んな途方に暮れているのである。すると、 「おや、佐藤さんでも途方に暮れていらっしやるんですか」 と意外そうにいう人がいる。私が一見途方に暮れていないように見えるのは、これ、ヤケクソ のなせるわざであって、理性的とはほど遠く、行き当りばったり。どんな教育をしたって、ダメ な奴はダメなんだ、ダメでない奴はダメでない、と達観して、自分の好きなようにやっている。 ちょうちょう もっともらしく教育論を喋々するのは私はニガテだ。いや、無駄だとすら思っている。いくら 上等の教育論を考えたって、実践出来なきやしようがない。そして立派な教育論ほど、凡婦には 実践出来ないように出来ているものなのである。 知り合いの高校一一年のお嬢さんが学校へ行く道を歩いていると、後ろから若い男が「ちょっと、 ちょっと」と呼び止めた。ふり返ると男はレインコートの前を開け、ズボンのチャックを引き下 ろして、男の象徴というべきものを出して見せている。 お嬢さんはキャーツと叫んで一目散に走って逃げ、動転のあまり電車の乗場を間違えたりして、 の学校を遅刻してしまった。そうしてお嬢さんは思いつめた顔で学校から帰って来て、お母さんに すが ととり縋っていった。 「ママ ! 男ってどうしてあんなことをするの ? 」 お母さんなる人は学識のある女性で、そこで男の深層心理や潜在欲望について説明されたとい
170 ありさま、この母に十分に鍛え上げられたと見るべきであろうか。 どれ、話がわかったなら、つけメン、もう一杯作って食べさせてやろうか。 ◇反省的教育論 この頃年頃の娘、息子を持っ親が集まると、青少年の自殺や殺人や非行化の話題が次々と出て、 「ほんとうに心配ですわ、厳しくすればいいのか、自由にさせるのがいいのか、どうすればいい のかわかりませんわ」 ということになる。 「ねえ、佐藤さん、どうすればいいでしよう ? 」 と訊かれても、生みの母親にもわからないことが、どうして私のような三文作家にわかろうぞ。 教育というものは厳しいところと自由にさせるところと両方相まってなされるべきものであろう じっ が、親もまた人の子、そう思い通りに出来るものではない。緩急ところを得て理想教育の実が上 るのであろうが、緩急ところを得るには、親自身が理性的でアタマのよい親でなくてはならぬ。 しかし、そんなえらい親は正直いって、そう沢山いるわけではないから、この私をも含めてみ
なるほどねえ。 この母にしてこの子あり、とはこういうことか。子を見れば親がわかる。親見れば子がわか , とはこういうことか。昔の人はやつばり、イイことをいうてなさるねえ。 だから教育論などアレコレ考えてもしかたないという、これはその訓話である。 親がおかしければ子供もおかしい。 教育の論議する前に、その反省をする方が話は早いのである。 〈 0 一日シンガーソングライター ラジオをつけると、眠たいような、疲れたような、単調なメロディの女の歌声が流れて来た。 何とも元気のない声だ。 「いいわねえ、サミしいわねえ、メ一フンコリックねえ。愛を知った者のメランコリイ : : : 」 の丁度、来合わせていた若い奥さんがいったが、愛を知った者のメランコリイというよりも、 とちらかというと「空ッ腹のメランコリイ」という風に感じられるのは、私が、詩情を解さぬ三宀 文士であるためだろうか。 「シンガーソング一フィターって、ステキだわア」
「ふーん」 と私は歎息のような唸りを洩らす。 どうなっちゃってんだろう ? ふしぎでもあり気味悪くもある。 つまり、子供はこうして伸びるんですよ。人間、それぞれ伸びる時期というものがあって、 によってそれが十歳のときであったり、十五歳のときであったり、また二十歳のときであったり する。その伸びる時期をよく見ていて、そこでうんと伸びるように手を貸してやるのが教育とい うものではないですか。学校の先生は一律に勉強を教える。それが先生の仕事です。しかし母紹 は一律であってはならない。母親はもっと柔軟性をもって、伸縮自在に、緻密に子供の成長を卸 察していて、ここぞと思う時にうんと伸ばしてやる。まだ十分に機運が実っていないというあた りで、ヤイノヤイノとのべつまくなしに攻め立ててはダメです : : : なんてことを、私は得意げに 人にしゃべる。 相手は感心して、 「すると、お嬢さんは今、その時が来たというわけですか ? 「そうかもしれませんね、教育というものは気長なものですよ。 悠然と笑ってみたりする。 しかし本当をいうと、今がその時なのかどうか、わからないのである。そもそもこんなことが
つ、出しやばりがやって来て、棺桶の蓋を開けて大釘で胸を刺し貫くかわからないんだから 娘は沈思数刻。やがて、吐息と共にいった。 「うーん、生きるということは、みなそれぞれたいへんなことなんだなア」 娘は吸血鬼の苦労を思うことで、はじめて人生の困難がわかったのである。 ◇躾のいろいろ どういうわけかこの頃は教育論やしつけ論が盛んで、ラジオ、テレビ、雑誌などから、似たよ うな質問をよく受ける。 「お嬢さんをどういう風にしつけて来られましたか ? 」 「どういう方針で教育しておられますか ? 」 時改まってそんな風に問われると私は困ってしまう。どういうしつけもヘッタクレもあるかいな、 この私にしつけ論を訊くなんて世も末、日本は滅びるんじゃないかと心配になって来る。 娘 子供にどんなしつけをするべきか。いくら立派なことをいっても、我が娘を見られれば、百万 の賢言も。ハアになってしまう。粗暴なること馬方のごとく、怠惰なること脚気の猫のごとき娘で ふた
ああ、母性愛ー 娘が役に立っとき : 夏休みの過しかた : ャケクノ同士・ 母親のせい・ 理想のムコ : 気分プチこわし・ フ一フストレーション解消法・ 誕生日がめぐって来た : おもしろさについて : お正月の過しかた・ ママ、もしも : つけメン作る夜・ 反省的教育論 一日シンガーソングライター 晴れの日が来たというのに・ 親のたのしみ・ : 一 0 七 ・ : 一七 0 : 一七五
「ママがどうして茶化したりしているか。ママは常に現実的にものごとを考え、決意している。 いざとなってあわてふためき、『うちの娘にかぎってこんなことになるなんて、思っていなかっ た : : : 』と泣きわめいたりはしない。こう見えても年頃の娘を持っ親として、常に覚悟は決めて いるのです ! 」 「じゃ、本気で私に子供を産ませる気 ? 」 「当然です」 「ふーん、変ってるねェ」 娘は少しの間考えていて、 「けど、ママはきっとそうさせるだろうと、私は思うよ、ママって人は」 「当然です ! 」 おごそかに、決然といい、内心ひそかに思っている。 これでオドシは十分利いただろう。うかうか妊娠するようなことはしないだろう : これ、名づけてオドシ教育という。
仕方なく私はガス会社に電話をかけた。 「あのね、さっきお願いした佐藤ですけど、あの、スンマセン。出ましたの、はア、出ました。 おさわがせしてごめんなさい」 汗を拭き拭き電話を切って、 「すべてものごとは、早まると失敗をするという、これはその教訓です。人は常に冷静沈着でい なければいけません。私は身をもって、今、それを教示しました」 「なーにいってんのさア」 娘はつくづくいった。 「あんたってホントに変った母親ねえ」 よく考えてみると、我が娘、脚気の猫のようではあるが、比較的ガマン強い方である。諦めも いい方である。怒号癖、完全になし。これも母親の姿を見ての反省自戒であるという。 しつけは出来てないみたいだけど、こういう私は、身をもって教育の実を上げているといえる のではありますまいか。
簡単にわかるわけがないのであって、潮の満干のように、高まったり引いたりして、人は成長し て行くものなのだ。だが、したり顔に「つまり子供はこうして伸びるんですよ」などといったり するのが、三文もの書き稼業のハッタリ性で、そうとは知らぬ純真な人は、 「伸びる時と伸びないとき : : : ほんとうにそうなのねえ。それをじっと観察するのが親なんです ね工、あせらず、急がず、気長に見守る ! ほんとにいいお言葉をうかがいましたわ ! 」 と感激して首をふりふり帰って行く。 なに、ほんとうはこの親、気長なんじゃなくて、ノンキ者、面倒くさがり、教育不熱心だった だけのことなのだ。 しかし純真な人は感謝のあまり、その話を・ e ・かなんかで披露し、 「それでねえ。佐藤愛子さんの娘さんも、劣等生でどうしようもなかったのが、ここんとこ、グ ングン伸びて来たんですって : : : 」 「まあそうなの ? あのお嬢さんは勉強ギライだったんですってねえ。じゃあ、うちの子のこと も、心配しなくてもいいかしら : : : 」 と怠け者の子を持っ親は勇気づけられる。 私は人を勇気づけるのが大好きな人間である。だからこのような多少のハッタリをやっても許 していただきたいのだ。
ることを私は知っている。 ( 知っているが何もいわないところが、私の親としての見識というか 怠慢というべきか、それは各自の教育論によって違って来るであろう ) 私はこのハッピを見るとヘッポコプロレスラーのつき人を連想する。田舎出の少年が、「ドラ ゴン何とか」というへッポコプロレスラーに憧れて上京して弟子になる。 「ドラゴン何とか」はド一フゴンを刺繍したガウンを着て威張っているので、弟子は同じものを芒 たくてたまらない。しかし弟子の分際ではそのようなものを着ることは許されないから、せめて ハッピに龍をヌイトリして僅かな喜びとしている、というアワレな弟子である。 そんなケッタイなものを娘が着ているのに、よく平気で黙ってるわね、と批判なさるお方もい らっしやるであろうが、青春というものの中には、しばしば、キチガイの要素が潜んでいるもの であって、それは時々、小爆発を起す。爆発したくならない青春なんてのは青春の価値なし、 私は考えているのである。 まことに、青春というものはおろかなものである。そしてそのおろかさに身をゆだねる時が斉 いよりはあった方がいいのだ。 我が娘も十年後には、 「あの時、よくもまあ、あんなアホらしいことにウキミをやっしてたわねえ」 と恥じ人りつつ、なっかしむであろう。人生はそういうところに面白さがあるのだと私は考安 ている。