原田 - みる会図書館


検索対象: 愛子
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1. 愛子

116 帳が、怖ろしいもののようにわたしの目に入った。わたしはそれらのどれにも、手をふれること が出来なかった。それらを見ることさえ、憚られるような気がした。 わたしは急いで部屋を出ようとして、立ち止った。飾り棚の上に、原田育郎と姉の写真が立て てあるのを見た。姉はお姫さまのように胸の前で袖を合せ、その間に抱いた仔猫に頬をすり寄せ るようにして原田育郎の方へ身を寄せていた。姉の身のよじり方には、多分にその仔猫をダシに しているようなところがあった。姉は眩しそうに顔をしかめて笑いながら、へんにしなやかに、 原田育郎の方へ上半身をよじっていた。姉の尖った八重歯に陽が当っていた。姉は原田育郎によ りそって写真を撮ることを嬉しく思い、同時にそういう自分にはにかんでいるようなところがあ 姉のはにかみーーそれを、わたしははじめてみた。その笑顔は、いつもの〈姉の〉笑顔ではな く、〈原田育郎によりそっている姉の〉笑顔だった。わたしはぼんやりと、そのことを感じた。 そうだ、わたしは何も知らなかったのだ。姉のことについて、わたし達の関係について、何ひ とっ考えたことがなかったのだ。わたしは姉を愛していた。わたしが愛しているように、姉もわ たしを愛していると信じていた。小さい時から、わたしは一つ残ったお菓子は、わたしが食べる のが当り前だと、思いこんできたのだ そうしてわたしは立っていた。 仔猫を抱いた姉の、そのしなやかさ、そのはにかみの前に。わたしの知らない遠い幸福の前に。

2. 愛子

みんなはそういった。そして、みんなは笑った。わたしたちが笑うとき、姉は一緒になって笑 った。時によっては、姉の口から原田育郎の、新しい笑いの材料が提供された。 「育郎さんいうたら、えらい真面目くさって、何いうのかと思たら、日本の経済をどう思いま すかやて : : : 」 姉はいった。そんなときの姉は、まるで原田育郎をバカにしているかのようにさえ見えた。晩 餐の席で、原田育郎が一時間もべートーベンのことについてしゃべったとき、姉は石のように見 えた。姉は閉ロしている父や母や、薄笑いを洩らしているわたしの前で、ただ黙ってじっと坐っ ていた。 ーグレイの絹のツービースを着て、黒いネ 原田育郎が神戸港を出発して行った日、姉はシルバ ットの垂れている帽子をかぶり、港の石畳をコッコッと音をたてて歩いていた。 姉はほっそりと小さく、均整がとれて美しかった。姉の後には、淀んだ暗い水と白っぽい春の 空があった。姉は原田育郎が乗って行った船を、ふり返ろうとはしなかった。姉はかなしげで、 子 優美だった。自分の憂いにおおわれた優美さをよく知っていて、それに陶酔しているようにさえ 愛見えた。姉からずっと離れた先の方を、そろぞろと歩いているわたしたちーー母や仲人たちの姿 はいかにも場違いで野暮くさく、そのため姉はわざと遅れているようだった。 「早くおいで。香苗、何をぐずぐずしてるの」

3. 愛子

み、わたしが訪ねて行くとちょっと顔を上げて、 「ああ」 レ」い一つづ」亠丿・こっこ。 戦争で家を焼かれてから、姉は原田家の父や兄夫婦や弟や、結婚に失敗した妹などと一緒に、 建ってから四十年になるという借家に住んでいた。姉たちと兄夫婦と妹との間には、ガス代や掃 除場所の割りふりや、留守番の問題などで、始終、揉めごとが絶えなかった。姉の子供は、人の 顔さえみれば小遣いをねだった。原田育郎は戦争のあと失業し、漸く小さな大学の講師になった のだ。 「駅前の裏通りで、古ネクタイを百円で買いとる店を見つけてね。そこへ原田のネクタイを売 りに行ったの。その帰りにぶらぶら歩いていると、道端で、一本五十円で古ネクタイを売ってる オッサンがいるのよ。五本買って、前の店へ売りに行ったら、いつ。へんで二百五十円の儲けやっ ) 姉はその話を、まるで見て来た映画の筋を話すように話した。姉は痩せて小さくなっていた。 わたしが頼むスカートやプラウスの仕立代を、他人並に取った。姉はビアニストにしようと考え ている上の女の子が、ビアノの練習を怠けるといって、ミシンを踏みながらむきになってどなっ ていた。 しかし姉は、母やわたしには決して生活の愚痴をこぼさなかった。原田育郎が失業していた時

4. 愛子

105 愛子 原田育郎という、姉の婚約者がきまった。彼は一高から東大を経て、ある経済研究所に勤めて いた。姉は結婚の条件に″東大出のひと〃ということと、〃背の高いひと″ということを挙げて いた。彼の父は教育家で、三年前に亡くなった母もそうだった。 原田育郎は、真面目で質素な青年だった。学生時代に、小遣いを溜めて買ったというビアノを、 大切にしていた。彼がピアノに向って、″冬の旅〃を歌う間、姉は神妙に傍に坐って、少し音程 の外れたその歌を聞いていた。彼はそれらの歌について、驚くほどくわしい知識を持っていた。 彼はビアノを弾き、歌を歌い、それを解釈する自分の言葉に感動しては、首をふって、 「いいなあ ! いいなあ ! 」 と叫んだ。 彼の勤め先で、北京へ行く二年間の出張員を募ったとき、彼はまっ先に申し込んだ。 しは試験の前になると、みんなに内緒で、死物狂いで勉強した。先生に提出する修養日記には、 反省と悔悟の言葉を書き連ねた。 時として、わたしは学校中の全部から、愛想を尽かされた夢をみて、絶望しながら目覚める時 があった。暁方の薄暗い寝床の中で、わたしはひとりだった。そしてわたしは沼の中に沈んで行 くようなそんな焦躁に襲われた。

5. 愛子

でさえ、わたしたちはそのことを知らなかった。 「原田の今の研究が終るまで、何とかわたしが働いて勉強をさせてやりたいと思って : : : 」 姉がそういっているということを、わたしは他人から聞いた。わたしたちは姉から、姉に関す る一切のことを聞くことが出来なかった。原田育郎が起したちょっとした恋愛事件を、思いもよ らぬ方向からわたしたちは聞いた。 そうして姉は、昔ながらのあの穏やかな無ロな優しさの蔭で、わたしたちの姉に対する立ち入 りを拒んでいたのだった。 姉のわたしに対する優しさーーーたった一人の妹に対するものだと思い込んでいたあの優しさは、 姉のところへ洋裁を頼みにくる人や、ロうるさい近所の奥さん連中に対するのと全く同じ、内に 籠ったもののあるーーそれ故の優しさだったのだ。 わたしはそれを知った。戦後の生活の苦難が、姉の優しさをそんな風な優しさに変えて行った のだろうか ? それともわたしがそうと思いこんでいたあの頃の姉の優しさは、あの頃から既に わたしに対する隔絶を持っていたのに、ただわたしがそれに気づかなかっただけのことだったの 子 だろうか ? 愛姉は静かに強く、夫と二人の子供を守っていた。姉の本当の心は、夫にすら解らないにちがい 5 ないと思われるような無表情な静けさで。姉の家で圭太とわたしが喧嘩をはじめたとき、わたし が圭太を殴った音に、姉はミシンからちょっと顔を上げただけだった。わたしたちが争っている

6. 愛子

原田育郎の、生真面目な、四角い顎の前に 放課後の校庭で、鼓笛隊が紀元二千六百年の歌を練習していた。わたしは教室の窓によりかか って、それを見ていた。学校の横を通っている高架線を、兵士を満載した貨車が通って行った。 みんなは掃除当番の手をやめて窓から身を乗り出し、バンザイバンザイと叫びながら貨車に向っ て手を振った。 わたしは柏木アヤ子を見ていた。彼女は鼓笛隊の後列に立って、太鼓を叩いていた。首から懸 けている黄色い吊り皮と、太鼓の金具と、そして拍子を間違えて彼女が照れ隠しに笑うたびに、 白い歯がインデアンのように光った。 貨車が通り過ぎてしまうと、みんなは教室の掃除にもどった。だがわたしは、窓に顎を置いた まま、柏木アヤ子を見つめていた。 それは、いっ頃からそうなったのだったろう ? 学校こ、る、、 ーレド > つもわたしは柏木アヤ子を 子 探し求め、そうして彼女を見つめずにはいられない。それは、学校じゅうで、一番色の黒い者は 愛誰かと話し合ったとき、全員一致で柏木アヤ子が一等になった、あの時からだったろうか ? あ 7 るいは、運動会の学年対抗リレーで、柏木アヤ子が転倒して、膝から血を流しながら必死で走っ ていた、あの時からだったろうか ? それとも、誰がいい出したのか、マルコが柏木アヤ子を好

7. 愛子

あんまり素敵なんで、みな感心しているーーーと。 だがある日ーー・・・それは秋のはじめの、強いタ立のあった午後、わたしは見たのだった。 お母さんや妹さんから、一日も早く離れたいとは、どういうことでしよう : その文字は何気なしに、新聞広告の薬の名や、テープルかけのしみなどのようにさりげなく、 ゆるやかにわたしの目に入って来て、そして突然、わたしを突き刺した。 わたしはそこに立ち竦んだ。その字を見つめた。正確な楷書で書いてあるその字は、姉のべッ ドの枕の下からはみ出していた。それは北京にいる、原田育郎からの手紙だった。わたしはその 手紙を枕の下から引き出す勇気はなかった。わたしは見ていた。立っていた。そして姉は急に、 わたしから飛び立ち、遠いところへ行ってしまったのだった。わたしははじめて知った。姉はわ たしを厭がっていたのだーーーと。 わたしはそこに佇んだまま、顔を上げてあたりを見廻した。わたしはなぜ、姉の留守に姉の部 屋なんかへ来たのだろう ? そこは〈姉の部屋〉だった。黙って入ってはいけない〈ひとの部 子 屋〉だった。ターキーのプロマイドも、ギターを持ったフランス人形も、水彩で画いた下手くそ 愛な父の肖像画も、いつのまにかもうなくなっている部屋だった。壁にかかっているゴッホの複製 や、べートーベンのデスマスクや、奇怪な色をした壺や皿や油絵を、まるではじめて見るものの ように、わたしは見た。姉の机の上には、秘密めいた青銅の手文庫が、その上には布表紙の日記