「ママはよっぽど渡辺篤史が好きなのね ? 」 ラーマはうまいと叫ぶのが俳優の渡辺篤史さんなのである。 これまでも私は渡辺篤史さんを好きであったが、それは専らその頭の形が気に人っていたから である。あれは七分刈りというのか刈りというのかよく知らないが、短く刈った頭はキリリク ッキリと引きしまっていて爽やかである。 あの頭の中にはノーミソが適当に詰っている ( 多すぎも少なすぎもしない ) 感じで安定感があ って気持がいい。このコマーシャルは、そんな渡辺さんの頭の形でいっそう爽やかさを増してい ると思われるのである。 しかし私がこのコマーシャルを好きなのは、渡辺篤史さんの頭の形ゆえではない。ここには都 会も田舎も、家庭あるところ必ず見られるおとなと子供の姿があって、その日常の機徴が、実に 明るく描かれているからである。 「ねえ、大はなぜワンワンって鳴くの ? 」 「ねえ、なぜカケルは x でワルは十なの ? 」 どこのおとなも、子供から答えようのない色々な質問を浴びせられて、途方に暮れた経験を持 っている。 「今、忙しいからね、あとで」 もつば
平和日本の喧嘩 こういう話を聞いた。 ある企業でゲパ学生の襲来に備えて棍棒を用意した。いざという時に男性社員に応戦させるた めである。 すると若い社員は上司に質問したという。 「これで相手のどこを殴るんですか ? その話を聞いた私は問うた。 えんきよく 「つまり彼はトボけることによって婉曲に拒絶したつもりなんですか ? 」 すると、いや、そうではない、喧嘩のやり方がわからないんですという答え。 「へえ」 と私は呆気にとられた。 「今の若者は、少年時代に喧嘩をした経験がないんです。だからどうやって戦えばいいのか、わ からないんです」 こんう
「ママ、泣かない女は損をするね」 泣かないでじっと我慢をしていると、誰もその我慢に気がっかないで、 ( 我慢することが当り 前になってしまって ) いつも我慢させられる立場に置かれてしまう。我慢しないで泣く人は、可 哀想がられ、いたわられてトクをする。 高校生活のどこでそんな経験を積んだのか、そんな述懐を聞くと私も共に憮然として、 「うーむ、それは至言ですー ああこの娘は母の訓えを守りしため、泣くことを知らず、この母と同じく苦労のみ増えるのか とあわれを覚える。 怪しからぬことに、男は泣く女が好きなのである。女の涙を見て心が動く。いたわろう、守ろ う、という気になる。危急の際にも泣き声ひとつ上げず、うーむと踏んばって男に頼らず立ち働 くと、男は一フクをした上におこがましくもいう。 「いやはや、可愛げがなくてねえ : : : 」 泣く女がいいか、泣かぬ女がいいかと問われると、泣かない女がいい、と答えは決っている。 学しかし泣く女がトクか、泣かぬ女がトクかと訊かれれば、泣く方がトクだといわぬわけにはいか のない。それゆえか、泣く女は後を絶たぬ。それが何とも腹立たしく情けない。 だがしかし、女が涙を見せれば男の心は動くというが、女は女でもばあさんが泣くと男は舌打 ちをする。それがまたいっそう、腹立たしく情けないのである。
146 負っているとしたら、これは残酷な答えとなる。 従って少しでも優しさを持っている男であれば、この際、いささかでも妻に残酷にならぬよう な答えを考えようとする。 例えばこういうとする。 「彼女はやさしくて、よく心づかいをしてくれたから」 すると妻はこういえる。 「フン ! 男の気を惹こうとして、技巧をこらしたにきまってるわ」 そういうことなれば第三者としても、 「男というものはイチャイチャベタベタと機嫌をとってくれる女が好きなのよ」 と相槌が打て、 「そりやネ、珍しいうちは機嫌もとりますよ」 「こっちは子供の世話して家事に追い廻されてるんだものねえ。そうそうはしてられないわ」 「機嫌とってほしかったら、もっと甲斐性を持てというのよ ! 」 と一緒にコキ下ろして、裏切られた妻を慰めることが出来るのである。つまり、夫が愛人のも とに走ったのは、妻に落度があるためでも、また向うの女が妻より上等の女であるためでもない と思うことが、この際必要なのだ。しかし向うの方が美人である ( 肉感的である。魅力がある ) 、
ない、と解釈する。そこが立派である。 我ら中年以上の日本女性は、なぜか常に「真剣勝負」というところがあって、そのため何かと いうと、傷をつけた、つけられた、恥をかいた、かかされたとクョクョし、よろず消極的に、こ となかれ主義に暮して来た感がある。私は若者の、このノホホンとした楽天性を気持よく思って いたのである。 ところでこの番組で、相手の青年にスイッチを押した若い女性は、必ず司会者から、どういう 点が気に人りましたか、と問われる。すると彼女たちはみな一様に、ふしぎなほど一様に、ハン で押したように答える。 「ーー・やさしそうな人だから」 もう少し外に、何とかいいようがないものだろうか。私はいつも思う。 男がやさしいということは、いったいどういうことか、考えた上でいっているのだろうか、と。 これはもしかしたら、若い女性のポキャプラリーの貧困がいわせる答えかもしれないと思った り、あるいは男性に対するイメージの乏しさのためだろうかとも思ったりする。 「やさしそうな人だからスイッチを押しました」 その答えを聞くと私はその度にガッカリする。いっそ、「おとなしそうだから、アゴで使えそ う」とか、「いうことをよく聞きそうだから」くらい答えてみてはどうだろう。 「面白そうな人だから」
男のやさしさ 夫が愛人を作った。妻はその秘密を攫んで髪ふり乱して詰問した。 「あなたはなぜ、こんなことをしてくれたの、え、なぜです、なぜ、なぜ : : : 」 夫は黙して答えない。妻はますます躍起になって、 「なぜ答えないの、なぜ黙るんですか、妻を裏切っておいて、よくもまあイケシャアシャアとロ をぬぐってるわね : : : 」 とわめく。 わめきたくなる気持はわかるけれども、夫としてはその答えに困難を感じているであろうこと は、第三者として立ち会っているとよくわかるのである。 なぜ愛人を作ったか。 学 の「彼女の方がお前よりも魅力がある。あるいは肉感的だから。美人だから」 と、もし正直に答えたらどうなるか。 しかもそれが客観的事実であり、妻自身も口惜しいながらもそれを認めざるを得ない現実を背
と答えるおとなもいれば、 「お父さんに訊きなさい」 ( あるいはお母さんに、先生に、お兄さんに訊きなさい ) というおとな、 「うーん、大がなぜワンワンというかというとだな、つまに、ニヤアニヤアと鳴くと猫と間違え られるからだよ」 とついつまらない答えをして、 「じゃあ、猫はなぜニヤアニヤアと鳴くの」 「ワンワンと鳴くと大と間違えられるからさ」 「なぜ間違えられたら困るの ? 」 どこまでも追及されて、 「しつこいねツ、うるさいよ ! 」 と怒り出したりするおとなもいる。 しかしこの頃の幼児教育の指導書には、子供の質問に対しておとなは決していい加減に答えて はいけない、などという一条があって、教育熱心な親たちは子供の他愛ない質問にも一生懸命、 「大はなぜワンワンと鳴くか ? さあ、ママと一緒に考えましよう ! 」 と指導書にある通りの台詞をいったまではいいが、肝心のその後の言葉が続かないで、「どう 答えたらいいでしよう」と教育相談欄に投書したりするさわぎ。
ていても、家のことが心配でしよう ? 」 すると彼女はいった。 「いえ、その、子供が問題なんです」 「だから、外へ出ないで、家にいて収人を : : : 」 「いえ、それが困るんです」 彼女はいった。 「子供がいるので外へ出たいんですーー 「えつ」 「男の子が三人で一日中、喧嘩ばっかり。それを鎮めようとすれば、夜には声がカレガレになり、 何もしないのにクタクタです」 たす つまり彼女は家計を扶けるために働ぎに出るのではなく、うるさい子供から逃れるために働く ことを考えたというのである。 「なるほど」 と私は今更のように、現代の時代相に目が開いた思いである。 女は弱し、されど母は強しという言葉は過去のもので、今は母は弱し、されど女は強しという ひんばっ せつかん 時代になったのだ。折しも若い母親が我が子を折檻して殺してしまったという事件が頻発し、 しゅゅ 「母性愛」というものについての考えを求められたが、須臾に答えは出て来ない。 しず
「稼ぎがよさそうだから」 「ハンサムだから」 「人相がいいから」 「カがありそうだから」 「働き者らしいから」 という答えの方が、とにかくハッキリしている。 あいまい 「やさしい」という言葉は本当は曖昧な一言葉なのである。やさしい男だと思っていたら、気の弱 いイクジなしだった、という例がある。グウタラでもやさしいし、ヘナへナでもやさしい。恰好 ばかりつけているやさしさもある。女蕩しは女にやさしいし、惚れている間だけやさしいという 男もいる。 「私のカレ、とってもやさしいの」 とエッに人っていた若い女の人がいたが、そのカレはやさし過ぎて、あっちの女にもこっちの 女にもやさしくして、四角関係のもつれのあげく、やさしく謝りながら、三人の女の中で一番強 校い猛女と結婚してしまった。 のまた、「うちの主人、とってもよく気のつくやさしい人なの」と喜んでいた若妻が、十年後に 女 は、 「もうもう、朝から晩までコセコセコセコセつまらないことによく気がついて、文句ばっかり。 たら
154 相手は私の見幕にびつくりして、 「はあ、つまり、そのう : : : あのですネ、つまり、あの、何です」 とくり返すばかり。 「あなたのその発想は実に老人を侮辱しています。なぜ、″老人に愛される若者になるためには〃 という発想がないんですかッ ! あるいは″若者を愛する老人になるには〃となぜ考えないんで 「はあ、なるほど」 「なるほどじゃないッ ! 怪しからん ! 私はそんなことを考えてまで愛されようとは思いませ んよ ! 私は孤独に徹します。わかる奴はわかる。わからぬ奴はわからなくていい。愛さない奴 は愛さなくていい ! 私はそう思っています。それくらいの気概がなくて、どうしますか。長い 人生を苦闘して来てですよ、その果てに若者に愛されることをなぜ考えねばならんのです ! 思 い上るな、それが私の答えです」 相手は閉ロして引き下って行った。 九月十五日は敬老の日だという。私は老人の日、母の日、父の日、すべて嫌いである。老人の 日だというと、急にテレビタレントなどがしみじみした口調になって、 「おじいさん、おばあさん、いついつまでも ( いつまでも、といわずに " いついっ〃と重ねてい