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検索対象: 「死の医学」への序章
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1. 「死の医学」への序章

成熟の最後のステージ 眼がつぶれるということは、病の中で最も不幸な事だと思っていました。 でも違うのです。私には眼がつぶれる事など最大の不安や恐怖ではありませんでした。 放射線治療を受けながら寝て考えている時、両方の耳が聴こえなくなる方が、ずっと なぜ 人間としての精神活動の低下が起きる様な気がしました。何故だかわかりません。ただ みやぎみちお 何人かの、例えば宮城道雄等のイメージがすぐ浮かんで来たのです。 今再び国立千葉病院に戻って入院の日々を送っています。心は決して荒れていません。 あまり長生きし過ぎると、何人分もの仕事をしちゃって、又言いたいこと書きたいこと をやり過ぎたら、あの世でも嫌われますから、そろそろ迎えに来ないかなと、少しは手 を合わせる毎日です。 先生もちょっとおっしやられた事がありますが、私も死は別れだとっくづく思います。 別れる頃合いを選べるものなら選びたいものです。 奥様によろしく〉 九月十五日、敬老の日に、西川医師の状態がいくぶん落ち着かれたという連絡を郁子夫人 から受けたので、私は妻とともに千葉に出かけた。私は取材の内容によっては、できるだけ 妻と一緒に出かけることにしていた。女の眼が私と違ったとらえ方をすることが少なくない からだ。だから、西川医師を訪ねるときは、いつも妻が同行していた。 休日なので、病院は静かだった。 きら

2. 「死の医学」への序章

することなく退院した。心苦しかった〉 迷い揺れ動く心 西川医師の意志は、以上の二日間の闘病記に一応表現されている。しかし、西川医師は、 て ら 退院の仕方が病院に対しあまりに一方的であったことについては、主治医の医師の立場も し配慮したのであろう。後になってまとめたこの闘病記では、抗ガン剤による治療を拒否する よことを決心した経緯や唐突な退院の状況については、必ずしも明確には書いていないところ 太がある。 髜闘病記『輝やけ我が命の日々よ』とは別に、私的に毎日ルーズリーフ式ノートにつけて しいた日誌を見ると、十一月二十八日から二十九日にかけて二回目の抗ガン剤点滴を受けたと おうと ころ、二十九日から三十日にかけて、ひどい嘔吐、気分の悪さ、食欲不振に襲われたことを、 逐次記している。そして、三回目の点滴を明日に控えた十二月二日日曜日に〈今日四十九歳 のバースディ。千春 ( 長男、大学生 ) がブドー酒を抜いて、みんなで丈二 ( 次男、高校生 ) も一緒に杯を乾す。五十歳までは何としても死にたくなし ( : まんとはあと三年。食事もすす まず、疲れが多く、 ( 一時帰宅していたが ) 明日又入院かと思うと、ひどくューウッになっ た〉と記した後、斧医師に電話で相談したことを記している。

3. 「死の医学」への序章

て 淡々とした簡潔な文章から、差出人の心境が静かに伝わってくる。最初に手紙をいただい っ をたのは一九七九年十月だったから、あれからはや二度目の正月を迎えたことになる。最初の る 手紙も素晴しかったけれど、その後の手紙も、またこの年賀状も、心に浸みこんでくるよう ゅ をな響きがある。そして何よりも、〈今年も素直に精一杯生きたいと思います〉という結語が 二す・かす - かしい 《これだけの文章を書くのだから、西川先生がご自分のガンとの闘いの日々を、精神科医の 眼で見つめた記録を書けば、医学的に貴重であるばかりでなく、一般の人々にとっても、そ れぞれの生き方を考えるうえで、多くの示唆と励ましを与えるものとなるに違いない》 私はそう思う一方で、そんなことをいきなり提案したら、失礼になるかもしれないという迷 、も抱いた。どうしたものかと思案しているうちに松の内も過ぎた。結局、《西川先生は精 神科医なのだから》という私なりの勝手な理由を見出して、思い切って執筆をすすめる手紙 169 欲も出、仕事も広げたくなって来ています。しかし、今後再び運命の受容ができるかど 、つかとなると不安です。有限の人生と云、つことに常に心いたし、裏切られたと田 5 、つこと なく、今年も素直に精一杯生きたいと思います。 皆様の御多幸を祈っています。 一九八一年元日一 西川喜作〉

4. 「死の医学」への序章

「死の医学」への序章 がた ルシャッハ検査図版のような傾向を持つのだろうとも思った。近寄り難い聖人君子型の人物 よりは、俗つほいところや毀誉褒貶の賑やかなところのある人物のほうが、人間的で興味が ありますと、私も率直に西川医師にいった。 この時期の西川医師の心境の一端は、友人の医師に宛てた六月十五日付の手紙に見るこ とができる。 ′ . 、ヤ・かこ 〈死を見つめる時に、地位や論文は、もうまるで何の足しにもなりません。皆屑籠ゆき です。自分のカで歩み、自分の良心と、しつかり生きたいという自覚だけが、自らを残 り少ないでしようが、生きさせてくれる心棒の様な気がします。 私はもう偉くなれないし、ならなくていいのだと思ったら、こんな楽な事はありませ ん。本当にそう実感したこの二、三年です。人生、本当の事言って、一回きりですが、 あんまり背のびしないで、心の充実というか、自らの生きることに対してのチャージ ( 充電 ) をする事の大切さをつくづく感じている今日この頃です。 死を前にしての、生へのチャージとは、ずい分おかしなものと思われましようが、私 は死ぬ前こそ、人間としての価値が本当に現れるものと信じています。五十年の人生の 凝縮が出来るかどうか、自らに課する日々を目ざしています〉 この年のつゆ明けは早く、七月になると暑い日が続いた。コルセットをつけた西川医師に

5. 「死の医学」への序章

量」 ( quan ( 一 ( YO ( ミ e 日クオンティティ・オプ・ライフ ) に対する概念として提示されたもので、 病気と闘う人、とりわけ末期の患者がいかに様々な苦痛から解放され、いかに一日一日を精 神的に充実したものにすることができるかという、文字通り医療と看護の「質、を問う言葉 である。 医学の世界に、なぜこのような新しい言葉が持ちこまれるようになったのか。その根源 は、医学の発達そのものにある。医学が今日ほど発達していなかった時代には、治療者が患 者に接する態度には、多分に " 心の癒し。の行為が含まれていた。ところが、医療機器の開 章 序発や強力な薬の開発に代表される技術 ( テクノロジー ) 面での医学の発達は、病気の治療成 ~ 績を大幅に向上させたものの、ややもすれば人間の心を置き去りにし、 " あたたかさ ~ を失 医わせる危険をはらんでいる。そういう状況のなかで、とくに末期患者の医療において、医の もど 死本来の目的を取り戻そうとするいわば合言葉として、「クオリティ・オプ・ライフ、が登場 してきたのである。それは、技術的な発達が人生のいちばん大事な最期の日々を台なしに しかねないという現代医学の自己矛盾に対して根源的な見直しを迫るものであるといえよ 「クオリティ・オプ・ライフ」に関しては、国際的にも関心が高まり始めており、 o ( 世界保健機関 ) が各国におけるこの問題の研究・教育に対し支援する活動を行なっている。 その一環として、第二十一回日本医学会総会の翌年、一九八四年十一月、東京で「がん患者 のクオリティ・オプ・ライフに関するワークショップが開かれた。 118

6. 「死の医学」への序章

しよう力い 人の生涯を弾道にたとえたユング流の人生観・死生観を知って振り返ると、闘病記の執筆に ひしよう 心血を注ぎ始めた西川医師の日々は、飛翔する弾が目標を目前に確認して、ひたすら突進し ていった軌跡に酷似しているように見えてくる。 西川医師は、実際、急いでいたのだった。いつどこに転移がくるかもわからないから、一 日も早く闘病記を脱稿して、「死の医学」や「分裂病者の社会復帰 , の著作に取り組みたか ったのである。 よ・つつう 三月頃からひどくなりだした腰痛が、四月半ば頃から、背中の下部に移ったことも、危機 章 せきつい 序感をもたらしていた。《脊椎に転移したのではないか。もしそうなら、今度こそ長くはない 、のではないか》と思い始めていたのである。 医四月二十一日のノートには、〈痛みは胸椎の十二番か腰椎の一番付近と思われる〉との自 死己診断を記しているが、これはほほ当たっていた。 五月十日の山口大学の講演、五月二十日の千葉大学の特別講義は、既述のようにやっての けたが、五月二十九日から名古屋市で開かれた日本精神神経学会には、演題を出していたに もかかわらず、前日から痛みがあまりに激しくなったため、ついに参加を断念せざるを得な くなった。 六月一日、斉藤弘院長のすすめで、ラジオアイソトープによる骨スキャナーのレントゲン 写真検査を受け、その結果が、六月三日にわかった。やはり胸椎の十一番と十一一番に転移し ていることが、写真ではっきりと確認された。 280

7. 「死の医学」への序章

眼差しは昇る太陽よりも照らして 8 〈新幹線で隣席にいらした岡崎栄さんとの出会い、『輝け命の日々よ』を深い感銘のう ちに拝見したこと、そして時期を全く同じくした従兄の発病と死、あの頃の必死の思い を、今新にしております。命のみを息苦しい程に感じながら一刻一刻を過ごした日々で した。従兄にとっても、私にとっても、あの西川先生との ( テレビ番組を通しての ) 出 ありがた 会いは、その後の日々を生きるのに、とても有難いものでございました。 私は平凡な女医でございます。父は、昭和一一十年七月、私が五歳の時北部フィリピン おそ で軍医として勤務中、戦死いたしました。私が「死」への怖れを感じたり、「死」を身 近かなものとして感じたりして参りましたのは、父の死の報せを受け、母と共に大声で 泣いた日からかもしれません。 ひろざき 私は父の跡を継ぎ、医学部 ( 弘前大学 ) に入り、津軽での思い出多い学生生活を過ご ため しました。最善を尽して「生ーの為に働くことが医師の使命と教えられましたが、死を どのように看取るか、あるいは死をどのように考えるかという教育はありませんでした。 インターンとなり、最初の死の瞬間に立ちあいました。死にゆく人に対してどのように たた するのが最も礼を尽した態度なのかを教えられることもなく、只、辛い表情をかくすよ うにして頭を下げるのみでした。人の最も大切な瞬間には価いしない自分がそこにいて、 申し訳ないという気持で一杯でした。 彳願いつづけたことは、縁あって私のもとで死の日を迎えることになった方々に、 あらた あた

8. 「死の医学」への序章

常に有効だったと思います。それだけに、死の教育に関するカリキュラムを充実させること の重要さを、西川先生の講演を通していっそう強く感じました」 私語を発する生徒もなく 死について学ぶということは、医学生や看護学生だけに求められているわけではない。 ) ン 私が静岡県の中学校の教師から受け取った手紙は、そのことを気づかせてくれる。手紙は、 ドキュメンタリ 1 番組『輝け命の日々よ』の三度目の再放送が行なわれて間もない一九八四 の いわたふくで 年三月に受け取ったもので、差出人は、静岡県磐田郡福田町にある町立福田中学校の田中研 熟一教諭であった。 成 〈恭啓 はたざむ 春とはいえ、まだ肌寒い日々が続いておりますが、先生には御健勝にて御活躍のこと とおよろこび申し上げます。 きようべん 私は、静岡県磐田郡福田町立福田中学校にて、教鞭をとっております。 理科を担当しておりますので、「生物の生命の尊重ーというテーマを取り上げる機会 か多一くございます。 273

9. 「死の医学」への序章

何をすることがあるのだろうか 序 の 「問われた者 , としての自らの生への自覚は、一般には使命感といわれるものと重なり合う 学 医ところか多いよ、つに田 5 、んる。 死ただ、使命感という言葉には、少しばかり構え過ぎた響きがあろう。もっと素直に、 " 「何 かをしたい といった表現のほうがふさわしいかもしれない。 とし、つ田じし″ 私が作家や画家、学者、宗教家などの最後の日々を記した『ガン人の勇気』を出した とき、私のある友人は思わず、「創作的なことをしている人は いいなあ。われわれサラリー マンは会社を離れたら、何をすることがあるのだろうか」と述懐した。 会社の仕事に人生を賭けてきたサラリー マンが、病いを得て会社の仕事と無縁な日々を送 ざせつ らざるを得なくなったとき、自分には成し遂げるべき何が残されているのだろうかと、挫折 かん 感を味わうとしたら、それはあまりにも悲劇的である。「人は生きてきたように死ぬ」とい ター研究家のキリスト者小池辰雄先生によると、もともとはルターの言葉だとされていると つ。こだ、ルター自身か書いた文献にはそのままの言葉はないが、 ルターはそ、ついう趣旨 たれ の思想を述べており、おそらく弟子の誰かがルターの言葉として語り伝えたのではないかと か こいけたつお

10. 「死の医学」への序章

「死の医学」への序章 210 した。亘君が選んだ題は、「今、ほくの思うことだった。亘君は、そのなかで、辛い治療 の日々や級友たちの友情のありがたさなどを述べた後、こう続けた。 〈「身体障害者」ーーーこれまで思ってもみなかったことを、自分で体験し、健常者には 分からない、肉体的な苦しみや、精神的な苦しみをひしひしと体で感じました。 病院の先生方に「奇跡的だ」といわれるくらい回復したばくは、車イスから歩行器へ と歩く訓練が始められ、歯をくいしばり、汗を流しながら耐えた日々を思うと、生きて いることの尊さが身にしみて感じられます。 同じ病院で、同じ病室でふれ合った人々の死と接したほくは、健康であることのすば らしさを知りました。 そして今、将来、医療の道へ進みたいと思う夢が、ほくの胸の中で、大きくふくれあ がってきました。 八六年一月になって、さくさんから再び送られてきた手紙には、こう記されていた。 あざぶ 〈亘は臨床学部のある大学で臨床の勉強がしたいと言い、麻布大学の衛生技術学科に決 きようりん まりました。杏林大、北里大と三つ受ける覚悟でいたようですが、学校の推薦で合格す ることが出来、喜んでいます。