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検索対象: 国民百科事典6
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1. 国民百科事典6

パッキンガ 1 5 0 血行を盛んにする。またパック剤が 刑の一種で , 科料は 1 ( ) 銭以上 20 円未 に愁をこめて才苗いたミシシッヒつ 乾噪するに従って , 皮膚に緊張を与 満であるのに対して , 2 ( ) 円以上である 描写は叙事詩的な輝きをおび , え , 皮膜をとり去るときに吸着作用 ( 刑 15 ) 。もっとも刑の減軽を行なう 作品の最良の部分を形づくって によって , 完全な皮膚の清浄が行な ときには , 20 円以下にすることがで 現代アメリカ小説の源流とみな こうして栄養 , 漂白清浄 , きる。これらの金額は第二次大戦後 われる。 る重要な作品である。 はつけっきゅう白血球血 脂性はだ , 乾性はだなどの特殊なは の貨幣価値の変動のため , 罰金等臨 だのための美容などの効果をあげる は赤血球と白血球とがあリ , 前 時措置法 ( 昭 23 法 251 ) により , 当分 ことができる。ノヾック剤としては , へモクロビンを含み , 核を有し の間 , 罰金は 1 ( ) ( ) 0 円以上 , 刑法その 家庭にある・材料を利用することが多 が , 後者はヘモグロビンを含ま 他一定の法律の罪については上限を 核を有する。白血球は細胞の大 く , 卵黄や牛乳は栄養の目的のため 5 ( ) 倍に引き上げることとした。罰金 や核の形 , 原形質内の顆粒の に , オキシドールやレモンなどの果 については仮納付の制度がある。判 や顆粒の性質から数種のものが 汁は漂白に , 卵白ははだを整えるの 決の確定を待っていては執行が不可 されている。 / 血液 に適する。それぞれカオリン ( 陶土 ) 能または著しく困難になるおそれが はつけつびよう白血病フィ あるときに言い渡される ( 刑訴 348 , か小麦粉などを加えて , 泥状にとい ヒョーが患者を剖検してその血カ 493 , 494 ) 。罰金を完納できないとき て用いるのが効果的である。市販品 は , ゼリー状 , クリーム状などの完 くみえたことから 1846 年白血病 は , 1 日以上 2 年以下の期間 , 労役 場に留置される ( 刑 18 ) 。罰金は軽徹 名した疾患で , 白血球を生成す 全製品と , 粉末状 , ワックス状の半 織が無制限に増殖し , その増殖 , 、 な犯罪に対する制裁として , また短 製品とがあるが , いすれもはだの性 期自由刑の欠陥を補うものとして意 が多数に血中に出現する。まれ一 状によって選び , 使い分ける必要が 中の白血球数が増加しない場合 〔高見沢〕 味をもつ。 〔遠藤〕 ある。 ′ヾッキンガムきゅう / ヾッキンガ るが , いすれの場合でも血中の ′ヾックスキン buckskin 本来は ム宮ロンドン市ウェストミンスタ シカの皮のことであるが , ふつうヒ 白血球細胞は , その形態に特有オ 一区セント・ジェームズ公園の西端 ッジや子牛の皮でつくられる。しな 常が認められるので診断される。 にある , 1837 年以来の英国王室常住 やかで強く , くつ , 手袋 , ジャケッ 因は明確に認知することができオ 宮殿。 17 ( ) 3 手 / ヾッキンカ、、ム Bu c k i ng- トなどに用いられる。またこの皮に 場合が多い。なお放射線に比較白、 ham 公 J. シェフィー . ルドの邸館と 似た外観に仕上げた紡毛織物もこの くさらされた場合には , あとで して着工 , ( ) 5 年完成 , 61 年以後王室 名でよばれる。これは / ドスキンに 病になる率が高い ( / 原子病 ) 。白 に帰した。 1825 年・破壊したあと .J. ナ 類似しているが , よこ糸がフェルト 病の種類はさまざまであるが , 日 ッシュにより大変更されて再完成 , していて , たて糸が少し現われてい においてもっとも多くみられるの 56 年・ , 1913 年に拡張した。古典主義 るところが異なっている。織り方は 急性骨髄性白血病で , 次に慢性・冂 あや織りが多く , おもにズボン地に 様式の壮麗な建物で , 内部には画廊 性白血病が多く , さらに単球白血 もある。 〔石川〕 用いられる。表面は起毛し , 毛刈り もしばしばみられるが , リンノヾ 1 生 をしてあるので , 触感がよく光沢が ′ヾック Pearl Buck 1892 ~ 血病あるいは赤血病 , 血小板血病 米国の女流作家。ウェスト ある。 どはまれである。これらの病型は ァヾッグパイプ b ag ⅵ p e 管楽器 ニア州に生まれ , 生後まもなく宣教 中と骨髄中の血球細胞の形態によ 師の両親とともに中国に渡り , 揚子 の一不重。その名のとおり , 皮などの空 て区別される。また特殊な型とし 江の近くで育った。大学教育を米国 気袋に数本のリード笛をつけた楽器。 増殖細胞が腫瘤うを形成する場 でうけ , ふたたび中国に渡って , 南 おもに民族部楽の楽器であるが , ス か、あり これには緑色腫 , 骨髄腫 京大学その他で英文学を講するかた リンパ肉腫症 , 細網肉腫症などが コットランドでは儀礼的軍楽にも用 わら評論や小説の筆をとった。中国 まれる。 いられる。欧州 , アジア , アフリカ 農夫の生活を描いた一連の作品で 19 白ⅷ病の主要症状は , 急性のと 各地に固有の楽器があり , それぞれ 38 年ノーベル文学賞を受賞。代表作 固有の呼び名をもつ。空気袋への送 には発熱 , 貧 . 血 , 出血素質などの一 / く大地 > のはかくたたかえる使徒 > か , リンノヾ腺およびひ臓がはれ , 風は , ロ吹きとふいごとの両方式が 性ではひ臓のはれと出血素質 , 貧 ( 1936 ) , く竜子〉 ( 1942 ) , く郷上 > ( 19 あり , 音源であるリ ドはオーポエ く母よ嘆くなかれ〉 ( 1950 ) など 式のダブルが多い。指孔を使って旋 があげられる。生命的には予後不 . 49 ) , であり , 急性症は数週ないし数カ がある。 1934 年以降は米国に定住し , 律を吹くチャンターといわれる笛の ドローーンとし、って一一一うグ ) 日 のうちに死亡することが多いが 創作に専念している。 〔宮本〕 ほかに 高を鳴りつばなしにする笛が数本っ きに 1 年以上にわたることもあり ′ック pack 皮膚美容法の一種。 いているのカ { 」、つう 慢性症では 1 ~ 3 年ときには 1 ( ) 年一 湿布するという意で , 皮膚にパック 〔関根〕 及ぶが , また突然急性に移行する ハックルべリフィンのほ、うけん 剤を塗りつけ , かわいたら洗い落と ともある。治療は慢性症にはヒ素 す方法で , 一時的に外気がしゃ断さ / 、ツクルべリ・フィンの冒険 The ウレタン , ナイトロミン , マイレ Adventures of Huckleberry Finn れ , 毛穴が開き , 皮膚表面から蒸発 する水分が皮膜の層と皮膚の間にた マーク・トウェーンの小説。くト ン , 6 ー M P および X 線などが用 まる。この水分が表皮をうるおし , ム・ソーヤの冒険〉の続編で 1884 年 られ , 急性症には 6 ー M P , コー またパック剤中の有効成分を吸収す 刊行。主人公ハックは , 中西部の寒 ゾン系ホルモンが用いられる。ま る。さらに皮膚の表面温度が上昇し , 村に住む浮浪児だったが , 未亡人の 貧血が高度のときには輸血を行な もとにひきとられて窮屈な生活を送 / ( 別刷 ) 血液 〔高谷 はっこう発酵狄義には糖類 っている。彼は以前の自由な生活に 酵母によってアルコールと炭酸ガ あこがれ , ある日 , 黒人奴隸ジムと に分割される現象をいう。しかし ひそかに村を脱出し , いかだにのっ 義には l-- 記のアルコール発酵だけ てミシシッピ川を下っていく , その なく , 微生物による有機物の分解 途中の見聞や冒険を積み重ねた一種 るいは合成の現象をすべて発酵に の悪童物語である。 ノ、ツクののびや めており , さらに微生物によらな かな冒険を通して , 作者は文明や世 ても , 動植物の組織内で酵素系に 間的な拘束から解放された自然と自 って行なわれる類似現象をも発酵 由とを賛美しているが , とりわけ , ノヾッグノ、イプの中には 下部に糒 ( ふいご ) を備 えたものもあるが , れはロ吹式のバッグ / 、 イプ。右側に持続片を 発する管と , 主旋律を 奏する指孔をもつチャ ンターがある

2. 国民百科事典6

6 8 1 ーデンの間に南Åt6()()km, 幅 8 ( ) ~ 25 ( ) かおりがあり , おろしてワサビの増 湖岸都田川のデルタにシチトウイが km, ひょうたん形に湾入する。平均 量用または代用にされる。また刀キ 栽培され , 畳表を特産するはか , 北 深度 6 ( ) m 内外 , 沿岸は小湾や小島が 料理やローストビーフの調味料とし 部丘陵地の石灰岩を利用するセメン 多い。塩分は南部で ( ). 6 % , 北部で て利用される。 ト工業がある。都Ⅲ川の堤は桜の名 〔渡辺〕 ポセイドン P 0 se i don ギリシア 0.3 % 程度である。冬季の結氷が激し 所である。 神話中ゼウスにつぐ神。クロノスと 3 ~ 5 カ月は航行不能となる。 ほそかわうじ細川氏室町幕府 港は , フィンランド側でポリ , レイアの子。兄弟のゼウスとハデス 二管領家の一つ。足利誌氏の支族。 サ , オール , スエーデン側でルレオ , とで世界の支配権を分け海の支配者 足利義季が上野 ( 群馬 ) から三河 ヘルネスンド , エプレなどがあり , となる。エウポイア近くの海底の宮 ( 愛知 ) 細川郷に移って , 細川を称し 一般に林産物の移出が盛んである。 殿に , 妃アンフィトリテと住み , 黄 た。建武の内乱に足利尊氏が挙兵し また沿岸漁業も活発で , 金のたてがみの馬のひく戦車に乗り , ン一ン・、 7 顕氏以下一門これに従い , たさい マス , サヨリ , サケなどの水揚げが 三叉さの戟を手に怪物を従え , 荒波 以来府内で重きをなした。その領 とあらしを起こしながら海上をかけ 国は讃岐 , 阿波 , 淡路 , 和泉 , 河 る。初めは大地神だったらしく , そ ポスニアへ′レツェゴビナ Bosnia 内など , 四国 , 畿内の要地を占め , のため地下水 , 泉 , そして地震をつ Herzegovina ユーゴスラビアを構 最有力な守護大名の一つであったが , かさどると考えられ , また馬の神で 成する一共和国。面積 51129km2 , 人 とくにその勢力が盛んになるのは頼 もあった。他の神々とアテネ , アル 凵 3277948 ( 1961 ) 。住民はセルビア人 , 之 ( 1329 ~ 92 ) が管領に任せられてか ポスニア人 , クロアチア人で , ゴス , コリントスなどの都市の守護 らである。以後 , 頼元 , 満元 , 持之 , 神の位置を争っては , いつも敗れて 勝冗 ( / 細川勝元 ) , 政元と代々管領 はセルボ・クロアート語。中心都市 いる。ホメロスではトロヤ王を憎み , はサラエボ。ユーゴのはは、中央部を となって幕府内で重んぜられたが , ギリシア方に味方した。またむすこ しめ , 大部分はジナル・アルプスな / 応仁の乱以降しだいに袞退の一途 のポリフェモスをめくらにしたオデ どの山地であるが , 気候は温暖であ をたどり , もっとも重要な領国の阿 ュッセウスの帰国をたびたび妨げた る。北部はサバ川の狭い河谷がひら 波も 1552 年三好氏に奪われるに至っ この神の子には怪物が多い。聖獣は け , その支流のドリナ , ポスナなど 一族のうち , 和泉守護の細川心 た イルカと馬。ローマのネブッヌス 常の養子細川藤孝 ( 幽斎 , 1534 ~ 16 が北流する。石炭 , 鉄鋼 , ポーーキサ ( / ネプチューン ) に同し。〔高津〕 10 ) は , 足利 , 織田 , 豊臣 3 氏に仕え イト , 岩塩 , 木材などを産する。 ポーゼン / ポズナニ て丹後宮津の城主となり , その「・忠 のはかに牧畜 , 農業も行なわれてい ほそえ細江〔町〕静岡県引佐′ 興 ( 1563 ~ 1645 ) は関が原の戦いのの る。ヘルツェゴビナでのタ / ヾコと綿 ち豊前臥小倉城主 , 次の忠利は肥後 郡 , 浜名湖北岸の町。人口 13 圏 0 ( 19 は重要である。 1 世紀ごろにローマ 熊本城主となって , 以後あいついで 65 ) 。湖の支湾引佐細江にのぞみ , 姫 人か・侵入し , 12 世紀にはポスニア公 ポセイドン 街道に沿い , 国鉄二俣線が通じる。 明治に至った 国力 { 成立した。このころこの地には 独特のポスニア教会が形成された。 ポスターの作品 6 点。上段左から , フランスの J. シェレ 下段左から , 米国のべン・シャーンの選挙ポスター その後ポスニアは 1463 年 , ヘルツェ のスケート上易のポスター , フランスの R. サビニャックの 英国の A. ゲームズの観光ポスター イタリアの M. フー ; 蹶京飲料ポスター , スイスの日 . ロイヒ。ンの洗剤のポスタ パーーの楽団のポスターー ゴビナは 1482 年オスマン・トルコの 支配下にはいった。 1 ) 8 年オースト リア・ハンがリー帝国に併合された が , 14 年 6 月 28 日オーストリアの皇 太子の暗殺事件がサラエボ市で起こ り , 第一次大戦の導火線となった 41 年 4 月以後ドイツ , イタリアの支 酉己下にはいったか、 , 45 年には完全に 解放された。 46 年 1 月 31 日の憲法に よって , ューゴの 6 構成共和国の一 っとなっている。 〔相場〕 ポスポラス〔海峡〕 Bosporus トルコ語ではカラ・デニズ海峡。ト ルコをアジアの部分と欧州の部分に 分け , 黒海とマルマラ海を結ぶ海峡。 マルマラ海はダーダネルス海峡によ り , 地中海に続いている。幅は狭い sirenella 0 を 1 ところで 80 ( ) m , 長さは約 3()km に及 マルマラ海に近い欧り、 I•I 側に スタンプール港がある。この地理的 な条件のために , 古くから戦略的な 重要性をもち , 18 世紀未から国際間 題の焦点となってきた 〔西野〕 ホースラシシュ horseradish ワサビダイコン , セイヨウワサビ , ハタワサビともいう。欧州産のアプ ラナ科の多年草。長柄をもった大形 , 長だ円形の根出葉があり , 根は白色 で太く肥大する。 4 ~ 5 月ごろ高さ 50cm ぐらいの花茎をのばし , たくさ んの白色の十字花をつける。種子を つけにくいので増殖は株分け , 根分 けにより行なう。根に辛味と特有の ホンカワウ ホーースラジンコ S00 Britain わツー′物ー” コロり 叟一の

3. 国民百科事典6

2 2 8 3 年ほどで消滅したが , 52 年ノヾリの 多く , 個人で選べるようになっ リノ , 小森敏らの舞踊家を生んだ バレー ( 補 ) 日本のノヾ レー界には , 196 ( ) 年ポ る。民間の晴れ着でもっとも古 ) オペラ座から S. リファーノレの一行 4 しかしその中で最後までノヾレー・ダ リショイ劇場のメッセ 形式をとどめているのは婚礼の糸 名が来日して公演したのを皮切りに ンサーでとおしたのは沢モリノぐら レノレ , ワノレラーーモフカ { 「・ , 葬式の被衣のような / かー 同年秋には S. アロワが小牧ノヾレエ団 いで , その他はいすれも後年モダン・ 来日し , 東京バレエ学 ものと帯やたすきである。 / 前 と共演 , さらに A. ダニロワ , F. フラ ダンスに転向した。一方初期のバレ 校カ { 開設されたカ { , 64 も晴れ着に用いる地方があり , ・ダンサーとしては , 1914 年に米 ンクリン , M. スラベンスカ , N. ケイ , 年経済的事情で閉鎖さ 次大戦前の婦人会などでは新しし れた。しかしアベ・チ 国から帰朝した高木徳子があげられ C. マノレシャン , M. フォンテンなど第 工 , 鈴木光代 , 北原秀 烹着が一種の晴れ着であり制月 一線のバレー舞踊家がその後次々に る。沢モリノと高木徳子は当時トー 晃らが育ち , 現在の東 もあった。人間の一生で晴れ着 来日して妙技を伝え , ソ連のポリシ ダンサーというふれこみで , 浅草を 京ノヾレエ団か・その遺 : るのは , 生まれた子の初宮参り , 中心に日本各地を巡演した。しかし ョイ劇場バレー団やレニングラード・ を継いでいる。橘ノヾレ 五三 , ひも落し , 成年式 , 結婚 , 帝劇以外ではまだバレーらしいもの バレー団 , あるいは米国のニューヨ 工学校が母胎の牧阿佐 祝いなどのいわゆる通過儀礼の は上演されず , わすかにボアント ( っ ク・シチ・バレー団などの大ノヾレ 美バレエ団は 63 年以来 である。葬式に着るのも晴れ着 ま先 ) で踊ったにすぎない。ところが 定期公演を行ない , 大 一団も来日 , これらの外人舞踊家ま 原永子 , 森下洋子らが 種で伊豆諸島では美しいすそ模 22 年にロシアが生んだ天オ的な舞姫 たは / ヾレー団によって日本のノヾレー 出ている。 2 回の中国 着る。年中行事では , 盆 , 正月・ , の A. パプロワが一・座を率いて来日し , は啓発されるところが少なくなかっ 訪問をした松山樹子バ 神祭といった暦の折り目や節日 帝劇その他各地で公演し , その妙技 た。かくて戦後の日本バレー界は , レエ団 , くドン・キホ れで , 東北から新潟県あたりで一 東京バレエ団以後ふたたび研究所単 に接してはしめてバレーへの目を開 ーテ〉を本邦初演 ( 19 や正月の晴れ着を「せつ」とか いた。と同時にそれより 1 年前に白 位のバレー活動に移り , 小牧正英 , 65 ) した谷挑子バレエ団 , ちもん」とよんでいる。民間で一 貝谷八百子 , 服部と島田 , 牧阿佐美 , 小グループでは横井茂 系ロシア人の / ヾレー・ダンサー , E. パプロワが日本に亡命して , 多くの の・東京ノヾレエ・グノレーー れ着も自分の家で織り , 子孫にイ 谷桃子 , 横山はるひ , 近藤玲子 , 松 プ , 高橋彪の 2 ( ) 世紀ハ る一種の財産であったが , 近年 ( 日本人にバレーを教えたことから , 山樹子 , 法村と友井 , 東勇作 , 大滝 レエ団などカ { 注目され , のたびに晴れ着を新調するよう一 日本にもパレー・ダンサーがぞくぞ 愛子ら大小各バレー団が活躍 , はか 太刀川瑠璃子製作のス り , 商店のほうでも七五三のよ くと生まれるにいたった。東勇作 , に青年バレエ・グループ ( 東京青年ノ ター・ダンサーズ・ノヾ 流行の晴れ着をつくりだす傾ロ レエ団と改称 ) , 橘秋子 , 貝谷八百子 , 服部智恵子 , ノヾレエ東京などの レエ ( 1964 発足 ) がアメ ある。 〔大 島田広 , 大滝愛子 , 近藤玲子など , 研究所単位でないグループが異色の リカの振付家 A. チュー ′ヾレスチナ Pa le s t ine シリ ダーを招きその作品を みなその門下である。なかでも東勇 存在として注目された。なお以上は 上演したのは画期的で クラシック ( 古典 ) 系のバレー団であ 作はすでに第二次大戦前にくバラの とアラブ連合の間の東部地中海 あった。また自主公演 方。東方はヨルダン渓谷と死海に 精〉く牧神の午後 > などの名作を上演 , るが , バレーが全国的に普及して , をつづける雑賀淑子 , ってシリア砂漠に接する。元来ー また貝谷は創作バレーで活躍した。 戦後の流行となった結果 , モダン・ バレー指揮者福田一雄 ナンとよばれたが , 前 12 世紀ごろ 一方レニングラードの国立舞踊学校 夕、、ンス系の舞踊研究所やその舞踊団 の活躍があり , 多くの ィリスチテ ( ペリシテ ) 人が居住 を卒業したバレー舞踊家 0. サファイ までが , バレーの名を冠する現象が ノヾレー団が属する日本 ようになってから , その名が転イ ノヾレエ協 - 会は 1963 年以 ア夫人が 36 年に来日して定住し , 主 みられるに至った。 / ( 別刷 ) バレー 来毎年合同公演を行な てパレスチナとよばれるようにオ として日本劇場を中心に舞台活動を 〔江口〕 っている。 た。北方のダンから南方のべール 続けながら門下を養成した。しかし ′ヾレ Amb r 0 i s e P a ré 1510 頃 ~ エバまで約 230 km あり , 現在はイ 戦時中は日本のノヾレー活動ははとん 90 フランスの外科医。身分の低い ラエル共和国がそのはとんどを占 ど停止し , これがバレーの発展に大 理髪師から身を起こし , 皇帝侍医と 一部がヨルダン王国に含まれる。 きな障害となった。ところが敗戦の 大学教授になった。従軍中の経験か 翌 46 年 8 月に , 東勇作 , 貝谷八百子 , ら , 中世の誤った迷信的外科治療法 石器時代からの人類の足跡が認め 服部智恵子 , 島田広らの戦前派に上 を改め , 創傷の合理的処理と止血法 れるが , とくにハイフアに近いカ 海から帰国した小牧正英を加えて東 の改良を行なった。彼の全集は近代 メル山の石灰洞から , 旧人と新 京バレエ団が結成され , 帝劇ではじ 外科学の源泉とされている。また哲 の中間的体型を示す人骨 ( 中期旧 めてく白鳥の湖〉全 4 幕の長期公演 学や文学にも識見があり , 従軍紀行 器時代 ) が現われたことで , 注目 に成功して以来 , バレーの開花期を ひいている。前 6000 年ごろから は名文として知られる。 〔石原〕 迎えた。この東京ノヾレエ団はわすか ′ヾレアレス〔諸島〕 Baleares イ 石器時代に入り , 農業 , 牧畜が発 し , 前 3 千年紀の後半には集落も べリア半島東方 , 地中海にあるスペ イエス・キリスト時代 達を示した。 前 300() 年ごろからセ イン領の諸島で , / マリヨルカ , / メ ヘルポン 古代のパレスチナフシリ の / ヾレスチナの地図を 人の移住がはしまり , さらに前 18 ノルカ , イビサなどからなり , 1 州 示す。なお地名表記に ヘルモン山ダマスコ 前 17 世紀にはフノレリ人 , 前 14 ~ 前 をなす。面積 5 ( ) 14km2 , 人口 443327 ( 19 ついては聖書によった キ ア 6 の。前 7 世紀ごろカルタゴが征服し , 世紀にイスラエル ( へプライ ) 人の ダンビリボ・カイサリヤ : ツロ カ , さらに前 12 世紀ごろフィリス 以後ローマ , ノヾンダノレ , ビサ、ンチン 0 カナ などの支配をへて 13 世紀アラゴン王 ア人やアラム人が侵入 , 移住した = : アッゴ こはエジプト , メソボタミアな ハイメ 1 世に征服された。一時英領 カペナウム 中トレマイ ガリラヤ . 海 = 三をハイフたガリラヤ ヨ十ペリアス ) の強国にはさまれ , 侵略 , 圧迫を となったが 18 ( ) 2 年以後スペイン領。 カナタポノ ~ 毎カルメル山△ 8 △山 多くの入江をもち , 中世には海賊の けつづけた。地理的条件による , 9. ガダラ ナサレト 0 工ンドル 根拠地となった。島民は一般に農牧 , うした悲劇的状況は , その後のパ 功イサリヤ スチナの歴史を貫いている。前 11 漁業に従事し , オリープやブドウの 工フライムの森 紀からイスラエル人による王国が 栽培が行なわれる。温和な気候と美 シケム しい景色は , 多くの観光客をよんで まれたが , この勢力も前 8 ~ 前 6 0 シロ こ目ーツ / 、 紀に滅ほ、され , この地はメソボタ いる レ ペテル 0 工リコ ア , エジプト , シリアなど各勢力 ばれいしょ I 馬鈴薯〕 / ジャガ ベオン 0 0 シドド 工ルサレム 00 オも一 ヤ△ 手中を転々とし , さらにローマ領 0 イモ ネボ山 ・ツレヘム 0 ペタ アスカロン はれぎ晴れ着あらたまった晴 ビザンチン領となった。 7 世紀か ガサ、一一、 . ー 0 へプロン れの日に着るきもの。礼服のように はイスラム勢力の支配下に入り , 工ンゲテ 社会的に統一された服装ではないが ラブ人もしだいに移住し , 11 ~ 13 ペ工ルシ / 、 サダ 男の羽織はかまのようにはは、定まっ 紀には十字軍の対象となり , 十字 たものもある。女の晴れ着は種類も 国も生まれたが , 1516 年からイス リ サマリ ス 取の海「海 )

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ボウエキフ 第 2 表 日本の主要商品輸入額 ( 単位千ドル ) 年 商品別 食料品 小麦 砂糖 トウモロコシ 繊維原料 羊毛 綿花 金属原料 鉄鋼石 鉄鋼くす 非鉄金属鉱 その他の原料品 大豆 ー尺烈ミゴム 木材 鉱物性燃料 石炭 原油 石油製品 化学品 機械機器 事務用機器 電気機械 連送機械 その他の製品 鉄鋼 非鉄金属 1965 147 ( ) 030 251 ( ) 92 144700 155850 97433 847405 342635 441819 1 ( ) 19182 532582 1531 ( ) 2 288 ( ) ( ) 5 13543 ( ) 2 225756 9 ( ) 972 492532 1626 ( ) 43 270274 1 ( ) 47305 288619 4 ( ) 8151 76 ( ) ( ) 57 1082 ( ) 4 111381 153602 666687 14 ( ) 689 247495 8169 ( ) 19 注小分類はおもな商 品のみ。通産省く通 商白書〉 ( 1966 ) 貿易 ( 補 ) 中華人民共 和国との貿易 ( 日中貿 易 ) は , 1952 年第 1 次民 間貿易協定以後本格化 したが , 58 年長崎での 中国国旗引下し事件で 一時中断した。また従 来 , 中国側は友好的と 認めた日本商社とのみ 貿易を行なってきた。 こうした状況打破のた め , 62 年高碕達之助と 廖承志の間で業界べーー スで商談が進められ , また国交回復後の通商 協定の原型となるよう な貿易方式 ( L T 貿易 , 廖の L と高碕の T ) が つくられて , 大口の取 引はこれによっている。 しかし , 日中貿易は日 本の全貿易高の 2 ~ 3 % にとどまっている。 総計 当する。国際収支は以上のような取 引を全部まとめたものであるが , 外 国に対する支払いのはうが受取りよ り多ければ国際収支は赤字 , 反対の 場合は黒字となる。 〔貿易の歴史〕国家間の貿易は古代 に起こリ , とくに地中海沿岸諸国で 盛んに行なわれた。またアジア大陸 を横断して地中海沿岸と中国を結 / 絹の道 ( シルク・ロード ) が開かれ た。中世の十字軍も国際貿易の拡大 をもたらし , イタリアのジェノバ ベネチアが東方貿易で栄えた。 13 世 紀半ばごろから , 北海 , バルト海沿 岸の都市が貿易港として興り , ノ、ン・一 プルクやリューベックを中心、に / ハ ンサ同盟が形成された。 15 世紀末か ら 16 世紀前半にかけての地理上の諸 発見によって世界的な航路が開拓さ れ , 国際貿易の舞台は , 大西洋とイ ンド洋に移った。そこではポルトが ル , スペイン , オランダ , イキ、リス などが活躍し , 香辛料 , 宝石 , 果実 などが輸入された。さらにこれらの 国々は , アメリカやアジアに植民地 を獲得 , その経営にアフリカ黒人を 奴隷として輸入して労働力にした 植民地の産物 ( 金 , 銀 , タバコ , 砂糖 , 香料 ) の欧州への輸入や奴隷貿易は , 国際貿易を著しく発展させた。 リス ポン , ロンドン , アムステノレタ、、ムは 世界貿易の中心地となり , 植民地貿 易の独占権を政府から与えられた貿 易会社 ( イギリスやオランタ、、の / 東 インド会社など ) が設立された。し かし当時の各国はまだ農業中心の経 済であったため , 貿易品も農産物や 特産品がおもなものであった。この ような貿易の姿を一変させたのが 18 世紀後半英国にはしまった / 産業革 命である。産業革命は従来の手工業 的生産を大工場生産に変化させ , そ れに応して貿易品も工業製品に重点 が移りはしめ , 取引量も急激に増加 していった。産業革命以後英国は自 由貿易主義を旗しるしとして世界貿 易を支配したが , 英国よりも遅れて 産業革命が起こった米国や西欧諸国 でも工業化が急速に進み , 工業国と 農業国 , 工業国と原料生産国との間 の貿易がますます盛んとなって国際 19 分業の姿もはっきりしてきた。 14 ~ 18 年の第一次大戦の結果英国と 第 3 表日本の国別貿易額 ( 単位千ドル ) 国 別 6 2 4 ドイツは戦争で大きな打撃をうけ , 世界貿易も伸びなやみになった。米 国だけは戦争中も工業化を着々と進 めてきたので第一次大戦後は米国の 地位が英国とは反対に高くなった。 戦後川年もたっと各国の経済は完全 に復興したが , 新しい工業国の力も 強くなって工業国間での輸出競争が 激化した。そのため各国は自国の産 業を保護し輸出を増すために輸入品 に高い関税をかけたり , さらに輸入 煢をおさえるため強力な貿易統制を とるようになった。産業革命から第 一次大戦までは自由貿易主義が中心 となり貿易も盛んに行なわれたが , 戦後は各国とも保護貿易政策をとっ て貿易はあまりふるわなかった。第 二次大戦後は貿易や外国為替取引に 各国かカ日えていた直接統制をやめて それらをできるだけ自由にし , 国際 間の貿易量をふやして経済の成長を はかろうということか・各国において 認識されるようになった。つまり貿 易 , 為替の自由化である。そのため の国際的な協力機関が , 国際連合を 中心として , いくつか設けられた。そ の代表的なものとしては / 国際通貨 基金 , / 世界銀行 , / ガット , さらに経 済協力開発機構 ( / ( ) E C D ) などの組 織がある。これらの国際機関は , 一方 では , 国際分業の能率性を高めて貿 易を拡大し , また他方では後進国の 開発と工業化を国際的な協力によっ て実現しようというものである。戦 後の世界貿易の動きをみると , 工業 の進んだ開発地域のはうが未開発地 域よりも貿易が進み , また工業国の 中でも西ドイツ , フランス , イタリ アなどの西欧諸国や日本などの地位 が高まり米国と英国の比重が低下す る傾向にある。 〔日本の貿易〕 7 ~ 9 世紀には遣隋 使 , / 遣唐使を介して中国大陸との 間に品物の往来があったが , これは 貢物とその返礼という形で , 商業 としてのそれではなかったので朝貢 貿易といわれる。鎌倉時代には商人 の宋との貿易が行なわれ , 幕府も貿 易を行なったが , 元寇以後は商人 の私的な貿易だけが盛んになった。 室町時代には / 倭寇による明や朝鮮 沿岸での略奪的貿易が行なわれ , 足 利義満は勘合符を商船に・与えてこ れを取り締まった ( / 勘合貿易 ) 。や がて貿易市場は東南アジアの島々ま で広がり , / 日本人町をつくって活 躍した。江戸時代初期には , 幕府か ら海外渡航許可の朱印状が与えられ , / 朱印船による貿易が行なわれた。 朱印船は一時 35 ( ) 隻にも及んだが , 徳川家光による鎖国政策以後は貿易 は長崎の出島でオランダ人 , 中国人 を相手にわすかに行なわれたにすぎ 明治前期は生糸 , 繭 , 茶など がおもな輸出品で , 輸入品は綿製品 , 砂糖 , 毛織物などのはかに富国強兵 策による兵器 , 鉄鋼 , 機械などであ った。 20 年代以後には産業の近代化 が進み , 繊維工業を中心とする軽工 業が発達し , 生糸 , 綿製品の輸出 , その原料 ( 綿花 ) の輸入か急増した。 また日清 , 日露の両戦争を契機に市 場は従来の欧州 , 米国から中国 , 東 南アジアにも広まった。第一次大戦 中は , 連合国からの軍需品注文 , 欧 り、 l•l から必需品を得られなくなったア ジア , アフリカ諸国からの注文で , 貿易は飛躍的に増大した。しかし大 戦後は各国とも輸出振興策をとり , 世界的恐慌の波もうけ , 満州事変後 にいたる間の貿易は沈滞した。 1931 年金輸出再禁止 , 金本位制停止以後 は廉価品の輸出で輸出は著しく伸び , 世界各国に日本製商品が広まった。 これに対し各国は , 関税障壁でこれ に対抗し , また為替ダンピング , ソ ーシャル・タ、、ンピングの非難か、高ま った。しかし日華事変以後 , 日本は 国際的に孤立化が深まり , 国内では 貿易に対する国の統制が強化され , 貿易は不振に向かった。第二次大戦 後 , 45 年貿易庁が設置され , 輸出入 とも占領軍最高司令部の許可のもと に政府の手で行なわれた。 48 年 12 月 には外国為替及び外国貿易管理法 ( 昭 24 法 228 ) を中心に貿易制度を整 備し , 同時に輸出は原則として民間 の自由輸出となった。輸入について は統制のわく内で自由輸入をさせる 外貨予算制度をとった。 5 ( ) 年 6 月に 起こった朝鮮戦争を契機として , 貿 易は次第に活発となり , 輸出額は 19 49 年の 5 億 9 ( ) ( ) 万ドルから 51 年には 13 億 54 ( ) ( ) 万ドノレ , 55 年には 2 ( ) 億 1 ( ) 6 ( ) 万ドルまで著増した。しかし , この 時期における日本の輸出は軽工業品 が主体のため国際競争力は弱く , 朝 鮮戦争による特需でかろうして国際 収支の黒字が保たれていた。しかし , 55 年以降の日本経済の高度成長は , 日本の産業構造を急テンボに変容さ せ , 欧米諸国なみの重化学工業化を 達成させた。 このため , 日本の輸出 競争力は次第に高まり , 65 年の輸出 規模は 84 億 5174 万ドルに拡大し , 同 時に輸出の重化学工業化率は 1955 年 の 36. 8 % から 65 年には 58. 1 % までに この間 , 19 59 年ごろから貿 なった 易 , 為替の自由化措置がとられ , 64 年 3 月末には自由化率は 92 % に達し , 同年 4 月に国際通貨基金の 8 条国へ の移行 , 経済協力開発機構への加盟 など , 日本経済は本格的な開放経済 東南アジア諸国 西アジア諸国 西ヨーロッパ諸国 北アメリカ諸国 ラテンアメリカ諸国 アフリカ諸国 太洋州諸国 共産圏諸国 総 額 輸出 2194930 286321 1085418 2693691 487755 817558 404406 477669 8451742 輸入 1406166 1074154 726087 2723008 707285 353157 652033 527074 8169019 体制に移行した。 〔松原〕 注総額は特殊地域を含むので地域別計と 一致しない。通産省く通商白書〉 ( 1966 ) ほ、うえきふう貿易風中緯度高 圧帯 ( 北半球では 35 。 ~ 45 。 N , 南半球 では 25 。 ~ 35 。 N ) から赤道低圧帯に向 かって定常的に吹く東寄リの風。北 半球では北東風 , 南半球では南東風 で , 季節により多少変動し冬は赤道 へ近づき夏は赤道から遠ざかる。い つも同し方向の風が吹いているので ,

5. 国民百科事典6

リ造し , モリエールは強烈な個性を ・苗くと同時に当時の社会風俗を喜劇 勺に表現した。国立劇場コメディ・ ランセーズの設立も 1680 年のこと 、、ある。 18 世紀は擬古典主義的な作 Ⅲが多いか、 , マリポーの繊細な心、理 リ , ポーマルシェの痛快な風刺劇は くに注目される。このころに紹介 れたシェークスピアやデイドロー 「市民劇」の提唱が契機となって 代のロマン派演劇へと移行する。 9 世糸己は 1830 年のユゴーのくエノレナ > をめぐる大論争を契機にロマン 脈の芝居が主流となり , 古典主義の 工的手法を排して人間を自然のま に示そうとした。ュゴーの正劇 ( ド ミュッセのある戯曲 , 大デュ ー > などが代表作で のくアント る。これ以後 , 市民社会の確立に れて演劇は商業的娯楽的となり , 俗喜劇を主体とするプールノヾール 劇が主流を形成し , 現在まで大勢に 、化はない。 19 世紀末の自然主義の 彡響はべックの作品や / 自由劇場の 5 1 7 / 映画 記されねばならない。 〔音楽〕中世の単旋律のキリスト教 典礼聖歌にはしまりノートルダム楽 派のゴシック的な多声楽でフランス 音楽は一つの頂点に達する ( 12 ~ 13 世紀 ) 。一方吟遊詩人のトルバドール ( 南フランス ) やトルべール ( 北フラ ンス ) , 旅芸人ジョングルールなどの 活動があって , 世俗音楽も成熟する。 14 世紀のビトリやマショーらによる アルス・ノバは聖俗音楽の交流と発 展の結実ともいえよう。やがていわ ゆる「ネーデルラント楽派」の時代 になり , プルゴーニュ楽派やフラン ドル楽派が多声音楽の黄金時代を築 ドファイ , オケゲム , ジョスカ ン・デ・プレ , オルランド・ディ ラッソらがその代表である。 16 世紀 にはジャヌカンの多声的シャンソン のように いわば国民的な音楽も広 まった。しかし真にフランス的な音 楽の典型は 17 ~ 18 世紀のベルサイユ 楽派にみられる。新時代のホモフォ ーの筆頭ともいうべきリュリを代 表とするオペラの成功は , ルイ王家 の強力な保護と , 演劇やノヾレーなど フランス舞台芸術の伝統が背景とな っている。同時にクラブサン ( ハープ シコード ) を中心とする器楽も , ラモ クープランらによってみごとに 開花した。一方百科全書派の思想家 たちは人間的な生命感のある音楽を 主張し , ロマン主義への思想的先駆 をなした。また , イタリアからオペ ラ・ブッフアが紹介されグレトリー やグルックのオペラ改革が行なわれ た。以後 19 世紀へかけてグランド・ オペラとオペラ・コミックは二つの 潮流をなし , 後者からはオペレッタ が分かれる。しかしのちにグノー マスネーらの登場はあったが , グラ ンド・オペラのおもな作曲家の多く は外国出身であり音楽史の主導権は すでにフランスを去っていた。なお オペラ・コミックでの収穫にビゼー のくカルメン > がある。 19 世紀前半 の器楽も外国人の活動が主で , わす かにベルリオーズが個性的な標題音 楽を作曲したにとどまる。世紀後半 にはサン・サーンス , フランク , ダ ンディ , デュ / ヾノレク , フォーレらカ { 新しい道を開き , さらにドビュッシ ーの印象主義 , これに続くやや新古 典主義的なラベルが出てフランス音 楽はふたたび注目された。第一次大 戦後ロシア・ノヾレー団の活躍は , 全 世界の楽壇の注目をバリに集め , オ ミョ , プーランクら「六人 ネプ、ノレ , 組」の世代は前衛的ないし新古典的 な創作を行なった。 1930 年代末に活 動を始めた「若きフランス」のグル ープでは原始主義的なジョリべ , カ トリック神秘主義から前衛的なミュ ージック・セリエノレに進んだメシア ンが注目に値する。なお十二音音楽 の方向を徹底させたミュージック・ セリエルや新しい音響世界を探究す るミュージック・コンクレートなど がある一方 , 伝統的なアカデミズム もまだ根強いのが現状である。音楽 と並んでフランス・ノヾレーも独自な 発展をしてきた。 1581 年に行なわれ たく王記のノヾレー・コミック > 以来 , 17 世紀の優雅な宮廷バレー 19 世紀 のロマンチック・バレーをへて , 今 世紀初めにはロシア・バレーの影響 のもとに急速に復活し現在に及んで フランス いる。 〔大久保・関根〕 フランスの美術 創立としてあらわれた いるとコボーか、「ビュ ェ座」の運動を起こし , 2 け世紀には コロンヒ、 自然主義を 脱して , 戯曲と演技を中心に真に劇 この 的なものを表現しようとした。 傾向はジュべ , デュランといった演 出家をへて , 現在のバロー ビラー ルたちに受け継がれている。劇作家 ではクローデル , ジロドー , アヌイ , アシャールらが活躍し , サルトル , カミュらの數曲 , 最近ではべケット , ヨネスコらの「反演劇」の芝居も生 まれ , 戦後の著しい現象である民衆 化の運動と並んで , フランスの劇界 に多彩な舞台をくりひろげている。 〔映画〕本格的な劇映画の製作は G. メリエスのく月世界探検〉 ( 1902 ) か、 最初で , まもなく芸術映画社が設立 されるが当分は単に演劇の模写にす ぎなかった。やがて L. デリュックか、 独自の映画理論をたて , A. ガンスな どの前衛映画作家を指導して無声時 代のフランス映画は最盛期を迎える。 トーキーの発明以後 , 一時沈滞に陥 るか、 , クレールのくノヾリの屋根の下 > ( 1930 ) の発表後 , フェデ , ルノアー ル , デュビビエらか、あいついで秀作 をだし , 第 2 の黄金時代を現出する。 第二次大戦はフランス映画の優位に 致命傷を与え , 戦後も経済不安から 容易にたち上がれなかったカ { , 1950 年ころからしだいに回復し , カルネ , J. ドラノア , C. オータン・ララなど がカ作を発表した。戦後の新しい作 家には R. プレッソン , R. クレマン , A. カイヤットらがある。最近ではい わゆる「ヌーベルノヾーグ」の若い作 家が新しい表現を探究している。フ ランス映画はすべて小資本のプロダ クションによって製作され , 演出者 がそのまま製作者であるために , き わめて個性的な作品が多いことは特 フランスには旧石器時代の洞窟絵 画をはしめ , ローマ領ガリア時代の 彫刻 , 建造物なども残されているが , フランス固有の美術の形成はカロリ ング朝時代 , 西フランク王国が成立 した 9 世紀半ばからである。以来 1 ( ) ( ) ( ) 年をこえるフランス美術の歴史は , 他の西欧諸国の美術がかなり激しい 興隆と衰退のカープを示すのに対し , ほとんど停滞することなく造形の営 みを続け , とに中世ゴシックおよ び 18 世紀以後においては西欧美術の 展開に主導的な役割を果たしている。 このフランス美術の優位には種々の 理由が考えられるが , 美術そのもの に員卩していえば , フランス美術にお ける「造形」の尊重をあげねばなら ない。そして , この造形の重視なら びに造形において明晰な秩序を愛 する古典主義的傾向が , フランス美 術の著しい特色をなしている。それ は絵画における色彩とフォルムの重 視 , 建築における合理・生の尊重 , 工 芸における技術の洗練ともなって現 われる。たとえば同しゴシック様式 の聖堂でも , 英国ではポールト構成 が大胆に過ぎて装飾化に走り , ドイ ツのそれが細部構造をち密にして動 的な量感を表わしているのに対し , フランス聖堂は均斉のとれた合理的 な形態を示し , なによりも建築の機 能 1 生を追求している。またノヾロック 様式も , フランスに輸入されると古 典的に抑制された建築 , 絵画に変容 してしまう。現代絵画の出発点の一 つであるフランスのフォービスムと ドイツの表現主義は , ほば同し時期 の , 同しような精神的状況 , 同しよ うな意図をもった運動であった。し かも , 両者の生命とした「表現」の 意味内容はひしようにかけ離れ , 後 者のそれが不安 , 動揺などの心的状 態の激情的表出であったのに対し , 前者のそれは物体の比例や配置や装 飾的体系に存在するものであり , 色 彩やフォルムの外的価値にそのまま 求められたのである。 〔中世美術〕フランス美術は , 直接 的には / カロリング朝の美術の後継 者として生まれ , キリスト教美術と して出発した。そして , フランク族 の貴金属工芸品に対する蛮族趣味 , ローマ化されたケルト人の伝統 , さ

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3 4 0 ると溶解する。ゼリーはもっとも から安全と考えてよい。 / 基礎体温 女性の少なくとも最低 1 年間の月経 みやかに溶解する。すなわち , 殺 〔器具を用いない避妊法〕 1 ) 定期的 周期変動記録が心要である。このよ 子剤はその形態によって , 効果発 禁欲法受精可能期間の禁欲法で , うな記録をもたない女性や , 月経の 時間および終了時間に多少の差異 宗教的規制を受けている人々の間で 最長周期日数と最短周期日数との差 あるので , その有効時間内に射精 よく行なわれるが , 強固な精神的制 が 10 日以上になる女性や , 出産後 , 一致しなければ , 効果は減退また 御力を必要とするので , ときに性的 次の月経を認めるまでの間の女性な 消滅する。 3 者のうち有効率はゼ どは , 受精可能期間の算出が不可能 神経症を起こすことがある。 2 ) 性交 ーが最高であるが , 用具避妊法と 中絶法受精可能期間の性交にさい なため , いつでもつねになんらかの 用するはうが , より確実である。 して , 射精以前に男性器を抜き出し , 避妊法を講する必要が起こる。とく 精子剤を利用した避妊が失敗して 精子の腟を内進入を防ぐ方法である。 に産後の月経周期は , 産前の月経周 娠したさいに , 奇形の出現率が高 男性はそのさい , 多くは腟外射精で 期と異なった型をとりやすいから , なるという報告はまだない。 産後月経をみてから 1 年間の月経記 その性的緩解を求められるが , 女性 〔器具による避妊法〕 1 ) コンドー はそれが得られすに放置される結果 録は , ゆるがせにしてはならない。 〔受精可能期間の算出法〕荻野学説 法コンドームはきわめて純良な となりやすいので , 性的神経症や子 いゴム膜で作られたサックで規格 宮内膜炎 , 子宮充血症などを招くこ によれば , 予定月経前 12 ~ 16 日の 5 は全長約 19 ( ) mm ( 小袋の長さ約 20m 日間が排卵の予想される期間であり , とがある。また , 男性器はしばしば 射精寸前まで腟内に保留されやすい 直径約 35mm , 厚さ (). 35mm で , 重さ 下の図のように , その前に精子生存 ので , 実際には一部精子を先行させ 厚生省の規定で 1 個 1 g 以上とな 期間の 3 日を加え , あとに卵子生存 て避妊に失敗することが多い。 ている。一流メーカー品は , 製品 期間の 1 日を加え , 合計 9 日間を受 電気試験をへているので , 従来教 〔薬剤による避妊法〕 1 ) 洗浄法水 精可能期間つまり要避妊期間とする。 や温水を使用して , 月室内の精子を体 られている各種のしろうと検査法 卵子の生存時間は , 12 時間以内の場 ほとんど必要としないといってよ 合が多いからといって , 卵子の生存 外に洗い出す方法として始まったが , コンドームは避妊用具の利用度の 効果をよくするために 10 % ホウ酸水 期間 1 日を無視して加えていない計 位を占めており , 男性が使用する や食酢を数滴滴下した水が利用され 算法が , 一般的にひろく普及されて ーの避妊用具であるが , 避妊法の るはか , タンパク質毒として作用す いるが , 荻野久作も指摘しているよ でもっとも有効かっ簡単な方法で るクレゾール水などの薄い消毒液が うに , それは不用心、なことである。 る。コンドームは , 小袋をひねっ しかも , 上記 9 日間を受精可能期間 利用される。洗浄器としては , イル 空気を押し出したうえで , 男性器ー リガートルまたは大形スポイトが用 として , これを月経周期にあわせて かぶせるのがよい。またコンド いられる。性交後 5 分以内に洗浄し 図示してみると , 下の図に示した不 は性病の予防具としても用いられ なければならないが , 射精と同時に 妊期間早見表のように要約されるこ 2 ) ペッサリー法ピアノ線で作っ 子宮内に進入する精子もあるので , とがわかる。すなわち , 月経周期 33 丸い輪の表面に薄いゴム膜をわん 効果が不確実なばかりか , 情緒を乱 日型なら前半の安全期間は 14 日めま にかぶせたものをベッサリーーとい しやすいので , 結婚の新鮮期には不 で , 後半の安全期間は 24 日め以後と 適である。また , 現在の日本の家屋 直径に腟の広さに応して 65 ~ 8 ( ) mm レ なり , 28 日型なら前半は 9 日めまで , 間に 6 段階の大きさがある。現在こ 構造と習慣からみても , 一般的では 後半は 19 日め以後となる。つまり , ンドームに次いで , もっともひろ ないが , コンドームの破裂その他 , 安全期間の前半最終日および後半開 利用される避妊用具となっている。 不測の事故にさいしての , 救急手段 始日の 1 位の数は同しで , 月経周期 挿入は数回練習すれはすぐできる」 となることは知っていてよい。 2 ) 殺 の 1 位の数に 1 を加えた数となる。 うになる。サイズは産婦人科医まオ 精子剤挿入法性交前に , 錠剤 , 座 これはだれにも理屈ぬきにきわめて は助産婦に決めてもらうのがよい。 薬 , ゼリーなどの殺精子剤を腟内深 簡単におは、えられる簡便計算法であ ペッサリーは , 腟腔を上下にしゃ陸 く挿入しておき , 射精された精子を る。ただしこの計算法では , 下の図 することになるが , 子宮ロはべッ + 確実に死滅させるか , その受精能力 を見てもわかるように , 前半の安全 リーの上部に隔てられることにな ~ を消滅させる方法である。現在もっ 期間は最短周期から , 後半の安全期 また性交前に挿入するが , ゴム膜ク とも有効で副作用の少ない薬品とし 間は最長周期から , 求めなければな 内外両面にゼリーを塰るのがよく , ては , 酢酸フェニル水銀および硫酸 らない。したがって , 1 年間の周期 抜き去るのは翌朝がよい。正しくれ オキシキノリンがあげられる。錠剤 日数差が大きければ , 必然的に長い 入されている場合は , 男女いすれク および座薬は , 挿入しやすいが , 十 要避妊期間が必要となる不利がある。 側にも異物感を与えない。未産婦い 分深くまで挿入できない欠点があり , しかし , 前半の算出法は , 現段階で は挿入しにくい。 3 ) タンポン法 ゼリーは注入器を用いる煩雑さはあ は最短周期から割り出す方法以外に 宮口をふさぐとともに , 精液を吸 るが , 十分深くまで挿入することが はないので , やむをえない。 けれど して精子の子宮内進入を阻止するオ できる。錠剤には , 腟内で炭酸がス も後半の安全期間開始日は , 周期日 め , ゴムや海綿を種々の形に作っオ を発ばうし , 薬剤を腟内に浸透させ , 数差が 3 日以上になる女性では , 基 スポンジを腟内に挿入する方法て、メ 子宮口を閉そくする役にもたつよう 礎体温測定法を併用すれば , むだが る。この場合もゼリーや粉末の殺 に , 重ソウと酒石酸が配合されてい 少なくなる。すなわち所定の条件で 子剤を , タンポンに含ませて挿入を この発は。う作用を不快とする 測定した体温が低温相から高温相に るが , 月経周期により異な転換してから , 3 日たては、 , その日 女性がある。座薬は腟内で暖められ るのがよい。スポンジの大きさに る不妊期間の早見表 っては , 男女双方とも異物感を感 [ 月経周期 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 Ⅱ 12 13 14 15 16 Ⅳ 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 性感が減退しやすいので , 現在でい 33 日型 あまりひろく利用されていない。 4 32 日型 腟部帽法ペッサリーを小さくし一 3 1 日型 子宮ロのある子宮腟部全体をかぶ升 30 日型 るようにしたようなものである。 29 日型 精可能期間にはいると同時に , 医 28 日型 27 日型 または助産婦に挿入してもらわなー 26 日型 れは、ならないために現在ははとん 2 利用されていない。 5 ) 避妊ピン法 ■■■■笏 : 物第物第簔ミ■■■■■■・第 ■・ - 笏′新 : 第景、■■■・■・■■ 今回月経期間 卵子期尚ー 受稍可能期間 不妊期間 ( 絶対的 ) 不妊期間 ( 比較的 )

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フクソウ かによちて疾患の診断に参考となる ことが多い。浸出液は結核性腹膜炎 などの腹膜の炎症にさいしてたまり , 漏出液は腹膜のがんや門脈うっ血な どのときに腹膜の血管から血液中の 水分などが漏出してたまる。腹水の 存在が確実に認められるのは , その 量が 1 / 以上であることを要し , と きには 1 日 1 / 以上ふえ , 5 ~ 川 / も貯留することがある。このをきに は腹部は膨大して , いわゆる蛙腹 状を呈する。しかし中等度の腹部膨 大では腹水ではなく腸内にがスが充 満した場合もあり , これを / 鼓腸と いって区別する。腹水をきたすおも な疾患には肝硬変症 , がん性腹膜炎 , 結核性腹膜炎 , ネフローゼ症候群 , うっ血 1 生心、不全などがある。治療は 原因疾患の治療のはかには , 対症的 に腹部にメンタ湿布を行ない , 腹水 高度となれば穿芫刺によって排液を 行なうが , あまり大量の液を一時に 取るのは危険である。 〔高谷〕 ふくそう服装身なり , 装いな どともいう。 / かぶりもの , / 衣服 , / はきもの , / 装身具などの服飾品 を組み合わせて身につけることによ って形成される。衣服は身体の基本 につけているものをさし , これだけ でも服装となりうるが , 服装という 場合には美的形式が加わってくる 〔服装の起原〕人間がなぜ衣服をつ けるようになったか , という起原の 追及は古くから行なわれていて , 環 境適応説 , 装飾説 , 羞恥説 , 異性 吸引説などの説があるが , はっきり した結論はない。しかしこれらの説 も , 服装によって体温を調節し , ま た外傷などを防備するという生理的 必要のためのものと , 社会生活を営 むための心理的要求とに大別される。 もっとも初期の衣服として , 気候に 対応することに追われている寒地の 人々の衣服は , 実用に徹して毛皮を まとうことであったろうが , 熱帯で 暮らしている人々の装いには , 実に いろいろな理由がひそんでいる。魔 物をよけるための呪符的な意味の もの , 性的誘惑を促すためのもの , 身分階級を示す意味のものなどであ るが , それらの方法としては , もっ とも単純なものは色の上で顔や身体 を彩色するもの ( / 化粧に当たる ) , 入れ墨 , 皮膚や , 歯 , 鼻 , 耳などを 変工するいっそう極端なもの , 次い で髪やひげの造形 , それから頭飾り , 首飾り , 耳飾り , 腕輪 , 足輪 , 腰飾 りなどに発展した。それらの材料も , 木の葉 , 樹皮 , 木の実 , 羽 , 毛 , 石 , 員殼などが用いられる。そして , 織 物を作る文化段階になると , 単純な 腰衣や , 肩衣を装うことでいっそう 服装らしくなる。旧石器時代から , 防寒衣として獣皮が用いられたと推 測され , 皮を縫い合わせるのに使用 した骨製の針が遺物として発見され 4 2 8 ている。織物がくふうされてできた のは新石器時代になってからだとさ れているが , 織物のもっとも古い遺 物はスイスの底で発見された麻織 物で , その年代は 1 万数モ年前のも のと推定されている。衣服の形とし ては , はしめはマント式のもので , 漸次にそれが , 腰衣 , 袈裟 g 衣 , 貰頭 衣などに発展した。どこの国の先史 時代にも , この形式をみることがで きるが , そのままが形式化して今日 もみられるものに , 腰衣の系統の東 南アジアのサロン , 袈裟衣の系統の インドのサリーがある。貫頭衣は布 のまん中に穴をあけて , そこから頭 を出し , 布を前とうしろとにたれた もので , その原形を今日も南米のポ ンチョにみることができるか、 , 一般 に行なわれている衣服もこの形から 発展したものである。前後にたれた 布をひもでしめるか , 縫い合わせる かして , それにそでをつけると , も っとも単純な衣服の形態となる。 〔服装の種類〕現在の服装の分野は 広範でいろいろな観点から分類され る。 1 ) 服装の形の上からは , 開放式 と密閉式とがある。開放式のものは 一般に暖地で用いられ , ワンピース ( 1 部制 ) である。密閉式のものは , 寒地で用いられ , 上体衣と下体衣と に分離したツーピース ( 2 部制 ) であ るのが一般である。密閉式のワンピ ースでは着装に不便であるのと , 寒 地では厚い布で作るので , 服の重さ か、肩にのみかかっては疲労力 { 大きい から , 肩と腰とに重さを 2 分するの である。 2 ) 着方の点からは , はだ着 , / 下着 , 上着 , 外とうなどの別があ る。これらは生理衛生の見地から , 形状 , 材料などが考えられるべきで ある。また , / 寝巻やヘや着は , 寝室 や私室で着るもので , できるだけ身 体を束縛しない , 休養にかなうもの であるべきである。 3 ) 日常用の服に は , 家庭着 ( ホームドレス ) , 外出着 ( タウンウェア ) , 訪問着 ( アフタヌー ンドレスなど ) , 宴会服 ( イプニング ドレスなど ) などの別がある。これ らは社会習慣を土台として考えられ , それぞれの場合に応して着分けられ る。実用的な要素は家庭着に濃く , 順次に美的要素が加わっていく。 のように服装を場合に応して変える 習慣は , 近代社会になってからのこ とで、以前にはふだん着と晴れ着と の区別しかなかった。しかし , これ らの着つけには厳格なきまりはある わけではなくて , 着る人のエチケッ トの観念に左右されるのである。 れら休養的 , 美的な服に対して活動 的な服装として / スポーツ服や / 作 業服があり , それぞれ活動に便利な 形態が考案されている。 4 ) 季節によ る服装の種類は , 夏服 , 合服、 , 冬 服である。夏服は薄地で開放的な型 のものがよく , 冬服は厚地で防寒的 な型のものがよいのであるが , 日 のきものの場合は型の区別はなく 単や袷晉わや綿入れなどを着分ける 風習であった。また色彩の季節感も 考えられ , この点から合服にも , 物と秋物との差別がおのすから生 る。また特別なものに雨の日に用し る / 雨具がある。 5 ) 日常生活から一 なれた儀礼習俗の面からみると , 仁 統的形式に固執する宗教服がある。 日本の神官の服装は平安以来の伝 で , 仏僧の服はインドから伝来した なごりを示し , また , カトリックの 修道尼は西洋中世の伝統を含んだ装 いをしている。また , 数代前の形ょ を温存するのが一般の儀ネし服の性格 である。フロックコートやモー グコートなどは 187 ( ) 年ころまでの日 常服だったものであり , 日本の羽織 袴の装いは江戸末期の日常服であ った。なお数代前の儀礼服が温存さ れているのは , 花嫁衣装や七五三の 祝着などである ( / 礼服 ) 。 6 ) 儀ネし服 とも交渉があるが , まったく別の分 野のものとして舞台衣装 ( ステージ コスチューム ) がある。写実的な劇の 場合にはとりあげる必要はないが ファンタスチックな能 , 舞踊 , ショ ーなどの衣装は , まったく日常服と 性質を異にし , 芸術的なふんい気の ものになるよう努められる。 7 ) 性別 という点からみると , 男・性のものと 女性のものとは , 体型のちがい , 仕 事のちがいからの必然もあるが , 性 的刺激を求める心理的要求からのち がいか、でてくる。古代社会やアジア 民族の間では比較的服装の性別が著 しくなかったが , 西洋で性別が服装 の形態の上にはっきり示されるにい たったのはビザンチン以後のことで それ以来 , 西洋では , 婦人はスカー ト式 , 男子はズボン式の制となって 今日まで続いている。しかし , 西洋 で 18 世紀までは , 両性とも服の色彩 ははなやかなものをよろこんだので あったが , 19 世紀以後 , 男子はしみ な色調のもの , 女子ははなやかなも のというコントラストのあるものと なった。また , 18 世紀までは , / 子 ども服もおとなの服と同型だったが 教育論の興隆によって , 子どもには 子どもにふさわしい活動的な型が求 められるようになった , 、さらに、幼 児服もその生理にかなうもののよう にくふうされだした。 8 ) 一般服に対 して職業服や制服がある。軍服 , 警 察官服をはしめ職業によっては , と くに限定された服装をする場合が多 い。 / 制服は属する団体や身分を表 象し , 個人の自由によって変化しえ ないのが特徴となっているが , 最近 は各企業体で職場に働く人々の機能 性 , 審美性 , 象徴性を発揮する制服 が着眼されるようになった。 9 ) 服装 を地理的にみた場合に民族服がある ある地方だけにしかない独特の服装

8. 国民百科事典6

フラジャー 4 9 9 成立しているものをいう。したがっ やかにたわめられた姿態 , 柔らかな て部落問題は現代の重要な社会問題 肉付けなどは , 彼の作風をもっとも よく示している。ビーナス像の最初 である。本来からいえは , 部落はそ うした身分制度から発しているので , の裸体表現を試みた彫刻家としても その存立の条件が封建社会の基本的 名高い。くクニドスのビーナス > ( 現 関係と重なってある以上 , 江戸幕府 存のものはコヒ。ー ) は占代において の崩壊とともに解決されて消滅する もっとも有名な作品であった。その はすのものであった。ところが , 欧 他くトカゲを殺すアポロン > ( 現存 米資本主義の圧迫のもとで早急に のものはコヒ。ー ) などがしられる。 近代化をはかリ , なによりも富国強 〔中山〕 兵策に全力を費やした明治政府は , プラ : グ、マチス、ム pragmatism 1871 年に , ただ名目的な解放令をだ 19 世紀後半以後の米国を中心とする 哲学思想運動の総称。実用主義とも しただけで , これの根本的な解決を 訳される。南北戦争後の急速な資本 はからなかった。そこで雑種踐芫民 を入れて約 4 ( ) 万と推定される部落民 主義的発展は科学的 , 実証的 , 実利的 は , いままでの差別された状態に放 生活信条を生みだし , 伝来のピュリ 置され , 農村にいて農地をもたす , タニズム的宗教的生活信条と相克す とくすぐりに満ちる。代表作にくぶ 都市にいて決まった職業をもたない るにいたり . 両者の調停は 187 ( ) 年代 らんこ > く浴 > などがあり , / ロコ 以降米国の思想的課題となり , これ 状態であった。しかも後進国として 部落問題 ( 補 ) 1965 年 コ美術最後の画家といえる。〔中山〕 の日本資本主義は , その低賃金のさ , こたえたのか、プラグマチズムであ ・ 8 月 , 同和対策審議会 い 965 年総理府に設置 ) プ、ラゴ′ヾシチェンスク Blagove- る。 7 ( ) 年代にジェームズや C h. ライ さえをそうした部落の存在に見いだ が総理大臣に答申した トらの「形而上学クラブ」の C. S. し , また寄生地主制もその高率小作 shchensk ソ j , シベリア東部の ところでは , 部落の現 都市。人口 1 ( ) 500() ( 1963 ) 。シベリア ノヾース ( 1839 ~ 1914 ) カ { 発表した「プ 料の確保に部落の存在を是認した。 状は , 全国の同和地区 鉄道に沿い , ゼヤ川とアムール川と ラグマチズム守則」はその最初の定 つまり部落民を除外することで就労 数 4160 , 世帯数 407279 , の合流点にある河港で中国の愛琿に 式化だった。彼はカント研究から出 者や小作人の自己満足を導き , さら 1113043 人 ( 全人口 100 ( ) 対する。造船 , マッチ , 食品加工な 発 , すぐれた論理研究を行ない , に部落民がルンペン化するなかで , 人に 11 . 8 人 ) で , 世帯 数と人数では近畿 , 関 学的思考は経験的結果により検証さ どの工場がある。 〔加藤〕 彼らをしばしば労働争議破りに利用 東 , 中国 , 九州 , 中部 , プラサ、ビ′レ Brazzaville コン れ人間目的に役だっことで意味をう した例は多い。そうした差別は , 精 四国の順に多い。就業 ゴ共和国 ( 旧フランス領 ) の首都。コ るという考え方を確立し , これをカ 神的には農民や都市民の間に残存し 状況は , 有業者の半分 ンゴ川の右岸にあリ , スタンリープ ントの用語法に基づいてプラグマチ ていた古い差別観念にはぐくまれて 以上が日雇労働者であ ~ ルをはさんで対岸のコンゴ ( 旧べ ズムと称した。この語はギリシア語 「えた」とか「四つ」とかい いた る地区は全地区の 15. 3 ルキ、一一 - 領 ) のレオポルドビルととも のプラグマ ( 行為 ) に語源をもち , カ うような差別的言辞が使われて , それ % , 常用労働者が有業 に , 中部アフリカの政治 , 経済 , 交通 者の 3 ( ) % に満たない地 が部落民を刺激し , 差別に対する激 ントでは人間目的の手段としての実 区か・ 70. 9 % にも及んで の焦点を構成している。人口 135632 しい糾弾闘争が起こった。糾弾闘争 践を意味したが , プラグマチズムは いる。したがって自営 こから下流のコンゴ川は ( 1962 ) 。 観念や信念を行動における有効さで は , 1922 年全国水平社結成以来とく 業者が多いが , きわめ 航行できないため , 大西洋岸のボア 評価する経験主義的 , 功利主義的傾 に激しくなり , ときには水平社と国 て零細な農業や過小経 ントノアール港と鉄道で結ばれ , 上 向を一貫してもつ。ジェームズはさ 粋会の乱闘事件のような激烈な場面 営の生業である。被保 流の航路との連結点をなしている。 らにプラグマチズムを科学的探究方 をもみせたことがある。政府はこう 護世帯は 29063 で同和 188 ( ) 年探検家ド・プラサによって建 地区世帯の 7. 1 % に当 法の問題からより広い個人の生活信 した水平連動の高まりのなかで , 部 たる。 66 年 6 月 , 同和対 設されたためにこの名称をもつ。第 念形成の問題にまで拡大して普及し 落問題の重要性に少しすつ目ざめて 策審議会は廃され , 委 二次大戦中は自由フランスの拠点と た。彼はどんな観念でも現実の生活 きたが , しかしその解放のために組 員 20 人以下からなる同 1944 年に戦後のフランス植民 に有意味であるかぎり真とする限定 なり , んだ予算は , 問題にならない少額で 和対策協議会が総理府 政策を決定するプラザビル会議が行 的真理観にたち , 各人の異なった生 あった。少数の部落が選ばれて , そ におかれた。同協議会 〔西野〕 なわれた。 き方をデモクラチックに容認する多 れにわすかな融和事業費が投下され は必要な施策で関係行 政機関相旺の緊密な連 プラジャー b r a s s r e 婦ノ、用 元的改善論的哲学をたて , 現実にい ただけである。第二次大戦後 , 農地 絡を要する基本的事項 下着の一種で , プラとも略称する。 どむ個人の無限の能力の確信を表明 解放が行なわれて寄生地主的上地所 について調査審議し , ふつう乳部をおおう程度の大きさで , して発展期の米国大衆に深い影響を 有が解体し , 資本の高度な成長があ 総理大臣や関係各大臣 肩からつるし , 背部についたゴムの 与えた。 1920 年代以降高度に技術化 って , 部落に対する社会的な諸関 に意見も具申する。 された独占資本主義社会にはいると , 部分ととめ具 , つりひものノヾックル 係は変わってきた。差別的な言辞や などで調節する。胸の形を整えるた デューイのプラグマチズムが展開さ 待遇は , 今日といえどもまだ問題を めに用いるので , 直接はだにつけ , れ , 思考は環境に対する適応過程で ひき起こしているが , 戦前と戦後を プラジャーの下側はかならすびった あり , そのための道具であるとする 比べると急速に解決の方向をたどり りとしてすり落ちないようにするこ 道具主義的観点が強調される。さら つつある。しかしながら , 今日にお とがたいせつである。形は着用する けるもっとも大きな問題は , 貧困が ド ( 1863 ~ 1931 ) は社会 に G. H. 服のスタイルに合ったものがよぐ , と個人の問題として追求されたが , 差別にからみついて , 部落と / スラ たとえば胸を誇張するスタイルの場 3 ( ) 年代以降ナチスの迫害をのがれた ムとを一体化しながら経過している ことである。 / 水平社運動 ウィーン学団の移住による論理実証 主義の刺激をうけ , モリスの行動論 〔奈良本〕 的記号論をはしめカルナップ , ホワ フラゴナー′レ Jean Honoré Fra- イト , クワインらネオ・プラグマチ gonard 1732 ~ 1806 フランスの画 家。プーシェに学び , 1756 年から 5 〔荒川〕 ズムの発展か・みられる。 ぶらくもんたい部落問題 年間ローマに留学 , 帰国後 , 歴史画 にいう部落とは , 日本封建社会の最 でサロンにデビューーしたが , その後 下層部分として一つの場所に定着さ は浴女 , 愛などをテーマとする官能 せられた / 穢多気 / 非人などの身分 的な作品を軽妙に描く。明るい色調 的遺制が現代に及はす影響のなかで を主とし , その画面は , つわに機知 を 第 フラゴサ・一一ノレ くぶらんこ > 1766 頃 プラジャー 3 種。左は つりひものある一般的 な形。中はつりひもな しでえりの大きく開い たドレスに適する , ス トラップレス形。右は パックレスで背中力 { 開 いたドレスに適する

9. 国民百科事典6

7 1 2 液の流れ方が交互であることも変わ の形勢を観望し , けっきよく順慶は っている。かなりたくさん種類があ 恩を受けた光秀方にはっかす秀吉方 に加担したといわれる。 って , 単独で生活する単体性のもの 〔藤岡〕 にマポャ , アカボヤなどがあり , 東 ほらだんしやくのばうけんほら 北地方 , 北海道に分布していて , 食 男爵の冒険 Wunderbare Reise zu 用にされるが , とくにマポヤは美味 Wasser und zu Lande, Feldzüge である。群体を作っているものでは und lustige Abenteuer des Frey- でに前 3 ~ 前 2 世紀ごろからアレク herrn von Münchhausen ドイツ キクイタポヤ , アカイタポヤなどが サンドリアの文献学者の間でとリあ ふつうである。 げられ , 以来今日までギリシア文献 に伝承する名高いほら話。原題はくミ ほ、らボラ科の魚で , 成長段階に 学の問題とされてきた。 いわゆるホ ュンヒハウゼン男爵の水陸の不思議 よりいろいろの名がある。東京では メロス問題である。この問題の歴史 な旅と愉快な冒険 > といい , 語り手 全長約 10 cm までをオボコ , イナッコ , を明らかにすることはこの大叙事詩 のミュンヒハウゼン ( 172 ( ) ~ 97 ) は実 の性格を明らかにすることに通する スノヾシリとし、し、 , 10 ~ 25 cm をイナ , 在の人で , ウェーサー河畔のポーデ 30 ~ 50 cm をボラ , 50 cm 以上をトドと が , ホメロス問題のおもな論拠をあ ンウェルダー村に住み , 軍功や旅行 いう。愛知では 3 5 cm をとくにハ げると , 1 ) くイリアス〉とくオデュ 炎をおおげさに語ったのが , 民衆本 クという。高知では 6 cm 以上をイキ ッセイア > の間に文体上の大きな相 で流布し , 英国に亡命したドイツの ナゴ , 9 ~ 12 cm をコボラ , 約 15 cm を 違があること , 2 ) 叙事詩の話の筋に 学者 R . E . ラスペ ( 1737 ~ 94 ) カ { 1785 死んだ人が生きたり同事件が別の人 年英訳したところ , この途方もない イナ , 大形のものをボラまたはオオ に起こるなど多くの前後矛盾がある 話が評判になった。 ボラという。第一背びれ 4 棘 , 第 ドイツの詩人 G . こと , 3 ) 新古の方言が混在している 二背びれ 1 棘 8 軟条 , しりびれ 3 棘 A. ビュルガー ( 1747 ~ 94 ) は , 英訳の ことなどである。元来ギリシアの叙 8 軟条。目には脂瞼トんがよく発達し 粗末な文章をととのえ , さらに民衆 事詩は吟唱詩で , ホメリダイ ( ホメロ ている。全長 80 cm に達する。世界中 本から増補して , 86 年ほら冒険談を スの子孫の意 ) といわれる吟唱家に の暖海にすみ , 幼時は川へもさかの 定本化した。以後インマーマン , シ は、る。日本だけでなく多くの地方で よって聴衆の前で歌われたものであ ェールノヾルトらが , 男爵に借りて物 釣リや養殖の対象になる。胃璧は厚 った。したか、って口承の間にいくた 語を作り , ケストナーも彼らしい再 い筋肉からなり , 俗に「ボラのへそ」 の改編が加えられ , 前 550 年ごろア 話をして , その強健ないぶきを伝えた といわれ食用となる。またボラの卵 テネの独裁者ペイシストラトスのと 〔瀬田〕 巣からっくった塩乾品が / からすみ きにほは、現在の形を得 , その後も長 ホラチウス Quintus Horatius である。 〔安田〕 年月の間に改訂をへて今日の形にな 月リ 65 ~ 前 8 ローマの詩 Flaccus poral 強撚糸記 { て平 ったとするのがドイツのキ、リシア学 ポーラー 人。アプリアのウエヌシアに生まれ 者 F. A. ウォルフのホメロス作を否定 織りに織った服地の名称。主として た。父は解放収隸であったが , 彼は する論拠 ( くホメロス序説 > 1795 ) であ 梳毛まう糸の撚糸に強いよりをかけて , ローマに送られて教育された。その あらく平織りに織った服地である。 る。一方 , ホメロス作を肯定する意 後さらにアテネに学び , 前 44 年の内 見もウォルフ以来多く現われ , 少な 織目があらく , さらさらとした触感 乱のときはプルーッスの軍に加わっ を与え , 通気性に富み , 軽い生地で くとも現在の形の編集者として 1 人 たりしたが , 父の死後財産を失い , 貧 あるので夏の背広服地や婦人スーツ のホメロスを認めるとする説も有力 困のゆえに筆をとるようになった。 地などとして用いられている。絹糸 〔井上〕 このころウェルギリウスとも知り合 になった で同様に織ったものを , シルクポーラ ほや / 原索動物の尾索類に属す い , その紹介でマエケナスの保護を ーといい同じように夏服地とされる。 る動物の総称。この類の幼生はオタ 受け , 以後本格的に詩作に専念 , ウェ ルギリウスの死後は事実上の桂冠 マジャクシ状で , 尾部に脊索があり , 〔小川〕 詩人となった。く風刺詩〉く叙情詩 > 遊泳生活を営むか , やがて岩などに 〔法螺貝〕南九州以南 ほらかい 付着し , 変態して固着生活にはいる。 をはしめとして最後のく詩法 > にい の暖海にすむ大形の巻員。長さ 40cm, たる作品を通して , 彼は完全な形式 成体の体形は種々であるが , かなら 直径 20 cm になる。殼の表面はなめら にのせて率直誠実なみすからの人が す入水孔と出水孔とがあり , 入水孔 かで多数のみぞがあり , みぞの間に らを美しくうたい , 当時の社会をあ の中には広いかご状の鰓嚢がある。 は茶かっ色の波形の班紋がある。殼 海水はここへはいって呼吸を助け , ますところなく描き , ラテン文学の のロは赤く大きく軸の側にはこまか 黄金時代を代表して後世にも大きな 水は細い鰓孔から排出腔に出るが , いしわがある。ホラガイは昔から各 影響を与えた。 〔風間〕 えさになるものは消化管に取り入れ 国で殼頂のはうに穴をあけて吹奏や られる。食道 , 胃 , 腸などが区別さ 合図に用いられ , 日本でも山伏が用 ポーランド PoIand 正称は P01 - れ , こう門は排出腔に開く。生殖腺 ska Rzeczpospolita Ludowao 東こ いまた陣員としても用いられた。オ は消化器の曲がった管に囲まれ , 輸 セアニアの原住民なども鳴らして合 欧の北部を占める人民共和国。北は 図に使う。そのはか , 種々の器の代 ノヾルト海 , 南はズデーテン , カノレノヾー 管の先は排出腔に開く。心臓は自分 では動かないで , それを囲む囲心嚢 用となる。日本中部でホラガイと称 ト山脈によって境され , 東はソ連 , の運動で受動的に動かされるが , 血 しているのはボウシュウボラで , 西は東ドイツに接する。面積 31252 ( ) km2, 人口 3 ( ) 6910 ( ) () ( 1963 ) 。首都はワ れは肩にこぶの列がある点で一見し 争人乳神応 - 出水ん 〔興谷〕 ノレシャワ。 て区別できる。 〔自然〕国上は南から北へ , 山地 , ほらかとうげ洞ガ峠京都府綴 鰓嚢 ( の 0 ) 丘陵と台地 , 低地の 3 地帯にわかれ 喜新郡八幡町と大阪府枚方市の 排出 ている。南部山地はウイスラ川 , オ 間にある男山丘陵南端の小高い峠。 ) 0 ・ つ・ 0 ドラ ( オーデル ) 川の二大河川の源 奈良県の大和 : ま郡山から富雄川沿い で , 標高 15 ( ) () ~ 2 ( ) ( ) ()m のズデーテン , に北西へのびる東高野街道の道筋に ト山脈がそびえる。最高点 近く , 淀川を隔てて北に / 天王山 カノレノヾーー 輸管 はタトラ山地 ( カルバート山脈 ) 中の を見通せることから , 1582 年の天王 リシ山 ( 2499 m ) 。アルプスと同し起 山を中心とした山崎合戦のおり , 大 和郡山城主であった筒井順慶が , 原の第三系の山脈でけわしく , 谷は 生朝 こで明智光秀 , 羽柴 ( 豊臣 ) 秀吉両軍 ひらけ , 北に低くなる。シレジア ホヤの体 ( 模型図 ) 一三ロ 】 ~ いを 1 : ホラガイ り 60 69 の 3 ク キクイタホヤ 心臟 マホヤ

10. 国民百科事典6

プンガク 文学 ( 補 ) 第二次大戦 後の日本文学を流派の 側面から補足すると , 太宰治 , 坂口安吾 , 石 川淳 , 織田作之助ら戯 作派の活躍にはヒまっ たが , 戦争責任論 , 私 小説の克服 , 政治と文 学論 , 実存主義的傾向 など , 戦後文学の問題 意識を特徴的に示すの は戦後派 ( アプレゲー ル ) 文学である。く近代 文学 ) ( 1946 ~ ) は荒 正人 , 平野謙 , 埴谷雄 高 , 佐々木基一 , 本多 秋五らを第一次同人と し , のち野間宏 , 花田 清輝 , 三島由紀夫 , 武 田泰淳らも参加した。 く綜合文化〉 ( 1947 ~ 49 ) はアノくンギャルド芸術 の推進をめざし , 花田 , 野間 , 佐々木のはか , 「マチネ・ポエティク」 の中村真一郎 , 加藤周 ーらが集まった。民主 主義文学運動の団体 「新日本文学会」 ( 創立 1946 , 機関誌く新日本 文学〉発行 ) に中野重 治 , 蔵原惟人らプロレ タリア文学派のはかに 伊藤格らリべラルな作 家 , ( 綜合文化 > の花田 , 野間 , く近代文学〉の平 野 , 本多 , 佐々木 , 小 田切秀雄らも加わって いる。また中村光夫 , 福田恆存 , 大岡昇平 , 三島由紀夫らは , 西欧 近代の文学方法の移植 を試みた。野間 , 梅崎 春生 , 椎名三 , 大岡 らを第一次戦後派 , や やおくれて登場した堀 田善衛 , 安部公房らを 第二次戦後派とよぶの に対し , 1953 年ころか ら登場した安岡章太郎 , 小島信夫 , 吉行淳之介 , 庄野潤三ら日常生活の 叙情を得意とする作家 を「第三の新人」とよ」 以上の戦後派が戦時 中になんらかの自己形 成を行なっているのに 対し , 戦後に青春を迎 えた大江健三郎 , 開高 健 , 石原慎太郎らが 58 年ごろから出現した。 また特異な作家深沢七 郎のく風流夢譚 > ( 196 ( ) . 1 いが右興にねらわれ , 「嶋中事件」が起きた。 なお , 戦後の芥川賞 作家では , 戦後文学運 動終結期のもっとも安 定した作家井上靖 ( 19 ) が現代 , 西域 , 07 ~ 歴史を題材に叙情的な ロマネスクを表現し , 松本清張はその後大衆 文学 , 推理小説 ( / 探 偵小説 ) に転している。 / く十六夜こ日記 > などの紀行文学も 書かれた。説話に対する興味 , ある いは , 説話を教訓や説法に利用しよ うとする意図のもとに , / く宇治拾 遺物語〉 , / く十訓抄 > , く古今 著聞集 > く沙石集〉 ( 1283 ) などの説話 集も編集されている。鎌倉幕府が滅 亡し , 南北朝の内乱を通して室町幕 府の基礎が築かれるにつれて , 古代 文学のなごりははとんど影をひそめ , 歴史物語としての / く増鏡 > や , 頓 阿いなどの和歌にわすかにそのおも かげをとどめる程度になった。く玉葉 集〉 ( 1313 頃 ) の選進された鎌倉木期 ごろから急速に盛大になった / 連歌 は , 南北朝時代になると , 二条良基 や救済矗による準勅選の連歌集く菟 玖波集 > ( 1356 ) や公的な式目とし てのく応安新式 ) を成立させた。古 代には素朴な見せ物にすぎなかった 猿楽が観阿弥やその子の世阿弥 の出現によって , 幽玄な歌舞劇とし て完成していったのも南北朝末期 ~ 室町初期にかけてのことである ( / 能 ) 。 軍記物語は / く太平記 > のような規 模の大きな作品を生んだが , 一方で は / く曽我物語 > や / く義経記 > など伝記物語に近い作品も出ている。 五山を中心とする漢詩文の世界でも , この時代には義堂周信 , 絶海中津な どの作家を輩出し , 質的に充実し た作品を残している。このように真 の意味での中世文学は , ほとんど南 北朝 ~ 室町初期にかけて形成されて いるが , 中世詩としての連歌が完成 されたのは , 宗砌 , 心敬 , 宗祇な どの出た室町中期になってからであ る。く竹林抄 > ( 1476 ) やく新撰菟玖波 集〉 ( 1495 ) にはこの完成期の作が収 められている。なお南北朝以後には , 庶民の台頭を背景にして , 「お伽草 子」とよばれている多種多様で , し かも類型的な短編小説の類が盛んに 制作され , また庶民的な題材をこっ けいに演した / 狂言が愛好された。 室町中期になると庶民層の活力はい っそう文学の中に浸透し , 俳諧の 選集としてのく大筑波集 > や小歌を 多く集めたく閑吟集 > ( 1518 ) などが 編集されている。 〔木藤〕 5 5 0 彼らは町人の経験的な生活を「憂う き世」ならぬ「浮世」として肯定し 大胆な想像力によってよみあげた。 この談林から / く好色一代男 > 以下 の浮世草子を書いた井原西鶴が出現 し , また談林の開拓した俗的な世界 をふまえながら , その散文的な傾向 を否定して詩としての俳諧を確立し た松尾芭蕉が出現した。この談林的 な傾向は演劇のうえでも享楽的 , 開 放的な歌舞伎の発展として現われ , 坂田藤十郎らの名優を生みだし , 近 松門左衛門は中世的な叙事詩のわく を破った新浄瑠璃うのジャンルを 樹立した ( / 浄瑠璃 ) 。西鶴 , 芭蕉 , 近松という元禄の三大作家の仕事は , 町人階層の開放的なエネルギーにさ さえられているが , しかしそのエネ ルキ、一はすでに内部矛盾をも含みこ んでおり , この交錯の時点で彼らの 作品は開花した。この時期を境に封 建社会の矛盾はますます深まり , 享 保 , 寛政 , 天保の三大改革によって もそれをくいとめることができす , 文学もまたこの下降現象に対応して 展開する。 3 作家の没後いくたの亜 流作品を生みだしながら衰退してい った元禄期の文学に替わって , 享保 期を境に文化の中心は新興の消費都 市江戸に移った。この間 / く雨月物 語 > の作者上田秋成や俳人蕪村な ども出現したが , 宝暦以後の江戸庶 民から生まれたものは狂詩 , 狂歌や , また洒落ド本 , 黄表紙 , 滑稽本 , 人情本など自嘲的な反逆精神をひ めた戯作である。だがこの戯作す らしばしば幕府の禁圧の対象となり , 化政期の退廃期には支配体制の道徳 観を基礎にした滝沢馬琴の壮大な読 本完カ { 生まれるにいたった。しかし , 同時にこの化政期の退廃的なムード を惨劇的な方向でとらえた鶴屋南北 の歌舞伎脚本を見のがすことはでき この南北の作風は様式化され ない。 て江戸末期の河竹黙阿弥に受け継が れた。近世文学は以上の俳諧 , 小説 , 演劇を主流としたが , やや傍系的な 形で和歌が / 国学と相互に影響しあ いながら栄えた。賀茂真淵以下の万 葉調や , それに対抗する香川景樹の 「桂園派」の古今調などがそれであ るが , 消費都市江戸を中心にした町 人文学に対し , 生活派ともいうべき 地方歌人橘曙覧らの動きは , 近 代への展望の中で重要視されるべき 〔近世〕 17 世紀初頭 ~ 19 世紀の中葉 にわたる江戸幕藩体制下の , 町人階 層を中心に発展した庶民文学を一般 に近世文学とよんでいる。農村にお ける商品生産が発達し , またそれに 伴って町人階層の経済力が高まって くるにつれ , 中世的な自然観や人生 観は打ち破られ , 形而下的な現実 からの再出発が始まる。初め浪人や 僧によって教訓や啓蒙を主とした実 用的な雑書である仮名草子が町人を 対象として書かれたが , やがて新興 町人層自身が自分たちの文学を作り だすに至った。その飛躍的な展開の 基礎を固めたのが西山宗因を指導者 として台頭してきた談林俳諧である。 である。 〔広末〕 〔近代・現代〕明治維新によって日 本の近代化が進められ , 文学も新し い理論と手法をもって新しい人間の タイプを描き出した。西周の啓蒙 的な新思想の輸入や , 中江兆民の訳 出したく維氏美学 > ( 1883 ) が出たの ち , 坪内逍遙うのく小説神髄〉 ( 18 85 ) や , 二葉亭四迷のく小説総論〉 ( 1886 ) が近代写実主義の基礎を作っ た。二葉亭の / く浮雲 > が最初の写 実主義の小説である。この地盤のう えに , ゾラの影響を受けて / 自然、 義文学が勢力を得た。自然主義が辟 花する前に , 尾崎紅葉の主宰する / 硯友社の文学 , 男性的理想像を 追求した幸田露伴の文学 , / くた : くらべ〉などで 10 代の徹妙な心理を 追求した樋口一葉の女流文学があっ た。森鵰外の訳詩集く朎母影 ( 1 89 ) や雅文体小説く舞姫〉 ( 1890 ) は / く文学界〉によった北村透谷の二 論 , 島崎藤村の詩とともに浪漫主義 , の風潮をみなぎらせた。自然主義 学は 1900 年ごろから文壇に現われ , 藤村の / く破戒〉と田山花袋の / く蒲 団が〉によって確立され十数年にわ たり文壇を支配した。やがてその現 実暴露や卑小な人間観にあきたらぬ 傾向が反自然主義の文学となった。 永井荷風 , 谷崎潤一郎 , 与謝野品子 北原白秋などの耽美派や余裕派 , 俳諧派とよばれる夏目漱石や武者小 路実篤 , 志賀直哉 , 有島武郎らの / 白樺派がそれである。鵰外も反自 然主義の立場で , 漱石とともに近代 文学の 2 巨峰をなした。与謝野寛と 品子の / 明星派ののちには , 正岡子 規の系統を引き万葉調で現実主義的 な / アララギ派が勢力を得た。斎藤 茂吉が中心であった。漱石門から出 て現実を理知的に解釈したのは芥川 竜之介 , 菊池寛などであった。大正 末期から昭和の初期にかけては横光 利一 , 川端康成らの新感覚派と青野 季吉 , 蔵原惟人 , 中野重治 , 小林 多喜二 , 徳永直 1 な , 葉山嘉樹計らの / プロレタリア文学が文壇を 2 分す る勢力となった。新感覚派は新興芸 術派や心理主義に発展し堀辰雄や伊 藤整が輩出した。評壇では小林秀雄 が出て個性的な近代批評を確立した。 満州事変から太平洋戦争に突入する 過程で , プロレタリア文学は弾圧さ れ , わすかに転向文学の形でしか作 品は発表されす , 火野葦平のく麦と 兵隊〉などの戦争文学や国策文学が はんらんした。その空気の中で川端 康成の / く雪国〉 , 永井荷風の / く澤 東綺譚えう〉 , 徳田秋声の / く縮図 > , 谷崎潤一郎の / く細雪め > , 志賀直 哉の / く暗夜行路〉の完結 , 金子光 晴の詩集く鮫わ ( 1937 ) , 宮本百合子 , 中野重治の評論は芸術的抵抗とみな される。第二次大戦後にいちはやく 活動を開始したのは戦時中沈黙を余 儀なくされていた既成の大家で , 永 井荷風 , 谷崎潤一郎 , 正宗白鳥 , 志賀 直哉らが意欲的な作品を発表 , また 川端康成 , 井伏鱒二きす , 丹羽文雄 , 伊 藤整 , 石川達三 , 太宰気、治らが間題 作を投した。それと同時に新しい世 代の戦後派と , プロレタリア文学の 流れを引く民主主義文学が活動を開 始した。戦後派文学では野間宏の く真空地帯〉 , 椎名麟三のく深夜の酒 宴〉 , 民主主義文学では宮本百合子