返ったわたしの目に、廊下に向いた窓ガラスの上から、一生懸命に背のびをしながら、わたしの 方へ笑いかけているばあやの姿が入った。首のまわりにまきつけた黒い絹、野暮ったい木綿の縞 の着物、古風な庇髪。久しぶりに見るばあやのその姿は、あまりに田舎くさく、野暮ったく見え た。ばあやは扉を細目に開けて、傘と雨靴をひったくるように取ったわたしに向って、弾んでい 「ついさっき、お家へ伺いましたんやで。ほんなら、雨降ってきたさかい、お嬢ちゃんをびつ くりさせよう思て、おはるさんの代りに、ばあや、来ましてん。待ってますよって、一緒に帰り まひょう」 「先い帰って ! 」 わたしは邪剣に、一言そういった。ばあやのはいている紫べっちんの足袋を、すばやくわたし は見た。そしてわたしはそんなばあやを友達に見られまいとして、出来るだけ細目に開けていた 扉を、ばたんと閉めた。鼻の低いばあや、田舎くさいばあや、貧乏たらしいばあや、そんなばあ やは、わたしの母だと思われるかもしれないことが、わたしには辛抱出来なかったのだ。 ばあやが最後にわたしの家へ来たのは、わたしが女学校の三年頃のことだった。学校から帰る と、ばあやは薄日の射している縁側に小さな背中を丸めて、庭に向って坐っていた。ばあやのそ ばには、歩きはじめたばかりの痩せた男の子がいて、兎の模様のついた前掛けのポケットに、お
盆の上のアラレ煎餅を両手でしこたま押し込んでいた。 「そないに慾ー 、らんとおき。そないにせんかて、誰も取らへんやないか」 ばあやはぼんやりした、独り言のような調子で、何度も何度もそう繰り返していた。ばあやの 庇髪はすっかり小さくなって、黄色い頭の地肌が透いて見えた。ばあやはビンの先で癖のように 頭を掻きながら、わたしを見て弱々しく微笑した。 「お嬢ちゃん、大きうなりはって : ・ : こ しかしばあやは今までのように、「今に別嬪はんになりますやろ」とはいわなかった。ばあや はただ、ぼんやりとわたしを眺め、ときどき意味もなく笑うだけだった。ばあやの締めている繻 珍の帯は、昔あの家の女中部屋で、多勢の女中と一緒に賑やかに騒ぎながら、呉服屋を値切って 買った帯だった。それは今はもう見る影もなくすり切れよじれて、色合も定かでなくなっていた が、ところどころ金糸が織りこんである箇所だけは、まだ色を失わずに微かに光っているのだっ た。 「これは金だっせ、ほんまの、上等の金だっせ」 子 その帯を買ったとき、ばあやはわたしに向ってそうくり返したことをわたしは思い出した。わ 愛たしはばあやに、その帯を買った時のことを覚えている、といった。その金糸が、本物の、上等 だった証拠に、今もそうしてそこだけは褪せずに残っていると、わたしはいいたかったのだ。し かしばあやは、わたしの言葉に取り合わなかった。ばあやは、アラレ煎餅を口いつばいに頬張ろ
葉と一緒に耳にした。ばあやの夫は、いつまでも職につく事が出来なかった。ばあやは、わたし の家にいる十年余りの間に貯えた金や着物を、すっかりなくしてしまった。 「ばあやもあの年になって、なにも嫁になんか行かなくてもよかったのに : わたしは何度か、母がそういうのを聞いた。 「おすえはんときたひにや、貧乏暮しのくせに、旦那はんに、鰈の塩焼きを食べさせたりして からに。あんなことしたら、そら、あきまへんわ。ここの先生と同じようにしてるのやもんな あ」 またわたしはばあやの家へ遊びに行った女中が、そんなことをいっているのも聞いた。ばあや は、すべてにだらしがないのだった。男にも廿いのだ、と女中はいった。ばあやは昔、わたしが 小さい頃に、一度は八百屋と、一度は大島の椿油売りと間違いを犯したのだった。ばあやはわた しをおんぶして、うどん屋の二階で八百屋と逢引きをしていて、八百屋のお内儀に襲われて、横 面を殴られたこともあったのだ。 わたしはばあやについて、色んなことを知って行った。ばあやはわたしの乳母になる前に三度 子 結婚し、三度とも夫に捨てられたことや、二度子供を産み、二人とも死なしてしまったことや、 愛貧しい魚屋の九人姉妹の末っ子に生れて、十二の時から子守に出されたことなどを。 あるとき、学校へ行っているわたしのところへ、突然ばあやが雨傘を届けに来た。それは読方 の授業中だった。先生がわたしの名を呼んで、廊下に「お家の方」が来ている、といった。ふり
わたしはそう呼んだ。するとおつばいは、まるでひとりでに出て来るように、するりとばあや の胸の間からすべり出て来た。ばあやはいった。 「ばあやはな、お嬢ちゃんがお嫁に行かはる時まで、おそばに置いてもらいまっせ」 おつばいの匂いは、ばあやの匂いだ。そこには甘栗の匂いもまざっている。ばあやの唇の上の 大きなホクロは、下から見ると豆をくつつけたようで、そこに毛が生えていた。ばあやは歌っ た。 「あーおい目をしたおにんぎよは アメジカうまれのセールドイドーーー」 ばあやの舌が廻らないのは、きっとばあやの鼻柱がないせいだ。わたしはいった。 「ばあや、リンゴ、いうてごらん」 ばあやは答えた。 「ジンゴ」 そしてばあやは笑う。笑うとばあやの目はなくなってしまう。お母さんは、この子の鼻が低い のは、ばあやのお乳を飲んだせいかもしれないと、心配していた。だがばあやは、わたしの鼻の 話が出るたびに、こんな風にいった。 「鼻なんて、背が伸びるのと一緒に高うなりますがな」 ばあやはわたしを見るとき、いつも笑っていた。目は糸のように細くなって、消えてしまいそ
それが、わたしがばあやに会った最後だった。それつきりばあやは、わたしたちの前から姿を 消したのだった。 ばあやの夫が死んだのは、それから一年ほど後のことだったろうか。彼はビル建築の日雇いに 出ていて、上から落ちて来た鉄板に打たれて死んだのだ。そのとき、ばあやは母に電話をかけて 来て、 「おっさんが死にましてなあ、昨日。ーーー」 といった。 そうしてそれつきり、ばあやの音信は絶えた。その後、昔いた女中が暮の挨拶に来たとき、ば あやが再婚したことを話して行った。ばあやは大工の頭領のところへ後妻に行き、連れ子をして いるので肩身が狭いといっていた、と女中は伝えた。 「今度のひとはきついけど、稼ぎがええのんで : : : 」 とばあやはいったそうである。そして女中は声をひそめ、 子 「大酒呑みらしうおまっせ」 愛とつけ加えた。 きんのう
きせる をしたり、よく揃った細かな字で家計簿を記入したり、庭の方を眺めて煙管で煙草を吸ったりし た。それはお母さんの一日だった。そしてお母さんは、そこでときどき思い出したようにぼつり 「ほんまに暗い部屋 ! 」 まゆ そんなとき、お母さんの眉と眉の間に、さもいやそうな三本の皺が出来た。 「あーあ、どんなに小そうてもええから、明るい、風通しのいい家に住みたいねえ」 けれどもわたしは、その部屋が好きだった。どうしてお母さんがそんなに、さもいやそうにい うのか、わからなかった。そんな風にいうお母さんを見るのは、なぜかとても辛い気持がした。 〃チェちゃんの家はもっと暗いし、マキちゃんのところは、もっともっと暗いのに わたしはそう思った。 両手の中に包もうとすると、たぼたぼと揺れて小さな手から溢れ出て、ロの中に吸い入れる と、ゴムみたいに伸びてロの中いつばいになる。 子ばあやのお 0 ばいは、お母さんのお 0 ばいとずいぶん違 0 た。 愛お母さんのおつばいは、お椀みたいに伏っていて、まっ白で固い。ばあやのは黄色くしなびて いて、噛んだり揉んだり、折りたたんだり、いろんなことが出来る。 「おつばいちゃん」 しわ
圭太は毎日、寝ていた。 畳の上にじかに、大きな裸の背中をこちらに向けて、河岸に上げられた鮪みたいだった。肩や 背中はいつもこってりと汗に光っていた。蠅がその上を歩き廻っていた。窓の向うに地平線まで 何ひとっ遮るもののない、平らな畠が続いていた。それはぎらぎらと照りつける八月の太陽の下 子 で、緑ひと色に光っていた。 愛わたしは圭太のそばに坐り、団扇で蠅を追いながら、いつ見ても同じ窓の外のその景色を見て 9 いた。私は毎日、雨が降るのを待っていた。窓の下のかぼちゃの葉が、少しでも風で動くかと、 じっと重なり合った重たげな葉を見つめていた。それからまた、わたしは圭太を見た。軍隊時代 わたしは、しかしそれらの愛情から何と遠く隔っていることだろう。いま、わたしはひとりぼっ ちだ。わたしは毎日、勤めの帰りに、橋の袂のマーケットで肉や野菜を買って帰り、何でもかで もフライバンでジュウジュウいためて、壁の方を向いてひとりでタ食をとる。ひとりの〈小母さ ん〉が、ひとりの〈小母さん〉が・ それは一体、母親と赤ン坊を繋いでいるあの密着した安心と、どういう関係があるのだろう か ? 壁の方を向いて、ひとりでタ食を食べているわたしと、ばあやのしなびたおつばいを握っ て眠ったわたしとの間には
57 愛子 を咥えたまま、ぼんやりと空を眺めていた場所だった。そしてそこから父がよく見上げていた、 隣家との境にある欅の大木は、洗ったように白い空に向って、葉のない黒いまっすぐな枝をひろ げていた。 私の立っている土堤からは、ここ〈上ると仕事をしている父の後姿が見えた丸い窓がーー、日射 しのエ合によっては、そこから蒙々と煙草の煙が流れ出ていた丸い窓がすぐそこに見え、引越し に言力が割ったままのガラスの破れから、暗い家の中が見えていた。 ほんとうに暗い家、どんなに小さくても いい、明るい風通しのいい家に住みたいねえ それはかって、母がそう言い言いしていた家だった。おぼろな濁った光が、煤けた天窓からぼ んやりと射していたあの暗い中廊下にも、今もあの時と同じ鈍い光が懶げに落ちているのだろう カ わたしは目の前に立っている家の、深い庇や重なりあった大屋根や、閉され黒ずんだ雨戸を幾 度も眺めた。こんなに陰気な汚い家、これがあの頃のわたしにとって、何にもまして自慢だった あの家なのだろうか。 桃色の縁側、あたたかなお母さんの部屋、お父さんのあぐらのなか、ばあやの柔らかなおつば うちの三階からは、海が見えるんよ、青い青い海が 突然、わたしは思い出した。それはわたしたちが、この家をすてて新しい家〈行く、あの引越
きどき客が来て、あの家が話題に上ると、わたしたちは何か滑稽なもの、遠い昔にふと行きずり に会った、誰かューモラスな人間 9 上とでも思い出した時のように、苦笑いをしながらいった。 「そうそう、あの家、どうなったかねえ。へんな三階がくつついていてねえ」 そんなとき、わたしは大人と一緒になって苦笑した。わたしはかって、あの家を自慢に思って いたことなど忘れ、あの家が恥かしくなっていた。もう大きくなったのに、今でも「アイちゃん や」と呼ぶ父や、「ジンゴ」などというばあやが恥かしいように。 わたしはあの家の悪いところばかり思い出した。雨の日のじめじめした暗さ、曲りくねった陰 気くさい廊下、、台所の柱にしみついた魚と油の匂い。あの家の朝は、何という騒々しさではじま ったことだろう。カまかせに汲むポンプの音、きしんだ雨戸を開ける音、茶碗を並べる音、鍋の 蓋を落す音。そして雨戸の節穴が壁に作っていた幾つかの光の穴は、布団の敷き方によっては、 朝早くからわたしたちの瞼を刺して無理やりに目を覚まさせたものだった。 それに比べて、新しい家の新しい朝は、まるで物語の中の朝のように、静かに美しく訪れてき た。みどり色のカーテンを漉してくる朝の光は、白い壁に囲まれたべッドのまわりの空間を、ぼ 子 んやりした優しい薄緑で満たし、わたしは水底に沈んで眠っている、わたしの身体を夢うつつに 愛想い描きながら、ああ、朝がきたのだな、とぼんやりと思う。わたしの頭の上には、丸い煙突穴 が開いていて、そこから一筋の、鮮かな光の棒が空間を斜断するのを感じると、わたしの目はば っちりと開き、もの音ひとっしない朝の中に、わたしは身を起すのだった。
迫って来なかった。わたしはいつも安泰で、倖せなひと、といわれつづけてきた。わたしは何 ~ お嬢ちゃんは強い運勢やさかい、 もそのことを思った。ばあやはいつもいっていた。 労知らずに生きていかはりまっせ。なんせ、運の方でひとりでについて行きますのやさかいに・ そうだ、わたしには何か特別の、権利のようなものがあるのだ、とわたしは思った。わたし」 それを信じた。わたしに何ごとか起る筈はないと。そうして、そう考えることで、わたしはわ、 しを支えたのだった。 圭太は寝ていた。だがしかし、その眠りはいままでの圭太の眠りと違っていた。その部屋も に、わたしたちのあの家の、緑いろの地平線の見える部屋ではなかった。圭太の顔はささくれ」 った畳色になっていた。僅か一週間ほどの間に、彼はすっかり変ってしまっていた。その眠り ~ 月は汗と脂をふき出したまま、じっと動かなかった。それは何か、醜い犯罪の、 は異様だった。匈 うに汚れていた。わたしはそれを見ていた。それはもう、わたしの夫の胸ではなかった。それ ( 子 麻薬中毒者の胸だった。 愛それは東京の焼跡の、舗装の砕けた電車道路に沿って、たった一軒だけ焼け残った葬儀屋の一 階だった。わたしは子供を残して、そこへ来ていた。突然、三日ほど前に、圭太は心臓弁膜症・ 治療するといって、そこへ出て来たのだ。彼は身のまわりの品も持たず、金だけ持って家を出一