第 2 章ばくは悪い子 ? だ て、元気いつばいに階段をのばっていくと、母さんがばくを抱きしめて 何度もキスしてくれる。ばくの空想には、″それから家族のみんなはい つまでも幸せに暮らしました〃という結びもくつついていた。 けれども、探しものはついに一度も見つからず、ばくは役立たずの悪 い子なのだと、いつも思い知らされた。 父さんが仕事から帰ってくると、母さんはがらりと変わる。ばくはそ のことにちゃんと気づいていた。 すてき かみ 髪をきちんと結ってきれいな服を着た母さんは、ずっと素敵に見え た。父さんが家にいると、ばくはうれしくて仕方がなかった。ぶたれる こともないし、〃鏡のお仕置き〃もないし、母さんがなくした物を一日 中探させられることもない。 ばくの心の中で、父さんはばくを守ってくれる大切な人になった。父 さんが何かをしにガレ 1 ジへ行くと、ばくもかならずくつついていく。 かいだん
ろうか たてて、廊下をキッチンに向かってくる。早く終わらせなくちゃ。ばく はやけどしそうに熱いすすぎのお湯に手をもどす。 おそ でも遅かった。お湯から手を出しているところを見つかってしまっ さらあら 時間内に皿洗いを終わらせなかったばくを、母さんは力いつばいここ ゆかたお いこ。ばくは床に倒れた。ぶたれても足をふんばっているようなまねは はんこう しない。そんなことをしたら、反抗していると思われてもっとぶたれる し、何も食べさせてもらえなくなるかもしれない。 ぬす ばくはからだを起こして、母さんの顔を盗み見る。母さんは、ものす ごく大きな声でののしった。ばくは弱々しく、何度もうなずいてみせ 「お願い」心のなかでつぶやく。「何か食べさせて。もう一回ぶたれた っていいけど、とにかく何か食べたいんだよ
第 3 章何か食べたい 119 を見れば、ばくのことをかわいそうに思っているのがよくわかった。知 だれ 恵をはたらかせて嘘の名前を使い、どこの誰かばれないようにした。 何週間もうまくいっていたのだが、とうとうある日、母さんの知り合 たず いのおばさんの家を訪ねてしまった。これまで何度も成功してきた「お 弁当をなくしちゃったんです。つくってもらえませんか ? 」という作り 話もこれでおしまいだ。 よそく その家をあとにしたときには、もう予測がついていた。おばさんは母 さんに電話するだろう。 その日は学校にいる間じゅう、この世が終わってしまうことを祈って すがた いた。教室でやきもきしていると、母さんの姿が目に浮かんだ。ソファ に寝そべってテレビを見ながら、時間がたつにつれてますます酔っぱら ばくが学校から帰ってきたらどんなひどい目にあわせてやろうかと 考えているのだ。 いの
第 3 章何か食べたい た。そして何時間もたったころ、やっと眠りに落ちるのだった。食べ物 のことを夢に見ながら。 夢に出てくるのは、たいていはかでかいハンバーガ 1 で、具がたつぶ りはさまっているやつだった。夢のなかでばくは、そのすてきなごちそ うを手につかみ、ロに運んでいく。ハンバ 1 ガ 1 がありありと目の前に あつぎ あらわ にくじゅう 現れる。肉からは肉汁がしたたり、上に乗った厚切りのチ 1 ズがとろ りと溶けている。レタスとトマトのあいだからケチャップがにじんでく る。ばくはハンバ 1 ガ 1 を顔に近づけ、ロを開けてがつつこうとする。 けれど、何も起こらない。何度もくり返し食べようとするのに、どんな いっしようけんめい に一生懸命やっても、夢のかけらを味わうことができない。 しばらくすると目がさめる。おなかがますますからつばになってい る。ばくは飢えを満たすことができないのだ。夢のなかでさえも。 、ばくは学校で食べ物を盗み 食べ物の夢を見るようになって間もなく ゅめ ぬす
第 4 章ナイフ 145 んの上半身はまるでこわれた揺り椅子みたいだった。 目のすみのほうで、何かが母さんの手から飛んでくるのがばんやり見 するどいた えた。そのとたん、おなかに鋭い痛みが走った。立っていようとしたけ ど、脚がへなへなして、目の前が暗くなった。 むね 意識がもどると、胸のあたりからなま温かいものが流れる感じがし た。どこにいるのかわかるまで、しばらくかかった。ばくは便器にもた れてすわっていた。顔を上げると、ラッセルがはやしたてた。 「ディビッドが死ぬぞ。『あの子』が死ぬぞー 自分のおなかに目をやった。血が噴き出している。母さんが膝をつ たば き、ばくのおなかに厚い、 カーゼの束をあてがっている。ばくは何か言お ゆる うとした。わざとやったわけではないのはわかっている。許してあげ る、と母さんに伝えたいのに、今にも気を失いそうで話すことができな 頭をしつかり上げていようとしても、何度もがくんと前に倒れてし いしき あっ ひざ
140 いるようだった。だからばくも、母さんが次に何をするかじゅうぶん予 想できた。 だからと言って、気をゆるめることはできない。母さんの注意がこっ きんちょう ちに向かってきそうだと思うと、全身が緊張した。 そんなふうにして六月が過ぎ、七月の初めになると、ばくはすっかり 気持ちがまいってしまった。ちゃんと食べることなんて、はかない夢み たいなものだった。 ぎんばん 必死に働いても、朝はたまに、残飯をもらえるだけ。お昼は何もな し。夕食は、だいたい三日に一度だった。 そして、七月のあの日も、いつもと変わりなく始まった。 もう三日も食べていなかった。学校が夏休みに入ってしまったので、 自分で食べ物を手に入れることはできない。 ゅめ
1 ろ 2 かんじよう のに、声がまるつきり出てこない。 / 父さんは何の感情も見せず、足も っ とでこぶしをたたきつけているばくのそばに突っ立っているだけだ。母 さんはまるで飼い犬をなでるみたいにひざをついて、ばくが気を失う前 せなか に背中を何回かたたいた。 よくあさ 翌朝、バスルームのそうじ中に鏡をのぞいて、やけどした舌を見てみ いくえ た。皮が幾重にもべろんとはがれ、残ったところも赤むけになってい せんめんだい る。突っ立って洗面台をじっとにらみながら、こうして生きているなん て運がいし と思った。 それつきりアンモニアは飲まされなかったが、漂白剤のクロロック も スをスプーンに盛って飲まされたことは何度かあった。 けれども、どうやら母さんのいちばん好きなゲ 1 ムは、食器洗い用の せんざい 洗剤を飲ませることのようだった。母さんは安いピンクの液体をばくの っ ひょうはくざい えきたい した あら
プロローグ救い出された日 る。それから、一、 二ページめくると、顔を寄せてばくに見せた。 「ほら」と書類を指さす。「先週の月曜にもおなじことを言ってたわよ。 おばえてる ? 」 ばくはすぐに話をつくり変えた。 「野球をしていて、バットに当たっちゃったんです。うつかりしてたか ら」 うつかりしてた。いつだってそう答えることになっているんだ。 でも、看護婦さんには、もう何もかもばれているみたいだった。強く 言われて、ばくはついに本当のことを話した。 はくじよう 結局いつもがまんできなくなって、白状してしまう。母さんのこと は、隠していなくてはいけないと思いながら。 看護婦さんは、心配しなくていいのよと言って、つづけて、服を脱ぎ なさいと言った。去年から何度もやっていることだから、もう慣れつこ
第 5 章父さんが帰らない 20 う したかっただけだから」 別れを告げると、母さんはお客さんを玄関まで送っていった。 すがた 女の人の姿が見えなくなると、母さんはドアをたたきつけた。 「このバカ ! ー金切り声をあげる。 母さんがこぶしを振りあげたとたん、とっさに顔を手でおおった。ば くは何度もなぐりつけられてから、ガレージに追い払われた。 むすこ その夜母さんは、息子たちに食事をさせてから、ばくを呼びつけて後 かたづけを命じた。 あら お皿を洗っていても、そんなにひどい気分ではなかった。心の底では あいじよ、つ やさ わかっていたんだ。母さんがばくに優しくするのには、愛情とは別の 理由が何かあるはずだって。本心じゃないって気づくべきだった。だっ きゅうか だれ て、おばあちゃんか誰かが休暇に遊びにくるときだって、母さんはいっ げんかん よ
プロローグ救い出された日 つい顔をそむけた。 だれ 誰かと目を合わせるのが怖い。母さんを相手にするうちに、そういう 癖が身についてしまったのだ。でも、それだけじゃない。校長先生には 何も話したくない。 一年ぐらい前、校長先生は母さんに電話して、ばくのあざについてた ずねた。そのころ、先生はばくの家で何が起こっているのか、まるで知 ぬす らなかった。先生にわかっていたのは、ばくが食べ物を盗む問題児だっ てことだけだった。 次の日校長先生は、登校してきたばくを見て、自分の電話のせいで、 ばくが母さんにひどくたたかれたことを知った。それから校長先生は、 もう一一度と母さんに電話をかけることはなかった。 看護婦さんの報告はまだ続いていたけれど、校長先生はふいに、大き な声で言った。 こわ