いた。しかし彼らは誰ひとり、わたしの方を見向きもしなかった。いや、むしろ意識的に、わた しを黙殺していた。わたしはひとりだった。誰からも愛されていなかった。見すかされ、軽蔑さ れていた。そしてわたしはひとびとの間を、うなだれ、肩をまるめてとぼとぼと歩いて行った。 その冷やかな黙殺の重みをになって歩くよりほかに、どうしようもなくて : ああ、もう一度はじめからやり直すことが出来たら 突然、わたしは思った。もう一度、女学校一年から、いや、小学校一年から、いや、幼稚園か らやり直すことが出来たらーーーそれはいつだったろう。そうだ、わたしがまだ小学校の生徒だっ たころにも、ある日、そう考えたことがあった。 もしもわたしが大宮さんだったら : : : もしもわたしが西さんだったら : : : 大丸さんだった と。西さんでも、 ら : : : と。わたしはその時、思ったのだ。しかし、わたしは大宮さんではない、 大丸さんでもない、 そうして、そうだ、わたしは山川よし子ではなかった。伊能律でも、大場幹江でもなかった。 マルコでもモン公でもなかった。わたしは愛子であった。ーーーすべての人から愛されるように そう願って、父がわたしを名づけた時のように、わたしがそうであったように、わたしは愛 子であった。愛されるために媚び、愛されるために嫉み、愛されるために憎んだ : : : 愛子であっ た。
わたしは思い出す。大場幹江が廊下に落していった手紙の中に、そんな一節があった。そうし 。バレー部の練習のと てわたしは、そんな手紙を書いている時の、大場幹江の幸福を思ってみる きに、五年生の緑川さんと腕を組んで、校庭へ出てくる大場幹江の姿を思いうかべる。同じ匂い のフケとり香水、お揃いのハンケチ、同じ髪の分け方、大場幹江のことを「ミッキー」と呼ぶ緑 川さんーー ( そんなとき、わたしはわざと二人の間柄を知らないふりをして、ひとりでボールを 空高く投げるのだ ) わたしはいつも大場幹江を羨ましいと思っている。彼女の厚い唇、広い額、太い頸、ふき出し たニキビーーーそれを、わたしは羨ましいと思う。大場幹江の、でつぶりと肥った身体を作ってい る、あの膨大な自信、さもつまらなそうに″アホらしい ! 〃といった顔で、騒いでいるわたし達 を見る時の流し目、唇の端を歪めた笑い方、先生も感心する頭のよさ、誰一人親しい友達がなく ても〃わたしには緑川さんがいるのだ″といっているような頭の反らしよう 「美人でないやつに限って、エスを持っているーーー」 それはわたしが、いつもクラスのみんなに向っていう言葉だ。そしてそれは本当だ。わたしは 子 本当にそう思う。なぜなら、わたしはこんなに可愛いのにエスがない。わたしの脚はこんなにす 愛らりとしているのに。ニキビはないし、頸はほっそりしているし、スポーツだって得意なの ーナイフや、スタンドや鵝鳥の そうしてわたしは、かなしくなる。わたしは、机の上のペー こ .
「つまり、バンザイなどというて、オダテるわけやね」 わたしはそばへ来たモン公に向って、そういった。 「オダテて命を捨てさせる気か」 橋田もと子が机を叩き、大声を上げていた。 「ちょっと、ちょっと、みんな、聞いてちょうだい。怪しからんことをいうてる人がいます わたしはまだ柏木アヤ子を見つめたままいった。 「なんとねえ、モン公、柏木アヤ子はタイの生れやなかろかね」 わたしは柏木アヤ子に聞えるようにけたたましく笑った。わたしが意図した通り、校庭の柏木 アヤ子は思わずわたしの方を見上げ、あわてて目を外らした。彼女は何度も太鼓を間違えた。そ のたびに、わたしとモン公は笑った。大場幹江の低い声が、なだめるようにいっていた。 「橋田さんの意見は立派やけど、谷さんのいうことも一つの感情として認めてあげたいわ」 子 「感情 ? 」 愛橋田もと子は、甲高い慄え声をはり上げた。 「ちょっと、ちょっと、あんた、大場さん、あんたはわたしのいうことを理屈やというのやね。 わたしはね、いま、わたしがいうたような感情を、日本人ならば、みんな持っている、と思うの
「伊能律、生意気やから : : : 」 わたしはいった。わたしは笑った。 伊能律は、彼女を殴ったわたしを、憎まなかった。彼女はその翌朝、教室の入口で出会ったと き、いつものように元気よく「お早う ! 」と声をかけた。わたしがモン公やマルコとふざけて、 みんなを笑わしているのを、向うの方で眺めながら、さも面白そうに笑っていた。 「伊能律のあの鰹節色の顔の色がね、さっと紫がかったとみるや、忽ちレンガ色に変って行っ たときの、その幻妙さーー」 わたしはみんなの前でいった。マルコ、モン公、スネボン、オニョロ、みんなは笑いこけた。 そしてわたしは、わたしの裏切りを感じた。みんなは知らないのだ、何も知ろうとしないのだ。 わたしはそう思った。 わたしはそんな彼女たちを、失いたくなかった。伊能律も失いたくなかった。わたしはみんな から、好かれたかった。わたしがまだ子供だったころと同じように、みんなに好かれたかった。 教師からも上級生からも、下級生からも、通学電車で会う、よその学校の生徒からも : 大場幹江と二人きりで電車に乗り合せたとき、わたしは自分でも呆れるほど気弱く、大場幹江 と話を合せ、しんみりと自己分析をしたりした。ここにいるときのわたし、それが本当のわたし で、モン公やマルコといるときのわたしは、仮の、心にもないわたしだ、という顔をした。わた
緑川さんは山科さくら子の、遠い親戚に当る。緑川さんは、わたしをサカナにして、バレーの 練習の休憩時間を楽しもうとしているのだ。 「さくら子ちゃんは、ほんまに素直なええ子よ、わたしも大好き」 そういって緑川さんは、大場幹江の方へ、チラと目くばせをしたように思う。しかしわたしは、 緑川さんの真意を探るより先に、山科さくら子のことが話題に出ただけで、ただもう嬉しく、思 わず笑ってしまう。緑川さんはいった。 「手紙出しなさいよ。ねえ、わたしでよかったら、渡してあげるわよ」 「どうせ、わたしなんか、・・、ー」 わたしはいった。そしてわたしは笑う。 「手紙出したって、どうせ返事なんか、貰えへんものーーー」 しかし、わたしは手紙を書いた。「さくらの花のような、さくら子さま」そう書いた。手紙は 金で縁をとった、ビンクの封筒に入れた。わたしは更衣室の隅で、それを緑川さんに渡した。手 紙は、あまり大切にポケットに入れていたので、封筒の四隅が折れていた。緑川さんは、わたし 子 と一緒になって、それを丁寧に伸ばし、一「三日中に返事を貰ってあげると保証した。 愛しかし、三日経っても、緑川さんは何もいわなかった。大場幹江が黙って、山科さくら子の住 所を書いた紙片を、わたしに渡した。わたしは郵便で、もう一度手紙を出した。だが返事は来な ・カ十 /
った。わたしはもうおどけなかった。 それは十七歳という年齢のためだったろうか ? わたしがもうチビでなくなったためだろう か ? 決していい声ではないのに、音楽会で独唱したこと、駈けるのが早くないのにリレーの選 手になったこと、通学電車に乗ると、中学生たちがざわめくこと、いろんな下級生が、手紙をよ こすようになったこと : : : そんなことのためだったろうか。 わたしは作文の先生を、彼女がわたしをヒイキしているということのために、軽蔑した。大場 幹江が教師間に信望があり、優秀な生徒であるということのために、憎んだ。いつもひとりぼっ ちで、淋しそうにしている出来のよくない同級生を、彼女がてんかん持ちであると知ったために、 親切にした。 「質問です。先生 ! 先生は童貞ですか ? 」 わたしはいった。わたしはいつも、真面目くさっていた。教師はそんなわたしを、なぜか怒ら なかった。わたしはそれを、当然だと思った。 「皆さん、わたくしは、いまここに、アダ名というものに芸術性を与えよ ! という命題のも 子 とに登壇いたしました。わたくしは、アダ名から、素朴なリアリズムを追放しようとして、ここ 愛に立ったのであります。アダ名というものは、単なる描写であってはなりませぬ。猿に似ている から猿、豚に似ているから豚、というふうなアダ名は、その素朴さゆえに、人を傷つけることが 多いのであります」
よ。それが日本人たるゆえんでしよう。楠正成の討死の時の事情を、誰も生き残った者はいない のやから、信じることが出来へんという人は、日本人的感情が乏しいのや、と教わったでしよう が。疑いを持たへんこと、頭から信じること、それが日本人的感情なんやないの。日本人が世界 で一番優れた国民なんに、それを持たへんようになったら、日本は一体、どないなるの ? ねえ、 伺いたいわ、どないなるの ? 」 「そら、もっともな意見やわ」 大場幹江は、落ちついて答えた。 「戦争はやつばり、せんならん、とわたしも思うのよ。国家の生存の権利とでもいうのかしら ん。わたしはやつばり、認めるわ。兵隊に行って死ぬのは、仕方ないと思うわ。国民の義務やか らね。わたしが兵隊になったとしても、そう思うやろね」 「つまり我々は男に生れんで、よかった、ということやね」 わたしはいった。モン公とマルコが、迎合するように笑った。突然、伊能律がいった。 「わたしは戦争、好きや。戦争あったら、お父さん、どえらい儲けられるさかい : : : そやけど、 自分が戦争へ行くのはいややわ。怪我したら痛いし : : : 」 「ともかくやね、日本は人口が多すぎるのやから、戦争で減らす必要があるのやろ ? 」 とどめを刺すようにわたしはいった。柏木アヤ子は、あまりわたしが見つめるので当惑し、迷 惑そうに顔を反けていた。彼女は何べんも、顔の汗を拭いた。
川よし子に匹敵する不幸を、わたし . の中に探そうとする。わたしにも彼女と同じように苦悩があ 不幸でなければならないように思う。 「人を好きになるのに、資格なんていらんわ。大場さんさえ、好かれるんやもんーー・あのニキ ビ面でもね」 わたしはいった。わたしは何となく、その言葉が見当外れであることに気がつく。わたしはど んなことをいえばいいのだろう。心から山川よし子を慰めたいと思っているこの気持を、どんな 風にいえばよいのだろう。何をいっても、山川よし子の不幸の上を、上すべりしてしまうような 気がするのは、わたしが山川よし子に誠実な愛情を持っていないためだろうか ? わたしは四人の兄の、放埒のことを話し出す。金の無心の手段が尽きて、ジロウシスの電報を 打ってよこした二郎兄のこと、喫茶店の女の子を欺して、その父親から脅迫された三郎兄のこと 「わたしのうちやかて、お母さんは後妻やし、オヤジと二十も年が違うからね : : : 」 無理にも、何かしゃべらなければならないような気がして、わたしはいった。 川は海につながるところへきても、白く涸れたままだった。波はいつも同じ、壊れたボートが ひっくり返っているところまで、静かに流れ入ってきて、不思議なほど正確にそこで止った。わ たしたちは、涸れた川口にかかっている、たよりない渡し板を撓ませながら渡った。そして戸を 閉した貸ポート屋の、戸袋のかげに倒れている絵看板の上に坐った。
大場幹江はその後、バレーのネットの後片づけをしながら、低い声で、 「返事きた ? 」 と聞いただけだった。 わたしの制服のスカートは、寝押しをしないので、すっかり襞が伸びてしまった。上衣の胸は フットボールの埃でまっ白に汚れ、胸ポケットの底のほころびからは、いつも万年筆のお尻が突 き出ている。靴は汚れ、鞄は破れている。わたしの髪の毛は、自分で切るために両横ばかり短く、 手の届かない後へ行くに従って、極端な傾斜を描いて首筋に垂れている。 アイ公ーーみんなはわたしのことを、そう呼んだ。それは、わたしにふさわしい呼名だ。みん なはいった。面白い子、変った子、おどけた子。 朝、教室へ人るとき、わたしは睫にゴム輪を引っかけて、真面目くさって入って行く。わたし の長い、反り返った美しい睫ーーーしかしみんなは、誰もそのことに気づかず、わっとただ笑う。 ほら、またアイ公が、あんなことして ある朝、わたしは顔が半分以上も阻れる、大きなガーゼのマスクに、中央に赤系でネームを入 れて、登校する。またある朝、わたしは二年も前に廃止になった頭巾型の、古い制帽を被って校 門をくぐる。 わたしは山科さくら子のことなど、すっかり忘れた顔をした。はじめから、あれは冗談だった
。ヘンやポンポン入れの可愛らしさに対して、かなしくなるのだ。わたしのこの優しい心、もし誰 かがわたしを好きだといえば、その何倍もの愛情をかたむけるこの心、毎日毎日一生懸命に待っ ているこの心、それが、誰にも解らないのだろうか。わたしは大場幹江より素晴しい手紙を書く ことが出来る。素敵な贈り物もするし、その人一人を、永久に守ることだってする , ーーわたしは その人の為に、結婚さえも拒む。わたしの許に群がる求婚者たち、みんなが息を呑むような美し い青年や、みんなが羨ましがるような金持ちゃ、有名な映画俳優や、貴族や : : : けれどもわたし 彼女はわたしの為に幸福になり、ま は一切を拒む。わたしはただ一人のひとに操を捧げるのだ。 / た不幸にもなる。彼女は病気なのだ。肺病で、弱っている。わたしを見るときだけ、弱々しく微 ・ : わたしが死んだら、あなたは結婚するでしよう : : : わたしは怒ってみせる。結婚なん 笑む。 て、そんないやらしいこと : : : 嘘よ、そんなこといって、あなたはわたしのことなんか、すぐに 忘れてしまうんだわ : : : そして彼女の頬を一筋の涙が伝って行く : : : わたしは涙ぐむ。顔をまっ すぐにして、いっか見た映画の中で女優がしていたように、じっと目をみはり、またたきもせず に。すると忽ち目の中に涙が膨れ上る。涙は膨れて弾けて流れ、静かにわたしは暖り泣く : そうして涙にかすんだ目でわたしは見る。机の上の電気スタンドや、青銅の文鎮や、小猫の時 ーパーナイフや、 計や、ポンポン入れを。そこに飾られたまま、まだ一度も使ったことのない、ペ 鵝鳥のペンを : ・