出来る - みる会図書館


検索対象: 女の学校
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1. 女の学校

その時、かって我々が母性愛だと思いこんでいたものは、男によって作られた観念で、女は無 意識にそれに填め込まれていただけだったのだという意見が出た。そういわれるとそういう理屈 になるのかもしれないが、母親が子供を産み、自分の乳で子を育てるという長い歴史が母性愛と いうものを形成して行ったのであろうと私は思う。 「自分の乳で子を育てる」ということは、とりも直さず「自分がいなければこの子は育たぬ」と いう思いこみが養われることだ。「自分がいなければこの子は育たぬーという思いこみは、狭い 女の暮しの中で、唯一の自負、誇りとなった。有能無能を問わず、どんな女でも子供を育てるこ とが出来る。男は ( 乳房を持たぬから ) いかに有能でも子を育てることは出来ない。母性愛とい うものは、「自分にしか出来ない」というこの自負心、責任感から育って行ったものではなかっ ただろうか ? しかし今は、母親がいなくても、 ( 乳房がなくても ) 赤ン坊は育っ世の中になった。ミルクと 哺乳瓶と育児書があれば、他人の手でも、男の手でも赤ン坊は育つのだ。母性愛が変形して来る のは当然である。 校子供を育てる以外に生活のひろがりがなかった大多数の日本女性は、その狭さの中で必然的に の母性愛を育てて来た。それは本能というよりは生きるための必然だったのである。その狭苦しい 女 生活の垣根が、戦後、とり払われた。母性愛のみに自負を置いて生きる必要はなくなったのであ る

2. 女の学校

と考える。 世間の人から「いい人」といわれている人は、おおむね礼儀正しく穏和で人と争わず、すべて 控え目で人間関係をまろやかに結んでいる人のことのようである。そして、マジメな人とは社会 の秩序を乱さず、常識のワクの中で自己規制をして生きて行く人のことである。 マジメな人が殺人を犯すのがふしぎだという発想は、自己規制の出来る人間への信頼から出た ものであろう。 ところでマジメ人間というものには二種あって、その一つはマジメに生きようと心がけている わけではないが、マジメ以外のどんな生き方も出来ないというマジメ人間、もう一つはマジメに 生きねばならぬと思い決めて一生懸命マジメを努力している人である。 いい変えれば、自然にマジメな人と、マジメな人だと世間から見られたいマジメ人間の二種で ある。そうして後者の場合、そのマジメへの希求はしばしばその小心さから出ているものなので、 彼はどこかでムリをすることになってしまう。 女を殺した歌手はムリにムリを重ねて来た。不遇時代、好意を示してくれた女にふと心が傾い た。不マジメだから傾いたのではなく、弱い人間 ( 男はこういう場合、たいてい例外なく弱いの が困る ) であったから傾いた。 女は彼に尽し、生活を助けた。酒場のホステスからトルコ嬢にまでなったという。これも彼が

3. 女の学校

してるからですツ」 と叱られる。 ところが今は「ダメ」の一言で娘はさっさと帰って来る。すぐには親に報告せず、数日経って から、つれづれ話にいう。 しかし、時代の変化を感心している場合ではない。親としてやはり娘を戒めねばならない。 「道を歩く時は、キリッとしてさっさっさっと歩かなくちやダメよ。ナョナョしたり、キョトキ ョトしてるとつけ込まれるのよ」 すると娘はいった。 「ママの娘である私が、ナョナョ出来るわけがないじゃないの」 そういわれて考えると、私の娘はおよそ、女つぼいところのない娘である。。へチャ。ハイでジー 。ハンをはくと、よく男の子と間違えられる。太い低い声でぶつきらぼうにものをいう。イロケな どというものは、どこを探してもない。こんな娘にどうして五万円も値がつくのか。 つい、私はいった。 学「だけど、そのオッサンも ( ンなオッサンだわねえ。あんたみたいな女の子に、どうして五万円 のも出せるんだろう : : : 」 娘は平然として、 川「イロつぼくないのが高校生らしくていいのよ」 いまし

4. 女の学校

「どうするといわれてもねえ」 と私は絶句した。我が娘は時々、突拍子もなくこういうことをいい出す娘である。 「ママは怒る ? 」 「怒ったってしようがないけどねえ。しかし、そういうことはあんまりあせって早いとこやらな い方がいいと思うよ」 「なぜさ ? なぜキスしてはいけないの ? 」 「いけないということはないけれど : : : 」 私はシドロモドロである。 「ないけれど、なに ? 」 テキはしつこい。 「高校生だって、みんな、してるのよ。キスしたからって、べつに減るもんじゃなし。赤ちゃん が出来るわけでもなし」 「それはそうみたいだけど、あんまり早まってしまって、あとで後悔することがあると困るでし 校よう」 の「後悔 ? なぜするの」 女 「本当に愛する人が出て来たら後悔するかもしれないよ」 「そうかな。べつに後悔しないんじゃない」

5. 女の学校

コドモはたいへん 小学校五年生の男の子を、三人の子供の母親だという人が、働きたいとい 0 て来た。夫な る人は勤め人だが出張が多いので、朝の出勤時間が早くなければ、帰宅時間は遅くてもかまわな いという条件である。 「しかし、子供さんが三人もいたのでは無理でしよう」 というと彼女は答えた。 「子供は近所の人が見てくれます」 私の家で働くということになると、料理や掃除その他家事一切である。特に得手なのは和裁と 編みもので、手先のことは器用だし大好きだという。 校それで私は考えた。和裁や編みものが得意なら、なにも外へ働きに出なくても、家庭で収人を の上げる道はいくらでもある。現に私の周囲では、和服の仕立屋さんが少ないので、季節毎の普断 女 着の縫替えに困っている人が少なくないのである。 「子供さんが三人もいるのだったら、家で出来る仕事をした方がいいんじゃないの ? 外で働い

6. 女の学校

もない。道へ出てはるか彼方を眺めると、某デ。ハート の配達員が自転車を走らせて行く後ろ姿が 見えた。チャイムを鳴らしたのは多分、彼であろう。たった三度鳴らしただけで、出ないとすぐ 帰って行く。そうして我が家は「長期不在」ということになるのだ。 デ。ハートにその旨いうと、 「何ぶんにも、アル・ハイト学生ゆえ、いろいろおりまして」 という返事である。 それで思い出したことがある。郵便局のアル・ハイト学生が、配達を面倒がって手紙の束を川の 中に捨てていたという話である。またある雑誌社に原稿のコピーを依頼したところ、文字が薄く かすれて判読出来ないコピーが届けられた。これもアル・ハイト学生の仕業である。 私がこう書くと今に必ず投書が来る。アル・ハイト学生の中にもマジメな者がいます。一部を見 て全体を決めないで下さい、と。わかってる。私はあなた方に文句をつけるためにこの文を書き 出したのではない。 私の娘はアル。ハイトをしたがっているが、私は娘に、あの兄の友達のお父さんのようにこうい わずにはいられない。 「アル・ハイトさせるなんて、そんな怖ろしいこと、ママはようしません」 しかし、世の中には大胆な親御さんが案外多いらしい。 そうして、寛大な雇い主も意外に多いようである。

7. 女の学校

が出来たような気分になるのは最初の一日だけで、二日目には、することがなくて手持無沙汰に なって来る。手持無沙汰になるとつい、このホテルの食事、まずいわりには高いわねえ、という ようなことが頭に浮かぶ。 考えてみると、何だかずいぶんつまらぬ浪費をしたような気がする。正月の食品がいくら値上 りしたといっても、このホテル代のことを考えたら、大ご馳走が作れたわ : : : 洗濯モノは全部、 クリーニング屋に出しても、このホテル代のことを思えば : : : と後悔がむらがり起り、夫がホテ ルの・ハ ーへ行っては飲んで来る酒代までシャクのタネになって来る。 「お正月はホテルへいらしてたんですってねえ。羨ましいわ」 とひとから羨望されても、どことなく浮かぬ顔。 ああ、あのお金で訪問着買った方がよかった : : : などと後悔は募るばかり。 「日本の主婦が真の自由、男との平等意識を身につけるためには、まずその内なるケチ根性、ク ソ現実主義、ソロ・ハン、家計簿より解放されねばダメよ : : : 」 と叫んでいた進歩女性がいたけれども、悲しいかな、解放されたくとも財布、家計簿の方で解 放してくれぬ。まだまだ我々は貧乏日本を生きて来たその歴史の殻から脱け切ることが出来ない のである。 ところで我々の先輩女性にとって、果たしてお正月は苦痛に満ちた地獄の時であったのだろう か ? そうではなかった。

8. 女の学校

当にイジワルかどうかがわかるのである。 神経質な人はそれを確かめずに、鐘が鳴ると飛び起きる。ウガイのガラガ一フでもう目が覚めて いる。ウガイの前にもう目を覚ましていて、ガラガラがはじまるのを今か今かと待ち構えている のかもしれない。そこへ、 「ガラガ一フガーツ」 「ほら ! また ! こうして私にアテつける」 お嫁さんはカッとなる。先に目が覚めていたものを、「姑のために起された」と思う。もしか したらそういう風に思うことが、お嫁さんの気に人っているのではないか。 こう考えて来ると、イジワルなのは姑の方ではなく、本質的には嫁の方だといえるかもしれな い。「イジワルをされていると思うことが好き」という厄介な性質が、なぜか女にはある。 姑が鐘を鳴らしてもグウグウ、ウガイのガラガラガーツでもグウグウ、肉をたらふく食ってみ たらどうですか、と私がいうと、そのお嫁さんは、 たださえ、イジワルされてたいへんなのに」 「そんなこと、どうして出来るんですかー・ と気色ばんだ。 学 の「どうして出来るんですか」 と気色ばんでいわれると、 「どうして出来ないんですか」

9. 女の学校

性の方が、かえって気の毒な場合もあるのではないですか」 と私はいったが、榎さんは相変らず涼しく、 「男と女の関係でどっちが正しいか正しくないかの判断は、第三者には出来ませんものね」 出来ないからこそ、簡単に助太刀になど乗り出せないと思っているようでは、いつまでも男の 横暴に屈していなければならないので、出来ないからこそ、正否を無視して、なんでもかでも女 の味方をする、それが「女を泣き寝人りさせない会」の主旨なのである。 元来、我々女性は、男に比べて正義が好きである。あれは正しい、正しくない、という批判が 好きで、常に自分の正当性を掲げていなければ力が出ないというようなところがあって、ほとん ど本能的に客観性を捨てて自分を正しいと思い込む。その思い込みの力によって男に肉薄し、男 おとしい と女の喧嘩では相手を窮地に陥れ、追い詰められた男は苦しまぎれについ暴力を振るったりし て、またそれが女の正当性を強める損な結果を招いたりしているのが常である。 ところが今や、中ピ連にあっては正しいとか正しくないとか、そんなことはどうだっていいの だ。どうだっていいというところから行動を起す。理屈に合わない、ムチャクチャを承知である。 校味噌もクソも一緒くたにしてこね上げる。それを涼しい顔でサラサラとやるところが、「新女性」 のなのだ。 女 まさしく中ピ連は「男の敵」なのである。彼女たちは女性は男よりも優れた人間であるという くつがえ 2 信念のもとに男社会を覆し、女社会をうち立てようとしている。男女平等の社会ではなく、女

10. 女の学校

120 と私はいいたくなる。試みてみようとせずに、 ( 自分を変えようとせずに ) 私の毎日は苦業の 日々です、と思い決めて歎いている。そういう返事に会うと、この人は何のかのいっているが、 このイジワル合戦が好きなんだな、と私は思うことにしている。 いさかい 嫁と姑の諍をどうすることも出来ないあの男はフヌケだというような批評を耳にすることが ある。しかし、こういう次元での諍に男が出場を失って、手も足も出なくなるのは当然だと私は 田 5 う。 私が男性に同情するとしたら、まあ、このへんです。