文化 - みる会図書館


検索対象: 国民百科事典6
413件見つかりました。

1. 国民百科事典6

プンカサイ 文勲章 年 7 月現在文化功労者は 178 名 ( 死亡 者 87 名 ) で , このうち年金のみを受 けている者は 65 名 ( 死亡者 31 名 ) で ある。 〔鹿海〕 ぶんかざい文化財ひろく人類 の文化活動によってつくり出された 事物をいうが , 狭くは 1950 年に発布 された文化財保護法 ( 昭 2 5 法 2 14 ) の 対象をさす。保護法による文化財と は次のようなものである。 1 ) 建造物 , 絵画 , 彫刻 , 工芸品 , 書跡 , 典籍 , 古文書その他の有形の文化的所産お よび考古資料 ( 有形文化財 ) 。 2 ) 演劇 , 音楽 , 工芸技術その他の無形の文化 的所産 ( 無形文化財 ) 。 3 ) 衣食住 , 生 業 , 信仰 , 年中行事などに関する風 俗習慣およびこれらに用いられる衣 服 , 器具 , 家屋その他の物件 ( 民俗資 料 ) 。 4 ) 員塚 , 古墳 , 都城跡 , 城跡 , 旧宅その他の遺跡と , 庭園 , 橋 , 峡 谷 , 海浜 , 山岳その他の名勝地およ び動植物 , 地質鉱物 ( 記念物 ) 。文部 省におかれた文化財保護委員会が上 記のうちとくに歴史上 , 芸術上 , 字 術上価値あると認めたものを文化財 と指定し , さらに重要と認めたもの を / 重要文化財 , 重要無形文化財 , 重要民族資料 , 特別史跡 , 特別名勝と し , 重要文化財の中からさらに / 国 宝を指定する。文化財の所有者がそ の現状を変更するとき , 埋蔵文化財 を発掘するときは保護委員会に届け 出なければならない。また発掘物が 文化財に指定されて , 所有者不明の 場合は所有権は国に属し , 発見者と 上地所有者に報償金が支給される。 保護委員会のもとに文化財専門審議 会があり , 東京 , 京都 , 奈良の国立 博物館は有形文化財の収集 , 保管 , 展覧にあたり , 国立文化財研究所は 文化財に関する調査研究 , 資料の作 製 , 公表などを行なう。 〔佐藤〕 ぶんかしゅうれいしゅう文華秀 麗集 3 巻より成る勅選漢詩集。嵯 峨天皇の勅をうけた藤原冬嗣が , 菅 原清公 , 勇山文継らに編集させ , 818 年 ( 弘仁 9 ) に成立。嵯峨 , 淳和両天 皇をふくむ 28 人の詩 148 編を収録。 嵯峨大皇 , 巨勢識人 , 仲雄王の作品 が多く , 七言絶句形式が過半数を占 める。作風は唐風を模した跡が濃い。 哀傷 , 艶情 , 贈答 , 雑詠など 11 部門 に分類した編集形式は , く古今和歌 集 > などの分類形式に影響を - 与えた 5 5 2 ぶんかぶんせいじたい文化文政 時代江戸時代の文化 , 文政年間 ( 18 ( ) 4 ~ 29 ) をさすが , これに天保の初年 を加えて 11 代将軍家斉 ( 在職 1787 ~ 1837 年 , 以後 1841 年まで大御所と して実権を握る ) の治世をさしてよ ぶこともある。この時期は , ふつう には寛政改革のあとをうけて緊張が ゆるみ , 奢侈放漫な政治が行なわれ たとされている。しかし実際には重 農抑商的な寛政改革では処理しえな かった幕政の矛盾を , 別の方向に解 決しようと模索した努力を認めるこ とができ , 次の天保改革の準備期と して重要な意義がある。 この時期の政治をみると , 前半の 文化年間は , 松平定信引退のあとも 彼の同志であった閣老によって幕閣 合議制が維持されていた。しかし文 化末年から水野忠成ら , 田沼意正懿 など旧田沼派の系統の者が家斉の近 習出頭人として台頭し , 側近政治を 展開するにおよび , 再び賄賂政治 が横行し , 武士の気風も乱れた。 れにともなって家斉は政治の実際か ら遊離し , 豪奢な浪費生活にふけっ た。幕府財政も窮乏し , 1816 年 ( 文化 13 ) には金蔵の貨幣保有高は 72 万 38 ( ) ( ) 両にすぎなくなっている。幕藩制 の基礎をなす農村では , 商品経済の 浸透が広く一般化するとともに深く なり , 農村の分解が進んだ。とくに その傾向の著しい大都市周辺の農村 では , 農村の商品生産に立脚して成 長した在方商人が , 旧来の都市問屋 の商業独占を排して自由な取引を要 求し , 両者が激しく対立した。大阪 周辺の農村に展開された大規模な国 訴や , 関東地回り商品の江戸流入に よる江戸市場の混乱などはその例で ある。幕府はこの情勢に対処して , 都市問屋の独占強化により間接に在 方商業を統制しようとしたり , ある いは農村支配機構の改編強化により 直接的に統制しようと図ったが , ど れも十分な効果をあげえす , 幕政の 危機はさらに一層進行した。 文化文政時代は , また町人文化の 最盛期でもあった。大江戸の繁栄に ともなって , 文化の中心は上方から 江戸に移り , 文化の荷担者も富裕な 上層町人のみならす一般町人にまで 拡大し , 内容も通俗化して普及した。 しかし激しくなる封建社会の動揺と , きびしい町人統制の結果 , 風刺やく すぐり , 通や粋、を喜ぶようになり , 退廃的な傾向も目だっている。小説 では滑檮本 , 人情本 , 読本 , 合巻など が流行し , 滝沢馬琴 , 為永春水 , 十 返舎一九 , 式亭三馬などが活躍した。 俳諧纉 : ではケ謝蕪村 , 小林一茶がで たが , 俳諧が遊戯化した川柳や , 和 歌の形を借りた狂歌に世相を風刺し た面白い作品が多い。歌舞伎は庶民 演劇として発展したが , 当時の世相 を反映してく東海道四谷怪談 > など のような退鹿的あるいは残酷な場面 のものが流行した。美術では , 浮世 絵版画に多くの名手が輩出した。美 人画の喜多川歌麿 , 役者絵の東洲斎 写楽 , 風景画の葛飾北斎や安藤広重 はその代表である。版画以外では , 文人画が盛んとなって当時の知識階 級の間で愛好された。 〔村井〕 とみられる。 〔山口〕 ぶんかのひ文化の日 / 国民の 祝日の一つ。 11 月 3 日。 1948 年制定 の国民の祝日に関する法律により , 自由と平和を愛し , 文化をすすめる 趣旨で設けられた。文化の発達に功 労のあった人に文化勲章を授け , ま た芸術祭 , 国民体育大会 , 文化財保 護強調週間などがこの祝日にちなん で行なわれる。この日は明治天皇の 誕生日で , 1927 年以後明治節 ( 1948 廃 止 ) として祝われていた 〔鈴木〕 ふんかわん噴火湾 / 内浦湾 ぶんぎよう分業社会の労働が 多くの形態の労働に分かれ , それぞ れが特定の職業や機能として確立す ること。 1 ) それぞれちがった商品を 生産するために各個人が特定の職業 に従事する社会的分業と , 2 ) 同し工 場内で同一商品を生産するため労働 者が異なった部分的作業をする工場 内分業とがある。工場内分業 ( 分業 に基づく協業 ) は / マニュファクチュ アの時代にあらわれ , 資本家の手に 生産手段が集められていることを前 提とする。社会的分業は , 互いに独 立している商品生産者の間に生産手 段が分散していることを前提とする。 工場内分業は労働の生産力を高め大 規模な商品生産を可能にした。しか しこの分業が成立するためには , 商 品生産が可能な程度に市場が拡大さ れていなければならないから , 社会 的分業の発展が必要条件である。社 会的分業が未発達ならば , 商品の流 通は盛んにならない。一方 , 工場内 分業は , 従来ーっの職業として行な われていた作業を専門化して , 新た な職業として分化させ , 社会的分業 を発展させる。このように両種の分 業とも , 職業や作業の専門化によっ て , 作業能率を向上させ , 社会の生 産力を発展させる。 〔進藤〕 ぶんけ分家旧民法では戸籍を 分けることをいったが , 現行の民法 では分家という親族法上の行為は定 められていない。慣習としては , 家 族員がこれまで所属していた家から 分離して , 新しく家を創設すること を分家といい , また本家に対してそ れから分かれ出た家をも分家という。 分家行為には土地によってちがった 形がみられる。日本の家族員のあり 方は , 長男に家督を相続させ , 二男 以下の男を分家させるのがふつうで あるが , 土地によっては経済的 , 社 会的な諸条件がちがい , 家族 , 婚姻 , 親族の形態がちがってくると , 分家 の性格も異なってくる。血縁者を分 家させるもっともふつうの方法は , 長男以外の二 三男を分家させるこ とであるが , これには二つの形態と 特徴がある。第 1 は , 分家しても本 家との関係が永代にわたって保たれ , 同族としての関係が持続していくも ので , 東北地方の内陸部農山村にみ られる。同族の本家は他の分家に対 しては絶対的な優位にたち , 生産活 動の統率 , 日常生活の援助 , 同族神 である先祖神の祭りを行なう。

2. 国民百科事典6

階という , かぶりものをはしめ服装の色や形の制度ができた。 日本の服装の歴史 次いで大化改新によって衣服令が定められて , 国家体制にふ さわしい服装制度が確立された。男女の別 , 祭日や公事のさ 日本の原初の服装については明確ではないが 一般に縄文 いの服装として礼服 , 朝服う , 制服の別ができ , 身分によ とえう時代の数千年間はもつばら腰巻衣の時代だったと推定さ って形や色も定められた。②は聖徳太子像からうかがわれる れている。弥生ごよ時代の末期の服装については , 3 世紀に書 文官の礼装。③は女官の礼装である。 かれたく魏志倭人伝〉に日本人の服装と思われる記録がある。 この書は中国人の旅行者の印象をもとに書かれたらしいが 平安時代になると唐風を模した文化が流行し , 服装にも影 男子は袈裟式のものを , 女子は貫頭衣のようなものを着て 響を与えた。しかし平安中期ごろからしだいに日本特有の形 式が現われ , 朝服が大きく変化して④の束帯、となり , これ いたという。しかし当時の日本では唐錦きをまねて , ぜいた が百官の礼装として定められた。またこれを簡略にした衣冠 くな絹織物がつくられていたらしく , 織ることは知っていて ⑤が準礼装として用いられ , 私服としては直衣 2 うがあった。 も , 縫う技術は低く , 布をそのままの形でまとっていたらし 一方婦人の服装は正装としては唐衣畿に裳をつけたいわゆる い。この時代を条形衣服の時代とよぶこともある。 十二単姿⑥があり , これを簡略にした袿姿⑧も礼装とし 上古から奈良時代までは上衣と下衣とからなる 2 部式の服 て用いられ , ともに色彩の美しさを競っていた。⑦は狩衣齠 装が中心となった時代である。これは北方系の種族が伝えた で狩猟服から発展したもので公家の日常着である。⑨は壺装 という説と , 貫頭衣を主とし , これに腰巻衣である裳もおよ び褌まが合して進化したとの説がある。①は衣褌まとよばれ 束ドとよばれる婦人の外出用の姿である。ところで平安時 る 2 部式のもので , 埴輪粤 : にみられる男子の服装で中流の人 代の庶民の服装としては , 男女とも小袖風の上衣を着てい たが , ⑩のようにそで無しの上衣に腰巻布をつけただけの粗 と解されている。天皇の地位が確立してくるにつれて , 服装 末な服もあり , 袴を略して褶とびという腰布をつけた姿もある⑩。 も中国文化の影響を受け , 603 年推古天皇の時代に冠位十二 初白告司

3. 国民百科事典6

ヘイアンシ 5 6 3 方で実際経営に当たるようになった 文化をもち得た最初のものである。 の姿になった。これらの信仰は貴賤 この風潮は 10 世紀ごろから全国 したがって日本風という名で長い生 を問わす普及したが , 庶民の遊芸の ー的に広まって , 多くの荘園が摂関家 命をもち , ことに美的感覚の面で後 中の今様や田楽が末期の貴族生活で 以下の有力貴族に集中した。これを 世に与えた影響は大きい。またこの ばれたことも , 文化の上下同化の 寄進地系荘園といい , 貴族の豊かな 国風文化は , 日本人の好みに合って 傾向を示すものである。 〔土田〕 〔美術〕約 400 年間にわたる平安時 いたために , 中央にかぎらす全国に 趣味生活は , これら荘園の貢納にさ 代をながめてみると , 大陸美術文化 さえられるところが大きかった。ま 広まる性質をもち , 文化の地方波及 , の消化の長い過程と , 日本固有の美 た荘園は元来は輸租の地であるが , 上下同化の傾向がみられるようにな ったことも注意すべきである。漢文 時を追って不輸不入の特権を得るも 術の芽ばえや成長の経過が , かなり 学は初期に最盛期を迎えた。その中 のが多くなり , 国権の介入を排して 複雑にからんで現象面に現われてい 心は嵯峨天皇で , く経国集〉などの るのがわかる。 1 ) 彫刻前代に続き 独立性を強めた。この荘園の増大は 勅選漢詩集が作られ , 純漢文の国史 国家財政を圧迫したので , 後三条天 仏像彫刻が大部分を占める。造東大 が編さんされ , 朝廷の儀式典礼も整 寺司が 789 年廃止以後平城京中心の 皇は記録所を置いて整理につとめた 備された。学問では中国の歴史 , 文 大寺院造営は一段落し , 平安京遷都 が成果は上がらす , 院政期には院の 学を学ふ、紀伝道 ( 文章う道 ) が重ん 後の官寺造営は東西 2 寺に制限され 荘園も膨大なものになった。荘園以 外の公地は国司が支配して国衙領 ぜられ , 藤原氏の勧学院のように たので , 造仏事業も小規模に分散す ーこにも名主があって 有力氏族の子弟教育機関も設けられ といったか、 る。塑像や脱乾漆像など前代の技法 その内部は荘園と同しようなもので た。空海の開いた綜芸に種智院は庶 は用いられす , 豊富でかっ簡単に入 あり , 律令の徴税方式もまったく変 民の子弟の教育機関として有名であ 手利用できる木材が多く用いられた。 わって , もつばら田地に課税するよ る。この漢詩文は中期以後も作られ 前期の遺品としては , 新都に造営さ うになった。国家財政も諸役所の経 れた東寺 ( 教王護国寺 ) 講堂の諸仏 たが , しだいに形式的なものとなり , ( 839 ) とくに西壇安置の五大明王像 営する荘園 , 貴族の貢納 , 国衙領を 代わって国文学が隆盛になった。国 5 体 , 京都神護寺五大虚空蔵韜う 5 体 支配する受領の貢献などでまかなわ 文学は , 9 世紀ごろにほは、完成し , ( 848 頃 ) , 同しころ造立の大阪の 普及した「かな」によって大きく発 れ , 律令財政制度は崩壊した。貴族 心寺秘仏如意輪観音像 , 京都安祥寺 展した。かなの普及により , 国語を 社会は摂関家を中心に安定したが 五智如来像 ( 851 ~ 856 頃 ) , 仁和寺阿 家がらにより官位昇進の順序や限度 自由に表現できるようになったこと 弥陀み三尊像と広隆寺講堂の阿弥陀 が固定してしまい , 安易な耽美的 は , 日本文化史上の革命的なできこ 像の 1 グループ ( 888 頃 ) がある。木身 生活をおくり , 毎年同し行事をくり とであった。漢詩に代わって和歌が に薄く乾漆を塗る技法を用い , 奈良 盛んになり , 紀貫之こらによりく古 かえす年中行事が発達し , はとんど 造仏所系統工人の流れをくむ仏師た 京の都の外へ出ない無気力なもので 今和歌集〉が編さんされてから , 次 ちの手になるもので , 形姿の造形に 次と勅選和歌集が作られた。和歌は あった。そのため彼らはひしように 貴族の日常生活に深くしみ込んで , 従来の観照を用い , 密教美術の儀軌 迷信深く , 加持祈疇 : うや禁忌を重ん と表現の影響下に , 官能美や神秘的 歌の贈答や歌合せがしきりに行なわ した。家族生活の面では母系の縁が れた。また小説ではく源氏物語 > , 沈うつ感を盛り , 乾漆の柔らかさを 深く , 男は妻の家で生活し , 子ども 随筆ではく枕草子韜 > , 日記文学 利用した。その流れは中期ごろの過 も母の家もとで育てられるのがふつ 渡的造仏に及んでいく。一方木材の ではく上佐日記〉をはしめ , 散文の うであった。この貴族社会に対して , 素地を生かした彫像群がある。奈良 各分野でもすぐれた作品が続出して 新たに起こってきたのが武士である。 国文学史上の最高の時代の一つとな 新薬師寺本尊 ( 806 頃 ) , 同しころの 治安は全国的に乱れたので , 名主や 京都神護寺金堂薬師如来立像 , 9 世 り , また末期にはく栄花物語 > く大 地方豪族は武装して自衛闘争したが , 紀前半の作品と考えられる唐招提寺 鏡 > などの歴史物語や , く今昔く物 この武力が中央から下った貴族の子 孫により統合されて , 武士団が作ら 金堂安置の大日如来座像 , 元興寺薬 語 > のような説話集も生まれて文芸 れた。なかでも清和源氏と桓武平氏 師如飛像 , 法華寺十一面観音像が の内容を豊富にした。宗教の面では , 奈良時代の都市仏教に代わって , 最 が二大勢力となり , 彼らは承平天慶 あけられる。肥満した形姿 , 豊満な 顔 , 流動的に深く彫られた翻波式 澄 , 空海により唐から伝えられた天 の乱などをへて組織化を進め , 1019 衣襞表現などの特色がみられ , 年北丿し州を襲った / 刀伊こ ( 満州人 ) 真言の 2 宗が山岳仏教として発 木彫成である。このグループは檀像 展し , 延暦寺や金剛峰寺ををはし を撃退したのもこれら地方武十であ 風 ( ビャクダンのような檀木に細密 った。その地位は低かったが , 源氏 め , 両宗の寺院が次々と造られた な彫刻をしたもの ) な整えられた作 は満仲 , 頼光などが近畿地方を根拠 この 2 宗とも , 祈を主とする神秘 品に定着していき , 中期ごろの大阪 として摂関家に従って , しだいに中 的な密教の教義を伝え , その祈疇に の道明寺十一面観音や , 宝菩提院の 央にも進出し , 義家は前九年 , 後三 よって貴族の圧倒的支持を受けた 菩薩像に帰着する。過渡的作品とし 年の両役で東国に強い地盤を築いた これと並んで 10 世紀末ごろから流行 て上醍醐薬師堂本尊 ( 909 ) や , 法隆 平氏は最初は東国に勢力があったが したのが浄上教である。これは極楽 寺講堂本尊三尊像 ( 99 のなどをへて , 源氏に押され平忠盛に至って瀬戸 往生をねがう教えで , 空也 , 源信な 内海の海賊をち , 鳥羽法皇の信任 やがて定朝を中心とする和様彫刻が どが説いてからひろく普及した。 を得て西国に地盤を確保した。次い 成立する。宇治鳳凰堂本尊阿弥陀如 とに乱れた世相 , あいつぐ天災 , 疫 で両氏は中央に進出して都で雌雄を 病に脅かされ , また末法思想に拍車 来像 ( 1053 ) に , その典型をみること 決し , 勝った平氏が一族こぞって貴 をかけられて不安に襲われた迷信的 ができる。丸い円満具足を表現する 族の最上位に躍進するまでになった。 顔 , 平滑な頬翳張り , すらりとした体 な当時の仄々には , 来世の救いを説 〔文化〕初期は唐文化が身についた くこの教えはひしように喜ばれ , 貴 驅 , 流れ落ちるような隆起の浅い整 成熟期で , 中期 , 末期の文化は国風 族はさっそくその趣味生活に浄上教 えられた衣文とひだ , 薄い均斉のと 文化とよばれる貴族文化である。 を取り入れて、独特の浄上教美術を れた膝張りなどが特色である。定 作り上げたのである。このほか , 神 とにこの国風文化は , その名のとお 朝は当時の貴族たちが競った造寺造 り , 中国渡来の文化が日本古来のも 社信仰では神は仏の仮の姿だとする 仏事業に応するため , 仏所という のとよく同化し , 日本人の好みに合 本地垂迹説物が発達して神仏習 私的工房をもち , たくさんの弟子た うように変えられたもので , 日本人 ちを養成しながら仕事をした。身体 合がひろく行なわれ , 神社内に寺院 が自身にびったりした高度の豊かな が , 寺院内に神社があるのはふつう の各部分を分業的に製作し運搬にも

4. 国民百科事典6

ブッキョウ 4 7 5 この種の尊像が見いだされる。しか 〔中国〕この西域から仏教をうけ入 しこの教義はネノ、一ルからチベット れた漢代の中国で , これをいかに伝 にはいって特殊な発展をとげ , やが 統的な造形のわくにはめていったか 菩薩形 最初期の遺品のはとんどない現在推 てラマ教として神秘的な彫像や絵像 ( 観世音菩薩 ) 測はむすかしいが , 建築では半円球 を作りあげた。一方 , 8 世紀にイン ドから直接中国にはいった密教はさ 体を中心とするインド式のストゥー ヾを木造の楼閣形式におきかえ , 仏 らに日本にも伝わって , 特色ある密 堂も中国式の宮殿建築によって造ら 臂釧 教美術を生みだす。 〔西域〕インドにおいて発生しその れ , これが東アジアにおける仏教建 綬帯 築に一つの基本形を与えることとな 原形を作りあげた仏教美術は , グプ ( 条帛 ) る。仏像として現存するもっとも古 タ朝以後は , その芸術的な発展をと 腕釧 い 4 世紀の小金銅像ではガンダーラ め , 12 世紀を過ぎるとヒンズー教や イスラム教の美術に完全に席をゆす 様式が濃く表われているが , 5 世紀 持物 ( 水瓶 ) る。ところがアジアにおけるもう には , 中国の北部を支配した拓跋 つの有力な文化圏 , 中国にはいった 族の北魏 ( / 魏晋ごん南北朝 ) によって , 仏教は , この異質の文イヒとの接触に 仏教美術に一つの時期が画される。 おいて新たな生命を得 , いっそう豊 漢文化にあこがれる異民族の熱意が , 富な美術を生みだした。 2 世紀には 仏像に強く鋭い表現を与え中国式の 衣服をまとわせる。 / 雲岡 ( 5 世紀 しまるこの仏教東伝の過程でます大 蓮肉 後半 ) , / 竜門 ( 6 世紀前半 ) の二大 きな役割を果たしたのは , アジア大 石窟群の造像に第 1 の開花をみせた 陸の中央をつなぐ回廊をなす , いわ 請花 中国の仏教美術は , さらに 7 世紀か ゆる / 西域 , タリム盆地の周辺に沿 返花 った国々であった。中国の絹を西方 ら強大な害のもとに輝かしい発展を とげた。インドや西方との活発な接 ローマ世界にまで伝えたこの重要な 触に伴って , グプタ様式の影響が強 隊商路 ( 絹の道 ) の中継地として , 砂 点というべき日本の場合 , 大陸の進 く現われる一方 , 中国美術の長い伝 漠の南側にはホータンやローラン , んだ造形は 6 ~ 7 世紀において最初 統と仏教文化とが完全に溶け合って , 北側にはクチャ , カラシャール , ト ルファンなどの小国が , 早くから仏 彫刻にも絵画にも自然な生命感と崇 から仏教美術の形でとり入れられた / 飛鳥第時代 , / 白鳳時代の仏教 高な宗教性とを与えている。この唐 教をとり入れ , 独自な美術をのこし 美術の諸遺品は同化の速さと質の高 た。発掘された資料によれば , ます 代にできあがった仏教美術の典型は , さとにおいてわれわれを驚かせる。 ガンダ、一ラ系の美術が支配的で , 直 ひろく東アジア全体を支配し , また 8 世紀半ばにアジア最大の鋳銅の大 中国自体におけるその後の変化もす 接西アジアにつながる要素も見いだ 仏像 ( 東大寺大仏 ) を造りあげた技術 べてこれを基本としている。ただ宋 せる ( ホータンの仏像 , ランク ) と鋭い造形の感覚とによって , 唐代 代以後いっそう民族的な色彩を加え , 壁画 ) 。さらにイランの影響も著し の図像と様式とは完全にこの土地に たとえば道教思想と結び合って , 独 く ( キジルの壁画 ) , これらは中国に 定着した。それはまた同時に日本の 自な褝宗美術を生みだす。そこでは おける初期の仏教美術に複雑な反映 貴族たちが外来のこの宗教に求めた インド以来の仏教図像が否定された をみせる。仏寺建築としては中イン かわり , 自然自体が深い宗教性をも ものが , 魂の救済よりもむしろきら ドやアフガニスタンで行なわれた石 ってとりあげられ墨一色の筆の働 びやかなその外装にあったことをも 窟寺院の形式がひき継がれタリム盆 きに , すべてのと色を抽象した 思わせる。このような傾向への反省 地北側の山沿いに多くの千仏洞が 水墨画にその極限を示す。一方 , 唐 もあって 9 世紀はしめ , 空海と最澄 ひらかれた。一方 , 日乾レンガ、で構 築された寺院では , ストゥーノヾを中 末にはしまる密教的美術はとくに元 とによりもたらされた密教も , 結局 この世での幸福を願う祈疇の宗教に 代以後チベット系のラマ教に同化し 心におき , 中庭の周辺に多数の僧房 複雑怪奇な神々の姿を造り続ける。 変わっていった。しかしそのために を並べた北西インドの形式が支酉己的 こそ絵や彫刻による神々の表現に感 〔日本〕このような長い道程の終着 である。 宝髻 化仏 冠帯 垂髪 瓔珞 7 天衣 菩薩の名称のうち難読 表 のものをあげる。宝髻 ( はうけい ) , 瓔珞 ( よ うらく ) , 臂釧 ( ひせん ) , 綬帯 ( しゆたい ) , 腕釧 ( わんせん ) , 持物 ( し ぶつ ) , 天衣 ( てんね ) , 裳 ( も ) 。持物は仏菩薩 の種類や働きで変化す るが , 水瓶 ( すいびよ う ) もその一つ 台座 ( 蓮華座 ) 仏像の四つの形式と代 表作例。左から , 如来 ( 京都法界寺の阿弥陀 如来像 , 1 1 ~ 12 世紀 ) 。 菩薩 ( 京都蓮華王院の 千手観音像 , 1254 ) 。明 王 ( 京都大覚寺の五大 明王の金剛夜叉像 , 11 7 6 ) 。天 ( 奈良当麻寺金 堂の四天王の増長天像 , 7 世紀未 ~ 8 世紀初め )

5. 国民百科事典6

, 舎飼式養畜が新しい。 近代の深耕反転犂で , はしめてク ー跡地と根菜作付地の耕起がで すしまき , 中耕によって作物管 ーの集約化をはかることができた。 料はクロバーや根菜で耕地から得 れ , 厩肥は十分に根菜類に施す とができる。作付縮小した穀作も しまき , 中耕 , 施肥により増収が かり得る。この根菜類はいわゆる 約的耨耕作物で , 近代商品生産の 心作目となった。これは立地条件 経営規模に応して分化する。英国 は飼料カプ , ドイツ , フランスで サトウダイコン , ジャカ・イモ , そ はか特用作物などで , またクロバ 植栽の位置にマメ科 , アプラ十な の分化がみえる。輪栽式農法はか らすしもノーフォーク式の典型を らす , 英国西部などは多年生クロ ーによる穀草の耕地輪換式がみえ ドイツ , フランス西部など農民 放の遅れた地域では小農でなけれ 地主大企業農により , 同しく近代 の基礎をもちながらも , 伝統的農 の作物構成に近いかたよりがみえ 。穀作に重点がある改良三 , 四圃 農法 ( これは休閑がなく , 近代犂の 礎をもつから , 最近では三 , 四輪 式農法という ) , さらに飼料作中心 穀草式農法の * 且放なものなどがこ である。またデンマークのように くから領主の農民解放実施 , 地主・ 企業農の展開した地域では , 穀草 弋と輪栽式の複合型農法も現われた。 一般に欧州では北部および高冷地に るほど穀草の耕地輪換式農法が , , 西の中心部は輪栽式や自由式農 去 ( これを超輪栽式ともいう ) が , 中 閉はその混合型と改良三 , 四圃式農 共が分布する。これは交通および技 行の発達により , だいたい経営規模 こ応した集約度分布を形成し , 分化 みせつつ , 輪栽式農法の方向に展 制してきた。 近代犂は日本で / プラウとよばれ らが , 犂体はみな鉄製 , 鋼鉄刃で , ガルマン犂の深耕性とローマ犂の軽 ト性を基本型とし , 東アジア犂の犂 ヾらの曲状面をとりいれ , 最初に英 司でできた。畜カ播種機も完成は英 司であるが , 近世から試作され , 初 わの型は中国 ( 現行 ) , 西アジア , イ / ド系の両把作条犂に近い。畜カ お耕は地中海北岸の果樹園に伝統的 この方法が畑作に導入された。 こうしてみると近代農法の基礎には , 西の伝統的農法のすべてが結集さ 工ている。近代農法はこの基礎のゆ 前世紀後半には新大陸 , オー 々トラリアの乾燥農業を開発し , 熱 肯の原始農耕のうえに特産の栽植大 業をかさね , 今世紀には動力トラ クタ体系を完成して , さらに伝的 變法とその土地制度をも変えていっ 4 3 〔東アジア , 日本の伝統的農法〕東 アジア農業はモンゴル系のわく型の 長床犂の耕域である。中国 , モンゴ ノレ , 朝鮮 , フィリピンがこの耕域で , インドシナ半島東部ではインド犂か ら発生したマライ犂と混合型を形成 する。この耕域の伝統的農法は , 前 のセム・ローマ犂とインド・ゲルマ ン犂の農法が小麦の冬作であり , ンの文化をもつのに対して , アワ , キビ , 稲の夏作であり , めしの文化 をもつ。前者は冬雨型乾燥ないし少 雨気候 , 後者は夏雨型乾燥ないし東 亜モンスーン多雨気候の条件をもつ。 前者は麦芽酒 ( ビール ) , 果実酒 , 果 実酢の文化 , 後者はこうし酒 , こう し酢の文化をもつ。また , 前者には 乳嗜し好と羊毛の文化 , 後者には醤望し 嗜好と絹の文化がある。 東アジアも農耕のこん跡は新石器 時代 ( はば前 3 千 ~ 前 2 千年紀 ) にみ られる。農具は石芹 , 掘棒らしい。 それまでは大陸は南 , 中 , 北東にか けてひとしく採集の時代であるが , 中部黄河の岸の丘岡に殷の青銅器を もちはしめる農耕が開ける。これは 農耕作物としてはキビ , アワがおも で , 麦もみえる。殷周時代の犂耕の 有無は未解決で , 牛馬 , 車がみえる からありうると思うが , これが明ら かになる春秋戦国時代の鉄刃犂まで は , 耒訂木柄の先が分かれる踏す き ) や耜し ( 木柄の先円頭板のある 踏すき ) による人力耕が大きな地位 を占める。現在 , 正倉院御物にある 子日手辛鋤 ねのひのて は耜の系統の遺品 からすき である。耒耜の段階の耕具 ( 原始耨 耕具 ) の綱または柄けん引から , 犂 耕が発生する通則からみて , この時 代は犂耕への過渡期とも考えられる。 周代では稲 , 大豆の栽培もみえる。 犂が確認される時期には , 耨耕具は さし穴つきのくわ , ショベルなどへ 分化し , 大陸の前 1 千年紀後半 , 日 本の弥生ご時代から古墳時代へかけ ては , この意味で初期の犂耕文化を この段階では , ユーラシアや もつ。 アフリカと同しく , 乾地では代田方 式の原生輪換農法 , 低地ではかんが いによる地カ維持と耕うん効率増補 によって , 休閑方式の主穀農法が成 立しはしめ , 大家畜は放牧式である。 伝統的農法が , その基礎となる定型 のわく型 ( 長床 ) 犂の普及とともに 形成されるのは , 大陸では前漢 ~ 後 漢時代 ( 前 2 ~ 後 3 世紀 ) , 日本では 大和 : ま朝 ~ 律令時代 ( 4 , 5 ~ 6 , 7 世 紀 ) で , 氏族共同体から統一国家が確 立していく。 東アジアの在来長床犂の農法は , 欧州の在来の犂耕農法と違って , 特 異の農業形態をつくり出した。その 性格は , 欧州の近代にみられる輪栽 式農法と類似の農業組織である。つ まり休閑を解消して , すしまき , 中 作物交替方式の土地利用をし , 舎飼 式の大家畜養畜がみられる。これは 乾地 , 畑作とかんがい , 水田作とを 通していえる。日本における畑作を みると , 律令時代の朝廷の園では , 普通畑作物の 9 種は無施肥 , 園芸作 物の 16 種は施肥し , 6 ヵ所 49 町余で 作られている記録がある。この作物 編成 ( 作付順序 ) はわからないが , こ れを唐制によるとして , 大陸農書の く斉民要術 > と比較すれば , 無施肥作 物は群小の施肥作物と交替作付され ると理解できる。水田ではしきまき , 休閑は奈良時代からある。そして田 植えが , 犂やまぐわの普及につれて , そのころから盛んになった。大陸で は田植えは後漢時代にみえ , 時代こ とに南進する。むしろ水田の麦裏作 が , そのころみえはしめ , 宋代農書 には明記されるし , 日本では中世後 期 ( 13 世紀 ) には明記される。大家畜 舎飼方式は大陸では 6 世紀には確立 され , 日本では律令時代にみられる。 近世になると , 日本では , それまで の領主嶂よる水田裏作の禁が解かれ , 畑作では穀作の間作として , 豆作か ら集約的耨耕作物 ( 芋 , ウリ , 綿 , タ ノヾコ , べニバナ ) が魚肥などの施肥 流通により導入され , 商品化が推進 された。畿内では水田裏作にも野菜 類がはいった。これは開墾 , 中耕具 としてくわの地方分化が世界に類例 のないほど推進されたからである。 一方 , 耕犂は古代からの型にとどま っていた。稲作は奈良 ~ 平安時代初 期には北海道を除く全国に及び , そ の面積はいまの単位に換算して約 1 万 2 , 現代の % と推算され , 反当 り収量は約 6.7 斗であった。水田 , 畑比率はわからないが , 江戸時代か ら明治時代にかけて約 6 : 4 強である。 以上からいえることは , 東アジア の伝統的農法に休閑廃止 , すしまき , 中耕をおこさせる技術的基礎は , そ の犂にある。その特徴は連畜に固定 しない揺動する長床浅耕性のもので あることで , その代わり辟言がしだ いに発達し , 世界に類例のない曲面 板を形成し性能がたかまった。 ことはまた犂耕の未展開性という欠 この未展開性を補うには 点をもつ。 人力によるくわ耕の分化を必要とす る。これが過去 2 ( ) ( ) ( ) 年間のくわ耕と 犂耕の融合を生み , 人力くわ耕によ り深耕を補い , 人力中耕 , 除草 , 施 肥によりすじまき , 中耕を展開し , 集約作物を間作の形で導入できた。 水田のかんがい農法は , この犂耕未 展開を耕うん効果と地カ維持の点で ささえる。この伝統的農法は , 主と して水田作では , 明治時代の短床犂 への改良 , さらに近時の自動耕うん 機で改善され , さらに人造肥料の増 投で補強されはしたが , 近代犂の採 用まではいかす , 畑作は依然として / ウギョウ

6. 国民百科事典6

3 5 6 たもので , ある程度の太さ , または 魚体をそのままかわかす「丸干し」 , ひやくしよう百姓現在では 幅をもった細長いもの。一般に / な 開いてからかわかす「開干し」など 民一般をさす語として用いるが , わよりも細く装飾的である。おもな の語は , 中国占代に発生し , 元来 ( があり , また丸干しをほお刺し , 目 種類に次のものがある。 1 ) 打ひも 刺しなどに区分することもある。イ あらゆる姓を有する者 , つまリ人 平打ちと丸打ちの別があり , 帯どめ 一般をさす語だった。それが日本一 ワシ , アジ , サンマ , サノヾ , タラな や羽織ひもに多く用いられる。平打ち ど多くのものが用いられる。 4 ) 焼干 移入し使用されると , 時代により . には , 天正年間真田氏が刀の柄糸こか 味内容に種々の変化を生した。も し火力で焼きかわかしたもの。産 に用いたのがはしまりとされる真田 とも古く , 大化前代には , 天皇家 額は少ないがタイの浜焼きのような 私領である屯倉に属する田部ミオ 打ち ( いわゆる真田ひも ) をはじめ , 名産品が多い。タイ , ワカサギ , ア る農民を「オオミタカラ」とよび , あや打ち , かご打ちなどがあり , 丸 ュ , フナ , カレイなどを用いる。 5 ) 打ちには三つ打ちから十六打ちまで 調味干しみりん干しなどのように 百姓の字をあてた。大化改新後の ' の数種がある。 2 ) 組ひも古くから 令国家にあっては , 班田農民 = 公 調味液につけてからかわかしたもの。 おもに装飾用として太刀の下緒 , よ おもにサンマ , アジ , イワシなどを を百姓にあてている。律令体制に ろいのおどし糸 , 装束の緒などに用 用いる く荘園制下にあっては , 荘園制の いられてきた。羽織ひも , 帯しめな なお十物は一般に「油焼け」といっ 礎となる上地所有農民である名主 どにも用いられる。 3 ) 編みひも組 て赤く変色しやすいが , これは含ま をさして百姓とよんでいることが い。さらに室町時代になると , 「名、 み方によって四つ組 , 八つ組などと れている汕脂の酸化分解 , タンノヾク 質の分解などに起因するもので , いう。丸いもの , 平たいもの , 角ば 百姓中」なる語でわかるように うなったものは渋味をおび味が悪く ったものなどあり , 打ひものように 主以下の小農民を百姓とよぶよう : なる。干物は悪臭がなく , サンマ , 一手一手が密着していないのが特徴 なる。 これは初期の名主の構造が イワシなどは体の表面が銀白色に輝 である。 4 ) 袋状ひも布を袋状に縫 解して , 小農民の自立が進み , い , またはくけたひもで , 丸ぐけ , き , 油が浮かんでいないものが良品 らの小農民が領主支配の対象とし 平ぐけがあって , 心を入れたもの , である。 重要になってきたためであろう。 〔金田〕 ひもんじ緋文字 The Scarlet 入れないものがある。被布やコート 江戸時代にはいると , 「商工を都 Letter ホーソーンの / ト説。 185 ( ) 年 の飾りひも , 帯しめなどにする。 5 ) て町人といひ , 農人を百姓といふ」 刊行。 17 世紀植民地時代のポストン ( 百姓嚢 ) といわれるように , 百 固着ひも数本の糸をそろえてのり のピュリタン社会を背景に , 姦 : 通 を農民一般と同義に使用することカ などで固着させたもの。ひもの材料 の罪と罰におののく男女の心、理を追 は一般に絹糸 , もめん糸 , 麻糸 , 毛 多くなってくる。これは , 近世初豆 糸 , つや糸 , 種々の布地のほか , 紙 , 求した作者の代表作である。 の検地によって , 小農民の自立が ビニルなども用いられる。〔小島〕 国的にはは、決定的となり , 彼らが 〔あら筋〕医者の妻へスター・プリンは , ひもの干物魚貝類の水分を減 夫が薬草とりに蛮地へはいって 2 年あまり 貢 ? ん負担者として確定されたこと , たつうちに牧師と情を通じ , 不義の子を生 らし , 細菌の発育を押えた貯蔵食品。 したがってまた士農工商の 4 階層 んで罪に問われ , 子を抱いたまま刑台にさ 身分制の中で農民身分が一つのまと 水分が 40 % 以下なので細菌類が繁殖 らされたうえ , 姦通 adu lte ry をしめす緋色 しないが , 最近は水分 6() % 程度の生 まりとして確定されたことに関連し の文字「 A 」の刺しゅうを , 生涯胸につけ 干しが好まれている。製造方法によ ている。しかし , 領主対百姓という ることになる。帰ってきた夫はいっさいの って次のように分ける。 1 ) 素干し 関係で農民層の階層的な構成をみる 事情を知ると姿を変えて牧師に近づき , 陰 険な手段によって牧師を苦しめる。牧師は 食塩を加えすかわかすもので , 乾燥 と , 百姓と農民は単純に同義ではな 罪を隠、しつづけるが , 良心の責め苦に耐え に時間がかかるためかわきやすいも かった。検地によって認定登録され かねて , いっさいを告白して死んでいく。 のだけを用い , おもに気温の低いと た石高 ( 高請地 ) を所持し , 報復の対象を失った医師も気力を失って死 きに製造される。するめ , 身欠ニシ に相当する年貢を負担する高持の農 ぬ。へスターだけカ { 不幸な人々のために 民が , すべてそのまま一軒前の百姓 ン , 数の子 , ごまめ , タラなどがあ 生をささげ , 力強く贖罪 ( しよくざい ) の道 る。 2 ) / 煮干し煮たり蒸したりし と認められていたわけではない 〔宮本〕 を歩む。 高所持 , 年貢負担の上にさらに登録 ひやくさい百済「くだら」とも たのち , かわかすもの。素干しほど された屋敷地を保有し , その屋敷地 製品が変化しない。カタクチイワシ , いう。馬韓の伯済国が発展して , 4 保有に対する「役儀」を負担する役 イカナゴ , 貝柱 , ェビなどがおもな 世紀初めごろ朝鮮南西部に建てられ 屋が , 本来の意味での百姓すなわち 材料である。 3 ) 塩干し塩蔵後日乾 た国。中国の南朝文化をとりいれ , したものでもっともふつうのもの。 日本と結び , 高句麗と対立した。 「本百姓」とされ , 脇百姓などと区 371 年 , 都を漢城 ( 京畿道広州 ) に移 別されていたようである。しかし , この役屋 = 本百姓という厳密な規定 したが , / 広開土王に敗れ , 475 年 , 百済の美術。左は , 金銅菩薩立像。青銅 熊津 ( 忠清南道公州 ) , 538 年扶余に も近世初期の比較的短い期間で終わ に金されたものである。扶余守里寺跡 り , 役屋制度が早くくすれるとともに 移り , 660 年唐と新羅の軍に滅ばさ より出土。右は , 山水をあらわした画像 磚 ( せん ) 。いすれも 500 年ないし 600 年こ やがて石高所持の農民一般すなわち れた。日本は援軍をおくったが白村 ろの作品で , 百済後期の秀作といえる 本百姓と意識するようになった。また 江 ( 錦江河口 ) で敗れた。百済は半島 同し農民のうちでも無高の「水呑」 におけるもっとも豊かな地を占めて , 「名子」「被官」「家抱」などさま 経済的に恵まれ交通も便であったの ざまの名称でよばれる豪農の隷属農 で , 帯方郡に残存した漢文化や南朝 民は , 本百姓とはっきり区別されて 文化をとりいれた。 4 世紀後半には 仏教が伝わり , 国家の保護をうけて ーこのような広狭 2 義に百姓の いた 栄えた。その文化は日本の古代文化 語を使用することは , 同し江戸時代 に影響を及は、した。 5 38 年以後 , 貴 に , 商人 , 職人層のすべてを町人と 族は上中下前後の 5 部に属して親衛 総称しながら , 狭義の町人は , 土地 軍を構成し , 地方は中東西南北の 5 所持の商人に限られた身分であった ことと共通している。村落構成の面 方に分かれて , 王を中心とする軍事 行政組織をなし , この五部五方の制 から農民をみると共同体構成の基本 になるのは本百姓であった。 / 五人 度によって国家の体制を固めていた 組の構成においては多くの場合水呑 〔宮原〕 / 扶余 0

7. 国民百科事典6

日本人もそれらの様式によって作曲 する時代となる。この変革期の中心 は 9 世紀の終わりから 10 世紀の初め にかけての時期で , これを「平安朝 の楽制改革」とよぶ。 / 神楽など の古い伝統音楽が改められたのも , / 催馬楽 , / 朗詠 . , / 今様などの新 声楽が誕生したのも , 外国音楽の影 響の現われであり , 輸入音楽の音階 や楽器編成などが変えられたのもこ の時代である。 / 和讃んや講式など の日本的声明が作られたのも , 同し ころであった。 13 世紀初めから 16 世 紀末期にかけては , 民族音楽興隆時 代で , 政権が天皇と公卿貴族から幕 府と武士に移ったのを転機として音 楽文化も国際的から民族的へと 18 ( ) 度 の転回をした。この風潮に拍車をか けたのが , 13 世紀後期の元の来襲に よる民族意識の高まりである。鎌倉 から室町にかけての平曲 , 猿楽能 , 田楽能 , 宴曲 ( / 早歌 ) などの流行 は , すべてこれに関連する。室町の 末期に三弦が輸入され , それの日本 化した / 三味線が急激に普及し , 流 いろいろな意味で戦国時代 行した は次の江戸時代への過渡期的姿をと っている。 17 世紀初めから 19 世紀中 期にかけては , このような民族音楽 の大成時代で , 政権は幕府にあり , 武士を最高とする強い階級制度が確 立されたが , 文化の実権はまもなく 町人の手に移り , 江戸時代は三味線 音楽を主とする町人音楽の時代とな った。幕府の権威主義と現状維持政 策との反映で , 音楽も急激な発展に はプレーキがかけられ , 内面的な掘 り下げ , きめのこまかな洗練という 方向に進んだ。封建的社会組織の複 音楽も 雑化を反映するかのように 多くの流派を生み , 家元組織でかた められた。しかし , 幕末には復占主 義の影響により , 一時は音楽も復古 調 , 簡素化に戻る傾向がみられた。 一弦琴や二弦琴の流行はその実例で ( 原始文化 ) 上古 太古 ある。 19 世紀後期から 20 世紀初めに 奈良時代 6 2 9 かけての洋楽輸入時代になると , 日 本の楽界は邦楽界と洋楽界とに 2 分 された。とくに端な欧化熱のため 伝統音楽軽視の風潮が現われたが , 箏曲などには / 洋楽の影響がしだい この洋楽は大正時代に に現われた。 なると , 日本的に消化され , 日本的な 作曲が行なわれるようになる一方 , 邦楽家の中からは洋楽の様式や手法 を取り入れた作曲をする者が現われ た。その代表的な動きが宮城道雄を 中心とする「新日本音楽」運動であ る。他面 , 政府の文化財保護政策に よる重要無形文化財の指定と保護や , 学校の鑑賞教材に邦楽が取り入れら れるなど , 邦楽復興のきざしもみえ る。邦楽と洋楽との境界線がしだい に消えつつあるのが , 現代の実状で ある。 〔種類〕日本音楽の種類を大別すれ ば , 雅楽 , 声明 , 琵琶楽 , 能楽 , 箏 曲 , 琴楽 , 三味線音楽 , 下座音楽 , 尺八楽 , 民謡 , 現代邦楽となる。 れらのうち琵琶楽は , 平曲 , 盲僧琵 琶 ( 荒神琵琶など ) , 薩摩琵琶 , 筑前 琵琶に , 琴楽は一弦琴 ( 須磨琴 ) と 弦琴 ( 八雲琴もと東流簽二弦琴 ) に 分かれている。尺八楽は一節切よが すたれ , 虚無僧尺八 ( 普化尺八 ) だけ となっているが , これが琴古流と都 山流の二大流派となって対立。もっ とも複雑に分かれたのは三味線音楽 で , 語り物と歌い物との二筋道で発 展した。現代の新邦楽はこれらのど 刊を破っ の種類にも入れられない , 亠 た羽は、うきがある。羽は、うきは製図 . の場合 , 消しゴムのちりをはいたり , 養蚕で , 毛蚕 ! のはきたてに使う。荒 神畝は、うきとよばれる小は、うきはわ らしべで作られ , かまどのそうしに 使う。また洋服のちりをはくには , ホウキグサで作ったプルームを使う。 室内用には座敷は、うき , キビは、うき , シュロばうきなどがある。産地によ って編み方 , 形状にも特徴があり , 工芸的な美しいものもある。屋外用 にはシダは、うき , 竹は、うき , 草は、う きなどその材料による種類があり , 庭や道路の清掃に使う。その他 , 用 途によって特殊なはうきがある。ほ うきにはいろいろな民イがまつわっ ている。はうきをまたいだり , 踏ん だりすることをきらい , 長居の客を 帰すために , ほうきを立てるましな いがある。出産のときには山の神 , 産神社とともにはうき神があらわれ るものとして , 産室にほうきを立て て , 灯明 , 御酒を供える風習がある。 / そうし 〔礒員〕 たものカ { 多い 〔吉川〕 ほうきちり , はこり , 落葉 などをはく道具。古く「ははき」と よんだ。製作材料は , 鳥の羽 , 竹の 枝 , ホウキグサ , シュロ , わらしべ などで , そのしなやかな性質が利用 される。用途によって , 器具用 , 室 内用 , 屋外用に分けられ , 形状によ って小は、うき , 手は、うき , 長柄は、う きなどの別がある。器具用の小は、う きには , ハト , カモなどの羽で作っ はうき伯耆旧国名。山陰道に 属し , 現在の鳥取県西半にあたる。 伯州ともいう。大化改新で一国とな り , 6 郡からなっていた。鎌倉時代 には北条氏一門が支配し , 建武中興 により名和長年が守護 , 次いで山名 氏が倉吉を中心として守護を世襲し た。応仁の乱後は尼子氏に代わり , さらに 1563 年毛利氏が支配した。豊 臣秀吉の中国征伐により東部に南条 氏 , 西部に吉川氏を封した。江戸初 期には数藩が分割統治し , 1617 年鳥 取藩の池田光政が , さらに 32 年一族 の池田光仲が封しられた。廃藩置県 により 1871 年鳥取県 , 76 年島根県に 合併され , 81 年ふたたび鳥取県とな り , 現在に至る。く町歩下組帳 > ( 1716 ~ 47 ) によれは、 , Ⅲ約 12396 田」・ , 畑約 3985 田」・。総石高 , 慶長 3 年約 1 ( ) ( ) 947 石 , 元禄年間約 1944 17 石 , 大保 3 年 約 217991 石。近世の特産物には鉄 , べニノヾナなどがある。 〔谷口〕 平安時代 ( 貴族文化 ) 鎌倉時代 室町 , 安上桃山時代 ( 武家 , 僧侶文化 ) 江 ( 民 尸 衆文化 ) 尺八 説教 平家琵琶 田楽能 普化尺八 薩摩琵琶 説教節 ( 明暗流 ) インド仏教楽 ー盲僧上 渤海楽 インド楽 朝鮮 ( 三韓 ) 楽 ンナ ( 唐 ) 楽 情歌 原始演劇 農耕歌 軍歌 祭祀楽 声明ーー講式 物語琵琶 雅楽 ( 右方 ) 雅楽 ( 左方 ) 郢曲朗詠 \ 催馬楽 田楽 猿楽 風俗歌 神楽 大和舞 東遊 ( 原 ) 浄瑠璃浄瑠璃 三味線 箏唄筑紫流 ( 同 ) 八橋流 滑檮伎 琴歌 ( 大和歌 ) 田植歌 散楽 久米歌 猿楽能 ( 能楽トー 地唄 三味線 琴古流 説教浄瑠璃 大薩摩節 生田流 端唄 ( 上方 ) 長歌 山田流 ( 江戸 ) 長唄 小唄 歌沢 ホウキ 邦楽系統略図 ( 田辺尚雄による ) 明治 , 大正 , 昭和 ・一イ国民文化 ) ーー 都山流 - ー新尺八 キ早ー“・上第上を し月リ上し巴 源氏節ーーー・浪花節 瑠璃の項を参 ) 分化については浄 ( 注浄瑠璃の系統 ( 新日本楽 ) 新曲

8. 国民百科事典6

プンカクン 5 5 1 作家 E. ゴンクールの遺志で ( ) 3 年に設 する新たな見地から科学 , 芸術など のく道標〉 , 中野重治のくむらぎも〉 の向上発達に関し顕著な勲績のある などが記憶される ; なお短歌 , 俳 定された小説への賞金で , プルースト 諧 , / 俳句 , / 和次などの項を参照 ものを表彰するため」であって「し やノヾルビュスらか、受賞。米国にはピ たがってこれまでの勲章のように勲 されたい 〔長谷川〕 ュリツツアー賞があり , 新聞人 J. ピ ぶんがくかい文学界文芸雑誌。 ュリツツアーの遺志により 18 年に設 等または功級などの階級はなく , ま 定された賞金で , 文学 ( 歴史 , 伝記 , 1893 年 1 月創刊 , 98 年 1 月 58 号で終 ったく単一級」であった。勲章授与 詩 , 戯曲 , 小説 ) と新聞の各部門に分 刊。キリスト教的婦人雑誌く女学雑 に関する事務は総理府賞勲部で行な かれている。これらは各年ごとに授 誌〉などを母胎とし , 星野天知主宰 うが選考に関する事務は文部省が担 のもとに平田禿木 , 島崎藤村らに 賞されてそれぞれの国内での最高権 当する。毎年 10 人の選考委員 ( 学術 よって発起され、北村透谷 , 戸川秋 威となっているが , 西ドイツのゲー 関係 5 人 , 芸術関係 5 人 ) が委嘱さ 骨 , 上田敏 ( 柳村 ) らが加わり , 樋口 テ賞のように 3 年に 1 回のものなど れ , これらの委員が受章候補者名を 一葉 , 田山花袋らも寄稿した。当時 もある。日本では新聞社 , 出版社の 持ち寄って選考会議を開き , 最終 4 ~ 支配的だった硯友社文学の卑俗さ 設立した多くの文学賞がジャーナリ 6 名の候補者にしは、り , これを文部 に反対し , とくに北村透谷や藤村を ズムをにぎわしているが , 有名なも 大臣に答申する。その後受章者を閣 代表とする前期には , 人間の内的欲 のは文芸春秋社が , 1935 年に芥川竜 議で正式に決定し , 天皇の裁下を得 求に基づく近代的自我の確立をめざ て発表される。授与式は 11 月 3 日文 之介 , 直木三十五を記念して設けた した浪漫主義運動を展開したが , 上 化の日に宮中で行なわれることが・直 芥川賞 , 直木賞である。第二次大戦 田敏に代表される後期には , 知的趣 例となっている。形はタチノヾナの花 , 中にいちど中断されたが , 前者が純 味性と芸術至上主義の傾向が強くな 径 6.6 cm 。文化勲章の受章者は 1937 文学 , 後者が大衆文学における新人 った。なお 1933 年同名の文芸雑誌が 年以降 65 年まで総数 134 名 ( 学術関係 の登竜門となっている。 〔清岡〕 林房雄 , 小林秀雄 , 武田麟太郎らを 75 名 , 芸術関係 59 名 ) である。 ぶんかくんしよう文化勲章イ 同人として発刊され , 当時台頭しつ 文化勲章には年金を伴わないが タリアのサポイア文功勲章 , フラン つあったファシズムに抵抗する文芸 別に文化功労者年金法 ( 昭 26 法 125 ) スのノヾルムサカデミーク勲章 , 英国 復興の一機運を示した 〔広末〕 のメリット勲章 , オーストリアの芸 により日本の文化の向上発展に功績 ぶんかくしよう文学賞世界に 顕著であった者に終身年金川 ( ) 万円を 術および学術功労勲記章などが世界 で有名な文化勲章であるが , 日本で 支給し , その功に報いる制度があり , おける文学賞はきわめて数が多いが , も 1937 年 2 月 11 日 , 当時の紀元節の 文化勲章受章者は全員文化功労者に ます国際的なものに / ノーベル賞が 日に文化勲章令 ( 勅令 9 号 ) が公布さ も同時に選ばれ , 年金を支給されて ある。文学部門は第 1 回めの 1901 年 れ , 文化の発達に関しとくに功績の いる。文化功労者選考審査会は文化 にシュリ・プリュドム , その後タゴ すぐれた者に文化勲章が授与される 勲章受章者選考委員会が兼ね , 毎年 ーーノレ , ロ ? ン・ロラン , Th. ? ン T. S. ェリオット , ジッドら各国一 ことになった。制定時の賞勲局の解 10 名程度の文化功労者を選び , その 流の文学者が受賞。国内的なもので 説談話から引用すると「文化勲章の うち 4 ~ 6 名を文化勲章受章者にも は , フランスにゴンクール賞がある。 目的は文化価値自体を評定しようと 選ふ、という方法をとっている。 1966 松 ( 気象学 ) , 真島利行 ( 化学 ) , 谷崎 基 ( 法医学 ) , 村上武次郎 ( 金属学 ) , 八 文化勲章受章者一覧 潤一郎 ( 文学 ) , 志賀直哉 ( 文学 ) 。 木秀次 ( 電気工学 ) , 山田耕筰 ( 音楽 ) 。 四 37 年長岡半太郎 ( 物理学 ) , 本多 1950 年牧野英一 ( 法理学 ) , 田辺元 1957 年牧野富太郎 ( 植物学 ) , 緒方 光太郎 ( 金属物理学 ) 、木村栄 ( 地球 ( 哲学 ) , 藤井健次郎 ( 植物学 ) , 三島 知三郎 ( 病理学 ) , 久保田万太郎 ( 文 物理学 ) , 佐佐木信綱 ( 短歌 ) , 幸田露 徳七 ( 金属学 ) , 小林古径 ( 日本画 ) , 学 ) , 小平邦彦 ( 数学 ) , 西山翠嶂 ( 日 伴 ( 文学 ) , 岡田三郎助 ( 洋画 ) , 藤島 上井晩翠 ( 詩 ) , 正宗白鳥 ( 文学 ) 。 本画 ) , 山田孝雄 ( 国語学 ) , 吉住小 武二 ( 洋画 ) , 竹内栖鳳 ( 日本画 ) , 横 1 951 年柳田国男 ( 民俗学 ) , 光田健 三郎 ( 長唄 ) 。 山大観 ( 日本画 ) 。 輔 ( らい医学 ) , 西川正治 ( 原子物理 1958 年北村西望 ( 彫刻 ) , 近藤平三 1940 年高木貞治 ( 数学 ) , 西田幾多 学 ) , 菊地正士 ( 原子物理学 ) , 斎藤 郎 ( 薬学 ) , 野副鉄男 ( 有機化学 ) , 松 郎 ( 哲学 ) , 川合玉堂 ( 日本画 ) , 佐々 茂吉 ( 短歌 ) , 武者小路実篤 ( 文学 ) , 林桂月 ( 日本画 ) 。 木隆興 ( 病理学 ) 。 中村吉右衛門 ( 歌舞伎 ) 。 1 959 年川端童子 ( 日本画 ) , 小泉信 1943 年伊東忠太 ( 建築学 ) , 鈴木梅 1952 年梅原危三郎 ( 洋画 ) , 熊谷岱 三 ( 経済学 ) , 丹羽保次郎 ( 電気工学 ) , 太郎 ( 農芸化学 ) , 朝比奈泰彦 ( 薬学 ) , 蔵 ( 結核医学 ) , 佐々木惣一 ( 憲法学 ) , , 里見弴 ( 文学 ) , 吉田富三 ( 病理学 ) 。 湯川秀樹 ( 原子物理学 ) , 徳富蘇峰 ( 政 辻善之助 ( 日本史 ) , 朝永振一郎 ( 原子 1960 年岡潔 ( 数学 ) , 佐藤春夫 ( 文 治評論 ) , 二宅雪嶺 ( 社会評論 ) , 和田 物理学 ) , 永井荷風 ( 文学 ) , 安井曽太 学 ) , 田中耕太郎 ( 商法 ) , 吉川英治 英作 ( 洋画 ) 。 郎 ( 洋画 ) 。 ( 文学 ) 。 1944 年田中館愛橘 ( 地球物理学 ) , 1953 年板谷波山 ( 陶芸 ) , 字井伯寿 1 961 年鈴木虎雄 ( 中国文学 ) , 水島 岡部金治郎 ( 電気工学 ) , 志賀潔 ( 細 ( インド哲学 ) , 香取秀真 ( 鋳金工芸 ) , 一郎 ( 化学 ) , 川端康成 ( 文学 ) , 堂 菌学 ) , 稲田竜吉 ( 細菌学 ) , 狩野直 喜多六平太 ( 謡曲 ) , 羽田亨 ( 東洋史 ) , 本印象 ( 日本画 ) , 福田平八郎 ( 日本 喜 ( 中国文学 ) , 高楠順次郎 ( インド 矢部長克 ( 地質学 ) 。 画 ) , 富本憲吉 ( 工芸 ) 。 哲学 ) 。 1 954 年勝沼精蔵 ( 血液学 ) , 鏑木清 1 962 年梅沢浜夫 ( 細菌学 ) , 桑田義 1946 年中田薫 ( 法制史 ) , 宮部金吾 方 ( 日本画 ) , 金田一京助 ( アイヌ文 備 ( 植物細胞学 ) , 平櫛田中 ( 彫刻 ) , 奥 ( 植物学 ) , 俵国一 ( 金属学 ) , 仁科芳 学 ) , 高浜虚子 ( 俳句 ) , 萩原雄祐 ( 大 村上牛 ( 日本画 ) , 中村岳陵 ( 日本画 ) 。 雄 ( 原子物理学 ) , 梅暑万三郎 ( 能楽 ) , 文学 ) 。 1 963 年久野寧 ( 生理学 ) , 古賀逸策 岩波茂雄 ( 出版 ) 。 1955 年大谷竹次郎 ( 演劇事業 ) , 稀 ( 高周波工学 ) 。 1 948 年木原均 ( 遺伝学 ) , 長谷川如 音家浄観 ( 長唄 ) , 平沼亮三 ( 体育 ) , 1 964 年茅誠司 ( 金属物理学 ) , 大仏 是閑 ( 評論 ) , 安田靫彦 ( 日本画 ) , 朝 二木、兼三 ( 伝染病学 ) , 前田青邨 ( 日本 次郎 ( 文学 ) , 藪田貞治郎 ( 農芸化学 ) , 倉文夫 ( 彫刻 ) , 上村松園 ( 日本画 ) 。 画 ) , 増本量 ( 金属学 ) , 和辻哲郎 ( 倫 吉田五十八 ( 建築 ) , 我妻栄 ( 民法 ) 。 1949 年尾上菊五郎 ( 歌舞伎 ) , 津田 理学 ) 。 1 965 年赤堀四郎 ( 生化学 ) , 小絲源 左右吉 ( 東洋哲学 ) , 鈴木大拙 ( 仏教 1956 年安藤広太郎 ( 農学 ) , 坂本繁 太郎 ( 洋画 ) , 諸橋轍次 ( 漢文学 ) , 山 学 ) , 三浦謹之助 ( 内科学 ) , 岡田武 二郎 ( 洋画 ) , 新村出 ( 国語学 ) , 古畑種 ロ蓬春 ( 日本画 ) , 山本有三 ( 文学 ) 。

9. 国民百科事典6

ヒガシャマ 19 ( ) 7 くニグロの踊り子〉 ヒ。カソ 74857 ( 1965 ) 。市街は鎌倉街道の宿 駅 , 武蔵野開発の拠点として発達し た。西武鉄道が通し , 近年都心部へ の通勤住宅地として発展している。 野菜 , 狭山茶の産が多く , 電気機器 などの工場もある。 〔駒井〕 ひがしやま東山福島県会津若 松市にある温泉。泉質含食塩セッコ ウ泉 , 含ボウ硝弱食塩泉 , 泉温 28 ~ 62 ℃。会津若松駅の南東 5 km, 湯川 の渓流にのぞむ。磐梯高原や猪苗代 湖への西の観光基地となり , 飯坂温 泉に匹敵する繁華な温泉街が発達し ている。温泉の裏手の背炙山へは 空中ケープルが通し , 冬はスキー場 となる。名産に会津塗の漆器 , 郷土 がん具の赤べこがある。会津若松駅 前から / ヾスが通しる。 〔伊崎〕 2 8 0 を作った。上佐光信は大和絵を復 興し , 金工では後藤祐乗があらわれ た。建築では書院造りが成立し , 褝 宗的色彩の濃い象徴的な庭園が造ら このように東山文化は , 伝統 れた。 的な公家文化と武家の文化を統一し , さらに褝宗を中心とする中国の文化 をとり入れ , きわめて洗練されたも のであるが , 幽玄 , 枯淡を尊ぶ逃避 的な性格をもっていた。しかしその 反面 , この時代には民衆の文化が著 しく進み , 御伽草子粘こが人々に親し まれ , く閑吟集 > には民衆のなまなま しい生活感情がうかがわれる。連歌 は宗祇が出て芸術的に高められる とともにひろく庶民にも流行してい た。また地方武将や戦乱をさけて地 方に疎開した公家や僧・によって文化 が地方に普及したこと , 茶道 , 華道 , 香道などのいわゆる伝統芸術は多く この時代に源を発していることなど 東山文化は日本の文化史上に重要な ひかしやま東山京都府南部 , 京都盆地の東辺を南にのびる低い連 山の名。古来「東山三十六峰」とい われ , / 大文字山 ( 446m ) , 将軍塚 , 清水山 ( 242 m ) , 稲荷山 ( 237 m ) など が知られている。古生層からなり , 京都盆地側は不明確な断層がいを呈 し , 東側は山科盆地に対している。 西の京都市街側の山腹には , 南神寺 , 知恩院 , 八坂神社 , 清水寺など有名 な古社寺があり , また近年蹴上か ら将軍塚までドライプウェーが通し , 山頂からは碁盤目形の京都市街が展 役割を果たしている。 〔福田〕 ひがしやまゆでん東山油田新 潟県長岡市街東部のはは、南北に連な る背斜丘陵にある油田。本格的な開 発は 1888 年に始まり , 西の / 西山油 田とともに有名であったが , 産油量 は 1960 年に 9597k / を産して以後 , 極 度に減少している。 〔千葉〕 望できる。 〔藤岡〕 ひがしやまぶんか東山文化室 町時代中期 , / 足利義政は晩年に 京都東山に山荘を造り銀閣を建てた。 ときに幕府は袞運期にはいり諸将を 制し得す , 上一揆を押えることも できなかったが , 義政は乱世をよそ に山荘で奢侈ヒやと風流の生活を送っ た。これが当代の美術工芸に著しい 発展の機を与えたので , 文化史上この 時代を東山時代 , その文化を東山文 化とよ京。学問文芸では一条兼良 らの有職 : 故実の研究や禅僧による 五山文学 ( / 五山 ) がみられ , 水墨画 では雪舟が大陸の模倣を脱した新境 地を開き , 狩野正信は / 狩野派の基 ひがしローマていこく東ローマ 帝国 / ビザンチン帝国 ピカソ Pablo Picasso 1881 ~ スペイン生まれの現代画家。マラガ に生まれ , 14 歳で父が教師をしてい たバルセロナの美術学校に入学し , すでにオ能を示す。 1900 年はしめて ノヾリに旅行 , 翌 01 年にノヾリに移って スタンラン , ロートレックらの影響 をうけた。青を主調色とする深い人 間感情を・たたえた写実時代「青の時 代」がはしまり , 05 年から約 1 年ほ どは桃色が主調の「桃色の時代」と なり , その後イベリアの古彫刻に影 響されしだいに感傷性をすてて造形 的把握に向かい , くアビニョンの娘 たち > ( 19 () 7 ) で一期を画した。やが てニグロ彫刻に親しみ「黒の時代」 をへてプラックとともに / キュビス ムの運動をはしめ : 絵画史上に一大 変革を確立した。 2 ( ) 年以後古典的写 実に向かって「古典主義時代」に移 り、 25 年からはシュルレアリスムの 影響をうけ , 29 ~ 31 年は「メタモル フォーズの時代」で彫塑的な制作を はしめる。 34 年から闘牛やミノタウ ロスを主題とする連作に従い , 37 年 にはナチスによるゲルニカの町の爆 撃に憤ってモニュメンタルな大作 くゲルニカ〉を描き , 非人間的残虐 に抗議した。第二次大戦中は不安と 抵抗を内包した象徴的な作品を多く 描いた。戦後 46 年から南フランス海 岸に住み明るい作品を制作 , またバ ロリスでは陶器に熱中 , このはか版 画 , 彫刻にも秀作がある。一方占領 下におけるフランス共産党の果敢 レジスタンスに共鳴したピカソは 年フランス共産党に入党 , 以後平 擁護の運動に協力しく朝鮮の虐 ( 1951 ) , く戦争と平和 > ( 1952 ) な 大画面の問題作を発表し , その後 現代絵画の第一線として精力的に 作に従事し , その様式 , 手法に新 線を開拓しつつ , 世界の画壇に強 影響を与えている。 / ( 別刷 ) 抽象 術 / ( 別刷 ) デッサン 〔坂崎 ビカネ′レ B i k a n e r インドの 西部 , ラジャスタン州の都市。人 150634 ( 1961 ) 。 / タール砂漠北部一 あリ , 旧ビカネル藩王国の主都で , 城壁に囲まれた市内の北東部には さいや宮殿がある。 こはまた有 なマルワリ商 / 、の根拠地でもあり , その大邸宅が多い。タール砂漠の 部の商中心地で , 羊毛 , 皮革な 2 の商取引が行なわれ , また , しゅ たん , ンヨール , 毛布など毛織物 皮製品を産する。 19 58 年着工のラこ ャスタン運河の完成によって付近し 変容が期待されている。 〔斉藤〕 ひかり光物体から反射して れわれの目にはいり , 視感覚を与ス るものをいう ( 可視光線 ) 。われわオ が物を見ることができるのは , 物を で反射した光が , それにより濃淡ク 差 , 着色の差を生するからである。 しかし広い意味では , 目には感し ~ い赤外線 , 紫外線を含めて光とい 場合もある。光は干渉 , 回折なら ( に偏光の現象から , 波長の短い / 磁波であることが知られている。 視光線の波長はだいたい ( ). 4 ~ ( ). 8 /. ( ミクロン , 1 ″ = 1 ( ) ー 6 rn ) の範囲で 短い波長の光は紫または青 , 長いお 長の光は赤く感しる。すなわち ( ). 4 ん より短い電磁波が / 紫外線 , ( ). 8 ″ より長い電磁波が / 赤外線で , と に目にはいっても視覚は生しない。 その波長範 ' 囲はそれらの光の使わオ る分野によって違う広さの解釈を [ ており , 広い意味での紫外線は X 糸 と , 赤外線はマイクロ波の電波と を接している ( / スペクトル ) 。 の光は広い範囲の波長の電磁波の当 まったもので , その集まりぐあいい よって色が違う。ただーっの波長ク 電磁波だけの光を単色光とよぶが , ネオンサインの光を / 分光器を通し て見ると , 多くの線からなるスペづ トルが見え , その 1 本をとリ出し 光が単色光である。単色光は決まー た波長の電磁波であるが , 通常の 波のように , 長い時間継続した波 ( こ れをコヒーーレントな波という ) で :. なく , 数 m 程度の比較的短いきれき れの波が無数に集まったものであ 個々の波は咒波のもっとも基本と乙 る波で , 「一連の波」とよばれる。 つの一連の波はあとに述べるように ーっの咒量丘が空間を伝わる姿で多 一連の波は電磁波で , 光速度糸。 る。

10. 国民百科事典6

ビジュッ 18. 9 第 種々の元素 , 物質の比重 物質 亜合 アンチモン ウラン カノレシウム クロム ケ、ノレ・マ ニウム コノヾノレト 水銀 スズ ( 灰色 ) 炭素 ( 石墨 ) 比重 9 5.35 1 ・ 55 6.684 7. 14 8. 10. 5 19.3 7.86 2.25 5.75 13.546 物質 鉛 比重 8.92 11.3437 物質 がラス 比重 ノケノレ 8.90 白龕 21.45 ビスマス 9.80 アセトン ( 17 ℃ ) 0.7955 アノレコーーノレ 工チル ( 加℃ ) ( ). 7892 メチル ( 20 ℃ ) 0.7928 牛乳 1. ( ) 3 ~ 1.04 酢酸 ( 純 , ℃ ) 1. ( ) 492 硝酸 ( 純 ) 1.5 ( ) 2 硫酸 ( 純 ) 1.834 花コウ岩 2.6 ~ 2.7 クラウン 2.4 ~ 3.6 フリント 2.8 ~ 6.3 ( ). 91 ~ ( ). 96 氷 ( 0 ℃ ) ( ). 917 コノレク ( ). 22 ~ ( ). 26 磁器 ( 一般 ) 2. ( ) ~ 2.6 水品 砂糖 食塩ネ 2.65 1.59 2. 17 ノヾラフィン 0.87 ~ 0.94 セメント 3. ( ) ~ 3. 1 上 ( ふつうの ) 約 2 レンが 1.2 ~ 2.2 注多孔性または粉状物質のうち * は実質の比五。その他は外面的の 体積によった比重 比重測定法 3 例。左は 木やコルクなど水より 軽い固体を水中におい て試料と同体積の水の 重さを浮カから求め , それで試料の重さを割 る。中は硫酸など液体 の比重を同一容器の水 の重さと比べて測る方 法。右は簡単に液体の 比重を知るためのうき ばかり式比重計。比重 の重い液用と軽い液用 の 2 種がしめしてある 水より 軽い固体 おもり 体と純水との密度の比だともいうこ とができる。純水の密度は 1 g / cm3 で ある。したがって g /cm3 で表わした 密度と , 比重との数値は等しい。 〔比重の測定〕ばねばかりで固体の 重さルをはかる。次に水中に沈めた 重さⅣ・をはかる。この場合浮カⅣー Ⅳ ' は , 物体と同体積の水の重さに等 しい ( アルキメデスの原理 ) から , 固 体の比重はル / ⅣーⅣ ' で表わされる。 液体の比重はふつううきばかリでは かる。これは下端に鉛の散弾を入れ た球部をもち , 上部に目盛を刻んだ 細長い管をもつガラス管である。 れを液体に浮かべると , 比重の小さ い液中では深く沈み , 比重の大きい 液中では高く浮き , 目盛によって比 重が求められる。精密な測定には比 重びんを使う。これには毛管の穴が 通った細長いせんか、ついていて , 液 体を満たしてせんをすると余分の液 は毛管から流れ出る。びんの重さル 0 , 水を満たしたときの重さⅣ , 液体を 満たした重さル ' をてんびんではかる と , 液体の比重はⅣ ' - ー既 / Ⅳー既で 求めることができる。 〔斎藤馨〕 びじゅっ美術 / 建築 , / 彫刻 , / 絵画 , / 工芸などの造形芸術を総 称することば。美術はいすれも視覚 に訴え , 空間のうえに成立するとこ ろから視覚芸術 , 空間芸術ともよば れる。世界の美術の歴史は , 3 0 8 物によって遠く旧石器時代にさかの されたい こでは日本美術につい 容については , おのおの項目を参照 鮮 , 日本の美術である。これらの内 ラム文化 ) , / インド , / 中国 , / 朝 いては , ペノレシア , イスラム ( / イス 世紀にいたる美術であり , 東洋にお / ノヾロック , / ロココをへて 19 ~ 2() ク , ゴシック , / ルネサンスから ン ( / ビサンチン帝国 ) , / ロマネス / ローマ ( / ローマ帝国 ) , ビサンチ 工ント美術にはしまり , / ギリシア , ジプト , / メソボタミアなどのオリ のをあげれば , 西洋では古代の / ェ 東洋美術に分類されるが , おもなも 呈している。今日大別して西洋美術 , れぞれにきわめて特色のある様相を たるまで各時代 , 各地域においてそ ばることができ , その後 , 現在にい てまとめてのべる。 大化改新以後 , 奈良を首都と・した時 後期の天平時代に分けることもある。 これをさらに前期の / 白鳳時代と している。 3 ) / 奈良時代 ( 64 5 ~ 793 ) 工芸品ともども , 荘重な美しさを示 ものとみられ , 収蔵した当時の彫刻 , 法隆寺の建築は当時の様式を伝える 化受容能力の高さを示すものである。 を摂取消化した過程は日本民族の文 たが , 朝鮮を仲介として北魏の美術 はまったく異質の仏教美術が興隆し って仏教が栄え , それ以前の美術と あった。聖徳太子の信仰と保護によ 時代で , 首都は大和の飛鳥付近に 644 ) 仏教伝来から大化改新までの 原始的である。 2 ) / 飛鳥第時代 ( ~ して , まだ美術とよぶには , 素朴で 注目すべきものではあるが , 全体と 埴輪の明快な形体感などそれぞれ 代の大型墳墓や武器 , 装身具の発達 , との交通も盛んになった古墳文化時 上器の洗練された器体感とか , 大陸 器や土偶のたくましい造形 , 弥生式 墳文化時代に大別される。縄文式土 化時代 , / 弥生よ式文化時代 , / 古 渡来以前の時代で , / 縄文う式文 ることができる。 1 ) 上古時代仏教 ほは、以下の時代区分によって通観す 〔日本の美術〕日本美術の歴史は , その遺 0 0 からのびん 0 軽い比重計 水 重い比重計 硫酸 水 アル コール 代で , 唐と交通してその文化をと 能衣装や金工 , 蒔絵などの豪華フ 級を母胎に大和絵を革新していく。 れ , 一方 , 俵屋宗達らは新興市民ド の布教に伴う / 南蛮の美術も行なツ た風俗画が成立し , またキリスト 級も興隆し , その市民の遊楽を描し 璧画がその傾向を代表する。市民ド 造や , 城や書院の内部装飾であるド 開花する時期で , 城郭のあいつぐ夏 が統一し , 英雄主義の豪壮な様式ノ 国時代の乱世を織田信長 , 豊臣秀朝〔 / 安上イ兆山時代 ( 1573 ~ 1614 ) 代への大きな足がかりとなった 能楽などによって代表され , 次の日、 化時代は , 水墨画をはしめ茶の湯 , 褝宗の肖像画である頂相韜もしき一 水墨画が絵画の主流となる。一方 , れ , 周文 , 雪舟 , 狩野元信が出 達した。宋元絵画がしきりと輸入 竜安寺の石庭など象徴的な庭園が当 んになり , 神宗伽藍の建造とともい をおいた時代で , 褝宗がますます 1572 ) 足利氏が京都室町に幕 数作られた。 6 ) / 室町時代 ( 139 縁起 , 説話などに取材した絵巻が 像 ( 彫刻 , 画 ) が盛んとなリ , 軍記 , 慶がリアルな肉付けを示し , また 及した。仏像彫刻に運慶 , 快慶 , による北宋の唐様建築が各寺院に が伝来したが , しだいに褝宗の移ノ わる。建築では南宋から天竺様ー 実剛健の風潮に基づく現実主義へ彡 で , 前代の唯美主義が武家政治の発 での鎌倉に幕府のおかれていた時ィー 1391 ) 平家滅亡から南北朝統一 特色をなす。 5 ) / 鎌倉時代 ( 118 5 - 書道の発達や寝殿造りもこの時代し すぐれた絵巻や装飾経が制作され / が発達し , く源氏物語絵巻 > をはしよ 従来の中国系の唐絵に対し大和糸 画が描かれたが , さらに絵画では , 建築が建てられ , 多くの来迎図 { 族趣味が浸透した。阿弥陀堂式ク とげ , 浄上教を信奉する藤原氏の - 止に伴い , 日本独自の芸術の発展イ 配する。しかし後期には遣唐使の宿 密教美術が栄えて幽暗な神秘性カ舅 金剛峰寺など山地に伽藍蹶が営まオ 天台 , 真言両宗が伝えられ , 延暦響 国文化を日本化していく時代であ ~ での時期で , これまでに吸収した 都に首都がおかれてから平家滅亡 ~ 1184 ) からなるが , 全体として 代 ( 794 ~ 896 ) と後期の藤原時代 ( 89 安時代 ( 794 ~ 1184 ) 前期の貞観出 岐にわたる活動がなされた。 4 ) / 正倉院収蔵の精巧華麗な工芸など 法隆与金堂璧画に代表される絵画 , 寺 , 唐招提寺 , 東大寺などの建築 , 最高峰をなしている。そのはか薬 種の技法を駆使し , 日本彫刻史上 造 , 木彫のはかに乾漆 , 塑造など第 た ことに彫刻は前代からの金銅 入れ , 仏教美術の黄金時代を現出 [