四日曜日の朝、アパートの中の人々が聞いている朝に、自分の感情にまかせて、思うままに子供 のお尻を打っことの出来る母親は、何といっても、幸福な母親にちがいない。誰が何といっても、 それは素晴しいことなのだ。いま、わたしはそう思う。自分の怒りにまかせて子供を打ったこと が、何の痛みも苦しみも伴わないで、すっかり、けろりと忘れてしまえるということは・ 自分が子供の母親であるという事実が、どんなにわたしたち母親をいい気にさせ、怠慢にして いることだろう。子供が自分のそばにいるという事実、そうしようと思いさえすれば、いつなん どきでもそれを償うことが出来るという安心が、どんなに母親の身勝手を忘れさせていることだ ろう。 しかしそんな母親の一人が、もうどうしたって償いをすることの出来ない立場になってしまっ たとき、あの冷いお尻の手触りは、あのパンパンとよく響く平手打ちの音は、次第に鮮明さを増 して、どこまでもどこまでもっきまとうのだ。 子供は成長し、そして忘れるだろうーー、母親はそう思 い、たったひとつのその慰めにとり すがる。 いろんな可能性が、あの子たちにはまだまだあるのだからーーと。しかし、子供は 忘れても母親は決してそれを忘れることは出来ない。それを忘れようとして、あらゆる子供から 顔を反け、子供の笑顔や泣き声を怖れ、遂には子供嫌いになったとしても、どうしたって忘れる ことは出来ない。母親は、もう決して償いの出来ない土地にいるのだから。子供のことに関する
ことは、必ずしも正しい見方ではないわ。そんな母親の中には、孤独が怖くてそういう人もいる し、習慣が断てなくていう人もいるし、独占慾の強い人もいるし : : : そんな母親が後になってい うのよ。わたしはお前のためにわたしの人生を犠牲にしたんだよ、って。犠牲という言葉の美し さ、その自己満足が、その人の人生の支えになるんだわ。だけど、その言葉は、子供の人生の支 えになるかしら ? 子供の母親の誇を一身に背負わせられて、へとへとになる。もしかしたら、 子供はこういうかもしれないのよ。お母さんひとりは満足かもしれないけれどね、って : : : 」 また、こうもいった。 「とにかく、子供はわたしが引きとるより、向うへ行った方が幸福だと考えたのよ。自分の感 情で、大局を見誤ってはいけないと、そればかり考えたのよ。子供の幸福のためになることなら 1 わたしは忍ぶべきだと思ったのよ。よしんば子供がわたしを恨んだとしても、そうするべきだと や、むしろ軽蔑している母親と、妻を怖れている父親と 思ったのよ。父親を信頼していない、い の間に育つよりも、ノーマルな叔父夫婦を父と呼び母と呼ぶ方が、まだしも倖せだと : : : 」 わたしはよくいった。もう殆んど言葉がきまってしまっていた。そういうとき、必ず唇がひと りでに微笑したものだ。そんな風ないい方は、いつも必ず相手を深く肯かせた。感動さえさせた ? ・ : あなたは立派だった : : : 理性的だった : : : でもよく忍びなさって : そうしてわたしはきりぬけて来たのだ。あの傷を、ごま化して来たのだ。 「子供さんのこと、思い出すでしよう ? 会いたいと思うでしよう ? 」
パッジが変っていて、近くの学校へ通っているかと思うと、いつのまにかいなくなっていたり、 東京の学校へ行っているのだと思っていると、不意に家にいたりした。兄たちの誰かが家にいる と、その間じゅう家の中に落ちつかぬ気分が漂った。父のロ髭はたえず慄え、鼻の奥がクンクン 鳴った。 朝、父は二階の寝室から下りて来て茶の間に坐ると、新聞も手に取らぬ先にいうのだった。 「やつらはどうした ? 」 そして父は、誰も答えぬ先に、必ず自分で答えた。 「まだ寝ているーーー」 父は、父の場所から庭の植込みを通して、庭隅に見える離れ座敷の、閉された雨戸にちらと目 をやる。父の顔に赤味が射し、瞳が輝きはじめる。父は畳を蹴るようにして縁側に出ては、離れ に向って叫んだ。 「怠けものーツ、起きろーツ、起きぬと尻に火をつけるぞーツ」 やがて父はどなり疲れて部屋へ入り、食卓に向ってまずそうに遅い朝食をとる。父の伸びすぎ 子 たロ髭には、もう白いものが交っていて、それに納豆の糸や味噌汁のつゆがついているのに父は 愛気づかなかった。 母は兄たちのことについては、何もいわなかった。父が兄たちのことを怒るとき、母は一言も いわすに傍に坐っているだけだった。ばあやはいった。
木のように、スポットライトの丸い光のように、葬送行進曲のように横たわっている。 ああ、わたしの滑稽さ、それは、みんなを楽しませるためではなく、自分で自分を楽しんだ、 ひとりよがりの滑稽さだ。わたしがわたしの洒落やウィットを愉快に思うように、みんなが愉快 に思っていたかどうか、わたしは一度でも考えた一、とがあっただろうか ! わたしがわたしをき れいだと思っていたように、頭がいいと思っていたように、みんなから好かれていると思ってい たように、はたしてみんなはわたしのことをそう思っているのだろうか。わたしはむしろ、あや されていたのではなかったか ! わたしはモン公やマルコに向って、いろんな人のことを″単純 なあの手合〃とよくいったものだったけれど、それはこのわたしに向っていわれる言葉ではなか ったのだろうか。 冷たい日射しには、石の匂いがあった。更衣室の石壁は、額をよせると、ザラザラと痛かった。 わたしはそこにしやがんで、地面に字を描いた。わたしは誰とも会いたくなかった。 わたしはマルコと柏木アヤ子が、誰もいない校庭の向うを歩いて行くのを見た。 子 マルコは柏木アヤ子に向って、何かしきりに話しかけていた。柏木アヤ子は背の高いマルコの 愛肩のかげに、顔を伏せるようにして笑っていた。笑いながら柏木アヤ子は、何かにつまずいてマ ルコに支えられた。そして二人はそのまま手をつなぎ、校庭の塀にそって歩いて行った。 突然、冷たい手が、後からわたしの目を隠した。鳩のように、その手が笑った。わたしは黙っ
213 愛子 ら、 なるのよ。よく聞いて頂戴。子供を捨てることの方が、まだあなたと一緒にいるよりは、耐え易 いってことなのよ : : : 」 そういい終えると、はじめて胸が静まった。それをいわないで辛抱しようとすると、胃痙攣の 前のような、重苦しい圧迫に呼吸がつまった。彼が傷つけば、わたしの心はおさまった。彼を傷 つけることが、わたしのために彼が苦しむことが、わたしには麻薬のように必要だった。 ほんとうは森貝先生は、もう長いあいだ、誰かに、誰でもよい誰かに愛されたいと、ひそかに 思いつづけてきたのではないだろうか ? そう思いながら、愛されまいと拒んで来たのではない だろうか ? 自分が愛される筈はないと、かたくなに思い込もうとしてきたのではないだろう 安川タキノが森貝先生を愛していることを話題にしたとき、森貝先生は冗談のように笑いなが 「安川さんは素晴しい女性ですよ」 といい、それからやはり笑いながら、こういった。 「しかし、同情は愛ではありませんからね」 しかし森貝先生は、安川タキノの噂をするのが、決して不愉快ではなさそうなのをわたしはみ てとった。彼はよく笑い、わたしの言葉を野次った。実際のところ、彼は嬉しそうだった。それ
きどき客が来て、あの家が話題に上ると、わたしたちは何か滑稽なもの、遠い昔にふと行きずり に会った、誰かューモラスな人間 9 上とでも思い出した時のように、苦笑いをしながらいった。 「そうそう、あの家、どうなったかねえ。へんな三階がくつついていてねえ」 そんなとき、わたしは大人と一緒になって苦笑した。わたしはかって、あの家を自慢に思って いたことなど忘れ、あの家が恥かしくなっていた。もう大きくなったのに、今でも「アイちゃん や」と呼ぶ父や、「ジンゴ」などというばあやが恥かしいように。 わたしはあの家の悪いところばかり思い出した。雨の日のじめじめした暗さ、曲りくねった陰 気くさい廊下、、台所の柱にしみついた魚と油の匂い。あの家の朝は、何という騒々しさではじま ったことだろう。カまかせに汲むポンプの音、きしんだ雨戸を開ける音、茶碗を並べる音、鍋の 蓋を落す音。そして雨戸の節穴が壁に作っていた幾つかの光の穴は、布団の敷き方によっては、 朝早くからわたしたちの瞼を刺して無理やりに目を覚まさせたものだった。 それに比べて、新しい家の新しい朝は、まるで物語の中の朝のように、静かに美しく訪れてき た。みどり色のカーテンを漉してくる朝の光は、白い壁に囲まれたべッドのまわりの空間を、ぼ 子 んやりした優しい薄緑で満たし、わたしは水底に沈んで眠っている、わたしの身体を夢うつつに 愛想い描きながら、ああ、朝がきたのだな、とぼんやりと思う。わたしの頭の上には、丸い煙突穴 が開いていて、そこから一筋の、鮮かな光の棒が空間を斜断するのを感じると、わたしの目はば っちりと開き、もの音ひとっしない朝の中に、わたしは身を起すのだった。
て、じっとしていた。 「もうやめなさい、チイ子、うるさいよ」 暫くしてから、わたしはいった。ばっと手が放れ、野川千津子が、身を翻すようにして、わた しの脚もとに飛んできた。彼女はツバの広い麦藁帽子をかぶり、アンナンの子供の服装をしてい 「お姉さま、素敵やったわ ! 」 彼女は下からわたしを見上げるようにしていった。 「チイ子、胸がドキドキしたわ、ほんと ! いまでも、ほら : : : 」 わたしは野川千津子の髪を撫でた。 これは習慣だーーーわたしはそう思った。しかしわたし はもう、自惚れないぞ、もう決して嬉しがらない わたしは、 里月千津子が持ち出したカメラの方へ、不機嫌な顔を向けた。 「お姉さま、笑って、ねえ わたしは笑わなかった。笑うまいと思った。笑わないでいることは、努力が必要だった。わた しまいっこ。 「チイ子、あっちへ行きなさい、うるさいよ」 「どうしたん ? お姉さま、ねえ、チイ子、なにかした ? 」 「チイ子には関係ない。あっちへ行きなさい」
112 ろうと思ってね : ・・ : 」 わたしは、露骨につまらなそうな顔をして、ぶいと横の方を向く。わたしはもう、その話はす みのすみまで知り尽していること、父は何十回となく、その話をしていることを、知らせてやろ うとする。しかし父は、そんなわたしに頓着せずに、今にわたしが笑い出すであろう期待で、も うはやロのあたりをゆるませてうきうきと話をつづけるのだ。 「五里といえば、ええと、一里が四キロメートルだから、四キロメートルといえば、四千メー トルだな : : : 」 そうだ、四キロは四千メートルだから、つまり、五郎助五郎兵衛は二万メートルの道を歩いて さんの家へたどりつき、そこでは丁度、晩御飯を食べているところで、婆さんが五郎助五郎兵 「ごろすけごろべえさんや、飯はどうかね」 というと、五郎助五郎兵衛は、 「くった : : : 」 と叫ぶので、ああそうか、食って来たのか、そんなら、と膳を下げようとしたとき、上り縁に 腰をかけたままでいた五郎助五郎兵衛が、 「 : : : びれた」 と後をつけたという、ただそれだけの話
わたしたちはうんざりし、母と顔を見合せ、わたしは母のために父に腹を立てさえした。母は 疲れはてていること、すっかり痩せて老けこんでしまったことを、わたしは父のせいた、と思っ た。わたしは父に優しくしなかった。わたしはそんな父を、夫に対して恥かしく思ったのだ。い や父ばかりではなく、サージの上っ張りを着た母や、炭の乏しい寒い部屋や、穴のあいたふかし ハンや、サッカリンの紅茶などを、圭太に対して恥かしく思ったのだ。わたしは台所に立って、 乏しい材料で出来るだけ御馳走に見える料理を作るのに苦心した。わたしが料理を作っていると、 愛嬌のない金壺眼の婆さんがそばにつっ立って、じろじろとわたしのすることを眺めながら、も うどうしたって我慢ならないという声で、 「あっ、もう : : : そないに仰山、砂糖使うて : : : 」 と叫ぶのだった。 帰る日の前日、わたしははじめて夫を案内して、二階のわたしの部屋へ入ってみた。最初わた しの目に入ったのは、わたしのビアノを送り出した後の壁の空白に、母が置いた三尺近いケース 子 入りの日本人形だった。母は一体どこから、何を思って、そんな古くさい人形を出してきたのだ 愛ろう。人形は三尺帯を締めた胴の前よりに真直に腕を垂らし、ややうつむき加減に立って、一重 瞼を瞠った黒い瞳でじっと床の一部を見つめていた。人形は、御所車に桜の咲いている着物を着 ていた。その着物には肩のところでたつぶりと肩揚げがとってあったが、それでもゆきが長すぎ
「いや、お姉さま、怒ってるーー」 野川千津子は、麦藁帽をもぎとって、向うの方へ投げた。彼女は身体をゆすった。 「お姉さま、意地悪 ! 」 わたしは目を反らした。不意に怒りを感じた。 お芝居・ーー馴れ合い いつもそうだった。 あれも、これも、みんな 「チイ子、もういやになった」 投げつけるように、わたしはいっこ。 「チイ子なんか、大嫌いや。べたべたするし、頭は悪いし、嘘つきやし : : : 」 野川千津子の小さな丸い顔はびつくりし、泣き出しそうに歪み、歪みながら半信半疑で、わた しの怒りがどの程度ほんものか、馴れ合いかを量って丸く見開かれている。わたしはいった。 「何もかも、もういやや。チイ子も学校も、わたしも : : : みんな嘘ばっかし : : : 」 これもお芝居だ。わたしは思った。わたしは楽しんでいる。言葉と、気分を楽しんでいる。不 機嫌さを、我儘を、孤独らしさを : : : わたしは怒鳴った。 子 「チイ子、あっちい行きなさいいうたら、さっさと行きなさい ! 」 愛野川千津子が行ってしまうと、わたしは壁に頭をもたせかけ、空を眺めた。わたしは、わたし 1 がすべての人から見捨てられ、ひとりぼっちで街を歩いて行く有様を想い描いた。わたしのまわ りには、わたしを知っている筈の、大勢の女学生がそそろ歩いたり、よりかたまってさざめいて