そういってクックッと笑うのを聞いたたけで、もうムカーツときているのです。いうま いと思うのに私は、 「なにがですのん」 とつつけんどんにいってしまうのです。 「今日ね、あんたがお墓参りに行ってる留守に来て、台所の外で、奥さん今日のカニ、 いよ、見てよ、というもんやから、出て行ったら、ほら、このカニ、ちょっとさわってご らん、いうて、わたしの手、取ってギュウと握るのん 「へーえ。けどそれ、センセが勝手に握られた気がしただけやありませんの ? 」 「ギウと握って放さへんの」 と嬉しそうに笑う。 「為さん、やめなさい、杉本さんが帰って来るわよ、というたら、今日は杉本さんは留守 うれ ですか。嬉しいな、やて。そんでお茶飲んでいろんなことしゃべって、あんたいい加減に 帰ったら、というても帰らへんのよ : : : 」 「そうですか。為さんもよっぽど退屈してますのんね」 とイヤミをいうても通じず、 「あの人、わたしのこと好きゃねんて。いつも杉本さんが留守だったらいいのになあ、や
216 会長さんのこと : : : そゃないと、なんで熱海まで一緒に行きますねん : 「いややわア、樺山さん。あんたヤいてるのん : : : 」 私は聞いていられません。樺山さんが来てくれてほっとしたのも束の間、夜中にゴトン うかカ と音がするたびに、首吊りの心配して様子を窺いに行く必要はなくなった代りに、遅うま であんましながらイチャイチャしている声に神経が立って寝られません。 そうして樺山さんが来て二週間目に入ろうとしている時でした。私がタ方の買物をして 帰って来ると、門の前にうちの表札を見上げて顔の汗を拭いている女の人がいました。ち よっと見たところ、顔見知りのヤクルトおばさんに似てたので、あらおばさん、今日はえ らいョソ行き姿で : : : と、 しいかけて、見も知らん人やったことに気がっきました。茶色の スカ 1 トに白いブラウスを着て、今ふうにいうとジャケットというんですか、白と茶色の じま 格子縞の七分コートみたいなんを羽織っています。 「あのう : : : ちょっと伺いますけど、こちら杉本さんのお宅ですかいな ? 」 横をすり抜けて門へ入ろうとする私を見ていいました。顔を見ると小太りの色白の丸顔 ずくら の真中に、チマチマと可愛らしい目鼻口が集った、伊豆蔵人形みたいな人です。年は五十 七、八というところでしようか。 わたし杉本ですけど : : : 」 「失礼しました。杉本さんの奥さんですか。こちらに樺山さん、来てはらしませんやろ
「あの人、小さい時に親に死なれて、おばあさんに育てられたいうてましたから、きっと 懐かしいんでしよう」 センセはケロリという。 「そうやないねんわ」 「そんなら何ですのん ! 」 「わたしのこと、好きゃねんわ。 「そやから、おばあさん育ちやから、おばあさんが好きなんでしよう」 「ちがうの。男心でわたしに惹かれてるの」 友野さんは、それはもしかしたら「イロポケ」の前兆かもしらんわよ、といいました。 しかし一緒に暮しているとポケてはるとは一概に思えず、お金の勘定やら社会の動きにつ いての記憶は私なんぞよりすっとしつかりしているのです。 「あんた、杉本さん。隠してることあるでしよう ? あんた、為さんのこと、好きなんで しよう ? 」 私はセンセからそういわれました。 「わかってるのんよ。あんたが好きなこと。だってあんた、わたしが為さんのことをいう とイヤアな顔するやないの」 とっさ 私は咄嗟の返事に詰って、まじまじとセンセを見つめるばかり。
といいました。 「はい、杉本ですけど」 「ほく、樺山ちゅう者ですけど」 うわさ 「あらまあ : : : 樺山さん : : : お噂はかねてセンセ : しいかけると、 「松丸みね子さん、いてはりますか」 性急にかぶせて来ました。 「あ、松丸センセは出かけはりましたけど、ご一緒ゃなかったんですか ? 」 「出かけはった ? 何時頃です ? 」 「お昼前でしたけど、私はてつきり : : : 」 樺山さんはみなまでいわせす、 「そんなら、やつばり : : やつばりほんまやったんですなあ : : : 」 いうなり、へたへたと南天の前の庭石にへたりこんでしまい、節くれ立った両手で顔を 抱えて、何やらロの中でブップッいっています。 年「どないしはったんです。樺山さん : : : 樺山さん : : : 」 思わす肩に手を掛けますと、その手をんでじっと私を見上げたヤプニラミの眼に、み るみる涙が湧き出て来たのでした。
えたらその分、かかりが増えるんですよ ! そのこと、どう思てはるんです。と、洗いざ ら、 ししい立ててやりたい。あれもこれも、あの時もこの時も、と思い出してはハラワタが 煮えくり返っていると、友野さんから電話がかかって来ました。 「松子さん、あんた怒ったらいかんよ」 「なに ? どんなこというてるの、あの人 ! 」 私はもう怒ってる。 「私、訊いたのよ。『松子さんがお留守でお食事どうしてはりますの』って。そしたらね、 あんた、怒りなさんな」 「なによ、なんですフ ちやわん 「『魚忠に仕出し、頼んだんよ』て、ケロッとしてはるの。お刺身と茶碗むしゃて」 「お刺身 ! 茶碗むし ! 「『寒ブリのお刺身、おいしくてホッペタが落ちるようやった』って」 愾私は言葉が出ない。 お「松子さん、帰った方がいいわよ。毎日、仕出しとられたら、あんた : : : 」 春「それはセンセに択ろてもらいます ! 」 「けど、こういうてたわよ。『どこの店でも別荘の杉本ですけど、というたらッケにして くれるから便利よ』ていうてはったもの」
「松子さんいうたら、松子さアんン : と金切声になる。 「松子さんツー : ・杉本さんッ ! 」 みようじ と苗字も呼ばれると、昔、女学校でセンセの生徒やった時の気分に襲われて、 「ハイハイハイ」 つい慌てて走って行ってしまうのです。 「センセ、ええお天気ですよ。桜がきれいに咲いてますから、ちょっと起きてみはったら、 気分もまた変るのんとちがいます ? というのですが、センセは夜着の襟から目だけ出して、 れ 「そうお : : : けど、しんどうて : 日 というだけです。 で「松子さん、今朝は半熟玉子とオー ールだけでええわ。 : それにお食後はグレープ やフルーツね」 け なにが「お食後や ! 」と思いながら、私は、「ハイハイ」といってしまう。友野さんが や タ いうように、そんなもん聞えんふりしてほっとく、というわけにはいきません。そう出来 9 たらどんなにいいかと思うだけで、私には出来ないんです。 センセの風邪のモトというのは、足立商事の会長さんに熱海のお風呂で背中を流させら ふろ
し / 」し どないしはりましてん ? 」 樺山さんは心配でたまらないという顔を、入って行った私に向けました。 おおみそか 「大晦日にそばがきを食べはって、それがいかんかったんやと思うんですけど : : : お腹が 元日いつばい下って、その後、はっきりしませんの」 「そんで熱はフ と声をひそめます。 「たいした熱やないんですけど、平熱よりいくらか高いんですわ」 「お医者さんは何というてますんやフ 「それが五日までお正月休みで、明日からやないと来てくれはらしませんの。けど原因は わかってますから、そう心配ないと思てるんですけどねえ」 その時、それまでじーっと目をつむっていたセンセが、細目をあけました。 「あ、目、覚めはりましたか。ぼくです。樺山です。杉本さんから ( ガキもろて、びつく りして飛んで来ましたんや : : : 」 樺山さんはしなびた小さな顔をつき出して、丸い目を潤ませました。 「えらい目にあいはりましたなあ : : : どないですか、気分 : : : 」 「ああ、樺山さん : : : 来てくれはったんねえ」 センセはびつくりするようなか細い作り声でいいました。
その日の昼前、センセは「ちょっと行てきます」といって家を出て行きました。この頃、 「ちょっと行てきます」といわれても、私はもう、前みたい冫 こ「どこへ ? 」とは尋ねませ ん。行き先をわざといわず、私をじらそうとしているセンセの魂胆がにくたらしい。訊き しつだったか、 たいけれど訊かない。、 「あんた、わたしが出かけるたんびに、、 とこへ ? と訊かはるけど、そんなに気になる ? 知りたい ? 」 といわれてからは知らん顔して横向いて、 「お早うおかえり というだけです。聞かずともわかっている。どうせ樺山さんとのデイトに決まっている んです。 センセが出かけた後、テレビを見ながら煮豆に入れる昆布を切っていると、玄関のチャ イムが遠慮がちに鳴りました。出てみると鼠色の背広を着て、灰色の鳥打帽をかぶった小 さな老人が立っています。 「すんません。こちら、松丸みね子さんのお宅ですやろか」 ひげ といいます。銀縁のメガネをかけてチョビ髭を蓄えている。丸いちょっとヤプニラミの 眼がじっと私を見て、 「あの、失礼ですけど、杉本松子さんですやろか」
と急に妙な東京弁になるのがいやたらしい。 「為さん、浮気したことある ? 」 「浮気 ? そうだね、キライな方じゃないからね」 「結婚してどれくらい ? 」 「三年とちょっとですよ。ガキが年子で生れちゃったもんだから、女房の奴、すっかりア ッチの方ダメになっちまってね」 「ダメってどういうことフ・ 「イヤがるんですよ。無理にやると、股おっぴろげたまま、グーグーイビキかいてやがる 「それはいけないわねえ。完全なる性生活は明日の活力の根元ですよ」 なにが根元ゃ。経験もないくせに、と私はいいたし 金のない人に限ってあるフリをしたがる、昔はええ暮しをしてたんです、というような 車 ことをよくいいます。「昔」といわれても誰も他人の昔のことを知りませんから、それで の通るのです。けど、私はセンセの昔を知ってます。英語教師の高松センセにネッを上げて、 幸相手にされなかったことも、いつも事務の畑中というラッコみたいなおじいさんと一緒に 学校から帰っていたことも。ラッコのおじんしか相手にしてくれなかったんです。 こ主人いなさった時、一週間にどれくらいの割合でセックスしては 「杉本さん、あんた、。 また やっ
クロ飴をなめながら、センセは為さんの名前を考えていたのです。 「さあ ? どうですやろ」 そういいましたが、私はほんとうは為さんが「為次」ということを知ってるんでした。 そろ 「あの人の歯、ええわね。まっ白で形が揃ってて、にこッとすると眩ゆいようやわ」 何日か後、またセンセは為さんの歯を褒めました。 「顔が浅黒いから、歯の白いのが目立つんですわ」 「そうやねえ。ああいう人をイナセとか、江戸前とかいうんやろうねえ」 ためいき と溜息をつき、 「若いって、 しいことやわねえ。輝いてるわねん 語尾を引っぱって讃嘆の気持を表わす。 センセはオトコさんが好きなんです。だいたいがかん高い声の人ですけど、オトコさん の話になると、ますますかん高うなって、ねばるようにものをいいます。 おぼ 体操の」 陣「杉本さん、あんた、金井センセ、憶えてるでしよう ? 終 「はあ、憶えてます。元気のええ、声は大きいけど、柄は小さい人でしたね」 の 幸「あの金井センセ、わたしのこと、好きやったのよ 「えっ ! 金井センセが : : : けど、結婚しておられたでしよう」 「うちの学校へ来はったときは結婚したばっかりのホャホャよ。けど、わたしのこと、好 さんたん