人間的 昔、九条武子夫人という貴婦人がおられた。「おられた」とわざわざ敬語を使ったのは、私に 九条武子夫人のことを話してくれた乳母がいつも最上級の敬語を使っていたためである。 乳母の話によると九条武子夫人という方はこの世のお人とは思えぬほどの美女で、お生れは西 本願寺大谷光尊さまとおっしやる方のお嬢さまである。九条男爵と結婚なされたが、何でやしら ん、ご主人は外国 ( 行きなさったままお帰りゃない。それでも九条武子夫人はじィーと我慢しな さって、歌をお作りになり、また貧乏な人や病気の人を助けるためにお力を尽された有難いお方 である。お美しいばかりやのうて、学問があってお心がお優しゅうて、気品がおありになる。 「ほんまに女の鑑ゃなあ : : : 」 と乳母がいえば、数人の女中たち口々に、 「ほんまになあ」 「ほんまになあ」 と感嘆の言葉を洩らした。我が家の女中部屋の壁には雑誌から切り取った九条武子夫人の写真 が貼ってあった。九条武子夫人はその頃 ( 大正から昭和にかけて ) の日本の女性庶民の憧れのお おなご
人であられたのだ。 私の友達にも、九条武子夫人のような立派な女性になるようにという願いをこめて武子と名づ けられた人がいた。要するに当時にあっては「淑徳のほまれ高き女性」が女の憧れだったのだ。 九条武子夫人はご主人にほったらかしにされ、恨みもいわず、ヒステリーも浮気心も起さず、 実に十二年もの間、静かに孤閨を守られたのである。 これがまた、あの頃の女性にはこたえられぬ感動だった。優しく美しく、学あり才あるばかり でなく、十二年間もじっと孤閨を守られたということが。誰も、 「ホンマかいな ? 」 と疑ったりはしない。 九条男爵はあのような才色兼備淑徳のホマレ高き夫人を残して外国へ行ったきり日本へ帰っ 来ないのはなぜか ? 夫人は夫に愛されてはいなかったのか ? だとしたらそれはなぜか ? なぜ夫人は外国の夫君のもとへ行こうとしないのか ? きんし ざそんなことに疑問を持つ人間はその頃はいなかったらしい。神武天皇の弓の先に止った金鵄の まば か輝きに目がくらんだ工ゾのように、夫人の淑徳の眩ゆさに、人々は皆、黙して平伏したのである の 九条武子は「淑徳の精」ではなく「人間」であるべきだ。いや「生身の女」である筈だ 九条武子の話をしたら、そういっていきまいた女子学生がいた。
燗「わたし、ダンゼン調べますわ、九条武子の人間回復のために、彼女が観念のカイライでないこ とを証明するために、彼女のセックスの実体を掴み出します ! 」 どうもこの頃の進歩的女子学生というやつは、ことセックスとなるとやたらに大声上げていき り立つようである。 セックスを我慢している女は人間でないと彼女らは思い決めている。人間であるからこそガマ ンするということがあるということを彼女らは考えない。 「ガマンするのは因襲に縛られているからです ! 自己自身どして生きようとしないからで と私は叱られた。 九条武子はもはや女の理想像ではなくなった。誰も彼女を憧れない。なぜなら彼女は不自然な 禁欲生活に甘んじたからである。淑徳という言葉が消滅すると同時に九条武子の栄光も消えた。 彼女はただの「可哀想な人」「おとこ社会の犠牲者」となり果てた。 ではあなた方にとって女の理想像とは誰か ? 桐島洋子か美空ひばりか田辺聖子かと聞くと 「団地の隣の奥さんよ」という答であった。 なぜ隣の奥さんが女の理想像なのか ? 彼女は答えた。 「隣の奥さんは美人でないの」 「なるほど」
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178 悪者の顔 九州福岡へ行くべく娘と羽田空港へ行った。搭乗手続きをすませ、ロビーで案内を待ちながら ~ は - っ 1 はっ 見るともなくあたりを見ていると、一人の蓬髪の痩せた若者が買物籠を下げて。ホソンと立ってい るのが目に止った。買物籠というのは主婦が毎日の買物に出かけるときに腕に掛けて行くあの籠 である。 籠の中には何が人っているのか、丸めた上着がかぶせてあるので中身の見当もっかない。しか し籠の中の物はたいした嵩のものでないことは、丸めた上着が籠の七分目あたりにあることを見 てもわかるのである。 私は緊張した。 ハイジャック ? ・ 一瞬そういう疑惑が頭をよぎったからである。若者が買物籠を下げているとなぜハイジャック なのかと聞かれると困るのだが、とにかく私は若者と買物籠という取り合せに不気味なものを感 じたのである。 人はよく事件が起った後でいう。