笑っ - みる会図書館


検索対象: 愛子
219件見つかりました。

1. 愛子

て、じっとしていた。 「もうやめなさい、チイ子、うるさいよ」 暫くしてから、わたしはいった。ばっと手が放れ、野川千津子が、身を翻すようにして、わた しの脚もとに飛んできた。彼女はツバの広い麦藁帽子をかぶり、アンナンの子供の服装をしてい 「お姉さま、素敵やったわ ! 」 彼女は下からわたしを見上げるようにしていった。 「チイ子、胸がドキドキしたわ、ほんと ! いまでも、ほら : : : 」 わたしは野川千津子の髪を撫でた。 これは習慣だーーーわたしはそう思った。しかしわたし はもう、自惚れないぞ、もう決して嬉しがらない わたしは、 里月千津子が持ち出したカメラの方へ、不機嫌な顔を向けた。 「お姉さま、笑って、ねえ わたしは笑わなかった。笑うまいと思った。笑わないでいることは、努力が必要だった。わた しまいっこ。 「チイ子、あっちへ行きなさい、うるさいよ」 「どうしたん ? お姉さま、ねえ、チイ子、なにかした ? 」 「チイ子には関係ない。あっちへ行きなさい」

2. 愛子

213 愛子 ら、 なるのよ。よく聞いて頂戴。子供を捨てることの方が、まだあなたと一緒にいるよりは、耐え易 いってことなのよ : : : 」 そういい終えると、はじめて胸が静まった。それをいわないで辛抱しようとすると、胃痙攣の 前のような、重苦しい圧迫に呼吸がつまった。彼が傷つけば、わたしの心はおさまった。彼を傷 つけることが、わたしのために彼が苦しむことが、わたしには麻薬のように必要だった。 ほんとうは森貝先生は、もう長いあいだ、誰かに、誰でもよい誰かに愛されたいと、ひそかに 思いつづけてきたのではないだろうか ? そう思いながら、愛されまいと拒んで来たのではない だろうか ? 自分が愛される筈はないと、かたくなに思い込もうとしてきたのではないだろう 安川タキノが森貝先生を愛していることを話題にしたとき、森貝先生は冗談のように笑いなが 「安川さんは素晴しい女性ですよ」 といい、それからやはり笑いながら、こういった。 「しかし、同情は愛ではありませんからね」 しかし森貝先生は、安川タキノの噂をするのが、決して不愉快ではなさそうなのをわたしはみ てとった。彼はよく笑い、わたしの言葉を野次った。実際のところ、彼は嬉しそうだった。それ

3. 愛子

木のように、スポットライトの丸い光のように、葬送行進曲のように横たわっている。 ああ、わたしの滑稽さ、それは、みんなを楽しませるためではなく、自分で自分を楽しんだ、 ひとりよがりの滑稽さだ。わたしがわたしの洒落やウィットを愉快に思うように、みんなが愉快 に思っていたかどうか、わたしは一度でも考えた一、とがあっただろうか ! わたしがわたしをき れいだと思っていたように、頭がいいと思っていたように、みんなから好かれていると思ってい たように、はたしてみんなはわたしのことをそう思っているのだろうか。わたしはむしろ、あや されていたのではなかったか ! わたしはモン公やマルコに向って、いろんな人のことを″単純 なあの手合〃とよくいったものだったけれど、それはこのわたしに向っていわれる言葉ではなか ったのだろうか。 冷たい日射しには、石の匂いがあった。更衣室の石壁は、額をよせると、ザラザラと痛かった。 わたしはそこにしやがんで、地面に字を描いた。わたしは誰とも会いたくなかった。 わたしはマルコと柏木アヤ子が、誰もいない校庭の向うを歩いて行くのを見た。 子 マルコは柏木アヤ子に向って、何かしきりに話しかけていた。柏木アヤ子は背の高いマルコの 愛肩のかげに、顔を伏せるようにして笑っていた。笑いながら柏木アヤ子は、何かにつまずいてマ ルコに支えられた。そして二人はそのまま手をつなぎ、校庭の塀にそって歩いて行った。 突然、冷たい手が、後からわたしの目を隠した。鳩のように、その手が笑った。わたしは黙っ

4. 愛子

210 汚ならしい仕事に見えるなどということは、到底考えられなかったのだ。幸福が、彼女にそう思 わせたのだ。 そうして彼女は、わたしの前に立っていた。 白いフワフワした毛のついた、みどり色の室内靴をはいて、大理石のマントルビースの前に立 っていた。女中が入ってきて紅茶の支度をして出て行こうとすると、彼女は女中に向って、 「ああ、ニキビの注射、してあげてよ。いらっしゃい。でないと、また忘れそうだわ」 といった。彼女はハンドバッグの中から、病院から持ってきた注射のアンプルを、もうとり出 していた。彼女は、わたしの前でニキビの注射といったことが、女中を恥かしがらせたそのわけ がわからなかった。女中がバタバタと逃げ出して行く後姿を、彼女は呆気にとられて見ていた。 「どうしたの、おかしなひと : : : 」 彼女はわたしを見返って、呆れたように笑った。 「ごめんなさい。不作法で : : : 」 そして彼女はフランチェスカッティのメンデルスゾーンをかけ ( 彼女はそれを聞くと胸が絞ら れそうだといった ) わたしに向って、 「あなたって、素晴しいひと : : : 」 といったのだ。もう何年も、わたしを非難しつづけている人々のーー圭太の両親や、姉弟や、

5. 愛子

四日曜日の朝、アパートの中の人々が聞いている朝に、自分の感情にまかせて、思うままに子供 のお尻を打っことの出来る母親は、何といっても、幸福な母親にちがいない。誰が何といっても、 それは素晴しいことなのだ。いま、わたしはそう思う。自分の怒りにまかせて子供を打ったこと が、何の痛みも苦しみも伴わないで、すっかり、けろりと忘れてしまえるということは・ 自分が子供の母親であるという事実が、どんなにわたしたち母親をいい気にさせ、怠慢にして いることだろう。子供が自分のそばにいるという事実、そうしようと思いさえすれば、いつなん どきでもそれを償うことが出来るという安心が、どんなに母親の身勝手を忘れさせていることだ ろう。 しかしそんな母親の一人が、もうどうしたって償いをすることの出来ない立場になってしまっ たとき、あの冷いお尻の手触りは、あのパンパンとよく響く平手打ちの音は、次第に鮮明さを増 して、どこまでもどこまでもっきまとうのだ。 子供は成長し、そして忘れるだろうーー、母親はそう思 い、たったひとつのその慰めにとり すがる。 いろんな可能性が、あの子たちにはまだまだあるのだからーーと。しかし、子供は 忘れても母親は決してそれを忘れることは出来ない。それを忘れようとして、あらゆる子供から 顔を反け、子供の笑顔や泣き声を怖れ、遂には子供嫌いになったとしても、どうしたって忘れる ことは出来ない。母親は、もう決して償いの出来ない土地にいるのだから。子供のことに関する

6. 愛子

112 ろうと思ってね : ・・ : 」 わたしは、露骨につまらなそうな顔をして、ぶいと横の方を向く。わたしはもう、その話はす みのすみまで知り尽していること、父は何十回となく、その話をしていることを、知らせてやろ うとする。しかし父は、そんなわたしに頓着せずに、今にわたしが笑い出すであろう期待で、も うはやロのあたりをゆるませてうきうきと話をつづけるのだ。 「五里といえば、ええと、一里が四キロメートルだから、四キロメートルといえば、四千メー トルだな : : : 」 そうだ、四キロは四千メートルだから、つまり、五郎助五郎兵衛は二万メートルの道を歩いて さんの家へたどりつき、そこでは丁度、晩御飯を食べているところで、婆さんが五郎助五郎兵 「ごろすけごろべえさんや、飯はどうかね」 というと、五郎助五郎兵衛は、 「くった : : : 」 と叫ぶので、ああそうか、食って来たのか、そんなら、と膳を下げようとしたとき、上り縁に 腰をかけたままでいた五郎助五郎兵衛が、 「 : : : びれた」 と後をつけたという、ただそれだけの話

7. 愛子

三、四年前までは、父とわたしはそこで声を揃えて、 「アッハッハアハア」 と笑いこけたものだった。心からおかしくない時でも、わたしは父に向って「アッハッハア」 と笑ってみせたものだった。 しかしいま、父はひとりで笑う ' 父は笑いながら、わたしを見る。それがわたしには、わけも なく気に障る。わたしはニャリと、さも厭そうに唇を歪めるか、つまらなそうに、そっぽを向く かする。仕方なく、父はひ」りで笑いつづける。笑いながら父は立ち上って、わたしのそばを去 って行く。わたしが見せている馬鹿らしげな態度に、何も気がっかないかのように : 「おらが殿さま、利ロではつめい 何の因果か、ぼた餅すうきで 昨日十三けさまたなーなっ ひとっ残して袂さいーれて : : : 」 子 父はひとり、歌った。父は不思議なことにその歌を、いつもひとりでいる時に歌った。父は自 愛分の歌が調子ッ外れなこと、五郎助五郎兵衛の話よりも、その歌を歌っている父を、わたしがど んなに面白がっているかに、気づかなかった。

8. 愛子

「どら、ちゃんとして : : : 」 姉はあの頃のように、姉の手の中で動きまわるわたしをたしなめたのだった。〈どれ〉といわ ずに〈どら〉といういい方で姉はいった、とわたしは思った。するとふいにかなしみがこみあげ た。 「ねえちゃんも、一緒に行こ ! 」 思わず、わたしはそういっていた。わたしは半ばふざけて、姉に甘えた。 「行くのいやや、いや ! 」 思いがけなくも、涙が目の中に膨れ上った。わたしは地団太を踏んでみた。ひとりでどこかへ 出かけなければならない時、そういって姉に甘えたあの頃のように。 「なにいうてんの、アホゃね、この子は : : : 」 姉はいった。姉は何も感じす、笑って一蹴しただけだった。兄嫁も、美容師も、料亭の女中も、 仲人の奥さんも、みな笑っていた。みんなわたしがふざけていると思って、調子を合すように医 っていた。わたしはわくわくした。ほんとうに行きたくないのだ、と思った。わたしは涙を隠す ために顔をうつむけ、カなく「いやや」といった。 そうしてわたしは出発した。 料亭の広い玄関を出る時、写真屋が焚いたフラッシュの球が、突然大きな音をたてて石畳の上

9. 愛子

うとする男の子に気を取られ、それをやめさせるために、懐から黒ずんだ、だらりと長い乳房を 引っぱり出して、男の子のロの中〈押し込むのだった。男の子は厭がって、ばあやの膝の上で暴 れた。庇のように出つばった額の下の金壺眼を光らせて、ばあやに向って手をふり上げた。耳の 後に腫物を膿ませ、水洟のために赤くただれた鼻の下を光らせ、仁王立ちになって、お盆のアラ レをそこへぶちまけた。 わたしたちは黙ってしまった。わたしとばあやは、もうお互いに何も話し合うことがなくなっ てしまったのだ。 ばあやは男の子の手を引き、春先の、冷いタ暮の中を帰って行った。首のまわりに黒い絹をま きつけ、紫べっちんの足袋をはき、母から貰った古着や食糧などの風呂敷包みを片手に下げて。 「今度来るときは、お嬢ちゃんに、筆箱を持ってきまっせ。うちのおっさんが、いま一生懸命 に彫ってますねん。おっさんは、ほん、上手でっせ。花やとか、ほんまみたいに彫りまっせ」 別れぎわにばあやはそういった。女学校三年になったわたしが、もう木の手製の筆箱など、持 とうとも思わないことに気づきもせずに。 ばあやは曲り角のところでふり返り、タ陽を受けて眩しそうにしかめた顔で笑いながら、わた しに向って手を振った。ばあやはかがんで、男の子に向って何かいった。そして二人はタ陽の中 に並んで、同じようにゆらゆらと、手を振った。

10. 愛子

242 ずっと昔、もう二十年も前に、二郎兄がわたしに向って、こんなことをいったことがあった。 「一郎兄貴は子供の頃、病気ばかりしていたのでね。親爺は何でも兄貴のいうことをきいたん だよ。兄貴は本だの玩具だのをいつばい持っていてね。そのくせ、僕にはひとつも貸してくれな いんだ。ちょっとでも触ると、大声を上げて騒ぐんだ。すると親爺は、一郎は病気なんだからと いって、僕を叱る。僕はそんな兄貴が羨ましくてね。僕も病気になれば、大切にされて、何でも 買ってもらえるかと思った。そこで台所の天窓の下へ行ってね。深呼吸をしたものだったよ。天 窓の下へ行くと光線のエ合で、埃の柱が立っているんだ。そこが徽菌の巣だって誰かに教わった んだ。そこでその中に立って、一生懸命に深呼吸をしたのさ。そうすれば今に病気になれると思 ってね : : : 」 そういって二郎兄は笑っていた。よく人々が、あれが小悪党の虚勢笑いだという、豪放めかし た笑い方で、肩をゆすって笑っていたのだ。いうまでもなく二郎兄は、その話を即興的な思い出 話として話したにすぎなかった。そして兄は、その話の中に隠されている兄自身の、もう何十年 もの長い孤独に、少しも気づいていないのだった。 三郎兄が死んだのは、フィリツ。ヒンの戦いでだった。三郎兄は戦車に乗って、砲弾の中を進撃 していた。三郎兄は突然、戦車の奄蓋を開いて頭をつき出したのだ。