見える - みる会図書館


検索対象: 愛子
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1. 愛子

それが里子の声を聞いた最後だった。わたしはそこにしやがんで、里子の靴の先に紙を詰めた。 里子はわたしの肩に手を置き、片一方の足の上に新しい靴下をはいた足を重ねて待っていた。 そうして子供たちは行ってしまった。女中と圭太が両脇について、バスに乗り込んで行った。 女中はすっかり、母親気どりだった。そしてバスは凍てついている村道を、ガタガタと慄えなが ら曲って行った。バスが曲るとき、パスの片側に朝日が当って、汚れたガラス窓の向うに、白い 帽子が二つ並んでいるのが見えた。 そうして子供たちは行ってしまった。 子供たちを故郷の家へ送って行った圭太がもどってくる前に、わたしは家を出た。家出娘のよ うに風呂敷包みを抱えて、末枯れた田圃道をバスに揺られて行った。わたしは無感動だった。わ たしは圭太の両親に、圭太が生活を建て直すまで、子供を預ってほしいと頼んだのだった。わた しは圭太の両親を欺いたのだ。圭太をも欺いたのだ。子供たちをも、そしてわたし自身をも : 圭太が生活を建て直すまで : : : その言葉で、わたしは子供たちとの別れに、曖昧さを与えたの 子 だった。そのうちに圭太が立ち直ってくれれば : : : それまでの辛抱 : : : 。そうしてわたしは子供 愛たちとの別れの、引き裂かれる苦痛をごま化したのだ。時を稼ごうとしたのだ。すべてを圭太に 背負わせたのだ。そのうちに : : : そのうちに : : : そのうちに : : : しかしわたしの心のどこか底の 方では、もう再び圭太が立ち直ることはあるまい、と思いきめていたのだった。

2. 愛子

た。おっさんは小さな太鼓を叩いた。トントントコトコ、白いやわらかなお耳、甘い蜜のついた お耳、ばあやのおつばいはゆさゆさ、ねんねんころころ、おころりようーーーそしてやがて、すべ てがあたたかな眠りの中にとけてしまう。 わたしのおうち、わたしのお父さん、わたしのお母さん、わたしのばあや、そしてわたしの家 の三階から見える青い海 そうだ、それがわたしの幸福だった。わたしはいくつになっていたのだろう。わたしはわたし の家の三階の窓から、海が見えると信じていた。 「うちの三階から、海が見えるんよ」 遊び友達に向ってそういうとき、わたしは目の前にじっと動かない青い明るい海と、その上に 懸っている、丸い大きな太陽を描いているのだった。 「ほんま ? 」 「どんな海 ? 」 「わたしも見せてーーーー」 得意になってわたしはいっこ。 「海はね、まっさおでね、おてんとさんも見えるしね」 それはねえちゃんが、何度も読んでくれた、絵本の中の海の絵だった。

3. 愛子

彼は戦争中に、陸軍がこの村に埋めた錫を掘り起して、一儲けする話ばかりしていた。正林寺 という大きな森の伐採権は、俺が持っている、などといい出した。聞き伝えていろんな男がやっ て来た。その男たちのために、圭太は金を貸したり、米をやったり、古びた猟銃を買わされたり した。やっと産卵をはじめた名古屋コーチンと、軍鶏とを交換したりした。鉄砲うちゃ、釣りに 夢中になった。軍鶏にも凝った。 「軍鶏は卵を産まないのよ ! 」 わたしは叫んだ。特別に拵えた小屋の中で、軍鶏は脚を踏んばり、赤い長い首を空にさしのべ て、ときを告げた。この軍鶏の声は隣村まで聞える、と圭太はいった。いろんな男が軍鶏を見に 来た。軍鶏は見られていることを誇って、男たちの方は見向きもせず、一歩一歩脚を高くあげて 歩いてみせた。圭太は軍鶏にだけ、特別にエビガニを買った。軍鶏はわたしを見ると、怒ってト サカを立てた。 冬のはじめの風が吹き出すと、村外れの広い畑の裾にあるわたしたちの家は、まるで黄色い幕 のような土埃の中に包まれた。風は怖ろしいものだった。窓の外のものは、物置きも、鶏舎も、 井戸も、豚小屋も、一切が見えなくなった。朝から雨戸を立てたままの部屋の中に、どこから吹 き込むのか、みるみる土埃が積った。土埃は食事をとる短い間にも、茶椀の上に舞い落ちた。ロ を開けて笑うまに、ロの中がジャリジャリした。電圧が下って、電燈はニクロム線が線香のよう

4. 愛子

57 愛子 を咥えたまま、ぼんやりと空を眺めていた場所だった。そしてそこから父がよく見上げていた、 隣家との境にある欅の大木は、洗ったように白い空に向って、葉のない黒いまっすぐな枝をひろ げていた。 私の立っている土堤からは、ここ〈上ると仕事をしている父の後姿が見えた丸い窓がーー、日射 しのエ合によっては、そこから蒙々と煙草の煙が流れ出ていた丸い窓がすぐそこに見え、引越し に言力が割ったままのガラスの破れから、暗い家の中が見えていた。 ほんとうに暗い家、どんなに小さくても いい、明るい風通しのいい家に住みたいねえ それはかって、母がそう言い言いしていた家だった。おぼろな濁った光が、煤けた天窓からぼ んやりと射していたあの暗い中廊下にも、今もあの時と同じ鈍い光が懶げに落ちているのだろう カ わたしは目の前に立っている家の、深い庇や重なりあった大屋根や、閉され黒ずんだ雨戸を幾 度も眺めた。こんなに陰気な汚い家、これがあの頃のわたしにとって、何にもまして自慢だった あの家なのだろうか。 桃色の縁側、あたたかなお母さんの部屋、お父さんのあぐらのなか、ばあやの柔らかなおつば うちの三階からは、海が見えるんよ、青い青い海が 突然、わたしは思い出した。それはわたしたちが、この家をすてて新しい家〈行く、あの引越

5. 愛子

うみ 「だあれもいない おてんとうさまはきいらきら なみはうつらうつら しずかなうみ」 そこを読むとき、ねえちゃんは節をつけて歌うように読んだ。そしてわたしは、すっかりそら だあれもいないうみ、おてんとうさまは、きいらきら で覚えてしまった。 絵本の海の色は、色紙の青と同じだ「た。太陽は飴玉みたいに黄味がかり、空の中にその黄色 が滲み出ていた。 「すい〈いさんは、とおいとおいおくにの、お母さんのことを、おも 0 ているのでしようか」 太陽と同じ色の髪の毛をした水兵さんが、しやがんで沖の方を見ていた。そしてその頭の上の 方に、赤い横線の入「た小さな白い船が、丸い煙を吐いてじっとしていた。 「そいから、おふねも見えるしね」 わたしはいった。 子 「ふじ山も見えるんやし」 愛絵本の次の頁には、富士山が描いてあった。 ふじさんは、に 0 ぼん一の山です。はれた日は、どんなとおくからもよく見えます それはわたし以外に誰ひとり見た者のないわたしだけの海だ「た。塗りこめたような青い波と、

6. 愛子

わたしが父と母の住む〈わたしたちの家〉を訪ねたのは、結婚をして三か月目のことだった。 たった三か月の間に大門のチークの扉はすっかり黒ずみ、古びてしまったように見えた。石を 積み上げた四角な門柱の間に、隙間なくびたりと閉っている扉は、もうすっかり他人の家のよう な、とりつき難いいかめしさで立ちはだかっていた。 呼鈴を押してから、随分時間が経ったような気がした。わたしは夫と並んで、門が開くのを待 っていた。 ( わたしはもう、かって持っていた耳門の小さな鍵を持っていなかったから ) 常磐樹 の黒ずんだ繁みの向うに見えるわたしの部屋の窓には、わたしの見たことのない、冴えない色の カーテンが下りていた。 門を開けたのは母だった。母は疲れた顔をして、ひどく無愛想だった。 「キミさんが帰ってしまってねえ」 最初に母がいった言葉は、それだった。それから母は、わたしの後に立っていた圭太に、はじ めて気がついたように力なく笑いかけた。 「 , ハ十のばあさんが、御飯たきに来てるんだよ。それが八時にならないと来ないしねえーー・」 門のそばに立ったまま母は、どうしても今のうちに、それだけのことをいってしまわなければ ならない、という風にいった。

7. 愛子

150 わたしは黙って、ぼんやりとその情熱的なおしゃべりを聞いている。わたしははじめから、尾 上先生は決して松井道代と結婚しないだろう、と思っていた。尾上先生の豪放めかした笑いかた や、患者に向うときの、慇懃なくせに妙に尊大な態度や、女を見るときの眼の使い方などを見て いると、どうしたって、彼が容易に人にうちこむことの出来る男だとは思えないのだ。掃除婦の 近藤さんはわたしに向って、このことが解るのは何といったって、わたしたち、年をくってる者 だけですよ、といったのだった。そのことについて近藤さんはわたしに、松井道代に忠告をする ようにいったが、わたしは何もいわなかった。わたしはただ見ていた。松井道代が本当に傷つく ならば、むしろ羨ましいとさえ思ったのだ。わたしには若い彼女たちのすべてが茶番で、そして 羨ましく思われる。 「あなたのように、、 > つも泰然としてられたらいいわね」 彼女たちはそういう。そうだ。わたしはいつも泰然としているように見えるだろう。わたしは 泰然と見えるようにしているのだから。わたしは歪んだ靴の踵なのだ。〈庶務課の小母さん〉な のだ。だから私は泰然としている。彼女たちには解るだろうか ? だからわたしは泰然としてい るレ」い一つこレか その日の帰り、わたしは渋谷の人混みの中で、森貝先生を見かけた。森貝先生はいつものよう に右手に往診鞄を下げ、紺の背広の左肩を上げ、左の脚を引きずっていた。デパートのウインド

8. 愛子

みんなはそういった。そして、みんなは笑った。わたしたちが笑うとき、姉は一緒になって笑 った。時によっては、姉の口から原田育郎の、新しい笑いの材料が提供された。 「育郎さんいうたら、えらい真面目くさって、何いうのかと思たら、日本の経済をどう思いま すかやて : : : 」 姉はいった。そんなときの姉は、まるで原田育郎をバカにしているかのようにさえ見えた。晩 餐の席で、原田育郎が一時間もべートーベンのことについてしゃべったとき、姉は石のように見 えた。姉は閉ロしている父や母や、薄笑いを洩らしているわたしの前で、ただ黙ってじっと坐っ ていた。 ーグレイの絹のツービースを着て、黒いネ 原田育郎が神戸港を出発して行った日、姉はシルバ ットの垂れている帽子をかぶり、港の石畳をコッコッと音をたてて歩いていた。 姉はほっそりと小さく、均整がとれて美しかった。姉の後には、淀んだ暗い水と白っぽい春の 空があった。姉は原田育郎が乗って行った船を、ふり返ろうとはしなかった。姉はかなしげで、 子 優美だった。自分の憂いにおおわれた優美さをよく知っていて、それに陶酔しているようにさえ 愛見えた。姉からずっと離れた先の方を、そろぞろと歩いているわたしたちーー母や仲人たちの姿 はいかにも場違いで野暮くさく、そのため姉はわざと遅れているようだった。 「早くおいで。香苗、何をぐずぐずしてるの」

9. 愛子

は自らの大きな影の中に、寒そうな鼠色をして立っていた。野球場の上には白い瑞々しい雲を曳 いた朝の空があった。空の下には、野球場の影を受けて、暗い人気ない濡れた広場があった。広 場には像をとり外されてしまった銅像の、花崗岩の台座がつっ立っていた。海へ行く小さな電車 の舗装道に沿って、松林の下を流れていた枝川は、跡形もなく消え失せていた。その川に沿って 曲りくねりながら、海へと続いていた松林の土堤もなくなっていた。土堤はすっかり低くなり、 断片的にち切られて、まばらに残った松の木は、そのどれもがすっかり根をむき出していた。駅 員は三十年前の、あの声でもう一度駅の名を呼んだ。電車が動き出した。そしてくさ原が現れた。 そこには一軒の家もなかった。電車がプラットフォームを出外れるとすぐに、松林よりも高くっ き出て見えたあの三階はなかった。あの三階建ての家からはじまった、行儀よく碁盤の目に並ん だ家並もなかった。くさ原は朝日に輝いていた。それは生い繁って枯れたままどこまでもひろが り、その原の尽きるところから、見もしらぬ新しい町がはじまっていた。 一週間ばかりの滞在のあと、わたしは知人の家を訪ねた帰りに、海岸へ行ってみようと思いっ いた。わたしは海へ行く小さな電車の、安全地帯もないプラタナスの下の停車場に立って、電車 が来るのを待っていた。そこはかって、わたしが学校へ通うために立った場所だった。わたしは そこに立って、電車を待っていた。乗客がなければ、電車はとまらずに通過して行く場所である ことをわたしはよく知っていたので、電車の姿が見えると、進み出て手を上げた。しかし電車は、

10. 愛子

のときには左手を出す。豊田先生は何べんもそういった。みんなは行進をやめて、わたしをみて いた。豊田先生は悲しそうな顔をしていった。 「ねえ、普通に歩くときのようにすればいいのよ」 そうだ、普通に歩くときのようにすればよいのだ。だけど号令がかかると、普通の時のようで なくなってしまうのだ。わたしは部屋をぐるぐる廻った。 ー・ー右足左手、左足右手 お父さんなんて、何も知らないんだ。お母さんだって、ばあやだって、何も知らないんだ : ・ アイちゃんや、学校は好きかい : : わたしは思う。お父さんなんて : : : 誰も、何も知らないんだ。 みんながわっと笑った。 北川直吉は、教室の床に仰向けにひっくり返って、亀の子みたいにばたばたしながら泣いた。 ちょっと押しただけや わたしは田 5 った。北川直吉を転がそうなんて、思いもしなかった 川直吉が脚をばたばたするたびに、ズボンの破れから、痩せた太腿が見えた。北川直吉は涙 だらけの顔をして、起き上ろうともせずにしやくり上げていた。 ちょっと手を上げただけやのに、ひとりでひっくり返ったんや