病人とは思えぬ華やいだ声です。 「ひっこいて、なにがひっこいんです ? 」 樺山さんはくり返す。 「何がてエ・ : とにかく、いろんなことにひっこいのんよ」 「いろんなことて ? 」 「いややわア、樺山さん、あんたもひっこいわ : ・ 「そやかて、やつばり好きやったらひっこうなりますがな : : : 」 もう聞いてられませんー 五島さんがひっこいのんはね ! 夜通し肩揉めとか足さすれとか、それをひっこう いわはっただけです ! それだけであとは何もないんです ! 五島さんは集団見合旅行へ、 老後の看病してくれる人を探しに来てはっただけなんです : : : と。ハラしてやったらどんな に気持が晴れますやろー そのうち、なんやしらん、静かやなアと思て覗いてみたら、樺山さんがせっせとセンセ ま の背中をさすってるやありませんか。センセはこっちへ顔を向けて、さも気持よさそうに 終目を細目にして、 「あーあ、しやわせ : : : 」 わざとらしいか細い目でいうてる。その顔にはいつの間にしたのやら、こってり白粉が のぞ おしろい
の紅白もきんとんのお芋を練りながら聞くという有さまですが、センセの方は早々 とお風呂に入り、テカテカと気持よさそうにシミの浮いた顔を光らせ、炬燵に入って新聞 の出場歌手の欄に点数を書き入れているのです。 「あんた、黒豆、あんじよう炊いてよ。甘うにしてね」 とい、つ。 やっとお重を詰め終った時は、テレビの「行く年来る年ーで除夜の鐘が鳴って いました。やれやれ、とエプロンを外して炬燵に入りました。 「ご苦労さん と、まるで主人が女中にいうようにいう。 「除夜の鐘というもんは、いっ聞いても心がなんやしらんこう、シーンとしますなあ : ここで、あんたとこないして、除夜の鐘を聞くようになるとは、あの頃は夢にも思わなか はかまは ったけど : : : あんたがセーラー服着て、わたしが袴穿いてたあの頃 : : : 」 「そうですねえ」 いうてやりました。 私は気持が釈然とせんままに、 「来年はどこで聞くことになりますやろね」 そういつまでもうちに居候してはおれんでしよう、と一一 = 口外にいったつもりですが、 「そらやつばり、ここやろネ」 簡単にいってのけて、 ふろ こたっ
ただいかめしいばかりで重たくてたまりません。ルイ・ビトンたらグッチたらいう、しゃ れたスーツケースや、見るからに軽そうで今ふうのビニール袋などが、福岡空港の手荷物 カウンターを流れ出て来る中に混って、私のワニ皮のポストン、、ハッグがおさまり返って出 て来るのを見たときは、なにやら田舎の変クッ町長が山高帽子にヨーカン色の紋つきを着 て陳情に出て来たような、恥かしさを覚えたのでした。 その恥かしさの中には、悲しさ、寂しさ、惨めさのようなものが混っていて、それはも しかしたら「孤独感」という一言葉で表現されるものだったのかもしれません。「ご主人と は死に別れはったけれど、商売の後継者として、立派な息子さんが二人もいてはるし、寒 さ知らすの白浜の温泉場を見下ろす丘の上の別荘で悠々と一人暮し、昔の恩師まで引き取 って面倒を見てはるとはほんまに恵まれたお人やわ」と人はみないうてくれるけど、たっ た一人でトボトボと空港を出る私の右手のワニ皮のポストンバッグ、その重々しさが、却 って私を惨めな寂しい気持にさせるのでした。 へつにどこへ行きたいという気 れがむしやらに飛行機に乗って福岡空港で降りましたが、。 そろ 持があるわけやないのです。いっか友野さんが一家揃って春の旅行を楽しんだ時、玄海国 まわ 春定公園を廻ったというハガキを貰ったことを思い出して、そっちの方へでも行ってみよう かーーそんな気持なのでした。 「いきなりですけど、私、これから九州へ行ってきますさかい・ もら
ったの ? ねばりつくように、甘エタ猫みたいにいう。 「そんなこと、もう忘れました。昔のことやもん 「昔というたって五年前でしよ。忘れるわけないでしようが。ねえ、何べんフ 「さあ : : : 週に二日くらいかしらん」 出まかせをいう。ホントは二月に一回か三月に一回くらいやったのですが。 「少ないわねん とセンセはさもびつくりしたようにいう。 「それであんた、満足やったの ? 」 何をいうてる。自分は一ペんもしたことないくせに。 「センセは と私は逆襲してやりました。するとセンセはニターと笑って、 「それはナイショ」 向うを向いて、クックッといつまでも、思い出し笑いをしているのです。 かたき だんだん私はまるで敵と一緒に暮してるような気持になってきました。センセが何かい うとハラが立つ。 「為さんね工、あの人、カワッテルわよ」
センセの小さな眼がヘンに赤く光って気持悪い。 「そんな・ : ・ : 」 「したの ? せんのフ センセは、生徒のカンニングを責める時のように詰め寄り、 はず 「せんならせん、とはっきり いいなさいよ、なにも羞かしいことやなし : : : 」 いったいなんで、私はこんなけったいなことで詰め寄られなくてはならないのか、わか りません。 「夫婦はどんな夫婦でもし合うてること。それは愛があるしるし、愛があるから汚いこと ないのん : : : せんのは愛がないしるし」 センセは私の結婚生活にケチをつけたいのです。それがわかりました。で、私はいって やりました。 「結婚生活ゅうもんは、そんなことばっかりゃないでしよう。精神的にしつかり結ばれて いればたとえ、性生活がどうであろうと幸福です」 センセの目はパッと大きくなって、 「やつばり、満足してなかったんね ! そうでしようー と極めつける。 しあわ 「満足してました ! 倖せでした ! 」
120 「はあ : : : 」 「そのこと承知してくれてはったらそれでよろしいの : 「はあ、すんまへん 何やら熱い力強いものが身体中に溢れて、生れ変ったような気持になってました。 と、その時、 「松子さん : : : 」 というセンセの声が廊下でしました。 「ね工、松子さん : : : 」 いいながら茶の間へ入って来る。お風呂へ入るつもりだったので、藤色のパジャマの上 に私が見たことのない紫色の部屋着を着ています。おまけに足に履いてるスリツ。ハときた ら、まっ赤なフワフワの毛で出来ていて、前にウサギの耳がついているんです。 「松子さん、どうしたの ? 」 かん高い いつも若ぶりたい時にいう、妙なアクセントの東京弁で、 「へんねえ、松子さん、何をそんなに興奮してるの ? 」 「興奮 ! 興奮なんかしてませんけど」 「してるわよ、松子さんー おうよう 粘っく しい方でそういうと、鷹揚にちょっと笑いました。 あふ
「ねえ、松子さん : : : 」 、ました。 スーツケースに着替を詰めながら、センセは恥かしそうにいし 「やつばり : : : 向うへ行ったら、お部屋はひとつなんやろうかねえ : 「さあ : : : どうでしよう ? 日皿泉に誘うということは、多分そうやろうと思いますけど : 「つまり、結婚を前提として : : : ということね ? 」 「それはお二人の間でお話になって決めることですから : : : 」 センセは突拍子もない奇声をだしました。 「どうしようー 松子さん ! 」 「何をですの ? 」 「ミサオって : : : 許した方がいいのかしら : : : それとも結婚までは守ったほうがいいのか 涙 の なにをいうてますねん、と いいたいのを我慢して、 「そやからそれは、センセのお気持でしようが : : : ええとか悪いとか、そんなこと : : : 」 老七十五のおばんがいうことやおませんよ ! アホらしー じゅばん センセを見ると、鏡の前で胸に長襦袢を当てがったまま、ぼーツとしているやありませ まゆ んか。厚化粧の、くろぐろと描いた眉の下、いつばいに見開いた白目に赤い筋が入ってい
「へえ、すんまへん : ・ 「なにも樺山さんに謝ってもらわんでもよろしいけど。センセは勘違いしてはるんですわ。 そのことわかってもらいたいんです : : : 」 「へえ、わかってます」 「ほんまにわかってはるのーーー樺山さん : : : 」 私もだんだん、センセが樺山さんをポロクソにあっかう気持がわかるような気がして来 ました。 「わかってはるんやったら、私の身にもなって、センセと結婚して連れて出てくださいよ 「へえ、すんません : : : 」 そういって向うへ行って、暫くすると台所まで歌声が聞えてきます。 「ド、ト、オ、さアかまくゼッカイのオ・ 「そうそう、お上手にならはったわ : : : 」 やっと歌が終ると、今度はセンセの壊れたママー人形みたいな声が聞えてきます。 「あのね、樺山さん、面白いお話、聞かせてあげようか」 「どんな話です ? 「あのねえ、息子がおシッコする時ねえ、おチンチン手で押えておシッコしてるんやって。 しばら
186 センセが自信を失ったのは、会長さんを好きになってしまったからなのでした。私はそ のことに気がっきました。センセのその気持の中には、恋愛感情のほかに打算や虚栄心が 混っているのかもしれません。しかしいずれにしてもセンセが強く熱い思いで会長さんと 結婚したい、出来ればもう一度会いたいと切に念じていることだけは確かでした。 「友野さんから何かいうて来はった ? 「どうなってるんやろうねえ、あのお話」 と、暇にまかせて一日中、いうている。友野さんに電話をかけては、 「ですからね、センセ。先方はお忙しい人なんですから、そう再婚のことばっかり考えて いるわけにはいきませんのよ。ほかに三人も候補者がおられるという話ですし、気長に待 っていただかないと : : : 」 とツンケンいわれ、怒りもせずに、 「すんませんねえ。ほんならよろしくね、お願いします」 猫なで声で引き下っているのがおかしくもあわれです。 二月に入るとこのあたりではもう桜が咲きます。 「今年もまた桜が咲いたわねえ : ・
に持って行ってしまったのです。友野さんと私は電話で、 「はりきって行かはったよ。スズランのついた帽子かぶって」 「ほんま ? 見たかったわア」 「ええ人、いたらええけどねえ」 「それをいうなら、気に入ってくれはる人いたらええのにねえというべきゃない ? 「ほんま、ほんま」 私は何かしらん、とても残酷な気持に駆られ、うまい具合にいい相手とめぐり逢うたら ええのにねえ、私もどんなに助かるか、といいつつも、あの人を気に入る男サンが一人も いなかったらオモシロイなあ、と、それを期待してしまうのでした。 あくるひ 翌日の夜遅く、センセは帰って来ました。 「ただいまア : : : 」 若い娘のようにかん高い いつものあの朗らかな声でした。 「おかえりなさい。どないでした ? 私は剥きかけていた梨をほうり出して、急いで玄関に出迎えます。センセは汗でまだら 年になった白粉の顔をほころばせ、 「あーあ、よかったわよウ : : : 楽しかったわよウ : と叭うよ、つにいし 、つつ、茶の間に入ります。 おしろい