女中 - みる会図書館


検索対象: 父母の教え給いし歌
44件見つかりました。

1. 父母の教え給いし歌

と私は思ったことがある。 ある日、きぬやという女中が女中部屋に入って泣いていた。きぬやは熟し柿に目ハナという赧 ら顔の女中で、何かというとゲラゲラ笑っている陽気者である。 そのきぬやが朝も昼も女中部屋で泣いている。きぬやが泣くと赤鬼のようになった。私は女中 部屋の障子に穴を開けて、そこから覗いたのである。 一方さだやは働きまくっていた。さだやはチビで眼も鼻も丸く小作りに出来ているお豆のよう な女である。さだやはいつもの三倍も働いた。泣いているきぬやの分も働くというより、泣いて ばかりいて働かないきぬやに当てつけるために働きまくっているという感じである。 その日、夜になると、「こんばんは」と井上の鼻はんがやって来た。何か我が家に異状が起き ると、必す鼻はんが現れる仕組になっている。鼻はんは興奮している証拠にハナの穴がいつもの 倍近くも大きくなっている。私は愛読マンガの「のらくろ」を持ってさりげなく母の横に坐った。 鼻はんと母の話を聞くためである。 「何と : ・・ : あんなおとなしそうな顔してて : ・・ : 達者なもんですなあ」 鼻はんは声をひそめていった。 「両手に花だすがな」 鼻はんは更に声を殺したのであとはよく聞き取れない。私の身体はつい鼻はんの方へ傾い せんせ 「いつやったか、きぬゃんがデンポ膿ませてお医者はんへ通てましたやろ。先生が夜の女の一人 歩きは危いさかいし 、うて、三宅はんに自転車で送ってやれいわはりましたな : ・

2. 父母の教え給いし歌

姉はついにタバコをやめなかった。男の学生との交際もやめなかった。姉は水泳やスキーやス ケートの達人で、外に出るのが好きだった。父は姉がスキーへ行くというので怒った。 「日帰りならよろしい。嫁入り前の娘が友達と外泊するとはとんでもないことだ ! 」 しかし姉はスキーへ行くことを決して諦めないのだった。 そのときも茶の間で、スキー行きの支度の出来た姉が父に叱られていた。私はそのそばで小さ くなって「少女の友」を読むふりをしていた。母は黙って坐っている。 父が行ってはいけないというのに、姉は頑強に諦めないのである。ついに父は怒鳴った。 「お前のような奴は、オレが死んだら棺桶の上でダンスを踊るだろう ! 」 私はその表現の激しさにびつくりし、同時に小説家というものは怒るときでも小説風に怒るん ゃな、と思った。父の怒声は家中に響きわたり、台所も女中部屋もシーンと鎮まり返っている。 そのとき姉が立ち上った。茶の間の障子をすーと開けて出て行った。 「どこへ行ったんだ ? 」 父が母に聞いた。 「さあ、便所へ行ったんでしよう」 しかし便所へ行った筈の姉はいくら待っても茶の間へ戻って来ない。母は女中を呼んで聞いた。 女中は答えた。 「さっき、お出かけになりました」 母は呆れていった。

3. 父母の教え給いし歌

374 に仕えて素直に平凡に家庭の中で生きるーーそれが父が理想とする女の一生だったのだ。 父は私を、そんな一生を送る女として育てたつもりだった。なのに今、私は彼が一番嫌った女 のもの書きになろうとしているのだ。父は反対も賛成もしなかった。 父の沈黙には、ただ人の世の屈曲に対する歎息があっただけかもしれない。歎息する以外に父 はもう、何をいう力もなくなっていたのだ。 年が改まると父の容態は急に悪化した。悪化したと思うと小康を得、小康を得たかと思うとま た急に悪化した。私はそれをいいことに、三日にあげず父の家と我が家を往復した。 父の家から帰ってくるたびに、私には我が家が荒れて行くのがよくわかった。女中は殆ど掃除 をせす、近所歩きばかりして日を送り、夫は家にいないことが多かった。 近所の人は皆、私を白い眼で見た。近所の人は私が親の家にばかり行っているために夫が女中 に手出しをして、女中が妊娠しているらしいなどといっていた。だが私にはそんなことはもうど , つでもよかった。 夫が今、モルヒネをやっているのかいないのカノ ゝ、、ツキリしたことは何もわかっていなかった。 けれども私はモルヒネをやっている、と思い決めた。夫が何もしていないといい張ったとしても、 私はそれを信じなかった。今となっては、彼がモルヒネ中毒であるかどうかは問題ではなかった。 モルヒネの問題を越えて、私は彼のすべてを信じなくなったという事実があるだけであった。 六月、父は死んだ。死ぬ何日か前、私は縁側の雨戸を閉めようとして病室の廊下へ行き、父が

4. 父母の教え給いし歌

母は早速父に報告した。父はおもむろにいった。 「二階の座敷に火を入れさせよ」 二階の座敷は客間用の十畳でふだんは滅多に使ったことがない。紫檀の大机があり、熊の毛皮 が敷いてあり、ふた抱えもあるような大火鉢が置いてある。その大火鉢に火を入れよということ は、説教が長びくことを意味している。 私は固唾を呑んで様子を見守った。 「火を入れました」 と女中が報告に来る。 「早苗を呼びなさい 父が重々しくいったとき、玄関のベルが鳴る音がして、客が来た。女中が持って来た名刺を見 て父はやむを得ぬといった顔でいった。 「二階へお通ししなさい」 その客がどういう人であったか知らないが、姉はその人によって父のお説教を免れることが出 来たのである。 教姉はおとなしく素直な優しい娘として知られていた。 母「妹はヤンチャやけど、姉ちゃんの方はいつもニコニコしたおとなしいええお子でっせ」 という定評があった。しかし姉は優しくおとなしいが自分のしたいことは黙って押し通すのだ したん

5. 父母の教え給いし歌

毛ショポショボの宮富さんは毛だけでなく、眼もショポショポさせている。顔色が悪くて痩せ ている。そ , っして将棋をさしては負け、 「やられたア」 と後ろへのけぞっては壁に頭をぶつけて、 「いてテテ : と顔をしかめているという人だった。 宮富さんは女というものを軽蔑していた。年中、女中たちと喧嘩をしては、思い直して、 「ばくが亜かったよ。仲直りしょ , つ」 と自ら和解を申し込んでいたのは、ご飯の盛りつけの権利が女中陣に掌握されていたからにち がいない。宮富さんは詩人で、詩を書いていた。 「石油カンをひっかき廻すような女よ , ああ ! 歌オレは帰る ! 」 じよろ この詩は宮富さんが西宮へ「女郎買い」に行った時の詩である。私は書生部屋から聞こえて来 える声によって、「ジョロ買い」という一一 = ロ葉を記憶に止めた。 じようろ の ジョロを私は如雨露だと思った。庭掃除と水撒きは宮富さんの仕事である。 母 父 如雨露を買いに行ったが、金物屋のおははんがイケズなんで怒って帰って来たんやな。 と私は思った。ばあやに連れられてよく行った西宮の市場の中の、金物屋のおばはんの顔が思 や

6. 父母の教え給いし歌

たいからである。その私の主張に応じるように父がいった。 「この子は賢い。この子は今に偉くなるよ」 私は姉を尻目にかけて大声で本を朗読した。 「むかしむかし、シナのある町に仕立屋さんが住んでいました。よその人からきものの仕立をた のまれて、賃金をもらってくらしておりました。」 私は手許の本を殆ど諳じていた。本は二、三度読むと、覚えようとしなくてもひとりでに覚え てしまうのである。 「ようまあ、こないにスラスラといえるもんやなあ」 と女中たちが感心するので、私は台所へ行っては諳じている話を朗々と述べた。お客が来ると その部屋から見える次の間に坐って朗読した。お客が気がついて驚いたり褒めたりするまで私は つづけたので、母はしばしば女中を呼んで私を部屋から連れ出させたのである。 歌私の近所にイロハという肉屋があった。イロハは子沢山で、同じような年頃の子供が次々に顔 を出し、どれがどの子だかわからぬはどである。そのイロハにハッチャンという少年がいた。私 えと同い年で学校では同じ組である。ハッチャンの顔は少しだがヒョットコのお面に似ていた。ロ とが 母が尖って可愛い眼をしている。男の子としては小さい方で、教室では私の前に坐っていた。 父私の家はイロハのお顧客だった。イロハは肉を売るだけでなく洋食の出前もする。父はイロハ のコールドビーフが好物だった。私たちはメンチボールが好きだった。母はおかずを考えるのに

7. 父母の教え給いし歌

「みいれなのかねのね工 すみわーたるゆうぐれェ」 と私は大声で歌った。ずっと後になって姉から聞き覚えたその歌の文句の不可解さが解けた。 それは、 「みい寺の鐘の音 澄み渡るタ暮」 という歌詞だったのである。 ばあやがいなくなったので、私ははるやという女中に面倒をみてもらうことになった。はるや は賢くて、何でも出来ないものはない上等の女中さんだった。首がすっきりと長く、いかにも賢 そうな引き緊った顔つきをしている。 はるやは夜、眠る前に私の布団のそばに坐ってシモャケの薬を足に塗ってマッサージをしなが ら色んなお話をしてくれた。はるやの得意の話は『安寿と厨子王』の話である。安寿と厨子王と 歌お母さんの三人が大きな河のところへやって来た。船頭がいたので、三人は舟で向う岸へ渡るこ いっそう とにする。すると船頭はお母さんを一艘の舟に乗せ、安寿と厨子王を別の舟に乗せた。二艘の舟 えは漕ぎ進むに従ってだんだん離れて行く。お母さんは慌て驚いて、 の「船頭さん、船頭さん、あれ、あの舟が離れて行きます。いったいどうしたのですか」 父 と騒ぐが船頭はそ知らぬ顔をして舟を漕ぐばかり。一方、安寿と厨子王の方も気がついて、 恥「お母さーん、お母さーん」

8. 父母の教え給いし歌

私は思う。自分の息子を「英霊」とは何ごとか。女たらしの田舎二枚目が流れダマに当って死 んだだけじゃな、 爆弾三勇士とはちがうのよー 勿論、私はそんなことを口に出していいはしない。胸の中で叫んでいる。そして夜になると母 へ手紙を書いた。 しもじも 「おかあさんは遺骨を迎えにいったとき、駅前での式のあと、在郷軍人に向って『遺骨は下々の 者に持たせます』といったのです。『下々』とはいったいどういうことでしよう , たかが町医 者の女房ではないですか。「下々』という一一一一口葉はあの人のどこから出て来るのか。私は恥かしく て顔が上げられませんでした : 考えてみると私はすいぶんうるさい嫁だった。姑は私に対して何も小言めいたことはいわない。 家事は二人の女中と三人の看護婦がやり、私は子供の世話だけしていればいいのである。 歌 食事の時間になると女中が私の部屋 ( 私の部屋は二階にある ) へ来て、私と交替する。子供は 殿さまの世嗣のように育てられているのである。 教まだ子供はジッと寝ているだけなのに、片時もそばを離れずに誰かがついていなければならぬ 母のだ。それはほていの局の命令である。それで私は食事の時に茶の間に下りるほかは、一日いっ ばい子供のそばに坐っている。 ( いい忘れたが夫は伊那谷の飛行場設営の任務を終え、東京の航 空本部に勤務していた )

9. 父母の教え給いし歌

246 それはミ だが、父の味方は一人 いた。いや味方というより同情者というべきかもしれないが、 ッさんという私と同い年の女中である。彼女は夏も冬も真赤な顔をした肥った娘で、エプロンか ら出ているその腕は私の三倍もあるかと思われた。 ミッさんは私に、自分が盲腸の手術をしたときの話をした。その頃は盲腸の手術の後は水も飲 んではいけないとされていた。しかしミッさんは水どころか空腹で死にそうな気がした。 「こんな思いをして死ぬくらいなら、腹いつばい食べて死んだろ、と思いましてん」 ミッき、・ん。ま、つこ。 。しオミッさんのつき添いさんは大食漢で毎日、昼食にてんどんを二つ取る。ミ ッさんはっき添いさんがてんどんを取ってお茶を沸かしに行っている間に、 一つだけならいいだ ろうと思ってその一つを平らげ、ええい、どうせついでや、と思って後の一つも食べてしまった。 「それでも何とものうて、経過良好や ! 」 、、、ツき、 ~ んはいっこ。 「先生かてあんなに食べたがってはるのやから、菜ッ葉ぐらい食べさせてあげはったらよろしい のやわ。ほんまに、わて、先生が可哀そうでならんわ」 私は私の父が大食いの女中から同情されていることが憤ろしかった。父は日に日に私を失望さ ろうもう せて行くのである。父の病気は漸く癒えたが、それ以後、急に老耄が目立つようになった。 父は一日に何度も同じことをいし もの忘れがひどく、眼がかすむとか鼻が詰るというような 些細な苦痛に大仰に騒ぎ立てるようになった。 父の衰弱と並行して、世の中もまた暗い苦しい時代に入って行った。日用品も食糧も日に日に

10. 父母の教え給いし歌

私の父は私を、この世で一番賢い、一番愛らしい子供だと思いこんでいるのであった。思って いるだけではなく、絶えずそれを口にする。 「なんて可愛い子だろう ! 光のようだ」 と父はいっこ。 「なんという悧ロな子だろう。こんな子はほかにはいないよ ! 」 歌そのたびに母は、またはじまった、という顔をした。 「お父さんときたひにや : え母よ、、、 仕方なさそうに笑った。 の私の家には父と母と、私より四つ上の姉と、ばあやと何人かの女中と書生と居候がいた。その 父ほかに、家族としては四人の兄がいるのだったが、その兄たちは我が家に常住していたわけでは 3 ない。私の遠い記憶の中では、兄たちはいたりいなかったりしている。四人が一緒にいたことは