笑っ - みる会図書館


検索対象: 愛子
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1. 愛子

婦長はわたしの肩に手を置いた。 「あんたねえ、帰りに行って、写しをとってきてくれない ? そして営繕で作らせてほしいの 婦長はあのことをすっかり忘れていた。婦長はわたしの肩に手を置いた。踵の減り方が下品だ と罵ったわたしの肩に手を置いたのだ、とわたしは思った。そして、わたしはいつのまにか、に っこり笑って婦長を見上げていた。 「かしこまりました。松坂屋ですね ? 」 わたしはいっていた。 「早速、今日の帰りに行ってきます」 そうだ、彼女は〈婦長〉だった。わたしは〈事務員〉だった。彼女があのことを忘れることが 出来たのは、彼女が〈婦長〉だからだった。そしてわたしは、彼女に向って笑いかけていた。わ たしは嬉しかったのだ。婦長があのことを忘れて、親しく話しかけてくれたことが。婦長の指の 間で、軽やかにクルクルと廻っているわたしの鉛筆が。 子 わたしは婦長が、事務所を出るときにいった、下手な洒落に声を立てて笑った。わたしはなご 愛やかな、一つのことを仕上げた後のような、満ち足りた気持になっていた。 わたしは病院の帰りに松坂屋へ寄って、紙と鉛筆を持って便所の中へ入り、そこに書いてある

2. 愛子

「つまり、バンザイなどというて、オダテるわけやね」 わたしはそばへ来たモン公に向って、そういった。 「オダテて命を捨てさせる気か」 橋田もと子が机を叩き、大声を上げていた。 「ちょっと、ちょっと、みんな、聞いてちょうだい。怪しからんことをいうてる人がいます わたしはまだ柏木アヤ子を見つめたままいった。 「なんとねえ、モン公、柏木アヤ子はタイの生れやなかろかね」 わたしは柏木アヤ子に聞えるようにけたたましく笑った。わたしが意図した通り、校庭の柏木 アヤ子は思わずわたしの方を見上げ、あわてて目を外らした。彼女は何度も太鼓を間違えた。そ のたびに、わたしとモン公は笑った。大場幹江の低い声が、なだめるようにいっていた。 「橋田さんの意見は立派やけど、谷さんのいうことも一つの感情として認めてあげたいわ」 子 「感情 ? 」 愛橋田もと子は、甲高い慄え声をはり上げた。 「ちょっと、ちょっと、あんた、大場さん、あんたはわたしのいうことを理屈やというのやね。 わたしはね、いま、わたしがいうたような感情を、日本人ならば、みんな持っている、と思うの

3. 愛子

する気のなくなっていた、海軍軍人の許婚者のことをわたしに話した。 「どうせ戦争で死ぬんやから、誰でもかまへん、もろたれ、いうような気やったんやね」 山川よし子はいった。彼女はわざと愉快そうにその話をした。 「わたしときたら、また悲愴な決心で、この英雄のためにわが身を : : : などと考えてね : : : 」 それから山川よし子は、突然笑い出した。 「ときどき思い出すのよ。あんたが、学校へ行く電車の中でね。あんな風にすましている男の 奴らを見ていると、ムネが悪うなる、いうてたこと。あの男も、こっちのも、昨夜は猥行為に 及んだくせに、すましこんでーーーいう わたしと山川よし子は、声を揃えて笑った。山川よし子は煙草をふかした。起きたばかりの山 川よし子の唇は、ひび割れていた。 山川よし子が勤務先の貿易商会へ出かけるのと一緒に、わたしは仲人の家へ行くために電車に 乗った。わたしと山川よし子は、学生や勤人に押されながら、昔そうしたように反対側のドアの そばに向き合うようにして立ち、外の景色に眼をやっていた。そこには、戦後どこの都市にも見 子 られるべンキ塗りの、乱雑に建てこんだ一劃があるかと思うと、そんな中から突然、十年前の煤 愛け古びた町の面影がたち現れながら飛び去って行った。 電車が止った。駅員が「こーしえーん」と呼んだ。三十年前の眠そうなあの声だった。そして わたしの眼の前に、野球場が , ーー汚れ、屋根をはがされ、蔦の枯れた野球場が現われた。野球場

4. 愛子

親戚たちの咎める眼差しや、何通もの手紙や恨みの言葉より強くわたしをえぐったのだった。 : あなたって素晴しい人、あなたって素晴しい人、あなたって : あれは四月だったと思う。雨が降りつづいた後の、急に暖かさのひろがった季節だったと思う。 村道の桜は満開で、その上に偏平な大きな月が懸っていた。畑は白い流れのようだった。空に拡 っている雲も薄白かった。 人々は家から走り出て、小走りに集って来た。村道の外れの、桜の大木のところまで来ると、 足を止めてしんとなった。人々は彼をとりまき、見物した。彼は片手に庖丁を持ち、片手を桜の 枝にかけて仁王立ちになっていた。彼は裸だった。胸の骨が、月光の中で影を作っていた。彼が 何か叫ぶと、人々は待ち構えていたように、どっと笑った。彼が一歩進むと、人々は一歩退った。 彼が走るとばっと散り乱れ、立ち止るとじわじわと寄って行った。月が隠れ、人々と彼の動きは、 影絵のように一つになったり乱れたりした。彼は、彼に麻薬をうってくれなかった医者の名を叫 んでいた。ぶち殺すーーそういっていた。人々は笑った。まるい輪になって彼の周囲をとりまい 子 て。彼をその輪の中に、わたしをその輪の外に。防空壕あとの横穴に住んでいる乞食が、穴から 愛這い出して来て指をさして笑っていた。乞食は眠っている女房を、わざわざ起して連れて来た。 苦しんでいる男は、握っていた庖丁で桜の枝を叩いた。彼は麻薬で苦しんでいた。麻薬が切れた ことで苦しんでいた。それは苦しんでいる人であった。苦しみもだえている人だった。

5. 愛子

「いや、お姉さま、怒ってるーー」 野川千津子は、麦藁帽をもぎとって、向うの方へ投げた。彼女は身体をゆすった。 「お姉さま、意地悪 ! 」 わたしは目を反らした。不意に怒りを感じた。 お芝居・ーー馴れ合い いつもそうだった。 あれも、これも、みんな 「チイ子、もういやになった」 投げつけるように、わたしはいっこ。 「チイ子なんか、大嫌いや。べたべたするし、頭は悪いし、嘘つきやし : : : 」 野川千津子の小さな丸い顔はびつくりし、泣き出しそうに歪み、歪みながら半信半疑で、わた しの怒りがどの程度ほんものか、馴れ合いかを量って丸く見開かれている。わたしはいった。 「何もかも、もういやや。チイ子も学校も、わたしも : : : みんな嘘ばっかし : : : 」 これもお芝居だ。わたしは思った。わたしは楽しんでいる。言葉と、気分を楽しんでいる。不 機嫌さを、我儘を、孤独らしさを : : : わたしは怒鳴った。 子 「チイ子、あっちい行きなさいいうたら、さっさと行きなさい ! 」 愛野川千津子が行ってしまうと、わたしは壁に頭をもたせかけ、空を眺めた。わたしは、わたし 1 がすべての人から見捨てられ、ひとりぼっちで街を歩いて行く有様を想い描いた。わたしのまわ りには、わたしを知っている筈の、大勢の女学生がそそろ歩いたり、よりかたまってさざめいて

6. 愛子

53 愛子 わたしたちは、ほっとしたように笑い合った。西さんは雨に濡れたわたしの肩を拭いてくれ た。そこは控室の後の入口に近い隅っこだった。わたしたちはよりかたまった。 「あの人ら、附属小学校よ」 西さんが囁いた。 「あの人ら、校よ」 わたしたちはロをつぐんで、笑ったりしゃべったりしている連中を眺めた。・ との子もみな、自 信ありげで、入学試験なんて何でもない顔をしていた。ーー何といっても程度の高い小学校から 来る人が多いですからねーーーわたしは先生が母にいったという言葉を思い出した。そうだ、わた したちの小学校は、程度が低いのだ わたしたち五人は、一つのべンチに肩と肩をくつつけ合って坐ったまま、動かなかった。誰も わたしたちに注意する者など、いなかった。あの幼稚園のポプラのかげ、チロチロとおしつこの 音が聞えてきた時のように。控室にはわたしたち五人を残して、あの幼稚園の遊戯場のように、 女の子たちのさざめきが漲っていた。わたしがこれから知るだろう新しい世界の前ぶれのよう 「玄関にいた男のひとに、お辞儀した人いるのよ」 そういう声が聞えた。明るい笑い声が、そのまわりに立ちのぼった。 「八字髭の小父さんよ。あの人、小使さんやの」 こ。

7. 愛子

のときには左手を出す。豊田先生は何べんもそういった。みんなは行進をやめて、わたしをみて いた。豊田先生は悲しそうな顔をしていった。 「ねえ、普通に歩くときのようにすればいいのよ」 そうだ、普通に歩くときのようにすればよいのだ。だけど号令がかかると、普通の時のようで なくなってしまうのだ。わたしは部屋をぐるぐる廻った。 ー・ー右足左手、左足右手 お父さんなんて、何も知らないんだ。お母さんだって、ばあやだって、何も知らないんだ : ・ アイちゃんや、学校は好きかい : : わたしは思う。お父さんなんて : : : 誰も、何も知らないんだ。 みんながわっと笑った。 北川直吉は、教室の床に仰向けにひっくり返って、亀の子みたいにばたばたしながら泣いた。 ちょっと押しただけや わたしは田 5 った。北川直吉を転がそうなんて、思いもしなかった 川直吉が脚をばたばたするたびに、ズボンの破れから、痩せた太腿が見えた。北川直吉は涙 だらけの顔をして、起き上ろうともせずにしやくり上げていた。 ちょっと手を上げただけやのに、ひとりでひっくり返ったんや

8. 愛子

89 愛子 そうか、わたしはありのままをさらけ出していたのかーー人を笑わせること、呆れさせる こと、自分を目立たせること、それがわたしという人間の全部であるように思われていたのか、 わたしはただ、それだけの人間のように見られていたのか 町は出征兵士の歓送で活気づいていた。戦争が始まって、一年も経たないうちに南京が陥落し、 徐州が包囲された。わたしたちは日の丸の旗を持って、神戸の埠頭に陸軍部隊を見送りに出かけ た。埠頭は人で一杯だった。船も兵士で一杯だった。港中に旗がはためいていた。船の上で、兵 士たちの日焼した顔が一様に笑っていた。どの顔もたくましく、立派だった。わたしたちは声が 涸れるまで歌を歌い、狂気のように躍り上ってバンザイを叫んだ。兵士たちの歌声は遠くの海か ら押し寄せる怒濤のように、低く力強く何重にも重なり合って、わたしたちの歌を包んだ。 汽笛が鳴ると、わたしたちは高い声を上げた。誰ー こ対してともなく、自分が何をいっているの かもわからず叫んだ。兵士たちは笑って、手を上げていた。その姿は勇壮で、悲痛だった。わた したちは涙を流した。涙を咽喉につまらせて、がむしやらに叫んだ。 「バンザイ わたしたちは泣いた。泣きながら、叫んだ。両手を上げ、ロをあけ、地団太をふんだ。頬をと

9. 愛子

55 愛子 「あかんのやもん、あかん ! 」 そういうと、なせか急に、落第は決定的なものに思われた。わたしはロをつぐんだ。頬を涙が 流れた。 みんな、利ロそうな子供ばかりだった。みんな自信たつぶりで、全部出来たような 顔をしていた。わたしみたいな子はいなかった。聴カ検査の時、耳もとで鳴らしている時計のセ コンドが、わからなかったのはわたしだけだった。 「右ですか ? 左ですか ? 」 看護婦が何度も聞いた。 「何か聞えるでしよう ? 聞えません ? 」 窓の外を、焼芋屋が鐘を鳴らしていたのがいけないのだ。 「聞えます。芋屋の鐘ーー」 看護婦もお医者さんも、みんな笑った。お医者はどこかに、「あわて者」と書きこんだかもし れない。それからそうだ、小使さんにお辞儀をしたこと わたしはうなだれ、雨上りの道を、傘の先で突きさしながら歩いた。 「ようやっと、お天気になりましたね」 「ほんに、これで、春がまいりますやろう」 後でそういう声が聞えてきた。わたしは母から離れ、一人で歩いた。西さんたちが後から、わ たしの名を呼んだ。だがわたしは聞えないふりをして、わざと水溜りの中を歩いて行った。

10. 愛子

った。わたしはもうおどけなかった。 それは十七歳という年齢のためだったろうか ? わたしがもうチビでなくなったためだろう か ? 決していい声ではないのに、音楽会で独唱したこと、駈けるのが早くないのにリレーの選 手になったこと、通学電車に乗ると、中学生たちがざわめくこと、いろんな下級生が、手紙をよ こすようになったこと : : : そんなことのためだったろうか。 わたしは作文の先生を、彼女がわたしをヒイキしているということのために、軽蔑した。大場 幹江が教師間に信望があり、優秀な生徒であるということのために、憎んだ。いつもひとりぼっ ちで、淋しそうにしている出来のよくない同級生を、彼女がてんかん持ちであると知ったために、 親切にした。 「質問です。先生 ! 先生は童貞ですか ? 」 わたしはいった。わたしはいつも、真面目くさっていた。教師はそんなわたしを、なぜか怒ら なかった。わたしはそれを、当然だと思った。 「皆さん、わたくしは、いまここに、アダ名というものに芸術性を与えよ ! という命題のも 子 とに登壇いたしました。わたくしは、アダ名から、素朴なリアリズムを追放しようとして、ここ 愛に立ったのであります。アダ名というものは、単なる描写であってはなりませぬ。猿に似ている から猿、豚に似ているから豚、というふうなアダ名は、その素朴さゆえに、人を傷つけることが 多いのであります」