印で英国の支持を感 は幕府軍の将として千早城を攻めた した日本は , 25 日豊島沖で清国船隊 けまえで兄弟げんかが起こり , 今も が , 途中で本領の上野国新田庄に 天上にのは、って争うために日食や月 を攻撃し , 8 月 1 日宣戦を布告した 帰って挙兵し , 鎌倉を攻略して北条 食が起こると説明している。兄弟姉 氏を滅は、した。建武中興政府に重用 6 月 5 日設置されていた大本営は , 妹のけんかによって食を説明する神 9 月広島へ移され , 10 月同地で開か され , 越後守および上野 , 播磨り介 話はおそらくアウストロ・アジア語 れた臨時議会は , 臨時軍事費を満場 に任せられ , さらに左近衛中将とな 族のものであろうと推定される。ま 一致で可決した。その間に戦闘は日 り , 武者所頭人の地位についた。し 本の連戦連勝となり , た , インドのラーフ神話では , 魔族 9 月には平壌 かし足利尊氏としだいに対立 , 13 を占領し , 黄海海戦で勝利をおさめ , のラーフが不死の霊薬を盗飲みし , 35 年尊氏が反したとき , これを攻め 10 月には朝鮮より清国軍を駆逐して このことを日月の訴えで知ったビン て , かえって箱根竹之下に敗れた 遼東へ進軍 , 11 月には大連 , 旅順を 翌 36 年九州から上京する尊氏を摂津 ュヌ神はラーフの首を切ったが , 不 おとしいれた。さらに 95 年 2 月山東 死を得たラーフは身体が二つになっ 湊月は翁とに防いで敗れ , 皇太子恒良 半島の威海衛を攻略し , 湾内の北洋 たまま放浪して , ときどき日月をの 親王を擁して北陸に下り , 金崎城に みこむのだという。怪物が日月をの 艦隊を降伏させた。次いで 3 月澎湖 よったが 37 年落城 , 翌 38 年越前藤島 みこむために食か、起こるというラー 列島を占領するや , 清国は講和を申 で戦死した。 / 建武中興〔新田〕 フ系の神話は世界各地にひろがって し入れ , 講和条約は 4 月 17 日 , 日本全 につちゅうせんそう日中戦争 いる。古代中国でも同しようなこと 権伊藤博文らと清国全権李鴻章 3 / 日華事変 を考えたが , 漢代以後君主の悪政の いわゆる / 下関条約と らとの間に , につてん日展日本美術展覧会 せいだと信じるようになった。古代 して調印された。日本の出征陸軍 24 の略称で , 1907 年以来の官展が第二 次大戦後の 1946 年に再出発したもの。 万人 , 雇員人夫 1() 万余人 , 海軍軍艦 日本で今後 40 年間に見られる日食 48 隻に及び , 2 億円余の軍費を要し 文部省は明治中期以後に群生した美 年月日 食分 見られる場所 た。条約で獲得した遼東半島は , 術団体を統一し , 美術の振興をはか 国干渉によって 1 週間後清国に返還 ろうとして , 19 ( ) 7 年文部省美術展覧 1969.3.1 & 午彳麦 小 北海道以外 会 ( 文展 ) を開設した。 19 年美術審査 しなければならなかったが , それを 72.7.11 明け方 徹 北海道のみ 契機に「臥薪嘗月日眦をし 委員会は廃止され , 帝国美術院展覧 ーようたん」の合ことは・ 75.5.11 夕方 徹 北海道のみ 会 ( 帝展 ) となった。その間 , 美術の のもと , 対露戦争が準備された。ま 78.10.2 夕方 小 全国 1 ) たはしめて植民地 ( 台湾 ) を獲得し , 進歩 , 普及に大きく貢献したが , 帝 81.7.31 午後 中 全国 戦時利得や償金 , 市場の開拓などに 展は無鑑査出品などの弊害が著しく 85.5.20 明け方 小 全国 2 ) 87.9.23 正午前 中 全国 88.3.18 正午前 大 全国 3 ) 9 ( ). 7.22 正午 小 中部地方以東 92.1.5 明け方 徹 全国 92.12.25 早・朝 小 全国 95.10.24 午彳麦 小 全国 97.3.9 午前 中 全国 98.8.22 午前 徹 広島 , 和歌山以南 2 ( ) ( ) 2.6.11 午前 中 全国 注 1 ) 関東以北では終わりが見えない。 2 ) 関東以西では初めが見えない。 3 ) 沖縄 では皆既食 印 35 年 9 月 ~ 日 0 日清戦争に従軍した浅 井忠の水彩画。遼東半 島 , 金州城陥落の日の 光景をえがいたもの

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6 3 2 るが , 豆類と芋類のうちの甘薯は総 飼養農家 , 頭数とも減少をつづけ , 最 第 7 表 日本の牧畜 ( 補 ) 1965 年の農家飼養家畜家禽 近では牛肉の不足を招いている。役 収量も減っている。野菜は全体に作 専業 , 兼業農家の比率 ( 単位 % ) の頭羽数はつぎのとお 畜は農業機械化の進展で減少度合い 付面積も実収高もふえている。果樹 兼業農家 リである。カッコ内は 専業農家 は例外なく著しい増加を示し , 飼料 が著しい。その他 , 馬 , メンヨウ , ャ 年 第 1 種 第 2 種 196 ( ) 年の頭羽数に対す キ・はいすれも飼養農家数 , 頭数とも 作物も畜産の伸びに対応して作付面 る割合 ( % ) 。 31.8 45 . 2 に減少 , 豚と鶏のみ頭羽数が増大し 積は増加している。要するに , 作付 乳用牛 128.9 万頭 ( 154 ) 37.6 35 . ( ) たが , 飼養農家数は , 乳用牛と同じ 面積は需要の動向に対応しながら動 役肉牛い 8.6 万頭 ( 81 ) 33 . 7 34 . 3 1962 年以後減少 , とくに小規模 32.2 万頭 ( 48 ) いているカ { , 1() アーノレ当り収量は , 馬 37 . 2 2 ( ) . 5 メンヨウ 2 ( ). 7 万頭 ( 26 ) 飼養農家が減り , 規模が拡大してい 戦後どの作物も増加していたが , 19 注世界農林業センサスい 96 の , ヤギ 32.5 万頭 ( 58 ) る。日本の畜産の問題は生産費がき 61 ~ 62 年以後は停滞状況にあリ , 労 は中間農業センサスによる 豚 397 . 6 万頭 ( 2 ( ) 7 ) わめて高く , したがって生産物価格 働力が高齢者と婦人に依存してきた 鶏 132.5 百万羽 ( 245 ) 〔大谷・篠原〕 が高い点である。 ッシュソーセージなど練製品約 73 万 ことが生産力に反映してきたといえ なお 1964 年度の飼料 〔林業〕日本の林業は , 国土の 67 % トン , 冷凍品 137 万トン , 海草乾製品 る。農家戸数 , 農業人口の推移 , お 供給量は 1404 万トン を占める林野を利用して行なわれて よび専業農家と兼業農家の割合は第 5 万トン , 飼肥料 43 万トン , かんⅱロ 三士 ( 襯飼料 587 万トン , 濃 厚飼料 817 万トン ) で年 一般に育林と採取とは経営主 6 表 , 第 7 表のとおりである。農家 は 64 年度で約 250() 万籀などである。 いる。 年著増するが , 濃厚飼 が別で , 育林では , ふつう山林所有 人口の減少は 1960 年ごろまでは著し 水産加工業の経済構造は塩乾品など 料のうち輸入飼料は 426 者が経営者である。 1960 年世界農林 かったが , 最近は農家戸数の減少が の低次加工品は零細漁家によって副 カトンで , 年ごとに輸 業センサスでは , 山林保有林家 ( 表 業的に生産され , かん詰 , ソーセー 目立ち , 65 年には 566 万戸までにな 入依存度が高くなる。 の個人にほば相当 ) は 270 万戸 , うち この減少率は 1960 年の農家戸 ジ , 冷凍品などの高次加工品は水産 った。 91 % が 5 ヘクタール未満の零細保有 数の 6.5 % に当たる。減少率の大き 会社 , 食品会社によって生産されて 者 , 100 ヘクタール以上の大保有者は い地域は北海道 , 四国 , 九州などで , いるが , 水産加工業の経営体の 90 % (). 1 % だが林家保有面積の 12 % を占 減少率が少ないのは東山 , 東北など 以上が個人経営の小企業である。 めるはど集中している。林家の 95 % である。残った農家の中では専業農 国内の消費面では , 塩乾品の消費 まで農家だが , 5 ヘクタール以上の 家の減少がつづき , 増加をつづけて はあまり変わらないが , 調味用の煮 第 6 表 林家では林業を主とするもの 1 万余 いる兼業農家の中でも , 農業を従と 干しは 1960 年以降著しく減少してい 農家 , 農家人口の推移 戸 , 30 ヘクタール未満の林家の育林 する第二種兼業農家の増加が著しい。 る。高次加工品は都市農村ともに消 農家 労働はおもに自家労働で行なわれて 費が増加 , とくにかん詰類の増加が 兼業の内では出稼人口がふえ , 63 年 農家 年 人口 次 いる。民有林では森林組合 ( 協同組 ごろすでに 10() 万人に達したと推定 目立つ。水産物輸出高は , 1962 年ま 千戸 千人 されている。農業従事者では基幹労 合組織 ) が組織されている。人工林 では年々伸び 1127 億円に達した。そ 37 997 1950 6213 は生産力が高いが , 人工林の比率は 働は男子より女子が多いが , 年齢別 こでは冷冫東品 , かん詰 , 真珠などカゞ 36618 1955 6075 国有林 20 % , 都道府県有林 29 % , 会 では男女とも 29 歳以下の若手労働力 大幅に伸び , 油脂 , 塩乾品 , 寒天など 34 54 6 196 ( ) 6 ( ) 57 社有林 29 % , 林家保有林 36 % である。 が減少した。 62 年以後 , 水産物輸出 が著しく減リ全般に高齢化している。 1965 3 ( ) 11 4 5665 人工造林樹種ははとんどが針葉樹で これは農業生産の発展による農業所 は停滞気味で , 65 年の輸出高は 1110 注 1965 年中間農業セ 億 3800 万円であった。輸出先は , 塩 あるが , 天然林では広葉樹が主であ 得の増大にもかかわらす国民の一般 ンサスによる る。用材需要は増大の一途をたどり , 的生活水準の向上につれて , 農家の 水づけかん詰が米国向け , 油づけか 1959 年 4708 万 rn3 , 79 年には 7000 万 m3 生活水準も上がったために , 農業所 ん詰が西欧向けである。カツオかん に増大するとみられている。用途は 得だけでは生活費をまかなえない農 詰は西ドイツに , サバ , イワシ , サ 多様であるが , とくにバルプ原木の ンマかん詰は東南アジアにおもに輸 家がふえたことに基づく。農家人口 需要が増大している。供給不足は輸 出される。塩乾 , くん製類は香港 , の減少も , 他産業における雇用の増 入 ( フィリピンなどのラワン材 , ソ連 大に基づくとはいえ , 同し理由によ 東南アジア向けがほとんどで , フィ 材 , 米材 ) などによって補われてい ールは大半が西ドイツへ輸 るものである。経営規模は , 60 年こ ツン・ユ る。薪炭関係の需要は減少の傾向に ろに比べ 65 年には都府県では 1.5 へ 出される。 ある。林業生産の維持向上を目的と 冷凍施設の機能の拡充は生鮮水産 クタール以下 , 北海道では 7.0 ヘク する国家的な森林計画制度が樹立さ 物の高度利用を樹立する第 1 の要素 タール以下の経営戸数が減り , それ れ , 奥地未利用林開発 , 林道設定 , 各 以上の規模の農家がふえている。農 といえる。冷凍施設は 1964 年で工場 種の造林が行なわれ , 育種事業や林 実数 2974 , ・その能力は製氷 1 日 3 ( ) . 5 用機械の台数も年々増加し , 65 年に 木肥培なども導入されている。採取 万トン , 冷蔵 5 万 m3 , 凍結 1 日 14 万 は耕うん機の 215.5 万台をはしめと 過程の機械化は急速に進み , 育林で トンで , 戦前からみると格段に躍進 , して , 噴霧機 , 散粉機、さらにオート も機械化の気運が出ている。木材利 1959 年に比べても 1 . 4 ~ 14 倍になっ 二輪車やトラックの使用もふえつつ 用合理化でもパルプ原木の広葉樹利 ている。これは水産業の動向として , ある。なお , 戦後における生産力の 第 8 表 用開発が行なわれ , また木材利用率 大資本の水産会社の流通加工面への 発展をもたらした条件としては , 1 ) 所有形態別林野面積 を高める繊維板 , 削片板なども現わ 進出に伴って冷凍施設の増強が進ん / 農地改革による自作農化 , 2 ) 農業 ( 単位千ヘクタール ) れている。 / 林野制度〔野々村〕 だためで , 大企業による系列化が著 機械化による適期適作業 , 3 ) 保温折 国 林野庁 7259 〔水産業〕戦後の漁業活動の上昇は しい。一面 , 最近は農林漁業金融公 衷苗しろをはしめとする技術改良 , 呂 その他 412 その燃料資材需要の増加となって現 庫の融資で , 漁業協同組合経営の冷 4 ) 農薬と防除機械の発達にともなう 都道府県 1068 われている。漁業用石油製品の消費 凍施設が全国の漁業生産地に設置さ 病害虫の防除体制の強化 , 5 ) 広範な 市区町村 1339 量は , 1962 年で 155 万 k / , とくに南 れている。消費地への入荷は六大都 土地改良事業の実施などがある。 財産区 561 氷洋捕鯨 , マグロ延縄 , 母船式サ 市への入荷量が年々増加し , なかで 〔牧畜〕牧畜は , 農業のうちでも戦 イ固人 11321 ケ・マス漁業の燃料消費が著しい。 も東京がその % 以上を占めている。 後とくに著しく伸びた部門である。 私 ・会ネ上 781 総漁獲量の中 , 加工用原料にされる 業態別の動向をみると , 最近では無 そして内容的には馬 , メンヨウ , ヤギ , ネ上 = 寺 168 動力漁業 , 定置網 , 地引網などの従事 率は年々少しすつ上昇している。 役肉牛が減って , 乳用牛 , 豚 , 鶏が 営 その他 1414 者の減少が目立ち , 沖合漁業の場合 れは従来 , 副業として行なった簡単 未調査 1284 ふえたことに戦後牧畜の特徴がある。 な加工から , 水産製造専門の工場に は経営体数は減っているが 2()() トン 牛では , 乳用牛の増加率が大きく , 25607 以上の層が増加し , 沖合漁業の大規 飼養農家数 , 頭数ともに役肉牛に近 よる大量生産の体制を整えてきたた 注 196 ( ) 年現在。く第 41 模化が進んでいる。技術者 , 学卒者 めで , 64 年で塩乾製品約 62 万トン , づいているが , 飼養農家数は 1963 年 次農林省統計表 > の就労は , 本来の漁業から , 二次 , 以後は減少の傾向にある。役肉牛は 塩蔵品約 33 万トン , かまは、こ , フィ による 年 っ 0 《 4 0 っ 0 5 9 っ 0 「ーワ」ワ」 ワ」ワ」 4 ・ 195 ( ) 1955 1960 1965

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4 7 2 預を世襲するようになったのも , そのころからのようである。 / 土佐 光信以後家系と画系とが一致し , 光 元のあと , 桃山時代にいちし絶えた が , / 土佐光起によって再興され , 江戸時代を通して / 狩野派と対立す 〔高崎〕 る流派として存続した。 とさみつおき土佐光起 1617 ~ 91 江戸時代初期の画家。光則の子。 土佐家は光起の祖父光吉のとき , 足 第ゞ鬢ゞ 利氏の滅亡とともに泉州堺に移っ の日記である。経路は土佐から室戸 たが , 1634 年ころ光起は父とともに 岬を通って四国の東岸を北上し , 淡 京都に帰った。父の没後 , 光吉の門 路島の南を通って和泉国の海岸にと 人戸田光純について研さんに努めた りついてこれを北上し , 淀 { 川をさか 土佐光信作く後円融院像〉 1492 結果 , 宮廷に召され , 1654 年左近将 のばって山崎で舟を捨て , 車で京都 監に任せられ , 絵所預となり , 光 このことばを , スポーツとして山に にはいった。ときに貫之は 70 歳前後 , 登る場合に限って使う場合が多い。 吉以来絶えていた土佐家の絵所を再 船団の統率者として風波にさまたげ そして , スポーツの場合には , スポ 興した。晩年てい髪して常昭と号し , られ , 海賊におびえる海路の旅の容 ッとしての , いくっかの条件を備 法橋齷うに叙せられ , また 1685 年法 易でなかったことがうかがわれる。 眼となる。彼の作品は絵巻 , びよ えていなければならない。その第 1 日記中諸所にみえる歌に関する感想 うぶ , 掛軸など多数あり , 画題も各 は , 山登りそのものを目的とし , そ や各地の人情の厚薄を論したりする 種にわたっている。画風は繊細で , のなかに意味というか , 楽しみとい ところに , 晩年の貫之の思想やその 自然物の描写などに漢画の筆法を うか , 何かやりがいのある値うちを 常識円満な人がらもうかがわれる。 加味しており , また宋代院体風の鶉 認めているということである。いい 文学史的に初期のかな文の名品とし 図を得意とした。おもな作品にく厳 かえれば山登りがほかの何かの目的 て簡素ながら格調の高い文章であり , を達成するための手段でないという 島松島図屏風〉 ( 徳川家蔵 ) , く源氏 またのちの女流文学への道を開いた 物語絵巻〉 ( 石山寺蔵 ) , く大寺縁起 > ことで , それが職業であったり , 鉱 作品として高い位置を占める。一編 ( 開口神社蔵 ) , く粟鶉図屏風〉 ( 福岡 脈捜しであったりすれば , もうスポ を貫く重要な主題は , 貫之が土佐で 家蔵 ) , く北野天神縁起絵巻 > ( 北野天 ツの範囲からはみだしたものにな 失った幼い娘に対する哀惜の思いと , り , したがって , いわゆる登山とは 満宮蔵 ) などがある。 人々の早く京へ帰りたいという望郷 〔高崎〕 とさみつのぶ土佐光信 ? ~ 15 区別されることになる。スポーツと の念である。記事は一行中の一女性 21 頃室町時代中期の大和絵画家。 に仮託して書かれているが , そのた しての第 2 の条件は , いつもそのな 広周の嗣子で , 光弘の子と推定され かに未知な要素をふくんでいること め前国守という立場では書けないこ とも自由に書けたのである。〔石田〕 である。スポーツという以上は , 大 ている。右近将監に任ぜられ , 1469 なり小なり , その未知なものの挑戦 年絵所預となり , 96 年刑部大輔 , の とさは土佐派平安時代からの ち従四位下に叙された。宮廷絵所の こたえていこうという心、構え , 態 大和 : ま絵の伝統を継承した流派。土 度がなくてはならない。そして勝敗 はか足利幕府の御用絵師にもなり 佐派系図によれば , この家系は平安 多くの所領を得 , 絵師として最高の をかけて , その未知な相手にぶつか 時代の藤原基光に始まり , 江戸時代 地位を築き , 土佐派の中興と称せら っていくところにスポーツ本来の姿 末まで続いたことになっているカ { , れた。宮廷 , 公家 , 武家 , 寺社のた がある。登山の場合でいえば , ーっ 確実なのは室町時代初期の行広以後 め多くの絵を描き , その種類も多方 の山を登れば次の山を目ざす。山は で , それ以前は疑わしい。大和絵の 面にわたっている。画風は当時盛ん むすかしくもなり , 複雑にもなって 中心、的な流派となり , 宮廷の絵所 であった漢画の影響をうけて , 肥痩苫 いく。しかしこのことは無計画に 〔土佐派略系〕 光信一一光茂光元 のある描線を用いている。現存する 無鉄砲に , ただむすかしい山 , 高い 光則 おもな作品には , く星光寺縁起 > ( 2 山にぶつかっていくということでは 巻。国立博物館蔵 ) , く十王図〉 ( 1() 幅。 ところで相手が山なのだから , ない ( 住吉派 ) 浄福寺蔵 ) , く天神縁起 > ( 3 巻。北野 ふつうの意味での勝負にならないこ 匚光起ー光成 - 光祐ー光芳光淳 天満宮蔵 ) , く清水寺縁起 > ( 3 巻。国 とは最初からはっきりしていて , そ 光貞 立博物館蔵 ) などがある。〔高崎〕 の意味では , また , 登山はスポーツ 光時一一光禄ー光文ー光章ー光一 にならない。山は , ただ意気さかん とざん登山登山とは山に登る 光孚 光清 - 光武 ということであるが , 今日では同し であるというだけでは登ることはで 光文 ( 嗣本家 ) きない。しみな努力の積重ね , 周到 な注意 , それと忍耐 , このどれが欠 けていても登山らしい登山は望めな いのである。このことは登山が体力 と判断力と忍耐力にかかるものであ り , したがって登山というスポーツ は自己の人間としての能力との対決 であることを示す。どんな山でも , 一歩一歩足を運ぶ以外に頂上に達す る方法はない。しかしまた , ェべレ ストであっても , この一歩一歩を積 んでいけば登りうるのだという事実 , このこと以上に , 登山の本質を正し く物語るものはない。スポーツとし ての登山の本質は以上のとおりだが , 上佐光起作 く北野天神縁起絵巻〉 ( 部分 ) 左は土佐光吉作く源氏 物語図画帖 ( 須磨 ) 〉よ り。右は上佐光茂作く桑 実寺縁起絵巻〉 ( 部分 )

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8 4 チュウオウ ン ) とよばれるトルコ族に属するセ ルジュク朝が南下し支配するに及ん で ( 1037 ~ 115 の , 西トルキスタンの トルコ化は決定的となった。ホラズ ムもこの王朝の支配に帰したが , ま もなく独立し , トルコ人の王のもと でホラズムシャーとよは、れた。この ころ , 北中国を支配していた遼が金 に滅は、され , その一族が西にのがれ 中央アジアの古代美術。左はブハラ市西方 35km , アラブの征服以 てバラサグンに都を置いて東西トル 前のブハラの王都出土のしつくいに彫刻した女性像 ( 7 世紀 ) 。右 キスタンおよびカザフスタンの南部 はサマルカンド東方約 120km にある古代ソグド城跡 ( ムグ山城 ) 出 を支配した。これが西遼 ( / カラキ 上の木製楯 ( たて ) に描かれた騎十像 ( 8 世紀初頭 ) 。表面は皮張リ タイ ) である。 13 世紀初頭 , モンゴル 困難であったことも一つの要因であ 夕、、リヤ , シルダリヤ流域地方はその 高原を征服統一した / ジンギス・カ る。 c. アジアの交通と国際貿易の中 勢力圏にはいり , ササン朝も一時そ ンの勢力はやがて中央アジアに及び , 心地であったこと。 d. 住民と文化に の支配をうける状態におかれた。モ 西遼 , ホラズムシャーはその馬てい おける大きな変容。以上の特色をふ ンゴル高原には , 匈奴のあと , 鮮卑 のもとに屈し , 中央アジアはジンキ、 まえて , 中央アジア史を便宜上 3 期 がより , さらに蠕蠕 ( 柔然 , 茹茹 ) 民 ス・カンの次子チャがタイ , 3 子オゴ に分けて略述すると次のようになる。 族がこれに代わった。 6 世紀中ごろ , タイに分与されその子孫に支配され 1 ) イスラム教化以前前 545 年ごろ トルコ民族の / 突厥が蠕蠕から独 た ( / モンゴル帝国 ) 。しかしモンプ アケメネス王朝のキロスのとき , ペ 立し , モンゴル高原およびそれ以西 ル人は中央アジアではしだいにトル ルシア帝国領に編入 , ソグディアナ , コ族に同化され , イスラム教を奉す の地域の支配者になると , ササン朝 ホラズム , ノヾクトリアなどの州が設 は突厥の西方の分派 , すなわち西突 る定住の民族に変化していった。 けられた。アレクサンダー大王がペ 厥と結んでエフタル帝国を滅は、した れ以後 , トルコ系民族の住地であっ ルシアを滅は、すと , この地方もその ( 6 世紀中頃 ) 。 / 玄奘が中央アジア , たイリ川 , タラス川流域はモゴリス 支配下にはいり , 多くのギリシア人 インドを旅行したのはこのころであ タンとよばれ , 14 世紀にはイスラム 植民地ができ , この方面にキ、リシア った。突厥を滅は、して中央アジアを併 圏にはいった。カシュガ、ノレ地方も 16 前 2 世紀ごろ , / 匈 文化を伝えた 合したのは唐である。唐は東トルキ 世紀末以後 , 実権はイスラム聖職者 奴はそれ以前にモンゴル高原を支 スタンに西域都護府を設け , 東トル ホジャに移り , ウイグリスタンは 16 配していた東胡 , / 大月氏し国を キスタンおよびアフガニスタンに 81 年オイラート族に奪われた。チャ 東西に駆逐してモンゴルを統一し , 88 , 県 110 , 軍府 126 を置いて支配し ガタイ汗国の分裂後 , 政権争いの勝 このころの中央 中国を侵していた た ( 661 頃 ) 。唐の国際色豊かな文化は , 者となった / チムールとその子孫は アジアの事情は漢の使節 / 張騫う 中央アジア方面との自由な交通によ 中央アジアに大帝国を築いたが , ペ によってくわしく中国に伝えられた るところが多い。一方 , アラビアは , ルシア文化を奨励した。西トルキス 北方 , 天山山脈の南には車師 ( 今の ササン朝を倒し ( 651 ) , シルダリャ タンではこののち , アストラハン朝 トルファン盆地 ) , 焉耆をん ( 今のカラ とアムダリャ ( 古名オクサス ) の河間 ( 1459 ~ 15 56 ) ができ , その後 , プノ、 シャール ) , 疏勒気 ( 今のカシュガル ) , 地帯 ( アラビア語でマーワラーアン ラ汗国 ( 1599 ~ 192 の , ヒバ汗国 ( 15 南方 , 崑崙山脈の北にはロプ・ノール ナフル , 英語でトランスオクシアナ ~ 1920 ) , コーカンド汗国 ( 1709 ~ 11 付近に楼蘭 ( のちに鄰善 ) , その西 という ) に進出 , 751 年にはタラス河 1876 ) が成立するカゞ , アムダリヤ以 方に于聞 ( 今のホータン付近 ) , 莎 岸で , 高仙芝の率いる唐軍とイプン・ 南は 18 世紀中ごろ以後アフガニスタ サーリフの指揮するアラビア , カル 車ン ( 今のヤルカンド ) などの国があ ンの領土となった。 ルク連合軍の決戦が行なわれ , 唐軍 った。当時の東トルキスタンの住民 3 ) 清朝および帝政ロシアの支配とそ が敗退してノヾミール以西は唐から離 れ以後カシュガル地方はジュンガ はインド・ヨーロッパ系の語族であ れた。また東トルキスタンは吐蕃の ル部の王ガルダンの支配に帰したが ったが , 大月氏や匈奴の支配下にあ ために支配された。 やがて清朝の康熙帝によって征討さ った。やがて漢は天山の北 , イシク 2 ) 中央アジアのイスラム化 , トルコ れ ( 1696 ) , 乾隆帝に至ってその支配 クール湖とイリ川方面にいた鳥孫民 化唐の滅亡以後中央アジアでは , はさらに強化された。清はイリに伊 族と同盟して匈奴を征服し , 西域都 犁将軍を置いて統治した。一方ロシ それまでのインド・ヨーロッパ語族 護を設けてこれを支配した ( 前 6 ( ) ) 。 アは , 19 世紀後半 , 中央アジアへの に代わってトルコ系民族が優勢とな 漢民族の東トルキスタン支配は , モ 積極的な軍事的進出を試み , 1864 年 り , ゾロアスター教 , マニ教 , キリ ンゴル高原の北方民族を西方からけ すでにカザフスタン全域がロシア領 スト教 ( ネストリウス教 ) , 仏教など んせいし , アジアの国際貿易路 ( い となり , 今日のソ連領中央アジアが に代わって , イスラム教か、主として わゆる / 絹の道 ) の東部を確保する はは、領内にはいった ( ブハラ , ヒノヾ 行なわれるようになり , その様相を ためで , 断続はあったが唐代まで続 両汗国も 70 年代にロシアの宗主権を 一変するにいたった。ます突厥のあ き , この地方に中国文化をうえつけ みとめた ) 。イリ付近はイリ条約に との / ウイグル民族は中国の内地に た。前 1 世紀後半 , 大月氏の支配下 安禄山の乱の鎮定に協力し , これを よってロシア , 清国間の国境が協定 にあったクシャン民族は大月氏に代 理由に唐を苦しめるが , 9 世紀中こ された。一方英国は 20 世紀初頭アフ わってシルダリヤ , アムダリヤ両河 ろキルキ、ス民族のために天山北部方 ガニスタンを保護国化した。また新 の流域を統一し , ヒンズークシ山脈 面に追われた。さらにカサフスタン , 疆省では揚増新 , 金樹仁 , 馬仲英ら を越えてカ、、ンダーラ方面をも征服し イリ川地方では , タラス川の戦い以 による東トルキスタン共和国独立運 22 6 年ベルシアに成立した / サ た 後 , トルコ族のカルルク民族が盛ん 動があったが , 盛世オによって阻止 サン朝のためにクシャン帝国は崩壊 となり , チュー川岸のノヾラサグンを された ( 1933 ~ 34 ) 。第二次大戦後は し , シルダリヤ以南はふたたびベル 中心に 12 世紀まで続くカラハン朝を 中華人民共和国の治下にはいり , 新 シアの領域となり , ベルシア文化が 疆ウイグル自治区 ( 1955 年従来の新 建設し , 1 ( ) 世紀中ごろイスラム教に 行なわれ , やがて東トルキスタン , 疆省を改めた ) として中央政府に属 改宗した。そうして , シルダリヤ流 中国の方面にも伝わった。 5 世紀中 域からオウズまたはグズ ( トルクメ している。カザフスタンと西トルキ 期に / ェフタル民族か・興ると , アム

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4 0 3 せ , 月番を決めて作刀させたと伝え 生参学の大事をおわった。なおとど 江戸末になると米国 , 英国 , ロシア られるが , これが御番鍛冶である。 らの来襲に備えて長大な刀や長巻な まること約 2 年 , 1227 年帰朝し , 京 刀工の分布も山城 , 大和 , 備前 , 備 どが作られたが , 長い太平になれた 都を中心に著述や後進の指導にあた 中のほかに , 九州では豊後 , 薩摩 , 技量の低下はとり戻せす , 応永以前 った。とくに宇治に興聖寺を建てて , 筑前 , 肥後 , 中国では周防姦ぅ , 備後 , ( 南北朝以前 ) の鍛練法に戻らなけれ 道俗を教化した。 43 年 , 越前にうつ さらに相模などの諸国にひろがり , ばならないとする復古運動が水心子 り , 次いで / 永平寺を建て , 求道者 各国内にはまた諸流派が栄え , それ 正秀によって提唱され , 多くの者が に正伝の仏法を伝えた。 47 年執権北 ぞれに多数の名工を擁した。 それに共鳴して立ち上がった。新刀 条時頼に授戒し , 50 年には後嵯峨上 銘は , 以前は「正恒」とするよう の刀工の中には信濃守国広 , 肥後大 皇から紫衣をうけたが , 生涯権門に この 掾貞国のように「守」とか「大掾」と に大部分が 2 字銘であったが , 近づかなかった。日本の宗教哲学の 時代は「備前国長船住長光」のよう いう受領黐銘をきるものがひじよう 最高水準を示す / く正法眼蔵醫う〉 に多い。茎に菊 , 牡丹 , または葵 に国名その他を添えた長銘となり , 95 巻のほか , く普勧坐褝儀〉 1 巻 , く永 ( これは将軍家の御用刀工の康継そ さらに裏側に製作の年月日を刻むも 平清規〉 2 巻 , く永平広録〉 10 巻など のが多くなった。南北朝時代は元軍 の他 2 , 3 のものと , とくに賞賜され の著書や語録がある。 〔横井〕 の再来に備えて多くの作品が作られ たものに限られている ) などの紋を どうご道後愛媛県松山市道後 きるものがある。また , 試斬しをし たことと南北の両朝に分かれて武将 にある温泉。市街北東 , 道後平野を た結果の切れ味 , たとえば「三ッ胴 たちに召しかかえられた刀工たちカ { 見おろす冠山の丘陵を背後に温泉街 銘に所属する南北両朝の年号をきっ 截断」「脇毛切落」などの文句を茎に がある。泉質含フッ素単純泉 , 泉温 ていることが特色としてあげられる。 金象眼したり , きり込んだりしたも 42 ~ 60 ℃。日本の温泉中でももっと この時代の一般的作風を , 鎌倉幕府 のがある。これを試銘という。これ も古くから開けていた温泉の一つで , のひざもとに出た名工の正宗に結び らは新刀にみる一つの特色である。 かっては海に近く , く万葉集〉の額田 つけて , その師弟関係で説明しよう 〔日本刀の鑑賞〕現在日本刀の武器 王や山辺赤人などの歌にみえる とする考え方が行なわれている。そ としての使命は終わっている。武器 熟田津という古名は , この付近を れは正宗の十哲あるいは相州伝など としてでなく , 他の芸術にみられな さすものといわれる。温泉の中心は と称された。室町時代初期は良工が い清らかで , もの静かな鉄鋼の美を 3 階建の振鷺閣という市営の外湯 出たが , 明との貿易が始まって刀剣 鑑賞する。刀の姿 , 地の鍛え , 刃文 で , 浴客は旅館からここへ通ったが がおもな輸出品となったことと , 中 の綾ネ , 銘などの日本刀のもっ独特な 現在では旅館に内湯が引かれている。 期以降国内が乱れて刀剣の需要が急 ものをそこにみる。鑑賞にさいして 振鷺閣のはか , 鷺ノ湯 , 椿ノ湯 , 鳩 増したために , 粗製乱造の気風を生 は , 片手に「ふくさ」をもち , それ ノ湯 , 湯月城跡の道後公園に白鷺湯 , した。刀工の分布網に新しく加わっ に刀身をあてがってみる。他人に抜 新温泉がわく。温泉街近辺に一遍上 たのは伊勢 , 美濃 , 駿河 , 武蔵を き身の刀身を渡すときは刀の背を相 人誕生地旧跡の宝厳寺 , 湯神社 , 桜 越中などである。 手に向ける。鉄製品であるから , 乾 の名所常信寺がある。また夏目漱石 安土桃山時代以降の刀は新刀と 燥した場所に保管して , さびるのを の小説く坊ちゃん > の舞台としても よばれる。新刀は新しい時代の刀の 避け , 鑑賞後には , 打粉 ( といしの粉 有名。松山市街からバス , 伊予鉄道 意味であるが , それ以前の古刀と比 を袋に入れたもの ) を打ち , 奉書紙 の電車が通じる。近年奥道後 , 東道 べて種々の点で異なっている。ます , を柔らかくもんだものでふいて , 刀 後にも新、温泉ができた。 〔伊崎〕 個性的なものがなくなって画一的に 身全体 ( 茎を除く ) によいツバキ油を とうごう東郷〔町〕鳥取県中部 , なったこと , 次に外見が重視され , 塗っておく。少なくも年に 2 , 3 回の 東伯郡の町。人口 8044 ( 1965 ) 。中心 実質の低下したことなどがあげられ 手入れが必要である。 部は天神川河口にある潟湖の東郷 る。画一的になった理由は , 材料と 池 ( 面積 4 . 1 km2 ) にのぞみ , 国鉄山 なお , 日本では , 銃砲刀剣類所持 技術の両面に原因がある。材料につ 陰線が通しる。農業を主とし , アユ , 等取締法 ( 昭 33 法 6 ) によって , 刀剣 二十世紀ナシを産し , 東郷池ではウ いていえば , ある程度精練された鉄 類 ( 刃渡り 15cm 以上の刀 , 剣 , 槍 , 鋼が問屋を通じてはいるようになり , ナギ , フナ , コイ , シラウオを漁獲 薙刀 , 合ロ , 刃渡り 5.5 cm 以上の飛 刀工がそれをほとんどそのまま使う 出ナイフ ) の所持は禁止されている。 する。湖岸には 1926 年開湯の東郷 , ただし , 1 ) 狩猟 , と殺 , その他同法 ようになったこと , また和鉄のほか 松崎の温泉 ( 食塩泉 , 32 ~ 66 ℃ ) がわ 第 4 条の規定によって都道府県公安 に渡来品である南蛮鉄を使用する刀 き , 対岸羽合町の浅津温泉 ( 弱食 工も多くなったことである。技術の 委員会の許可を得た場合 , 2 ) 美術品 塩泉など , 45 ~ 65 ℃ ) との間はモー 面では , 刀工たちが大名に召しかか または骨とう品として価値のある刀 タポートで連絡する。丘陵部には古 えられ , 城下町に集まって作刀した 剣で , 文化財保護委員会に登録した 墳が散在し , また東郷池北東端の倭 ことや , 参勤交代などで国々の交通 場合 ( 同法 14 ) は所持できることにな 文神社には , 伯耆ー宮経塚から がひんばんになり , 技法の交流が行 出土した銅経筒や観音像を蔵する。 〔辻本〕 っている。 なわれたことなどが数えられる。外 どうげん道元 1200 ~ 53 日本 〔野本〕 見が重視され , 質の低下を招いたの / 曹洞冒宗の開祖。内大臣久我通親 は , 大阪の陣 , 島原の乱以後まった を父とし太政大臣藤原基房の娘を母 く戦争の兆候がなくなったという時 として , 京都に生まれた。幼時に父 代相の反映とみられる。しかし江戸 母を失い , 13 歳で入山 , 翌年春天台 4 時代初期にかけては良工がおおぜい 座主公円について落髪 , 受戒した 輩出しているし , 名品も多く残され たまたま「本来本法性 , 天然自性身」 ている。なお元禄期以後は刀の拵の の一句にあってその解決に苦しみ , ほうに主力が置かれ , かんしんの中 三井園城寺の公胤をたすね , その指 身のほうは不振であった。 8 代将軍 示に従って , 建仁寺の栄西に参し , 吉宗の作刀コンクールによる振興策 没後はその高弟明全にしたがった。 によって , 鹿児島の正清 , 安代 , 筑 24 歳の春 , 明全に伴って入宋 , 以来 前福岡の重包など 2 , 3 みるにたる刀 諸山を歴訪して問法した。なかでも 工が出たが , 彼らには , 賞として茎 天童山の如浄に絶大な感化をうけ , に葵の紋をきることが許された 精魂を傾けてついにその法を得 , トウゴウ 道元 道後温泉は湯の量が少 なく , 客は外湯までい かなくてはならなかっ た。「寝ころんで蝶泊 らせる外湯哉」は一茶 が 31 歳の春この地を尋 ねてよんだものと立て 札にある。現在は各旅 館に内湯ができている

6. 国民百科事典5

トウケン は長曽禰虎徹のもの 銘の刀 ( 鎌倉末期 ) , 下 観世正宗といわれる無 近の太刀 ( 鎌倉末期 ) , れる。以下 , 三日月宗 安時代のものと伝えら 国包平作」とある。平 茎に彫られた銘。「備前 とよばれる太刀 , 下は 日本刀。上から大包平 来の大乱刃が多くなった。短刀の形 も南北朝時代のものによく似ている が , 厚さのほうは厚い。拵には礼装 用または社寺への奉納用として柄と 鞘のもとのはうを組糸で巻き , 鞘に は金梨子地じに家紋を蒔絵した 糸巻太刀が諸大名によって作られた。 また刀と脇指を合わせて 1 組とし , 同案の意匠や金具を付けたものが行 なわれたが , これを「大小」といい 江戸時代の武士の間にもつばら用い られた。江戸時代でも初期 ( 寛文 , 延 4 0 2 玉追竜 , 梅樹にからむ竜など装飾性 たが , 桃山 ~ 江戸時代には松竹梅や しかも信仰を表わすものを彫ってい 細い樋ひを 2 本並べる ) など簡単で , か梵字どんまたは香箸ジ ( 同し長さの の彫り物 ) を彫るか , 短刀ならば剣 も , 古刀期には鎬地に棒樋まう ( 棒状 そうとしている。刀身に施す彫り物 瀾乱れとか数珠刃などを焼き出 もなにか意味のある形 , たとえば濤 る。地鉄はよく積んで美しく , 刃文 宝ころまで ) はよい刀が作られてい の豊かなものを彫るようになった 町人の間には脇指を 1 本さす風習が 行なわれたので , 脇指の作例も多い。 しかし短刀は実に少ない。江戸末に はふたたび寸延び大切先の長刀を作 ることが要求され , 南北朝時代の姿 に復古しようとした。しかし長い平 和が続いたあとなので , 技術的には 大いに低下し , 容易に立ち直ること はできなかった。現在はこの作刀技 術の伝統を保持するために全国で 200 人あまりの刀工が刀を鍛えている。 〔諸流派とおもな刀工〕大宝令には 刀剣には作者名 , 製作年月日を刻む ように規定されており , また記紀 , 風土記などに刀工名が散見している が , 現存の上古 ~ 奈良時代にかけて の遺品で刀工の銘を刻んだものは渡 来品に 2 , 3 あるはかは 1 ロもない。 大和や吉備地方 , 九州などにす ぐれた刀工は散在していたであろう が , 状況はつまびらかでない。当時 の刀工と伝える天国や天座など の確実な作品は残っていない。平安 時代は帝都の地となったことで山城 に宗近 ( 三条小鍛冶 ) や国永 , 兼永ら が出 , 吉備の地の備前には友成 , 正 恒 , 包平 , 信房ら ( これら平安時代の 備前刀工の作品を「古備前物」とよ ぶ ) , 備中には守次 , 伯耆には安綱 , 九州の筑後には光世らの名工が出た これらの人々の作品は出来が優秀で , 三日月宗近 , 鶴丸国永 , 大包平 , 大 転多光世 , 童子切安綱などのように 国宝に指定されているものも多い。 鎌倉時代は武家政治の成立を背景と して , 各地に名工が輩出し , 刀剣界 の黄金時代を築いた。後鳥羽上皇は 山城 , 備前 , 備中から名工を呼び寄 〔日本刀の用語〕 映 ( うつり ) 地のほうににおうように薄白く花 文様のかたまりや棒状のものが現われているの をいう。生 ( う ) ぶと磨上 ( すりあげ ) 造成され た当初の姿を , そのまま伝えているものを生ぶ といい , 茎 ( なかご ) の先を多少切りとって寸法 を短くしたものを磨上という。磨上のうち , と くに茎の大半を切りおとして銘もなくなってし まったのを大磨上という。切先・鋒 ( きっさき ) 身の先端の扇状になってとがっている部分をい う。平安・鎌倉時代初期にみられる先幅の細い のを小鋒 ( こぎっさき ) , 鎌會中期の鋒のやや大 きくなったのを中鋒 , 南北朝時代のもと幅や先 幅に比べて , 著しく鋒ののびたものを大鋒とい う。鍛肌 ( きたえはだ ) 地肌と同しもの。腰 身のもとのほうの区 ( まち ) から l()cm くらいのあ いだの部分をいう。古刀と新刀製作年代につ いての区分で , はは、慶長期以後を新刀 , その前 を古刀という。化政期ごろ以後のものを新々刀 ということもある。鎬 ( しのぎ ) 棟と刃先の間 にはさまれ , 中はどのやや棟よりに縦に通る線 をいう。棟と刃方の両方からしだいに高くなっ た境の稜線である。太刀 ( たち ) と刀 ( かたな ) 室町時代中期を境として , 刀の着け方が変わる。 それ以前は帯取革 ( おびとりかわ ) を拵 ( こしら え ) の足金物に通して腰につるが , この刀が太 刀で , それ以降は腰の帯にさすようになり , れを刀 ( または打刀 ) という。両方 60cm 以上ある 点では同しだが , 銘のあり場所が違う。刀は身 につけたとき , 外側 ( 表ともいう ) にあたる部分 に銘をきるのが慣例で , 太刀では棟を上にして つるので銘が反対になる。また , 太刀は刀に比 べてふつう寸法が長く , そりが強い。地肌折 り返し鍛練したさいの鉄の合せ目が , 木材の肌 目のようになって刀身に現われたもので , 形に よって板目肌 , 柾 ( まさ ) 目肌 , 杢 ( もく ) 目肌 , 梨子 ( なし ) 地肌などと名づけられる。直刀 ( ち よくとう ) そりのない刀。上古 ~ 平安時代中期 までのもので , 以後は , そりのある刀となる。短 刀には , そりのあるのは少ない。剣と大部分の 槍は左右対照形で , そりがない。柄 ( っか ) と鞘 ( さや ) 茎をいれているものが柄で , 身を納め ているのが鞘である。柄にはサメ皮で包み , ひ も糸でひし形に巻いたものなど , 鞘には革で包 み , または漆で塗ったものなどあり , これらの 外装を拵または造りという。ホウの木で作った 装飾のないのを白鞘という。拵のあるものには 鐔 ( つば ) をつけるが , 短刀の拵で , まれにはじ めから鐔のないものがあり , これを合ロ拵とい う。刀拵の付属品には , 鞘のもとのところに外 から差しこんだ小柄 ( こづか ) や笄 ( こうがい ) , 目貫 ( めぬき ) があり , これを三所物 ( みところも の ) と称する。茎中心とも書き , 刀の柄に納ま る部分をいう。長さとそり切先の先端から手 もとの棟区までの直線距離をはかったものが長 さで , その直線と棟との間のうち , もっとも長 いところをはかって , そりの寸法とする。刃渡 りといわれるのは身の長さをいう今日の警察用 語である。沸 ( にえ ) と匂 ( におい ) 刃文 ( はもん ) を構成している粒子のうちで , 形が大きく , 銀 砂子を散らしたようなのを沸といい , 小さくて , 肉眼ではわからぬほどのものを匂という。その どちらかの多少によって , 匂出来とか , 沸出来 とかいう。鑼 ( はばき ) 身と茎の境に , 茎の先 のほうからはめこんだ高さ 3 くらいの金具を いう。鞘のなかの刀身を固定させるためのもの である。刃文焼入れにより刃先部にできた白 い文様をいう。直刃 ( すぐは ) , 乱刃 ( みだれば ) の 2 種に大別される。帽子・鋩子 ( ばうし ) 切先 部の刃のことをいう。区身と茎との境目をい う。磨上によって身のはうを多少茎にくりいれ ることを , 区を送るという。身とぎすまされ て光っている部分をいう。銘刀鍛冶 ( かし ) の 名やその他を刻むことをいう。製作年月日を刻 したのは裏銘といい , ふつう作者銘の裏側にき る。無銘をのちに鑑定家によって朱書されたの を朱銘 , 試斬 ( ためしぎり ) の結果をしるした試 銘 ( ためしめい ) , 金を入れた金象眼銘 ( きんぞ うがんめい ) などがある。物打ち切先から 15 この部分でお くらい下がったところをいう。 もにものを切る脇指 ( わきざし ) と短刀長さ が 305 以下を短刀 , それ以上 60cm までのものを 脇指という。今日の警察用語では , 短刀は合ロ とよばれている。

7. 国民百科事典5

〔企業合併と再編成〕戦後における 生産の異常な発展にともなって製造 業規模も拡大してきた。 たとえは・ 従業員 100() 人以上の事業所数は , 戦 前 ( 1936 ) 259 であったカ { , 64 年には 737 と 3 倍ちかく増加している。し かし事業所総数そのものも同じく 3 倍近く増加しており , 中小企業 , 零 細企業が再生産されている点では戦 前と基本的な変化はないが , 生産過 剰や賃金上昇 , 金融引締めなどで企 業倒産が増加し , 不況カルテルの結 成 , 企業合併 , 再編成の動きが活発 となってきた。中小企業の近代化に ついては , 1957 年の中小企業団体の 組織に関する法律 , 63 年の中小企業 近代化促進法が制定された。企業合 併は 1960 年以来 64 年までに 440 件 , 591 件 , 715 件 , 997 件 , 864 件と漸増 この合併数は , 中小企業が大 部分と考えられるが , 最近年では競 争力強化のための大企業の合併が含 まれている。大企業の合併は , すで に海連 6 企業への集約化 , 石川島播 磨 , 三菱三重工 , 日産プリンス , 東 洋紡呉羽の合併などがなされている。 さらに特殊鋼各社の合併 , 工作機械 中堅 , 大手 5 社の業務提携 , 繊維 , 化学業界など再編への動きが早まっ ている。日本工業が開放経済のもと に国際的な自由競争に勝ちぬくため には , かならすしも融資系列にとら われない産業自体の合併 , 再編成が いっそう促進されるものとみられる。 〔工業の地域的集中化〕明治維新以 来日本の工業は軽工業 , そのなかで も紡績工業がその中心となって発展 してきたが , これらの産業は北海道 , 東北および九州南部などの一部の地 域を除いて全国各地に広範に分布し ていた。というのは製糸 , 紡績 , 織 物などの軽工業は労働力が豊富安価 で , また気候温暖な地域であれば , 比較的容易に成立しうる性格をもっ ていたからである。しかし鉄鋼 , 機 械 , 化学などの重化学工業が発達し てくると , 工業の地域的分布もそれ につれてしだいに変化してきた。重 化学工業は軽工業に比較して大きな 工場規模や資本カ , 高度の技術水準 , 広い消費市場などを必要とし , 同時 に港湾 , 道路などの交通事情 , 石炭 , 電力などの資源やエネルギー , 工業 用地 , 工業用水といった工業立地条 件がすぐれていなければならないか ら , これらの産業はこのような条件 を備えた地域に集中するようになっ たとりわけその中心をなしている のが京浜地区 ( 東京 , 神奈川 ) , 中京 地区 ( 愛知 ) , 阪神地区 ( 大阪 , 兵庫 ) および北九州地区 ( 福岡 ) からなる四 大工業地帯である。戦後の高度成長 これらの工業地帯はますま 過程に , す巨大化したが , さらに新しい土地 を求めて拠点ないしコンビナートが 発生した。千葉北部 , 名古屋南部 , 6 3 5 堺 , 播磨の鉄鋼 , 千葉南部 , 川崎 , 横浜 , 四日市 , 水島 , 徳山 , 下松の 石油化学などがその例であるが , ほ とんどが四大工業地帯の周辺部 , ま たは太平洋 , 瀬戸内沿岸地帯の良港 の所在地である。関東臨海 ( 千葉 , 東 京 , 神奈川 ) , 近畿臨海 ( 和歌山 , 大 阪 , 兵庫 ) , 東海 ( 静岡 , 愛知 , 岐阜 , 三重 ) の三大工業地帯とその他地帯 とに分けて , 製造工業付加価値構成 比の推移をみると , 1953 年には 61.5 : 38 . 5 であったものが 62 年には 68 . 1 : 31 . 9 となり , これら三大工業地帯に おける工業集積傾向が顕著であった。 この間北九州の地位は低下し山陽が これにとってかわり , また関東内陸 の発展が目だっている。労働力もこ れにともなって移動し , 1954 年には , 新規学卒者 40 万人 , その他を含めて 1()() 万人前後のものが東北 , 九州な どから流出し , 9 割以上が記三大 工業地帯に流入している。 〔後進地域の開発〕既成工業地帯は , 工業用地 , 工業用水 , 地盤沈下 , 住 宅 , 輸送上の困難 , 亜硫酸がス , 排 気ガス , 河水汚染などによる公害問 題をひきおこし , 過密によるマイナ ス面を露呈している。しかし , それ にもかかわらす , 消費地に近いこと , 関連企業が多いことなどから , 高度 成長下においてもいっそう集積をつ づけているが , その周辺部に新拠点 を求めて延びていることは前項のと おりである。このことは首都圏をは しめ既成工業地帯の再開発を必要と していることと地域間の格差是正を も含めて後進地域の開発をいっそう 促進する必要のあることを示してい る。後進地域の開発については戦後 北海道開発法 , 国土開発法 , 東北開発 促進法などが制定されてきたが , 19 62 年新産業都市建設促進法 ( / 新産 業都市 ) , 64 年に工業が比較的開発 され , 投資効果も高いと認められる 地域の施設整備を目的とした工業整 備特別地域整備促進法が制定された。 前者の指定地域は , 岡山県南 , 大分 , 日向延岡 , 徳島 , 東予 , 松本諏訪 , 新潟 , 常磐郡山 , 仙台湾 , 八戸 , 富 山高岡 , 不知火有明大牟田 , 道央お よび秋田湾の 14 地区であり , 後者の それは鹿島 , 東駿河湾 , 東三河 , 播 磨 , 備後 , 周南の 6 地区となってい る。これらの地区の地帯整備は地元 団体の努力などによって進められて いるが , 地元財政の困難 , 地区指定 の不適切 , 公害問題 , 景気不振など で足踏み状態であり , 大きな展開は みせていない。 連輸 〔山田・若林〕 ・通信 1964 年の日本の代表的な交通 , 通 信 , 運輸機関は , 1 ) 鉄道 , トラック , 内航海運 ( 汽船 , 機帆船 ) などによっ て 263318 万トンの貨物を連び , 2 ) 国 鉄貨物輸送に伴う小連送は日本通連 ( 日通 ) などの通連業者により 24549 万トンの貨物が取り扱われ , 3 ) 国内 の旅客輸送では鉄道 , 自動車 , 客船 , 航空機などで 294 億人が輸送され , 4 ) また , 外国貿易では輸出入貨物が 19146 万トン , うち 46 . 3 % の 8866 万 トンを日本船で連び , 国際収支改善 に役だち , 5 ) 内航および外航海運に 伴う港湾荷役の取扱貨物量は 74446 万トンに達し , 6 ) 通信における電話 の通話回数 326 億回 , はがき , 手紙 などによる通信 88 億通 , 電報による 通信 9 ( ) ( ) ( ) 万通に上った。戦後 , とく に 1955 年以後の日本経済のめざまし い成長過程にともない , 交通連送需 要はトラック , ノヾス , 乗用車などを中 心に驚異的な伸びを示し , これに対 して鉄道 , 道路 , 港湾 , 空港などの 基本施設 , およびそれに付帯する諸 施設 ( たとえばトラック・ターミナ ル , 駐車場など ) は , 量・質両面にわ たり著しく不足をきたしている。 のため , 1956 年のいわゆる「神武景 気」以降 , 日本経済における交通 , 輸送部面の隘路穿い問題が表面化した が , さらに最近の情勢から , 開放経 済下にある企業の国際競争力を強化 するため流通部門の生産性を高める 必要 , および消費者物価安定の見地 から , とくに輸送 , 保管 , 包装 , 荷役 部面などの近代化が要請されている。 〔交通 , 通信の立ちおくれ〕戦後の この分野における著しい立ちおくれ は , 国の経済成長 , 民間企業の経済 活動の発展拡大にくらべて , 交通関 係社会資本の充実が追いっかなかっ たことにあるが , さらにその根本的 原因は , 大正時代にまでさかのは、る 交通分野に対する過少投資の累積と 総合交通政策の欠如にある。そのう ちもっとも日本で問題なのは道路で あり , 日本の道路は「工業国として 信しがたいほど悪い」 ( 名神高速道路 に関するワトキンス報告 ) と国際的 な評価を与えられた。事実 , 道路舗 装率は , 米国の 6() % , フランスの 76 % , 英国の川 ( ) % , 西ドイツの 62 % に比べ , 日本はわすか 10 % , 同しく 道路率 ( 都市の総面積に対する道路 面積の比率 ) は , ワシントンの 43 % , ロンドンの 23 % , ノヾリの 26 % に対し , 東京 1 ( ) % , 大阪 17 % , 名古屋はもっ ともよいほうで 22 % 程度 , 道路普及 率は量 , 質ともに格段のおくれを示 している。最近では名神高速道路の 完成 , オリンヒ。ックを契機に整備さ れた首都高速道路 , それに一般国道 などの幹線道路の整備もかなリ進ん だが , 他方 , 自動車保有台数の増加 のテンポは , 道路整備の進行をはる かに上回っている。たとえは、乗用車 ( 普通 , 小型 , 軽四輪乗用車 ) 台数は , 1961 年の 49 万台が 65 年 3 月には 178 万台にふえている。その結果 , 幹線 道路 , 大都市内街路における道路交 通混雑と能率低下は , いっそう激化 し , 交通事故の増大を招いている。

8. 国民百科事典5

国鉄でも輸送力の輸送需要に対する 開きがますます大きくなり , 列車編 成の長大化 , 運転回数の増加 , スピー ドアップなどで線路容量の極限まで 利用しダイヤの過密化でこれに対処 している。港湾の状態も外国貿易貨 物の増加 , 内航貨物の工業地帯への 集中傾向 , その他港湾取扱貨物の急 増で主要港湾の機能はすでに限界に 達し , 船舶の大型化 , 専用船化に対 して既存の港湾施設では対処できな くなりつつある。また航空輸送も , 需要の急増 , 機種の大型化 , 高速化 に対し , 空港施設の拡大 , 設備近代 化が要請され , 新東京国際空港の建 設が計画されている。 電話を中心とする通信施設の普及 整備の点では , ダイヤル通話圏の拡 大が進められているが , 電話加入需 要に対する充足率は年間 35 % 強 ( 19 65 ) という状況である。 〔整備計画〕政府がこれら施設の立 ちおくれを認め , 力を注ぎはしめた のはようやく 1956 年以後で , 57 年に は新長期経済計画を作成 , 経済成長 の基盤としての交通 , 通信 , 運輸各 分野の整備近代化計画を強く打ち出 した。建設省は 58 年度から新たに 1 兆円の新道路整備計画をはしめたが , これも途中で情勢に合わなくなった ので , 61 年度からさらに事業規模 210 ( ) () 億円の新道路整備五カ年計画 を決定した。 これは全国的な幹線道 路 , とくに高速自動車道路および一 般国道の整備を主とし , 名神高速道 路 , 東名高速道路の工事も含まれて いた。 64 年発足した第 4 次道路整備 計画では総額 41()()0 億円を計上して いる ( / 道路 ) 。国鉄も 1957 年度から 61 年度までに総額 6000 億の五カ年計 画で動力 , 設備の近代化 , 増強にとり かかり , 61 年度から総額 975 ( ) 億円の 第 2 次五カ年計画に切りかえ , 現在 は 65 ~ 71 年度の第 3 次長期計画を実 施中であるが , これは総額 2 兆 9720 億の投資規模で幹線輸送力増強 , 通 勤輸送対策を中心としている。 1964 年 3 月 , 国鉄新線建設を担当する日 本鉄道建設公団 ( 資本金 183 億円 , そ のほとんどを国鉄が出資 ) が設立され , また同年 10 月には東海道新幹線が完 成した。港湾については , 施設増強 のため 1958 年以来整備計画が進めら れ , 現在は 65 年度からの港湾整備五 ヵ年計画を実施中である ( / 港湾 ) 。 通信施設の整備拡充については電電 公社では第 1 次五カ年計画 ( 1953 ~ 57 ) に次いで , 1958 年度から総額 4100 億円の第 2 次五カ年計画を始めてき たカ { , 6() 年度からさらにこれを改訂 拡充して , 60 ~ 62 年度の間に 4500 億 円の建設計画を実施した。現在進行 中の 1963 年度を初年度とする第 3 次 五カ年計画は総額 1 兆 7875 億円の投 資規模で , 5 ヵ年間に加入電話の 500 万加入増設を目標にしている。 6 3 6 今後の日本経済の高度成長下で交 通 , 通信 , 運輸の見通しはどうか , あるいは両者の関係はどうあるべき かといったことが当然問題となろう。 政府の所得倍増計画など一連の成長 政策の中で , その実現のための前提 条件として社会資本の充実 , 産業基 盤の強化が強調されている。この意 味で社会資本の中心を占め , 産業基 盤の中核的役割をになう交通 , 運輸 , それに通信施設に重点が向けられる ことは当然であろう。そのうち将来 の発展方向を示す機関 , 施設にもっ とも重心がかけられるのは経済成長 ならびに投資効率の観点からも必要 である。 1961 年末の政府の所得倍増 計画では , その前提となるべき交通 , 輸送構造の見通しについては , 貨客 とも自動車輸送分野が拡大し , 現状 に対する伸び率では航空機 , 乗用車 がとくに著しくなっており , 目標年 次の 1970 年では 1958 年に対し貨物が 全体として 2.2 倍 , 旅客輸送量が 2.4 倍に見込まれているうちで , トラッ ク 3.8 倍 , ノヾス 3.3 倍 , 乗用車 8 倍 , 航 空機は実に 25 倍の伸びを予想してい る。国鉄は将来全体に占める割合は むしろ減少傾向をたどるという考え 方である。また , 通信施設のうち , とくに電話については , 現在も需給 関係が極度に切迫しているうえに 政府の見通しでは 1970 年には 15()0 万 台の伸び ( 1955 年度末の 4.2 倍 ) が見 込まれるので , 今後需給均衡をでき るかぎり早く実現し , 自動化 , 即時 化などによる近代化 , 能率化をはか る必要があるとされる。したがって , 今後 10 年間に要する投資額も道路に 4.9 兆円の行政投資 , 港湾に 530() 億 円 , 通信関係にも 25000 億 ~ 2700() 億 円と算定されている。 〔村松〕 貿易・財政 〔貿易〕貿易の問題は , 戦前 , 戦後 を通して , 日本経済のもっとも重要 な問題の一つであった。国内に原料 資源の乏しい日本にとって原材料の 輸入は不可欠であったし , 高度な機 械装置の輸入もまた必要であった。 さらに , おくれて世界経済に参加し , 国際競争力も強いといえない日本経 済は , 貿易の面では , 明治の初めか ら慢性的な輸入超過がつづいている。 輸出が輸入を上回ったのは , 第一次 大戦中に欧州諸国の輸出力がほとん どなかった時期と日本の円為替のド ルやポンドに対する相場を極端に低 く評価し , 日本商品の安売りをした 1935 年前後の数年間だけであった。 その他の時期には , 外国から外貨を 借りたり , 米国の特需に依存するな どで . ようやく輸入超過による国際 収支の赤字を補ってきた。 事情は , 基本的には現在も変わっては いない。第二次大戦後の貿易再開は 占領下の管理貿易からであったが , 本格的には , ドッジ・ラインで単一 為替レートが決められてからのこ である。日本経済の復興は急速だっ たが , 貿易の回復はかなりおくれオ 鉱工業生産はすでに 1951 年には戦前 ( 1934 ~ 36 ) の水準を回復したが , カ なり早く回復した輸入でも貿易数量 指数が戦前を上回ったのは 56 年のこ とで , 輸出にいたっては 59 年になっ てやっと上回るという状態であった こうした回復のおくれは , 一方では 日本の貿易依存度が戦前より低下し たことによるであろう。しかし , 高 度成長のなかで , 3 ~ 4 年めには国 際収支の危機を招くことからすれは 貿易のおくれは依然として日本経済 の泣きどころであろう。貿易の地域 構成では , 援助貿易などもあって , 輸出入ともに米国の比重が高まった のが戦後の特徴で , 旧植民地 ( 台湾 , 朝鮮 ) や中国との貿易が減少したの で対アジア貿易の比重は低下した。 また , 輸出の商品別構成をみても , 従来 , 輸出産業の中心は繊維品やカ メラ , ミシンなどの雑貨工業であっ たが , 最近は鉄鋼 , 造船 , 化学工業 品などの輸出が比重を増している。 ちなみに戦前 50 % 以上を占めた繊維 は 65 年には 20 % を割っている。 〔商業〕戦前から日本では少数の大 商社と無数の零細商店が併存してき たが , 戦後 , ますますその傾向が強 まった。戦後の財閥解体で徹底的に 解体された旧財閥商社も , こ数年 , 相次いで合同してふたたび巨大な商 社となった。商業は通常 , 大卸商 , 卸商 , 小売商の 3 段階ぐらいに分か れる。そして各段階ごとに販売取扱 い費用が加算される。この費用は商 品によっては , 商品の最終価格の % あるいはそれ以上を占めることもあ る。デノヾートやスーノヾーマーケット などは上記の 3 段階または卸商と小 売商の 2 段階を 1 段階に集約するこ とで , ふつうの小売商よリも安く商 品を販売できる。これに対して , 最 近では同種の商品を扱う小売商が広 い地域にわたって多数で連合し , 組 合を組織して大卸商または卸商の活 動を代理し , 安く仕入れて安く売る 動きも出てきた。スーパーマーケッ トや卸商を排除した安売店 , 大型専 門店は 1962 年ごろ各地に著しく発達 し , 流通革命ともてはやされた。し かし , その後 , 卸商側のメーカーへ の金融援助などによる抵抗 , 商業界 全体の競争激化によるスーパーマー ケットの相次ぐ倒産などに直面し , 流通革命も反省期を迎えた形となっ た。最近の商店数は , 卸売業 , 一般 小売店 , 百貨店をあわせて 153 万余 , 販売総額は 469689 億円である ( 1964. 7.1 現在 ) 。 〔赤堀〕 〔財政〕近年 , 国家の経済的役割が 大きくなるにしたがって , 国家機構 は拡大し , 財政の重要性もしだいに 増大してきた。また , 財政政策自体

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して , 腹部が大きく感ぜられるので , 多くは妊娠 7 ~ 8 カ月ころに発見さ れる。 5 ) 前旧 . 彎 ! 月ム郵之 一般に受精卵は 丘宮の上方に着床するものであるが , これが下方に着床すると , 正常な場 合と違って胎盤は児頭の前方 , つま り子宮ロの近くに触れるようになる。 胎盤か・子宮口をおおう不度によって , 全前置胎盤 ( 完全におおう ) , 辺縁性 前置胎盤 ( 一部をおおう ) に分かれる。 後者は自然出産が可能なこともある が , 前者は帝工切開を要する。妊娠 末期になって , 早産様の出血をみる さいに , 本症が気づかれることもあ り , 初産婦の場合は , 児頭がなかな か骨盤腔内に固定しようとしないの で発見されることもある。 6 ) 悪阻 / つわりの悪化したもので , その境 界ははっきり区別されにくいが , 吐 きけが食事に関係なく起こ 1 ) , 回数 が多くなり , 目だってやせてきたり 発熱を伴ってきた場合は , 悪阻の疑 いをもつ心要がある。 7 ) ( 後期 ) 妊娠 中毒症 / 妊娠中毒症 / 子癇完 〔妊娠と合併症〕あらゆる病気が , 妊娠と合併しうるが , 妊娠時には急 速に発育する胎児を体内に保有して いるため , 母体に対する負担は一般 に非妊時より大きい。 こでは , 上匕 較的多く認められるおもな合併症に ついて略述する。 1 ) 結核腸結核 , 腎臓結核 , カリエスなどの場合は , 妊娠を継続することは母体にとって 有害であるから , 人工妊娠中絶を必 要とすることが多い。肺結核は , 非 活動性の安定したものは妊娠を継続 してもさしつかえないが , 活動性の ものは好ましくない。したがって , おそくとも娠 2 ~ 3 カ月末までに 胸部の X 線検査を受けておくのがよ い。肺結核自体は , 妊娠月数の進む につれて子宮が増大し , 横隔膜が挙 上されるため , むしろー種の虚脱療 法を行なったのと同し結果になるの で , 妊娠中に悪化することは少ない といえるが , 出産によってこの状態 が急速に失われると , 反動的に病巣 の悪化を招きやすい。また授乳は母 体にとって大きな負担となるばかり か , 新生児への感染の危険も大きい ので中止しなければならない。 だか ら , 活動性の肺結核がありながら妊 娠するということは , 極力避けるほ うか・ , 母児双方のためであるといえ る。 2 ) 梅毒梅毒スピロへータは , 胎盤を通して胎児に感染するので , 母体が梅毒に感染しているか否かは , 妊娠初期に検査しておかなければな らない。もし不幸にして感染が認め られた場合には , 胎盤完成までにな おしてしまえば , 胎児への感染を予 防しうるからである。しかし一般に は , 母体が 5 ~ 8 年以前に罹り患した ものは , 胎児への伝染性が失われる ので , 先天梅毒をもった母親の児は 感染を免れることが多い。しかし , 7 0 1 5 年以内の感染である場合には , 妊 娠直前に感染したものはど伝染力は 強い。また妊娠 34 週以後に感染した 場合は , 胎児への伝染は起こらない。 これは母体がスピロへータに侵され てから , 胎盤が侵されるまでには約 6 週間を要するからである。梅毒妊 婦に治療が施されなかった場合には , その約 75 % が死産 , それも妊娠 4 ヵ 月以後の流産や子宮内胎児死亡に終 わりやすいが , 十分な治療を施せば 健康な児を生むことができる。しか し不十分な治療に終わっていたとき には , 先天梅毒児を生むことになる。 最近の梅毒は , いわゆる顕性梅毒が まれであるから , 妊娠のさいはかな らす早期に梅毒の血液検査を受ける ことを怠ってはならない。 3 ) 虫垂炎 妊娠時の虫垂炎は , 妊娠子宮のため に虫垂の位置が変化しているため , 平生と異なる部分に痛みを覚えるこ とが多い。また , 非妊時と違って腹 膜炎などを起こしやすいため , 適当 な時期に流産を予防しながら手術を 行なうのがよい。 4 ) 流行性感冒その 他のビールス疾患最近ビールス性 の感冒が流行的に発生することがあ り , ビールスが奇形児をつくりやす いというので , 妊婦が必要以上に恐 怖にとらわれていることがあるが すべてのビールスがかならすしも胎 児の発育を変化させてしまうもので はない。梅毒の場合と違って , 胎児 かだいたいの発育を完了する妊娠 4 カ月末までに , 重症なビールス疾患 にかかると , 発育過程で強い負荷を 受けるため奇形化することが考えら れるが , それ以後ではむしろ胎盤を 通して母体の免疫も導入されるし , 形を整えるための主要な発育を宀了 しているので , 奇形の心配はまな いと考えてよい。 5 ) 心臓疾患日常 生活に支障をきたさない程度に代償 機能が保たれている心臓疾患は , あ まり心配はないが , 心電図などの検 査によって妊娠の可 , 不可を調べて おく心要がある。妊娠中にむくみを 招くようになるものは危険である。 6 ) 腎炎妊娠中に腎炎にかかること は少ないものであって , 多くは慢性 腎炎として前からもっていた場合や , 前回の妊娠中毒症による後遺症をも この両者は本 っている場合が多い 質的には異なるものであるが , 症状 はよく似ている。腎炎の場合は , 妊 娠中毒症と違って , 高血圧や尿タン パクが高度に証明される割りに , む くみの程度は軽い。また血圧が高い 割りに頭痛などを訴えることも少な い。めまい , ちらっきなどを訴える のは , 相当重くなってからのことが 多い。また , 腎炎の妊婦の胎盤は , 働きが悪いため , 胎児の体重発育は 1 カ月はど悪いことか・多い。 出産の準備 出産予定日の算出法は , すでに説 明しておいたカ { これはだいたいのめ どになる日であって , この日に生ま れなければならないというはどの決 定的な日ではない。諸家の統計的報 告によっても , 予定日どおりに出産 したもの約 8 % , 予定日前に出産し たもの約 44 % , 予定日後に出産した もの約 48 % , となっている。また 予定日を中心とする前後 1 週間の合 計 2 週間の間には約 60 % が , 予定日 を中心とする前後各 2 週間の合計 4 週間の間では約 9() % が出産に至って いる。つまり , 予定日を中心、とした 前後 2 週間の合計 4 週間の間に生ま れやすいから , 出産の準備はおそく とも , 予定日前 2 週間には完了させ ておく必要があるといえる。 〔出産用品〕現在 , 入院施設の整っ たところでは赤ちゃんのうぶ着から おむつまで用意されているようにな ったが , 入院時不用のものでも帰宅 後はすぐ入用になるものもあるから , こではいすれ必要になるものも含 めて , 列挙しておくことにする。 1 ) 赤ちゃん用品 a. ふとん類敷京と んは厚すぎす柔らかすぎないもの。 掛ぶとんは重くないもの。毛布はえ り布を広くつけておくこと。タオル 掛けは冬の保温にも便利である。 b. うぶ着はだ着はさらしもめんか , ガーゼの 2 枚合せがよく , ひも類の ないのがよい。下着はネルまたはさ らしがよい。胴着はネルの 2 枚合せ または毛糸製でよい。上着は夏なら タオル地 , 冬ならネルがよい。夏は はだ着 , 上着で十分である。 c. / お むっ 3 枚 1 組として 15 ~ 2() 組必要 である。古い浴衣で十分であるが , 新しいさらしを・使って作るときは , 幾度もすすぎ洗いをして , のりを十 分落として柔らかくしておく必要が ある。四角布おむつでもよい。 d. お 3 組ぐらい必要。腰巻 むつカ / ヾー 式のネル製でよい。裏面にゴムやビ ニルを当てたものは , 蒸れてよくな い。工ノヾーソフトはさしつかえない e. よだれ掛けガーゼをそのまま当 てれは・まにあう。 f . おくるみ夏は 湯上りタオル , 冬はベビー毛布を利 用するとよい。外出用には専用おく るみでも , 毛布兼用のものでもよい。 g ・ほ 9L びんポリエチレン製のもの が便利である。 h. 入浴用品たらい は小判形のがよい。畳 1 枚くらいの ござまたはビニル布。さし湯用やか んが必要。 i . 汗しらす手にこは、し て , よくすりつぶしてからつけるこ と。 j . オリープ油 ( またはベビーオ イル ) しりには , おむつを変えるた びにっておくと , よごれが落ちゃ すく , ただれを防ぐ。 k. 臍包帯擠 帯残部が落ちるまで , 腹に巻いてお く。が一ゼで作る。 2 ) 母親用品 a ・ T 字帯 3 ~ 4 本。月経帯よりこの はうが利である。 b. 腹帯妊娠中 使用していたものを利用して作れば

10. 国民百科事典5

し 右側腹・・・・・・外妊と 左側腹・・・・・・外妊 妊婦服はマタニテイド レスともいいゆった りと作られているので 腹部に圧迫を加えない 潔な柔らかいガーゼで 1 ~ 2 分軽く ンで乳頭のよごれを洗い落とし , 清 そくとも妊娠 7 カ月以後は , セッケ 頭の手入れも怠ってはいけない。お 清拭するのがよい。乳房とくに乳 浴するか , あるいは微温湯で外陰を 下半身がよごれやすいから , 毎日入 い。妊娠中は腟分泌物が増量して , もの , 美しいものなどを選ぶのがよ や観劇などは , 愉快なもの , 楽しい 感動しやすい時期であるから , 読書 妊娠中は月経時と同様に , 精神的に に診察を受けて相談するのがよい。 難点のあることがある。出かける前 るが , 飛行場までの道路や乗り物に 安全である。飛行機自体は安全であ 途中下車して旅館で休養をとるのが 汽車の旅が 1 日以上に及ぶときは , 9 カ月以後は避けるのが攷 : 全である。 ことに妊娠 2 ~ 3 カ月ころと ある。 行や遠足 , ドライプはやめるべきで 産の予防のためには , 原則として旅 週間とれることになっている。流早 により産前産後の休暇として , 各 6 勤めてさしつかえない。労働基準法 娠経過が順調であれば , 9 カ月まで 間となると , 疲労を招きやすい。妊 ほうがよいが , 1 時間以上の通勤時 あることが多い。バスよりは電車の それに長時間を要するための疲労で しろ問題となるのは , 通勤の混雑や で , 軽労働に属するものがよい。む しては , 立仕事よりすわり仕事など も相談して決めるのがよい。理想と 経過にもよるので , 医師や助産婦と 一概に適不適を決めにくいし , 妊娠 前の経験年数によっても異なるので , 望ましい。妊娠中の勤務は , それ以 下 腹 出 血 おもな妊娠異常ど しろうど鑑別法 8 カ月まで・・・流産 ( 5 カ月ごろな ら胞状鬼胎も ) それ以後・・ 月リ置胎盤 緊張感・・ 緊張続き 痛むとき さしこむよ うな痛み ・・流早産 中毒症の症状があれ ば胎盤早期剥離 腹部中央・・・流早産 虫垂炎 7 0 0 マッサージして , コールドクリーム をすり込んでおくとよい。乳頭表皮 をヒようぶにしておかないと , 授乳 時にひびがはいりやすいからである。 また突出しにくい乳頭は , つねにつ まみ上げるよう注意しておく必要が ある。妊娠子宮が大きくなるにつれ て , は、うこうは圧迫されて尿意が近 くなり , 直腸は圧迫されて便秘しや すくなる。排尿を故意にがまんする とは、うこう炎を起こしやすくなるか ら , めんどうがってはいけない。便 秘が続くと腸内でガス発酵が起こり , 逆に妊娠子宮を圧迫したりすること がある。毎日いちばんひまな時間に 排便の習慣をつけるのが , もっとも たいせつな点である。くだものや野 菜を多くとり , 牛乳や 1 杯の水を食 前に飲むのもよい。強い下剤やかん 腸にたよりすぎるのはよくない。妊 娠中の歯の治療はさしつかえない。 とかく妊娠中は歯が悪くなりやすい から , カルシウムやリンの含まれて いる食品 , ビタミン C の豊富な食品 を十分にとるほか , よく歯をみがく ことを忘れてはならない。胎教につ いては迷信的な教えをそのままうの みにすることはできないが , 精神的 安静をはかるという意味では意義が ある。迷信的な教えには , しばしば 母体や胎児に悪影響を及は、すものさ えあるから , 妊娠や出産に対する科 学的知識をもっておくことは , 現代 女性として絶対必要である。とくに 妊娠や出産をはじめて経験する者は , それが生理的現象であるにしても未 知なものであるため , 必然的に不安 を招きやすい。 こうした不安を完全 に取り去るのは , 正しい予備知識を もっこと以外にない。そして正しい 予備知識をもっことは , とりもなお さす安らかな楽な出産に導かれるこ とでもある。妊娠中の性生活につい ては , 流早産の危険がある場合を除 けば , かならずしも禁欲を必要とする ものではない。問題は刺激が強すぎ ないこと , 過度にわたらないこと , 下腹部に圧迫が加わらないこと , 疲 労を招かないことなどにあるので , 側臥位や後側臥位を利用するとよ ただし臨月 ( 妊娠 10 カ月 ) には絶 し、 対に禁すべきで , これは細菌感染や 早期に破水を招きやすいからである。 妊娠末期は寝苦しくなるので , 睡眠 不足になることもあるから , ひるね を適当にするのもよいが , ひるねし すぎて夜間眠れなくならないよう気 をつける必要がある。睡眠剤にたよ りすぎてはいけない。妊娠の初診は , おそくとも 4 カ月までにいちど受け ておくのがよい。その後 7 カ月まで は月平均 1 回 , その後は 2 回 , 予定 日ころは週 1 ~ 2 回が適当である。 おそくとも 3 カ月までに , 梅毒の血 液検査 , 胸部 X 線検査を受けておく のがよい。妊娠末期には血圧 , 尿タ ンパク , むくみの危険信号を早く発 見するため , 毎回これらの検査を受 ける必要がある。 〔妊娠中の服装〕衣服は原則として 保温に適したもの , 発育する胎児や 乳房を圧迫しすぎないものを選ぶの 和服は保温に適するが , 帯 か・よい。 ひも類が多いので , とかく胸部や腹 部を締め付けがちであるから , 妊娠 後期の外出用としては感心しない。 妊娠前期には , 腹部の目だちを隠せ るから便利であるが , 長時間の着用 は疲れやすい。洋装はこの点 , 胸部 や腹部を圧迫せすにすむものがあっ て便利であるが , プラジャーやコル セットをきつくしていてはいけない。 最近は妊婦服や妊婦スカートができ て , 利用する女性も多い。妊娠 5 ヵ 月以後は , 子宮がだいぶ大きくなっ てもくるので , 腹壁支持と保温を兼 ねて腹帯 ( / 岩田帯 ) をするのがよい。 妊娠月数が進むにつれて , からだの 重心も多少変わってくるし , 下腹が 突出して足もとに目が届かなくなる から , かかとの高いくつははかない ほうが安全である。あしだやつつか けサンダルなども , かかとの安定を 欠くため , 踏みはすすことがあり感 心、しない。 〔おもな妊娠異常〕 1 ) / 子宮外妊 娠俗に外妊という。主として卵管 妊娠で , 卵管の通過性が悪かったり などするため , 受精卵が , 卵管内で 着床し妊娠を持続しはしめるもの。 流産や卵管壁の破裂を招く。 2 ) 胞状 鬼胎 ( ぶどう子 ) 受精卵は発育して この絨毛 胎芽と絨毛に分かれるが , が異常発育をきたすと , イクラのよ うな , 大小さまざまの水のたまった 小嚢胞を形成し , ブドウ状に連なる ようになる。胎児は発育を阻止され , 吸収されるに至る。多くは妊娠 2 ~ 3 カ月ころから 5 ~ 6 カ月ころまで に流産する。本症はしばしば強度の つわりを伴うというが , かならすし もそうとはかぎらない。多くは , 妊 娠時に流産様の不整出血を認めるこ とから , 本症を疑われることが多い。 本症の場合 , 正常妊娠に比して絨毛 性性腺刺激ホルモンの分泌が高度で あるので , このホルモン単位を測定 することによって診断の一助とされ る。 3 ) / 想像妊娠妊娠を切望する あまり ( あるいは逆に恐れるあまり ) , みすから妊娠と早がてんする結果起 こる。 4 ) 羊水過多症羊水の量は妊 娠末期で 50() ~ 1()00 c c ぐらいである が , 妊娠中期以後これが徐々に , と きには急激に増量して 2()00cc 以上に 及ぶことがある。このため妊娠 7 8 カ月ころに早産しやすいが , 多く は胎児が奇形 ( 頭部の奇形が多い ) で あったりするときに起こりやすく , 胎児は生まれても生存不可能のこと が多い。ときには双胎などの場合に みられることもある。妊娠月数に比