「ねえ、松子さん、わたし考えたんやけど、この看護婦長さん、この人は望みウスやと思 うのやけど、どう思う ? 会長さんが病弱な人ならそれはええわよ、けど人一倍お若くて 、弱った時のた 健康な方でしよう。世界をマタにかけて活動してはるくらいやもの。第一 めに看護婦と結婚しておくなんて、不景気な話やないの : 「それはそうかもしれませんわねえ」 おかみ そういう人はいうたらなん 「それから料亭の女将やった人、この人もどうやろねえ : やけど、血イが濁ってはるわ。六十になるまで何人の男とカンケイもったか、なんぼ色香 があっても、会長夫人としてふさわしいかどうか。問題やわねえ : 「それはそうですねえ」 センセはだんだん元気になって行く。あんなに自信を失っていた人が、会長の「よろし く」の一言で、自信を取り戻したのです。 この人が有力候補や 「その点、大学教授の未亡人という人はまあ、難がないわねえ : 涙 のと思うけど : : : けど、どうやろ ? アメリカ帰りゃなんていうと、日本の婦道とはほど遠 い人とちがうんやろかねん 老 なにが婦道ですか。自分にいったいどんな婦道があるというのや、と折角穏やかな気持 になっていた私の胸がムカつくのです。 「そんならセンセが第一候補ということになりますねえ」
満足を感じた時か、さもなければ不足の時に、この「ふ、ふ、が出ます。しかし今の場合 は満足を感じた「ふ、ふ」にちがいなく、もそもそと起き上って、 「なんで ? 」 と訊きます。私は友野さんの電話のあらましを話しました。 「費用は三万円くらいですって、それくらい私が出させてもろてもよろしいけど」 「どんな人が行かはるの ? 」 みもと 「ある程度、健康診断書や身許の審査があるといいますさかい、ええ加減な人は来ません やろ。奥さんに先立たれて、寂しい。寂しいもん同士、いたわり合うて老後を過そう、と いうようなマジメな気持の人が多いんとちがいますやろか」 「女中代りに使うたろ、というような人とちがうやろね 「それは相手のお方次第ですわ。そやから、見合旅行して見極めますのやわ」 「ええ人がいたらええけどねえ : なにいうてる。こういう時は、「気に入ってくれる人がいたらええけどねえ」とい うもんや、と腹立たしく思いながらも私は穏やかに、 年「そうですねえ」 といいました。いつもならこのへんで、 「こっちばっかりええ人やと思てもねえ : : こういうことは相手のキモチというもんがあ
「うちのセンセ、あの人、幾つやと思う ? 」 と訊いてみましたら、為さんはいきいきした江戸弁で、 「ありや、若造りしてるけど、七十はとっくに越してるネ、七十三かな、四かね」 うれ 私は嬉しくなって思わす、 「ビッタシカンカーン ! 」 と叫んでしまいました。その後、為さんといろいろ話をするようになりましたが、為さ んはほんとにもの識りでカンもいい人なのです。 ある日、センセと二人でお茶を飲んでる時、センセはいきなり、 「あの人、美男子やわねえ。ええ歯してはるわねえ」 といいました。 「あの人って ? と訊くと、 「あの魚屋さん」という。 「ああ、為さんですか」 とい一つと、 「為さん ? 為さんいうの、あの人。ふーん」 うなず しばら あめ と肯いて、暫く黙って、玉泉堂のクロ飴を。ヒチャ。ヒチャなめていましたが、
178 五日ほどして友野さんから電話が来ました。それによると会長さんはセンセのことを、 「えろう若造りで色つぼい人だな」といわはったそうで、それは気に入ったということな のか、そうでないのかハッキリしないのだ、というのでした。何しろ忙しい人で、という まわ より忙しがっているのが好きな人だそうで、ゴルフへ行っても小走りに走って廻っている。 もう何十年もお昼はざるそばと決っているのやそうですが、かといって特におそばが好物 というわけではなく、おそばなら手つとり早く食べ終れるからなのだそうです。 「そんなに手つとり早いことが好きな人やったら、この縁談もざるそば食べるみたいにツ ルツルと決ってしまうかもしれんわねえ」 友野さんと私はそう、 しい合ったのでしたが、それから間もなく、また友野さんから電話 かかかって来て、どうやら先方にはセンセのほかにもう三人ほど候補者がいて、その三人 と順々に見合をしているのですぐに話は決らない様子やということでした。 「八十二になってはっても、やつばりああいう人になると、候補者はいくらでもいてはる んやねえ」 ねばっこくいって、いつまでも笑いつづけるのでした。別にそう笑うほどのことでもな
けが 「あんな穢らわしい人ともう、一つ屋根の下に住めません。帰ってもらいましよ」 「何かしはったんですか、樺山さんが」 「二人で : : : 住田さんと二人で、何してるか : : : あんた覗いてきたらええわー センセの声は慄えています。 「あの人わたしの枕もとに坐ってはったのに、とろとろしてふっと目工開けたら、そーと 部屋を出て行くとこやないの : : : それで何したと思う ? : : : 」 「何ですの ? 」 「納戸へ行って、住田さんの上に乗ってるの」 ! 私は絶句しました。 「センセ : : : それを : : : 覗き見しはったんですか ? 」 日 やっといいました。センセはそれには答えす、 で「布団も掛けんと、乗ってはるの : : : 」 と私を睨むのです。 け「あんないやらしい人とは思わなんだわ。不潔やわ。穢らわしいわ : : : 」 タ私はおかしさをこらえながら、 「けど、お二人はもう近々結婚しはる仲ですからねえ : : : 不潔というても : : : 」 そういうのに耳も貸さず、 ふる のぞ
「もしもし、松子さん」 「あ、友野さん : : : どうやった ? 」 思わず声が弾みます。 「はじめ樺山さんが出て来はってね。松子さんは、というたら、ちょっと待って下さいし うて、センセが出て来はったの」 「ふんふん、それで ? 」 「それがねえ、ものすごい元気な声で、『松子さんは気イ利かせて九州へ行ってしまった のよ、おかしい人 : : : 』やて」 「えツ、気イ利かせてフ 「そう。『誰も松子さんのこと邪魔ゃなんて思てないのに、あの人はほんまに人の気イば つかりかねる。ええ人やのよ』て : : : 」 「ええ人 : ・ 愾「そうよ。それで私、いうてやったの。『気イ利かせたんやなくて、もしかしたら逃げ出 おしはったんやないんですか』て : : : そしたら : : : 」 春「そしたら ? 」 わろ 「ケラケラ笑てねえ。『わたしと樺山さんがあんまり仲がいいから ? 嫉いてるの ? 』や て
その時、友野さんがこういうたんです。 おぼ 「あんた、松丸センセ、憶えてはる ? ほら、国語のセンセ : 「ああ、マルやんでしよ、憶えてるわ とい、つと、 「松丸センセ、えらい困ってはるねん。甥御さんとうまいこといかへんで」 っぺんも結婚せんままに年をとり、甥の世話になってはる それで私は松丸センセが、い ことを知ったのでした。友野さんは気のいい世話好きの人で、昔から困ってる人がいると 黙って通り過ぎることが出来ない性分の人です。 「あんたとこの白浜の家、どうなってるの ? 空いてるのやったら、住ませてあげること 出来へん ? 」 と友野さんがいうので、私は「そうやなア : ・ : 」と考えました。実はその頃私は、息子 夫婦と別れて白浜の家でいっそ一人で住もうかと考えていたのでした。香名子の箸の上げ 下ろしが気に障ってイライラしてるより、白浜で一人暮しをした方が、なん・ほか精神衛生 と思うのですが、しかし手伝いの人を雇うたら高くつくし、一人で暮すのはやっ ばり心細いし : : : とつおいっしてたところだったんです。 紀州の白浜の家は、主人の父が盛大に商売をしてた時に建てたもので、古いけど木ロは 最高。今、こんな家建てようとしたら、何億ですな、と皆さんはいうてくれはります。主 おいご
「松子さん一人、この広い家に残して出て行かれません、ていわはって : : : 」 「そんなこと、心配してもらわんでもよろしいのよ ! お二人はお二人のことだけ考えは ったら : : : 」 「ほくもそういうたんですけど、この頃の人は自分さえよかったらええ、という考えやか ら平気でそんなこと出来るけど、わたしは出来ません。松子さんは教え子でした。わたし を恩師と思て慕うてくれてます。その松子さんを裏切 0 たり出来ません、というて、ぼく しか えらい叱られましてん 「それで、樺山さんはどないしはるおつもりです ? すーっとこうして、ここでセンセの 下僕みたいになって、帰らはらへんつもりですの ? 」 あきら 「ほく、結婚は諦めようと思いますねん うつむ 樺山さんはしょん・ほり俯きました。 しゅんきん 「ぼく、春琴に仕える佐助になろうと思いますねん」 「そっちは勝手に佐助にならはったらええけど、私はどないなりますねん ! 」 ま 樺山さんに向ってなら、こうしていいたいことが。ホンポンいえるようになったのが不思 終議です。 「センセはどう思てはるかしらんけど、私のことなんか、なにも心配していらんのですわ。 一人でいる方がどんなにせいせいするか : : : 」
ひとつもかけ、好きなタコのさくら煮を作ってあげようという気にもなります。 と、センセはチンマリ坐ってた縁側からこっちをふり向いて、 「けど、あんたて、気の毒な人やね工。今もあんたのこと考えてたんやけど、子供三人も 産んで苦労して育てて、そんでこんな所で一人暮しせんならん。聞けばご主人とのアッチ のことかてちっとも満足がなかったようやし : : : ほんまに何のための人生なんやろねえ」 チンマリ坐って何を考えてるのかと思たら : 「これでも私は教育にたずさわって、何万、何千という人を社会に送り出しましたさかい 意義ある人生やったと思てます」 「でも結婚はしなさらなかったんですねー 一矢を報いたつもりでも、 「その代り、ぎようさんの人に恋されたり愛されたりして」 「フェラチオもクンニリングスもよう知ってはる ? 」 しいにくい言葉を投げつけてやりましたが、 「はいナ」 打てば響くように答えが返って来て、 しあわ 「あんたよりは倖せな人生やったかいなあ、と思てます。この年になっても、まだ好いて くれはる人がいてくれるし」
「まあ、読むくらいならどうにか出来るけど、むつかしい会話はねえ : センセは心細そうな声になりました。 「英語がしゃべれなかったらあかんのやろか ? 」 と急に大阪弁に戻る。 「それはしゃべれへんより、しゃべれた方がええでしようねえ。やつばり貿易会社なんや ーテーに出ても何もしゃべれずにニャニヤ笑 から、外国の人との交際が多いやろうし。 うてばかりいるのも、ホッペタが痛うなるばっかりで辛いもんやって、今泉さんもいうて はりました。今泉さん、ご存知でしよう ? 私らのクラスで友野さんと一番を取り合うて た今泉さん。この頃、英語の勉強をはじめたんやそうですよ。ところが若い時と違うて記 おぼ 憶力が落ちてるでしよう ? 昨日憶えた単語、今日はもう忘れてるんですて」 私は笑い声を上げました。何というキモチのいい笑いやったでしよう。久しぶりに、 うら 涙 のえ、はじめて、私はセンセをやつつけるチャンスを握ったのです。積年の怨みを晴らす時 が来たのです。 老その夜遅く、私は友野さんに電話をして、その後の様子を訊きました。三人の候補者の うち、一人は大学教授の未亡人で一人が大病院の、来年停年になるという看護婦長さん。 おかみ もう一人は粋筋の出で、一時は高級料亭の女将をしていた人やといいます。センセにとっ いきすじ つら ちょっと :