婦長はわたしの肩に手を置いた。 「あんたねえ、帰りに行って、写しをとってきてくれない ? そして営繕で作らせてほしいの 婦長はあのことをすっかり忘れていた。婦長はわたしの肩に手を置いた。踵の減り方が下品だ と罵ったわたしの肩に手を置いたのだ、とわたしは思った。そして、わたしはいつのまにか、に っこり笑って婦長を見上げていた。 「かしこまりました。松坂屋ですね ? 」 わたしはいっていた。 「早速、今日の帰りに行ってきます」 そうだ、彼女は〈婦長〉だった。わたしは〈事務員〉だった。彼女があのことを忘れることが 出来たのは、彼女が〈婦長〉だからだった。そしてわたしは、彼女に向って笑いかけていた。わ たしは嬉しかったのだ。婦長があのことを忘れて、親しく話しかけてくれたことが。婦長の指の 間で、軽やかにクルクルと廻っているわたしの鉛筆が。 子 わたしは婦長が、事務所を出るときにいった、下手な洒落に声を立てて笑った。わたしはなご 愛やかな、一つのことを仕上げた後のような、満ち足りた気持になっていた。 わたしは病院の帰りに松坂屋へ寄って、紙と鉛筆を持って便所の中へ入り、そこに書いてある
「つまり、バンザイなどというて、オダテるわけやね」 わたしはそばへ来たモン公に向って、そういった。 「オダテて命を捨てさせる気か」 橋田もと子が机を叩き、大声を上げていた。 「ちょっと、ちょっと、みんな、聞いてちょうだい。怪しからんことをいうてる人がいます わたしはまだ柏木アヤ子を見つめたままいった。 「なんとねえ、モン公、柏木アヤ子はタイの生れやなかろかね」 わたしは柏木アヤ子に聞えるようにけたたましく笑った。わたしが意図した通り、校庭の柏木 アヤ子は思わずわたしの方を見上げ、あわてて目を外らした。彼女は何度も太鼓を間違えた。そ のたびに、わたしとモン公は笑った。大場幹江の低い声が、なだめるようにいっていた。 「橋田さんの意見は立派やけど、谷さんのいうことも一つの感情として認めてあげたいわ」 子 「感情 ? 」 愛橋田もと子は、甲高い慄え声をはり上げた。 「ちょっと、ちょっと、あんた、大場さん、あんたはわたしのいうことを理屈やというのやね。 わたしはね、いま、わたしがいうたような感情を、日本人ならば、みんな持っている、と思うの
する気のなくなっていた、海軍軍人の許婚者のことをわたしに話した。 「どうせ戦争で死ぬんやから、誰でもかまへん、もろたれ、いうような気やったんやね」 山川よし子はいった。彼女はわざと愉快そうにその話をした。 「わたしときたら、また悲愴な決心で、この英雄のためにわが身を : : : などと考えてね : : : 」 それから山川よし子は、突然笑い出した。 「ときどき思い出すのよ。あんたが、学校へ行く電車の中でね。あんな風にすましている男の 奴らを見ていると、ムネが悪うなる、いうてたこと。あの男も、こっちのも、昨夜は猥行為に 及んだくせに、すましこんでーーーいう わたしと山川よし子は、声を揃えて笑った。山川よし子は煙草をふかした。起きたばかりの山 川よし子の唇は、ひび割れていた。 山川よし子が勤務先の貿易商会へ出かけるのと一緒に、わたしは仲人の家へ行くために電車に 乗った。わたしと山川よし子は、学生や勤人に押されながら、昔そうしたように反対側のドアの そばに向き合うようにして立ち、外の景色に眼をやっていた。そこには、戦後どこの都市にも見 子 られるべンキ塗りの、乱雑に建てこんだ一劃があるかと思うと、そんな中から突然、十年前の煤 愛け古びた町の面影がたち現れながら飛び去って行った。 電車が止った。駅員が「こーしえーん」と呼んだ。三十年前の眠そうなあの声だった。そして わたしの眼の前に、野球場が , ーー汚れ、屋根をはがされ、蔦の枯れた野球場が現われた。野球場
親戚たちの咎める眼差しや、何通もの手紙や恨みの言葉より強くわたしをえぐったのだった。 : あなたって素晴しい人、あなたって素晴しい人、あなたって : あれは四月だったと思う。雨が降りつづいた後の、急に暖かさのひろがった季節だったと思う。 村道の桜は満開で、その上に偏平な大きな月が懸っていた。畑は白い流れのようだった。空に拡 っている雲も薄白かった。 人々は家から走り出て、小走りに集って来た。村道の外れの、桜の大木のところまで来ると、 足を止めてしんとなった。人々は彼をとりまき、見物した。彼は片手に庖丁を持ち、片手を桜の 枝にかけて仁王立ちになっていた。彼は裸だった。胸の骨が、月光の中で影を作っていた。彼が 何か叫ぶと、人々は待ち構えていたように、どっと笑った。彼が一歩進むと、人々は一歩退った。 彼が走るとばっと散り乱れ、立ち止るとじわじわと寄って行った。月が隠れ、人々と彼の動きは、 影絵のように一つになったり乱れたりした。彼は、彼に麻薬をうってくれなかった医者の名を叫 んでいた。ぶち殺すーーそういっていた。人々は笑った。まるい輪になって彼の周囲をとりまい 子 て。彼をその輪の中に、わたしをその輪の外に。防空壕あとの横穴に住んでいる乞食が、穴から 愛這い出して来て指をさして笑っていた。乞食は眠っている女房を、わざわざ起して連れて来た。 苦しんでいる男は、握っていた庖丁で桜の枝を叩いた。彼は麻薬で苦しんでいた。麻薬が切れた ことで苦しんでいた。それは苦しんでいる人であった。苦しみもだえている人だった。
「いや、お姉さま、怒ってるーー」 野川千津子は、麦藁帽をもぎとって、向うの方へ投げた。彼女は身体をゆすった。 「お姉さま、意地悪 ! 」 わたしは目を反らした。不意に怒りを感じた。 お芝居・ーー馴れ合い いつもそうだった。 あれも、これも、みんな 「チイ子、もういやになった」 投げつけるように、わたしはいっこ。 「チイ子なんか、大嫌いや。べたべたするし、頭は悪いし、嘘つきやし : : : 」 野川千津子の小さな丸い顔はびつくりし、泣き出しそうに歪み、歪みながら半信半疑で、わた しの怒りがどの程度ほんものか、馴れ合いかを量って丸く見開かれている。わたしはいった。 「何もかも、もういやや。チイ子も学校も、わたしも : : : みんな嘘ばっかし : : : 」 これもお芝居だ。わたしは思った。わたしは楽しんでいる。言葉と、気分を楽しんでいる。不 機嫌さを、我儘を、孤独らしさを : : : わたしは怒鳴った。 子 「チイ子、あっちい行きなさいいうたら、さっさと行きなさい ! 」 愛野川千津子が行ってしまうと、わたしは壁に頭をもたせかけ、空を眺めた。わたしは、わたし 1 がすべての人から見捨てられ、ひとりぼっちで街を歩いて行く有様を想い描いた。わたしのまわ りには、わたしを知っている筈の、大勢の女学生がそそろ歩いたり、よりかたまってさざめいて
53 愛子 わたしたちは、ほっとしたように笑い合った。西さんは雨に濡れたわたしの肩を拭いてくれ た。そこは控室の後の入口に近い隅っこだった。わたしたちはよりかたまった。 「あの人ら、附属小学校よ」 西さんが囁いた。 「あの人ら、校よ」 わたしたちはロをつぐんで、笑ったりしゃべったりしている連中を眺めた。・ との子もみな、自 信ありげで、入学試験なんて何でもない顔をしていた。ーー何といっても程度の高い小学校から 来る人が多いですからねーーーわたしは先生が母にいったという言葉を思い出した。そうだ、わた したちの小学校は、程度が低いのだ わたしたち五人は、一つのべンチに肩と肩をくつつけ合って坐ったまま、動かなかった。誰も わたしたちに注意する者など、いなかった。あの幼稚園のポプラのかげ、チロチロとおしつこの 音が聞えてきた時のように。控室にはわたしたち五人を残して、あの幼稚園の遊戯場のように、 女の子たちのさざめきが漲っていた。わたしがこれから知るだろう新しい世界の前ぶれのよう 「玄関にいた男のひとに、お辞儀した人いるのよ」 そういう声が聞えた。明るい笑い声が、そのまわりに立ちのぼった。 「八字髭の小父さんよ。あの人、小使さんやの」 こ。
のときには左手を出す。豊田先生は何べんもそういった。みんなは行進をやめて、わたしをみて いた。豊田先生は悲しそうな顔をしていった。 「ねえ、普通に歩くときのようにすればいいのよ」 そうだ、普通に歩くときのようにすればよいのだ。だけど号令がかかると、普通の時のようで なくなってしまうのだ。わたしは部屋をぐるぐる廻った。 ー・ー右足左手、左足右手 お父さんなんて、何も知らないんだ。お母さんだって、ばあやだって、何も知らないんだ : ・ アイちゃんや、学校は好きかい : : わたしは思う。お父さんなんて : : : 誰も、何も知らないんだ。 みんながわっと笑った。 北川直吉は、教室の床に仰向けにひっくり返って、亀の子みたいにばたばたしながら泣いた。 ちょっと押しただけや わたしは田 5 った。北川直吉を転がそうなんて、思いもしなかった 川直吉が脚をばたばたするたびに、ズボンの破れから、痩せた太腿が見えた。北川直吉は涙 だらけの顔をして、起き上ろうともせずにしやくり上げていた。 ちょっと手を上げただけやのに、ひとりでひっくり返ったんや
89 愛子 そうか、わたしはありのままをさらけ出していたのかーー人を笑わせること、呆れさせる こと、自分を目立たせること、それがわたしという人間の全部であるように思われていたのか、 わたしはただ、それだけの人間のように見られていたのか 町は出征兵士の歓送で活気づいていた。戦争が始まって、一年も経たないうちに南京が陥落し、 徐州が包囲された。わたしたちは日の丸の旗を持って、神戸の埠頭に陸軍部隊を見送りに出かけ た。埠頭は人で一杯だった。船も兵士で一杯だった。港中に旗がはためいていた。船の上で、兵 士たちの日焼した顔が一様に笑っていた。どの顔もたくましく、立派だった。わたしたちは声が 涸れるまで歌を歌い、狂気のように躍り上ってバンザイを叫んだ。兵士たちの歌声は遠くの海か ら押し寄せる怒濤のように、低く力強く何重にも重なり合って、わたしたちの歌を包んだ。 汽笛が鳴ると、わたしたちは高い声を上げた。誰ー こ対してともなく、自分が何をいっているの かもわからず叫んだ。兵士たちは笑って、手を上げていた。その姿は勇壮で、悲痛だった。わた したちは涙を流した。涙を咽喉につまらせて、がむしやらに叫んだ。 「バンザイ わたしたちは泣いた。泣きながら、叫んだ。両手を上げ、ロをあけ、地団太をふんだ。頬をと
55 愛子 「あかんのやもん、あかん ! 」 そういうと、なせか急に、落第は決定的なものに思われた。わたしはロをつぐんだ。頬を涙が 流れた。 みんな、利ロそうな子供ばかりだった。みんな自信たつぶりで、全部出来たような 顔をしていた。わたしみたいな子はいなかった。聴カ検査の時、耳もとで鳴らしている時計のセ コンドが、わからなかったのはわたしだけだった。 「右ですか ? 左ですか ? 」 看護婦が何度も聞いた。 「何か聞えるでしよう ? 聞えません ? 」 窓の外を、焼芋屋が鐘を鳴らしていたのがいけないのだ。 「聞えます。芋屋の鐘ーー」 看護婦もお医者さんも、みんな笑った。お医者はどこかに、「あわて者」と書きこんだかもし れない。それからそうだ、小使さんにお辞儀をしたこと わたしはうなだれ、雨上りの道を、傘の先で突きさしながら歩いた。 「ようやっと、お天気になりましたね」 「ほんに、これで、春がまいりますやろう」 後でそういう声が聞えてきた。わたしは母から離れ、一人で歩いた。西さんたちが後から、わ たしの名を呼んだ。だがわたしは聞えないふりをして、わざと水溜りの中を歩いて行った。
った。わたしはもうおどけなかった。 それは十七歳という年齢のためだったろうか ? わたしがもうチビでなくなったためだろう か ? 決していい声ではないのに、音楽会で独唱したこと、駈けるのが早くないのにリレーの選 手になったこと、通学電車に乗ると、中学生たちがざわめくこと、いろんな下級生が、手紙をよ こすようになったこと : : : そんなことのためだったろうか。 わたしは作文の先生を、彼女がわたしをヒイキしているということのために、軽蔑した。大場 幹江が教師間に信望があり、優秀な生徒であるということのために、憎んだ。いつもひとりぼっ ちで、淋しそうにしている出来のよくない同級生を、彼女がてんかん持ちであると知ったために、 親切にした。 「質問です。先生 ! 先生は童貞ですか ? 」 わたしはいった。わたしはいつも、真面目くさっていた。教師はそんなわたしを、なぜか怒ら なかった。わたしはそれを、当然だと思った。 「皆さん、わたくしは、いまここに、アダ名というものに芸術性を与えよ ! という命題のも 子 とに登壇いたしました。わたくしは、アダ名から、素朴なリアリズムを追放しようとして、ここ 愛に立ったのであります。アダ名というものは、単なる描写であってはなりませぬ。猿に似ている から猿、豚に似ているから豚、というふうなアダ名は、その素朴さゆえに、人を傷つけることが 多いのであります」