ーメ川はノくリをはは南北に分ける . 前一世紀こ にこの地に移住してきたケルト人の / くリシイ人 : ちは、セーヌ河畔のイ氏湿地よりむしろ周辺の高 也を選んだが , ローマ人の侵入以後ハリは , シテ を中心にセーヌ川の両岸に発展した ノ、リごセ メ川の共存関係は , たごえは、セーメ川の水運 が / くリを発展させ , / 、リおよひ′くリ盆地の緊栄が セーヌ川の水運を発達させるどいうように , ひし ように深い。パリが大都市に成長した今も川は流 れ統ける。セーヌ川は / くリの美しさにさらに美を 添え , 河港パリ港はフランス第 3 の貨物量を誇る 日曜日 , セーメ河岸は魚を釣る人どそれを見物す るのんき者でいつはいになる。また水煙をあけて 水面を走る乗合船は , 若い人たちのお気に入りて・ ある。写真右は , セーヌ川ど工ッフェル。下は . シテ島付近の河岸に多い名物の古本屋。店どいっ てもセーヌ川の岸壁にのせた箱のふたをあけたた けの露天商た。道はたにカン / 、スをすえて写生す る人がいるのも , / 、リてよく見かける光景である 撮影阿部徹
2 2 9 ーマのサン・ピエトロ聖堂の楽長な 力である新興のオスマン・トル どを勤め , その間に約 1 ( ) ( ) 曲のミサ 支配下にはいった ヾレスチナ問題〕一方 , かってイ 曲のはかモテット , マドリガルなど 多くのすぐれた作品を書いた。彼の 工ル王国の中核であったユダ 音楽は前代のフランドル楽派の技巧 は , 70 年に聖地ェルサレムを破 的な複音楽の影響を直接うけながら れ , ノヾレスチナから追放されて , 新しい和声的原理もとり入れて技巧 各地に流亡し , 迫害をうけてい フ を単純化し , 調和と崇高な気分に満 パレスチナ復帰を 19 世紀から , イ ちた曲を書いた。今日 / グレゴリオ 票とする / シオニズム運動が高揚 聖歌に次ぐ理想的なカトリック教会 非公式の移住もはじまった。や 日 R ・ 3m 音楽とみなされている。 第一次大戦中 , 英国はアラブ 〔植村〕 ′ヾレーポー′レ volleyball 2 チ ユダヤ人の援助を確保するため , ームが高いネットを隔てて , ポール 、矛盾する 1915 年のマクマオン宣 か、地面につかないうちに相手方のチ 戦後におけるこの地域でのアラ 居住地の独立承認の約束 ) と 17 ームにポールを送る球技。排球とも いう。運動量が少なくてすみ , 用具も ノヾノレフォア宣言 ( ユダヤ人のノヾ 簡単で , 狭い土地でもできるので日 チナでの祖国建設を援助する約 を出した。戦後 , この地域のトル 本ではひろい愛好者層をもっている。 、らの分離が決まると , ユダヤ人 〔歴史〕バレーボールは , 1895 年 , 売々移住をはしめたが , 現地のア 米国マサチューセッ州のホリオク市 人との対立は深刻化し , 1920 年 の Y M C A の体育教師ウィリアム・ ダヤ人大虐殺をはじめ , アラブ G. モーガンによって , これより 4 年 こよるテロ行為か、あいついだ 前に誕生したノヾスケットボールにな らってつくられた。最初の試合は , 司 22 年にパレスチナは英国の委任 台領となり , 英国はノヾレスチナ分 96 年にスプリングフィールドでホリ , ユダヤとアラブ両民族共同政 オク市の 2 チームで行なわれたが , こよる独立国樹立案などを考えた 人数は 1 チームが 5 名であった。そ のころの呼び名はミネノットであっ , 両民族の不満で実現せす , ユダ 人の急速な移住 , ユダヤ資本の強 た。やか、て / ヾレーポーノレは Y M C A は問題をさらに複雑深刻化した。 のスポーツとして普及発達していっ 一次大戦中 , ユダヤ人難民の移住 たか、 , 最初のレクリエーション的な 急増し , 終戦時の 45 年には , アラ 要素はその後も残り , 競技としての 人 106 万に対し , ユダヤ人は 53 万 進歩は他競技に比較して遅々たる歩 数えた。英米両国のつくったパレ みを示していた。最初の全米 Y M C チナ問題調査委員会は , ナチスに A 選手権大会が行なわれたのは , ス 害されたユダヤ人 1 ( ) 万の移住勧告 プリングフィールドの試合から 26 年 経過した 1922 年であり , 全米選手権 行なったか、 , これによって対立は らに激化し , また英国はアラブ , はさらに遅れて 42 年であった。しか 国はユダヤを支持するなどして , し , 1912 年にローテーションの規約 決は国連にもちこまれた。 47 年の が設けられ , 17 年に 15 点制の確立を ち 12 人制となり , 現在学校などでふ みてノヾレーポールはその姿を整えた 連総会では , 48 年 5 月での英国委 つうに行なわれる 9 人制になったの 一方ロシアではモーガ、ンか、考案する 統治終了 , ノヾレスチナのユダヤ , は , 34 年の第 1 () 回の極東オリンピッ 1 ( ) 年前すなわち 1885 年 , 現在のレニ ラブ両国家への分割 , ェルサレム ク大会からであった。なお日本協会 ングラードでバレーポールなるもの 国際管理などの案が可決された。 が誕生したのは 1927 年である。元 があったと伝えられているか・確証は かしアラブ側は分割に絶対反対を 来 , 日本は 9 人制 1 本で進み , いわ ない。実際には 1925 年国民のスポー 張し , 48 年 5 月 15 日 , 英軍の撤退 ゆる「百万人のノヾレー」にまで発展 ツとしてとりあげられ , 26 年に全ソ 始 , イスラエル共和国の独立宣言 したのであるが , 53 年に早稲田大学 ともに , アラブ諸国の軍は四方か 連大会がはしまり , 有名なバレー学 が米国遠征を行なってから , 6 人制 進撃を開始し 校は 34 年に設立されて今日の隆盛を ーにノヾレスチナ 争となった。ようやく 49 年 3 月 , もようやく盛んになってきた 招いたと思われる。チェコで協会が 連の調停で停戦協定が成立し , パ に特記されるのは , 61 年の男子選抜 設立されたのは 1921 年 , プルガリア スチナは暫定的な国境線でイスラ が 22 年である。国際バレーポール連 軍と女子の日紡員塚の欧州遠征で , 日紡は 22 戦全勝 , 「東洋からきた ル , ヨルダン両国に分割されたが 盟は 47 年 2 月に生まれた。 66 年現在 風」と賞賛され , 日本バレーポール スラエル共和国とアラブ諸国間に ではその加盟国数は 98 , 事業として まだ講和条約は結ばれす , 武装対 を世界的水準にまで高めた。さらに 4 年に 1 回の世界選手権大会 , これ が続いている。なお , ユダヤとア 64 年のオリンピック東京大会で女子 に準する世界青年友好大会 , 学生の は優勝 , 男子は 3 位を獲得した プの人凵比は急激に変わり , 64 年 ュニバーシアード大会などを行なう。 〔試合方法〕 1 ) 6 人制どちらかの 月でイスラエル共和国の全人口約 またオリンピック種目としては 64 年 東京大会から実施された。アジアで ( ) 万のうち , ユダヤ教徒は約 215 万 チームがポールを 3 回めまでに相手 のは、り , 圧倒的多数を占めている。 は 1913 年の極東オリンピック大会の チームのコートに返せなかったり , 地面に落としたり , または反則を犯 イスラエノレ / ヨノレダン〔西野〕 種目となり , 21 年の第 5 回大会では 12 人制 , 27 年の大会から 9 人制のバ したりすると , それがレシービング ′、レストリー - ナ Giovanni Pier- チームの場合は相手方の得点となる。 レーポールか・行なわれた。日本には igi da Palestrina 1525 ? ~ 94 1913 年に来日した F. H. プラウンによ タリアの作曲家。ローマ南東のパ サービングチームの場合はサイドア って紹介され , 東京の Y M c A で初 ウトといって , サービスの権利だけ ストリーナという町に生まれた 公開し , 最初は 16 人制であったがの が相手方に移り , 得点にならない。 郷で少年聖歌隊員となり , のちロ / ヾレーポールのコート 50 cm サイドライン 日日 0 6 人制 サービスエリア センターライン FRO BL ・ LL アタックライン LL アタックライン 日 C 〇 9 m BC ・ 日 L 〇 FLO F 日・ サ 3 m 3m 50 cm 9 人制 22 m ン イ ネット フォワード 0 HLO FLO BL 0 エンドライン フ FRO HR 0 BR 0 6 人制パレーポーール試 合。トスがあげられて フォワードレフトカ { ス ′ヾイクの体勢にはいる
リ町のの開やな 日市れつつかこ大のの道るン往 西こで菜 のさなな中でセ中そ人あテご はは場野 んて かくくの々 端みやななど人セましるスしやはこ下市広ては ラ出ん姿こ朝のげつ ののましらなるンはそい たるの所さい てテりはの 北「あ強鳴んすャり り各をで の蚤に勉もひごシ通道つの張て々まい ルっ客りで花う、大人な一らし人 .- て通のク婦 」のにエカろるるしルリッ王 ト立光まれたそは おいあを一 ル問観あそけ出中一側場フ軒 工両置力のをてて役サはなき マ日人は 掘すフ、車 , 一腰めののモ市きに ン 3 外ちか がも場の朝大 機をえ力道動てエ は中後人い名かがの車自しフ下なの交れな いか面力のを特社すうれを 上を戦商こ蓄何たり パリ
百 人 首 小倉百人 首 秋の田の刈り穂の脆 ( いは ) の ( とま ) を荒みわ がころも手は露に濡 ( ぬ ) れつつ 天智天阜 春すぎて夏来にけらし白たへのころもほすてふ 昔の友ならなくに 藤原興風 ( おきかせ ) 人はいさ心、も知らすふる里は花ぞ昔の香に匂 ( にほ ) ひける 紀貫之 ( つらゆき ) ( く百人一首ータ話 ) による 心、にもあらでうき世にながらへば恋しかる 夜はの月かな 嵐吹くみむろの山のもみぢ葉は竜田の川のに あまの香具山 持統天皇 夏の夜はまだ宵ながら明けぬるを雲のいづこに きなりけり 能因、 あしひきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜 月宿るらむ 清原深養父 ( ふかやぶ ) 寂しさにやどを立ちいでてながむればいづく をひとりかも寝む 柿本人麻呂 白露に風の吹きしく秋の野はつらぬきとめぬ玉 同し秋の夕暮 良暹 ( りようぜん ) 法 田子の浦にうちいでて見れば白たへの富十の高 ぞ散りける 文屋 ( ぶんや ) 朝康 タされば門田の稲葉おとづれてあしのまろ屋 嶺 ( ね ) に雪は降りつつ 山部赤人 忘らるる身をは思はすちかひてし人の命の惜し 秋風ぞ吹く 大納言 ( 源 ) 経 奥山にもみぢ踏み分け鳴く鹿 ( しか ) の声聞く時 くもあるかな 右近 音に聞くたかしの浜のあだ波はかけしや袖の ぞ秋は悲しき 猿丸大夫 浅茅生 ( あさぢふ ) の小野のしの原忍ぶれどあま れもこそすれ 祐子内親王家紀 かささぎの渡せる橋に置く霜の白きを見れば夜 ぞふけにける中納言 ( 大伴 ) 家持 ( やかもち ) あまの原ふりさけ見ればかすがなるみ笠 ( かさ ) りてなどか人の恋しき 参議 ( 源 ) 等 忍ぶれど色にいでにけりわが恋はものや思ふと 人の問ふまで 平兼盛 高砂のをのへの桜咲きにけりと山のかすみ立 すもあらなむ権中納言 ( 大江 ) 匡房 ( まさふ うかりける人を初瀬の山おろし激しかれとは の山にいでし月かも 安倍仲麻呂 恋すてふわが名はまだき立ちにけり人知れすこ らぬものを 源俊頼朝 わが庵は都のたつみしかぞ住む世を字治山と人 そ思ひそめしか 丁 : 生忠見 ちぎりおきしさせもが露を命にてあはれ今年 は言ふなり 喜撰法師 ちぎりきなかたみに袖 ( そで ) をしばりつつ末の 秋もいぬめり 藤原基 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世に 松山波越さしとは 清原元輔 わたの原漕ぎいでて見ればひさかたの雲居に ふるながめせしまに 小野小町 あひ見ての後の心にくらぶれば昔はものを思は がふ沖っ白波 法性 ( はっし これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬ ざりけり 中納言 ( 藤原 ) 敦忠 も逢坂 ( あふさか ) の関 蝉 ( せみ ) 丸 あふことの絶えてしなくばなかなかに人をも身 う ) 寺人道前 ( さきの ) 関白太政大臣 ( 藤原忠、 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末にあ わたの原八十島 ( やそしま ) かけて漕 ( こ ) ぎいで ぬと人には告げよあまの釣舟 参議 ( 小野 ) 篁 ( たかむら ) あまっ風雲のかよひ路吹きとぢよをとめの姿し をも恨みざらまし 中納言 ( 藤原 ) 朝忠 むとぞ思ふ 崇徳 あはれとも言ふべき人は思はえで身のいたづら 淡路島かよふ千鳥の鳴く声にいく夜寝覚めぬ になりぬべきかな 謙徳公 ( 藤原伊尹 ) 磨の関もり 源兼 ゆらのとを渡る舟人かぢを絶え行くへも知らぬ 秋風にたなびく雲の絶え間よりもれいづる月 ばしとどめむ 僧正遍昭 恋の道かな 曽根好忠 影のさやけさ 左京大夫 ( 藤原 ) 顕 つくはねの峰より落つるみなの川恋ぞ積りて淵 八重むぐら茂れるやどの寂しきに人こそ見えわ 長からむ心も知らす黒髪の乱れて今朝 ( けさ ) ( ふち ) となりぬる 陽成院 秋は来にけり 恵慶 ( えぎよう ) 法師 ものをこそ思へ 待賢門院堀 みちのくの忍ぶもぢすり誰ゆゑに乱れそめにし 風をいたみ岩打つ波のおのれのみくだけてもの ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有 われならなくに 河原左大臣 ( 源融 ) を思ふ頃かな 源重之 の月ぞ残れる 後徳大寺左大臣 ( 藤原実気 君がため春の野にいでて若菜摘むわがころも手 み垣もり衛士 ( ゑし ) のたく火の夜はもえて昼は 大中臣能宣朝臣 消えつつものをこそ思へ 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思 思ひわびさても命はあるものをうきにたへぬ に雪は降りつつ 光孝天阜 涙なりけり 道因法 立ち別れいなばの山の峰に生ふるまっとし聞か 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奧にも鹿 ばいま帰り来む 中納言 ( 在原 ) 行平 ひけるかな 藤原義孝 鳴くなる 皇太后宮大夫 ( 藤原 ) 俊 ちはやふる神代も聞かす田川からくれなゐに 水くくるとは在原業平朝臣 ( なりひらあそん ) すみの江の岸による波よるさへや夢のかよひ路 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知ら 長らへばまたこの頃やしのばれむうしと見し しなもゆる思ひを 藤原実方朝臣 ぞ今は恋しき 藤原清輔朝 明けぬれば暮るるものとは知りながらなほ恨め 夜もすがらもの思ふ頃は明けやらでねやのひ 人目よくらむ 藤原敏行朝臣 しき朝ばらけかな 藤原道信朝臣 さへつれなかりけり 俊恵 ( しゅんえ ) 法 なにはがた短きあしのふしのまもあはでこの世 嘆きつつひとりぬる夜の明くるまはいかに久し 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なる をすごしてよとや 伊勢 きものとかは知る 右大将道綱母 が涙かな 西行法 わびぬれば今はた同しなにはなるみをつくして 忘れしの行く末まではかたければ今日を限りの むらさめの露もまだひぬまきの葉に霧たちの もあはむとぞ思ふ 元良親工 命ともがな 儀同三司母 る秋の夕暮 寂蓮法 今来むと言ひしばかりに長月の有明の月を待ち ( 藤原伊周の母 , 高階成忠の娘 , 貴子 ) 滝の音は絶えてスしくなりぬれど名こそ流れて なほ聞こえけれ大納言 ( 藤原 ) 公任 ( きんとう ) あらざらむこの世のほかの思ひ出に今ひとたび なには江のあしのかり寝のひとよゆゑ身をつ いでつるかな 素性 ( そせい ) 法師 してや恋ひわたるべき 皇嘉門院別 吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐 玉の緒よ絶えなば絶えね長らへば忍ぶること ( あらし ) と言ふらむ 文屋康秀 弱りもぞする 式子内親 月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつ のあふこともがな 和泉式部 見せばやな雄島 ( をじま ) のあまの袖だにも濡 の秋にはあらねど 大江千里 ( ちさと ) めぐりあひて見しやそれともわかぬまに雲隠れ にぞ濡れし色は変らす 殷富門院大 このたびはぬさも取りあへすたむけ山もみぢの にし夜はの月かな 紫式部 にしき神のまにまに 菅家 ( 菅原道真 ) ありま山ゐなの笹原風吹けはいでそよ人を忘れ 名にし負はば逢坂山のさねかづら人に知られで やはする 大弐三位 ( だいにのさんみ ) 来るよしもがな 三条右大臣 ( 藤原定方 ) やすらはで寝なましものをさ夜ふけてかたぶく きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろにころもか 敷きひとりかも寝む 後京極摂政前太政大臣 ( 藤原良 わが袖は潮ひに見えぬ沖の石の人こそ知らね 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆ までの月を見しかな 赤染衛門 ( かわ ) くまもなし 二条院讃岐 ( さぬ き待たなむ 貞信公 ( 藤原忠平 ) 大江山いく野の道の遠ければまだふみも見すあ 世の中は常にもがもななぎさ漕ぐあまのを舟 みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋し まの橋立 小式部内侍 綱手かなしも 鎌倉右大臣 ( 源実卓 かるらむ 中納言 ( 藤原 ) 兼輔 いにしへの奈良の都の八重桜今日九重 ( ここの み吉野の山の秋風さ夜ふけてふるさと寒くこ 山里は冬ぞ寂しさまさりける人目も草もかれぬ へ ) ににはひぬるかな 伊勢大輔 ( たゆう ) も打つなり 参議 ( 藤原 ) 雅 と思へば 源宗十 ( むわゆき ) 朝臣 夜をこめてとりのそらねははかるともよに逢坂 おはけなくうき世の民におはふかなわが立つ 心あてに折らはや折らむ初霖の置きまどはせる 白菊の花凡河内躬恒 ( おおしこうちのみつね ) 有明のつれなく見えし別れより暁は・かりうきも の関は許さし 清少納言 まに墨染の袖 前大僧正慈 今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで 花さそふ嵐の庭の雪ならでふりゆくものはわ 言ふよしもがな 左京大夫 ( 藤原 ) 道雅 身なりけり 入道前太政大臣 ( 西園寺公 のはなし 手生忠岑 ( みぶのただみね ) 朝ばらけ宇治の川霧絶え絶えにあらはれわたる 瀬々の網代木 ( あヒろぎ ) 権中納言 ( 藤原 ) 定頼 恨みわびほさぬ袖だにあるものを恋にくちなむ 来ぬ人をまつはの浦のタなぎにやくやもしは 朝は、らけ有明の月と見るまでに吉野の里に降れ 身もこがれつつ 権中納言 ( 藤原 ) 定 る白雪 坂上是則 ( これのり ) 風そよぐならの小川の夕暮はみそぎぞ夏のし 山川に風のかけたるしがらみは流れもあへぬも 名こそ惜しけれ 相模 ( さがみ ) しなりける 従二位 ( 藤原 ) 家 みぢなりけり 春道列樹 ( つらき ) もろともにあはれと思へ山桜花よりはかに知る 人も惜し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑ ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の 人もなし 大僧正行尊 もの思ふ身は 後鳥羽 散るらむ 紀友則 春の夜の夢はかりなる手枕 ( たまくら ) にかひな たれをかも知る人にせむ高砂 ( たかさご ) の松も く立たむ名こそ惜しけれ 周防内侍 ももしきや古き軒ばの忍ぶにもなはあまりあ 昔なりけり
移民の入植を奨励し , 主として 人と日本 , 中国 , フィリピンな アジア人が入国したのがその原 、、ある。日本人移民は 19 世紀末を 期として 1924 年の新移民法で実 勺に禁止されるまでには約 8 万人 した。 60 年のセンサスによれば , 、人は 203455 人を数えてもっとも , 社会的にも有力である。日系 いで白人が多く 202230 人で日系 まは、同数である。続いてフィリピ ・、 69070 人 , 中国系 38197 人 , ニグ 、 4943 人 , その他 114405 人。原住 ハワイ人 ) はポリネシア系のカナ で , ハワイ発見当時は 30 万とい たが , しだいにヘり , 現在純血 のは 2 万以下にすぎない。 業〕 19 世紀の初期にはサンダル : / ドと称するシタンに似た木の採 瑜出が島の支配的産業であったが , 捕鯨業が盛んだった時期もある。 の主要産業はサトウキビとノヾイ ップルの企業的農業である。サト キビの生産は 1963 年 10() 万トンを え , 主としてカリフォルニアに精 場をもつ 26 の会社で経営される。 数はかんか・いによって作られ , ワイ , カウアイ , マウイ , オアフ 島に分布する。ノヾイナップルは 世紀初期から量産に入り , 各島に 農場が分布するが , 大部分はかん とジュースにされ , 主として米国 輸出される。 1963 年のかん詰とジ ースは 2737 万箱。ノヾイナップルと 糖による総収入は 3 億ドルになる。 バナナ , 米 , 綿花 , にコーヒー 郊の野菜栽培も盛んである。また 山のすそ野を利用した肉牛放牧や 豚も行なわれ , 古い歴史を誇る漁 に日本人を中心に最近マグロ漁業 のびつつある。 社会・文化・観光〕雑多な人種か 。在しているハワイでは , 固有の伝 風習はしだいに失われ , フラダ ス , ラウハラ織 , ハワイ料理など 観光客相手のものにすぎなくなっ 。中国や日本移民のもちこんだ中 文化や日本文化も固有の形を失い 代的ハワイ文化が形成されている。 血は現在では一般的になっている。 教は主として旧教 , 新教をましえ リスト教が支配的である。学校で 英語が教えられ , 216 の公立学校 , : の私立学校があり ( 1962 ) , 1907 年 創立のハワイ大学はホノルノレ市に かれている。観光は島の重要な産 で , ハワイ , マウイ島の火山をは め , 海水浴場として有名なホノル のワイキキ海岸やダイヤモンドへ ドなど , 快適な気候とあいまって 季訪れる観光客はきわめて多くホ ルの設備も整っている。〔小野〕 音楽・芸能〕原住民の関係から , い楽器や歌にはポリネシア系統の のがみられる。歌も初めは単音か 音 ( 4 度 ) のもので , イプ ( 打楽器 ) , 2 3 5 プニウ ( 打楽器 ) , ラウハラ ( 竹笛 ) , プケケ ( 弦楽器 ) などの簡単な楽器の 伴奏で歌われた。しかし 1820 年米国 宣教師の来島によって古い歌はすっ かり変わってしまった。さらにポル トガル人移民がもたらしたギターか らハワイ独特の / ウクレレか、作られ , 95 年にはスチール・ギターが発明さ れ , これはのちに電気増幅器を付け てハワイアン・ノヾンドの中心楽器と 1872 年には王室ハワイアン・ なった。 バンドもつくられ , この伝統は現在 ホノルルに伝えられている。楽器の 近代化につれて , 新しい歌が多く作 られるとともに , 有名なくアロハ・ オェ〉のように , 古い民謡が多くの 外人によって近代的な歌謡に編曲さ れた。米国に合併されてからはジャ ズの影響も大きく , このジャズ的ハ ワイ音楽をノ、ノヾ・ノ、オレ調とよんで いる。有名なフラダンスは , 神前で 特定の人が踊る儀式ダンスが一般化 したもので , 現在は海辺などで好ん で踊られる。 〔秋山〕 〔歴史〕 1778 年クックが発見し , 彼 の後援者の名にちなんでサンドイツ チ諸島と命名した。当時原住民は 4 王国に分かれて争っていたが , 18 川 年カメハメハ 1 世が全土を統一した 彼は 19 年に没し , 続いてカメハメノ、 2 世が即位した。やがて米国と板東 を結ぶ太平洋上の通商と捕鯨の寄留 地となり , 米人を主とする外人居留 者もふえた。 87 年米国との間に互恵 条約が結ばれ , 米国に真珠湾の海軍 基地使用を認め , 以後両国の関係は 密接になった。 93 年の革命でリリウ オカラニ女王が退位し , 翌年共和国 となったが , 米国併合運動がつづき , 98 年米国の主権下に入り今日に至っ ている。 〔小野〕 ′ヾン〔湖〕 Van トルコ東部 , イ ランおよびソ連との国境付近にある せき止め湖。面積 3764km2 , 標高 1662 m , 最深は 25m 。シュブハン , ネムノレ ト両火山の噴出物によってできた排 水のない塩湖 ( 塩分 1.91 % ) で , 湖岸 の住民は漁業と製塩に従事している。 東岸にバンの町があるが , 付近は古 代アルメニア文化の遺跡が多い。 〔西野〕 ばん〔鷭〕ツル目クイナ科の鳥。 、トぐらいの大きさで , くちばしは 端部が黄色のはかは鮮紅色 , その後 方に同し色の卵形をした額板がある。 背面は主としてオリープかっ色 , 頭 や胸や腹は灰色をおびた石盤色。脚 は黄緑色。日本各地に見られるが , 九州では留鳥 , それより北では夏鳥 として 4 月上旬ころ渡ってくる。 ス池 , アシの原などに多く , 水上を 泳ぎクルーと鳴く。池のはとりの草 むらや水田に営巣する。雑食性。近 似の別種オ牙バンは体が大きく , 額 くちばしも白い。北海道 板は白く , では夏鳥として 4 月ころ渡ってきて , 沼地に多く , 本州では留鳥 , 四国や 九州では冬鳥。両種とも猟鳥である。 〔高島〕 ノヾンポルトがル語の P 巨 0 に由来 する名称で , 漢字で麺麭とも書く。 小麦粉またはライムギ粉などを主原 料とし , これに酵母 ( ィースト ) , 食 塩 , 砂糖などを加え , 水でこね , イ ーストの発酵によりふくらませたう え , 成形して焼きあげたもの。 〔沿革〕パンは今から約 600() 年前の 新石器時代にエジプトで始まったと いわれる。エジプト人は小麦粒を石 の上におき , 別の石ですりつぶして 前 2000 年こ 製粉したものを焼いた ろ発酵の手段を用いてパンをふくら ませて焼くことを発見したのも彼ら で , その技術はエジプトの女の特技 として伝えられていたが , これがロ ーマに伝わって発達した。それまで のノヾンは丸型カ { 多かったか、 , 5 世紀 ごろから棒型のものも作られるよう になった。しかしローマ帝国の崩壊 とともに製パンの技術も衰え , わす かに教会内でその伝統を保つのみで あった。中世のフラ・ンスでは領主邸 や教会の中にノヾンのかまどがおかれ , 家庭にかまどをきすくことは禁止さ だから庶民は教会にかま れていた どの使用料を支払って , バンを焼か ねばならなかった ノヾン屋にかまど が許され , 家庭で自由にバンを焼く ようになったのは 13 ~ 14 世紀のこと である。上等なパンがフランスで発 達するようになったのはイタリアの メジチ家の娘マリーがアンリ 4 世に 嫁したとき , / ヾン職人をつれてきた ことに始まる。このようにルネサン スとともにイタリアによみがえった 上等のパンを作る技術は , フランス , ドイツ オーストリア , ノ、ンガリ などに広まった。英国へは古代ロー マ人が発酵パンを伝えて以来 , 農民 は 17 世紀ごろまでライムギ粉と小麦 粉を混せたパンやエンバクの粉を用 いたオ = ップレッドを食べていた ロンドンのべーカー街は / ヾン職人の 町のなごりで , 当時ロンドンには黒 パン職人組合と白ノヾン職人組合があ った。領主のかまどで強制的にノヾン を焼かされる制度は , チューダー朝 時代にくすれ , ロンドン市民は公設 のかまどをもっていた。 16 世紀以後 英国では多くの植民地から良質の小 麦を運び , 英国風の山型パンを作り オオノくン
( ンユロンスク ) 丘陵は地下資源 ( 鉄 , 亜鉛 , 石炭など ) に富み , 表層はレ ス ( 黄土 ) におおわれる。平野部は国 上の % 以上を占め , 氷河時代のモレー ン , レキ , 粘土におおわれ , 肥よく 度は低い。北部のマズリア ( マズリ ) , ポメラニア ( ポモジェ , 沿海地方 ) で は多数のや湿原 , 泥炭地がみられ る。気候は , 海洋性と大陸性の漸移 地点の特徴を示す。平野部で平均気 温 1 月 - 5 ー (). 6 ℃ , 7 月 16 ~ 19 ℃ , 年降水量 6() ( ) mm はどで , 冬には川が 凍る。季節の変化は規則正しく , 四 季のほか , 早春 , 初冬を加えた 6 季 がみられる。植物生長期間は 19 ( ) ~ 22 ( ) 日 , 本直生はモミ , カラマッ , ブナ か・豊かで , ヨーロッ / ヾ種のブナ , ウ バメガシ , ハリモミの北限ないし東 限になっている。 〔住民〕国名のポルスカ , 民族名の ボラーツイ P 司 a c y は農地 , 可耕地 を表わすことばから発生したが , も ともと彼らは森林を開拓してきた農 民であった。中世以降 , 西欧の文化 様式にふれてきたので , ラテン文字 , ドイツ語彙の借用 , カトリック教な どがポーランド人のものとなった。 第二次大戦前には総人口の % はユダ ヤ人 , ウクライナ人 , 白ロシア人 , ドイツ人などであったが , ユダヤ人 ( 20() 万 ) はドイツ軍に殺害され , ドイ ツ人 ( 16 ( ) 万 ) , ソ連諸民族 ( 6 ( ) 万 ) は本 国へひきあげ , 国外から亡命者など が帰国した結果 , はは、単一民族の国 家となった。人口密度は 98 。宗教人 ロの約 97 % か、カトリック教徒。ポー ランド語はスラブ語の西方群 , すな わち西スラブ語に属し , 約 3 ( ) 0() 万人 が使用している。 〔経済〕資本主義時代のポーランド は西欧に従属した鉱工業とおくれた 農業をもつ国であったが , 第二次大 戦後 , 航空機 , 自動車 , トラクタ , 大型発電機 , アルミニウム製練など の新しい工業部門が誕生した。地下 資源は豊かで , 上シレジア炭田は欧 州第 1 ( ソ連を除く ) の埋蔵量をはこ り , 下シレジア , クャウィ地方にも 多くの炭田がある。石油の埋蔵は少 ないが豊富にでる天然ガスは南部 山地からワルシャワ地方へパイプラ インで送られる。発電は火力に依存 する面が大きい。工業地帯は , ます 南西部のシレジア地方があげられ , とくにクラークフ近郊のノワ・フー タの製鋼所を中心とするヤ金重工業 地帯は重要である。第 2 の工業地帯 は下ンレジア . , プロッラフ地方 , 次 いでワルシャワ地方にある。ワルシ ャワと近郊はトラクタ , 電気機械 , 発動機 , 車両などの製作が盛んであ り , ロズ ( ルージ ) は繊維工業の中心 である。第 3 の工業地帯は , 沿海地 方のグダニスク , シュチェッイン地 方で , 造船 , ヤ金 , 食品などの工場 がある。農業は , 1944 年から始まっ 7 1 3 た農地改革により , ( ). 5 km2 ( 北部の 数県では 1 km2 ) 以上の上地所有はな くなった。農業生産は , 国営 , 生産 協同組合 , 個人自作農の手で行なわ れている。この国の個人農は多くの 場合 , 低次の共同化を目的とする農 業サークルを組織し , 機械使用 , 上 地改良などの単位となり , 国営商業 部門への農産物の販売 , 農業機械 , 肥料など生産手段の割引購入などを 行なっている。富農化の起こりうる 余地はまったくない。協同組合農場 は 130 ( ) はど ( 1963 ) あるが , 全農民に 対する組織率は 15 % で , 他の東欧諸 国と比べて低い。ポーランドの土地 利用は , 国土総面積の 65 % ( 2 ( ). 3 万 km2 ) が農用地で , そのが耕地 , % 弱が放牧および採草地 , が樹園地 やジャガイモ畑となっている。小麦 地帯は南部丘陵地帯ポズナニ地方で , 残りはライムギとジャガイモ地帯 , 北部低地はカラスムギおよび牧草地 帯である。工芸作物では亜麻 , サト ウダイコンが多く , ルプリン地方は タバコの産がある。畜産は豚 , 牛の 飼育が多い。 〔政治〕ポーランドは社会主義型の 国家である。 1952 年に制定された憲 法に従って , ポーランドの最高機関 はセイム ( 一院制国会 , 議員の任期 4 年 ) であり , 統一労働者党 ( 第一書 記ゴムルカ ) , 統一農民党 , 民主兄 の 3 政党が公認されており , 現議員 のうち無所属も少なくはなく , その 中にはカトリック・グループといわ れる派もふくまれる。行政機関とし てはセイムの任命する国家会議と閣 僚会議があり , 24 名の大臣を選出す る。地域的な代議機関は人民評議会 とよばれ , 県 , 郡 , 町村ごとに設け られる。対外的にはワルシャワ条約 機構およびコメコン ( 経済相互援助 会議 ) に加盟している。 1957 年 1() 月 以後 , 中欧に核非武装地帯を設置す る案 ( ラバッキー案 ) を提起している。 〔社会・文化〕信仰の自由 ( 宗教と 国家の分離 ) , 出版の自由 , 集会とデ モの権利 , 結社の権利 , 科学活動の 自由 , 勤労および休息保健 , 無料の 教育の権利などは憲法によって保障 されている。小学校は 7 年制 ( 7 ~ 14 歳で , 文盲は約 6 ( ) 万人 ( ほとんど 60 歳以上の老人 ) 。 14 歳からは , 般教育リツエウム ( 授業料国家負担 ) 4 ~ 7 年の教育を受ける。 にはいり , この部分にはポーランドの中堅技術 者養成部門の実業学校も多い。高等 教育は 4. 5 ~ 6 年で , 大学など 74 校 , 夜間部や通信教育部も新設され , 勤 労者や農民の子弟が 60 % を占めてい る。保健と厚生の面では , 国家社会 保険がゆきとどき , 組合加入者はも ちろん , 個人農にも大きな特典があ る。広範な年金制度も 58 年から施行 ったのは 15 世紀ごろからだが , やが て叙情詩人 J. コハノフスキー ( 1530 ~ 84 ) らがあらわれ , 第 1 期の黄金 時代を築いた。 18 世紀末のポーラン ド分割によって独立を失ったが , そ れを契機として高まった民族的自覚 は , A. B. ミッキエビッチ ( 17 98 ~ 18 55 ) , 工スロワッキー ( 18 ( ) 9 ~ 49 ) , Z. クラシニスキー ( 1812 ~ 59 ) の三大 国民詩人を生んだ。なかでもミッキ 工ビッチの愛国的叙事詩くパン・タ デウンユ > ( 1834 ) は , ポーランド文 学最高の傑作として世界的に知られ ている。 19 世紀後半になると , 前代 のロマンチックな国民詩人に代わり , すぐれた散文作家が輩出した。その 第一人者は , / くクオ・ / ヾジス〉 ( 18 95 ) の作家 / シェンキエビッチであ この時代の主要作 った。そのはか , 家に E. オジェシュコ ( 1842 ~ 191 ( ) ) と B. プルス ( 1847 ~ 1912 ) があり , 20 世 紀にはいると , 歴史小説く灰〉 ( 19 ( ) 4 ) で有名な S. ジェロムスキー ( 1864 ~ 1925 ) , 長編く農民〉 ( 19 ( ) 2 ~ ()9 ) でノ ーベル賞を得た W. レイモント ( 1868 ~ 1925 ) や , 多面的な詩劇作家 S. ウ イスピアニスキー ( 1869 ~ 1907 ) らカゞ 活躍した。第一次大戦後ふたたび独 立国となったポーランドでは , 文学 の分野にも新しい機運が起こり , 詩 人 J. トゥビム ( 1894 ~ 1953 ) , 女流作家 Z. コサック・シチューッカ ( 1890 ~ をはしめ , さまざまな傾向の作家が 相競って近年に及んだ。第二次大戦 後の文壇には左翼系新人の進出が著 しいが , 戦後の世代では M. フラスコ ) が注目される。〔徳永〕 ( 1931 ~ 〔音楽・演劇〕 10 世紀にキリスト教 が受容されて後はグレゴリオ聖歌が 浸透しはしめるが , これはそれまで の民族音楽と結びついて新しい性格 を作りつつ民衆の生活に根をおろし た。民謡はマズルカやクラコビヤク などの民族舞踊と深く結びついてい た 16 ~ 17 世紀には C. ワシリーク , 亠 M. ゴムルカらの作曲家が現われて日 楽の民衆化に貢献した。 1765 年 , 民 族的オペラ芸術の発展と結びつく国 立劇場がワルシャワに設立された。 19 世紀初頭には O. コルベルグはポー ランド人の風俗 , 娯楽 , 物語 , 音 楽 , 舞踏・などを集成したく人民〉 ( 38 巻 , 1842 第 1 巻刊 ) を発表し , M. K. オギ ニスキーはポロネーズ , 革命歌を 作ってショノヾンの先駆者となった ポーーランド音楽の頂点は / ショノヾン と S . モニュシコ ( 1819 ~ 72 ) である。 彼らの作品はすべて , その時代のポー ランド人の心、情をそのまま反映して いるといえる。その後ロマン主義の 潮流とと・もに多くの作曲家が生まれ たカ { , J. ジェレニスキー , Z. ノスコ フスキー , H. ウィエニアフスキー A. サジッキーらが代表的である。演 劇では , 独自の領域がひらけたのは 19 世紀以後のことで , ワルシャワと ポーランド ポーランド ( 補 ) 元首 は国家会議の議長で , 現在ェドワルト・オハ プ ( 1965.6. 再選 , 任期 4 年 ) 。閣僚会議議長 ( 内閣総理大臣にあた る ) は , ツイランケビッ チ。そして外務大臣が , ラバッキー案で有名な , ラノヾッキーである。セ イムの構成は , 1965 年 の総選挙の結果 , 統 労働者党 255 人 , 統一 農民党 117 人 , 民主党 39 人 , 無所属 49 人 , 議 席の合計は 460 となっ ている。ポーランドの 政情の特徴は , 56 年の ゴムルカ復帰にはしま った「自由化」である。 宗教や表現の自由など が , 大胆に大幅に許さ れている。しかもポー ランド民衆の間には , かっての領上分割の記 憶や , 44 年夏のワルシ ャワ決起 ( ナチ・ドイツ の敗北を目前にして , ポーランド抵抗派がワ ルシャワで立ちあがっ たが潰滅。間近にいた ソ連軍からの援軍はこ なかった。ワイダ監督 の傑作映画「灰とダイ ヤモンド」に描かれて いる ) の際のソ連軍の 態度への反感などから , 意外に反ソ感情がある。 もちろん反ナチ感情の はうが圧倒的に強く , 社会主義への信頼をゆ るがせるほどではない が , とにかく反ソ感情 がある。そしてそれは , いろんな面で「西欧化」 の現象をしめす。 経済の面でも , 64 年 からの第 4 次五カ年計 画にもかかわらす , 農 業生産はまだ十分には 発展せす , 一方では集 団農場の解体や農地売 買の許容など , 社会主 義政策の後退をよぎな くされているし , 他方 ではアメリカからの長 期借款でもつばら農産 物の輸入をしなければ ならない現状である。 されている。 〔渡辺一〕 〔文学〕ポーランドの国民文学が興
①① 2 6 ひな段に並べるひな人形には五段飾りと七段飾りとがあり , 内裏びなの男 びな ( 左 ) と女びな ( 右 ) , 五人囃子 ( はやし ) の順序 , 桜 ( 右 ) と橘 ( 左 ) の位 置とが定められているほかは , 官・女 , 直身 , イ町士はその・姿態によってしか るべく並べてよいことになっている。調度の類も適当に配置する。上は七 段飾りの一例で , 1 屏風 ( びようぶ ) 2 杉花酒と三宝 3 内裏びな ( 男びな ) 4 内裏びな ( 女びな ) 5 は・んほり 6 三人官女 7 高杯 ( たかっき ) 8 太 鼓 9 大鼓 ( おおかわ ) 1 0 小鼓 1 1 笛 1 2 謡 ( 8 ~ 1 2 五人囃子 ) 13 随 身 14 菱 ( ひし ) 台 1 5 お膳 ( せん ) 1 6 橘 1 7 衛士 1 8 桜 1 9 火はち 20 たんす 21 長持 22 鏡台 23 針箱 24 茶たんす 25 衣装袋 26 重 箱 27 御駕籠 ( かご ) 28 御所車 撮影羽田敏雄 8 ⑨⑩ ⑩ ⑩ ⑩⑩ ⑩⑩ ⑩ ⑩
1 8 6 で困難である。しかしハム人の濃い られている。この作品が世界的傑 分布をなしているサハラ以北の北ア として認められるに至ったのは , フリカが「白アフリカ」といわれ , 世紀にゲーテ , コールリッジらカ 一方 , サハラ以南の南アフリカを「黒 人公の性格にロマン主義的解釈 アフリカ」というほど , この地方に たえてからであるが , 20 世紀にな は白色人種的特徴が顕著にみられる。 てからはさらにさまざまの角度カ 現在のハム人には , 地中海人種と南 の解釈が試みられている。 ノヾレ 東人種 ( アラビアあるいはセム人種 映画化も行なわれた。日本では 19 ともいわれ , 若干の学者のいう東方 年山岸荷葉らにより翻案され , 川 人種 ) との混血や , アナトリア的要素 音二郎および貞奴らによって 称せられ , さらに中世末期にはアラ を含んだアルプス人種との混血 , さ れたのが初めである。 ビア語の圧迫を受け , 今日ではわす らに黒人との混血などが考えられる 〔あら崩〕デンマーク王の死後 , その 王位を継ぎ , 先王の妃を妻とする。王 かに祭祀し用言語として教会内に存 が , ハム人の人種的根源は , 地中海 ムレットは母の再婚に胸を痛めるが , オ 人種にある。それで , 低身長 , 長頭 続しているにすぎない。 〔小林〕 たま先王の幽霊が現われて弟に毒殺さオ はむし〔葉虫〕甲虫目ハムシ科 の地中海人種系 , 低身長 , 短頭のア ことを告げる。王子はその事実を確認 のこん虫の総称。赤 , 青 , 紫 , 金緑 ルプス人種的色彩の強いもの , さら 復しゅうをとげるために狂気をよそお 色などの金属光沢をもつ美しい種類 にアトラス高地平原からモロッコに 機会をうかがうが , めい想家的な性格 が多く , プラジル産にはプローチな 多い高長身 , 長頭で鼻のほっそりし めになかなか決断がっかす , かえって ポローニアスを誤って殺し , その娘で どの装飾用に利用される , やや大形 た皮膚の比較的明色な住民など , そ 王子の愛人でもあるオフィーリアは狂 のものがあるが , 日本のものは 1 cm の形質的特徴には広い幅がみられる。 る。王は試合にことかりてポローニアス を越えるものは少ない。成虫 , 幼虫 ハム人で歴史上に活躍したのは古代 息子レアティーズに王子を殺させようと ともに種々の葉上に生活して葉を食 エジプト人で , 王朝時代後は , ギリ るが , 逆に工とレアティーーズは王子の剣 うが , 幼虫には地中や水中の植物根 , シア , ローマ , アラビアの征服 , さ 倒れ , 妃も毒酒を飲んで死ぬ。王子自身 あるいは潜葉性で葉の組織の中にも らにくだってはトルコの支配をうけ レアティーズの毒刃に倒れる。〔小野協 ぐるものなどもある。種類が多く害 た。現在のハム人には , アラビア的 虫として知られるものも多い。イネ 文化が多く受け継がれており , した ドロオイハムシやイネネクイハムシ がって現在イスラム教の勢力は強い。 は稲の害虫であり , ノヾラノレリ / 、 / 、シ / ノ、ム言吾族 - - 享ーニこ第こ ダイコンサルハムシ , イモサルハム ′ヾームチット permutite 石更水 シ , ヨモギノ、ムシ , クノレミノ、ムシ の歓化に用いられるアルミノケイ酸 ウリハムシ , イチゴ / 、ムシ , クワノ、 ナトリウム ( 組成 Na2 ( ) ・ A し ( ) 3 ・ 3Si02 ) ムシなどはそれぞれの名にある植物 の商品名。炭酸ナトリウム Na 2 C ( ) 3 の葉を食う害虫である。またジンガ、 二酸化ケイ素 S i ( ) 2 , 酸化アルミ サハムシ , カメノコハムシ類には平 はもハモ科の魚。石川県宇出冫 ウム A 1 2 03 または陶上を混合溶融し たくて美しい黄金色の紋をもっ種類 ( 現在能都町 ) でジャハモ , 福井で「 てつくる。これに硬水を通すとイオ がある。なお小鳥やニワトリに寄生 ニハモという。体は細長いウナギ ン交換反応が起こり , 硬水中のカル する / ハジラミ類も俗にハムシ ( 羽 シウムイオンか・ノヾームチットのナト で , ロはたいへん大きい。腹びれノ 虫 ) という。 〔長谷川〕 なく , 体は無鱗。皮膚は厚く , 骨ー リウムと交換されて , 水は軟化され ハムじんハム人ハム語を話し , 堅い。産卵期は 6 ~ 7 月ころで , る。パームチットはアルミノケイ酸 魚はレプトケファルス期をへて成 . ( おもにアフリカの北部および東部に カルシウムになって効力が失われる になる。変態前の大きさは 1 ( ) ~ 12c 分布する人々の総称。しかし , この が , 濃厚な食塩水を通すとカルシウ 分類は本来言語学上の人間区分であ であるが , 水温 2 ( ) ℃内外 , 約 15 日 ムを塩化カルシウムとして放出し , って , 人種学上ハム人は存在しない。 でほとんど変態を完了し , 7 cm く ナトリウムがはいって再生される。 いのハモになる。全長 2 m に達す ハム人の名称の由来は , く旧約聖書〉 おもにポイラ用水の軟化に用いる。 日本では本州中部以南に多いが の創世記第 10 章にさかのは、る。それ ナトリウムの一部をマンがンに置き によると , ノアの 3 人の子ども , セ 換えたマンガンノヾームチットは , 水 布はきわめて広く , 朝鮮 , 台湾 , ム , ハム , ヤペテが , それぞれ別々 中の鉄イオンを除き有機物を酸化分 国 , 東南アジア , 紅海などにわた冫 に居住し , その子孫がセム族 , ハム 解する作用をもつ。 小骨が多いが , とくに夏に美味で 〔佐藤〕 くハムレット > の劇中劇 族 , ヤべテ族を形成したという。形質 ノ、ムレット Hamle t シェークス って , 関西ではハモ料理として喜い の場 ( 第 3 幕第 2 場 ) 。 1953 ~ 54 年 , オーノレド 的に一括してその特徴をのべること ピアの四大悲劇の一つ。 5 幕。初演 〔安田〕 れる。 ビック座で上演。ハム は , ハム人が人種上の集団でないの は 1602 年と推定される。 ()3 年第 1 ク / 不日声 レットは R. / ヾー オート ( 四つ折り判 ) として出版され ′、 - ー・モニ二カ harmonica フリ たが , その年の第 2 クオートのほ ドを用いた小楽器。長方形 , うがはるかに完全に近いテキストと 形で , 側面に多数の穴があり , 楽暑 されている。ハムレット伝説はすで をくわえて息を吹き込みまたは吸 に 12 世紀のデンマークの年代史家サ と , 内部のリード ( 金属の小片 ) が引 クソ・グラマチクスのくデンマーク 動して発音する ( 原理はアコーデ冫 史 > に出ているが , 16 世紀に至って ンと同し ) 。ふつうは 1 個の楽器ー フランスの一く . ルフォレのく悲勿言吾 は一つの調しか演奏できないので , 集 > ( 1576 ) に収められて以来ひろく 長 , 短各調用のものが作られ , 転言 流布していた する曲や半音階のある曲などでは ただしシェークスピ アはこれらを直接原としたのでは 個の楽器を重ねてもつ。最近は半 なく , 1589 年ころすでにロンドンの のでるものも現われた 19 世れ ! ⅱ行、 にアコーデオンよリやや遅れて作ー 劇界をにぎわしていたといわれる , れはしめた。日本でも 1891 年には一 通常トマス・キッドの作とされるく原 めて輸入されて以来ひしように普丿 ハムレット > を改作したものと考え トを← 左 , イネネクイハムン 右 , イネドロオイハムシ / 、モ
ポシンセン 6 7 9 ほしやく保釈 / 勾留された被 もの健康状態などを一貰して記録に 徳川慶喜の政権奉還によって討幕の とどめる。たとえば健康診査の結果 告人を保証金を差し出させて釈放す 機先を制せられた倒幕派は , その後 ること。保証金没取の制裁によって , 幕府勢力に決定的な打撃を与える機 ばかりでなく , 予防接種や保健指導・ 母子福祉 ( 補 ) 1965 年 を受けた事項などもすべて記入して 被告人の出頭を確保しようとする制 会をねらっていたが , 12 月 9 日王政 8 月制定された母子保 おき , 保護者はもとより , 指導する 度。被告人 , 弁護人などの請求によ 復古令が発せられた夜 , 小御所会議 健法 ( 昭 40 法 141 ) によ 医師や保健婦にも役だつようにする。 で慶喜に辞官納地を迫ることを決定 る請求保釈と , 裁判所の職権による ると , 母と子の健康を また記事として , 妊娠 , 出産 , 育児 し , また江戸では薩摩藩邸を拠点に 職権保釈とがある。保釈の請求があ 保持 , 増進させるため 治安を惑乱して , 幕府を挑発した。 についての心得や発育値などを印刷 に地方公共団体が行な ったときは , 原則として許さなけれ う措置として次のよう してあり , 母親に対する衛生教育も ばならない ( 刑訴 89 ) 。だだし , この被 当時慶喜は大阪にいたが , 随行の軍 なものがある。 告人の保釈される権利 ( 権利保釈 ) は , 兼ねている。 隊は挑発にたえかね , 慶応 4 年 1 月 1 ) 妊産婦 , 乳幼児に対 ほしとうる星亨 1850 ~ 1901 死刑または無期もしくは短期 1 年以 2 日幕府 , 会津藩 , 桑名藩を主力と する保健上の知識の 明治時代の政党政治家。江戸の左官 上の懲役 , 禁錮にあたる罪を犯した する 15 ( ) ( ) ( ) の兵力をもって , 鳥羽 , 普及 , 指導 , 健康診 とき , いわゆる「お礼参り」をする の子。医師の養子となる。維新後仕 伏見両街道から京都へ進撃した。朝 査 ( 満 3 歳以上満 4 歳 官し , 英国で法律を学び , 帰国後代言 廷は薩藩の強硬な態度に押されて慶 未満は毎年定期 ) , 栄 と疑われる相当の理由があるときな 養摂取の援助 人 ( 弁護十 ) を開業。 1881 年自由党に 喜を朝敵と宣言し , 薩摩 , 長州両藩 どには認められない。保証金額は犯 2 ) 妊産婦 , 新生児 , 未 罪の性質 , 情状 , 証拠の証明カ , 被 参加 , 言論活動と剛腹な性格でその 45 ( )( ) の兵力をもってこれを迎えうち , 熟児に対する訪問指 告人の性格 , 資産を考慮した出頭を 3 日の戦闘で勝利をおさめた。幕府 実力者となった。入獄 2 回。 92 年代 保証するに足る額である。〔遠藤〕 議士に当選 , 衆議院議長に就任して , 軍は大阪へ敗走し , 慶はあわただ 3 ) 妊婦に対する / 母子 しく海路江戸へのか・れた ほしよう保証ひろく担保の意 7 日朝廷 自由党と政府との接近に力をふるっ 健康手帳交付 は慶喜追討を指令し , また各地方へ 4 ) 低体重児 ( 出生時に た。 96 年駐米公使となったが , 190 ( ) 味にも用いられるが , 民法上では , 2500g 以下 ) の届出制 鎮撫 2 ん総督を派遣して , 去就に迷っ 年には伊藤博文の立憲政友会結成に 債務者 ( 主たる債務者 ) が債務 ( 主た 5 ) 未熟児のための養育 これ ていた諸藩とくに西南諸藩の向背に 参画し , 第 4 次伊藤内閣の逓信大臣 る債務 ) を履行しない場合に 医療 ( 診療 , 薬や治療 決定的な影響を与えた。欧米列強の に就任した。一方 , 東京市政にも強 に代わって履行するために債務者以 材料支給 , 手術など 外の者 ( 保証人 ) が従たる債務 ( 保証 動向は新政府の苦慮するところであ い発言力をもっていたが , その独裁 の治療 , 入院 , 看護 , 債務 ) を負担することをいう ( 民 446 ) 。 ったが , 列強は 1 月 25 日局外中立を ぶりと汚職の疑惑が世の指弾をあび , 移送など ) の給付 債権者と保証人の契約によって生す 宣言した 伊庭想太郎に刺殺された。 2 月親征の詔が発せられ , 6 ) 母子健康センターの 〔鹿野〕 設置 る。保証人は主たる債務者に頼まれ 東海 , 東山 , 北陸 3 道の鎮撫総督を ばしふくし母子福祉母子家庭 以上の措置は主とし てなるのがふつうであろうか、 , 主た 先鋒総督兼鎮撫使と改称し , 有栖川 の生活の安定と向上のためにする施 て都道府県知事が , 医 る債務者と関係なく , 場合によって 宮熾仁親王を東征大総督に任命し , 策。日本では児童福祉法による母「・ 師 , 歯科医師 , 助産婦 , は主たる債務者の意思に反してもな 寮 , 母子保健法によみ保健 , 国民年 薩長を主力とする 22 藩 5 万の兵力を 保健婦などを通して行 りうる。保証債務は主たる債務に対 もって江戸へ進軍を開始した。新政 金法による母子年金や母子福祉年金 , なうが , 市町村長も協 して付従性を有する。すなわち主た 府軍は , 軍費の不足に苦しみながら 児童扶養手当法による給付 , 生活保 力し , 国も費用の一部 負担をしたりする。 も , 「宮さん宮さん」を歌い , 民衆の 護法による公的扶助などあるが , さ る債務がなければ保証債務は成立で 協力を呼びかけつつ進軍した。これ きす , 主たる債務が消滅すれば保証 らに 1964 年従来母子福祉対策を扱っ に対し慶喜には戦意なく , 静寛院宮 てきた母子福祉資金貸付等に関する 債務も消滅する。また保証債務は主 ( 和宮の ) の徳川家存続 , 慶喜助命 法律を廃し , 母子福祉法 ( 昭 39 法 129 ) たる債務に対して補充的地位に立つ。 の運動もあって , 3 月大総督府参謀 が制定された。 その現われとして , 保証人は債権者 この法律でいう母子 西郷隆盛と幕府陸軍総裁勝海舟の会 母子寮 ( 補 ) 母子寮の 家庭は夫と死別 , 離別した女子 ( これ に対して , ます主たる債務者に請求 数は , 1965 年 7 月現れ , 見となり , に準するものも ) と 2 ( ) 歳未満の児 せよという抗弁権 ( 催告の抗弁権 ) と , 4 月 11 日江戸城は無血開 公、ン : 494 , 1 に間 137 , で構成する家庭をいい , 1 ) 事業の開 城された。また慶の助命も決定し , ます主たる債務者の財産に執行せよ 総計 6 3 1 である。その まもなく田安亀之助に徳川家相続が という抗弁権 ( 検索の抗弁権 ) とを有 始や継続 , 修学 , 技能修得 , 修業 , 在籍者数は 8968 世帯、 就職支度 , 生活 , 住宅 , 転宅 , 修学 許された。しかしそれを不満とする する。ただし連帯保証にはこの抗弁 25571 人である。 旧幕臣の一部は , 関東各地で騒乱を 権がなく , 連帯保証人は債権者から 支度などの各資金の貸付 2 ) 公共的 施設内で売店開設の便宜 3 ) たばこ 起こし , あるいは / 彰義隊最 3 を結 執行されれば拒む手段がない。保証 成して上野にたてこもったが , いす 小売人指定の便宜 4 ) 公営住宅供給 人が弁済をしたときは , 主たる債務 者に対してその償還を求めることが れもはどなく鎮定された。一方 , 東 の際の配慮 5 ) 母子相談員などによ る雇用促進を行なう。福祉施設に各 できる。その額は , 保証人が主たる 北諸藩には反政府的な動きが強く残 債務者から頼まれて保証人となった 種相談や指導をする母子福祉センタ り , すでに 1 月 , 政府が会津藩追討 リクリエーションや休養などの ものかどうかで異なる。 ( 次いで庄内藩にも ) の命を東北諸藩 〔遠藤〕 母子休養ホームがある。 〔厚木〕 に発したにもかかわらす , かえって ーましりよう母子寮児童福祉法 ほしみどろ接合藻類の一つの属 5 月東北 25 その救解運動を行ない , ( 昭 22 法 164 ) によりいわゆる母了・世帯 藩は合して奧羽列藩同盟を結成し , で多くの種類の総称。水田 , 池沼な を入所させて保護する施設。厚生省 さらに北越 6 藩の加入をえて , 奧羽 どの淡水中に生し , ときには多く集 の定める施設最低基準により , 母丘 越列藩同盟の結成に発展した。ー まって黄緑色の綿毛状をなす。短い の日常生活 , は了・に対する生活指導 円筒状細胞が 1 列に並び , その太さ などに必要な設備を設けるはか , 乳 して新政府軍との全面衝突となり , は 20 ~ 30 ミクロン , 長さはその数十 幼児のいる母子寮には必要に応し保 戦闘は越後ロ , 白河 , 二本松 , 平な 倍ある。各細胞中に 2 個の星形の葉 育所に準する設備を付設し , 職員に どで激烈をきわめた。とくに会津藩 緑体が並んでおり , おのおのの中心、 の抵抗はすさましく , / 白虎隊の悲 寮母 , 嘱託医 , 心要に応し保母また にピレノイドというタンノヾク質の小 は少年指導員を置く。 体が 1 個すつある。生殖のさいには ばしんせんそう戊辰戦争王政 あい並んだ 2 本の藻体の各細胞から 復占後 , 新政府によって行なわれた 横に接合管を出し , 隣のものといっ 国内統一戦争。戊辰の年 ( 慶応 4 , しょになり , 一方の内容が他に移り , 明治 1 , 1868 ) に当たったのでこの名 球状またはだ円状の接合子をつくる。 がある。鳥羽伏見の戦いにはしまり , 〔小林〕 江戸開城 , 東北戦争をへて , 翌年の ほしめ星目 / フリクテン 函館戦争で終了した。慶応 3 年 10 月 上は接合により接合 f ・ を作ったホシミドロ。 - ドはホンミドロの一純
ピテカント 3 3 2 ひとえ単裏のついていない衣 トラック 1 本はテレビ画像の走査線 河港がある。機械 , 自転車 , 紡織 約 16 本に相当し , 32 本で 1 画面分が 服のことで , / 袷に対して単羽織 , 木材加工などの工場がある。市は 世紀の起原で , 中世の建築物や旧 記録される。画質の低下を防ぐため , 単帯などというが , 狭義では , 単の / きものをさす。 / 帷子という語 ~ 6 メガサイクルの間で変化する 4 が多く残されている。もとドイツ 周波数変調波にいちど変換して記録 がもともとこの単ど同し意味であっ でプロンべ . ルクといった。〔渡辺 - する。テープの両端には音声とテー ひとで〔人手 , 海星〕きよく たが , 綿のはいった絹物の袷仕立て プ速度制御用信号が長さの方向に記 のものを小袖でとよぶようになって , 動物ヒトデ綱に属する動物の総称 麻の単だけを帷子と称し , 絹および ふつう 5 本の腕が放射状に出てい 録されている。 〔高橋三〕 もめんの裏なしのきものを単とよぶ 開いた人の手のようなのでヒトデ ピテカントロプス / ジャワ猿人惞 ようになった。単衣繿えというのは ひと〔人〕ヒトは分類上霊長目 名がある。英語でシースター sea st 男女の用いた装束うの下着の一種 ( 海星 ) というように , すべて海産 ヒト科に属し , は乳類の一員なので , で , 袷の衵まこや袿の下に用いたが 体の基本的な構造はほ乳類の一般体 ある。体は一般にへんへいで , 中 制と共通であり , とくに / サルの類 平安時代末ころからは白小袖の上に の盤状の部分の腹面中央にロがあ と似ている。しかしヒトとサルでは 重ねる装東の一つとなった。 / 束帯 体表面は小さい骨板でおおわれて いろいろな点で違いカ { みられるが / 十二単 て堅く , とげのあるものもある。消イ 〔小島〕 これらの違いはヒトにおける脳の発 ひどけい日時計太陽の日周運 器はロに続いて平たい胃があり 達と直立歩行という 2 点にしは、るこ 動によって時刻を測る装置。地球上 れから腕の中に枝が出ている。 とができよう。現在地球上にすんで の任意の地点に南北の地軸に平行な 枝は胃の幽門部から出ているもの フランス , ンヤノレトノレ 棒を立てる。それはその地点では鉛 いるヒトはホモ・サピエンス〃。襯 0 複雑な樹枝状に分かれており , すし 聖堂に残る垂直式日時 直線から真北に , 9 げー。 ( 。はその地 s 。〃れ s という卩ーの種に属してい 臓ともいわれる。胃に続く腸は短し 計 , 日時計の天使とし 点の緯度角 ) だけ傾いた棒となる。 るが , 時代をさかのばると , これと 管で背面のほは、中央でこう門で外 て知られる ( 13 世紀頃 ) は種や属が異なり , しかもヒトの仲 東京は北緯 36 。だから東京では 54 。傾 開く。 こう門のない種類もある。 間に入れなければならないような動 いた棒である。地球の自転のため太 の間に生殖腺があり , 輸管は背面 : 物に出会う。つまり , 古い順から猿 陽はこの軸のまわりを 1 時間 15 。の角 開く。雌雄異体。なお腕は 5 本と 人 ( アウストラロピテクス ) , 原人 ぎらす , 多いのもあるし , また短 速度でめぐって影を落とすので , 棒 ( ピテカントロプスやシナントロプ て全体が五角形に近い種類もある。 の落とす影は時計の針と同しように ス ) , 旧人 ( ネアンデルタール人 ) , 新 1 時間 15 。の角度で移動し時刻を示 狭義のヒトデとして特定の種を 人であって , その進化の具体的な道 す。ただしこれは軸と垂直な面に影 す場合がある。このヒトデは淡紫 筋は明らかではないにしても , ヒト を受けたときの話で , 実際には影を から白色の直径 30cm くらいにもな ( / 人類 ) が猿人 , 原人 , 旧人の諸段 受ける面の傾斜に応した目盛を作図 もので , 沿岸砂底にふつうに産す 階をふんでホモ・サヒ。ェンスまで進 しなければならない。日時計には , 動作はたいへんのろいが , 貝類な 化してきたことには疑いはない。ま を食べて養殖業に大害を与える。 1 種々の形式があって , 垂直な壁に棒 54 年東京湾にたくさん繁殖して大ド た現在のホモ・サピエンスは大きく を斜めに立てる型 , 水平面に棒を垂 三つの / 人種に分けられているが , 直 , または斜めに立てる型 , あるい 題になったことがある。貝の上に たがり , 腕の腹側のみぞから多数 このような傾向はホモ・サピエンス は影を受ける面を平面ではなくて曲 の化石種である新人にすでにみられ , 面にしたものなどがある。また , 影 管足を伸ばして吸いついて員を開き の先端に対する時刻の目盛は , 季節 胃の噴門部を口から外へ出して員の クロマニョン人 , グリマルデイ人 , このよう による太陽の高度変化によって一定 シャンスラード人などにそれぞれ , 肉を包んで食べるもので , 白色 , 黒色 , 黄色の諸人種の祖先を とならないので , 時刻の目盛線は曲 なことは他の種類でもみられる。 〔大森〕 線となり , ひしように正確な日時計 般に食用にされす , 駆除のために 求めうるくらいである。 ビート beet 南欧原産のアカサ の製作は , かなりむすかしい。日時 ったヒトデを肥料にすることがある 〔福井〕 計は , おそらく時刻を決定する方法 科の二年草。太い葉柄と深緑または としては , もっとも原始的なもので , ひととちょうじん人と超人 Ma 幻 赤色で広大な葉面をもつ葉を根出し , and Superman B. ショーの喜盧リ。 バビロニア , エジプトあたりは , も 5 月ごろ 1 m くらいの花茎をのばし 4 幕。 1903 年刊 , 05 年初演。恋愛に て白色の花をつける。ニンジンに似 つばら日時計が採用されていたし , ギリシア時代に発達した日畧新儀 ( グ おいては女が猟師 , 男が獲物であっ た根は横断してみると渦状の紋があ て , 生の持続のためには女は男を進 ノーモン ) も一種の日時計のやくめ る。欧米では根部を野菜 , 飼料とし わすにはいられないし , 男もけっ て用いるためひろく栽培され品種も を果たしていた。欧州でも , 中世期 ヒトデ類の腕はふつう 建設の古城 , 古教会には , 日時計が設 多いが , / サトウダイコンは本種の よくは生命的衝動によって女のと 5 本だ力、 , ャッデヒト 置されているものが多い。 こにならすにはすまないという作ネ 工業用品種で , 俗にビートという 〔草下〕 デは 7 ~ 9 本 , イトマ ヒ。トケルン〔島〕 Pitcairn 南太 独特の「生命力」の哲学が盛られて とがある。またフダンソウは本種の キヒトデは 4 または 6 おり , 作者の名を世界的にした傑竹 平洋 , 西経 130 。 6 ・ , 南緯 25 。 4 ・にあ 葉菜としての変種である。〔新関〕 本のことも珍しくない る英領の火山島。肥えた土壌に恵ま である。 ヒトデの形のいろいろ イトマキ 〔あら筋〕無政府主義者のジョン・タナー れ果実 , 野菜類を産する。面積 4. 6km2 , モミジガイ ハナ ヒトテ は , 自分が後見人になっている娘アン・ 1767 年英人により 人口 86 ( 1964 ) 。 ヒトテ イットフィールドがひそかに自分を恋して 発見されたが , 90 年英国軍艦バウン いることを知り , 求愛を避けてスペインに ティ号の乗組員がタヒチ島で暴動を 旅行するが , けっきょ・く , あとを追ってき 起こしてこの島に住みつくまで無住 〔小野協〕 たアンの求婚に屈する。 この事実は 1808 年に至っ であった ひとふでがき一筆書き「線て てはしめて知られ話題をまいた。 98 できている与えられた図形を , 同じ 〔小野〕 年以後英領となった 線を 2 回通らす , また筆を画面か ビドゴシュチ Bydgoszcz ポー 離さす一筆で書け」という命題を ランド北中部の都市。プルダ川に沿 く一種の数学ノヾズル。たとえば 337 う。人口 231500 ( 1960 ) 。ビスラ川下 ペーージの図形を試みると簡単にでき 流部とオードラ川をつなぐビドゴシ たり , できなかったりするが , 命題は数学的に解決され , 「一筆物 ュチ運河 ( 1774 開通 ) の起点にあたり , ヒトテ トデ ヨ / 、ンヒ ャッデヒ トテ