家 - みる会図書館


検索対象: 朝雨 女のうでまくり
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1. 朝雨 女のうでまくり

まう。それから気がついて、 「今は、西宮市といっているらしいが」 とつけ加える。はじめから、 「西宮です」 と答えたことがないのは、西宮市となった鳴尾には、もうふるさとの面影がなくなってしまっ たからである。 それでも、私は年に一度か二度はふるさとへ行く。仕事で大阪、神戸へ行くことが少なくない ので、ついで、といった形で立ち寄るのである。 はんしん 私の育「た家は阪神電車の甲子園駅の、駅から二、三分のところにあ「た。大阪から阪神電車 で帰って来ると、車掌が、 「こーしえーん、こーしえーん」 と眠たげな声をはり上けるあたりから、青く盛り上がった松林が見え、その松林の松よりも高 く、私の家の三階が見えたものだ「た。その三階は二階の上にチ「「ンと乗「か「たチャチな三 階であ 0 たが、それでも私には、その家はほかのどの家よりも金持らしい、立派な家に見えたの である。 だがその三階建ての家も今はない。その周りの家々と共に、空襲によって焼失してしま 0 た。 しの その界隈は今、昔を偲ぶよすがもない、「マゴマした新しい家並が立ち並んでいるが、私の家の

2. 朝雨 女のうでまくり

「電気屋みたいなもんに、 : ホロクソにいわれて : : : えらい世の中になったもんや」 と母は歎いこ。 母が家を売却して、その地を立ち退くことを決心したのには、そんなことも理由の一つにあっ たかもしれない。 あわ 私が嫁入りをするのを待っていたように、父母は慌ただしく家財道具を処分して二十年、住み 馴れた鳴尾を離れたのであった。 私はふるさとへ行くたびに、その家の前に立ってみる。その家は今はある大きな農機具の会社 の社長さんの住居になっている。かって、 「佐藤」 とだけ、たつぶり書かれた表札が掛かっていた門柱には、 「山岡」 という表札が掛かっている。私はそれを見つめ、変り果てたふるさとの中に、この家だけが変 で らずに残っていることを、むしろ悲しく眺める。 女変らすに残っているとはいうものの、やはりその家はかってのあの「私たちの家」ではないの だ。一棟たけだった土蔵がもう一棟建て増されている。チークの門扉も変 0 た。門扉の上に鉄条 網が張ってある。 っそあの三階 住んだ者でないと気がっかないようなそんな些細な変化が私には面白くない。い むね

3. 朝雨 女のうでまくり

などという、他愛ないことをいっていた。 「寒いねえ」 わめぎ震えながら、風に吹かれて突堤に腰かけていたこともある。 そのふるさとが空襲でズタズタになったと聞いても、私は想像することが出来なかった。私の へんばう 胸の中にはあまりに鮮やかに故郷の景色が焼き付けられていて、その変貌を聞いても、修正が利 かなくなっているのだった。 私が小学校五年生のとき、私の家は駅の近くの三階建ての家から、路面電車で北へ行った、ニ 停留所目の五番丁というところに引っ越した。その家は空襲にも会わず、今もそのまま残ってい る。 戦況が厳しくなって来た時、私の父母はその家を手放すことを決心したのだ。兄たちはみな東 京で暮し、姉は嫁ぎ、私もまた結婚が決まった。家には老いた父母が残るだけなのである。 「焼夷弾が落ちて来ても、よう消し止めんような年寄りは、早いとこ、田舎へ行かはった方が よろしいなあ。自分のためだけやない、みんなのためです : : : 」 く・つえり と町内の警防団があてつけるようにいった。警防団は黒衿、灰色の制服を着てでかい顔をして 威張りくさっているけれども、つい数十日前までは、ペコペコして電気の修理に廻って来たりし た。彼は電気屋の親爺なのである。 おやじ

4. 朝雨 女のうでまくり

「そんなおかしな家建てるの、君やめなさい」 「やめなさいったって、もう途中まで建ってるんですよ。今さらやめられないわ」 「天井なしだなんて、冬は寒いよ」 「わかってます ! しかし寒さがこわくて北海道へ行けますか ! 」 「階段が半分でなくなってるなんて、お化け屋敷だよ」 「いいんです ! どうせ私はお化けみたいな女ですから」 と私は興奮した。 「あなたは何のかのと文句ばかりつけるけど、階段が半分の家に住んではいかんという法律は この国にはないのですツ」 「そりやそうですよ。ぼくはなにも文句なんかいってない。ただ珍しい家たと思うだけだよ」 「とにかく私の家にケチをつけないでくださいつ。女の細腕でようここまでやったと褒めるの まがエチケットというものではないですか。それをあなたは何ですか。お化け屋敷だの何のって : で の 女私が怒り狂ったので幼な馴染みは困りはて、ついに百万円寄附してくれることになった。その リを一本通す ( そうすれば天井がなくても物置のようにはならない 朝百万円で広間の天井に太い / だろう ) 。階段のつづきを作り、中二階の床を張る。幼な馴染みは平井さんにいった。 「どうですか ? 百万円でそれだけしてあけてくださいよ」

5. 朝雨 女のうでまくり

私が夢見たものは老後の素朴質実、平穏な日々だけではなかった。この家を建てようと決意し たとき、もうひとっ私の中には、この家を私や娘のためだけでなく広く友人知人に使ってもらお うという気持があったのだ。 夫の破産による借金の山をいかにして私は返しおおせたか。ひとえに各新聞、雑誌社、テレビ ごうまんふそん 局のおかげである。なのにこの五年間、私は彼らに対して傲慢不遜、無礼の限りを尽して来た。 どな 締切には遅れる。イケズはする。罵る。怒鳴る。悪口いう。ロクなことをしていないのだ。 にもかかわらず、彼の人たちは怒りもせす、罵り返しもせす ( かげでは何といっていたかは知 らねども ) せっせと仕事をくだされて、そのおかげで私は借金を返すことができたのだ。このヘ んで、私はこのご恩を返さねばならぬ。 ひらめ そんな殊勝な考えが頭に閃いたのも、気力が弱っていたせいかもしれない。私はこの家に中一一 階を作ることにした。娘と二人暮しならば必要のない中二階を作ることにしたのは、来たいとい ーして四十坪に う人たちに使ってもらうことを考えたからである。それでこの家は予定をオ ] なったのだ。 しかし今や、夢はすべて吹き飛んだ。ご恩返しもヘッタクレもなくなった。中二階はやめだ。 広間の天井はなし。階段は下から四段だけ作る。ーーそう話が決ったとぎ、幼な馴染みのさる男性 あっけ が遊びに来た。彼は私と平井さんの話を呆気にとられて聞いていたが、ついにたまりかねたよう に口を出した。

6. 朝雨 女のうでまくり

8 「また入ってますな。誰です ? この人は ? 」 「はあ、友達なんですが」と私の声は消え入らんばかり。 「変った人ですなあ、何してる人です」 みけんしわ 警察の人は眉間に皺を寄せておられる。 「はあ、あのう、小説 「ふーん、よっぽどヒマな人とみえる。どうせ売れん小説家でしよう」 仕方なく私は「はア」と答えてさしうつむいたのであった。 それから三年経ち、先般、私の家に強盗が入った。すると早速、遠藤さんから電話がかかって 来た。 「新聞によると強盗は君を見て、佐藤愛子か、佐藤愛子かと三度も念を押したというやないか。 この時の強盗の心理はいかなるものか、わかるか ? 」 「そんなこと、知らんわ」 「強盗は君を見て、あまりのものすごいッラダマシイにやね、これが果たして女であるか、女 おそ 流作家の中にもこういうのがいたのかと驚き怖れてやね。つい、確かめずにはおれんかったの や」それから遠藤さんはいった。 「ところでオレ、糖尿でなあ。クスリを赤、黄、青、 、五種類も飲まされてなあ。そし たら五色のションべンが出たんや」

7. 朝雨 女のうでまくり

か幼な心にもの悲しく想うのだった。 だが、その苺畑も今は影も形もなくなった。どこもかしこも、ぎっしりと家が詰まっている。 その頃、小学校の校舎が壮大に見えたのは、周囲も広く、空も高かったためであろう。今、鳴尾 小学校は私の思い出の中の小学校の、半分の大きさになってしまったように見える。人が老いる と、小さく痩せ縮まって行くように。 小学校の前を太い脚に支えられた高架道路が通っている。国道四十三号線というのだそうだ。 それは鳴尾村の真中を突っ切り、甲子園野球場の前を通って神戸へ向っている。 何もかも変ってしま「た。変らないものといえば、甲子園野球場の蔦の緑くらいなものだ。甲 だいてっさん 子園球場の自慢の大鉄傘が取り外された日のことを私は覚えている。 それは戦争が負けいくさになりはじめた頃のことだ。大鉄傘は取り去られ、兵器になるのだ。 私の近くの家でも鉄の門扉を供出させられた家があった。私の家では青銅の門燈の笠を供出した。 あんたん 私の暗澹とした青春時代はそのへんから始まっていたのだ。甲子園の駅の前の、阪神電車の創設 はかま 者だという羽織袴の老紳士の銅像もいっか姿を消し、御影石の台座が陰気な冬の日を浴びて鈍く 光っていた。十二月、私は一度、見合いをしたきりの男のところへ嫁いだのである。 結婚のためにふるさとを出た私は、岐阜県の嫁ぎ先で、ふるさとが米空軍の襲撃のためにズタ ズタにされたということを聞いた。甲子園の駅から海へ向って小さな路面電車が出ている。夏は もんび ころ

8. 朝雨 女のうでまくり

今や老後の平穏どころではなくなった。風、タッマキ、地震もさることながら、いやはや、金 がかかるの何のって、予算はガバガバと増えて行く。例えば電気や水道だけでも、四百メートル も引かねばならぬのである。草原の中に私の家に向う一本道が通っている。そこに電柱を十本ほ ど立てねばならぬと浦河から電話がかかって来た。十本のところを四本か五本ぐらいで何とかで きませんか。少しぐらい電線、垂れてもいいですけど、といったら相手は呆れて電話を切ってし まった。 「向うは山が多いからぎっと材木は安いでしよ」 ま と私は簡単に人にいっていたのだ。それが気がつくとはじめの予算の倍になっている。 で 「何しろ、〈ンピなところだから、資材の運搬に金がかかってねえ」と平井さんはいった。平 の 女 井さんというのは私の家を建ててくれている地元の請負師である。 朝「牧草地の中の道ですがね。あの道は舗装かなにかしないと、雨が降ったら困ると思うんです 7 がね」 ムよ、つこ。 間幅の道を舗装しろというのか ! 四百メ 1 トル、一 くせに ) 急に生意気な口を利くようになった。 ~ 冫しかないのであ しかし、一方、家の建築はどんどん進行している。今さら中止というわけこよ、 る。

9. 朝雨 女のうでまくり

拒否しているくせ私はその形式がないことで不安を感じている。 私は自分のその矛盾に気がついていた。気がっきながらどうすることも出来なかった。どう考 えても私は結婚はしたくない。金持の xx 家の " 嫁。になるのはいやなのである。 彼は時々、親の家へ行った。親の家へ行くと泊って来る。 すると私は腹が立った。これは理窟に合わない感情である。理窟が通らぬ怒りであることはわ かっているから、そのことでは怒らずに、何かほかの理由を探す。それが朝寝坊をすることであ ったり、ひとが小説を書いているのに、へたくそな。 ( イオリンを弾くことであったりしたのだ。 私は私の中の " 安定を願う。女らしい気持と戦った。 それは私の人格の独立のためには必要なことだと思い決めていたからである。 私は「普通の女」ではなく、「特別の女」にならなければよい小説が書けないというような考 えに捉われていたのだ。 私はすべての常識、この世の約東ごとを無視して生きられる強い人間にならねばならぬと思い で 決めていた。私が尊んだのは「純粋」ということである。 女結婚という形式は、愛の純粋性を損うものだと思い決めていた私は、ヒステリイを起しつっそ 雨の純粋性なるものを保っために私の中の「女」と格闘していたのである。 何のかのとえらそうなことをいっても、私は古い、ありふれた女の一人だったのである。 私は彼の " 妻。ではなかったから、当然、彼の身内の人たちは私のことを、名前で呼ばずに姓 とら

10. 朝雨 女のうでまくり

「えつ、なし ? 」 「天井なしにしたら、いくらか削れるでしよう ? 」 「そりや、いくらか削れますがね。しかし天井がなくては、物置のようになります」 「いいんです。屋根さえあれば」 ′ハよ、つこ。 ′下ゞー」し子ー 「それから中二階もやめましよう」 「はあ : : : 」 平井さんはポカンとした。 「すると、階段は : : : 当然なしになりますね」 「いや、階段は半分っけておいて下さい。また働いて金ができたらつづきを作ります」 「半分 ! : : : 」 平井さんは絶句した。 「それだけ中止にしたら、どれくらい削れますか ? 百万円くらいは安くなるでしよう ? 」 の 女 平井さんは沈思して語らぬ。やがてポツリと平井さんは呟いた。 朝 「わしはこんな家、生れてはじめて建てるね」 私だってそんな家に住むのははじめてだ。 つぶや