と私は命令した。 「笑うたらいかんというのに・ しかしりようちゃんはクスクス笑ってばかりいる。 「あっ ! やられた ! 」 といいながら笑っている。 私は憤激した。 「笑うたらいかんというのに、なんで笑うのん ! 」 私はりようちゃんを睨みつけ、笑わぬことを約束させてまたはじめる。 チャララチャンチャカチャン チャンチャカチャン チャンチャカチャン それでもやつばりりようちゃんは笑っている。その笑いを見てほかの女中たちは「ゲラのりよ うちゃん」といったけれども、その「ゲラのりようちゃん」が幼稚園へ行くとニコリともせぬ権 力者になることを誰も知らないのであった。 家には宮富さんという書生がいた。強度の近眼鏡をかけ、一見若ハゲのように見えるがよく見 ると禿げているのではなく極度に毛が薄いのであった。それで兄たちは宮富さんのことを「毛シ ョポショボの宮富」といった。
ハリ手をくらわせたのだ。 ら歩いて来て、丁度うちの表に立っていたばあやに突然、 私は女中のみよやとりようちゃんがその話をしているのを、朝鮮栗を食べながら聞いた。生安 のおばはんは小柄だが、喧嘩に強そうな眼尻の吊り上った中年女である。そのおばはんには生安 のおっさんも年中、殴られているのだ。 「なんせ女癖が悪いさかいなあ」 とみよやがいったので私は聞いた。 「おんなぐせてなに , みよやは慌てて、 「なんや、聞いてはったんかいな。えらいこと聞かれてしもたな」 笑ってごま化した。 ばあやはなぜ生安のおばはんに殴られたのやろう ? 本当は私はそれをみよやに聞きたかったのだ。しかし、何だかしらないが、私にはそれが聞け な、かつわ」。 「生安、お末の二人づれ工 : と兄が歌ったとき、ばあやが笑い崩れて、 「何をいうてはりますねン、坊ちゃん」 といったときに感じた、あの得体のしれぬいやらしい感じ、触れてはならぬ感じ、許し難い感 じが私の中にひろがって行った。その感じが、
286 日本は負けるかもしれない : そのとき、私は思った。 うぶげ その秋、私は男の子を産んだ。産んだ翌日から私のハゲに一面に生毛が生え、一週間後には黒 くなった。沼津の日本一の先生がいった通りだった。 子供が産まれたという報らせを出すと、ほていの局は女中を連れてやって来た。 「おう、おう、ご苦労さん、ご苦労さん : ・・ : 」 といいながら局は父の家の玄関を入って来た。 「これはお手柄。大きい男の子じゃ。立派なもんを下げていなさる : : : 」 ほていの局は早速子供のおしめを取り替えながらいった。 よっぎ 「これで森家は安泰じゃ。立派な世嗣が出来ました」 局はいった。 「世嗣は出来た。ハゲは直った。日本晴れじゃ。万々歳じゃ : その晴れ晴れした高い大声を私は暗澹とした思いで聞いた。私はこれから子供を連れて岐阜へ 行き、はじめて舅姑と一緒に暮すことになるのだった。 中仙道の山に囲まれた盆地の中の、暗いさびれた町、ほていの局はこの大井町の「愛国婦人
旅行を終り私は夫と共に夫の実家へ行った。着いたのは夜だった。駅に女中と看護婦が迎えに 来ていた。家へ入ると奥から、ほていの局が出て来て賑やかに、声高にいった。 「おうおう、よう来た、ひどう疲れたことやろう。よう来たよう来た、さあ、さあ、お上り、お 上り」 ほていの局の後ろから、夫の父が顔を出した。私はこの人と会うのは二度目である。結婚式の ときにはじめて私はこの人に挨拶をし、この人はただ、 「やあ、よろしう」 といっただけだったのだ。 私は二階へ連れて行かれた。二十畳ほどの大広間があり、あかあかとシャンデリアが輝いてい た。私は母に教えられたように、 「ご先祖さまを拝ませていただきます」 といって仏壇を拝んだ。それから畳に手をついて両親に挨拶をした。 とほていの局は私の挨拶に答えていった。 「いとしいことよの , っ : 正月二日に私は夫の任地である長野県の伊那町に行った。そして私の新婚生活ははじまった。
しかし春が終っても姑は帰って来なかった。姑からの舅への手紙はその都度、雨つづきで工事 がはかどらぬことや、大工が怠けて来ぬことや、資材が思うように手に入らぬことなどが書かれ てある。 「早う愛子さんと代替したいと思うが、まだ壁もっかぬこんなところへ愛子さんを呼んでは苦労 させるばっかしじゃによって、も , っちっと待ってくれ、というとるわな」 かわせ と舅は私に伝えた。そうして舅は姑から手紙が来るたびに為替を組んで送っている様子である。 「ばあさんは一生懸命じゃな、気の毒に」 舅はこ , ついっこ。 「ここにおれば、女中も看護婦もいて、何の不自由もない暮しをしておられるのに、何を好んで 汚い寮で飯炊き洗濯して苦労しんさるか。なあ、愛子さんーーー」 舅は姑の代理を努めようとするようにいった。 「有難いことやで。この親の心をあだやおろそかには思えんそな」 と私は答えた。 「ほんとうに有難いことだと思っています」 とはどういおうとしても私にはいえぬのだった。私は心にないことはいえぬのである。なぜ、 私たちの新しい生活を私たちの手で作ってはならぬのか。不自由な寮の暮しを、可愛い嫁にさせ ることは出来ぬからだという。本当にそうなのか ?
と中塚さんがいった。 「こちとら、カンケイねえ」 と中塚さんは東京弁でいった。私は大笑いした。 こちとら、カンケイねえ : 笑いながら、しかしそのときふと、私は一抹のつまらなさ、侘びしさそして口惜しさのような ものを感じたのだった。 私の家には三宅さんという書生がいた。一時は居候や書生や居候と書生の中間的存在などが、 十人近くもいたのだが、ある時父はその連中をすべて整理し、以来書生のたぐいは一切置かぬこ とにしたのである。 しかし三宅さんはあまりに熱心な書生志願者だったので、その熱意に負けて父は三宅さんだけ を置いたのであった。 歌三宅さんはサージの詰襟を着て、丸い黒縁のメガネをかけた、ありふれた丸顔の青年だった。 容貌もありふれているように性格も平凡で、どんな男かと聞かれると、「おとなしい人」という 給 えほかにとりたてて特徴のない男だった。女中たちと喧嘩をすることもなく、ふざけたりいちゃっ 。といって陰鬱でも気むつかしくもない。何かいわれると黙って大き 母いたりしていることもない 父 な口でニタリと笑ってみせる。 三宅さんは何が面白うて生きてるんやろ ? いちまっ わ
北杜夫 佐藤愛子さんは、近頃では一名、「イカリの愛子」とも呼ばれている。 つまり、気立てはまことによいのだが、いや、気立というより気つぶのいい女傑肌の女性なの だが、些細なことにすぐ立腹する。カッとなる。 しかし、これは彼女をケナしているわけではない。 , 彼女の怒る理由は七割方は正しいことで、 いわば正義の味方、月光仮面なのである。 彼女は本書にユーモラスに述べられているとおり、佐藤紅緑の娘として生れた。紅緑といえば、 昭和初期の『少年倶楽部』などに幾つもの熱血小説を書く立派な作家であった。「ああ玉杯に花 うけて」「紅顔美談」「英雄行進曲」などの佳作がある。少年の私は夢中になってそれらを読みふ けったものである。 説彼女はその父にもっとも可愛がられ、その名も愛子と名づけられた。利発で美しい少女であっ 解 女学校時代は、上級生から愛され、つまりエスと呼ばれるラブレターのようなものも手渡され た。昔は現在のように男女共学ではなく、女学生もポーイ・フレンドを作るより、エスとなる傾 刀牛 11 一一口
ても、誰も私がしたとは思わないのであった。 「俺の靴、知らないかア」 と兄が騒いでいる。女中たちが右往左往して探し廻っている。 「おかしいな。ここへ脱いどいたんだよ」 「けど泥棒やったら坊っちゃんの靴だけ持って行くことはないやろし : 私はそ知らぬ顔をして、その様子を見ていた。 「アイチャン、知らないか ? 兄ちゃんの靴 : : : 」 「知ってるーーー」 私は平然といって、隠し場所から持って来る。それでも誰も犯人が私であるとは思わないのだ った。疑われるのは姉や、姉の友達の宗岡のチイちゃんや悦ちゃんなのであった。 いまら 小学校は私にとって幼稚園にもまさる茨の園だった。 二重頭、すぐにゲンコをふりまわすやっ、 同級生の男の子、ドングリ眼玉、ハナタレ、出ツバ、 何もしていないのに通りすがりに蹴って行くやつ。校長先生はヒゲの剃りあとが青いのがへんに *- しいつも仏頂面をしている小使いの意地悪じいさん、ひとりばっちの教室、いつどこからポ ールが飛んで来るかわからない校庭、暗い汚い便所。自分の靴も他人の靴もわからなくなってし まうゴチャゴチャの下駄箱 : : : どこもかしこも強い鋭いトゲが生えていて、一歩門をくぐるや、
飽きると「イロハの洋食にしよ」と投げるようにいうのである。 「イロハのハッチャン はったろかア」 と私たちはハッチャンの後ろ姿を見るとはやした。″はったろか。というのは大阪弁で殴るぞ という意味である。といってもハッチャンが憎まれっ子というわけではない。ハッチャンとハル を掛けている意味のないはやし一一一一口葉である。 「かさア修繕 ! 」も「玄米パンのホーヤホヤ」も「郵便屋、走りんか」も大声でいえない私だっ こ。ゝ、「、ツチャン 、ハッタロか ! 」だけはなぜか大声に叫ぶことが出来た。それは私の家がイ ロハのお顧客だからというためではなくノ 、、ツチャンが人のいい少年だからだった。 ある日、ハッチャンは私の家へザルにいつばいの苺を持って来てくれた。 「なんやの ? 苺 ? なんで持って来たん ? なに ? くれはるのん ? 」 下働き女中のみよやが台所ロでいう声が聞こえていた。 すだれ 夏近い夜のことである。我が家では建具を外して簾やのれんを掛け、夏姿にしたばかりだった。 私のいる部屋の入口にかかったのれんの間から、ハッチャンの半ズボンの膝小僧が見えていた。 「そう ? はな、もろとくわ。おおきに」 みよやは笑いながら私たちの部屋に来た。ザルにいつばいの苺を持っている。 「これ、イロハのハッチャンがくれましてん」 「苺を ? そらまたなんで ? 」
6 「これは , と料理の皿が出るたびに声を上げて感嘆した。 「何もございませんが、どうぞ、ごゆるりと召し上っていただきます」 その日はほていの局の独壇場ともいうべき日であった。ほていの局はいった。 「この肉は、神戸におります知り合いが、今日の喜びのために届けてくれましたものでございま 「この鯛はひと月も前から、出入りの者にい、つけて、やっと手に入れた明石鯛でございます」 肉も鯛も出入りの闇屋が持って来たものであることを私は知っている。ほていの局はいった。 「この水瓜は三河の水瓜でござりまして、三河からわざわざ取り寄せましたものでござります」 「ほう ! 三河の水瓜 ! 」 そう声を上げたのは、松林堂という本屋の親父さんである。 「これは三河の水瓜ですか ! 」 本当はそれは我が家の裏の菜園で女中たちが作ったただの水瓜なのである。舅は憮然として水 瓜を口にはこんでいる。松林堂の親父さんは、一口一口、さも有難そうにそれを味わい、食べ終 ふところ ると懐からチリ紙を取り出してその種を包んだ。 「三河の水瓜なら、種をもろうて帰って、うちの畑に植えさせてもらいます」 「ハイ、ハイ、どうそ、どうぞ」 ほていの局は平然という。