見れない場面 先日ジョン・フォードの「駅馬車」のビデオを見た。といっても映画狂の娘が見ている 傍でうつらうつらしながらである。朝の九時からタ方の五時まで、来客の時間を除いては ずーっと机に向っている私には、こういう夜のひと時が一日のうちで最も平和な時である 平和なひと時だからうつらうつらしている。 ( かっては男と酒を汲みかわすのが平和なひ と時であった時代もあったが、いやはや歳月とは無惨なものですな ) ところで名画「駅馬車」はアメリカに大陸横断鉄道が敷かれる前、アメリカ東部と西部 を結ぶ唯一の交通機関だった駅馬車に乗り合せた人々が、ア。ハッチの襲撃を逃れて目的地 ローゼン・ハーグに着くまでの人間ドラマである。 アリゾナのトントという町に着いた駅馬車から一人の美女が降りて来る。彼女は騎兵隊 にいる夫に会うために 、バージニアから来てローゼンバーグへ向おうとしているのである 面 馬車から降りた美女が休憩所 ( 人ろうとすると、中から出て来た男がじっと見つめる。 からだ れの男は一見、色ガタキのような感じで、痩せて背が高く、顔も身体も棒チョコのように細 ひげ 長い。キザな髭を生やした細長い顔を美女の方に向けてじっと見つめるその表情は、スケ かも コマシが鴨に目をつけたという感じだ。
チリチリ頭に青黒い顔色は、いっ何をいい出すかわからぬ不気味さを潜めている。涙す べきところで泣かず、おかしくないところで笑うような気がする。異人サンでもなければ いぎよう 同胞でもない、これぞ私にとって異形の人なのである。この怖さは理解不能の存在に対す る怖さとでもいうのだろうか ある日、映画館に人るとこのチリチリ頭のカップルが前の席に坐った。男、女、共に同 こうしじま そろ じチリチリ頭にお揃いの格子縞のシャツ、ジーンズというスタイルだ。後ろから見ている と二つのチリチリ頭はくつついたり離れたりしている。つまりイチャついているのである 女チリチリが男チリチリのロもとにナンキン豆をさし出せば、男チリチリはアーンと口を 開けて食べさせてもらってる。公衆の面前でのそういう所作も私には「異形」なのである やがて映画が始った。「クレイマー・クレイマー」というアメリカ映画で、「なぜこんな にも涙が流れるのだろう」という識者の感想が。ハンフレットに書かれている。一口にいう と女房に逃げられた男の子育て記とでもいうか、若い父親と七歳の男の子の生活を描きっ つ、「親子とは何か、夫婦とは何かを問いかけている」のだそうである。 映画は始ったが、チリチリ男女のチリチリ頭は相変らずくつついたり離れたりしている しおせんべい 人ピーナツは食べ尽したのか、今度は塩煎餅をポリポリ。これがチリチリでなければ、 外 「もしもし、少し静かにして下さい」 というところだが、何しろ私にとって彼らは異形の人である。怖いのでガマンした。
たそがれ 黄昏のいろいろ 女学校の同窓生が集って四方山話に花を咲かせた。私よりも年上の人もいれば同い年の 人もいるが、だいたい六十歳前後というところだ。社長夫人、学者夫人、停年勇退者夫人、 末亡人、いろいろである。 ・フォンダと たまたま、「黄昏」というアメリカ映画が話題に上った。主演のヘンリー キャサリン・ヘップ・ハ ーンがアカデミー賞の主演男優賞、女優賞をそれぞれ受賞した作品 であり、かつ「老後の夫婦の理想的なあり方を描いている。倖せな老後を願う女性には是 非見てもらいたい映画です」という推奨の文章などを読んで見に行った人が多い。 私「で、どうだった ? 感想は」 社長夫人「よかったわア、画面がとってもキレイなのよねえ。はじめに湖が出て来るの。 二羽の水鳥が泳いでるのよ。それ見ただけでジーンときたわ。あんなところで老後の休暇 うらや を楽しめるなんて、ホント、羨ましいわ」 末亡人「そう、私もそう思いながら見てたの。それにあの老夫婦がステキな夫婦なのよ。 妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ : ろう・もう 社長夫人「そうそう、夫の方は八十歳になって老耄しかけてるのね。それに性格的にも よもやまばなし しあわ
ハラさせられるのがハラ立たしいのである。 ☆ 客船が沈没しかけて乗客がポートに乗り移るシーンがある。ポートには子供、老人、女 が乗り、屈強の男は母船に残る。ポートは一刻も早く母船から離れなければならないのだ。 なのに男の恋人である若き女は、ポートに移るのはイヤだといって男の首にりつく。 そんなにいうのなら母船に残せばいいのに、男はムリャリポートに乗せようとする。女は イヤがる。死ぬなら一緒、などと叫ぶ。 全く、ポートの乗客の身にもなってみろというのだ。 ようや 漸く女は納得してポートに移る気になる。ャレャレと思いきや、ポートから身体をのば して長々とキスが始るのだ。 「キスなどしている場合かツ」 私は憤慨する。二度、三度、息を吸い人れるために顔を離してはまた吸いつく。 魂「いいかげんにしろーツ」 ポ 私は怒鳴らずにはいられない。 だいたいアメリカ映画を見ていると、火急の際にやたらとキスをする。敵に囲まれ、妻 とと と子供は助けを求めに走り、男は一人踏み止まって闘うことになる。とにかく一刻も早く からだ
思うや、舗道に目を落したきり、通りすぎるまで顔を上げなかった。戦争に負けて東京に アメリカ人がウョウョいる時代でも、一度としてその顔を正面から見たことがなかった。 電車の中でも道路でもいつも必死で目を背けていたのだ。 こうもうへきがん 紅毛碧眼。どう見ても異質である。嫌いというのとはちがう。怖いのだ。 ジョン・ウェインとかマーロン・プランドとか、映画で見てる分にはいいけれど、ああ しゅてんどうじ どうきん いう酒呑童子みたいなのともし同衾しなければならなくなったとしたら、私は幕末の遊女 喜遊のように自害したかもしれないと思うくらいである。あんなのに蔽いかぶさって来ら つりがね れるぐらいなら、釣鐘の下敷きになった方がマシである。 ひらがお やつばりミ。ハは悪くともお互いさま。短足同士、鼻ペチャ同士、黄色平顔同士、日本の 男がいい。 ☆ 長年、そう思ってきたのだが、この頃、日本の男の中にもだんだん異人ふうの若者が増 えて来て、盛り場へ出ると私は怖い。 アフロというのかカーリーというのか、その区別もよくわからないが、長髪をチリチリ に縮らせているのを見かけると、昔、神戸の港を歩いていた時のように目が合わぬよう、 ソッポを向いている自分に気づくのである。 おお
☆ ところで過ぐる日、私はテレビで「仔鹿物語」というアメリカ映画を見た。 「フロリダ北部で大自然と共に生きる家族の姿があった。息子と仔鹿の交流を廻って浮き つな 上る親子の愛を通して、自然と人間の繋がりを語った感動の一篇」と新聞の解説にあるよ うに、これも感動篇であるから、見たといってもタ刊を読みながら三分の一か、半分足ら ずを見ただけである。 この家族は男の子一人と若い両親の三人家族だが、実は男の子の上に三人の子供がいた のを亡くしているのだ。三人の子供を死なせた若い妻は、「大自然と共に生きる」暮しが けんかごし 辛いのか、ヒステリイでいつも喧嘩腰でものをいうところ、借金亭主がいた頃の私さなが らである。 ( と思いつつ、ちらちらと見る ) そのヒステリイ女房のご亭主の方が、これまた大人物というのか、無気力というか弱虫 というか、内省派というか、ヒステリイ女房のヒスにただ黙念と耐えているところ、これ もかっての我が夫だった男によく似ている。 ある日、子供が仔鹿を見つけて可愛がる。 仔鹿はいろんなわるさをする。栽培しているタ。ハコをメチャメチャにしてしまったり、 とうもろこしの芽を食ってしまったりするのだ。ヒステリイ女房のヒスは当然オクタープ かわい こしか めぐ
ことはないやろ、オレが好きで、京大の権藤がいつつも土産に持って来るやないかッ』い うて怒鳴ってねえ。そのうち″おたべ〃ゃいうことわかったけど、シャクやから、教えて やらへんかったん。『三角の中に粒餡 ? なんですやろ ? 』いうてとぼけて : : : そしたら、 思い出せへんいうて、イライ一フィライラして、部屋中、歩き廻ってるんよ。『お風呂わき ましたよ』いうても、『まだ人らん ! 』いうて怒ってからに、たかが″おたべ〃の名前 思い出さへんからというて、そないに怒らんかてええやないの、私もう、浅ましいやら情 けないやら : : : 」 私「そりや、学者やから特に記憶力が衰えて行ってることを自覚して苦しいのよ」 社長夫人「″おたべ〃ぐらい忘れたかてええやないの ! 」 私「それで、″おたべ〃の名前、教えてあげたん ? 」 学者夫人は語気も鋭く「そんなもん ! 教えへんよ ! 」 「黄昏」は名画である。名画ではあるけれども、「あんなもん、夢物語や」というのが一 ろ同の結論になったのであった。 ろ「あれは若い人が感心する映画よ。若い人には遠い世界の出来ごとやからね ! 」 の「現実はあんなもんやないですよ ! 」 黄「あんな奥さん、ホンマにいるのやろか ? 」 「暖炉の火で火事出しかけたときでも、ぜんぜん怒らへんのね」
女の泣き場所 私は映画を見るのは好きだが、他人と一緒に見るのは好きでない。殊にいやなのは試 会で見ることで、試写会ではうつかりしていると主催者から感想を書かされるのではな、 かという心配がたえずあるのだ。折角、試写会に招待されて、「つまりませんでした」「田 作ネ」などというわけには行かない。さりとて、感心もしない映画を、「とても面白う・一 ざいました」などとにこやかにいう芸当は到底私には出来ないのである。 中でも私のニガテは「感動巨篇」というやつを他人と一緒に見ることだ。白状すると うた は感動感動と宣伝で謳っている映画に感動したためしがないのである。だから、男も女。 老いも若きも「感動の涙を絞った」という「エレファント・ マン」も、一緒に行きまし」 うと誘われたが、固辞した。 感動感動といわれると、どこかにウソがあるにちがいないと思ってしまう。事実、見一 場いるとウソが目につく。しかし、 泣「ようございましたわねえ : : : 感動しましたわア」 女 と同行の人がみな目を赤くして感動を語っているのに、自分だけ感動しなかったとい久 ことになると、何だか人間として失格したような気がして、無理にも感動したような顔
しなければならないのが困るのだ。 善良な人の中には、感動篇と聞いただけで、見る前から「さあ、感動しよう ! 」と心が 構える人がいて、待ってましたとばかり感動する。そういう人に限って、感動しない人間 がいると非人間的だと決めつけて怒る。そういう人と連れ立って映画を見るのもまた何か と疲れるもとになるのである。 ☆ よどがわ みずの そんな私はテレビに出てくる映画解説の先生方、特に淀川さん、水野さんのお二人は、 偉いなアといつも感心している。あれだけ沢山の映画の中には、愚作、駄作、エセ感動篇、 幾つもあるにきまっている。 しかし淀川さんと水野さんはいつも精魂傾けて面白がり、感心し、感動しておられるの である。これは凡人に容易に出来るわざではない。間違いなくもはや一つの芸である。 ウソつばちの感動篇。少しもおかしくないドタ・ハタを我慢して見るのも、その後でお二 人の「芸」を楽しみたいからだ。あの愚作を何といって感動されるか、それが聞きたい。 私がニガ虫噛みつぶしたような顔で見つづけたドタ・ハタ喜劇を、「おもしろかったですネ、 笑いましたネ : : : 」といわれて、はじめて私は笑うのである。 ともたけまさのり 「偉いなア」と思う人にはもう一人、友竹正則さんがいる。友竹さんは毎週、テレビでう
映画は父と子の不器用な生活を季節の移り変りと共に追って行く。子供が公園のジャン けが グル・ジムから落っこちて怪我をしたりする。若い父親はその子を横抱きに抱えて、狂っ たように病院に向って走る。 そのあたりから前の二つのチリチリ頭はビクとも動かなくなった。 父子の生活がそれなりに軌道に乗った頃、母親が現れて子供を引き取りたいという。裁 判は母親に味方する。父親は子供をもとの妻に渡さねばならなくなる。子供はスーツケー スの上にチョコンと坐って迎えに来る母親を待っている。その時、電話が鳴って、母親の すすり泣きが聞えて来る。彼女はいう。 「だめだわ。私には出来ないわ。ビリー ( 子供の名前 ) をこんなに愛しているのに、連れ て行くことが出来ないわ : : : 」 せき 館内、寂として声なし。チリチリも塩煎餅を食べるのをやめている。 映画が終って場内が明るくなった。ふと気がつくと前の女チリチリさんの頬の涙を男の チリチリさんがハンカチで拭いてやってる。拭き終ると今度はそのハンカチを女のチリチ リさんが取って、男のチリチリさんの涙を拭く。 私は呆然とそのさまを眺めた。 なーんだ、チリチリさんは異形の人でも何でもなかったのだ。なにも怖がることはなか った、普通の人なのだー ぼうぜん