ネンリン 正しい人ノアは , 神の 命に従って妻や子らと ともに箱舟をつくる。 ベネチアのサン・マル コ聖堂のモザイクより 果実 ノイノヾラ る燃料であるが , たとえばガソリン 機関燃料の / ガソリン , あるいはジ ーゼル機関噴射燃料としての重油 , 軽油などではそれぞれの機関特有の 燃料特性が要求され , また最近著し く発展している特殊燃料にがスターー ビンに用いられるジェット燃料があ って特有の特性を要求されており ( / ジェット機関 ) , さらにロケット 燃料は液体や固体の燃えやすい物質 で , ふつうの燃料には使わない化学 薬品の類である。たとえば液体では 水素 , アンモニア , ヒドラジンなど がある。急速に燃やすために尢み ' , こ匸ヌ、 の補給ではまにあわないので , とく に酸素 , 過酸化水素 , 硝酸などの酸 イ匕剤と組み合わせて用いる。いいか えれば今までの火薬に近いものであ る ( / ロケット ) 。火薬は燃える物質 と酸化剤があらかしめ混ぜてあって , ハ Noach0 く旧約聖書 > 創世記の洪水 物語 ( 5 ~ 9 章 ) の主人公で , アタ、、ム から 1 ( ) 代めにあたり , セム , ハム , ヤペテの父。ノアは休息の意で , 神 に正しい人と認められ , 人類の堕落 . ゆえに大洪水を予告されたときに 神の命によって , 籀舟を造り , それ によって大洪水から家族とともに救 い出され , 洪水後の新しい世界の人 類の祖となった。ノアがその救いを 感謝するため祭壇を築き , いけにえ をささげたとき , 神はノアを祝福し て空ににしを現わして契約のしるし とし , ふたたび人のために地をのろ うことなく , また生き物を滅は、すこ とのないことを契約した。 / ( 別刷 ) 2 8 いったん火か・つくときわめて急速に 燃えきる一種の特殊燃料である。ま た広義に燃料の中へ入れるとウラン 235 やプルトニウム 239 などの原子燃 料があるが , これは原子の核分裂反 応から発する膨大なエネルキ、一を原 子炉によってとり出し利用するもの で , 一般の酸化燃料とは別の原理に たつ。 / 原子炉 〔加藤〕 ねんりん年輪多くの裸子植物 と木本の双子葉植物の茎では形成層 の働きで第二次肥大生長が起こり , 木材の組織は年々大きくなっていく。 しかし , 形成層の活動は寒暖の交互 する地方の樹本では 1 年を通して同 し程度に行なわれるのではなく , 通 常季節の移り変わりに伴って変化す る。すなわち北半球では一般に樹本 は春に大な組織をもつ春材を作り , 夏から秋にかけては多少ともち密な 下剤や利尿剤とするが用量に注意を 要する。本種は欧米で交配されツル ノヾラの改良に用いられた 〔大井〕 / イローゼ / 神経症 ノインウラ No i n-U ー a モンゴル 人民共和国 , ウラン / ヾートルの北方 13 ( ) km にある山名で , 前 1 ~ 後 1 ・世糸己 の匈奴翳の文化を示す重要な遺跡と して知られる。 1924 ~ 25 年のソ連の 調査団 ( 団長カズロフ ) による発掘後 , 調査が行なわれた。古墳は方形で 2 ( ) ( ) 基をこえ , 墳丘の高さは 2 m 以下で ある。主丘の地下には木槨室が構 築され , 第 6 号墳の場合は棺下に毛 せんを敷き , 壁には刺しゅうを施し た布を飾った形跡がある。各種の容 器 , 装身具 , 玉器 , 馬具や車がい類 , 装具類など数多くの副葬品が出上し たが , とくに槨室の構造の関係でみ ごとに保存された布帛台く類は漢代に おける絹織物の高度の発達を示すも のとして重要である。漆器の中には 前漢の建平 5 年 ( 前 2 ) の銘文のある ものがみられる。織物は大部分中国 産であるが , 西方ノヾクトリア系のも のもみられた。また毛せんの装飾な どにはスキト・サルマート系文化の 組織からなる秋材 ( 夏材 ) を作り , には生長が止まる。したがって樹 の横断面には 1 年間の材の生長を す同心円的な輪がみられる。この を年輪といい ーっの年輪は同一 の春 , 秋材からなっている。した って年輪の数がおよその樹齢を示 ことになる。季節の変化の少ない 帯地方の樹木では年輪がまったく 別できないものがある。また木材 生長期間中に気候の激変や , 虫害 傷害 , 移植などの異変があると , 成層の活動が一時的に妨げられ , 材に似た組織を作ることがあって 1 年に二つ以上の輪があるように えることがあるが , これを偽年輪 いって区別する。また魚のうろこ一 も一種の年輪があり , 成長線のこ かい部分 ( 冬帯 ) と広い部分が区別 れる。 〔相馬〕 聖書 〔小林〕 ノイエタンツ / モダン・ダンス のいばら高さ 1 ~ 2 m の / ヾラ不斗 の落葉低木。日本にもっともふつう の野生の / ノヾラで , 枝はたくさんの とげをもち , ときに長くつる状に伸 びる。葉は羽状複葉で , 5 ~ 9 枚の 小葉からなり , 小葉には細歯がある。 春に枝の先に 1 ( ) cm 内外の円すい花序 をつけて , 径 2 ~ 3 cm の白色 5 弁花 を開き芳香がある。果実は秋に紅熟 様相がみられる。 〔加藤〕 、ⅸ ( Ⅱ癇語 ) を ( TÄ ( 人 N ドしヒⅥ 6A1i 、第日Ⅱ ) vp, Ⅲれ朝 のう能日本芸能の一種で南北 朝時代から室町時代にかけて作られ た歌舞劇。本来能とは歌舞劇の一般 名で , / 田楽の能 , 延年 ( / 延年 舞 ) の能などがあったが , / 猿楽 の能が南北朝時代末期からしく発 達して , 他の能が急速に袞えたので , ノインウラの第 6 号墳から出土した , 棺 の下敷毛せん ( 部分 ) 。怪獸が , シカに襲 いかかっているさまを刺しゅうしたもの ただ能といえば猿楽の能をさすこと になり , 現代に至った。脚本 , 音楽 演技などに独特の様式があるが , そ の様式は徐々に発達 , 進化をとげ , だいたい江戸時代中期に固定した ただし細部の様式はその後現在に至 るまで変化が続いている。 〔沿革〕元来 , こつけいな物まねを 本芸とした猿楽の人々が , 能という ましめな歌舞劇を演しはしめたのは いつごろかはっきりしないが , 鎌倉 時代の中ごろには , すでに能の芽ば えとみられる歌舞劇を演していたこ とは確かである。南北朝ころになる と各地の猿楽の座ばかりでなく , 田 楽の人たちも同しような形式の能を 演しるようになっていた。全国の猿 楽の中でも , 大和 : ま猿楽や近江猿 楽はとくに目だっ存在となり , 14 世 紀中ごろ大和猿楽の結崎座に / 観 阿弥が出て , 能は一大飛躍をとげ た。観阿弥は 1374 年今熊野の勧進
4 を心」、い当 ィま「一第義 高橋由ー 田 77 頃 藤島武ニ く芳蕙 円 26 明治維新こともに文明開イいをかかけて、西洋の新知識 , 新技術が輸入されるなかで , キリシ タン文化弾圧以来、ほそばそ命脈を保っていた西洋画の技法も本格的に普及されだす。幕末に英 国の画家ワーグマンに指導をうけていた高橋由ーらの写実的絵画から , 日本の洋画ははしまった 青本第、自画像、 黒田 : 青輝 ( 舞妓 1893
3 7 0 ヒョウサン 1 氷山 2 種。左が北極海 の , 右が南海の水山 語ではトスカナ方言中のフィレン、 玄武洞与などの景勝地 , 有馬 , 城崎 , 世紀以後で , それ以前は , 長短のリ ェ方言が標準語 ) , 地理的中心の : 湯村の温泉 , ーノ谷 , 生田ノ森 , 湊 ズム ( 定量リズムの拍子 ) が示された けていることもある ( ドイツ語で一 のみであり , また , 20 世紀には , 拍 川神社 , 赤穂城跡などの史跡 , 六甲 , 東部辺境の商用語がしだいに統一 子をもたない音楽 ( 自由リズムの拍 摩耶の山上遊園 , 森林植物園 , 宝塚 れ , さらにルターの聖書訳のおか : 〔秋山〕 子 ) も現われている。 歌劇などがある。スポーツ施設では で固定された ) 。また , その制定に 甲子園や西宮球場 , 神鍋山 , 氷ノ 〔日本〕種目により , 場合により , 山 , 鉢伏山のスキー場など , 全国 たって個人の力が強く働く例も少オ いろいろに使われる。 1 ) 音の強弱に よって作られる時間単位。「あの合奏 的に著名である。また郷土芸能とし くない。たとえばセルボ・クロア て淡路の人形浄瑠璃うがあり , 特 は拍子が合わぬ」「箏曲の段物や組 ト語はプーク・ステノヾノビッチ・ ラジッチ ( 1787 ~ 1864 ) が土地の方二 歌の拍子の数は一定である」などは 別天然記念物に豊岡市南方八鹿まう町 この意味。 2 ) 強弱の組合せ方の種類。 〔末尾〕 の文法と辞書を作ったことによっ のコウノトリがある。 雅楽の「只無忠 ) 拍子」「夜多羅 ( 良 ) ひょうざん氷山陸地にできた 定まった。日本の標準語は , 平安日、 拍子」「楽拍子」 , 謡曲の「地拍子」 / 氷河の末端がかけて海に落ちこみ , 代以降 , 一般に京都語が正しい など。 3 ) リズムと同意語にも使われ , 大きな氷塊となって浮かんだもので , は、とされたか・ , 江戸時代には江戸言 その場合は「間ま拍子」といわれるこ 海水が直接海面で凍ってできるもの カ { これとかわり , 明治にはいって とが多く , 「あの演奏は間拍子が悪 京が首都となると , 東京語が標準言 ではない ( / 海氷 ) 。氷山は , 成因的 い」などという。 4 ) 雅楽では , 神楽 だという考え方カゞしだいに一殳イヒし にみて二つの種類がある。ーっは , 東遊ま , 久米舞 , 倭舞と , 催馬 北極海周辺に発生するもので , 高緯 てきている。 / 方言 〔小林〕 楽などで打っ笏拍子という楽器 ひょうじゅんじ標準時地球 度地方で発達した氷河の先端がかけ そのものを「拍子」というはかに て海にすべり落ち , 海面をただよう のある区域内で共通に用いる時間。 それを打ちながら歌う人も「拍子」 時刻は同し子午線ではどの地点でも ものである。頂がとがっていて , ピ といい , さらに催馬楽の曲の初め , 同しであるが , 経度が異なった子午 ラミッド状をなすものが多い。グリ 歌う前に打っ音を「空を拍子」という。 線上では異なった時刻となる。経度 ーンランドの海岸 , とくにその西岸 雅楽の器楽の演奏では , 全曲中に打 1 。東になるはど時刻は , 4 分すっ進 北半のパフィン湾の入江にある氷河 めておかなければならない。これを たれる太鼓の数 ( 強拍のみ ) によって から発生した氷山は , ラブラドル海 実行すると日本国内でも経度によっ 「拍子八」「拍子十二」などと数えら 流にのって北大西洋を南下し , とき には北緯 4 近くに達して ( 北太平洋 て時計がまちまちの時刻を示すこと れる。能楽では , 小鼓 , 大鼓 , 能管 にはない ) , 船舶の航海を脅かす。 になる。それで各国とも適当な区域 の 3 楽器を「三拍子」 , それに太鼓が 1912 年のタイタニック号の遭難は有 加わると「四拍子」という。〔吉 を限り , その中ではある子午線に基 準した時間を用いることにしてある 名で , このため国際氷山監視隊があ びようし美容師 パーマネント このように統一した時間が標準時で って , 氷山との衝突を防いでいる。 ウェーープ , 結髪 , 美顔術 , 化粧など ある。日本ては東経 135 。の子午線に その高さは , ときに海面上 100 rn に の方法で , 人の容姿を美しくするこ 基準した時間を標準時として用いる 達する。もうーっは , 南極付近に発 とを職業にするもの。日本では美容 これが日本標準時 , 正確にいえば日 師法 ( 昭 32 法 163 ) が , その資格や営 生するもので , 南極大陸を囲む大氷 本中央標準時である。相互に換算の 壁の縁辺がかけて海中に落ちこんで 業について定めている。美容師にな 便宜上世界各国では , / グリニジ時 るには中学卒業以上の学力のある者 できる。卓状氷山といわれるように と 1 時間の整数倍だけの差がある標 で厚生大臣指定の美容師養成施設で 広くて平ら - なテープル状を呈するの 準時を用いるように協定している。 が特徴である。海面上の高さは 50 ~ 昼間課程は 1 年 , 夜間課程は 1 年 4 〔鈴木〕 80m , 広さは数 km2 もある。漂流の北 カ月 , 通信課程は 2 年を修業 , さら ひょうじよう表情情動的体験 限は南緯 4 ()0 ~ 5 OO である。氷山は , に 1 年の実習 ( インターン ) を終え、 に伴う生理的変化は , 「手に汗を握 都道府県知事の行なう美容師資格試 全高の % ~ が海面に現われている る」「ふるえる」などのさまざまな身 験に合格して免許を受けなければな にすぎないから , 海面下の部分はひ 体的変化や運動となって現われる らない。精神病 , てんかんにかかっ しように大きい。その寿命は , 北半 これを表出という。表出には顔面表 〔片岡〕 球のものが 2 年くらい , 南極のもの ている者はなれない。 一定の 情 , 音声表情 , 姿態表情などが含ま は 10 年くらいまでである。〔小森〕 ひょうじゅんご標準語 れるが , 人間については顔面表情を 政治的または文化的地域全般に現実 ひょうし拍子音楽用語。〔西 単に表情とよ」 : 場合が多い。一般に 洋〕音楽上の時間単位である拍 ( リ に通用している一定の言語体系を共 高等・動物になるはど表情は豊かにな 一定数 通語とよぶのに対し , ーっの共同社 ズム上の規則的な動き ) が , るが , c h. ダーウインはこれを進化 会全域にわたり , 音音員 , 文法 , 語彙日 集まってリズムの骨格をなすことを 論的原則によって理解しようと試み の各部面において , 行政上 , 司法上 , 拍子という。楽譜の上では , 小節線 動物時代に有用であった運動が , 習 教育上などで従うべき規範とみなさ ( 縦線 ) 内の拍子によって , 強弱拍が 慣化されて今日も残存しているとい れた公式の言語体系を標準語という。 規則的にくりかえされる。拍子の種 標準語は共通語と一致することが多 う原理をもって説明した。しかし , 類は , この小節内の単位楽衽の数に 今日ではむしろ , 表情はある一定の 一致しないこともある。標準 より定められ , 単純拍子 ( 2 , 3 , 4 拍 し、カ { 文化規範に沿って習得されるという 子 ) , 複合拍子 ( 6 , 9 , 12 拍子 ) , 混ⅱ 語に選ばれる言語はたいてい首者にの 社会的要因のはうが重視されている 拍子 ( 5 , 7 拍子 ) に大別される。この い。 1 語であるが ( 英語 , フランス語 , ロ 表情の種類に関しては , R. S. ウッド シア語など ) , かっての文化中心地 ように小節線で区切られた拍節法 ( 拍 ワース , H. シュロスノヾーグらによ の言語であることもあり ( イタリア 節リズムの拍子 ) が生まれるのは 17
ポリネシア 7 1 5 ポリスゴド / フ B or i s God un 0 v 品であるが , 塩イヒビニルとともにめ ク , フェニックス , ェリス , トンガ ざましい発展をみせている。原料の ムソルグスキーのオペラ ( プロロー などの諸島がこれに属するが , 面積 ポリス・ゴドノフ ( 補 ) 実在のポリス・ゴ・ドノ 工チレンは石油や天然がスから安価 グ 2 場と 4 幕 ) 。台本はプーシキンの も大きく経済的に重要なものはハワ フ ( 1552 頃 ~ 1605 ) は低 同名の史劇に基づいて作曲者自身作 に得られるが , 重合がきわめて困難 イとサモアである。ケルマデク , ト い家門の出身で , 妹を 成。 1874 年ペテルプルグ初演。実在 であったため工業化が遅れた。 1937 ンガなど水成岩や深成岩からなる島 暗愚の皇帝フョー のツアー , ポリス・ゴドノフ ( 在位 年英国の ICI 社で高圧重合法を発明 , もあるが , 他は大部分深い太平洋の にとつカ { せ , 1584 年政 1598 ~ 16 ( ) 5 ) を主人公に , ロシアと 41 年はしめて市販され , 日本での工 底から噴出した火山島か , その上を 権をにぎった。 91 年皇 ポーランドを舞台としたロシア国民 業生産は 56 年から始められた。製法 ひろくおおったサンゴ礁の島々であ 弟ドミトリーがウグリ チで殺害され , 世継ぎ オペラ最大の傑作。とくにロシア民 には高圧法 , 中圧法 , 低圧法がある。 る。気温は大きな変化はないが降水 のない皇帝の没後即位 衆をあらわす合唱が重視されてこの 高圧法は , 純度 98 % 以上のエチレン 量は地域差が大きく , モルデン諸島 した。ポャール ( 大貴 オペラの中心になっている。これま を約 2 ( ) ( ) ℃ , 1 ( ) ( ) ( ) 気圧のもとで , 触 などのように人も住めないくらい乾 族 ) 勢力を押さえドボ 媒に酸素を用いて重合させる。低圧 ではリムスキー・コルサコフのオー 燥した島もある。原住のポリネシア リャン ( 士族 ) を擁護す 法の発明 ( 19 5 5 頃 ) までは , もつばら ケストレーションによる改作によっ 人は比較的進んだ文化をもち , タロ る政策をとり , 農奴制 この方法が用いられた。中圧法は 99 てしられていたが , 現在は原作もよ イモ , ャムイモなどの原始的農耕を を強化した。晩年には 農民反乱がしきりと起 % 以上のエチレンをキシレンに吸収 く上演される。日本人による初演は 行なう。白人経営によるプランテー こり , また死んだはず させ , 酸化クロムを触媒として 130 ~ 1954 年。 / ( 別刷 ) オペラ ションは熱帯果実 , サトウキビなど のドミトリー王子を 19 ( ) ℃ , 30 ~ 50 気圧のもとで重合さ 〔あら筋〕イワン帝の太子ドミトリーをひ を産し , 世界市場と直結している。 称する , いわゆる偽ド せるフィリップス法と , モリプデン そかに殺した摂政ポリス・ゴドノフは , か / オセアニア トリーがポーランド わって王位につくが , 良心の責めにたえす , を触媒として 130 ~ 2()() ℃ , 7() 気圧で ポリネシアじんポリネシア人 からロシアに侵入 , 騒 ついに発狂して , その子フョードルに位を 重合させるスタンダード法がある。 太平洋の北はミッドウェー島から南 然たる中に急死した。 ゆす . ることを宣言してこの世を去る。また 低圧法はチグラーー法ともよばれ , ト 以後数十年にわたるロ のニュージーランド , 西はイースタ にせ王子のドミトリーの反乱や民衆の動揺 シア史上の動乱時代が リエチルアルミニウム ( C2H5 ) 3A I , ー島から東のニュージーランドにわ などが描かれている。 〔植村〕 はしまった。 ほりたつお堀辰雄 1904 ~ 53 四塩化チタン Ti C 1 4 を触媒として 60 たる広範囲の諸島に住む。彼らの話 ~ 80 ℃ , 常圧または若干の加圧下で 作家。東京に生まれた。東京大学国 すポリネシア語はアウストロネシア 重合させる。この製法で得られるポ 語族に属する。形質的には , 広大な 文科在学中中野重治らと同人誌く驤 リエチレンは堅ろうで機械的強度が 馬いを発行。コクトー , ラディゲ , 分布にもかかわらす , ひしように同 大きい。一般にポリエチレンは水よ プルーストなど西欧文学の強い影響 質的であって , こうした同質性は , り軽く ( 比重 0.92 ~ (). 96 ) , 加工しや をうけ , く聖家族〉 ( 193 ので作家的地 文化 , 言語にも対応している。人種 すく , 無臭 , 無毒で , 電気絶縁性が 位を確立。以後肺結核の身を軽井沢 的には , 地中海人種を基盤とする黄 すぐれ , 防湿 , 耐水 , 耐寒性があり , に養いつつ , 死と隣接した生を特異 色人種 , 黒色人種の混血とみなす説 耐薬品性に富み , 製品が柔軟である。 な心理的手法と叙情でこまやかに描 もあるが , 身体上の諸特徴からは , 半透明で適当な溶剤がなく , 接着性 きだしたく風立ちぬ > ( 1936 ~ 37 ) , むしろ黄色人種に加えるべきもので , く菜穂子〉 ( 1941 ) などを書き , また の悪いのが欠点である。食品などの アメリカ・インディアンとの類似を 包装 , 家庭用品 , びん , 栽培用の保 くかげろふの日記〉 ( 19 37 ) 以下の王 説く説もある。平均身長 1.7m , 黄か 温カバーなどきわめてひろく用いら 朝物も書いた 〔広未〕 っ色の皮膚 , 黒色波状毛で毬ド状毛 れる。 / 合成繊維 〔宇野〕 はない。体毛は少ないが , ひげは濃 ホリドー′レ Folidol / ノヾラチオ ンの別名でドイツのバイエル社の商 い。頭がいが高く , 短頭で , とくに ポリクレイトス P 0 ly k i t 0 s 前 5 世紀のキリシアの代表的彫刻家。 ハワイ人 , タヒチ人では頭示数 85 を 品名。 ポリにようそポリ尿素ポリュ 前 460 ~ 前 420 年ころ , 主としてアノレ 上回る超短頭である。彼らがどこか ゴス , オリンピア , アテネ , 工フェ リアともいう。組成中に尿素結合 ら移住してきたかには諸説があり明 ソスで制作した。理想化された人体 ー N H ー C O ー N H ーをもつ高分子化 らかではないが , 彼らの説話による 像 , とくに競技者の青銅彫刻にすぐ 合物。合成繊維ュリロンはこの代表 と西方からきたといわれ , この点で れ , 前期クラシックの理想性を確立 は学問的にも肯定される面が多い。 的なもので , 19 50 年に日本独自の技 し , フェイジアスと並び称される。 カヌーを巧みにあやつるすぐれた漁 術で発明された。 いくつかの合成法 人体の理想形式を各肢体の比例によ 民であるとともに , タロイモ , ャム があるが , 工業的には , 米ぬか油や って論したくカノン〉という書物も イモなどを栽培し , 大 , 豚 , 鶏など パルプ廃液から得られるトール油な 著わした。主作品はこの理論を具体 の家畜化も盛んである。住居は一般 どを原料として得られるノナメチレ 化したといわれるくドリフォロス ( 槍 に土間のだ円家屋であるが , 杭上 ンジアミン H 2 N( C H 2 ) 9 NH ~ と尿素 H 2 をかつぐ人 ) > くディアドメノス ( 勝 NC ( ) NH2 との重縮合反応でつくられ 利の帯を頭に結ぶ人 ) > で , どちらも る。ポリ尿素は水素結合性が良好な 〔中山〕 コヒ。ーカゞ伝わっている。 のでポリアミドやポリウレタンに比 ポリス pol i s 古代キ、リシアの べ融点が高い。紡糸すると強度が相 都市国家。前 12 世紀ごろドーリア人 当大きい繊維を得る。尿素結合はア が南下集住して貴族制が成立する過 ド結合 , ウレタン結合に比べ熱に 程で生まれた。要害堅固な丘 ( / ア 対して安定性が少ない。 / 合成繊維 クロポリス , 都市の守護神の神殿が 〔宇野〕 ポリネシア Polynesia 太平洋 ある ) を中心に , 市民の政治活動が 行なわれる広場 ( アゴラ ) をもち , 市 中に散在する「多数の島」の意味を 街はふつう城壁で囲まれていた。ポ もつが , その範囲については諸説が リスは自治 , 独立 , 自給自足を理想 ある。広義にはほとんど全太平洋の とし , 成文法をもち , 独持の市民共 島々をさし , ニュージーランドを含 同体を形成したが , 貴族制 , 僭主 ませる場合もあるが , 慣用ではポリ 制 , 民主制などの政体の変遷をへて , ネシア人種の住む範囲に限定し / メ 前 4 世紀ごろから袞退 , ヘレニズム ラネシア , / ミクロネシアと対置さ 時代には独立を失い , 単なる自治都 れる部分をさす。ハワイ , サモア , ラ 市となった 〔佐藤〕 イン , フランス領オセアニア , クッ ポリクレイトス く槍をかつぐ人 ) ( コピー )
仏頭 ( 旧山田寺本尊薬師如来像 ) 観音菩薩像 六観音」のうち ) 銅 6 78 ~ 685 奈良 木 7 世紀後半 興福寺 奈良法隆寺 インド . 中央アジア , 中国ど数百年にわたる 仏教美術の幅広い流れは . 6 世紀末 , ついに 東の端 , 日本に到達した。したがってそこで は , 最初から各種の様式ど技術が複雑に入り まじり、日本人の芸術的感覚がそれらを巧み に自己のものどしていく間にも , さらに新し い要素が流れこむ。 7 世紀 , いわゆる飛鳥 , 白鳳時代の日本彫刻はそうした多様さご早熟 な発達ぶりで特色づけられる。広隆寺の弥勒 半跏像は法隆寺の止利派諸像の厳しさどは異 なる感性を示し , さらに木造六観音像の親し み深い表現が生まれる。一方 , 若い日本民族の 初唐芸術への共感は , 旧山田寺本尊から薬師 寺本尊へご力に満ちた鋳銅像の技術を確実に め , 8 世紀の日本彫刻は唐朝文化圏におけ る第一級の制作を可能にした。写実性ど理想 主義ごのほどよい調和は , 法隆寺五重塔の塑 像群のいきいきした人間味から , 東大寺法華 堂の乾漆諸像の荘重な表現まで , 天平の古典 芸術を幅広くささえている。 8 世紀末 ~ 9 世 紀 , 鋭い刀法をみせた木彫の魅力が . 新しい 造形意欲こ結びついて、日本の彫刻に別種の 活力を吹きこむ。しかし世紀以降おだやか に洗練された表現を求める宮廷文化のなかで , 彫刻も伝統の諸要素を一つにあわせた新しい 古典様式をつくりあけていった。鳳凰堂諸像 に示された仏師定朝によるその典型が , 寄木 造りによる工房制作のなかでしたいに生命を 失ったごき , 天平の伝統ご宋朝芸術の刺激の なかから , 天才運慶による中世的創造がおこ り . 日本彫刻に最後の輝きを与えたのである 侍女 ( 法隆寺五重塔初層群像のうち ) 塑 7 1 1 奈良 法隆寺
20 22 古代の服装は温暖な地中海の沿岸に生まれた文化のなかで であり , 胴をびったりとさせたスタイルになっている。べー ルやマントなどにビザンチンの姿がそのままとり入れられて 発達したが , 北方のゲルマン人たちの服装はどうであったか , いる。⑩はこれよりややのちの貴族の男子である。ゆったり それが古代文化にどのように影響を与えたかが , 中世の服装 したガウンの上にまとったマントには , 家がらを示す紋章が を考察するときの着眼点でなければならない。⑩⑩はゲルマ つけられ , 毛皮のケーフ。や帽子に当時の特徴がうかがわれる。 ンの男女である。はっきりと裁断された 2 部式の服装をして ⑩はふだん着の婦人であり , 上体はびったりとし , スカート いて , 女はスカート , 男はズボンをつけている。この形式は がひろがってきた。低めにしめたベルトにたらしたハンドバ やがて欧州の一般的な服制となった。頭飾りや腰飾りは青銅 ッグが印象的である。⑩は富祐な市民の姿であり , ゆったり 製である。次に滅亡前のローマ末期の服はどう変わっていた した外とうにすきんをつけ , さらに毛皮の帽子をかぶってい かをみよう。⑩はキリスト教がひろまってから着られるよう る。は羊飼いの老人である。たけの短いダルマチカを思わ になったダルマチカとよぶ服で , 両肩からすそまで赤黒いし せる服を着て , 足にはゲートルを巻いている。粗末なすきん まの飾りがついているが , キリストの血のシンポルといわれ など当時の貧しい人たちの服装がうかがわれる。 る。⑩は筒そで形をした男子服のダルマチカ , ⑩は婦人のダ こで特記しなければならないのは , 服装史上ゴシック時 ルマチカで , たけがやや長い。キリスト教信者が頭にべール 代といわれるスタイルを生みだした裁断技術の革命である。 を装うこともはしまった。 @@はビサンチン帝国の皇帝と后 そでやスカートには , 切りかえやまちがはいるようになり , の姿である。装飾のあるダルマチカを着て , 上から大形のマ や⑩にみられるひろがったスカートや , ⑩にみられるびっ ントをまとっているが , 宝石のついたプローチで肩をとめて たりした上衣やズボンが作りだされた。これによって女子は いる。王冠や耳飾りなどぜいを尽くしたものであった 豊かなスカートとなり , これに対して男子はびったりしたズ 中世の欧州の服装はゲルマンの素朴な服とビサンチンのは ポンとなり , 男女の服装の対照があきらかになってきた。 なやかな服との交流で形成された。⑩は十字軍のころの婦人 25 29 28 26 23 24
5 4 8 襲に備えをはしめた。そのうちに文 まま早死したため , 作品の数も少な 永 11 年 ( 1274 ) 1 () 月 5 日元は , 元 , 高麗 いか・ , シャーロットだけは死の前年 に父の牧師補と結婚 , くシャーリー〉 の連合軍約 2 万 3 千をもって , ます ( 1849 ) , くビレット > ( 1853 ) , く教授 > 対馬 , 壱岐を襲い , 次いで博多湾に ( 1857 ) などを残した 〔小野協〕 上陸した。日本将の・騎討ちの戦 フロンドのらんフロンドの乱 法は元軍の集団的戦法や火器 , 毒矢 1648 ~ 53 年のフランスの内舌し。フロ の攻撃になやまされたが , その夜暴 ンド fronde とは投石器のこと。高等 風雨が起こリ博多湾内の元船は覆没 , 法院のフロンド ( 1648 ~ 49 ) と諸侯の 大破した。これを文永の役という。 フロンド ( 1650 ~ 53 ) の 2 期に分かれ 幕府はこの役後 , 北九り・日沿岸に防塁 る。ルイ 14 世の幼年時代 , 政権は母 を築き兵船の準備を整え , 御家人 后アンヌ・ドートリッシュと宰相マ に対して国わ防衛の厳命を下した。 立のころはアレゲニー山脈を , 19 世 ザランがにぎっていたカゞ , 1648 年新 紀の中ごろにはロッキー山脈を越え , やがて翌建治 1 年 ( 1275 ) 元使杜世忠 1890 年にはフロンチア・ラインは国 しい課税をめぐってパリ高等法院の らが長門にきたが , 執権北条時宗は 決意を示すためにこれを鎌倉竜ノロ 法官貴族たちが政府に反抗 , 27 ヵ条 勢調査報告から消滅した。 F. ターナ ーは , フロンチアは米国化の線であ の宣言を提出した。首謀者の逮捕を に切り , さらに弘安 2 年 ( 1279 ) にき きっかけにバリ市民も立ち上がった り , 米人気質 , 個人主義 , 試行錯誤 た使者をも博多に斬首羅した。南宋 の考え , 米国的民主主義などを生み , が , マザランはコンデ公の軍隊で反 を滅は、して江南をあわせた元は , 弘 各種の移民をも同質化するナショナ 乱を鎮圧 , 49 年リュイユの和約を結 安 4 年 ( 1281 ) 5 月に至り , 高麗軍を リズムにも大いに関係があり , また んだ。その後コンデ公がマザランと 加えた東路軍 90() そう 4 万の兵をも 東部の社会不満の安全弁でもあると 反目し , 第 2 次内乱となり , コンデ って対馬 , 壱岐を侵し , 博多湾に来 この説には各種の批判もある 軍はパリに攻め入り , 宮廷側は一時 襲した。少弐経資をはしめ大矢野種 が , フロンチアが米国史で大きな役 亡命を余儀なくされたが , コンデ軍 保 , 竹崎季長 , 河野通有らの諸氏は はパリ市民の反感を買い , チュレン 割を果たしたことはいなめない。な 元軍の上陸を阻止するとともに志賀 島に仮泊している元軍を強襲して戦 おフロンチア的性格を有する社会を ヌの王党軍に敗れ , 52 年国王はノヾリ 果をあげた。一方進発のおくれた旧 ひろく西部という。 に帰遠 , 翌年マサランも帰って内乱 〔清水〕 プロンテしまいプロンテ姉妹 南宋の江南軍 35()0 そう 1 ( ) 万余の兵が は終わった この乱は絶対王政の確 7 月下旬に東路軍と合流し博多湾攻 英国の作家姉妹。シャーロット Char- 立途上における最後の貴族の反抗で lotte Bronté ( 1816 ~ 55 ) , 工ミリ 撃に移ろうとしていたとき , 暴風雨 あり , 以後プルポン朝絶対王政の全 EmiIy Bronté ( 1818 ~ 48 ) , お 盛期にはいる。 のために船団の大半は沈没破損し , 〔木村〕 よびアン Anne Bronté ( 1820 ~ 49 ) 残った元軍は攻撃をあきらめてのが フン Huns はしめカスピ海の」ヒ 方や東方に住んでいた遊牧民族で , これが弘安の役である。 の 3 人で , アイルランド系の牧師の れ去った 支配層の言語はトルコ語系であった 元はその後も出征計画をたてたが , 娘としてョークシャーのソーントン で生まれ , のちホーアスに移住した。 ふつうには / 匈奴翳の子孫とされて 国内事情によってついに実現されな いなかの学校で学んだのち , シャー いるが , 反対説もある。 4 世紀に西 力、った。 方へ移動しはじめ , 374 年にドン川 元寇にあたって幕府はこれまで支 ロットとエミリーはプリュッセルへ を渡って東ゴートの地に侵入 , 次い 配外にあった公領などからの兵士や 語学習得のため留学した。 1846 年そ 軍用物資を徴発する権限を穫得し , で西ゴートを破り , 民族大移動の端 れぞれ筆名を使って 3 人合作のくカ 緒を作った。 5 世紀中ごろ / アッチ さらに非御家人をも統制下におくよ ラー , ェリス , アクトン・ベル詩集 > うになり , 以後の武家政治に大きな を自費出版したがわすか 2 冊しか売 ラが王となるに及んで全盛期を迎え , 影響を及ばした。しかし一方では九 れなかった。しかし翌年アンのくア その版図はハンがリーを中心、に , ポ 州地方の御家人は戦闘や沿岸警備の グネス・グレー > , ェミリーの / く嵐 ルが川からライン河畔に及んだ。ア ために多くの費用をついやしたが , ッチラは , フンをはじめ東ゴート , が丘 > につづいて , シャーロットの プルグント , フランクなどの諸族を その恩賞は十分に得られなかったか / くジェーン・エア > が出版された 文永弘安の役における 彼女らの作品の中では最後の 2 冊が 率いて西口一マを攻めたが , 西口一 ら幕府政治に不平をもつものも少な 石塁防備図。く蒙古襲 断然傑出しているとともに , 著しい くなかった。また当時一般に御家人 マ・西ゴート連合軍に / カタラウヌ 来絵詞 ( えことば ) 〉か の生活はぜいたくになり , 惣領の支 共通性が見られる。すなわち , とも ムの戦いでくいとめられ退いた ( 451 ) 。 ら。く蒙古襲来絵詞 > 配が弱まり所領は細分化される傾向 に筋の組立はかなり粗雑であるが , 次いでふたたびイタリアに進み , ロ は , 肥後の竹崎季長が この両度の役でたてた にあった。そのため御家人の生活は そこにくりひろげられる強烈悲惨な ーマに迫ったが , 法王レオ 1 世の調 戦功を描かせたもので . 困窮し所領の質入れ , 売却がふえ , 愛憎の絵巻は , とうてい女性の作品 停によって休戦し , / ヾンノニアに帰 前後 2 巻あり , 13 世紀 とは信しられないほど鬼気せまるも ーこに元寇を境として鎌倉幕府政治 った。しかしアッチラが急死すると 末完成したらしい。戦 のがある。工ミリーとアンは独身の に対する非難は高まり , やがてはそ ( 453 ) , その大帝国は内乱のため崩 記絵巻の傑作とされる。 れが鎌倉幕府の滅亡へと進んでいっ 壊し , フン人はドナウ川下流の平原 図の中央の武十が季長 に退き , プルガール , アノヾール諸族 た。また一面 , 元寇を通じて国家的 などと同化して , 民族としては存在 自覚がようやく明確になり , さらに しなくなった。なおハンがリーの名 暴風雨を神風とみる神国思想も芽ば え , 以後の日本の歴史に大きな意義 称はフンに由来する。 〔護〕 ぶんえいこうあんのえき文永弘 をもった 〔福Ⅲ〕 ぶんか文化文化 culture とい 安の役大陸に大帝国を建設したモ うことばは , 一般にはきわめてあい ンゴル民族による元が , 13 世紀後半 まいに使用されているか、 , 現在の社 日本に侵攻してきた戦役。元寇黔 , 会科学 , とくに人類学で文化という 蒙古来襲ともいう。元の世祖フビラ 語を使用する場合はもっと厳密に規 イは高麗征伐後日本をも服従させよ 定する。すなわち , 文化とは , 人間 うとして , 文永 5 年 ( 1268 ) 以来しば しば使者をつかわしてきた。幕府は が他の動物とも共有する純生物学的 行動以外の生活行動の総体をさす。 その要求を拒否するとともに元軍来 フ・ロンテ、ン 左から , アン , 工ミリ ー , シャーーロットク ) フ・ ロンテ姉妹
′ヾビロ ニア 1 7 7 るが , 中国大陸は常在地であるから ヾ′ヾロア bavarois セ・ラ・チ・ン 防疫上重要な病気である。本病はウ , 砂糖 , 牛乳 , 香料を主体にし マ属の肺 , 皮膚 , 鼻粘膜 , その他内 くるケーキの一種。料理の間に れるアントルメ ( 甘味品 ) として 臓を侵し , 結節やかいようを作る。 したが , 単独に菓子としてもつ とくに鼻粘膜を侵し , 鼻汁を多く出 れている。風味づけとして配す していることが多いのでこの名があ ョコレート , コーヒー , 果実 , る。略式診断にはマレイン点眼法と いうものがあって , これに陽性の病 リームなどによっていろいろの 馬はさらに動物試験 , 凝集反応 , 補 シュメル人などが移住し , 集落がつ がある。ノヾノヾロア・ア・ラ・ク くられた。バビロニアの歴史はこの ムをつくるには , 砂糖 100g , 卵 体結合反応などによって決定され , 確定されたものは処分される。現在 あたりから始まる。これは前 508 年 3 , ゼラチン 1() g に暖めた牛享し 270 ごろのことであるカゞ , やカ { てセム語 注ぎ弱火で煮たたせ , 布ごしし , まだ治療法 , 予防法ともに的確な方 族のアッカド人 , アムル人もこの地 のェッセンスを加え , 水で冷や 〔北野〕 法が発見されていない。 方に姿を現わした。バビロニアの歴 固まりかけたとき , かたくあわ ′ヾビルサ babyrusa 偶てい目イ 史時代は , 1 ) シュメル・アッカド時 た生クリームを加え , 型に入れ ノシシ科の獣。セレベス島やプール 代 ( 前 3000 頃 ~ 前 208 頃 ) , 2 ) バビロ ー島の産。ノヾビルサは原地名からで 〔関〕 ニア時代 ( 前 208 頃 ~ 前 128 頃 ) , 3 ) きた英名で , シカイノシシともいう。 、′ヾロフスク Khabarovsk ソ アッシリア時代 ( 前 128 頃 ~ 前 600 頃 ) , 肩の高さ 80cm 。雄の上大歯は大きな 極東地方の都市。人口 377()0() ( 19 4 ) 新バビロニア・ベルシア時代 ( 前 きばとなって上に曲がり , 下大歯も ) 。アムール川右岸 , ウスリー川と 6 ( ) ( ) 頃 ~ 前 3 ( ) ( ) 頃 ) に大きく分けられる。 上方に曲がるが , これは短い。雌の 合流点にあり , 水陸交通の要地で , きばは短い。体ははとんど裸出して 港もある。また軍事的にも重要で 1 ) シュメル・アッカド時代この時 なめらかで , 尾の基部に剛毛がある。 る。各種機イ戒 , 船舶 , 石油精製 , 期に最古の都市文明がおこった。各 夜行性で , 単独か小群ですみ , 果実 材加工 , 石炭液化 , セメント , レ 都市はそれぞれ都市国家をつくり , やこん虫を食べる。林や川の土手 , 竹 が , 製粉 , 醸造 , 食料品加工など みすからの神をもち , そして王が神 林などにおり , 1 腹 1 ~ 2 子を産む。 工場がある。ウスリー川やアムー の名において神権によって支配する / ( 別刷 ) ほ乳類 〔黒田礼〕 川流域の木材による木材コンビナ 神権政治が多く行なわれた。初め各 トを建設中。極東地方の文化的中 ′ヾビアレス papyrus カミガャッ 市の間には統一はなかったが , それ リともいう。古代エジプト ( とくにデ として自動車および道路 , 鉄道 , でものちのノヾビロニア文明の原型カ { ルタ地方 ) のもっとも重要な植物。カ 学 , 教育などの単科大学をはしめ この時期に創造されていった。南部 ャツリグサ科の大形多年草で高さ 3 くの教育文化施設がある。 1858 年 メソボタミアの南音 6 には / シュメル 5 m にも達し , 茎は緑色でにぶい の屯所として建設 , やがて当時 の都市文明 , 北部ではアッカドの諸 3 稜のある円すい形。日本でも温室 市が成立したが , やがてアッカドの 東シベリア総督ムラビョフの指導 で栽培できる。茎はパピルス船や家 王サルゴン ( 前 238 頃 ) が現われて全 移民団が定住し , 探検家ハノヾロフ 屋の柱となり , 敷物 , サンダルにも 名にちなんでハノヾロフカとよばれ メソボタミアを統一し , 南北は経済 用いる。髄を細く刻んで縦横に並べ , 現在の名称になったのは 93 年以 的にも文化的にも統一に向かった。 これに押しをして表面をみがくと上 のち , シュメル人のウル第 3 王朝 ( 前 〔加藤〕 である。 質の筆写材料 ( 現代欧州語の「紙」の 218 ~ 前 20 ) 頃 ) カ { ふたたびメソボタ ′ヾー′ヾンク Luther Burbank 原語はエジプト語のパ・プロ→ギリ ミアを統一するに至って , この同化 49 ~ 1926 米国の育種家。最初は シア語パピロスに由来する ) がえら 作用はますます強まった , 。 2 ) バビロ ーイングランドのルーネンバー れる。最古の遺物は , 前 30()0 年にさ ニア時代前 19 世紀の半ばに遊牧民 ' で , のちカリフォルニアのサンタ かのばるが , 文字をしるしたものは アムル人の長スム・アプムカ { ノヾビロ ーサで農園を経営し , 変異と遺伝 第 5 王朝 ( 前 2500 年前後 ) のものが現 関するダーウインの諸著作を指針 ンにより , 前 16 世紀まで続くバビロ 存する。上質なものから粗悪なもの し , 交配および集団選抜法をおも ン第 1 王朝を開き , やがてハンムラ まで種々あり , 大きさも中王国時代 ビ ( 前 1728 ~ 前 1686 ) のもとに「黄金 用いて作物品種を育成した。とげ には 35cmX40cm くらい , 新王国時代 時代」とよばれる強盛を示した。バ ・しサポテン , 種なしスモモ , シャ には 42cm x 48cm くらいのものが用い ターディジー , ノヾーノヾンクポテト ビロニア文明はここに古典的完成に られた。ふつうの巻物はこれを 2() 枚 達し , その文化の影響はシリア , ア ・どは有名である。 〔八杉〕 くらいつづったが , 現存する最長の はびきの羽曳野〔市〕大阪府東 ッシリア , ェラムなどまで浸透した ものは 40 m に達する。前 4 世紀ころ , 大阪平野南東端にある市。 1956 この王朝は前 1595 年ごろ / ヒッタイ からギリシア語をしるしたものが現 ・南河内郡古市 , 高鷲の 2 町と 4 村 トの急襲によって滅び , そののち微 上は植物のノヾピルス。 われグリーク・パピリとして区別す ー合併して南大阪町となり , 59 年に 力なカッシート ( バビロン第 3 ) 王朝 下はノ、ヒ。ルスの巻物で る。バヒ。ルス学はふつう後者を対象 i 制施行して改称。人口 50333 ( 1965 ) 。 く死者の書〉第 148 章か の支配が 50() 余年続いたが , カッシー ら。第 21 王朝のもの としている。 しこ、は旧古市町で近鉄南大阪 , 長野 〔板倉〕 ト人は馬と戦車戦術を教え , 特異な j 線の分岐点をなし , 大阪に近いの アヾビロニア BabyIonia ノヾビロ ニアとは , / ノヾビロンを中心とする 1 、住宅地が発達し , プラスチックセ 国土の意味で , 狭義には南部 / メソ / ロイドなどの製造工場もある。 ボタミアをさすが , 広義には北部の ] 野丘陵は有数のデラウェア種プ アッシリアをも含めてメソボタミア , ウの栽培地で , 北流する石川の谷 全部をいうこともある。 こでは , 、、は野菜 , 果樹園芸が盛んである。 南部メソボタミアを中心としてノヾビ 「墳が多く , また誉田滸八幡宮 , 西 ロニア世界の変遷を概観する。 ( 寺などがある。 〔小林〕 〔歴史〕初めメソボタミア南部の地 ばびそ馬鼻疽馬鼻疽菌によっ 域は , 今よりも海岸線が深く入りこ : 起こる法定家畜伝染病。元来ウマ , レヾの伝染病であるが , ヒト , ラク んでいたが , チグリス , ューフラテ イヌ , ネコ , ヒッジ , 野獣など ス両河の運ぶ泥で沖積層が形成され : も感染する。日本は非常在地であ るにつれ , ヤべテ語族のエラム人 , ノヾビノレサ
まり , 人間の生活のしかたのうち , 、習によってその社会から習得した 予動様式全体を文化と考えるのであ 単に教養とか文芸といった意味 、、用いているのではない。すでに 1871 に英国の人類学者タイラーが文化 定義して , 「文化もしくは文明と よ , 知識 , 信仰 , 芸術 , 道徳 , 法律 , 習 , その他人間が社会の成員とし 獲得したあらゆる能力や習性の複 こで ロ的全体である」といった / く日本霊異記う > く懐風藻 > く歌 イみよう く高橋氏文 > く古語拾遺 > , 本書紀 > , / 風土記 , / 祝詞 ? り , ~ 葉集 > をはしめ , / く古事記 > , / く日 いては約 45()0 首の和歌を含む / く万 8 世紀末ごろまでである。この期にお 〔古代〕文学史で古代とよぶ範囲は 日本の文学 日本の文学史についてのみ記述する。 こでは 目で述べられてあるので , これらについてはそれぞれの国の項 学の本質を知るうえに有効である。 の発達の歴史をみることのほうが文 むしろ各国の文学史 , 詩や小説など らすしも間題の解答に役だたない。 数であるが , これらの論自体はかな かということに関する議論は古来無 点で重要な意味をもつ。文学とは何 い。ロ承文芸は文学の発生を考える 文芸も文学であることにかわりはな 一方 , 文字なき時代や民族の / ロ承 その内容はきわめて多義的である。 書簡などまで含められる場合もあり ージュ , / 工ッセー , アフォリズム 伝 , / 日記 , / 紀行文 , / ルポルタ 義に解して / 伝説 , / 伝記 , / 自叙 からなると考えられるが , さらに広 俳句 ) , / 小説 , / 戯曲 , 批評など のジャンルとしてふつう / 詩 ( 短歌 , をもつものと考えてよい。文学はそ 西洋のリテラチュアとほば同し意味 今日使われる文学という語は , 近代 「学問」という意味である。しかし が , 日本の「文学」という字は本来 献」「文書」という意味も含まれる ( 文字の意 ) から生じたことばで「文 ア literature ーよラテン言吾ク ) littera る芸術の一領域。英語のリテラチュ ぶんがく文学言語を媒体とす をみない。 / 文明 発達をとげたのは , 人類のほかに例 が身体的特徴を決定するほどにまで 泥の差があるのみでなく , 逆にそれ 度まで認められるが , 量と質とに雲 みでなく , 高等の霊長類にもある程 なお学習による生活行動は , 人間の 社会と文化とは密接な関係にたつ。 の違いをみる。 こうした観点から , 属する社会の性格によってさまざま して身につけていく生活行動には , れおちたときから , 当社会の成員と 月確にしたものである。人間が生ま 本能的な習性や行動でないことを うのは , 文化は . 遺伝に基づく人間 社会の成員として獲得した」とい 5 4 9 経標式〉などをとりあげることがで これらのうち , く高橋氏文〉 きる。 く古語拾遺 > く日本霊異記 > などは , それが成書化されたのは平安時代に 属するが , その内容から古代的なも のと認められている。古代の文学を 理解するためには , 律令国家の形成 の歴史を知ることが必要である。そ の前奏は推古朝 ( 聖徳太子摂政 ) のこ ろに始まる。在来の氏姓制度への反 省が興り , 冠位十二階の創始となり , 個人の能力をもととして官吏を登用 し位階の世襲を廃そうとする方針が 示された。社会の問題と関連して個 人というものが認識されるようにな ることは , 文学の現象といつも深い 関係をもつが , 日本文学もこのころ から跡づけができるようになる。大 イヒ改新の詔会計か、宣せられたのは 646 年のことであるが , 今度はその規模 を異にして国と個人とを直結させる 考えがはっきりと示された。当時の 詔に「今日明日次ぎて続きて詔せむ」 と緊迫の事態を示してもいるが , の経過の中で国語の表現の重要さが 自覚され , 漢文の詔勅に対して宣命 という和文形態の詔が確立されただ けでなく , く古事記〉やく万葉集 > の っ 実現が約束されたのであった。 いう過程があって , はしめて素朴な 伝承や純粋な叙情歌などが , より正 しい姿で今日に伝わる条件を得たの である。したがってことばを変えて いえば , く日本書紀 > やく懐風藻 > やく歌経標式〉などは律令制度に即 した作品であった。すなわち , 偉大 な史籍は律令国家の面目にかけても 作らなければならないものであった し , 詩賦の実績を示すことも律令国 家の文化人には必要なことであった。 これらには習作の範囲を出ないもの があるにしても , 表現に傾注する努 力を体験する機会を得た意義は文学 プンガク な政治体制が道長の政権掌握によっ て一つの頂点に達した時期までで , 文学も女房うを中心とする女流の 文学がこのころから盛んになり , 後 期に引き継がれる。物語は / く宇津 保物語〉 , / く落窪物語 > をへてく源 氏物語 > の大作を生み , 日記も / く蜻 蛉日記 > からく和泉式部日記 > く紫 式部日記〉 , 随筆に / く枕草子韜 2 の > がある。以後の約 2 世紀を一括して 後期とする。いわゆる女房文学の最 盛期はこの期の 11 世紀後半であるが , 物語文学は多く < 源氏物語 > の影響 下を脱し得す , 新たに / く大鏡 > , く栄花物語〉の歴史物語に新生面 を見いだし , / く今昔物語〉のよう な説話の一大集成に時代の推移をみ ることができる。和歌はこの期を通 していわゆる新古今風へと推移する。 前期のく古今和歌集 > く伊勢物語 > , 中期のく源氏物語 > く枕草子 > , 後期 のく大鏡 > く今昔物語〉をこの時代の 文学の代表的傑作と称しうるであろ この時代はもともと哲学をもた なかった日本人の情意生活が , 人工 の極致をきわめた文学を開花させた 時代であった。人生や社会を仏教思 想を中軸とし , いわば客観的に思索 しようとする傾向は中世文学をまた なければならないが , しかも平安時 代に完成された文学意識はこうした 新しい傾向と融合して , 中世のく方 丈記 > く平家物語〉く徒然草〉やま た近世の松尾芭蕉の文学を生んだ のである。とくにく古今和歌集 > く伊 勢物語 > く源氏物語 > の 3 書は , 後世 の文学に古典としての決定的影響を 与えた 〔石田〕 史のうえで大きい。 〔太田〕 〔中古〕 794 年の平安京遷都から 11 85 年の平家滅亡のころまでの約 40() 年間の文学を文学史のうえでは一画 期とする。 / く古今和歌集 > の成立 した 905 年を一つの目盛とすれば , この前後までの約 1 世紀を前期と称 しうる。初めは漢文学隆盛の時代で < 凌雲新集〉 ( 814 ) , く文華秀麗集 > ( 818 ) , く経国集 > ( 827 ) の 3 勅選漢 詩集がなったが , やがて和歌復興の 機運が起こりく古今和歌集〉の勅選 にかな文学の開花をみた。古代律令 制国家がまだその体面を保ち得てい た時代で , 文学も公的な立場のもの として宮廷を中心に栄えた。く古今和 歌集 > の前後にかなの散文文学も起 こり , 物語に / く伊勢物語 > , / く竹 取物語〉 , 日記に / く土佐日記〉があ る。次に / く源氏物語 > の少なくと も一部は成立していたことの明らか な 1008 年前後までの約 1 世紀を中期 とする。摂関政治といういわば私的 〔中世〕 12 世紀末鎌倉幕府が開かれ てから安土桃山時代の終わり ( 16 02 ) ごろまでの時代は , 古代の文学が 変質し , その基礎のうえに中世独自の 文学が築きあげられ , それとともに これまでにない新しい文学が発生し た。ます鎌倉時代の文学についてみ ると , 初期には和歌においてはく千 載和歌集 > ( 1187 頃 ) や / く新古今和 歌集 > のような注目すべき / 勅選和 歌集が編集され , 藤原俊成 , 藤原定 家 , 藤原家隆 , 後鳥羽院 , 慈鎮らの すぐれた歌人が輩出し , 和歌史上一 時期を画している。それと同時に 古代末期の大きな時代の変動を経験 した結果 , / く保元物語 > , / く平治 物語〉 , / く平家物語〉などの軍記 物語を生み , く平家物語 > は琵琶法 師に語られることによって , 広範な 享受者を獲得した。変革の時代であ ることは , また諸行無常の思いを深 くし , / く方丈記〉や / く徒然草 > などの内省的文学を生んだはか , 法 然 , 親鸞 , 日蓮 , 道元などの高僧の 法語類にも文学性の高いものが少な くない。京都と鎌倉の間の往復がき わめて盛んに行なわれたので , く海 道記 > ( 1223 頃 ) , く東関紀行 > ( 1242 ) ,
画村田道紀 服装の変遷 服装は寒い気候から人体を保護し , 暑い地方では毒虫や外傷 などを防ぐ。しかしこのような実用性が着衣の目的のすべてで はない。ハースコビッツは着衣の動機としてはしらいと媚 ( こ び ) との 2 重の役割を , ウントは呪 ( しゅ ) 術的動機をあげてい るが , 服装はまた性 , 部族 , 社会的地位なども表示する。そし て生活が向上するにつれ , 人は服装の単なる実用性にあきたら す , 社会的 , 心理的欲求を追うようになる。だから , 服装の歴史 にはその時代の文化や心理的欲求が物語られているといえよう。 西洋の歴史を例にすれば , 古代エジプトや西アジアにみられる 神秘性 , ギリシアの単純な美しさ , ローマの華麗さ , ゲルマン の質実剛健さ , 中世貴族たちのけんらんさ , 絶対王政時代の豪 華さと享楽性 , 19 世紀以後の機能的な新しい歩み , そして最後 の段階である第一次大戦後の新しい単純さ , このようにあげて いくとすべてにそれぞれの文化の歴史をみることができる。し かしいつの時代にも表面に現われたのは貴族や富豪であり , 服 装史もその例にもれないが , そのかげに営まれていた一般民衆 の服装はどうであったろうか , 彼らの心理的欲求がどれだけ服 装に示されたであろうか , この点も忘れてはならない。 西洋の服装の歴史 西洋の古代の服装は , 布地をからだに巻くか垂らすかする 形式のものがおもである。①②は前 1500 年ごろのエジプトの 王と王妃で , 身分を表明する冠や腰飾りをつけている。③は 単純な腰布につり布をつけた婦人の装いである。次に西アジ アに移ろう。前 8 ~ 前 7 世紀に一大帝国を建設するに至った アッシリアの服装をあげる。④は庶民の娘でケープとスカー トの組合せがしやれている。⑤は身分の高い男で長い布をぐ るぐる巻いている。⑥は庶民の女。⑦は富祐な商人であろう , ふさ飾りのある貫頭衣を着ている。 下段は古代ギリシアおよびローマの服装である。有史以前 のクレタ島の遺跡に⑧のような近代的な装いがみられるのは 注目される。ギリシアの女性の服装は⑨⑩のドーリア式のキ トンと , ⑩のイオニア式のキトンに代表される。⑩はギリシ アの男子のキトンでスポーツマンや労働者である。ローマの 服装はギリシアのものが受けつがれ , 婦人はイオニア式のキ トンをそのままとり入れ , ストラとよんだが⑩ , 男子はロー マ市民の表象であるトーガをさまざまな形でまとった⑩⑩。 服装 1