と私ははり切った。別当はピッチャーとして活躍しているだけでなく、打者としても四番を打 っている。四囲の情勢から私にも大体そういうことがわかって来た。そうしてさっきから私が、 「わーい」とか、 「きャアッ ! 」 とか叫んでいたのは、必すしも別当投手のいる甲陽中学の勝利とは関係のないところで叫んで いたこともわかって来た。そして改めて私は甲陽中学の勝利を願って歓声を上げたのである。 その日から夏休みはつまらぬものではなくなった。私はモンちゃんと毎日、野球を見に行った。 甲陽中学の試合があってもなくても行った。そうして家へ帰って来ると高々と脚を上げて別当投 手のピッチングの真似をした。 「別当投手、グルグルとワインダップ。脚を高く上げました : : : 投げました : : : ストライク ! 」 そのとき、座敷に坐っていた母が、 「ちょっと、アイちゃん ! 」 と改まった声を出した。 「ちょっと、こっちへ来なさい ! 」 母は私を化粧部屋へ連れて行った。 「あんたの。ハンツ、汚れてるとちがうのん ? さあ、お便所へ行って見ていらっしや、 こうして私に漸く初潮が訪れたのであった。 二学期が始まったとき、私は今までとは違った意気込みで登校した。私は別当投手のことを皆
と父は叫んだ。怠け者であるから働かない、働かないから遊ぶ。遊ぶから金が要る。金が要る から父に無心をいう。父が出さぬと借金をする。借金をすれば借金取りに責められる。借金取り に責められるので、借金を父の方へ廻し、自分は姿をくらます・ : だいたいにおいてそのパターンが二番目の兄である。 一番下の兄は中学校へ入学はするが、登校しないのですぐに退学になった。それでまた別の学 校に入れる。と、素直に入学はするが、その後、登校しない。それでまた退学になる。また入学、 退学のくり返しで、その間にリュックサックに刀の折れたのを入れて、家出をし、我が家の一筋 裏のアパートこ し勝手に部屋を借りたので、アパートの隣の床屋のオッサンがご注進ご注進とばか りに走って来た。そこで書生が二人がかりで取り押えに出向くと、いとも素直に折れ刀の入った リュックサックを担いで帰って来る、という風であった。 ばあやは私に、 「お嬢ちゃんは大きうなったら、親孝行せなあきまへんで」 といってばかりいた。その言葉の裏には、 歌 「お兄ちゃんらみたいになったらあきまへんで」 え という言葉があることを、幼な心に私は察していた。 なるお の一番上の兄は東京にいたが、 ( いい忘れたが、私たち一家はその頃、兵庫県阪神沿線の鳴尾村 父という所に住んでいた ) 滅多に来たことがなかった。兄は十九歳で一児の父親になったという。 それでいてまだ父からの送金で一家は生活していた。ごくたまに来ると一糸まとわぬすっ裸にな
初め、私は佐藤愛子が紅緑先生の娘だと聞き、 「偉いお父さまを持っているのは、どんな心境ですか ? 」 と訊いたものだ。私は前述のごとく紅緑の小説を愛読していたから、これは皮肉でも何でもな 、興味を抱いて本心からそう尋ねたのである。そのとき、愛子さんが何と答えたか覚えていな そのうち、私が茂吉の子であることがわかったとき、愛ちゃんは立腹した。あんな質問をして おいて、茂吉が父のことを隠していたのはケシカラヌというのである。だが、茂吉は確かに偉い 歌人ではあるが、私たちの世代はむしろ紅緑先生のほうをずっとよく愛読したことは確かなのだ。 前記の若手同人たちの他に、今もほとんど無名の若手もいくらかはいた。愛ちゃんは、みんな のポス格であった。何しろみんな貧乏なもので、『文芸首都』二十周年の記念会のとき、あちこ ちの電柱にポスターを貼って歩いたが、もの凄く寒い日で、コーヒーでも飲もうとしたのだが、 大半の者がコーヒー代すら持っていなかった。それで、愛ちゃんが奢ってくれたのである。 私たち若手は、古い同人と文学的意見が異なっていたので、彼らに対抗するため徒党を組んだ。 そしてとうとう、十幾人かで新しい同人誌『半世界』を作ることにした。保高先生はそのような 説事柄を好まなかったから、その第一回の集会は、当時私が助手となっていた慶応病院神経科の、 電気ショックをかけたあと患者さんを寝かしておく大部屋で行われた。ただ日曜日で、患者さん 解 は誰もいなかった。 『半世界』は、みんなが月に千円すっ会費をはらって、年に四回ほど発行しようと決められた。
。ハンツのゴムが切れた ? なんでそんなもん、切ったりしますのや」 じやけん と、りようちゃんは邪慳である。私とてもなにも好んでバンツのゴムを切ったわけではないの いくらムチャクチャをいっても幼椎園 だ。それを知っていてりようちゃんはそんなことをいう。 にいる限り私はご無理ごもっともとそれを聞いていなければならない。私の心境は殿中における たくみのかみ 浅野内匠頭の心境である。 たちま しかし家へ帰るとその関係は忽ち逆転した。私は腰に物指しを插し、 チャララチャンチャカチャン チャンチャカチャン チャンチャカチャン という立ちまわりの三味線伴奏を口に唱えつつ、座敷をグルグルとまわり、いきなり立ち止っ てふり返りざま、 「エイツ、ヤアッ , 歌と物指しでりようちゃんを斬る。 「あッ , やられた ! 」 くうつか えとりようちゃんは片手で空を掴んでドタリと悶絶するのである。 の 五回も十回も私はそれをくり返した。りようちゃんは私が歩く後ろから、見え隠れの格好でつ 父 いて来なければいけないのだ。彼女は私を狙う刺客なのだから。 わろ 「笑うたらいかん ! 」
と私は命令した。 「笑うたらいかんというのに・ しかしりようちゃんはクスクス笑ってばかりいる。 「あっ ! やられた ! 」 といいながら笑っている。 私は憤激した。 「笑うたらいかんというのに、なんで笑うのん ! 」 私はりようちゃんを睨みつけ、笑わぬことを約束させてまたはじめる。 チャララチャンチャカチャン チャンチャカチャン チャンチャカチャン それでもやつばりりようちゃんは笑っている。その笑いを見てほかの女中たちは「ゲラのりよ うちゃん」といったけれども、その「ゲラのりようちゃん」が幼稚園へ行くとニコリともせぬ権 力者になることを誰も知らないのであった。 家には宮富さんという書生がいた。強度の近眼鏡をかけ、一見若ハゲのように見えるがよく見 ると禿げているのではなく極度に毛が薄いのであった。それで兄たちは宮富さんのことを「毛シ ョポショボの宮富」といった。
「ばあやが傘持って行きましたやろう ? 」 はるやは私の手の傘を見た。 「ばあやはどないしましたんや ? 」 「おらへんようになったア・ 私はそういって泣いた。それで皆は私がばあやとはぐれたためにペソをかいているのだと解釈 「ばあやはすぐ、もどって来ますがな」 はるやは私の涙を拭いてくれた。 はぐれたのではない。私はばあやを置き去りにしたのだ かしやく その苛責はそれから後、長年私を苦しめることになった。私が五十銭玉を手紙に入れて送ろう としたということを知ったばあやから、 「お嬢ちゃん、なんでそんなことしはりましてん。ばあやを貧乏やと思いはったん ? 」 と聞かれた、あの時のすまなさと共に。ばあやは暫くしてにこにこと帰って来た。 「お嬢ちゃん、待たんと先へ帰らはったんやな」 とあっさりいっただけだった。そしてそのこともまた更にいつまでも私を苦しめたのである。 ゆりか′一 これらの辛い思い出は、私が暖かな揺籃から出て、はじめて人生というものの端っこに足をか けたことを物語っている。 「なんばいやでも学校へは行かんならんのでっせ。なんばお嬢ちゃんやかて、こればっかりはい つら
そんなある日、私が廊下を歩いていると、突然、五年生が呼びとめた。 「あんた、佐藤紅緑さんの娘さんてホント ? 」 とその五年生は聞いた。 コは ~ め」 と私は緊張して答えた。私が少しは上級生に名を知られているとしたら、それは小説家佐藤紅 緑の娘であるということでだった。ときどき、私はそういう好奇心でふり返られることがあった。 長村さんになくて私にあるものといえば、そのことぐらいなのである。 私を呼び止めた五年生は、私の手を取って折り畳んだ紙片を握らせた。 「これ読んで」 と彼女はいった。 「誰にも見せたらあかんよ」 歌私は更に緊張して返事をした。それはカンパチに対する時と同じ、頼りなげな素直な、生真面 目な返事である。五年生が行ってしまうと私は階段を二段トビで駆け上り、教室に走り込むと隅 教っこへ行って手の中の紙片を開いた。 母「アイ子ちゃん、 可愛くて、ピチピチしていて、いつも楽しそうなアイ子ちゃん。 あんまりアイ子ちゃんが愛くるしいので、どうしても手紙が書きたくなりました。
「ばくは何の思い残すこともなく死んでいけるがね。ただ、愛子のことだけが気がかりなんだ。 どうか、君、愛子のことをよろしく頼みますよ」 「承知しました。大丈夫です。出来るだけのことはいたします」 姉の夫がいかにも東大出の秀才らしい凜々しい声で、きつばりいうのを私は聞いた。 出来るだけのこと : 出来るだけのことて何やろ ? 私は思った。姉の夫はきつばりといかにも賢そうな声で答えているが、その凜々しい返事は却 って彼が私のためにしてくれることなんてなにひとつある筈がないということを私に思わせたの 要するに、私はひとりで生きて行かなければならないということなのだ。人は色んな一一一一口葉を使 って、人間ひとりばっちで生きなければならないということをごま化しているが 。しったことを。 私は思い出した。私が五歳のとき、ばあやは口癖のようこ、 「お嬢ちゃんはどんなところへお嫁に行かはるやろ。お嬢ちゃんはそら、ええとこへ行かはりま っせ。お婿さんは男前で、頭がようて、出世しはる人や。きま 0 てます。お嬢ちゃんは、倖せに なるために生れて来はった人や」 え 教 母それは昭和二十四年のことだった。私の父が死んだのは。私は二十六歳だった。父の死と同時 に私は夫と別れる決意を固めた。その私の決意を夫はまだ知らなかった。夫は父の葬儀に出て来 ていった。
奥さんは怒り顔で入って来ながらいった。 「えつ、閉めてありましたか、おかしいな。なんでやろう ? 」 と母。私はそばでそ知らぬ顔をして絵を描いていた。 「宮富さんが開けとくの忘れたんやろか ? 」 「何やしらんけど、閉めてありましたで」 と奥さんは機嫌が悪い。 「それはすみませんでしたなあ」 母が謝った。 いったい誰が閉めたんやろ」 「アイちゃんや」 その時私は突然いった。奥さんと母は一瞬、ギョッとした顔で私を見つめ、それから二人は顔 を見合せた。 歌「お嬢ちゃん、あんたが閉めはったん ? 」 「ふん」 うなず え と私は肯いた。井上さんはいった。 教 母「なんでそんなことしはりましてん」 父 「なんでも」 と私はいった。
校庭や廊下で、私はいつもアイ子ちゃんの姿を探している自分に気がっきました。 ああ、私はアイ子ちゃんが大好きょ , 好きで好きでたまらないわ ! 」 私はそこまで読んで、 「キャア ! 」 と大仰に叫んだ。 「マンダ ! マンダ ! 」 と、マンダの席に走って行った。 「五年生がこんな手紙をくれた ! 」 マンダはそれを読んで私に負けぬ声で、 「キャア ! 」 と叫んだ。私はマンダの手から手紙をひったくり、つづきを読んでまた、 「キャア ! 」 と叫ぶ。 「キャア ! 」 「キャア ! 」 と私たちは少しずつ手紙を読んでは叫び合った。私たちの叫びに皆が寄って来た。皆はその手 紙を廻し読みし、また、