312 亠のとが ~ さ 二つの事実がある。 この十年ほど、ガンの問題を取材してきて、いつもそのことを思う。 一つは、多くのガンが必ずしも不治の病いではなくなっているという事実である。胃ガン 序ひとつをとってみても、早期発見であれば、九十パーセント以上の完全治癒を期待すること へができる。かっては三カ月の命といわれた白血病でさえ、とくに小児の急性でリンパ性のも のは、五年以上の長期生存例がめずらしくなくなり、完全治癒と見なしてよい例が次々に報 死告されるようになった。医学の進歩は、そうした朗報を、これからいちだんとふくらませて いくに違いない。治癒困難と見られていた病気の患者が治るのを見るのは、感動的である。 しかし、もう一つの事実がある。それは、日本人の四人に一人は、ガンで死亡していると いう厳然たる事実である。その原因は、依然として発見が遅れるケースが多いことや、いま だ治癒の困難な種類のガンが多いこと、そして肺ガンや肝ガンなどが増えていることによる。 ふ ところが、医療の現場を歩いていて、どうも腑に落ちないことがあった。それは、現代の 医学においては、「死ーの問題がまるでタブーであるかのごとくに伏せ字にされていること であった。
「死の医学」への字章 182 〈私が胃を切除して、もう三年と七カ月になります。自分でも、もう大丈夫だろうとは思 っておりますが、それでも、己の体に、一度宿した癌細胞、毎日、決して忘れることはあり ません。まだ、お話したことはありませんでしたが、早く自分で気づいたので、レント ゲン検査ー胃カメラ検査ー切除、という非常にラッキーな手順で、今日に至っています。 大勢の方が、今夜のテレビをみて感激されたと思いますが、やはり本当に心からわか った方は、その病をしたことのある人だけだろう、と私なりに考えて、今ペンをとりま した。 「胃潰瘍要手術」という診断で入院し、「胃切除後結果良好という退院後の診断で、 仕事に復帰することができましたので、オフィシャルには、その病名はどこにも現れて おりませんが、現実には切除した部分に、そのものがあり、一時は、ひどく迷った時期 もありました。 幸い今日では元気で、リタイヤ後、一一年の全日空嘱託の任務も終えることができ、喜 んでいます。・・ : : 〉 石崎氏の幸運と生命力の強さに、私は、率直に《ああ、よかった》と思った。石崎氏の手 紙は、近况報告へと続く。 〈医師でないから、西川さんのようには、体のことはわかりませんが、それでも自分の
らおうという意図は、まだあまり表に出ていない。むしろ、「書く」という行為が、不安や 苦悩のなかで自分を見失わずに、理性の領域に〈自分を縛りつけ〉るという役割を果たして いることを前面に出している。 ④「死の医学」への寄与 ( 社会的使命感 ) 。 この使命感には、出版を決心するに至るまでの西川医師の発言やノートの記述にはっきり てと表現されているように、二つの意味がある。 一つは、同じような状況に置かれた人々にとって、「残された生き方のひとつのサンプル っ をになるなら」という意図で、病いを見つめ死と対峙する自分の生き様を記録するという側面 である。 を もう一つは、現代医学のなかで空白地帯となっていた、死にゆく人々へのよりよき医療と 二看護のあり方に対し、せめて「素材ーあるいは「序章ーといったものを提供するために、自 らガン患者となって体験したことや考えたことを記録するという側面である。 西川医師がなぜ猛然と書き続けたのか、その動機についての私なりの解釈が、以上の四点 なのだが、 このような動機から「書くーという行為に突き動かされるのは、多くのガンを病 む者、あるいは難病を病む者に共通する心理ではなかろうか。もちろん、④の「「死の医学」 への寄与ーあるいは「社会的使命感」という意識まで持つ人は多くはないだろうが、しかし、 179
眼差しは昇る太陽よりも照らして つ、、 0 〈①最初は、「専門的技術者としての医師」に対する期待である。 ここで医師に期待されることは、十分な技術的サービスの提供である。この局面にお いては、患者は医師にとってその専門的サービスの提供を受けるクライエント ( 顧客 ) こよっ であり、医師は患者の自己の生命に対する主体的判断を、その専門的技術と知識。 てバックアップする補助者であると言える。 このような関係のもとでは、医師からの出 5 者に対する十分な情報の提供が必要となる。 少なくとも医師の知り得た情報のうち、患者の判断材料となるべきものは、すべて患者 に知らせることを原則とすべきではないか。ただ、医師が知らせること ( 病名の告知に まぬか 限らない ) を免れうるものがあるとすれば、それは患者にとって精神的な混乱などによ り正しい判断を誤らせるおそれが大きい情報に限られ、そのような場合か否かの判断も 医師の恣意に委ねられるべきでないと思う。 ( 中略 ) 患者に対する詳細な情報の提供が、患者に不必要な精神的ストレスを与えることを危 具する医師が多いと思うが、何も告げられずに情報の空白地帯に置きざりにされること によるストレス、および正確な情報の欠如によって、患者間で不正確な情報が交換され、 それが患者の不安を不必要に増幅している現状などを考慮すると、この問題は、むしろ 医師の十分な説明の努力によって解決されるべきであると思う〉 ゆだ
勉強して、もっと偉くなろうという考えを持つものです。 そういう考えを持ってはいけないというのではありません。当然です。クラーク博士の言 葉にもある通り、少年は大志を抱かなければなりません。それはわかるのです。しかし、医 師が医学の世界で認めてもらうためには、データを出さなければいけないのです。しかもそ のデータは、「死んでしまった』というデータでは駄目なのです。つまり、どういう患者さ ペターになっ んを何百例診て、どういう治療をしたら何十パーセントよくなった、治った、、 て らたという報告をたくさん出していかないと駄目なのです ここで西川医師は、きつばりといい切る。 「亡くなった患者さんを五百人、診た。このようにしたら心が通った、よりよき死へのお手 太伝いをできた、という論文を仮に出しても、決して偉くなれないのです。いまでも、そうです。 髜私は思いもよらずガンに罹ってしまいました。もう私は偉くなれないわけです。大学に戻 って、学生を教え、研究から臨床までのハードなスケジュールをこなしていくことは、とて もできそうにありません。自分の現在の地位もあきらめなければならなくなります。 こうしてあきらめた後にはじめて、私は自分のやってきた学問というのはどういうことだ ったのか、ということをつくづく反省せざるを得なくなりました。これが現在の偽らざる心 境です。 そして、自分は偉くならなくてもい いまの自分を素直に出していこう、限りある生命 をしつかり生きようではないかと思ったときに、ある種の心の高鳴りを感じたのです。自分 かか
「死の医学」への序章 燗しかし、延命治療は、時として悲劇的な状況をもたらしかねない。体験者の訴えが、何よ りもその状况を伝えてくれる。 こうじようせん 〈私も八十一歳の母を甲状腺のガンで亡くした身です。最後の数日は、母は一言も口を きかず、じっと壁を見つめたままでした。抗ガン剤で苦しみ点滴を辛がりながら、最後 は家族と心のつながりまで断ったような、不信と怒りと孤独の日々であったように田 5 い ます。 私たちは、お医者様に「どうせ助からないのなら、抗ガン剤はやめて、命を無意味に 引きのばすことは要らないのですから、せめて苦しくないようにしてやって下さい」と お願いしましたが、 「最後まで生命を保つよう努めるのが医師の義務です」と叱られま した。どうかして、もっと、せめて心の安らぎなりを得させてあげられなかったのだろ うかと後悔の思いにかられるのです。「死の医学」について世の認識が高まるよう願っ ております〉 ( 北九州市、阿南英子さん ) 〈四月十一日の夜、難病のため某国立病院に入院中の甥が一回目の危篤の電話で病院に 駆けつけたところ、担当の医師から「のどに穴をあけて酸素を送れば五分五分の確率で 延命が出来るかもしれないのですがどうしますか、しなければ今夜がやまだと思います が」といわれました。 きとく
「死の医学」への序章 ることだ。 患者に接する精神科医にとって風貌容姿は重要である。俳優にとってそれが大切なの と匹敵すると私は思っている。アドリアマイシンに脱毛の副作用のあることは発売元の 知人に確かめて知っていた。私の内面が充実してないからこそ外面にこだわるのかもし れないが、とにかく患者が医師に抱くイメージは治療の上で無視できない要素なのだ。 夜になって眠れないまま考えた。抗ガン剤の点滴治療で副作用を耐え抜けばよくなる かもしれない。しかし完治は望めないだろう。逆に副作用のためかえって再起できなく じん なる可能性もある。肝機能や腎機能への障害も重大だった。 ( 中略 ) 将来三年なり四年なり働けるという生命の延長がこの抗ガン剤の点滴で約東さ れるならともかく、そんな保証のないまま黙って三カ月、四カ月とべッドのなかで時間 が過ぎてゆくのに耐えられそうもない。この三カ月、いま働ける四カ月を大切にしたか っ , 」 0 やりかけた研究、これから新たに始めたい勉強そしてたくさんの患者。それらが私を 待っている。私はきつばり抗ガン剤の点滴をやめて退院することを決意した〉 翌十二月四日火曜日には、こう記している。 〈主治医の医師にはなんとか私の思いを了解していただけたが、教授には直接お会い ふ・つばう
「死の医学」への字章 170 を出したのだった。 西川医師のノートによると、私の手紙を受け取ったのは一月十日となっている。そして、 二日後の十二日に、次のように記している。 〈生存中にこの仕事 ( Ⅱ手記の出版 ) を実現させたらどうなるのか。第一は、私のプラ おおやけ イバシーがより広く公になってしまい、世間の風聞が私にどう影響するのか。 第二は、少しも売れなくて、しょげかえるだろうか。おそらく売れなくても、そんな ことはないだろう。第三は、出版することによって世間に知られ、ジャーナリスティッ きぜん クにもてはやされてしまう時、自らを毅然と律することができるかどうか。また、にし ほろば さのあまり、我が身を亡しかねないと誰が言えるか。 こた しゅんじゅん 私は逡巡せざるを得ない。柳田邦男氏のすすめに応える気持がないわけではない。し ばらくは、生きる道の厳しさとためらいの中で自らの思いを深めていこう。 記録は従来通り続けるつもり〉 学会発表や専門誌への寄稿については、非常に積極的な西川医師であったが、一般向けの けいも・つ 。。いったいどんな反響がはね 啓蒙的な意味もこめた手記となると、全く未経験だっただナこ、 ちゅうちょ 返ってくるのかを予測しかねて、躊躇したのであろう。 たまたまその頃、朝日新聞が「がんとの対決ーというタイトルの囲み記事を連載していた。 ころ
午後九時の病棟の消灯時刻が過ぎたので、私たちは病院を辞した。 西川医師が家族に看取られて静かに息を引き取ったのは、その夜遅く、午前零時過ぎだっ た。日付は、一九八一年十月十九日になっていた。 さいじよ・つ 翌日、千葉市内の斎場で行なわれた告別式で、私は郁子夫人から依頼されて、弔辞を読む ことになった。私は、微笑みを浮かべた西川医師の遺影を見上げながら、こう述べた。 「先生はみごとにご自分の人生をインテグレートされましたね」 その後、私には気になることがずっと残っていた。それは、「原稿ができたのです」とい ジ 一う私の言葉が、果たして西川医師に届いたかどうかということだった。 テ ス あるとき、斧医師にお会いして西川医師について話をうかがっていたとき、斧医師はいっ の もの静かな口調で、解剖の結果をこう話してくださった。 の 「肝臓はほとんどガンにおかされていまして、それが衰弱の原因となったものと考えられま がんか 成 す。よくあそこまで持ちこたえられたと、西川先生の生命力の強さに驚きました。左眼窩へ の骨転移巣が視束 ( 視神経の束 ) を圧迫して、視力を失わせていたのですが、脳には全く転 移がありませんでした。脳はほんとうにきれいでしたので、感動しまし大」 私は思わず斧医師にいった。「それでは、西川先生は最後までまわりのことを認識されて いた可能性がありますね」 311 おの
せんさく 〈人生はわれわれに毎日毎時問いを提出し、われわれはその尸 いに、詮索や口先ではな くて、正しい行為によって応答しなければならないのである〉 〈かかる考えはわれわれを救うことのできる唯一の考えであったのである ! 何故なら ばこの考えこそ生命が助かる何の機会もないような時に、われわれを絶望せしめない唯 一の思想であったからである〉 る この部分を西川医師がどのように読んだかはわからない。だが、西川医師の闘病の全体像 え 2 を見るとき、「われわれ自身が問われた者」なのだという思想は、まさにガン末期患者に共 の通するものだと痛感したに違いない。自らが「問われた者 , だという認識を持ったとき、そ わ A 」 ンこから湧き出てくるものは、「毎日毎時、正しい行為によって応答しなければならない いう、限りある日々に対する精一杯誠実な生き方である。 で あて れ 西川医師は、前述したように再発転移による入院の際に私宛の手紙のなかで、〈「たとえ世 そ 界が明日終りであっても、私はリンゴの樹を植える、という文章は、癌が宿って癌とわかっ た時以来、私の気持に似通ったものがあり、深く胸をうたれました〉と書いていたが、この 言葉への共感は、「問われた者、としての自覚そのものであったといえるのではなかろうか。 ( 「たとえ世界が明日終りであっても、私はリンゴの樹を植えるの言葉は、私が『ガン 人の勇気』のなかで、ガンとの闘いの手記『わが涙よわが歌となれ』 ( 新教出版社 ) を遺 した原崎百子さんが最も愛していた言葉として紹介したものだが、私の大学時代の恩師でル き がん