ねえちゃん - みる会図書館


検索対象: 愛子
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1. 愛子

わたしはその広場が好きだった。広場をはさんで、海〈延びている二筋の松林、銅像の後にひ ろがっている芝生と、黒い桜んぼうのなる桜並木。そこには、いつも青いよく晴れた空がある。 ねえちゃんは、桜ん、ほうで唇を紫色に染め、わたしに向っていった。 「アイちゃんは食べたらいかんよ」 わたしは赤いバスケットを提げて、ねえちゃんの後をついて歩いた。ねえちゃんの両側に、い つもくつついているチェちゃんとマキちゃんの後を。 広場は誰もいなくて、まるでわたしたちの庭のようだった。ねえちゃんは、銅像のまわりにめ ぐらした鉄鎖をまたいで段々を上り、銅像の足許までよじ登ったり、後へ隠れたりした。ねえち ゃんはいっこ。 「アイちゃんは来たらいかん」 わたしは一番下の段に腰を下ろし、銅像を見上げて″これはアイちゃんのお父さんや当と思っ た。銅像は袴をはいて、ロ髭を生していたからだ。わたしはねえちゃんに訊いた。 「お父ちゃんと、天皇陛下とどっちがえらい ? 」 子ねえちゃんは怖い顔をして、小声に、早口に答えた。 「そんなこと、 いうたらいかん」 日こ石を投げると、石は三つも四つも水を切って飛んだ。チェちゃんもマキち ねえちゃんが月 , ー ゃんも、水を切って石を飛ばした。だがわたしは出来なかった。わたしは石を三つ掴んで、いっ

2. 愛子

。へんに投げた。 「三つ切った ! 」 わたしは叫んだ。 「ほら、三つ切ったよ ! 」 みんなは笑「た。わたしは、みんなの後をついて歩いた。みんなは歌った。 「みい寺の鐘のね工澄みわたるゆうぐれェ」 わたしも一緒に歌った。 「みいれなのかねのねーー」 夕暮がくると、ねえちゃんはわたしの手をつないだ。夕方になると子とりがやって来るからだ。 ねえちゃんはいっこ。 「青い蚊帳の中で、赤いポンサン坐ってるものなあに ? 」 ねえちゃんはなぞなぞが上手だった。わたしたちが出すなぞなぞで、ねえちゃんが答えられな いものはひとつもなかった。ねえちゃんは何でも出来た。 「そんなん、ヘナチョコや」 ねえちゃんはいった。 「へナチョコや、そんなもん」

3. 愛子

「御大典の花電車、ビーポー」 わたしも真似していった。 「ごたいてんの花でんしや、ビーポー」 ねえちゃんは頭に白椿の冠をいただき、とてもきれいだった。だけどねえちゃんは、わたしに は冠はつけさせてくれなかった。わたし達は何べんも、庭じゅうをぐるぐる廻った。ねえちゃん ま、つこ。 「では車庫に入って、ひと休みしましよう」 わたしもいった。 「では、しやこへ入って、やすみましよう」 わたし達は縁側をぬけて、お母さんの部屋へ向った。 「ハイ、車庫です。ガッタンコ、シュー」 ねえちゃんは、お母さんの部屋の障子を開けた。わたしはいった。 「ガッタンコ、シュー」 子 けれども、そこにお母さんはいなかった。部屋は暗かった。青い鞄はなかった。火鉢の火があ 愛かあかといこって、鉄瓶が静かに湯気を立てていた。 「お母さんは ? 」 わたしとねえちゃんは、一緒にいった。

4. 愛子

「ばあや、お母さんは ? 」 家の中はしんと鎮り返っていて、誰も答えなかった。タ闇が部屋の四隅に忍びはじめて、お母 へんに広々とした寒そうな部屋に変っていた。 さんの部屋は今まで一度も見たことのない、 わたし達は叫んだ。 「お母さーん」 そのとき、階段の上から、割れるようなお父さんの声が落ちて来た。 「ばあや ! ばあやはおらんか ! 」 だけどお父さんは姿を見せず、階段の上で声だけが叫んでいた。 いそいで ! 」 「香苗だけ、停車場へ連れて行くんだ ! 早く ! 転がるように、どこからかばあやが飛び出してきた。 「おはるさん、おはるさん ! 」 ばあやは叫んだ。 「おっきい嬢ちゃんを連れて、早う行きなはれ、はよ、はよ : : : 」 ねえちゃんは、よそ行きの兎の外套を着て、ビロードの赤いマスクをかけた。ねえちゃんは ' 買ってもらったばかりの、ビーズの手提げを持って行くといった。 「リポンもつける ! 」 「リポンなんか、よろし ! 」

5. 愛子

「どら、ちゃんとして : : : 」 姉はあの頃のように、姉の手の中で動きまわるわたしをたしなめたのだった。〈どれ〉といわ ずに〈どら〉といういい方で姉はいった、とわたしは思った。するとふいにかなしみがこみあげ た。 「ねえちゃんも、一緒に行こ ! 」 思わず、わたしはそういっていた。わたしは半ばふざけて、姉に甘えた。 「行くのいやや、いや ! 」 思いがけなくも、涙が目の中に膨れ上った。わたしは地団太を踏んでみた。ひとりでどこかへ 出かけなければならない時、そういって姉に甘えたあの頃のように。 「なにいうてんの、アホゃね、この子は : : : 」 姉はいった。姉は何も感じす、笑って一蹴しただけだった。兄嫁も、美容師も、料亭の女中も、 仲人の奥さんも、みな笑っていた。みんなわたしがふざけていると思って、調子を合すように医 っていた。わたしはわくわくした。ほんとうに行きたくないのだ、と思った。わたしは涙を隠す ために顔をうつむけ、カなく「いやや」といった。 そうしてわたしは出発した。 料亭の広い玄関を出る時、写真屋が焚いたフラッシュの球が、突然大きな音をたてて石畳の上

6. 愛子

それはあるタ暮だった。 日暮どきの、薄ぼんやりした靄色の光の中に、椿の花がいつばいに咲いていた。ねえちゃんは 赤い椿の輪をわたしの首にかけてくれた。わたしはねえちゃんのスカートの後を擱んで、庭じゅ うをぐるぐる廻っていた。 「花電車や」 ねえちゃんはいった。 じっと動かない太陽と、小さな白い船ーーわたしはそれまで一度でも、その海を見たことがなか ったなどと考えたことがあったろうか ? わたしは、まだ一度も海を見たことがなかった。父は わたしたち子供が、三階へ上ることを固く禁じていた。三階はいつも雨戸が閉められ、階段の前 には、触れてはいけないもののように、二枚の金襖がびったり閉っていた。 わたしは、その金襖の前に立って、その向うにある三階のことを思った。三階の窓から見える 海のことを夢みた。 塗りこめたような青い海、じっと動かない太陽、小さな白い船ーーわたしはそれらをわたしの 目の前に、はっきりと見た。すべてのものが輝くのを見た。海と空は鮮かに区切られ、太陽がク ルクルとまわりながら、金色の光をふりまくのを

7. 愛子

見も知らぬ子供がいつばいいて、叫んだり駈けたり、笑ったりしている幼稚園。聞いたことも かいような乱暴な言葉や、意地の悪い目つき、ぶらんこや、シャベルや、ご本をぶん取ってしま う男の子。泣くと、まわりをとり囲んで、珍らしそうに眺めたり、笑ったりする女の子たち からたちの垣根に囲まれた小さな運動場は、蜂の巣みたいにプワンプワンいっていた。玉井先 生は長い袴をはいて、笛を吹いた。 その翌日、目が覚めると、お母さんはお母さんの部屋に坐っていた。二階からは、お父さんの 朗らかな笑い声がしていた。ねえちゃんは平気な顔をして、繩飛びをしながら学校へ出て行った。 いつもと同じ朝だった。けれどもわたしは、いつものようにお母さんに「お早う」ということが 出来なかった。 お母さんには、わたしの知っていたのとは違う、別のお母さんがいるのだ。わたしは思った。 お母さんの部屋に坐っているお母さん、お話の上手なお母さん、そしてお父さんと喧嘩をして出 て行ったお母さん、わたしを置いて行ったお母さん。お父さんの中にも、別のお父さんがいる。 ばあやの中にも、ねえちゃんのなかにも わたしは、お母さんがいつもの場所に坐っているのに、気がっかないふりをした。わたしはお 母さんの前を黙って通りすぎ、庭に出て大を呼んだ。そしてわたしは、大とお菓子を分けあって 食べた。

8. 愛子

ばあやは叫んだ。 「おはるさん、はよせんかいな。奥さんが行ってしまわはるがな」 おはるさんは真赤に上気して、羽織を着ながら走って来た。そしてねえちゃんは行ってしまっ た。わたしは残された。二階はひっそりと鎮まり、家の中は暗かった。お母さんの部屋を越え て、タ映えの中に椿の咲き乱れている庭が見えた。ばあやは気がついて、電燈をつけた。そして 優しい声を出した。 「お母ちゃまはな、すぐ帰ってきはりまっせ」 ばあやはねえちゃんが捨てて行った、白い椿の冠を拾って、わたしの頭に乗せた。 「おおええこと。お姫さまみたいやな」 わたしは泣きはじめた。お母さんはいなくなったのだ。わたしに黙っていなくなったのだ。お 母さんは、ねえちゃんだけを連れて行った。お母さんは、アイちゃんのことを考えなかった わたしは階段の下〈行って、そこに坐って大声で泣いた。いつもわたしが泣くと、お父さんは くら泣いても、二階はしんと 万年筆を持ったまま、階段をかけ下りてくるのだ。それなのに、い 子したままコトリとも音がしない。アイちゃんがこんなに泣いているのに、お父さんは知らん顔を 愛している。お父さんも、お母さんも、みんなアイちゃんのことをどうでもいいと思っている わたしは家中に泣き声を響かせた。わたしはいつも泣く時のように、「お母さん」とも「ばあ や」とも呼ばなかった。わたしはひとりぼっちだった。

9. 愛子

緑川さんは山科さくら子の、遠い親戚に当る。緑川さんは、わたしをサカナにして、バレーの 練習の休憩時間を楽しもうとしているのだ。 「さくら子ちゃんは、ほんまに素直なええ子よ、わたしも大好き」 そういって緑川さんは、大場幹江の方へ、チラと目くばせをしたように思う。しかしわたしは、 緑川さんの真意を探るより先に、山科さくら子のことが話題に出ただけで、ただもう嬉しく、思 わず笑ってしまう。緑川さんはいった。 「手紙出しなさいよ。ねえ、わたしでよかったら、渡してあげるわよ」 「どうせ、わたしなんか、・・、ー」 わたしはいった。そしてわたしは笑う。 「手紙出したって、どうせ返事なんか、貰えへんものーーー」 しかし、わたしは手紙を書いた。「さくらの花のような、さくら子さま」そう書いた。手紙は 金で縁をとった、ビンクの封筒に入れた。わたしは更衣室の隅で、それを緑川さんに渡した。手 紙は、あまり大切にポケットに入れていたので、封筒の四隅が折れていた。緑川さんは、わたし 子 と一緒になって、それを丁寧に伸ばし、一「三日中に返事を貰ってあげると保証した。 愛しかし、三日経っても、緑川さんは何もいわなかった。大場幹江が黙って、山科さくら子の住 所を書いた紙片を、わたしに渡した。わたしは郵便で、もう一度手紙を出した。だが返事は来な ・カ十 /

10. 愛子

うだった。ばあやは自分のことなんか一度も考えたことがないにちがいない。アイちゃんがお嫁 に行ってしまったら、ばあやはどうするだろう ? ばあやはいった。 「さてなあ、どないしまひょうなあ、ばあやはそんなこと、考えてもいまへんのや」 ばあやは嬢ちゃんのことだけ考えるのだといった。いつどんな時でも、「ばあや ! 」と呼ぶひ と声で、すぐに駈け出せるようにいつも襷がけをしている。 「早う大きうなりなはれや、なあ、別嬪さんになりなはれや」 ばあやのおつばいの間で眠るとき、きまってばあやはそういった。 「ばあやがついてまっせ。何も心配いりま〈ん。さあ、ねんねしなはれや」 すると眠りがどこからかやって来て、わたしを取りまく。わたしは溜息をつく。いろんなこと を、何もかも忘れる。お父さんのことも、お母さんのことも、転んだことも、ねえちゃんが意地 悪したことも。ばあやは歌った。 「ちいさいとオきに母さんがア おみみをくわえて引っぱったア 子 そーれでおみみがなーがいのー」 なぜ、母さんはお耳をくわえて引っぱったりなんかするのかしら。お耳を引っぱったら痛いに ちがいない。だけど、本当にお耳は伸びるのかしら。伸びすぎてち切れはしないかしら。お祭の 時に、シンコ細工屋のおっさんが、兎を作っていた。まっ白な兎に赤いおめめがポッチリつい